さらし文学賞
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眠り島

眠り島


            ◆

 角の取れた消しゴムはよろよろと君の元へと転がる。慌てて追いかける僕。だけど追いついた時にはすでに遅くて、君は教室の後ろで談笑する女子の輪から外れ、かがんで足元のそれに手を伸ばしていた。
 僕は恐る恐る君の前に立つ。同時に君と談笑していた女子たちの、ごみを見るような視線が僕を刺した。君はといえば、特に嫌な顔をするでもなく、前かがみのまま顔だけ僕の方に向けて、拾った消しゴムを差し出した。
「はいどうぞ」
 その時の君の顔が僕は忘れられない。それはこれまで軽蔑や嘲笑ばかり向けられてきた僕にとって、生まれて初めて他人から向けられた、純粋な笑顔だった。
「あ、あ、ありがとう」
驚いた僕はぼそぼそとお礼を言って君の手から消しゴムを奪い取り、自分の席へと逃げた。

 チャイムが鳴った。数学担当のハゲデブ教師が卑しい笑顔で唾を飛ばしているのを横目に僕は、真剣に授業を聞く君と、初めて感じた不思議な動悸に夢中になっていた。




 暗い気持ちというものは忘れたい記憶までぶり返させる効果があるのだろうか。故郷行きのフェリーの上で、僕はふとそんなことを考えた。
昨晩また、中学時代の夢を見た。

 親や妹からの冷たい視線から逃れるように都会のマンモス大学に進学して四年。二度の留年を経て、この夏中退を決意した僕は今日、四年振りに実家がある離島に帰る。
そして僕を暗い気持ちにさせる原因は、実家に帰らなければならないこととは別にもう一つ。
「ユウくん、アイにゃんのこと好き?」
「はあ? 好きじゃねぇから――愛してる」
「あーん、アイにゃんも愛してるぅ!」
 それは先程から僕の後ろで繰り広げられている、いかにも馬鹿らしい、若者カップルの会話だった。
 僕はああいう人間が大嫌いだ。自己中心的で、低能で、いつも色恋沙汰に関する事ばかり考えている、社会にとって迷惑極まりない存在。奴らは大抵お互いを利用し合うために群れて行動し、猿山ごっこに興じられないまっとうな人間から次々と排除していく。
不運なことに、僕の周りの人間は昔からそんな奴らばかりだった。

 男の手が女の腰に回されると、女から嬌声が漏れ始めた。
(この、猿どもめ!)
 僕は侮蔑を込めた目でカップルを睨む。だけど、男の手が女の腿へと伸び、短めのスカートの裾が捲れ女の下着が露わになった刹那――僕は興奮していた。
 この時僕が感じたのは断じて歓びなどではない、猛烈な悔しさだけだった。気にしたら負けだと自らに言い聞かせ、荒れた鼻息を整えながら僕は思う。いっそ全てを捨てて逃げ出すことができたら、どんなに楽になれるだろう。

 地鳴りのような轟音が響いたのは、そんな時だった。


 口の中がじゃりじゃりする嫌な感触で目を覚ますと、僕は知らない浜辺に倒れていた。正面には途方もなく広がる海。背後にはうっそうと茂る密林。どうやらここは無人島らしかった。
 こんな状況になった理由は考えるまでもなく思い出していた。僕が乗っていたフェリーはその航路の途中、岩礁に乗り上げ、難破したのだ。
 普通の人間はこういう時酷く絶望するのだろうけど、僕の場合は特にそういうわけではないようで、未だ生が続くことに対して、小さなため息が出たのみだった。

 目が覚めてすぐに寝床を確保するため島の探索を始めた僕は、実はサバイバル適性があるのかもしれない。驚くほど冷静に、次にするべきことを見極められた。
 最初の発見は、島のあちこちに散らかる肉食動物の食事跡らしきものだった。もしかしたらこの島は僕が思っているよりもずっと危険な場所なのかもしれない。
 さらに島の大半を覆う密林地帯の探索中、五階建てのビル程はあろうかという巨岩を発見した。またその岩の下部には裂け目があり、さながら洞窟のようになっていること、てっぺんには蔓状の植物が豊富に生育していることも、遠目から確認できた。

 一通りの探索を終えた僕は元の浜辺へと戻り、状況を整理してみることにした。見たところ自然豊富な島なので、食料に関してはなんとかなるだろう。寝床も、あの巨岩の洞窟ならば雨風を凌ぐことができるだろう。
だけど、と僕は思う。
 僕はこれからたった一人でこの島を生きてゆくのだろうか。これまでの人生も一人だったといえばそうなのだが、そういうことではない。そう、この島にはコンビニも薬局も無ければ、警察だっていないのだ。頼れるのは自分だけ。こんな状況でもし病気になったり、あるいは猛獣に襲われたりしたら……
 ぼんやりとした不安が僕の心の中に立ち込めだした、その時だった。
「あっ、いや、待ってユウくん! そこはだめぇ!」
「そんなこと言ってほんとは期待してるんだろ?」
「で、でも無人島でこんな……」
「いいじゃん! どうせ俺たちがいっぱい作って、すぐに無人島じゃなくなるんだからさ」
「いやん! ユウくんのエッチ!」
 近くの岩陰から聞こえた覚えのある声に、僕は驚きを通り越して呆れた。
 新たな発見。この島には人はいないが、猿は棲んでいるらしい。


「鍾乳洞ってエロくね? 響き的に」
「ユウくんマジウケるぅ! それで、アイにゃんの鍾乳洞探検はいつしてくれるの?」
 明らかに鍾乳洞という言葉の意味を理解していない(ここは鍾乳洞ではない)であろう低能二人と共に、僕は巨岩の洞窟を進んでいた。本当は協力などしたくはないが、一人で行動するよりは生存率が上がるだろうと、僕から提案してのことだった。そういう意味では、奴らと僕が同じ島に流れ着いていたことは不幸中の幸いだった。
 洞窟内は意外と広々としていて、多少臭いが気になる点を除けば、理想的な寝床になりえそうだった。それより問題はむしろこの低能二人の方だ。
「おい、うるさいぞ! 肉食動物の住処かもしれないんだから、少し静かにしろ」
「はあ? 超ムカつくんですけどぉ。死ねよチビデブキモおっさん」
「おっさんじゃない二十二歳だ!」
「同い年とかマジ超ウケるんですけど!」
「超とかマジとか、本当にボキャブラリーが貧相だな! これだから低能はこま……なんだよ?」
 おい、あれを見ろ、と突然僕の肩を叩いたのは、ユウくんと呼ばれている男の方だった。続けてアイにゃんというらしい女の方の絶叫が洞窟に響く。僕はと言えば、腰を抜かしてその場にへたりこんでいた。
 松明が照らし出す洞窟の奥の少し開けた空間。その真ん中に転がるそれ――白骨死体は、あまりにも生々しい「生」の跡を携えて僕の前に現れた。
 骨の周囲に散らかる厚手のセーターやコートなどの衣類、毛布、リュック、小型蛍光灯などのあらゆる物品が、この場所がその人物の居住地であったことを示していた。恐らく季節は冬だ。今は夏なので、亡くなったのは半年ほど前だろうか。
 そして壁一面にびっしりと書き込まれた文字は、恐らくその人物が書き込んだものだろう。目的は定かでないが。

 やはり僕はサバイバルに向いていたらしい。腰を抜かしはしたもののすぐに冷静さを取り戻して、状況をつぶさに分析すると、自分が今やるべきことがわかった。
 小型蛍光灯のスイッチを入れてみる。数秒の間の後に微弱な光を灯したため、一応まだ使うことはできる。が、極力温存した方が良さそうだ。次にそこらに散らばる衣服や毛布を整理する。今の季節はまだ必要ないが、これから先気温が下がってきた時に貴重な物資となるだろう。次に……
「……おい。何してんだよ、おっさん?」
「ここに住むための準備だ」
「ウソだろ? 人の死体があったこんなところに住むとかどんな冗談だよ!」
「外で過ごすのは肉食動物に襲われるリスクが高い。実際、昼の探索で肉食動物のものらしい食事跡を見つけた。それでもいいなら、勝手に出て行けばいい」
「なんでこの状況でそんな、冷めたこと言えるんだよ……」
 自分では冷静に分析しただけのつもりだったが、他人からは冷めているように見えるらしい。だけどそれもある意味では間違っていない。
 僕は生きるための熱を失っていた。身体は動いているのに、心は眠ったように一ミリも動かない。
「そんな…やだよ。こんな、こんなのって……」
「……諦めるんだ。僕たちはもう、ここで暮らしながら救助を待つしかないんだよ」
 そう言った瞬間、蛍光灯の光が小さく揺らいだ気がした。涙を流して崩れ落ちた女に背を向けて、僕は骨の埋葬作業に取り掛かる。


 カレンダーによると、今日で無人島に漂着してちょうど二か月らしい。日にち感覚を失わないようにと記録しだしたものだ。ユウ、アイとの共同生活は仲良く、とは言わないまでも、初めと比べれば大分打ち解けたと言えるだろう。
 役割分担も自然と生まれた。今日はアイが林で植物採集、僕とユウが海での釣りだった。
「調子はどうだよおっさん」
「駄目だな。さっぱり釣れん」
「あちゃー、こっちもさっぱりだわ。今日は狩りにした方が正解だったみたいだな」
 そう言ってユウは僕の隣に腰を下ろした。思えば、僕がこのように他人と会話を交わすことは、この島に来る以前にはなかったことだ。

 俺たちさ、と言ったユウの口調がいつもの軽々しいものではなかったので、僕の中で緊張が糸を張った。
「駆け落ちの途中だったんだ。俺の収入が低いせいでアイの両親に結婚を認めてもらえなくて、それならいっそ遠くの島にでも逃げて二人で暮らそうって」
「それで、僕の故郷の島に渡る途中に船が難破したと」
 ユウには悪いが、底辺にはよくありそうな話だな、と思った。
 実際僕の通っていた私立中学の生徒などは、お堅い家庭、裕福な家庭に生まれた者が多く、我が子の結婚相手に一定以上の収入を求める親も珍しくは無かったそうだ。もちろん、僕に友人などはいなかったため、教室で机に突っ伏して寝たフリをしている時に得た情報に過ぎないが。
「最初はアイさえいれば他に何もいらないって思った。だけどよ、この島で暮らしだしてから、アイが毎晩寝言で呟くんだよ。『お父さん、お母さん。会いたいよ』って」
 夢と聞いて僕が思い出したのは中学時代だった。夢を見るという行為は一体、人間のどんな心境の作用なのだろう。

「俺、この島を脱出したいと思ってんだよ」
 ユウは唐突にそう言った。そしてこう続けた。
「そのためには、あんたの力が必要だ。俺頭悪ぃから、自力じゃ脱出する方法なんて思いつかねぇんだ。悔しいけどよ」
 彼はそう言って、本当に悔しそうな表情を浮かべた。
 この時僕が取るべき行動は、脱出のためにユウたちに知恵を貸すことだっただろう。二か月も待って音沙汰なしという時点で、救助がもはや期待できない状況であることは、十分わかっていた。それなのに……

「……無理だ。そんな方法僕にも思いつかない。この島からの脱出はできない」
「はあ? なんでだよ!」
 なんで? そんなの決まっている。
「だから、そんな方法が無いからだと言っただろう」
 違う。怖いからだ、元の場所に帰るのが。
「イカダでもなんでもやりようがあるだろうが! それくらい、おっさんならすぐに思いつくはずだろ!」
 ここにはユウやアイがいる、僕を頼りにしてくれる。でも、この島の外には僕を邪魔者扱いする人間しかいない。それならいっそ、この島に残る方がずっといい。
「イカダを作るにはロープが必要だろう。だけど残念なことに、この島でロープ代わりになるようなものはあのバカ高い岩の天辺にしか生えていない。これだけ言えば低能なお前でもわかるだろう?」
 そうだ。僕のこの苦しみは、猿のように何も考えず生きてきたお前らなんかには、絶対にわかるまい。

「……へぇ。そうかよ、よくわかった」
ユウは吐き捨てるようにそう言った。何とか納得してもらえたようで良かった、と安堵したのも束の間、
「おっさん、島から出たくないんだろ。ダチとか彼女とか、なにも持ってなさそうだもんな」
 僕の考えは、ユウには全て見通されていた。目下のところ最も親しい人間(消去法ではあるが)に言われたその言葉は正直、心に刺さった。今までの人生で浴びてきたどんな罵詈雑言よりも、痛い。
「残りたいなら一人で残ってろ。俺は絶対にアイと一緒に島を出る」
 一人その場に残された僕を嘲笑うかのように、海面でお気楽な魚が跳ねた。

 洞窟に戻るとアイが小さな嗚咽を漏らしながら泣いていた。慰めていたユウに理由を聞くと、どうやら洞窟の近くの林で植物採集をしていた時に、巨大な生き物の影を見て、恐ろしくなって逃げ出してきたということらしい。
話を聞いた瞬間、島に来た日に見つけた食事跡と、無残に転がった白骨死体が頭を掠めた。
 アイの背中をさすりながらユウが僕を睨んだ。島から出る覚悟を決めろ、と無言の圧力をかけられているようで居心地が悪くなり、僕は早々と眠りについた。

 この日の夜、僕は久しぶりに夢を見た。


            ◆

 思えば僕も人生で一度だけ、色恋の事ばかり考える猿だった時期があった。

 以前よりさらに丸みを増した消しゴムは、君の元までまっすぐに転がる。何度も繰り返すうちに精度はかなり上昇し、最近では寸分違わず君の爪先の前で停止できる程になった。
「また今日も落としたんだね。はいどうぞ」
 僕は一瞬だけ君の顔に目をやり、笑っているのを確認したら、すぐに席に戻る。これが僕たち二人だけの意思疎通だった。
そう、僕たちはあの出来事以来、恋人となったのだ。
 僕たちが言葉を交わすのは僕が一日一回消しゴムを落とした時だけだったが、それで十分だった。彼女の笑顔が、彼女が僕に寄せる好意のなによりの証拠だった。僕もまた、彼女のことを愛していたので、そこに言葉などはいらなかった。

 ハゲデブ教師が学校を辞めたのは僕たちが交際を始めて半年が経ったころだった。学校での生徒との淫行がばれたのが原因だったというのは、立ち聞きして知った。馬鹿な奴だと、僕は心の中で笑った。その教師も、相手の生徒も。
 次の日、僕の愛する恋人が学校を辞めた。

 目を覚ますとどうやらまだ夜中のようだった。全身が汗びっしょり気持ち悪い。
 視界の端がチカチカするのを感じて起き上がると、いつのまにか枕元の蛍光灯が付いていた。寝ぼけてスイッチを入れてしまったのだろうか。
 その光は僕がここに来る以前よりずっと弱く、今にも消えてしまいそうに思えた。




 冬がやってきた。結局僕は未だに島を出る決心はつかないままで、ユウとはなんとなく気まずい日々を過ごしていた。今日の担当はアイが薪を作るための木材の調達、僕とユウが釣りだったのだが、海がいつもより荒れていたため、僕たちは早々と切り上げて洞窟に戻っていた。
 おい、おっさんと先に切り出したのはユウの方だ。
「なんでそんなに、島から出ることを怖がるんだよ」
ちょうどいい。僕の方も話をしなければならないと思っていたところだ。
「怖いからだ」僕は答えた。
「なんでだよ」ユウは逃がさないと言わんばかりに追及してきた。
 隠すつもりなどなかった。もしかしたら僕自身、誰かに吐き出したいと思っていたのかもしれない。僕は今までの人生全てを、ユウにさらけ出した。

 周囲の人間に虐げられながら過ごした幼少期。いわゆるいじめられっこというやつだ。家では出来の良い妹と比較され、「教育にだってお金はかかるのよ」と嫌味を言われた。僕の母はそういう教育ママ的な面を持っていたし、妹も自分より頭の悪い兄を尊敬することは無かった。
 中学生時代、そんな僕にも初めて認めてくれる人ができた。だけどその人も結局は僕を捨てて、馬鹿にしていた数学教師と一緒に僕の前からいなくなった。
 それが決定打だった。
 僕の周囲の人間は皆僕を毛嫌いし、排除しようとしてくるから。そして仮に認められたとしても、いつかは見捨てられるから。だから怖いのだ、と僕は伝えた。

「バッカじゃねぇの? いや、馬鹿だろおっさん」
 ユウは冗談とも本気ともつかない調子で言った。その瞬間、僕の中で脊髄反射的なスピードで嫌悪感が込み上げた。 それはお前にだけは言われたくない、とユウの言葉を身体が拒絶したようだった。
「お前みたいな低能にはわからないだろうな」
「それだよ、テメェはそういうところが馬鹿なんだよこのクズぼっち野郎」
「ど、どういう意味だ!」
「テメェは今までもそうやって、周りの人間を見下してきたんだろ? ダチも彼女もできねぇのは、全部てめぇテメェのそういう性格が原因だって言ってんだよ」
「なっ! 彼女はいたことあるって言ってるだろう!」
「はあ? どう考えたってテメェの片思いだっつーの! なんだよ『微笑んでくれた』って! 嫌いな奴が相手だって世間体で愛想笑いぐらいするんだよ普通は」
「僕はそれで十分に彼女の愛を確かめられた! 低能の物差しで僕を測るな!」
「はあ……じゃあ、仮にその女がテメェに惚れていたとしといてやる。だけど、テメェの気持ちはその女にちゃんと伝えたのかよ? あぁん? 一方的に自分だけ気持ちを貰って相手には何も返さないなんて、頭脳派(笑)さんは流石に駆け引き上手だな」
 僕はこのユウの皮肉に対して何も言い返せず、言葉を飲みこんだ。馬鹿だ馬鹿だと思っていた相手が今、完璧な正論を武器に目の前に立ちはだかっていた。
「テメェがぼっちだったのはテメェに勇気が無かったからだろ。俺やアイは確かに、おっさんみたいなタイプと好んでつるみはしねぇだろうけど、近づいてくる相手を拒みもしねぇよ。おっさんの周りの人間がどうだったのかは知らねぇけどな」
「だ、だから! お前らみたいな低能のお友達なんてはこっちから願い下げだと何度言ったら……」
「うっせぇな! モテなかったりぼっちだったりするのを僻むのは勝手だけどよ、それを周りのせいにしてんじゃねぇよ。本当は仲間に入れてほしかったくせに」
 そしてこの言葉で、「僕が望んで周囲の人間と馴染んでいないだけ」という形を取ることで辛うじて保っていた僕のプライドは、脆くも崩れた。                                                                                                               
 だけど不思議と嫌な感じはしなかった。それはユウの言葉が僕を傷付けるためでないことが、なんとなく僕にも伝わっていたからなのだと気付いたのは、ずっと後になってからだった。

「テメェだけが辛いみたいな顔しやがって、うぜぇんだよ。アイだって親のことで悩んでたんだ」
「お、親から逃げたのはお前らも同じだろう?」
「だからテメェも島から出てやり直せって言ってんだよ」
 外を見てくる、と言い残してユウは出て行った。
 僕はユウの言葉を何度も心の中で咀嚼する。「やり直せ」という言葉がゆっくりと身体に染み込んでゆく。
 こんな僕でも、勇気を出せばあの二人は受け入れてくれるのだろうか。

 洞窟の外からアイの悲鳴が響いたのは、ユウが出て行ったすぐ後だった。
 慌てて様子を見に行った僕が目にしたものは、腕から血を流したユウと――あまりにも巨大な、一匹のヒグマだった。去年の冬に亡くなったと結論付けたあの、白骨死体が再び脳内にフラッシュバックする。そしてやっと気付いた。この洞窟はクマが冬眠をするための穴だったのだ。
「来るなおっさん! アイを連れて逃げてくれ!」
 ユウがそう叫び終わる前に、僕はヒグマに背を向けて走り出していた。息を切らして洞窟の奥、僕たち寝床に転がり込んだ僕は、休む間もなく、その場所で役に立たないオブジェと化していた「それ」を掴み、洞窟の外を目指す。
 再びヒグマの姿を目にした時、そいつは倒れたまま動かないユウと、彼に寄り添うように涙を流すアイに、今にも襲いかかろうとしていた。
「うわあああぁぁ! 離れろぉぉー!」
 気付けば僕は闇雲に蛍光灯を振り回して目の前のヒグマに立ち向かっていた。はたから見ればそれはもはや、自殺行為に等しい行為だったかもしれない。
 そう、島に来た時のサバイバル巧者の僕はもういない。死を目の前にして冷静に状況を分析できるあの時の僕は、もういない。僕の中で眠っていた情熱が目を覚ました。
(やり直すんだ! この島を出て、二人と一緒に!)
 心で叫んだ瞬間、手に持った蛍光灯が激しく燃え上がり、一瞬輝きを取り戻したような気がした。いや確かに取り戻したのだ。その証拠に、怯んだヒグマが僕の前から走り去るのが見えた。僕は疲労でその場に倒れ込んだ。

「ユ、ユウくん! ユウくんしっかりして!」
「大丈夫、ちょっと擦りむいただけだよ。心配かけたなアイにゃん」
 ユウは右腕に怪我を負っているものの命に別状はなさそうだ。良かった。
 ほっと胸を撫で下ろした僕の元にアイが駆け寄ってきた。そっと差し出された手。僕は久しぶりに向けられた明確な好意の行動に一瞬戸惑うも、ゆっくりとその手を取った。
「あ、ありがとな」
「こっちこそ! 本当に、助けてくれてありがとう!」
 アイがにっこりと微笑んだ。動悸が激しくなる。なぜならその笑顔は、僕が知っている唯一の純粋な笑顔と、そっくりそのまま重なったのだから。
「今気付いたんだけど、おっさんよく見ると、私の初恋の人に似てるかも」
 そう言ってまたアイが微笑んだので、いよいよ僕は恥ずかしくなり、逃げるようにユウの元に向かった。
「あえて言うけど、おっさんバカだろ。 俺にはいつもリスクが~危険性が~って散々言ってたくせによ」
 うるさいな、と形式的に毒づいてから、僕はユウに覚悟を伝える。もう迷いは無かった。
「イカダを作ろう。この島を脱出するんだ」


 故郷行きの船に乗りながら、僕はさっきの出来事を思い出していた。
 ヒグマを退治した直後、近くの林から突然人が現れた時、僕は驚いた。そしてその中の一人を指して「お父さん!」と言ったアイにはもっと驚いた。
 僕たちが島に流れ着いて半年も経っていたのにまだ捜索が続いていたことには驚きを通り越して呆れた。行方不明者の捜索にはそれなりにお金がかかるのだ。半年ともなると、一体どれほどの額になるのだろう。
 と、ここまで考えてアイの両親がユウとの結婚に反対していたという話を思い出した。アイの家が大変裕福な名家であったのなら、それにも納得できる。僕の出身中学校では、本当にそういう親は大勢いたようだ。

 僕は今一人、船内の部屋のベッドで横になっている。隣の部屋はアイとアイの父、そしてユウが使っている。きっと今ごろなんらかの話し合いが行われているのだろう。大丈夫だろうかと少しだけ不安になるが、なんとなく大丈夫なような気もした。いや、きっと大丈夫だ。
 むしろ心配なのは自分の方だ。大学中退の話、これからの話。家族にしなければならない話はたくさんあるが、逃げるつもりはもうない。

 しばらくすると急に眠気が襲ってきたので、少し早いが寝ることにした。明日も早い。
 部屋の電気を消しながら、明日アイとユウに僕の本名を教えようとふと思いついた。いつまでもおっさん呼ばわりは嫌だ。それに……もし本名を聞いたら、アイはどんな反応をするのだろう? とても楽しみだ。
 布団を被りさて寝ようと思った時、まだ眠れないことに気が付いた。
「こいつも消さなきゃな。明るすぎてゆっくり眠れん」
 そう一人ごちて、枕元の蛍光灯に手を伸ばす。それは少し前向きになった僕を後押しするように、力強い光を放ち続けていた。

            ◆

 あの話には実は続きがある。

 君が学校を辞めたその日、僕は失意の中家路につこうとしていた。靴を取り出そうと下駄箱の扉を開けたその時、一枚の紙が中から出てきた。
 君からの手紙だった。

「武藤恭平くんへ

 お手紙を書くのは初めてだね。というより、ちゃんとお話したこともなかったよね。いつも消しゴムを拾ってあげてたのに、なんか変な感じ!

 私には今、好きな人がいます。だけどその人と私は決して結ばれてはいけない関係です。だから、私たちは二人で逃げることにしました。後悔はしてません。

 恭平くんは今この手紙を読んで、どんなことを考えてるのかな? 少しでも悲しいって思ってくれていたら嬉しいな。

 ……最後だから言うね。実は私、ずっと恭平くんのことが好きでした。

 これから先どうなるのか、私にはわかりません。今大好きな人のこともすっかり忘れて、全然関係ない人と結婚する日が来るかもしれません。

 だけど恭平くんのことだけは、私絶対に忘れないよ。なんたって、私の初恋なんだから!

 もしまた逢えたら、その時は友達になってくれたら嬉しいな!
 それじゃ、またどこかで。

                        藤森亜衣」

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