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さらし文学賞
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四畳半生活


 僕はいつからかここにいる。四畳半の狭い部屋だ。畳は擦り切れて足の裏をちくちくと刺す。壁は生壁色をしていて、僕の真正面に小さく明かり窓がある。僕はそこから覗く四角い空の色から時刻を読み解く。今は黄昏時だ。空の紅が僕にそう伝えてくる。もうすぐ夜が迫ってくるから、明かりをつけなくちゃいけない。そうして僕は天井から伸びる糸に手を伸ばした。糸を引く。明かりが灯る。
 白い光を散乱させる蛍光灯がわずか四畳半の世界を浮かび上がらせる。以前はもっとはっきりした光だったのになあ、なんて寿命が近づいてうすぼんやりとしてきた蛍光灯に哀れみを向ける。蛍光灯は使い捨てのかわいそうなものの筆頭なのだ。代わりがいくらでもいるからと、切れかけてきたらさっさと殺されてしまうのだ。とつとつと白いものへと憐憫を積もらせて、僕は小さく息を吐き出した。
 きっと、外は今頃お母さんが夕飯作りに精を出しているのだろうなと思考する。僕が好きなおかずはなんだったのかと考えるけれども、どうも言葉が霧散して上手くいかない。白いご飯を食べた記憶はある。それがどれだけ昔のことかまではわからないけれど。
 この部屋にいると食事という言葉を忘れそうになる。今はかろうじて覚えているけど、それは食事という行為があるということを知っているだけであって、ひどく概念的なものだ。僕はこの部屋に入ってからずっと食事をしていない。エネルギーを摂取していないのにどうして生きているのかはわからないけれど、それを問題と思えるほど、頭は細部まで作りこまれていなかった。
 ときどき瞬くようになってしまった蛍光灯を見上げてかわいそうだなあと言葉を落っことして、僕は部屋を見渡した。僕の左隣には回転し続ける地球儀がある。五秒間に一周くらいのスピードで回り続ける青い球体を感慨なく見つめる。コンセントなんてついていないのに、どうして回っているんだろう。そんな些細な疑問はきっと電池式なんだという答えで氷解した。僕がこの部屋にいる長い間動き続けるなんて、すごい省エネ技術をいつの間にこの国は生み出したんだろう。
 右隣には小汚い毛布だ。僕が毎晩就寝時にお世話になっているそれは、垢にまみれて黄色になっている。洗濯したほうがいいとわかっていても、この部屋の出口がどこにあるのか知らないからどうしようもなかった。四畳半には洗濯機を置けるスペースがない。そして洗濯物を干せる空間もなかった。
 部屋の四隅には空の本棚が座っている。それらは褪せた茶色をしていて、こげ茶色した美しい木材に脱色剤をぶっ掛ければあんな色になるに違いないと、勝手に僕は思っている。たしか一番最初にこの部屋に足を踏み入れたときには、本棚に目一杯文庫本がぎゅうぎゅう詰めにされていたように思う。本のサイズはどれも同じ規格に統一されていて、色もすべてセピア一色だった。いつからか本はすこしずつなくなっていった。そして、もう一冊だって残っていない。
 決して僕が紛失したのではない。記憶の中でその本たちに指一本さえ触れたことはないのだ。いつの間にか、忽然と、消えていく。まるで最初からなかったかのように。本の内容なんて知らないけれど、なんだか悲しいような気がした。だけれども、それもすぐに夜に溶けていった。
 もう空は黒一色だ。切れかけの蛍光灯の頼りない光が唯一の反抗。この光が完全に沈黙したとき、僕は夜に飲み込まれる。その想像はなんだか恐ろしさを携えている。じりじりと蛍光灯が唸っている。僕はまぶたを下ろすことが怖くなる。どんなに僕が黒を怖がっていても、睡魔は僕が眠らないことを許さない。
 ごわごわとした毛布を手繰り寄せて身体に巻きつける。いやがおうにもまぶたは落ちていく。静かな空間の中で回り続ける地球儀が発するキュルキュルといった音が、やけにうるさく鼓膜をひっかいた。

 それから何日たっただろう。まもなく蛍光灯が死ぬ日のこと。ひとつの紙飛行機が明かり窓から侵入してきた。僕はすこし、本当に少しだけ何も変わらない日常に飽きていたので、紙飛行機を拾うのに躊躇するはずもなかった。
 晴れ渡った空のような見事な青色のそれを僕は眺める。僕の荒れた指先が傷つけてはしまわないかと心配になる。
「君は空から生まれたみたいだ」
 なんと恥ずかしい言葉を紡いでしまったのだろうと、僕は頭を抱えてしまった。かすかな音を立てて紙飛行機が畳の上に転がる。ああ、ごめんね。ささくれが突き刺さって痛いだろうと、僕は紙飛行機をやさしく拾い上げて、この世界から逃がした。青い紙飛行機はまっすぐ飛んでいく。風を切る音が聞こえた気がした。そうして、紙飛行機は空へと消えていった。
 その次の日のことだ。明かり窓の向こうに手が生えていた。起き抜けのその光景に僕は驚きのあまり変な声を出して、慌てて口を押さえた。手はゆーらりゆらりと左右に揺れている。ホラーだった。
「おはよーこんにちはこんばんは! はじめまして知らない人!」
 甲高い声が部屋の空気を引き裂いた。まだ変声期を迎えていない少年の声。明日の希望をなんのしがらみもなく信じることができ、暗闇にすら冒険を見出す幼い年頃の。小さな頃の僕も同じように世界を見つめることができていただろうか。
 初めて耳にしたはずのその声に、僕の心には荒波が立つ。静寂のまま閉じられようとしていた世界がぼろぼろに砕けていく。せり上がる感情は何色をしているだろう。血の色かな、無残な世界の傷跡から垂れ下がる狂った色かな。
「おかしいなあ、ねえ! もしかして寝ているんですか? もうとっくに朝日は昇って、悲しいものは全部太陽がむしゃむしゃ食べちゃってますよ。返事だけでも、してくれませんか」
 少年の声はすでに騒音と形容するにふさわしかった。まっすぐな声はたやすく僕の変わり映えしない、少しばかり飽きが来るけどそれでも平穏な日常を瓦解させていく。
「ああ、なんだい。少しうるさいよ。僕はもう起きているさ。それで、君は誰だい」
「君ってもしかして俺のこと? それならたぶん名乗る必要なんかないと思う、です。それより早く、ドアを開けてくれませんか。これじゃあ顔が見れないです」
「君はひとつ間違っているよ。この部屋にはドアがないんだ。だから開けようと思っても開くはずがないんだ。それともなんだい、君にはドアが見えているの?」
「うん見えてますよ。ほら、ここにドアノブがあるじゃあないですか。もう朝なんです。人間は動く時間ですよ」
 食い違う会話が空気に波紋を生んでいる。知らない人間同士の意味もない会話だ。久しく使っていなかった声帯がびりびりと震える。声がすぐにかすれて音が紡げなくなる。
 へんてこりんな押し問答を数回続けて、僕と少年との掛け合いは終わりを告げた。霞のような沈黙が二人を包む。青い空を掴むかのようにまっすぐに伸ばされている腕を見つめて、僕はなんだか居心地の悪さを感じた。まるで僕一人が意固地になっているような、聞き分けのない頑是無い子どものような気がしたのだ。
「あーあ、まあいいや。それじゃあ明日も来るね。でもあれだよ、蛍光灯が死んじゃう前にドアを開いたほうがいいと思うよ」
 それはどういう意味なんだいと尋ねる前に、少年はさっと消えてしまった。振り上げた腕もそのままの状態で、さっと、消えたのだ。僕はなんだか狐につままれたような心持になって、これは夢だと思うことにした。
 眠りに就く前に僕はふと、なんだかしけた色をした部屋を一度見渡してみる。今日も同じ速度で回り続ける地球儀とお世辞にも温かいとはいえない一枚の毛布。さらにくすんだ光になってきたかわいそうな蛍光灯。何も変わらないな、と一応のため息をついて、僕はひとつの異常に気がついた。
 すっからかんであった本棚に一冊の本が現れていた。それは見事な青色をしていて、手元にはさみがあったのなら、僕はそれを八つ裂きにしていたことだろう。

「おはよーございまーす! もうきっと起きてるよね。ほら、いるのはわかってるんだからさっさと開けてくれませんか。俺、はやくあなたと会いたいんです」
「不審者に会おうとは思わないけど」
「あれひっどい。不審者って俺のこと? こんな紅顔の美少年を不審者呼ばわりするなんて、商店街のお姉さん方が怒りますよ。だから、さっさとドア開けてよ!」
 さっそく語尾の崩れ始めている少年を笑ってやると、少年が満足そうに言葉を揺らした。それから機嫌よさそうに鼻歌を歌う。メロディらしいつながり方をしない音符に僕は呆気にとられた。五線譜の上に適当に散りばめられた記号が好き勝手に踊るさまが見えた。
「ねえねえ今日は機嫌がいいの? なら散歩しようぜ? どうせこんなところで引きこもりなんてしているんだったら、川原にでも行こうよ。季節すらわかってないんだろ、教えてやるから出てきてよ」
 ねえ、と少年は哀れっぽく嘆願する。声音には切実さが混入していて、ただ自分の部屋にこもっているだけなのにまるで僕が少年にひどいことをしているような、変な気分になってくる。
「だからね、君。ドアがないんだから僕は出ることができないんだよ」
「勝手にそう考えてるだけじゃないか。じゃあどうやって入ったんだよ」
「さあ? もう忘れてしまった。どうにも僕の頭は緩いらしくて、上手く考えることができないんだ」
 敬語をかなぐり捨てた少年を、僕は喜ばしく思った。思考回路が空中分解を起こしたような脳ではその理由もわからなかったけれど。
 少年の大きなため息が聞こえた。ついで壁からゴスッという重たい音。どうやら少年が思い切り蹴りつけたらしい。
「あのな、」
「うん」
「俺じゃあ開けられないんだよ。ドアノブが遠すぎて届かないんだ」
 だから早く出てきて。悲痛な叫び声だった。感情の振幅のあまりの広がりに僕は飲み込まれそうになった。そうして、懐かしいものが一欠けら僕の手元に戻ってきたような、そんな気がした。
「俺、はやくあんたに会いたいんだ。俺は全部知ってるんだ、でも教えちゃいけない。な、どうやったら出てきてくれるの。たくさんの色が外にはあるんだよ」
 少年の叫び声を手がかりに、僕は今まで甘受してきたこの日常について目を向ける。まったくもっておかしいことだらけだ。何も食べないで生きつづける身体、止まらない地球儀、消えていく(あるいは増える)本。ドアはないのに入ってきた感覚はあって、だのに壁に継ぎ目ひとつ見当たらない。
 紙飛行機が飛んできた日を境に、僕はおかしくなってしまった。今まで気にも留めなかったことが思考の細部にまで入り込んでくる。
「本当を見つめる勇気もないんだろう、この意気地なし」
 少年が泣く声がする。嗚咽の隙間から弱りきった罵りが零れ落ちていく。かわいそうに、と僕は思った。しかしそんな感情を抱いても彼にしてやれることはないのだと、形容しがたい無力感が湧き上がる。
「あんたはいっつもそうだ。知ったかぶりの道化で八方美人で愛想を振り向いて、最後には心臓抱えて逃げ出すんだ。俺は知ってる。そうして何人傷つけてきたの、どうして俺まで傷つかなくてはならねえの」
 ねえ、ねえ、ねえ、ねえ。少年の言葉は確実に僕のなにか、奥まったところに刃をつきたてた。僕は本棚に目を向ける。そこに何かが浮かび上がろうとする。どうしようもないほどの吐き気がした。
「……逃げてるだけでは何も変わらないことを、あんたは自覚すべきだよ」
 震える声が鼓膜を揺らした。たった四畳半の空間が音楽ホールのように悲しい音を反響させる。僕はぎゅっと汚れた毛布を握り締めた。この垢まみれの布が僕自身だ。
「また明日、来る」
 君は一体誰なんだい。問いかけは言葉にならずいたずらに声帯を震わせただけだった。身体が芯から凍えていく。明かり窓から降り落ちるなけなしの陽光が世界からの、唯一にも等しい温情だ。
 僕は本棚に視線を向けた。そこには血の様な真っ赤な色の装丁のなされた文庫本が存在している。新しい本に僕は震える指を伸ばす。ぐるぐる回る思考からはじき出された言葉が一つ、赤の上に放り出された。
 薄っぺらい赤い本の中身は、たった一行の内容で終わっている。数秒で終わってしまう文字列、それを目にした瞬間に僕はこの本を火あぶりに処してしまいたいと瞬間的に思った。この内容はなんだ、気味が悪い。
――今日、私はずっとずっと遠く、手の届かないところにまで、そう車でも電車でも飛行機やあるいはロケットでさえ辿りつけないような遠い遠い所にまで消えてしまいました。
 赤い本を壁に叩きつけて、僕はぎゅっと目をつむる。恐れる暗闇が意識を包むけれどそれでも構わなかった。おかしいことからは目をそむけて、うだった脳で怠惰に流れる時間を飲み込んできた。夜が来るたびに少しの恐怖と蛍光灯への憐憫を噛みしめればいいだけだったのに。
「どうして最後の最後に、君が来るんだ」
 言葉が勝手に喉を通っていく。この意味を僕は知らない。わからない言葉を吐き出すのは実にナンセンスだ。まるで脳髄をすすられている気分に襲われる。気持ちが悪い。
 しばらくして、暗闇に僕の意識は飲み込まれた。頭の中で誰かが、知っているような知らないような違和感のある声で何事かを叫んでいた。

 それから幾日を重ねても、少年は「おはよう」を携えて僕を訪ねてきた。その日の気分で、僕は会話に応じた。少年の口はよく回り、僕が一言も発さずにいても言葉は止まるところを知らなかった。少年の話はだいたいが何の変哲もない日常のことである。同じクラスの誰かがかけっこで優勝したとか、誰それが人気の女の子に告白をして無事付き合うことになっただとか。どこかで聞いたような、誰しもが息をしているうちに一度は体験するような他愛のない、もの。それをさもこの世で一番の宝物を見つけたかのような声で話すものだから、僕はなんだか可笑しくなってしまった。
 そのうちに、知らず知らずにひとつの遊びができた。少年の話に一回でも笑みをこぼせば少年の勝ち。笑わなければ、僕の勝ち。たいていは僕のほうが勝った。少年はそのたびに、帰り際に「もっと笑えばいいのに。笑う門には福来るっていうじゃん、さあ」とすこしばかり悲しみのにじんだ声で言うのだ。僕はなんだか意地になって、その言葉には反応しない。
「そんなだから、蛍光灯が死んでしまうんじゃないか」
「君に何がわかるっていうの」
「ずいぶん最初のほうに言ったじゃん。俺は全部知ってるって」
「それなら教えてくれてもいいじゃないか」
「それはだめだよ、意味がねーもん」
「……強情だね」
「どうも」
 今日も日がな一日少年は跳ねるように言を紡いでいく。空が深い青に染まる。少年の話は今日もありふれたものばかりで、僕は少々眠たくなった。美しい小鳥を見かけたとか、友達の誕生日に路傍の草花の花束を贈ったとか。そう、昔は僕もそんなことをした気がする。少年と同じように純粋に今日という枠組みの中で息をしていた。疑いを知らなかった。
 あれほど回転することを忘れていた脳がすこしずつ錆びた音を立てて動き始める音を僕は聞いた。緩慢な動作はやがて素早いものに変わり、僕はだんだんとこの空間が何かを思い知ることになる。
「――嗚呼、そういうことなのか」
 少年は先ほどまでぺらぺらと喋っていたくせに、僕の一言で一瞬にして沈黙した。僕はたしかに、ずいぶんと薄っぺらになってしまったものの欠片を見つけたのだ。僕は本棚を見る。その家具の表す意味にも、僕は気づいてしまった。気づかなかったほうが、もしかしたら幸せだったのかもしれない。
「積み重ねというものは大事だね」
「そりゃそうさ。本は増えた?」
「おかげさまで」
「もっと嬉しそうに言えよ」
 少年は沈黙する。本棚がぎゅうぎゅうづめになっていて、カラフルな背表紙に華やいだ色をしている。
「昔は僕も笑ったものさ。家の近くの空き地で草花を摘んだり、一日空を見上げて移り変わるさまを不思議に思っていたりした。気になっている女の子もいたね、彼女は小学校の――三年生くらいで、遠くに引っ越してしまったけれど」
 少年は聞き上手でもあった。つらつらと唇からこぼれる音を黙って受け止めるものだから、僕はついつい余計に喋ってしまった。急な酷使に声帯が悲鳴を上げても言葉は吐き出されていく。僕が最後の言葉を押し出したとき、もう空は夕暮れの、淡紅に染まっていた。
 やわらかに染まる四角い空を僕は泣きそうな表情で眺める。ことり、と積み重なる時間を知る。時間も使い捨てだ。一度きりという言葉に翻弄されてしまう、かわいそうな存在だ。
「明日が、最後だよ」
「――そうかい」
 今日、私はずっとずっと遠く、手の届かないところにまで、そう車でも電車でも飛行機やあるいはロケットでさえ辿りつけないような遠い遠い所にまで消えてしまいました。朗々と少年は暗唱する。少年の編んだ音を空は吸い込む。悲しい余韻を残しては消えていく。
 カチリと音を立てて蛍光灯をつける。苦しそうな光が灯る。僕はぼんやりと空を眺めた。空が深い色へとその身を投じていく。吐き出した息は白く染まった。
 そう、僕は本当に気づいてしまったのだ。この動かない脳に裏切られてしまった。少年が何者かなんて、ここがいったいどこなのかなんて。よくできた牢獄だと僕は嘲る。嘲りの感情すら本となって形を持ってしまう。
 地球儀が回る。僕の居場所はない。本棚は空である。思い出は捨てられた。蛍光灯は消える。未来なんてない。毛布はだんだんと汚れていく。それもそうだ、所詮使い捨てのずたぼろの雑巾だ。
 少年は夜になっても帰らなかった。蛍光灯は最後の悪あがきをしている。消えて、点いて、消えて、点いての繰り返し。あと何呼吸かしたら僕は真っ暗な空間にほっぽり出されて、冷たい夜気に肺を炙られて窒息死してしまうんだろう。それはそれですばらしい最後のような気がした。閉じこもったまま出口も見つけられないような人間の終わりにはふさわしいと、思えたのである。
「君さあ」
「なに?」
「外にいて、寒くないの」
「決まってるじゃん。寒い」
「バカじゃないか」
「あんたもね」
 風邪を引いたらどうするつもりなのかと、口を開きかけたところで言葉を呑みこんだ。もうすぐなのだ、かつて僕が望んだ終わりまで。
「もうすぐ明日だよ」
 少年が硬い声音で告げる。窓の中心に半月が差し掛かっている。もうすぐ時計の短針と長針が同じ数字を指すのだ。僕に終わりが通告される日がやってくる。僕の心は凪いでいた。風もない、白波も立たない広大な海みたいに、落ち着いていた。
「これで本当に最後だよ。ねえ、その部屋に出口はないの? 俺じゃあ開けられないんだよ、ノブを回して出てきてったら」
 もはや少年は呆れている。君の最後の成れの果てだよと笑ってやろうかと思ったけれど、さすがに意地が悪すぎるかと止めた。代わりに汚れきった毛布を羽織る。あともう少しで、この虚構の世界は夜にぱっくりと食べられてしまうのだ。
「だから、はやく開けてって言ったじゃん」
 もう蛍光灯が死ぬ間際だというのに、存外少年は往生際が悪い。僕はふっと息をこぼした。それが笑みなのか、ため息かなんてのは、もうわからなかったけれど。ぼやけていく思考の中で、僕は外へと続く逃げ道を夢想した。ドアは明かり窓のすぐ下に隠されていて、古めかしい金色のノブが掴みやすい高さについている。下部には幼い頃僕が落書きした下手くそなヒーローが描かれていて、この世界に疫病をもたらそうとする邪悪な悪役をぎったぎたにのしているのだ。
 僕は暗闇に身を寄せた。これから、僕が光に照らされることはない。最後まで僕を見捨てようとしなかった少年には悪いことをしてしまった。そこに後悔はまったくないといえば、少年は泣き声で怒るのだろう。
 真っ黒い意識の中にきらびやかに存在を主張するドアが少しずつ開いていく。その向こうから真っ青な光が漏れてくる。まるで夏の蒼穹のような、終わりのない広がりと透明感を持つそれを柄にもなく美しいと思った。あの紙飛行機みたいに溶けていけたらそれは至高の幸福だ。混ざり合ったそこにはもう苦しみも悲しみもない。あるのは開放感と喜びと――それからなんだろう、涙を流すぐらいの賛美が僕を包むのだ。
「残念だね、俺、あんたを見捨てられるほど冷酷じゃないんだ。はい、新しい蛍光灯」
 もう意味を成さないはずの聴覚が妄言を拾う。夜に飲み込まれるはずの視界はいつまでたっても青い光に包まれたままで、これは異常であると大脳が告げてくる。さわやかな風が僕の頬を撫でた。
「俺じゃあ手が届かないからさ、あんたが取り替えてよ。ほら目ぇ開けて」
 いつまで子どもみたいに知らん振りするの、子どもの時代は終わったんだよ。ほら、俺が最後だ。しがみついたって時間は進んで、蛍光灯みたいに擦り切れて死んでしまうんだ。その前にバトンタッチをしよう。明日は新しい蛍光灯が煌々と灯っているんだから。
 耳朶が拾う少年の声はいっそ恐ろしいほどに慈愛に満ちていた。恐々と瞼をあげた視界には青い光が広がっている。少年は青い清廉な光を背中で受け止めて、もはや真っ黒い影にしか見えなかった。
「外は、夜だ」
「違うって。外は昼でも夜でもないよ。ただ……夜になるときもあるから蛍光灯が必要なんだ。暗い道は気をつけて進まないと冷たい川に落っこっちゃうかもしれないから」
 少年が身をかがめる。同じ高さの視線になる。少年が僕の腕を掴み、白くて硬い何かを握らせる。少年の手のひらはやわらかく、そして炎のように熱かった。
「今日が新しい始まりって言ったら、なんだか恥ずかしいや。さあ、消えちまった私のもとに俺は辿りついた。ねえねえ、褒めてくれる? 昔、俺らの母さんがいい子ねって頭を撫でてくれたみたいに!」
「それは――あれかい。初めてのおつかいが成功したときみたいにかい」
「そうさ! そんな単純なことが、俺をここまで導いてくれたんだ」
 少年が笑う。触れ合った二人の手のひらからじんわりと冷たい蛍光灯に熱が移っていく。とっくに古い蛍光灯が切れた室内は、青い光で満たされていた。部屋の様相が様変わりする。本棚の数が増えた。そこには今にも溢れ出さんばかりの書物があり、地球儀がピタッととある島国の、無名の一地方を教えている。毛布は高価そうな羽毛布団へと変身して得意げだ。
 僕は立ち上がる。部屋の面積が六畳、八畳と大きくなっていく。腕を目一杯伸ばせば、天井へは簡単に届いた。古い蛍光灯をはずそうと手に力を込めると、意外とあっけなくそれは僕の手の内に収まる。羽毛のようという例えには語弊があるけれども、その驚くほどの軽さに僕は戸惑う。僕が、心を預けていたのはこんなにも脆いものなのだ。
「こんなものなのか」
「そうさ、そんだけの重みしかないものが、あんたを照らしていたんだ」
 僕は新しい蛍光灯を取り付ける。その間に少年は古い蛍光灯でぷらぷらと遊んでいる。腕にくぐらせたり、回したり、ときには首にかけたりして。
「終わった?」
「終わった」
 確認の言葉を投げ合って、僕と少年は相対する。少年はきょろきょろと落ち着かなさげについ先ほどまではわずか四畳半であった空間を見渡して、それから満足げに「よし」と頷いた。少年は古い蛍光灯を天使の輪っかのように頭上に高く掲げ、精一杯手を伸ばして届くあたり――僕の心臓の位置に手を置く。
「いつでもここにいるから……なんちって!」
 満面の笑みで少年は消えていく。小さく腕を振る動作をかろうじて僕の眼球は捉えた。きらりきらりと輝く粒子が新品同然の畳の上に降り積もる。僕はかつて空想に励んだ明かり窓を眺めた。それよりもっと広い出口が、空に向かって開いていた。
「さてどうやら、僕は昔から自分に甘い人間らしい」
 なんでもない呟きを、空は宝物のように抱きしめた。   

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