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さらし文学賞
小さな部屋

 今日もまた、暗くなった道を親子が歩いていく。
 大きな体をした男の人と、ひらひらしたワンピースを着た小さな女の子だ。よくは知らないけれどたぶん、お父さんとその娘だと思う。女の子は昨日、少し嬉しそうにして歩いていたけれど、今日はどこか寂しそうだ。俯いてとぼとぼ歩く少女の手を、男の人は放さないとでもいうように包み込むように手をぎゅっと握って、ゆっくりと歩いていく。それから時折、まるで思い出したみたいに大振りな動作で少女に話しかけるけれど、その男の人の表情も強ばっているようにも思えた。地面を見つめたままの少女が何かを言ったのか、男の人は大きな手でぐしぐしと優しく不器用に、彼女の頭を撫でてあげていた。二人の間で交わされた言葉は少なかったけれど、そこには目に見えない繋がりが彼らをしっかり繋げているようにも見える。言葉で表せない暖かさがあるようだった。


 少なくとも三日に一度、多いときは毎日、二人は外を眺める私の前を通り過ぎていく。何かを話しているだろう事はわかるけれども、少し距離があるせいか彼らの声はほとんど聞こえてこない。あるいは私と彼らを隔てるガラスの窓があるからかもしれない。最近になって吹き始めた冷たい風に、道行く少女と男の人が着ていたコートの襟をしっかりと締めた。ちょっと身を寄せ合って、お互いを温めあってる姿はどことなく微笑ましい感じがする。ひゅーっと私の部屋にも、窓の隙間からひんやりした冷気が入ってきて、身震いを一つ。少し寒いけれど、我慢できないほどじゃない。外で直接浴びるよりは、こんな狭い部屋でも四方を囲まれていた方が暖かい。そう。暖かいはずなのに、私の胸をつく、ちくちくという痛みは一向に消える気配が無い。身体は暖かいのに、心が震えていた。寒さが原因ではないことぐらい分かっていた。とっくに感情なんて無くしてしまったと思っていた心が、きゅっと縮んだ気がした。
 羨ましいなんて思ったのは、これが初めてだった。

 くる日もくる日も、聞こえてくるのは近くまで飛んできてくれる鳥たちのさえずりと、時々やってきては私の部屋の窓をがたがたと揺らしていく風の音。あとは結構高い頻度で救急車が、高らかにサイレンを響かせて私の部屋の前を走り去っていく。何処かで誰かが助けを待っているのだろうか。暗い夜闇すらも切り裂いて光る赤色灯は、行き先を失った人を導く救いの光だ。でも私はここから動けないけれど、助けに来てもらうよりは、誰かを助けに行ってみたいな、なんて思う。他に耳に入るのは、かつかつと鋭い音を立てて道を穿つヒールの音や、ふらふらになるぐらいまでお酒を飲んだ男の人たちの、大きな笑い声ぐらい。昼間は私の前を通る人は少ないから普段は静かなものだ。私も寝ていることが多いから、その間のことはほとんど知らないのだけれど。

 私はいつもひとりぼっち。毎日、他に誰もいない小さな部屋から、大きな窓越しに外の世界を見つめるだけ。毎日同じ日々の繰り返し。窓の外ではいろいろなことが起こっていても、私の部屋の中は変わらない。はす向かいのお家に誰か住んでることは分かってるけれど、会ったこともなければ話したこともない。窓越しにただ少し、見えるだけ。私と同じように狭く小さな部屋に押し込められて、きっと最後の日を待ち続けている女の子だ。偶に会う目は、全てを無くしてしまったように澄み切っていて、もう何も写してはいないような錯覚に陥った。輝くような白い肌をした彼女も、私みたいにきっとひとりぼっちだ。ひとりとひとり、お互い目の届くところにいるのに決して手は届かない。もう、寂しいなんて気持ちも忘れてしまったはずだったのに。


 視界にうっすらと黒い靄がかかって見えるようになってきた。いつものように通りを歩く親子の姿が、ぼやけて見えたことで私はそれに気がついた。部屋へ食事が届けられる音で目覚めた私は、ちょうど彼らが私の方を見上げるところを見た。いつもならはっきり見えるはずの彼らの表情が、少し陰って見えた。嬉しそうに繋いだ手を振って歩いているのに、彼らはどこか不安そうに私を見上げているみたいだった。彼らだけじゃない。窓越しに見える世界の全てが、延いては私の小さな部屋すらも、暗い影が落ちて見えるようになっていた。でも私が不安に思うことは何もない。それどころか、心に去来するのはほっと安心する気持ちと、充足感だった。いずれ私の身に訪れるはずだったことが始まったに過ぎないのだ。この小さな部屋にも随分とお世話になったけれど、それもそろそろ終わり。
 私の身体がもう限界を迎えていた。

 それからの毎日は私の体調次第で、大きく波打つように、あるいは星が瞬くように、その姿を大きく変えてみせた。ある時はいつものように親子の様子がはっきり見え、またある時は、古い映写機のごとく断続的にしか、世界が見通せないこともあった。変化は視界だけに止まらない。少しずつだったが、耳鳴りがするようにもなっていった。外には何も起きていないのに、じりじりという異音が私を苛んでいく。終焉は私の身体を蝕んでいくけれど、痛みを感じない私には長い間待ち望んでいた変化でしかなかった。ずっと小さな部屋の中から焦がれていた、何も持たない私を塗りつぶすような、劇的な変化だ。部屋の中まで押し寄せた闇が、私を端っこから浸食していく。私が見通すことのできなくなった暗黒が、ひたひたと私のことを付け狙っていた。
 でも――それが楽しくて仕方がなく思えたのも、これが初めてだった。生きているという実感が、今までで一番している気がした。まるで、誰からも相手をされなかった日々を哀れに思った神様が、私の最後に素敵な贈り物をしてくれたみたいに思えた。私はうまく笑えているだろうか。こんな毎日がずっと続けばいいのにと、心から願う。もう後がないことは、重々承知の上で。

 毎日ほとんど決まった時間に私の元に送られてくる、食事も少しずつ来るのが早くなっている。ぼんやりとした頭では、それが何を意味しているのか、よくわからない。もう私の目は、以前の半分も見えなくなっていた。窓の外を眺めていても、通りを歩く人が正確に見分けられない。あの小さな女の子は、元気でやっているのだろうか。はす向かいの女の子の姿も、もはやかろうじてその白さが分かるぐらいだ。私よりも少し前から苦しそうにしている姿が見えていたから、彼女ももうあまり長くはないのかもしれない。彼女は今、何を考えているのだろう。私と同じように笑っているのだろうか。あるいは迫り来る暗闇に怯えているのだろうか。
 いずれにせよ、私はほとんど興味もなかった彼女のあり方すら、美しいと思えた。

 こうなった私たちの末路を、私はうっすらと知っている。それはまだ、私がここに来てすぐのことだ。この小さな部屋は、私ではない誰かが使っていた。何も分からないままに連れてこられた私の目には、部屋から連れ出される名前も知らない誰かの、壊れたような笑みが焼き付いていた。死にかけの者から順番に使えなくなったものを交換するかのように、事務的に入れ替えて、誰かの代わりに私は来た。私の次にも、きっと誰かがやってくる。この部屋はそう言う部屋なのだ。長い間、ずっと分からなかったあの人の笑みの意味も、今の私なら理解することができた。生きてきた長い時間の光よりも、今際の際の一瞬の輝きに全てを託す。そんな笑顔だ。だから私も、次の人にそれを伝えたいと思った。
 そのときも私は、今みたいに笑っていられるのだろうか。
 それだけが気がかりだった。

     ☄

 今日もまた、暗くなった道を親子が歩いていく。
 嬉しそうに笑い声を上げながらゆっくりと歩く。満面の笑みを浮かべた少女は、二つに縛った髪やふんわりと広がるスカートの裾を揺らし、飛び跳ねるように歩みを進めた。それを微笑ましげに見つめる男の傍らには、寄り添うように昨日まではなかった影があった。多少ふらつくような足取りで歩く、ほっそりとした女性は、それでも柔らかい笑みを浮かべている。少女が駆け寄って、女性の足にきゅっと抱きついた。バランスを崩した女性を男性は優しく支えた。三人の間に楽しげな笑い声が響く。外の寒さに負けない、暖かな輪がそこには存在していた。
 空に昇った真ん丸の月が新しい夜を祝福する。世界は明るくなった。

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