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さらし文学賞
引退のおはなし

1.恋人の引退
「わたし、引退するわ」
「引退? 何の?」
「あいつの彼女よ。それ以外ないわ」
「ああ……それって引退っていうのかな……でも、どうして?」
「あいつはさ、ほんと最悪なところばかりでさー(と言って悪いところを挙げ続ける)」
「そっか……そんなにあいつは嫌な奴だったのか。わかった。君がそういうなら、僕は反対しないよ」
「えっ、ちょっとは反対してくれてもいいじゃない。だって、あのひとはさー(と言って、いいところを挙げ続ける)」
  (中略)
それからしばらくして、私はその二人が結婚した話を聞いた。

2.犬の引退
 医者は今日も電話を受け、往診に向かう。毎日同じことの繰り返しだ。息子はよくそんな毎日で飽きないなと言い、娘はすごいなと褒める。だが、医者は何も感じなかった。なぜなら、それが彼の人生だったからで。当たり前のことだから、不思議にもえらいとも考えるようなことはなかった。
 いつものように、雪が降りしきる中、老齢の医者はゆったりとした足取りで患者を診に向かった。患者の家に着くと、そこには、寒い中首を長くして医者の到着を待ち望む、患者の家族が門の前に立っていた。医者はその家族にともなわれ、家の一室に案内された。
 患者はそこにいた。人ではなく、犬だった。一般的な家庭に飼われるタイプの犬で、もう毛も抜け落ち、やせ細り、ぐったりとその身を横たえていた。医者も患者が犬であることを意に介した様子もなく、黙々と治療に当たりはじめた。犬は薄目を開けて、医者を見た。すると、偶然医者と目が合った。医者は黙って犬に向かって頷いた。犬は弱弱しい瞳をしばらく医者に留めると、安心しきった様子で彼に身を委ねた。そして驚くべき回復力を見せたのである。
 だが、日が暮れ、夜になると、医者は今夜が山だと家族に話した。犬は老衰がひどく、体力も気力も弱っていて、もう死期が迫っているのだという。とりあえず、じぶんはつきっきりで看病するからとも。
 家族の見守る中、医者は犬を励まし、必死で看病した。一度復活した体力ももう戻っては来ず、見る見るうちに体力は落ち、ぐったりとしていった。医者も懸命だが、そこは所詮人間の医者だから、なかなかうまくはいかない。家族は行く末を黙って見守る。
 そして、夜明け前。犬は遂にその自らの役目を引退したのだった。医者は久しぶりに泣いた。自分でも理由はわからなかった。
 冷たくなった犬の身体を、さめざめと泣く家族を、無力にうちひしがれる医者を、部屋に差し込む朝日が照らす。やわらかな光は天から犬を迎えに来たかのように思わせるほど、神々しく、そしてあたたかだった。

3.大統領の引退
 その日、大統領は引退することになっていた。二期八年にわたる長い任期がついに終わる。テレビや新聞を見れば、もはや彼がとっくに辞めたのかのように、次期大統領の一挙一動を延々と報道している。まるで大統領がいなくなったみたいだと憤慨する者がいたが、彼は穏やかに去れていいじゃないかとなだめた。
 引退する当日の朝も、大統領公邸では慌しく引越が進められていく。彼は、その喧騒を耳におさめながら、執務室の椅子に腰をうずめて、一人でゆっくりと珈琲を飲んでいた。そっと目を閉じると、八年前の就任した頃の様子が思い返される。接戦だった選挙にかろうじて勝利した彼は、希望に燃え、自由と平等の世界を作ろうと固く心に決めていた。
 この椅子に初めて座った時、彼はまだ「彼」だった。自分を強くもち、先人のなしえたことに思いを馳せ、自らのこれからを国民に捧げることを強く誓ったのだった。
 だが、それは時とともに変化していった。多くの人が離れていった。反対に近づいてくるものたちもいた。だが、彼らは信用ならない、抜け目のないものたちだった。彼はそうしたものたちに踊らされ、転がされ、いいように利用された。よくわからない戦争を始めさせられた。自分の知らないところで知らないことが、自分の名において進められた。
 そして、人々は次第に彼を憎み、無視するようになった。彼自身も彼のことを無視するようになった。大統領はもう彼の預かるところの存在ではなくなった。いつしか、世界は彼を平和の敵と呼ぶようになっていた。
 だが、その大統領生活ももう終わりだ。最後くらいは、平穏に静かに去りたい。そう何ヶ月も前から心に誓ってきた。新大統領が就任したらすぐに田舎に帰るつもりだった。補佐官の者たちも、彼らは最後まで彼の最善の味方であり続けた、彼の決意を理解してくれた。
「大統領、そろそろお時間です」
彼ははっとし、目を開けた。目を閉じ回想にふけっているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。目の前にいるのは、もう長い付き合いの補佐官だ。
「すまんな。ねむってしまったらしい……ところで、チャールズ」
「何でございましょう?」
チャールズは首をかしげ、大統領からの言葉を待った。
「お前にもこの八年間本当に迷惑かけたな。これまでありがとう」
補佐官は、その言葉を聞くと、微笑んでこう答えるのだった。
「大統領。まだそのお言葉は早いですよ。さあ、最後の仕事に行きましょう」


0.「引退」をもって引退するもの
「どう、この話は?」
その女は、隣のデスクに座っていた男にできたての原稿を見せました。
 白髪がだいぶ混じるほど年を重ねていた女は、地味なグレーのスーツに「スズキ」と書かれたネームプレートをつけていました。一方、渡された方はというと、「ナカムラ」と書かれたネームプレートを同じようにつけていましたが、なぜだか「ヤマネ」と呼ばれていました。こちらは大学出たての新入社員のように見えます。
「ヤマネ、ヤマネって、私はナカムラですよー。一回も呼んでくれたことないですね。いい加減覚えてくださいよ……どうせ私は影薄い男ですよー」
女は冷たい眼で男を睨みました。それはそれは恐ろしい目です。
「さっさと私の質問に答えなさいよ!」
男は慌ててメガネをずり落としそうになりそうになりながら、女から渡された原稿に目を通しました。そうそう、この男はメガネをかけているのでした。書き忘れていたのでした。決して今付け加えたのではありません。決して。誓いませんが。
 さて、話を元に戻すと、男は読み終わるとゆっくりと顔を上げ、女に微笑みかけました。メガネの奥の目が強く何かを訴えかけてくるようでした。女は照れを隠すかのように、また怒り出しましたが、さきほどとは調子がいささか柔らかでした。いささかですが。
「当たり前よ! 私の引退作品なんだから、これまでで最高のものを作るに決まってるでしょ。で、どうなの? ニヤニヤしてないでさ、なにか感想でもいったらどうなのよ!」
男は微笑みながら、女の問いかけに答えました。
「好きになりました」
女はわかりきっていても、こう尋ねないわけにはいかなかった。「言わないで我慢」なんて言葉は彼女の辞書にはありませんでしたので。
「よかったーこの作品を気に入ってくれたのね? これで私の作家人生に幕が下ろせるわ」
しかし、男からの答えは思いがけないものだった。
「あなたを。この作品は読んだ私に、あなたを好きにさせた。なぜなら、そこにはあなたのすべてがあるからだ」
女は心の中に何か揺れ動くものを持ちつつも、こう言わざるを得なかった。彼女の辞書には「素直に」という言葉もなかったからなのです。
「ふっ……それで口説いてるつもり? あなたの言葉で私を落とすには……そうね、あと百億年ぐらいかかるんじゃないかしら。もう馬鹿らしいわ、」
そこで一旦言葉を止め、深呼吸をして、ごくりとつばを飲み込んで一言。
「ナ カ ム ラさん」
女はそれだけ言うと、スタスタとオフィスの外へ小走りに出て行きました。
それを黙って見送っていた男も、しばらくすると追いかけるように外に出て行きました。
 男のデスクの上にそのまま乗っかっている原稿。その一番上にはワープロの無機質な字でこう書かれていました。
「引退は、よくも悪くも流れてきた時間全てをまとめ、まるめ、ましなものにする。だが、忘れてはならない。引退とは決して始まりではないし終わりでもない。ただ人がそこにそれを置いただけのものである」

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