さらし文学賞
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |


極光神界遊戯録

 ここは天上界。
 下界に存在する万物各々を司る神々がおわしまする世界である。
 ある日、暇を持て余した鏡の神は蛍光灯の神に因縁をつけ、勝負を申し込んだ。
「暇なら、勝負せんか」
「ええとも」

 最近の天上界では、下界に住む人間を使った勝負が流行している。蛍光灯の神と鏡の神が行うのは「縁結びの勝負」である。割かし関係が近い一組の男女を選んで、二人の縁を結ぶ側と分かつ側に分かれて攻防戦を行うのである。

 勝負をする前に、蛍光灯の神が言った。
「ならば私はこの男の部屋の蛍光灯になりきる。私が三回交換されるまでに、コイツの恋が成就しなければ、お前の勝ちにしてやる。それでいいかね」
 提案を聞いた鏡の神は喜んでその勝負を受けた。鏡の神は鼻で笑った。
「蛍光灯に何ができる。俺は俺らしいやり方で、恋路の邪魔をさせてもらうからな」


○○○○○○

 これは、「暇を持て余した神々の遊び」に翻ろうされた男たちの物語である。

○○○

 俺が大学生になり、一人暮らしを始めて早くも八か月が経った。年賀状の売れ筋がよくないという夕方のニュースを横目に、薄暗い蛍光灯の光のもとで俺は友人の影村と一緒に仲良くカップ麺を啜っていた。約一週間の間、夕飯はずっとカップ麺のしょうゆ味であった。
「こんな寂しい夕食を、いつまで続けるんでしょうか。ああ、焼肉が食べたい」
 影村は身にふさわしくない願望を垂れながら人の家の食べ物にケチをつけた。腹が立ったので彼が持っていたスープに浮いたチャーシューを喰ってやると、彼は床に崩れ落ちた。それを見て俺は勘弁してやることにした。
 何が悲しくて男二人でこんな寂しい食事をしているのか。年末年始に出費がかさむから節約しているのもあるが、主なモメントはつい先日にアルバイトを解雇されたことである。
 俺と影村はともに近所の大型書店で働いていた。俺が入った時にすでに影村はそこで働いていて、同じ大学でしかも同回生であると知った俺たちはすぐに仲良くなった。しかし悲しいかな、俺が影村に出会っていなかったら、俺は今もその書店で働いていたのであろう。
 影村は良くも悪くも行動力のある奴だ。彼は大学で七つだか八つくらいのサークルを掛け持ち、しかも複数のアルバイトをこなし、週八回は出勤している。俺と一緒にバイトを首になった翌日には新しい勤務先に面接へ向かっていた。そんな彼の学校での成績は案の定下の下であり、俺が卒業する頃には彼は後輩になっていると推測される。
 俺はそんな影村と道連れになる形でバイト先から解雇宣告を受けたのだが……理不尽さに怒りがよみがえってくるので深く考えないことにした。あまり怒ると今度はチャーシューだけでなくメンマ、コーン、その他諸々を横取りしてしまうかもしれない。それでは彼があまりにも可哀想だ。
「もう新しいバイトは見つかったんですかい」
 訊いて、影村は勢いよく麺を啜る。
「首になったのはつい先日だぞ。俺はお前とは違う、そんなにすぐ動けるものか」
「時は金なり、タイムイズマネーですよ柏台さん。立ち止まっていたら時間がもったいないでしょ。学生でいられる時間も残り少ないですし、やれることは全部やっておかないと」
 影村は少し馬鹿にした調子で言う。これが平生の彼の話し方であり、彼をあまり知らない人間は思わずむっとしてしまうが、慣れとは全く恐ろしい。ちなみに柏台とは俺のことだ。
「もっとも、果たしてお前は四年間で卒業できるのかな」
 この時俺は少し下卑た笑みを浮かべていたかもしれない。普段は純真で誠実で水は滴っていないがとってもいい男子である俺は心の中で少し反省した。痛いところを突かれた影村は、箸を止めてううっと唸った。
「テスト前に本気出せば何とかなりますよ。学業に関しては自己責任ですし、その辺は放っておいてくださいな」
 本気を出す暇がないから何とかなっていないのだが、たしかに自己責任なのでそれ以上言及しないことにした。食べ終えたカップ麺の残液を処分して手を洗った後、炬燵に入ってほっと一息つく。段ボール箱からみかんを二つ取り出し、片方を影村に向けて放り投げると、最後の一口を啜っていた彼の頭に的中した。当たる前にそれを悟った俺は素早く炬燵布団の中に潜り込む。ほどなくして奥から右足が襲いかかり、俺はカーリングのストーンのように炬燵から追い出された。
 床の上に仰向けになると、部屋の蛍光灯の明滅がチラチラと肉眼で確認できるほどになっていた。そろそろ交換するべきなのかもしれない。
 俺が借りている部屋はキッチン・トイレ・風呂が完備されていてなかなかに住みよい所だが、収納スペースがほとんどない。部屋には物があふれ、ベッドと炬燵周辺を除いて足の踏み場がほとんどない状況である。そんな中、この部屋の明かりが切れたらどうなるか。キッチンの小さな明かりだけでは足元はほとんど確認できず、部屋中のモノというモノを踏み潰してしまうであろう。教科書やノートを踏み潰すくらいなら全く気にならないが、スーパーファミコンやらビデオデッキやらまで踏みつけてしまうのは憚られる。
「ちかちかしますね、これ目に悪いんじゃないですか」
 影村は蛍光灯を見上げると、鬱陶しそうに目を細めた。
「安心しろ、これ以上俺の眼は悪くならない。なりようがない」
 両眼とも視力〇・一以下の俺はメガネのフレームを指で抑えつつ、自信たっぷりに言いのけた。
「あなたじゃなくて、僕の視力が落ちちゃうじゃないですか。僕両眼とも一・五以上あるんですよ」
「お前の視力など知るか。ここは俺の部屋だぞ」
「一緒に食卓を囲むくらいの仲ですよ。伴侶と言ってもいいくらいの」
「気持ちの悪い言い方をするな。俺が買った食い物をむさぼっているだけじゃないか」
 影村がすり寄って来たので、たまらず俺は脚にしがみつくこいつを引き剥がす。本当に、どうして男同士でこんな茶番を演じなければならないのか。隣にいるのが影村でなくて黒髪の乙女であったのなら、どんなに良かったことだろうか。
 冬休み前までに処理しなければならないレポート課題が一つ残っていたので、そろそろ影村を帰すことにした。ついでに風呂にも入っていきたいとほざいてきたので、尻を蹴って玄関から追い出した。
「帰れ」
「ああん、こんな寒い夜に外に放り出すなんて、そんな殺生な」
「明日は冬休み前の授業最終日だろ。提出するレポートがあるんだよ。お前といると全く集中出来んからな」
 事実、影村と遊んでいると時間がいくらあっても足りない。タイムイズマネー、カネの浪費である。
「そうだ、なんなら今から替えの蛍光灯を持ってきてあげますよ。さっきそろそろ換えなきゃって言っていたでしょ」
「そんなものは休みに入ってからでいい。お前も課題があるだろう、帰った帰った」
 苦し紛れの提案を一蹴し、再び玄関に入らんとする影村を外へ押し出す。
「ありませんよそんなものは。それよりあったかいコーヒーが飲みたいなあ」
「じゃあな」
「あ、ちょっと、ひど」
 寒いのでさっさと扉を閉めて鍵をかけた。背後で罵詈雑言している奴は、放っておけばじきに収まるので気にしない。

 二時間もすればレポートは完成の様相を見せた。外で騒いでいた影村はいつの間にか帰ったらしい。あれだけ迷惑をかけたのだから、今度焼肉を奢ってもらおうそうしよう。
 一服しようとキッチンに向かったところ、取っておいた缶コーヒーがなくなっていた。影村が持って行ったのだろうか。どうやら焼肉どころでは済まないようだ。
 仕方がないので、近所のコンビニまで缶コーヒーを買いに行くことにした。節約している身分ではあるが、少しくらいはいいだろう。自分へのご褒美というやつだ。
 夜も深くなっていたので、外はさんざん寒かろうと思って厚着をして玄関から出たが、影村と阿呆なことをしていたときと比べてさほど気温は下がっていなかった。

 コンビニまでは歩いて数分もかからない。貸家から出て三回ほど路地を曲がったところ、大通りと住宅街の境目のような場所に立地している。
 いつもの練乳入り缶コーヒーを何本か買ってすぐに店を後にした。あまり長居をすればたちどころに煩悩が生まれて無駄遣いをするからだ。
 夜風に眠気を覚ましつつふらふらと路肩を歩いていると、前方から見知った顔が現れた。その人物はウエストポーチを下げて少々早歩きで進んでいた。
「やや、街田さんではないか。こんばんはー」
 歩みを止めて俺は挨拶する。向こうもこちらに気づいたようで、歩調を緩めてこちらに向かってきた。やたら整った姿勢であったので、不意に緊張感を覚える。
 街田さんは俺と同じ大学の同回生で、影村と同じ数学科に所属する女学生である。影村とともに勉学している人間である以上、さぞ偏屈な女かと最初は邪推してしまったが、そんな懸念は彼女と初めて会った途端に大気圏外に吹っ飛び、杞憂という宇宙の藻屑へと化した。
 街田さんは謹直にして楚々、妙妙たる成績で学問を修め、しかもサークルやアルバイトといった課外活動も卒なくこなす、まさに大学生の鑑のような黒髪の乙女であった。ちなみに影村は不義そのものである。
「こんな夜遅くに奇遇ですね」
 軽く会釈をした後、顔を上げて彼女は言った。彼女の、肩のあたりまで伸びた短めの髪がふんわりと揺れるのを見る間もなく、凛とした鋭い眼と目が合ってしまった。なんとなく恐怖を感じるので空を見上げて視線を逸らした。この日の月はあまりに綺麗だったので、それを見た俺はうっかり口に出してしまうところであったが、夏目漱石がなんたら述べていたのを思い出して喉元でとどめた。顔を戻すと街田さんはまだこっちを見ていた。
「街田さんは今からお出かけ?」
 彼女は俺の住むアパートの近くで下宿しているらしく、こうして街角で会うことがたまにある。しかしこの日は奇遇にもやたらと遅い時間に出くわしたのである。
「ちょっと甘いものを飲みたくなったので、そこのコンビニまで買い出しに。この辺りは自販機がないですから。……柏台さんもコンビニでしたか」
「うん。レポートが終わったのでちょっと一息入れようと思ってね」
 そう言って俺は手に下げたレジ袋を見せつける。街田さんは袋をまじまじ見つめると、「それが戦利品ですか」と呟いた。
「そうだ、甘いものが飲みたいならこれはいかが」
 レジ袋から缶コーヒーを一本取って街田さんに差し出すと、彼女はそれをおずおず手に取った。
「これって……アレ、柏台さんもこれ好きなんですか」
「好きだしよく飲むけど。街田さんも好き?」
「たまに飲むくらいには。学校で影村くんが奢ってくれるんです。でもちょうどよかった、ありがとうございます」
 大事そうに缶を両手で包んだ街田さんはきっと表情を綻ばせたのだろう。しかし俺はそれを目に焼き付ける余裕はなかった。影村め、俺と一緒にいるときは女気などからっきしといった素振りをしていたのに、ぬけぬけと学校では女子大生にちょっかいを出しているらしい。今度会ったら、焼肉を奢ってもらうついでに是非ちょっかいの出し方だけご教授願いたい。
 街田さんの目的は果たされたようで、彼女は俺に連れ立ってもと来た道を戻りだした。
「それにしても、柏台さんはどうしてバイトを辞めてしまったのですか。割かし真面目に働いていたのに」
 街田さんは不機嫌そうに言った。何故俺がバイトを辞めたことを彼女が知っているのかというと、彼女も俺や影村が働いていた書店でアルバイトをしているからである。
 八月の上旬、夏休みが始まって毎日のように働いていた頃、街田さんはやって来た。俺と街田さんが初めて面識を得たのもその時だ。彼女の研修期間中に俺は手伝いをしていたが、一週間待たずして彼女は俺よりも要領よく仕事をこなせるようになっていた。その為、はたから見れば俺が街田さんをサポートしているのではなく、彼女が俺のフォローを任されているかのように思われただろう。
 研修が終わった後も街田さんは俺と同じ時間帯で働いていたため、時たま会話を交わすことがあった。会話の主な内容は学校での影村についてである。彼からいつも小馬鹿にされ、舐めた態度をとられていた俺はどうにかして影村の弱みを握ろうと企んでいたのである。
 しかし街田さんが語ったのは、普段の俺とのやり取りからは想像もつかぬような質実剛健な奴の人物像であった。俺がそんなわけあるものかと笑って否定すると、彼女はむっとした表情で「彼を悪く言わないでください」と咎めた。果たしてどちらが影村の正体なのか。あるいはどちらも間違っている可能性がある。あんなに人をけちょんけちょんにするくらいだから、もしかしたら妖怪の類かも、と考えたことすらある。
 そんなこんなであわよくば街田さんとねんごろになろうなどと目論みつつアルバイトを続けていた俺であったが、先日なんと解雇宣告をくらってしまったのだ。
「辞めたというか、辞めさせられたというか……」
 突然のことであったため、街田さんには一報入れることもなく俺はバイト先を去ることになってしまい、彼女は影村の口から俺の辞職を知ったらしい。てっきり影村が成り行きを話してくれていたものだと思っていたが、街田さんは何故俺たちが辞めることになったのか知らない様子であった。
「辞めさせられた? 首ってことですか」
「まあ、そういうことになるかな」
「なぜ、どうして」
 歩きながら街田さんは俺に詰め寄る。ぎりっとした眼差しで見上げられた俺は、その迫力におののいてたまさかに口を滑らせるところであったが、くっと口をつぐんで終ぞことの真相を語ることは無かった。

***

 一週間と少し前、影村と俺は来たるべきクリスマス商戦に向けて、遅くまで残って作業を行っていた。夢中で装飾やら仕入チェックやらをしていると、いつの間にか閉店時間を過ぎており、俺と影村と店長、そしてどこぞの専門学校に通っている女性スタッフだけが残って作業をしていた。
 次の日も学校の講義があるため、俺と影村は切りのいいところで作業を止めることにした。後片付けは店長と女性スタッフの二人でやってくれると聞いたので、遠慮なく俺たちは帰路についた。
 店を後にして間もなくのことだった。影村が突然こんなことを言った。
「あ、そうだ。休憩室の蛍光灯が切れかけているから交換してくれってシフトリーダーに頼まれてたんだ」
 言い終わらぬうちに、影村は駆け出していた。
「今からか? もうだいぶ遅いぞ。電気屋なんてとっくに閉まってるだろ」
「うちに買っておいたのがあるんで、それを持っていけば問題ないでしょ。さあ行きますよ」
「いや待て、なんで俺を連れて行こうとしている」
 すると影村は両手で自分の肩を抱くとおおげさに震えてみせた。
「夜道にこんなか弱い大学生一人じゃあ心細すぎるでしょ、きっと黒服のおじさんに身ぐるみはがされて東京湾に沈めちゃうわん」
「阿呆くさいことを言うな。そんなに怖いのなら今度にしろ今度に。テスト勉強もあることだし」
「今度じゃだめですよ。リーダーに怒られて、カツアゲされて、借金した挙句に黒服のおじさんに身ぐるみはがされて東京湾に沈められちまいますって。単位落とすよりよっぽど怖いですよ」
 そんなに言うならいつか俺が沈めてやると言い放ったが、続く一言で俺の態度は一変した。
「明日は金曜日、いつもお世話になっている誰かさんでも誘ってごちそう食べに行こうと思ってたんだけどなあ」

 影村の家に交換用の蛍光灯を取りに行った後、俺たちは全速力でバイト先の書店へと急いだ。店が閉まっていてはおしまいだが、まだ明かりが点いているので間に合ったらしい。
 裏口から入って、休憩室へと向かう。店が広いせいで、部屋までは結構ある。廊下をぐんぐん進んでいくと「休憩室」と書かれたプレートが取り付けられたドアが見えてきた。
「それにしても、店長たちはどうしたんだろう」
「レジの確認でもやっているんじゃないですか。さあ、とっとと終わらせて帰りましょう。あ、今日は柏台さんの部屋に泊まっていっていいですか」
「さりげなく言いやがって。……明日のごちそう期待しているからな」
 くだらないやり取りを終えた後、俺たちは休憩室に入ってそそくさと蛍光灯を取り換えた。二本ほど切れかけていて、影村は脚立に乗るとそれらを外して新しいものを取り付けた。俺は古いものを受け取り、新しい蛍光灯を影村に手渡す。取り換え自体にそれほど時間はかからず、てきぱきと作業を終えた俺たちは息せき部屋から出た。
「上手くいきましたね」
「上手くいったな」
 顔を合わせると、お互い喜んでいるのか疲れているのか何だかむにゃむにゃとした表情をしていた。さあ帰ろうと俺が出口に向かおうとすると、影村が俺の首根っこを捕えて歩みをとどめた。
「今度は何だ、もう帰るぞ」
 面倒がって俺が言うと、影村は人差し指を口に当て今まさに俺が向かわんとした方向を睨み付けた。 
「店長たちがこっちに向かって来ています。隠れないと!」
「いやいや、隠れる必要もなかろうに」
 俺は何の問題があるのかさっぱりわからなかったが、普段見ることのないあまりに必死な影村の様子と、並々ならぬ彼の気迫に圧倒され、なす術なく隣のロッカールームに押しやられてしまった。
「一体どうしたんだ」
「しっ、声が大きい。今見つかったらやばいですって。……しばらく聞いてりゃわかると思いますよ」
 あんまりごねると殴られそうだったので、しぶしぶ俺はそこで待機することにした。
 足音が近づいてくる。しかしそれをかき消すくらいの声量で、男女が仲睦まじく会話する声が聞こえてきた。それは紛れもなく、店長と女性スタッフの声であった。
「あらま……ずいぶんと楽しそうにやってますねい」耳元で影村がつぶやいた。
「これ、マズいんじゃあないか? 店長って奥さんいるんじゃなかったか」
 店長らは休憩室に入って行ったようだ。徐々に睦言がヒートアップしているが、傍らの影村は意に介さずニマニマ気持ち悪く笑っているようだ。
「幸か不幸か、とんでもないスキャンダルを得てしまいましたね」
「どう考えても不幸だろ。ここにいるのがバレたらマズい。隠れてないと」
「ですが、僕たちいつまでもここにいられませんよ。鍵を閉められたら明日の十時まで出られません」
「一限は諦めろ。二限にはギリギリで間に合う」
「それが無理なんです。一限のテストに欠席したら、今度こそ留年です僕」
 どうやら手詰まりのようであった。店長に気付かれずに部屋から出て、廊下を駆け抜けて彼らより先に店外に脱出しなければならなくなった。
 隣室に耳を傾けると今や睦言は睦事に変転し、壁の向こうで淫猥極まりないことが起こっているのは想像に難くなかった。
「うほあ、こりゃすごいですな。あなたの家の猥褻図書館でも味わえない生々しさだわ」
「まったくだ、下品極まりない……というかお前、見たのか」
「貴重な収納スペースを割いてまで蔵すなんて、さすがはむっつり柏台さんだ」
「うるさいわい」
 こんな戯言を交わしているうちに、やおら苛立ちを覚えた。向こうでは俺より倍は生きている男が、うら若き麗人……か否かは分からぬが年頃の女性と乳繰り合っているというのに、俺はなんという有様か。毎晩のように阿呆学生二人で到底口外できぬ猥談に花を咲かせ、現実味のかけらもない理想を押し並べていつか俺たちは歴史に名を刻むなどというわけのわからぬ妄言を吐き続けるのは留まる所を知らない。学生でありながら向学心はない、それどころか講義すら真面目に聴かない、楽勝単位を落とすなどもはやタブーの塊になりつつある。そのような現況にあって、隣の部屋でいぎれくさっている彼らは実に耳目に障る。恨めしいのである。
 次第次第に声を上げたい衝動に駆られた。今すぐにでも隣の部屋に進撃して、彼らに比翼連理とはかくあるべきとかんかんがくがく語ってやろうか。影村の方を見ると、どうやら彼もそろそろ我慢の限界のようであった。肩をわななかせ、くっくっくと嗚咽するかのように笑っていた。
「……どうするよ」
「どうもこうも、逃げるのみですよ。バーッと飛び出して全力ダッシュで出口まで走れば、向こうでよろしくやっている彼らは追いつけませんから」
「こっそり逃げなくていいのか」
「我々からのささやかなる警告ですよ。もう今度から店でいちゃつくことなんてできやしませんよお」
「いい性格してんなあ」
 向こうはやがてクライマックスを迎えるようで、まるで強盗が入って来たかのような騒ぎだ。俺たちは息を整えると、二人でえいやっと扉を開けた。勢いよく開いた扉はドアストッパーにぶつかり、小気味の良い音を立てた。隣りの休憩室からは店長の「ぎゃっ」という、先ほどの雰囲気は何処へやらな悲鳴が聞こえた。
 ロッカールームを出たあとは、決して後ろを振り返らずに出口へと駆け抜けた。やっさもっさしている店長らが追いかけてくる前に、何とか外に逃げ出す。

 店から出た後も、尚も俺たちはアパートまで走った。久しぶりに全力疾走したため、胸の中心に絞られるような痛みが生じていた。隣りを走る影村はぜいぜい言いながらも歯をむき出してきしきしと笑っている。
「やった、やった。これでリーダーに怒られずに済むし、おまけに店長のスキャンダルまでゲットしちゃった。当分飲み会の話題は決まりですわこりゃ」
 ひーひー言いながら影村は疾走する。
「飲み会も、いいけどなあ、明日の、メシは、よろしく頼むぞ」
 俺はすぐに息切れを起こした。昔は道の整然雑然関係なく駆け回っていた俺も、最近では階段の上り下りが億劫になりつつある。なんだかなあとは思えど、何とかする気はさらさらないが。
「もちろんですとも! あっちが不純交遊に励むなら、僕たちは猥談で対抗です」
「はっはっは。それではいつもと変わらんではないか」
 この時の俺たちは、それはそれは高揚した心持であったであろう。休憩室の蛍光灯の交換に店に戻っていたことなどとうに忘れ、次の日影村に奢ってもらう食事のことばかりが頭の中で浮かんでは消えていった。
 アパートに帰る頃には俺も影村も疲れ果て、ぜえはあケラケラ言いながら部屋に転がり込むとそのまま眠り込んでしまった。
 その翌朝、街田さんが影村にモーニングコールを寄こさなければ、危うく俺たちは一限に遅刻するところであった。影村はテスト勉強をほとんどしていないまま、定期試験へと向かって行った。部屋から出ていくときの彼の後ろ姿の壮烈たるや、さながら手ぶらで死地に赴く戦士かのようであった。俺は心の内でひそかに彼にエールを送った。
 ところで、朝食を作っているうちに頭が冴えてくると、前の晩俺たちは致命的なミスを犯したことに気が付いた。俺は自らの過ちを忸怩たる思いで省みたが、いくら後悔してもどうにもならないのは明らかである。とりあえず目玉焼きを頬張って大学に出かけた。

 一応、その日影村は上手く試験を切り抜けた。学食で彼に会ってそのことを聞いたときには、真っ先にカンニングを疑い問い詰めてやろうと思った。しかしそばに街田さんがいたので、彼の名誉を考えて俺は思いとどまった。我ながら、よくできた人間であると思った。
 先の約束通り、晩飯は影村の奢りになった。俺は近所の高級中華料理店を希望したがあえなく却下され、行きつけの拉麺屋で妥協することとなった。
「結局、いつものココで、ラーメンを食べることになるのかあ」
 俺は丼を手に取った。カウンター越しに差し出されたしょうゆラーメンは、照明の光を受けて美味そうに照り映えていた。
「いいじゃありませんか。ココの味は一級品、食べれば誰もが病みつきになる魔法のラーメンですよ」
 事実、この店で食べる拉麺は格別であった。最初に食して以来、一週間に一度はこの店に行きたい衝動に駆られる。それは日中深夜問わず襲ってきて、俺の食習慣を乱す主たるファクターとなっている。
「それにしても」影村は麺を啜った。「店長って意外にモテるんですねえ」
「誠実で、似た者同士だと思ったんだがな」
「似てるところは頭の中が桃色に染まっていることだけだと思いますけど」
 影村はいつものように軽口を言う。一泡吹かせてやろうか、俺はその日の朝に気づいたことを彼に打ち明けることにした。
「そしりはしりに事欠かない奴だな。……なあ、やっぱり俺たちやばいんじゃないか」
「なにがです?」
 メンマをはふはふ頬張りながら、影村は首を傾げた。
「そりゃあ、現場を見ちゃったことだよ」
「別に、黙ってればいいじゃないですか。店長もあの女性も僕たちには気づいていないんだし」
「確かにあの時俺たちの姿は見られていない。しかし、防犯カメラはどうだろうか」
「……」
 影村は絶句した。目を見開いたまま、石にされてしまったかのようだ。そのくせ、相変わらず口元だけは笑っていた。
 その日の朝、店の従業員出入口にも監視カメラが備え付けられていたことを思い出した。その時すでに、店長たちは俺と影村が彼らの淫行現場の目撃者であることを知っていることであろう。
「……首だな、俺たち」
「ですね」影村はえらく簡単に相槌を打つ。
「ずいぶんと冷静だな」
「ほかにも掛け持っているバイトがありますからね。新しい仕事を見つけるまでは稼ぎは少なくなりますが、問題はないでしょう」
「むむ、そうか、お前はほかに稼ぎ口を持っているのか。俺はどうしようかな、年末の仕事を探そうかな」
「そんなこと言って、探す気なんてさらさらないでしょう。僕が紹介してあげましょうか」
 実のところ、影村の言っていることは当たっていた。首になったら、もう今年はゆっくりしてバイトは来年探そうかと内心で考えていた。
「まあ、まだ首になると決まったわけではないし、気長にしてましょうよ」
 影村が言ったあと、携帯電話二台分の着信音が、ほぼ同時に鳴った。それは、明日店に来いという店長からのお達しだった。
「決まっちゃったみたいだぞ」
「いーやー冬の特別ボーナスかもしれませんよ」
 影村はニヤニヤ笑っているが、額に汗が浮かんでいる。ひょっとすると焦っているのかしらと思ったら、スープに大量の七味唐辛子が浮いているのに気付き、見当違いだと悟った。

 そして次の日、店に行った俺たちを待ち受けていたのは店長からの解雇宣告と「退職金」と称された口止め料であった。俺は一応抵抗しようとしたが、影村にとどめられて結局俺たちはその場で首になったのである。

***

 首になったことを思い返すと、どうにも影村の行動が気にかかる。いくらシフトリーダーに頼まれたからって、たかが蛍光灯の交換ごときに翌日控えていたテストを犠牲にする必要があったのか。それに奴の冷静ぶりも引っかかる。まるで俺たちが首になることを知っていたかのような素振りであった。
「柏台さん」不意に横から街田さんに呼ばれて、俺は身を捻る。
「あなたが何をしでかしたのかは知りませんが、本来あなたは首になるはずではなかったと思います。なぜかは分かりませんが」
 俺は彼女の言葉を笑って受け止めたが、心の中ではそれは違うと言っていた。
 おそらく、どんなところに居ようとも影村と馬鹿をやってつまみ出されるのが落ちだと思う。今回は彼が発端となったが、別のバイトに俺と影村がいたとしたら今度は俺が原因で首になっていた気がする。俺たちはお互いが足を引っ張り合う関係なのかもしれない。
「何はともあれこれで俺は首だ。俺がいなくなってもしっかり頑張ってね……と言っても、最近は俺が街田さんに迷惑をかけることが多かったかな」
 俺は頭を掻いて自嘲気味に笑った。書店での仕事に対しては何の未練もないが、街田さんのような黒髪の乙女と一緒に仕事ができないのは、いささか幾ばくか多少割と結構なかなか過不及無く甚だ残念である。
「確かに最近の柏台さんは、真面目にやっているようでもいらぬ所で失敗して店長に怒られていましたね」
 俺の自嘲にも街田さんは表情を変えることなく、隣りを歩いている。もう彼女にはバイト先で会うことはないので、俺は今のうちに仕事上の非礼を詫びておくことにした。
「それはそうと、俺のせいで街田さんにも手数をかけてしまったな。ごめんなさい」
 …………。
 俺がそう言うと、街田さんはわずかに眉をひそめた。
「そうですね。もう少し要領よく働いてもらえれば良かったです。でも――」
 言いかけて、彼女は眉尻を下げて目を伏せ、ため息をついた。そしてそっと続きを紡いだ。
「あなたと仕事するのは、嫌いじゃあなかったんですよ」
 白い息が虚空へと霧散するのを見送ったあと、街田さんは静かに微笑んだ。思い返せば、彼女の笑顔を見たのはこの時が初めてだったかもしれない。

***

 ふわふわした心地のまま、俺は街田さんと別れの挨拶を交わし、アパートの自分の部屋に転がり込んだ。そしてバイトを首になったことを激しく恨んだ。よくよく考えれば、街田さんのような女性とお近づきになれる場所なんてあの書店のバイト以外存在しないのである。学校では孤高を極め、サークルは入会二か月で辞め、女性以前に人間と関わる機会が無かった俺にとって、あの書店でのバイトこそが、一番人間らしく生きていられる時間であったのかもしれない。ちなみに影村は人間ではなく妖怪だと思って差支えない。
 蛍光灯は、チカチカしていた。鬱陶しい、引っこ抜いてやろうかと考えたが、明かりがなくなったらもっと苛立ってくるのでやめた。
 もう夜も遅かったので、炬燵に入り込んで恨み言をぶつぶつ言っている間に眠ってしまった。イライラする時ほどよく眠れるとはこれいかに。

***

 翌日俺は少し早く起床した。というのも今日が冬休み前の最後の授業日で、提出物やらテストやらで準備することが沢山あったからである。明かりをつけると蛍光灯が切れかけているのを思い出した。それと同時に、バイトを首になる発端となったことも思い返して腹が立った。早く換えないと、このままでは苛々が積み重なってストレス性の顎関節症になってしまうかもしれない。今日帰宅したらまず一番に電気屋に行こう、そう決めて俺は家を出た。

 その日はテストやら手続きやらで一日中大学を駆けまわり、帰宅するころにはもともと少ない精根がゼロに振り切れるまで尽き果てていた。おかげで換えの蛍光灯を買うことも忘れて寝込んでしまった。

***

 目を覚ました時には、部屋は真っ暗で何も見えなくなっていた。慌てて蛍光灯を点けると、壁にかかった時計が午後八時前を示しているのが分かった。俺は時間を無駄にすることが嫌いであったが、今日から冬休みであったのでさほど気に留めなかった。
 カップ麺でも食べようかと思いキッチンに向かおうとしたが、やたらと視界がチラチラするのを感じて足を止めた。天井を見上げると、蛍光灯が明滅を繰り返している。そこで俺は思い出した。蛍光灯を買わなければ。

 蛍光灯の品番をよく調べてから、近所の家電量販店に出かけた。閉店時間が近いということもあり、店の中にはそれほど人はいなかったのだが、蛍光灯を探しているうちに思いがけぬ顔を見かけてしまった。
 白物家電コーナーのあたりで、仲良さげな男女が二人。父娘かな、と思ったら店長と例の女性スタッフであった。すぐに疑問が生じた。今日この時間、店長とあの女性は書店の仕事をしているはずだ。それなのにこんなところで油を売っているのだとすれば、それは職務放棄以外の何物でもない。
 たちどころに、俺の心に黒い靄がかかるのを感じた。彼らの決定的瞬間を撮影して、バイト先で晒してしまおうかと考えた。どうせあのバイトに未練なんて全く……無いのだから。
 交換用の蛍光灯を買って、俺は店長たちを追跡することにした。そして決定的瞬間を携帯電話のカメラに収めてやるのだ。かくして俺の計画は人知れず始動した。

 店長たちは繁華街の方へ向かっていた。すると俺と同じように店長たちの跡をつける者がいることに気が付いた。暗闇に顔をぎらぎらさせ、まるで妖怪のような顔をしている。影村であった。
「影村、お前何やっているんだ」近づいて、俺は言った。
「あなたと同じですよ。彼らの仲の証拠を握って、店長を失脚させてやるんです。そしたら僕はあのバイトに再び戻れるようにシフトリーダーにはからってもらうんだ。リーダーは店長に、僕はシフトリーダーに仲良く出世ですわ」
 影村は俺よりはるかに賢く意地の悪い計画を企んでいた。俺たちは肩を並べて店長たちのストーキングを再開した。
「柏台さん、あなたはもう帰れば? あとは僕がやっておきますんで」影村はにんまり笑った。
「あなたにはこういうのは似合いませんよ。わざわざこんなところに出向いて来ないで、僕を頼ってくれればよかったのに。手に持っているやつ、換えの蛍光灯でしょう。僕の部屋にそれと同じタイプの余りがあったのに」
「それを昨日言ってくれよ、ただでさえ金銭で困っているというのに。あと、お前だけは頼りたくない」
 俺はぷりぷりと怒った。影村は店長たちにカメラを向けつつ、「まあまあ」と俺をなだめる。
「これに成功すれば店長はどっかに飛ばされて、僕たちはまた戻れますって。そうしたら金銭問題は解決ですよ」
「お前が俺を助けてくれるなど、絶対に信じられん」
「あれ、結局僕頼みですか。自分で店長たちに一矢報いるという考えは毛頭ござらんのですか」
 店長たちが歩みを止めては俺たちがこんなやり取りを繰り返し、また歩き出したら俺たちも追いかけ、そうこうしているうちに決定的瞬間は訪れず、そろそろ繁華街に差し掛かる所までたどり着いてしまった。
 俺はだんだん追跡に飽きてきた。こんなことに時間を費やして、何の意味があるのか真剣に考える気も失せていた。隣を見ると影村も退屈しているようで、彼は大あくびを噛みしめていた。
 その時、影村の携帯電話の着信音が鳴った。結構大きい音だったので、影村は急いで通話ボタンを押した。十分に距離をとっていたため、店長たちに気配を悟られることは無かった。
 影村は電話に出ると、相槌を数回打ってすぐに通話を切った。彼はやや気難しい顔をしていた。
「どうした」俺は訊ねた。
「シフトリーダーから呼び出しをくらってしまいました。なんでも、僕の忘れ物があるらしいんですよ。そういうわけですから柏台さん、あとはよろしく頼みましたよ。僕とリーダー、そしてあなたの運命は、あなたの双肩にかかっていますからね!」
 影村は俺の肩に手を置いた。
「ちょっと待て、お前あんなにやる気満々だったじゃあないか。しかも俺がこういうの不得手だってのは分かってるだろ。成功するとは到底思えないぞ」
 いきなりに影村に任されて、俺はあわあわと手を振った。
「大丈夫です、きっとうまくいきます」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺は独りぼっちで追跡を続けることになった。

 繁華街に入った店長たちは、特に店に入るといったこともなく、ぐんぐん奥へと進んでいく。俺はなんとなく彼らの行き先が分かってしまった。この先はファッションホテルが立ち並ぶモーテル街である。
 それにしても、彼らのサボタージュのレベルの高さには脱帽せざるを得ない。今頃シフトリーダーやらは二人欠けた仕事場でてんやわんやしているだろう。ひょっとすると影村は、手伝いのために呼び出されているのではないだろうか。
 周りを見渡すと、夜の繁華街は若者たちであふれかえっていた。ちょうどこの時期に学校が冬休みになるので、解放感にあてられた阿呆な学生がうようよしているに違いない。俺のような、阿呆ではないが行動力も金もない野郎には無縁の喧噪である。そんな中、男女の恋路を意地悪く追跡する自分の姿を客観的に見つめると、些か顔をそむけたくなる気がしないでもない。
 後ろから眺めていると、店長たちは本当に仲が良さそうだった。さっき見かけたときは父娘のように思えたが、今はまるで夫婦のようであった。彼らは許されない恋愛をしているはずである。それにもかかわらず、彼らが無邪気にはしゃぎ合っているだけのようにも見える。

 店長たちが寄り添って宿泊施設に入って行くのを見届けたあと、俺は近くの自販機の前で立ち尽くしていた。その心はうつろ、思考はぼんやりとして、ただただバイトを首になってからの自分のありようを反芻していた。そのうちに、宿泊施設の一室の明かりが点いた。照明はやたらチカチカしていた。
 チカチカ……俺はアッとした。手に持っていたはずの蛍光灯が無い。辺りを探してもどこにもない。おかしな話だが、どうやらどこかで落としたらしい。
 何だかすべてがどうでも良くなってしまった。意識は遥か高い所から自分を見下ろしているような感覚であった。今の今まで、自分は何のために店長たちを追っていたのだろう。自分の孤独さを改めて確認して、みじめになるだけだったというのに。
 猛烈に腹が減った。時計を見ると午後十時前であった。今から家に帰ってカップ麺を食べることを思うと、虚しさのあまり食後に吐いてしまうかもしれない。そう考えた俺は、実に合理的な「外食をする」という行動に踏み切った。

「結局、いつものココになるのかあ」
 いつかも言ったようなことを呟いて、俺は丼を手に取った。俺はまた、いつもの拉麺屋にたどり着いていた。
 スープを一口飲むと、やや濃いめの味がすきっ腹に程よくしみ込んだ。俺はここのラーメンのちょっぴり優しさのこもっている味が大好きだった。辛いとき、悲しいとき、苛々するとき……様々な負の感情を抱えるときでも、ここのラーメンを口にした途端にそれらは全て取るに足らぬ他愛もないことだと思えてくる。いつ食べてもその味は俺を裏切らぬ。
 俺がひと時の贅沢を堪能していると、店主が突然あっと声を上げた。
「あれ、あいつだろ、おまえとよく来る……」
 店主は外を見つめたまま皿を洗う手を止めている。つられて、俺も近くの窓から外を見た。
 直後、俺は素っ頓狂な声を上げた。
 窓から見えたのは、並んで道を歩く影村と街田さんの姿であった。
 店の中から確認できたのは、影村の表情だけであった。彼は俺が見たことのない笑顔を浮かべていた。綺麗な笑顔であった。まるで純粋無垢な少年のそれだった。俺はそいつが影村であることが信じられなかった。
「あいつ女がいたんだなあ。お前、先を越されちまったなあ」
 遠い目をして店主は言った。さながら、我が子を見守る父親のようである。
 街田さんが影村とそんなことになっていたのには驚いたが、思い当たる節が無いということもない。俺が影村の悪口を言う度に、街田さんはいつも俺を咎めていたし、彼女が語る影村のありようは、とても甲斐甲斐しい男であった。やはり街田さんは影村を好いていたのだろうか。

 すぐに影村たちの姿は見えなくなった。俺は彼らを追うこともなく、黙々とラーメンを食べ続けた。店主は何かを悟ったのか、それ以降俺に話しかけなくなった。

 スープ一滴すら残さず、俺はラーメンを完食した。代金を払って外に出ると、いくらか冷たさの増した風が頬を撫でた。腹は満たされるのに、心が渇く気がするのは、塩気の強いものを食べたからだろうか。

 アパートに帰ると、玄関の辺りにレジ袋が落ちていた。中身を見ると、先ほど俺が買った蛍光灯が入っていた。それともう一つ、紙切れが一枚入れられていた。
 紙には「Now or never」と書かれていた。何を今すぐに始めろというのだ。とはいえ、蛍光灯が戻って来たのはありがたい。部屋に入るなり、俺は切れかけていた蛍光灯をすぐに取り換えた。今までチカチカしていた視界が一転、くっきりと見えるようになった。

 すると、蛍光灯の明かりが一瞬だけ強く光った気がした。途端に視界がむにゃむにゃとしてきて、まぶたが重くなるのを感じた。腹が満たされて眠くなったのかもしれない。それにしても眠い、今すぐ寝てしまいたい。ああ、どうせもう冬休みなのだ、このまま眠ってしまっても問題あるまい。真っ白な蛍光灯の明かりが、俺の身体を飲み込んでいく。光に包まれ、俺の意識がその奔流に飲み込まれる。

**

 目を覚ました時には、部屋は真っ暗で何も見えなくなっていた。慌てて蛍光灯を点けると、壁にかかった時計が午後八時前を示しているのが分かった。俺は時間を無駄にすることが嫌いであったが、今日から冬休みであったのでさほど気に留めなかった。
 カップ麺でも食べようかと思いキッチンに向かおうとしたが、やたらと視界がチラチラするのを感じて足を止めた。天井を見上げると、蛍光灯が明滅を繰り返している。そこで俺は思い出した。蛍光灯を買わなければ。

 しかし外に出る直前で俺は思いとどまった。そういえば、影村がこの前買った蛍光灯が余っていた、とかなんとか言っていたような……
 俺は影村の携帯電話に電話をかけた。蛍光灯の品番を伝えると、どうやら彼は余りを持っているらしい。いただきに参上したいと俺が言うと、影村はさんざん唸った挙句、しぶしぶ承諾した。俺の部屋に上がっては食い物をせびるくせに、ケチなやつだと思った。

 影村のアパートに着くと彼は玄関先で煙草をふかしていた。彼は未成年であったが、酒もたばこもサークルの先輩から頂戴できるらしい。
「こんばんは、柏台さん。ずいぶんひどい顔ですな。まるで友人のとんでもない秘密を知ってしまったかのような表情をしちゃってまあ」影村は俺を確認するなりひどいことを言った。
「どういう顔だ。ああ寒い寒い、早く入れてくれ」
 俺はガタガタ震えながら影村に詰め寄った。彼は「おっかない、おっかない」と連呼しながら部屋に入れてくれた。
 部屋に入るやいなや、テーブル中央に置かれた大きな土鍋が目を引いた。ぐつぐつと、おいしそうに煮立っていた。
「これはアレか……鍋というやつか」
「どうせ帰宅してすぐ寝ちゃって、夕飯もまだ食べていないんでしょう。たまには僕が手料理を振る舞ってあげますよ」
 席をすすめる影村は、妙に優しかった。鍋に毒が盛られているのではないかと、思わず疑ってしまうほどだ。
「心配しなくとも、毒なんて盛ってませんよ。ささ、食べてください」
 影村はせっせと鍋の中身を取り分ける。様々な野菜と鶏肉が入ったごく一般的な鍋料理だった。
「どういう風の吹き回しだよ。えらい優しいじゃあないか」
「日頃のお礼ってやつですぜ。柏台さんにはカップ麺を何度も奢ってもらっていますからね」
 今までに何回か、俺は影村にくれてやったカップ麺の総額を数えようとした。しかしレシートを貰ったその日に捨てていた俺になす術はなかった。だが、少なくとも鍋の二、三杯分は奢ったはずである。影村に何杯か食わせてもらっても、何ら問題はあるまい。
 思えば、鍋料理は一月に家族と食べたもの以来であった。山野の奥に佇む実家は生活上では不便であったが、住み心地はげに良いものであったと最近になって実感した。都会は不自由なく暮らせるが、どこか虚ろで、冷たい。ふと、実家に帰りたくなった。正月までには帰ろう。
 影村と鍋を突っつきながら、俺はこれからの冬休みの予定を考え始めた。特に課題は出ていないから、やることといえば勉強して、実家に帰ってそれから……、それから?
 俺は愕然とした。実家に帰る以外、これといったイベントがない! 俺の夏休みは連日のアルバイト、急性の腸炎の治療、及び影村との馬鹿騒ぎによって浪費された。予定のない日は何をしていたかは忘れてしまった。これはゆゆしき事態である。冬休みで何かしなければ、きっと春休みも無味無臭な休暇として処理されるであろう。
 そうはいっても、いかにして約二週間という短い冬季休業を過ごそうか。バイトを首になったのでお金が無いし、旅も買い物もできない。そういうわけで持っているモノで楽しむしかないのであるが、自分の部屋にあるのはスーパーファミコンとビデオデッキ、巻数がまばらな漫画と文庫本数冊それと猥褻図書だけだ。極めて不健康的である。こんなことなら格好つけて洋書なんて取り寄せないで、天体観測用の機材でも買っておくべきだった。結局影村と暇をもてあそび、あの薄暗い部屋で男二人むさ苦しくいぎっているしかないのか。
 自分の部屋のことを考えているうちに、影村の部屋に来た目的を思い出した。蛍光灯を貰いに来たのだ。
「して影村よ。換えの蛍光灯はどこか」俺は訊ねた。「危うく、鍋を喰ってそのまま帰る所だったわ」
 影村は得意気に笑うと、手を後ろに回して何やらがさがさ取り出した。そしてそれを俺に渡した。
「代金は要りませんから」
 受け取った蛍光灯の型は、俺の部屋で使っているモノと一致した。タダでくれると言われたので、お言葉に甘えることにした。
「本当にどうしちまったんだ。いつもの影村はどこへ行ったんだ」
 俺が訊くと、影村はまっちろい歯を見せて、へにゃっとニヤけた。違和感を覚えた。奴の笑みにいつものいやらしさが無い。
「さっき玄関先に置いてきてしまいましたよ。今頃は繁華街やらを駆け回ってるかも」
「何わけの分からんことをぬかしとるんだ」
「昨今はミステリアスでわけの分からん男子がモテるんですよ。柏台さんも少しは僕を見習ったらどうです」
「なんだと!」
「あんまりミステリアス過ぎて孤立しないようにね。まあ、それはさておき、柏台さんは冬休みの予定はどうなんですか」
 影村は試すような視線を送ってきた。俺は白滝を勢いよく啜ってから、胸を大きく張って拳を掲げた。
「これから埋める!」
 正直自力で予定を作ろうとは思っていないが、影村に手伝ってもらうことにしよう。
「まさかとは思いますが……。僕は冬休み中は予定だらけで、柏台さんに付き合っている暇はないですよ」
「なんとっ」
 影村に心を読まれ、俺は箸を落とした。彼はやれやれと言って肩をすくめた。
「ホントに暇人なんですね。心配した僕が馬鹿でしたわ」
「心配? お前が俺を心配したのか?」
 箸を拾いながらおもむろに尋ねると、影村は顔をやや強張らせた。
「いいえ……」彼は鍋に視線を落とした。「何でもないですよ」
 そうかい、と俺は相槌を打って、取り分けた具材を口の中にかき込んだ。それにしても、大変なことになった。冬休みに俺は真の暇人になってしまうらしい。
 腹が膨れてきたので、そろそろお暇することにした。影村の部屋に長居しすぎると、いつの間にか妖怪になってしまうという伝説が俺の心の中で伝承されているからだ。
「こんなこと考えてると、また街田さんに怒られてしまうかも……」と俺がぶつぶつ呟いて上着を羽織っていると、影村の纏う雰囲気が急に変わるのが分かった。「街田さん」という言葉を発した時、彼の身体が跳ねるのが見えた。
 影村はもじもじして、何かを言いかねている様子だった。
「なにをまごまごしているんだ? さっきから微妙におかしいが、お前は本当に影村なんだよな?」
 訝しげに俺が訊くと、影村は重たそうに口を開いた。
「あのう、柏台さんに相談があるのですが……」彼はせわしく手をさすっている。
 なんだ、と言いかけたところで俺はぎょっとした。影村が、人を小馬鹿にしたようないつもの顔をしていない。頬を鬼灯色に染め、濁りのない瞳を潤ませるその表情はまるで、そう、恋する男子のそれである! 俺には分かる。俺もしょっちゅうそんな顔をしていたから。
「いや、課題をやらねばいかんしなあー。今日は帰ることにするよ」
 俺は恋なんぞ成就した覚えも成就させた覚えもないし華やかに生きているシティボーイでもないので、もし色恋沙汰の相談なんて受けようものならストレス性の顎関節症になってしまう。俺は逃げようとした。
 ところが影村は俺の退路を断つようにして、戸の前に立ちはだかった。
「ただで蛍光灯を手に入れて、お鍋まで奢ってもらって、このまま帰るなんて虫が良すぎやしませんかあ?」
「カップ麺で十分釣り合いが取れてるだろう」
「残念ながら、額面上釣り合いは取れておらんのですよ」
 影村は得意気に紙切れを俺の前に掲げた。それは今までに影村が喰った俺のカップ麺の一覧と総額、そして俺が影村に貰った蛍光灯と鍋の食材の合計金額であった。わずかにカップ麺の総額が劣っていた。
「それでも、ほとんど変わらんではないか」
「それでも、相談費にはなるでしょう」
 にらみ合う影村の必死さに、俺は根負けした。そのまま座布団にへたり込んだ。どうやら俺は根競べに弱いらしい。あるいは優しいのかも、きっとそうに違いない。
「はー、じゃあ言ってみろよ。よもや恋話などではあるめえな?」
 俺は茶化すように言った。影村は相変わらず歯を見せて笑みをしていたが、覇気がない。俺の軽口は正鵠を射たようだ。
「生まれて初めてですよ、こんな感じは……」影村は遠い目をした。「つい先ほど、僕は恋をしてしまったのです」
「気持ち悪っ! お前そんな喋り方だったっけ? しかも初恋かよ!」
 ころころ表情を変えながら、俺は影村に応答とも取れぬ返事をする。
「この気持ちを誰かに打ち明けなければ、僕はどうにかなってしまいます。助けてくださいよお」
 影村がすり寄って来たので、たまらず俺は脚にしがみつくこいつを引き剥がす。前にもこんなやり取りをしたような……
「わかった、わかった……じゃあまず相手を聞こうか。サークルの人か、それともバイト先の人?」
 俺の知らないところで、影村は沢山の人間と関わっている。普通の男がそれだけ他人と接点を持っていたら、女性の一人や二人、好きになってもおかしくはない。しかし妖怪モドキの影村まで同じだとは思わなんだ。
 影村の口が開きかかった。果たして彼の思い人やいかに。聞いたことのない名前を出されたら、適当に聞き流して帰ろうか。
 しかしながら、彼の口から語られたのは俺がよく知る人であった。

「僕、街田さんを好きになってしまいました」

 転瞬、俺の思考は停止した。そして「街田さんって、あの街田さん?」と、どの街田さんなのかさっぱりわからない訊き方で影村に確認する。
「あの街田さんです、あなたと一緒に働いていた彼女です」
 俺は突如として脇腹をえぐられるような痛みを感じた。肉体的な痛みとは少し違う、不気味な痛みであった。俺は必死にそれを噛み砕こうとしたが、痛みはのらりくらりと全身を這いずり回り、影村に呼び掛けられて我に返るまでそれに俺は苦しみ続けた。
 まさに青天の霹靂であった。あの影村が、正反対の世界にいるような街田さんに思いをかけるとは。「もしかしたら」という念が全くなかったわけではない。影村の周囲にいる人間の中で、俺が知っている女性で思いつくのは、街田さん以外いなかったのだ。それでもやはり、意外も意外であった。
 いや、もしかしたら正反対の人間であるがゆえに、興味を抱いてしまうのかもしれない。磁石のN極とS極のように、互いに惹かれあうのかもしれぬ。
 ……いや違う、街田さんは影村を好いているわけではあるまいし。しかし、ふと、以前街田さんに影村のことを話した時のことを思い出す。俺が影村の悪口を言うと、彼女は決まって影村を庇い、俺を咎めていたのだ。ということは、影村と関わっていて街田さんは満更でもなかったのではないか。この時俺は人生で最も愚かな早とちりを犯したのだ。
「街田さんかあ」
 やがて俺も遠い目になった。今まで身近に感じていたものが、手の届かぬ所に行ってしまったような気がした。
「バイトを首になった日、次の仕事を探すことを考える前に、街田さんのことを思ったんです。もう彼女と一緒に仕事ができないと考えたとき、なんでか寂しくなったのです。それからはずっと街田さんのことを考えっぱなし。そこで僕思いました、これって恋じゃあありませんか」
 違いない、と俺は言った。まどろこしいが、間違いなく影村は恋をしている。それはもう「向上心のない奴は馬鹿だ」と言わんばかりである。
「クリスマス」影村は朗読するかのように語る。「街田さんを誘ってどこかに行きたい」
 影村の声は震えていた。街田さんに会いたくて震えているのではない。平生の自分らしからぬことを口走るとき、人の声は震えるのである。影村は遮二無二秘めたる思いを俺に晒しているのである。
 その上で俺はどうしたか。茶化したか。話を切ってうやむやにしたか。「お前には無理」と言ってのけたか。あるいは、逃げ出したか。
 否、俺は彼を応援することにした。
「お前が決めた場所なら、彼女はどこにでもついていくと思うぞ。俺に相談するまでもなかろうて」
 俺は得意気に言うと、影村は狼狽した。なんというか、普段の影村より可愛げがあるな。
「え、え、そんなわけないですよ。もっとホラ、蓄えてきた知恵を振り絞ってくださいよお」
「大丈夫だって。何せ、街田さんだからな」
 俺は笑ったつもりだが、本当は一体どんな顔をしていたのだろう。影村はきょとんとして俺を見つめていた。
 さらに俺は畳みかける。
「やるなら今のうちだぞ、影村。 "Now or never" だ」
 影村は何かを語ろうとしたが、彼の携帯電話が鳴ったため、会話はそこで一旦途切れた。「あちゃ、かつてのシフトリーダーからです」影村は通話ボタンを押した。
 影村は電話に出ると、相槌を数回打ってすぐに通話を切った。彼はやや気難しい顔をしていた。
「どうした」俺は訊ねた。
「シフトリーダーから呼び出しをくらってしまいました。なんでも、勤めていたときの僕の忘れ物があるらしいんですよ。そう言うわけですから柏台さん、鍋の余りは喰っていってください。処理が面倒くさいので。あとは合鍵がそこにあるので、それを使って施錠して帰ってください。それじゃ」
「ちょっと待て。合鍵、持って行っていいのか」
 いきなりに影村に任されて、俺はあわあわと手を振った。
「大丈夫です、後で回収します」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺は独りぼっちで鍋を食べることになった。
 最後の笑みまで爽やかであったので、俺がこの時話していたのは影村であるか甚だ疑問ではあるが、まあそうなんだろう。

 鍋の残りを平らげたあと、俺は影村の部屋の隅で丸くなっていた。その心はうつろ、思考はぼんやりとして、ただただバイトを首になってからの自分のありようを反芻していた。影村の部屋の蛍光灯は、やけに眩しかった。目がチカチカする。
 チカチカ……俺はアッとした。手に持っていたはずの蛍光灯が無い。辺りを探してもどこにもない。おかしな話だが、影村が間違えて持って行ったのだろうか。
 時計を見ると十時前であった。鍋を片付けようとすると、テーブルの片隅に袋入りのラーメンが置いてあった。影村が締めのために取っておいたものらしい。俺は無性にラーメンが恋しくなって、一袋だけ食べることにした。

「結局、ラーメンを食べることになるのかあ」
 いつかも言ったようなことを呟いて、俺は麺を啜った。俺はまた、夜にラーメンを食べていた。
 スープを一口飲むと、やや濃いめの味が膨らんだ腹にも程よくしみ込んだ。俺は鍋の締めに食べるラーメンのちょっぴり野菜の出汁が効いている味が大好きだったことを思い出した。やはり、いつ食べてもその味は覚えているものである。

 結局、汁一滴残さず俺は鍋の中身を食べ終えた。食べ終えて、影村と街田さんのことを考える。

 影村に打ち明けられた後、俺はおぞましいまでの孤独感に襲われたことを思い出した。
 考えたくもないが、俺は街田さんに嫉妬したのかもしれない。影村の所属するサークルや、彼のバイト先の人間ですら俺と影村を引き離すことができなかったというのに、今や街田さんは彼の心を虜にしている。さすれば、影村は街田さんとよろしくすることにかまけて、俺の前からいなくなるかもしれない。そんな不安があったのかもしれない。
 もしくは、影村と同じく俺も街田さんに惚れていて、影村に先手を打たれて途方に暮れたのかもしれない。バイトを首になった日、俺は街田さんとの接点が無くなったことを心の底から悔やんだ。加えて、一度だけ見た街田さんの微笑みが、脳裏に焼き付いて離れぬ。それを踏まえれば、そう考えられなくもない、かも。
 考えに考えて、両方の理由を含めて俺はさみしくなったのだと結論付けた。早合点かもしれぬが、それについてはこれ以上考えても気の毒である。
 次に、俺は影村を応援することにした。正確にいうと、俺は影村と街田さんの二人を応援することにした。俺は影村に思いとどめるようにすすめなかったし、彼より先に街田さんを手ごめにしようなどとは考えなかった。なぜなら、先に述べたさみしさが俺の心をとらえて離さないからだ。どちらかを重んじようとすれば、もう片方が俺の元から離れて行ってしまう、そんな気がした。あの短い時間では、一人に絞る判断を下すことはできなかった。街田さんと結ばれて、影村とも末永く付き合っていけるような大団円を思い描くこともできなかった。
 瞬間的に論理回路をはたらかせた結果として、俺は二人の恋路を応援するという打開策を生み出した。仲人という立場につくことによって、影村とは恋愛協議によって今まで通り仲良くやっていけるだろうし、「友の恋のため」という名目で街田さんに色々仕掛け、彼女とは再びお近づきになれることであろう。従って、二人とはそれなりにうまくやっていけるという俺らしいぬくぬくとした恩恵が得られるのである。
 だが、果たしてそんな短絡的にこれからの方針を決めてしまっていいのだろうか。街田さんに男がいたらどうするのか、影村が嘘をついている可能性だって否定できない。あれこれ思案しているうちに、時間だけが過ぎていった。影村はまだ帰ってこない。仕方なく合鍵を持って自分のアパートに帰ることにした。

 外に出ると、いくらか冷たさの増した風が頬を撫でた。腹は満たされるのに、心が渇く気がするのは、塩気の強いものを食べたからだろうか。

 アパートに帰る途中、影村に会った。彼の顔は平生を取り戻していた。先ほどの、恋する男子の顔はどこへやらといった容貌であった。暗い路地だったので、一瞬彼を妖怪と勘違いした。
「おや、柏台さん。今から帰りですか」影村はニヤニヤ笑う。「風俗店にでも行っていたとみた」
「ちがうわ、お前が全部食えというから、お前特製の鍋を平らげていたんじゃあないか。締めのラーメンは美味かった」
 俺が腹をさすりながら言うと、影村はくつくつ言いながら思案している様子であった。やがて白い歯をむき出しにしてしゃべり始めた。
「そういえば僕、あんたになんか話しましたよね。何を話しましたっけ。さっき変な所を打って、忘れてしまったんですよ」
 影村はいたって真面目な様子であったが、俺は憤慨した。あれほどの体たらくを晒しておきながら忘れるなんてあまりにも阿呆すぎる。それこそ、本当に打ち所が悪かったに違いない。
 俺はそんな彼を諭すように、先ほど影村が俺に打ち明かした話の一部始終を述べた。俺が話し終えると、彼はハチ切れんばかりに顔面の筋肉を引き締めて、いひひっと笑った。
「ああ、そうだった。そんなこと言ってましたねえ。でも柏台さん、あんたも街田さんに惚れているんでしょう? このままでいいんですかい」
「惚れてなどいない!」俺は断固として否定した。「俺はお前と街田さんを応援するぞ」
 俺がそう言ったとき、影村の笑みに陰りが生じた。彼は怒っていた。眼をカッと見開いて、俺を睨み付けてきた。
「はあ? 腰抜けですかあんたは。そんなんだからいつまでも僕ぐらいしか友達がいないんだ」
「なんだと」俺も思わずけんか腰になる。「俺はただ、お前の恋の成就を願っているのに」
「そんな協力、こっちから願い下げですわ。僕は分かってるんですよ。あんたは街田さんがバイトに入ってきた辺りから仕事の効率が悪くなった。それは、あんたが街田さんをいつも見ていたからだ。よそ見をすれば注意散漫になって失敗が増える。あんたは間違いなく、彼女に惚れていたんですよ」
「そんな馬鹿な! 確かに街田さんは通りを歩けば誰もが振り返る、うら若き黒髪の乙女であることに違いはないが、俺は惚れてなど、いない」
「ちょっとは闘争心を見せたらどうですか」
 影村は冷たく言い放った。
「だから、惚れてなんか……」
 次第に、夜の路地で惚れてる惚れてないなどと言い合っているのが恥ずかしくなってきた。語尾が思わず小さくなる。
「だったらここで誓ってください。街田さんには決してそういう関係を求めないと」
 俺は迷わず宣言してやろうとした。しかし喉元まで達している言葉が、なかなか外に出てこない。
「やっぱりね」影村は再び笑った。意地の悪い笑みだ。
「柏台さん、もういっぺん考え直しなすってください。あんたはこんなことになっている場合ではありませんよ。どうにかして、街田さんとくっつくんだ。僕なんかに負けてはいけない。あなたはアイツに勝たなくてはいけない」
 影村は意味不明な言葉を次々と紡いでいく。そうして、彼は持っていたレジ袋を俺に手渡した。中身を見ると、先ほど俺が貰った蛍光灯が入っていた。それともう一つ、紙切れが一枚入れられていた。
 紙には「Now or never」と書かれていた。何を今すぐに始めろというのだ。とはいえ、蛍光灯が戻って来たのはありがたい。
「さあ柏台さん。ここで無駄話なんかしていないで、部屋の蛍光灯を取り換えないと。切れかけているんでしょ」
 そう言った影村の口調は嘲るようであったが、どこか奇妙な優しさを感じた。
 口論の途中であったはずだが、彼にぐいぐいと背中を押されて俺はいつの間にか住んでいるアパートの目の前にたどり着いていた。
「大丈夫です、きっとうまくいきます」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺は独りぼっちで自分の部屋に帰った。
 部屋に入るなり、俺は切れかけていた蛍光灯をすぐに取り換えた。今までチカチカしていた視界が一転、くっきりと見えるようになった。

 すると、蛍光灯の明かりが一瞬だけ強く光った気がした。途端に視界がむにゃむにゃとしてきて、まぶたが重くなるのを感じた。腹が満たされて眠くなったのかもしれない。それにしても眠い、今すぐ寝てしまいたい。ああ、どうせもう冬休みなのだ、このまま眠ってしまっても問題あるまい。真っ白な蛍光灯の明かりが、俺の身体を飲み込んでいく。光に包まれ、俺の意識がその奔流に飲み込まれる。

 *

 以下で述べるのは、俺が目を覚ましてから蛍光灯を交換するに至るまでの一部始終である。

 目を覚ました時には、部屋は真っ暗で何も見えなくなっていた。慌てて蛍光灯を点けると、壁にかかった時計が午後八時前を示しているのが分かった。俺は時間を無駄にすることが嫌いであったが、今日から冬休みであったのでさほど気に留めなかった。
 カップ麺でも食べようかと思いキッチンに向かおうとしたが、やたらと視界がチラチラするのを感じて足を止めた。天井を見上げると、蛍光灯が明滅を繰り返している。そこで俺は思い出した。蛍光灯を買わなければ。

「いいやもう、面倒くさい」
 俺は早くも諦めた。別に冬休み初日に蛍光灯を取り換える必要はない。それに、なんだか嫌な予感もする。蛍光灯を買いに行って、嫌な思いをする気がする。
 炬燵布団に入って、みかんを一つ取り出して無心で皮を剥く。外皮を剥いて、可食部にくっ付いている白い奴も取る。夢中で取る。蛍光灯の白い照明の下では、この白い奴が見つけづらい。切れかけた明かりなら尚更だ。
 俺はみかんの皮を機械的に剥き続けながら、蛍光灯に想いを馳せる。
 俺はこれまでの人生を蛍光灯とともに歩んできたと言っても過言ではない。実家の照明は全部蛍光灯であったから、家にいる間は常に蛍光灯に見下ろされながら俺は家族と生活を送っていた。学校や塾にいる時だって、教室の照明は蛍光灯であった。
 蛍光灯は、俺が健やかなるときも、病めるときも、喜ぶときも、悲しんでいるときも、富めるときも、貧しいときも、俺を愛したり、敬ったり、慰めたり、助けたりすることは無かった。蛍光灯はその命ある限り、電子放出性物質を尽くして空間を照らすのみであった。まさに蛍光灯はわが人生における傍観者の一つであり、俺が人生で大きなターニングポイントにぶち当たった時には、必ず蛍光灯が天井から俺を見守っていたことであろう。俺が初めて自分の足で立ったとき、言葉を発したとき、掛け算九九を覚えたとき、いじめられて小学校を転校する羽目になった時、中学生時代に女の子を家に招いたとき、生まれて初めて手に入れた猥褻図書を必死に隠しているとき、ボヤキながら受験勉強をしているとき、親に手を上げそうになって姉に思い切り殴り飛ばされたとき、大好きだった祖父が寝床でぽっくり亡くなったとき、下宿を決めて母親がなぜか泣いていたとき……。数々の記憶の中では、決まって蛍光灯が天井にぶら下がっていたのである。
 今こうして切れかけている蛍光灯を眺めて、そう言えば俺は今まで蛍光灯を一度も変えたことがないなあと思った。家の蛍光灯はどれもがいつの間にか交換されていて、一度も切れたのを見たことがない。もしかしたら、蛍光灯が切れる現場に立ち会うと不幸な目に合うのかもしれない。今まで蛍光灯が切れる前に交換してくれていた家族に感謝しよう。
 蛍光灯は神様でもある。夜眠れないとき、俺は蛍光灯にテレパシーを送ろうと試みることが何回もあった。もちろん返事は来ない。自分の脳内ででっち上げたメッセージを、さも向こうから受け取ったものだと確信したように振る舞って、夜中布団から抜け出して歓天喜地する様子は一種の宗教のようにも思われただろう。天使を見よ、頭のわっかはきっと蛍光灯である。蛍光灯は天使も見守るのである。つまり神である。
 そうこうしているうちにみかんの白い奴が全部剥き終わってしまった。蛍光灯は先ほどからチカチカしている。見ているうちに、可哀想になってきた。これは早く交換してやらねばならぬ。面倒くさいなどとほざいている場合ではない。神である蛍光灯をないがしろにしては、祟りが起こる。
 少し億劫だが、電気屋に向かうことにした。時刻は間もなく午後八時半というところであった。蛍光灯はそれはもうすごい勢いで明滅を繰り返している。俺を急かしているのであろうか。
 その時、俺の携帯電話が鳴った。通知を見ると、俺が首になったバイト先の番号が映っていた。
「もしもし」気だるそうな声で応答する。「何ですか。先日首になったのですから、もう用はないはずですが」
「もしもし、柏台君かね。君の私物らしきものが残っているから、早く取りに来てくれ」
 電話の向こう側で話す男は俺が全く知らない人間であった。俺が「そのうち取りに行く」と伝えると、さっさと電話を切られてしまった。忙しいのだろうか。
「別に荷物は今度でよかろう、問題は蛍光灯だ。待ってろよ、すぐに取り換えてやるからな」
 俺がひとりごちると、蛍光灯は言葉に呼応するかのように何やら規則的な明滅を行い始めた。
「もしや、これは蛍光灯からのメッセージではないか。だとすれば、世界初の蛍光灯とコミュニケーションをとれる人間は俺ということになるな」
 俺は勝手に喜んだ。そうして「待っておれ、今から換えの蛍光灯を買ってくるからな」と言ってやった。すると蛍光灯の明滅が激しくなった。
「これはもしかすると、モールス信号か!」
 俺は勝手に納得した。しかし俺はモールス信号の教養がなかったので、蛍光灯からのメッセージは雰囲気で解釈することにした。
「つーつーとんとん、つーとんとん……先にバイト先を訪ねよ、つーとんつーとん……さすれば道開かれん。だがしかし蛍光灯よ、おまえも早く新しい自分になりたくはないのか?」
 クワっと蛍光灯の明かりが強くなった。まるで俺に喝を入れているかのようである。
「つつーとん……お前が先に変わらないでどうする、つーとんつーつーつー……時間がないから急げ。……蛍光灯よ、これはお前からのメッセージなのか?」
 それ以降、蛍光灯は不規則な明滅を繰り返すのみであった。俺は換えの蛍光灯を買いに行くのを止めて、以前のバイト先に向かうことにした。決して、蛍光灯からのメッセージに影響されたのではない。単純に、俺の気分が変わっただけである。

 しっかりと施錠して、俺は駆け足でバイト先へと急いだ。早く用が済めば、換えの蛍光灯を買って帰れるかもしれないからだ。
 街を流れる川にそって土手の上を歩いていると、前方から見知った顔が現れた。影村だ。
「どうしたんです、こんなところで。もうすぐ九時ですよ」影村の表情は、逆光の月明かりに隠れて窺うことができない。おそらく、ニヤけているはずである。
「例の書店に行くんだよ。荷物があるから取りに来いだと」
 俺がそっけなく言って立ち去ろうとすると、影村は直立したまま、そこに立ち尽くしていた。このままでは俺が前に進めない。「どいて」と俺が言っても、彼は動かない。
「誰の入れ知恵です?」影村は首を傾げた。「蛍光灯を換えるのが先でしょう?」
「その蛍光灯からのお達しだ。先にそっちに行くと良いらしいんだと」
 俺は得意気に言って、蛍光灯とコミュニケーションする能力があるというどうでもいい自慢をした。俺はてっきり馬鹿にされると思っていたから、次の瞬間影村が放った言葉に戦慄した。
「蛍光灯ですって? まさかあいつ、そんなことができるとは!」
 影村は地団駄踏んだ。心底悔しそうであった。俺は不思議そうにその様子を見守っていた。すると影村は突然俺に詰め寄ってきた。
「とりあえず、蛍光灯を換えましょう。柏台さんにそんなことを吹き込む蛍光灯なんて、持っていても損するだけですよ。さあさあ、換えましょう。僕の家に蛍光灯がありますから。さあ、今すぐ」
 その時の影村の気迫と言ったら、野獣も獲物を置いて逃げ出すほどの闘志満満ぶりであった。俺はその迫力に気圧され、影村とともにもと来た道を引き返そうとした。その時に彼の表情を少しだけ確認できた。まるで、純真無垢な少年のような表情をしていたような……あり得ないか。
 俺が踵を返そうとしたその転瞬であった。紫電一閃、茂みから男の影が現れた。その影は、影村を捕まえると彼ともみくちゃになりながら、土手へ転がって行った。
「影村、大丈夫か!」
 俺が土手を駆け下りると、そこにいたのは影村一人であった。ほかに人影一つも見当たらない。
「どうしました?」
 月明かりに照らされた彼の顔には、いつもの気味の悪い笑みが張り付いていた。俺はそれを見て、なぜかホッとした。
「お前、今誰かに襲われなかったか?」
 俺が問うと、彼はかぶりを振った。
「いいえ、全然」「ここから出せ!」影村の方から二人分の声がしたような気がした。
「それで蛍光灯がどうしましたって?」
「いや、蛍光灯からの啓示が……」言って、なんだか気恥ずかしくなってきた。「いや。今度、蛍光灯を換えないとなって思ってさ」
「それはいけない! 今日中に換えてください」
「いや、だからお前が家にあるやつをくれるからって言って、今から引き返そうとしているじゃあないか」
 俺はむっとした。さっきから影村の会話がかみ合っていない。ううん、前にもこんなことあったような……。
「それもいけません」影村はきっぱりと言った。「あなたが蛍光灯から受けた御命を守って、その上でその蛍光灯を今日中に交換するんです。思い出したんですけど、僕の家に予備の蛍光灯はありません」
「そんなもの無理だろ。お前とあーだこーだ出しているうちに、もう午後九時過ぎだ。バイト先で用事を済ませてから電気屋に寄っている時間はないだろう」
 俺は首を横に振った。あわあわと手を振った。
「大丈夫です、きっとうまくいきます」「ちくしょう、ここから出せ!」
 影村はにんまり笑っているが、やっぱり彼の方から二人分の声がした。
「さっきから、誰かそこにいるのか?」
 俺が訝しむと、影村はさらにいっそう口の端を吊り上げ、ケラケラと笑った。
「あんまり細かいことを気にすると、好機を逃しますよ。ささ、早く行ってください。そろそろ僕もお腹が空きました。今日の晩御飯は鍋料理です」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺はまた独りぼっちでバイト先に行くことになった。

 俺が裏口のインターホンを鳴らすと、先ほど電話で聴いた声の主が応対してくれた。そのおかげで俺はすんなりと従業員スペースに入り込むことができた。
 中に入ると、つい先日入ったばかりだというのになんだかとても懐かしい気分になった。空気、匂い全てが感慨深く感ぜられる。
「君が柏台君か」男は仁王立ちして待っていた。「少ないけれど、荷物が残っているんだ。持って帰ってくれよ」
 俺は頷いたが、どこに荷物があるのか皆目見当が付かないことを伝えた。すると男が通りかかった一人の従業員を呼び止めた。呼ばれた従業員は歩調を緩めてこちらに向かってきた。やたら整った姿勢であったので、不意に緊張感を覚える。
――街田さんだ。
 彼女の姿を見たとき、俺はまるで長年追い求め続けた宝を探し当てたときの冒険家のような気持ちになった。心が躍り、全身の血液が活発に流動するのを感じる。俺はこの時ようやく実感した。
――俺は街田さんに惚れていたのだ。
 俺は彼女の、謹直でいて堂々とした性格が好きであった。何でも卒なくこなす要領のよさが好きであった。楚々とした立ち居振る舞いが好きであった。一度見せてくれた花のにほふような微笑みが好きであった。不機嫌そうな険のある表情も好きであった。ふんわり揺れる短めの黒髪が好きであった。微妙にちょこちょこした背の高さが好きであった。清流のせせらぎのような声が好きであった。艶があって蛍光灯のように白い肌が好きであった。初めて会った時から、彼女を愛おしく感じていた。
「おや、柏台さん。また会いましたねえ」街田さんはニヤッとして、すぐに真顔に戻ってそれから男の方へ向き直った。「どうしたんですか、リーダー」
 リーダー、シフトリーダーか! 影村に蛍光灯の交換をするように言い渡し、俺と彼が首になる原因を生み出すきっかけを創造した張本人。ここであったが一日目、成敗してくれらあと思ったが、そばに街田さんがいるので思いとどまった。
「柏台さんの荷物があると思うんだが、取ってきてくれないか。彼、一応部外者だからね」
 裏口から入れた時点で部外者もへちまもないと思うが「細かいことを気にすると、好機を逃しますよ」という影村の言葉が脳裏をかすめ、俺を拘束した。
「分かりました。ちょっと取ってきます」
 言い終わらぬうちに街田さんは駆け出した。その後で、リーダーがハッとして頭を抱えた。
「しまった、別の人間に取りに行ってもらえば良かったー」
「どうしたんですか」
 俺は訊ねた。
「いやね、店長ともう一人のスタッフが買い出しに出かけて以来、帰ってこないんだ。困ったもんだよ。こっちは大忙しだっていうのに」
「大変ですね、ハハハ……」
 リーダーのボヤキに、俺は力なく笑うしかなかった。本当にお疲れ様です。今頃店長たちは睦言を交わしていることでしょう、とは言わなかった。どうせ近くの家電量販店で、白物家電でも見ながらイチャイチャしているんだろう。
「街田さんに探しに行ってもらえれば、すぐに見つけ出してくれるんだろうけどなー。まあいいや、おうい、そこのキミ。買い出しに行った場所まで店長たちを探しに行ってくれ。時間分の給料は出すから。急ぎで頼むよ」
 リーダーは若い男性従業員を呼び止めると、店長たちの捜索に向かわせた。可哀想に、この寒い中、冬休みになって無駄にウキウキしている阿呆学生たちの喧噪をかいくぐって、店長たちの情事を目撃してしまうのであろう……何だか無駄に想像力が働く。まるで俺が経験したことがあるみたいになってしまったではないか。
「そういえば、影村はどうした? さっきから電話をかけているんだが、全然つながらないんだ」
 しょっちゅうスマートホンと睨めっこしている影村には珍しいことだと俺は思った。ということは、彼は今よほど大事なことに取り組んでいるのだろう。例えば店長たちの追跡とか、鍋をがつがつ食べているとか。
 しばらくするとリーダーは仕事に戻ってしまった。誰もいない休憩室に、俺は一人取り残された。こんなんで、防犯とか大丈夫なんだろうか。

 やることもなくカレンダーをぺらぺらしていると、街田さんが戻ってきた。
「これです」
 街田さんは俺にレジ袋を手渡した。礼を言って受け取って、中身を見ると、蛍光灯が入っていた。しかもそれも俺の部屋で使っているものと全く同じ型の蛍光灯であった。いつの間に俺がそんなものを持ち込んだのかは分からないが、タダで蛍光灯が手に入ったのはありがたい。それともう一つ、紙切れが一枚入れられていた。
 紙には「Now or never」と書かれていた。
 直後、俺はハッとして街田さんの方を見た。顔をあげると、彼女と目が合った。いつもは気恥ずかしくてすぐに視線を逸らしてしまう俺であるが、この時は固まったかのように顔が動かなかった。俺と街田さんは数秒見つめ合った。やがて、街田さんが先に顔をそむけた。街田さんは視線を紙切れに向けると、半ば強引に俺の手からそれを取って「なう、おあ、ねばー」と読み上げた。
「今やれ、さもなくば二度とできない……見慣れない英語ですね」
 ついでに直訳チックに翻訳してくれた。俺は笑った。手には換えの蛍光灯を力いっぱい握りしめていた。
「好機逃すべからず……ことわざみたいなもんさ。ああ、そうか。つまりそういうことでいいんだな、影村」
 俺が発した言葉は、半分が街田さんへの解説で、残りは独り言であった。頭上に疑問符を浮かべている街田さんに俺は続けた。
「街田さん、夕飯は済ませましたか」
「まだです」
「そうしたら、バイト終わりに一緒に食べて帰りませんか。立ち読みして待っているので」
「それはいいですね」
 仕事の話をするかの会話ぶりであるが、これが俺の限界だった。絞り出そうとしても、うまく言うことができない。誰かが俺の恋路を邪魔しようとする、最後の妨害工作のようにも思えた。しかし俺は屈しなかった。
 なぜならば、「なう、おあ、ねばー」だからだ!

「結局、いつものココで、ラーメンを食べることになるのかあ」
 いつかも言ったようなことを呟いて、俺は丼を手に取った。俺はまた、いつもの拉麺屋にたどり着いていた。
 なぜ女性を連れてラーメン屋で食事しているのか。どこにしようか迷っていると、街田さんが「柏台さんの行きつけの店に行きたい」と言い出したからだ。
 スープを一口飲むと、やや濃いめの味がすきっ腹に程よくしみ込んだ。俺はここのラーメンのちょっぴり優しさのこもっている味が大好きだった。辛いとき、悲しいとき、苛々するとき……様々な負の感情を抱えるときでも、ここのラーメンを口にした途端にそれらは全て取るに足らぬ他愛もないことだと思えてくる。いつ食べてもその味は俺を裏切らぬ。
 黙々としょうゆラーメンをエレガントに啜る街田さんをしげしげと眺めて、拉麺屋の店主はため息をついた。
「お前にも女がいたんだなあ。よかったなあ」
 目に涙を浮かべて店主は言った。さながら、我が子を見守る母親のようである。
「私、いつから柏台さんのモノになったんでしょう」
 不機嫌そうに街田さんは言った。店主は「そうなの? てっきり……ゴメンネ」とかるーく謝った。
 俺がチャーシューをはふはふ頬張ってそのやり取りを見ていると、街田さんが突然こんなことを言った。
「私は柏台さんとまだそのような関係に進展しておりません」
「まだ……って、どういうことですかいそれえ」俺は自分の耳を疑った。
「大きな意味はありませんが」
 そう言った街田さんは、やたら楽しそうであった。

 俺と街田さんがひと時の贅沢を堪能していると、店主が突然あっと声を上げた。
「あれ、あいつだろ、おまえとよく来る……」
 店主は外を見つめたまま皿を洗う手を止めている。つられて、俺も近くの窓から外を見た。
 直後、俺は素っ頓狂な声を上げた。
 窓から見えたのは、並んで道を歩く影村と女性の姿であった。
 店の中から影村の表情を確認できた。彼は俺がいつも見ている不気味な笑顔を浮かべていた。汚い笑顔であった。まるで陰陰滅滅な妖怪のそれだった。俺はそいつが影村であると、たちまちに信じた。
「あいつ女がいたんだなあ。お前、先を越されちまったなあ」
 遠い目をして店主は言った。さながら、我が子を見守る父親のようである。
「あれは、古藤田さんですね」街田さんが言った。「数学科の人です」
 影村が道を通り過ぎる間に、少しだけだが影村の隣を歩く古藤田さんという女性の容貌を知ることができた。古藤田さんは深窓の令嬢みたいな人だった。背中ほどまで伸ばした黒髪をさっとなびかせ、何だかヒラヒラふわふわした白い服の上にワインレッドのカーディガンを羽織って悠然と歩いていた。影村の話が面白いのか、口元を軽く押さえてやんわりと微笑んでいた。
「お嬢様だ、お嬢様が出た」
 影村たちが見えなくなった後、俺は興奮気味に街田さんに言った。
「古藤田さんは大変綺麗で上品なお方です。大学でもかなり目立っています。まさか影村くんとそういうことになっているとは」
 街田さんは腕を組んで、感慨深そうにしていた。
 影村が女を連れていることにも驚いたが、彼が連れていた女性に対して、俺は心底びっくりした。
 話を聞くに、古藤田さんは影村と真逆の人格を持ったような人である。まさに青天の霹靂であった。あの影村が、正反対の世界にいるような女性に思いをかけるとは。意外も意外であった。
 いや、もしかしたら正反対の人間であるがゆえに、興味を抱いてしまうのかもしれない。磁石のN極とS極のように、互いに惹かれあうのかもしれぬ。
 俺は密かに影村を応援した。がんばれ影村、今こそ比翼連理の理想形を示す時だ。そして俺はラーメンのスープを飲み干して、隣りに座る街田さんを軽く驚かせた。
「ああ、美味かった。いつも俺を癒してくれるラーメンだけど、気分がいい日に食べるとまた格別だな」
 俺はほくほく顔であった。店主は「そりゃあ、当ったり前よお」と言って笑った。
「私、柏台さんがここの味を好む理由がなんとなく分かりました」
 街田さんも笑っていた。俺は久しぶりに幸せな気分であった。

 スープ一滴すら残さず、俺はラーメンを完食した。代金を払って外に出ると、いくらか冷たさの増した風が頬を撫でた。それでも身体はぽかぽかとして、とても暖かかった。

 帰り道、俺は街田さんと並んで住宅地をのんびり歩いていた。空気はいっそう冷たく、辺りはしんしんとしていた。
「今日からもう冬休みですね」街田さんが口を開いた。「柏台さんは、何か予定はありますか」
 俺はちょっと考えたけれども、脳内スケジュールには「実家に帰省、以上」としか書き込まれていなかった。このままでは、真の暇人になってしまうかもしれない。
「冬休みは、正月に実家に帰るくらいですねえ。ホント、冴えない大学生活を送っとります」
 だからこそ、俺は一歩踏み出さなければならぬ。自分を変えなければならぬ。街田さんとかろうじて結びついている一縷の糸を手繰り寄せなければならぬ。しかし俺はどうするべきか考えあぐねていた。
 俺はレジ袋に入った蛍光灯の箱を取り出してみた。せっかく蛍光灯が背中を押してここまで導いてくれたというのに、俺の体たらくの何と不甲斐ないことよ。
「じゃあ、お暇なんですね」
 街田さんの言葉は、程よく俺の心に突き刺さった。これで俺は、彼女から「暇人」のレッテルを張られてしまった。俺はうなだれた。かすかな希望が雲散霧消して行ってしまうかのように思われた。手に持った蛍光灯の箱を強く握りしめた。
 だがその時、くすぶっている俺に救いの手が差し伸べられた。俺に助け船を出したのは神でもなく、影村でもなく、蛍光灯でもなかった。俺と街田さんをつなぐ糸を引き寄せたのは、街田さんその人であった。
「でしたら、柏台さんにお願いがあるのです」
 街田さんは俺が手に持っている蛍光灯の箱を見つめた。
「何でも言ってください。何しろ暇人ですから」
 俺は藁にも縋る思いであった。こんなところを影村に見られたら「最高に格好悪いですねえ、柏台さん。のび太くんでももう少し甲斐性を見せてくれますよ」と言われて、笑われてしまうに違いない。
 街田さんは何か言いかねる様子であったが、やがてぽつりぽつりと言の葉を紡いでいった。
「その蛍光灯を見て思い出したのですが、私の家の蛍光灯も切れかけているのです。早く交換したいのですが、なにぶん電機について疎いので、型とか値段とかがよく分からないのです。で、ですからあの、そのう」
 街田さんがしどろもどろになっているという、普段では決してお目にかかれない光景に、俺は思わず破顔した。そして、彼女が言わんとすることを察した。つとめて早く答えた。
「それなら、俺が選んであげましょうか。こう見えても、蛍光灯については結構詳しいんですよ。コミュニケーションも取れます」
 俺は胸を張って拳を当てた。それを見た街田さんは吹き出した。
「なんじゃそりゃ……でも、それはいいことです。是非お願いします」
 街田さんはぺこりと一礼した。あまりに礼儀がいいから、つられて俺もお辞儀をしてしまった。
 そして俺は、いつか黒髪の乙女に言おうと思って、かねてから腹の中であっためていた言葉を口にするのである。
「そうしたら、その後に茶でも飲んでゆっくりしませんか」

 翌日に会合する約束をして、三叉路で俺は街田さんと別れた。彼女の蛍光灯は駅の近くの電器屋で買うことにした。書店の近くの家電量販店も選択肢にあったが、何だかとっても嫌なものを見てしまう気がしたので避けた。今日はやたらと思い付きな行動が多かったが、結果オーライなので良しとしよう。
 アパートにたどり着く直前で、影村に会った。
「調子はどうです? 蛍光灯換えられそうですか?」
 彼は素っ気なしに訊いてきた。返事代わりに俺は手に持っていた蛍光灯をこれ見よがしに掲げた。
「おお、自分で手に入れたのですね。それは良かった、良かった」
 影村は満足げにうっしっしっと笑い、彼の下宿に戻ろうとした。
「影村」俺はちょっと彼を呼び止めた。「さっきはありがとな。お前があの時言ってくれたおかげで、コイツをゲットできたぜ」
 歩きながら、影村は首だけこちらに向けて短く言った。
「でっかいオマケも付いてきたでしょう」
 月明かりに照らされた彼は、いたって不気味な顔をしていた。これが平生の影村である。もし影村が純真無垢な顔をしていたり、質実剛健な態度であったならば、それはきっと偽物である。影村の姿をした別の何かである。奴のドッペルゲンガーである。そんなものに出くわしてしまったら、俺はきっと不幸になる。

 アパートに帰った俺は、真っ先に蛍光灯を交換しようとした。とりあえず部屋の明かりが無いとどうしようもないので、既存の蛍光灯を点灯させる。しかしスイッチを入れても、部屋は暗いままであった。どうやら切れてしまったようだが、それにしても消耗が早い気がする。先日までは明滅がちょっと気になるくらいであったというのに。
 やむを得ず、キッチンの小さい明りを点けて蛍光灯の交換に取り掛かる。古い奴を取り外したとき、まだ温もりが残っているのを感じた。蛍光灯はとっくに切れていたはずである。しかし、いささか、あたたかい。
 ふと、俺は今日の夜までにあったことを思い返した。そして、俺が首になってから三叉路で街田さんと別れるまでのすべての場面に蛍光灯が関わっていたことを思い出した。そこで俺は考えた。これだけ蛍光灯と関わっているのだから、今までと同じように、ここ数日の出来事はきっと俺の人生でのターニングポイントになるに決まっている、と。
 役目を終えた蛍光灯に最大限の感謝を述べて、それをゴミ袋に葬った。そして新しいものを取り付け、いよいよスイッチを入れる。
 点された明かりは、今までのものより相当明るくなった。部屋の隅々まで照らされて、俺の部屋の汚さがよりいっそう際立ってしまった。
「蛍光灯よ、さっきお前は俺に言ったな。蛍光灯を換える前に、まず自分自身を変えろと。今しがた俺は変わったぞ! 手始めに部屋を片付けるぞー」
 片づけはものの三分で諦めてしまった。悲しいことだが、人間そうやすやすと変われないのである。しかしゆっくりでいい、これから変わっていけばいいのだ。
「そして最後には、街田さんへの想いを成就させるからな!」
 俺は蛍光灯に向かって誓った。


 以上が俺がその日目覚めて蛍光灯を換えるまでの全容である。
 その後、俺と街田さんの関係がどのような進展を見せたか述べるのは、この独白の趣旨から逸脱してしまうため自粛させていただく。俺の敬愛する人がよく言っていた言葉を拝借して言うなら、「成就した恋ほど語るに値しないものはない」のである。

 俺は蛍光灯に見守られながら、また一つ人生の分岐点をやり過ごした。
 この独白を読んでいる読者諸君の中にも、今にも切れそうな蛍光灯が身近にある方がいらっしゃるかもしれない。そんな時は少し考えていただきたい。もしかしたらあなたは、今まさに人生のターニングポイントに差し掛かっているのかもしれないと。

○○○

 こうして、下界の者たちの物語はここで幕を下ろす。

○○○○○○

 所変わって、ここは天上界。
 下界に存在する万物各々を司る神々がおわしまする世界である。

「大団円を迎えたようだな」眼下遥かに下界を見下ろして、蛍光灯の神は言った。「これで私の勝ちだね」
 蛍光灯の神の隣で地団駄を踏んでいる神がいた。鏡の神だ。
「まさかお前ごときに負けるとは」鏡の神は頭を抱えた。「油断したかな」

 つい先ほど、柏台という男と街田という女の縁が結ばれたという報告が飛び込んできた。結局、蛍光灯の神が勝ち、鏡の神は敗北したのである。

「まさか、影村が俺の作った分身に勘付き、あろうことか歯向かってくるとは!」鏡の神は地に拳を打ち付けた。「自分の分身に平気で対応しているあたり、奴は魑魅魍魎の類に違いない。使う人間を間違えた」
「相手が悪かったな」蛍光灯の神はうなだれる鏡の神に向けて言った。「お前は人間を甘く見た。あいつらは一度認めた他人対して、ものすごく情が厚いんだよ。仲間や親友のためならば、どんなことでもやってのけてしまうことがあるのさ」
「しかしお前、蛍光灯になりきったまま柏台に助言を与えたそうじゃあないか。一体どうやったんだ?」
 鏡の神が尋ねると、蛍光灯の神は呵呵大笑した。
「私は何も言っとらんぞ。柏台の気まぐれだ。結局は自分でどうにかせにゃあいかんのさ」


 ただ蛍光灯になりきっているだけで男女の縁を結んだ蛍光灯の神は、天上界でも指折りの有名な神に成り上がった。

○○○

 光向こうの蛍光灯の神は言う。
「柏台の人生もそうであったが、諸君も蛍光灯に見守られた人生を歩まれていることであろう。彼らはその命絶えかけている時、チカチカしていささか目障りである。しかし心のうちでは諸君に遺言を残そうと必死にしているかもしれない。チカチカしている奴を見かけたときには是非とも、諸君の鋭敏な感性で奴らのメッセージを受け取っていただきたい。そうすれば、使い捨てられゆく彼らもちょっとは報われるはずである。柏台のような阿呆学生は気が付くのにだいぶかかったが、聡明な諸君ならもっと早く分かるだろう。

 蛍光灯とともに生きる諸君らの人生に、新品の蛍光灯に負けないくらい明るい光が満ちたらんと願う。
 そして、その光が切れかけたときにはちょいと自分を変えてみようではないか。
 蛍光灯と同じように、いつまでも同じ自分じゃあ、明るい光はたもてないのだから」

スポンサーサイト

第二十七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


| TOP |

comment











管理人のみ閲覧OK


trackback

trackback_url
http://pilloryofprize.blog57.fc2.com/tb.php/261-7caca946

| TOP |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。