さらし文学賞
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 子どもの頃、夜になると地面に耳を当てることがあった。コンクリートの表面は太陽が照っているうちにはとても熱くて、真冬の一時くらいしか直接触ることはできない。しかし、夜になれば、皮膚の中でも皮膜の薄くて敏感な部分で触れても、さほど害はないことは誰が教えてくれたのだろう。私は周りに誰もいないことを確認すると、我が家の傍の公道に寝そべって、ざらざらした場所に耳を直接当てていた。その状態のまま、しばらく経つと、自分の心音はまったくうるさくなくなって、代わりに遥か下の方でごおごおと何かとんでもなく大きなものが動いている音が聴こえてくるのだった。
 私は音の正体を知っていたのだろうか。周囲の大人は相手にしてくれなかった。ねえ、聴こえるよ。私はいつもそうするように道に寝そべって言ったが、ただ汚れるからそんなことはするなと怒られただけだった。そして、そのうち、何故だか自分も音のことは気にしてはいけないような気がして、地面に顔を近づけることもなくなってしまった。
 高校を卒業してから少しの間、小さな繊維工場に勤めていた。そこで、神経を病んだ。地元に戻ってきたのは、決まった職を失って、自分の稼ぎが頼みにならなくなったからだ。何年か離れていたうちに、姉夫婦には子どもがふたり生まれて、生家に私が入る余地はなくなっていた。子ども時代を過ごした四畳半は五歳の男の子と三歳の女の子の子ども部屋になっていて、しかたなく、駅の近くの小さなアパートに暮らすことにした。
 親からいくばくかは生活費を頂いていたから、引っ越してからほどなくしてはじめた派遣会社の登録社員としての給料と足せば、慎ましく暮らす分には問題がなかった。生活が少しだけ、安定すると、身の回りに新しいことは特になくなって、その中で甥と姪だけが顔を合わす度に身体の大きさを伸ばしていた。
「おじちゃまは、いつも何をしているの?」
 そんなことを聞かれたのは、姪が小学校に上がった年のことだったと思う。私は休みの日の常で、小さな自分の部屋の中を綺麗に片付けると、昼過ぎに生家をたずねていた。昼食はたいてい、姉か母が作ってくれて、私はそれを待つ間子どもたちの相手をしていた。しかし、不意に目の前で無邪気に笑っていたはずの女の子が、神妙な、子どもらしからぬ顔をしたので少し怖くなった。
「何もしてないって、ママが怒ってた」
 一人前に他人を嘲るような風にして、姪は言う。私は自分の知らないこの家の日常を見たような気がして、少しがっかりした。
「何もしてないわけはないよ」
 そう答えると、姪は勝手に納得したように、そうだよねと返事をした。「息をしているし」
 私は何も言えなかった。言いたいことは多くあったが、姪にぶつけることは何もなかったから、鼻からはただ、はあはあと息が漏れただけだ。そうしていると、姪は面白がって、ほら息をしてると言うのだった。
 自分も何かしないと、と思ったのはその日の姪の言動だけがきっかけでもないのだろう。しかし、私はまだ二十代半ばで、そう言われて反発を覚えるくらいには燻っていた。仕事もパートタイムの雇用に等しかったから、将来は見えそうになかった。かと言って、勉強ができるわけでもない。
 夜になると不思議な音が聴こえるようになったのはそんな最中のことだった。
 日中、スイミングスクールの受付作業や通販会社の苦情対応の仕事をしているときに、常にこの先どうすればいいのか考えている自分がいた。それは、仕事が終わって手が空くと尚更だった。もしかしたら、その煩悶が形を変えて私を襲うようになったのかもしれない。はじめに音が聴こえてきた夏の夜も、直前までは将来のことを少なからず考えていた。
 ごおごお、というその音は遥か遠くから、しかし確実に聴こえてきた。私は飛び起きると、突然訪れた音の源を探したが、それは辿ってみれば足下から聴こえているようなのだった。うるさいというわけではない。しかし、響きは鳴り止まずにいつまでも続いている。慌てて、自分の部屋を飛び出して外に出てみると、やはり同じような音量で鳴り響いていた。
 私は、偶然隣の部屋の男が買い物から帰ってきたのを見つけた。呑気に鼻歌を歌っていたが、私に気が付くとかしこまったようにぴたりと止めてしまった。
「こんばんは」
 彼は言った。私も一応、挨拶を返す。それから、
「何か、鳴ってますけど、どうもうるさいですね」と切り出した。
 だが、彼はきょとんとした顔つきで、はあと息を漏らしたのみだった。「……鳴っているって何が?」
「え? 今も聴こえてるこの音が、です」
 男はいぶかしむような顔をして、通りの方は少し騒がしいかもしれませんけど、と呟くような声で言った。その間にもごおごおという大きな音は鳴っている。私は、もしかしたら自分にしか聴こえていないのかもしれないと思い直して、「変なことを聞いてすいません」と詫びた。
 その時間帯の大通りの方はいつも車の通りが多いから、騒がしい。だが、そういう音と私が今聴いているこの音は明らかに違う。私は音源を探そうとふらふらと歩き出した。足下の方から聴こえていたから、てっきり坂の下まで下れば何か見つかるかもしれないと思ったのだが、坂の下の国道に出ても、やはり音は足下から聴こえていた。
 何か、工事でもしているのかもしれない。夜の国道沿いの小さな歩道にひとり立ち尽くして、そう思い直したところで、自分が慌てて飛び出した所為で酷い格好をしていることに気が付く。今来た道をできるだけ他人に合わないようにと思いながら引き返して、部屋に戻ると、そのまま眠ってしまった。

    ○

 子どもの頃のことを思い出したのは、地下からはじめて音が聴こえた日から、しばらくしてからだ。
 その年末に私は高校時代の旧友の紹介で、近所の製薬会社の事務職に就くことができた。それを機に、親からの経済援助は一旦断ったものの、職場は今までよりも近くなったので、定期的に生家に顔を出す生活は変わらなかった。
 音はすぐに止むだろうという私の予想を裏切って、いつまでも鳴り響いていた。昼は幽かに、夜ははっきりと足下から聴こえてきて、止まることがなかった。私は少し耳障りに思って、工事をしている団体に苦情でも言おうと思ったが、探してみてもその時期、自宅の近辺の地下で工事をしているという事実は見つからなかった。考えてみれば、工事現場特有の硬いものを削るような荒々しい音と、地下から鳴る音はあまりに異なっている。しかし、それならば何の音なのか、検討もつかないで毎日を過ごしているうちに、なんだか常にうるさい状態に慣れてしまった。
 出張で少し遠くの都市に出ることになったのは、事務の職をはじめて一年くらい経ってからだ。そして、子どもの頃のことは帰り道にふと思い出した。私はその日、使うはずだった帰りの電車が人身事故で停まってしまったので、しかたなく遠回りをして他の路線で帰ることにしていた。各駅停車で一駅一駅ゆっくりと自分の乗った車両が進むうち、ふと気付くと自分がかつて住んでいた町に差し掛かっていた。
 高校を卒業してから、就職をした繊維工場は家から遠く離れていたので、大学に進学した多くの友人と同じタイミングで私もひとり暮らしをはじめた。実際には三、四年ほどそこに住んでいたわけだが、当時の私の生活はごく単調で、時間の感覚が曖昧だ。ただ覚えているのは、夕方の休憩時間になって工場の中から出てみると、一気に暗くなった空が目の前に広がって、舌打ちをしていたことくらいだった。私の知らない時間がまた流れてしまった。そんなことを考えて悔しくなったのかもしれない。
 電車の窓からその頃の私に関する細かな場所が見えないか、よく目を凝らしてみたものの、もうすぐ工場が見えるというときになって急に車両は地下に潜ってしまった。外が暗くなった所為で急に窓に映し出された自分の顔を見ながら、私はふと久しぶりに地下から聴こえる音のことを思い出したのだった。車輪が回るのに合わせて、ものとものがぶつかる音ががたがたと騒がしく響いていたが、よく耳を澄ませば、その中にごおごおという例の音が混じっていた。私ははっとした。住処から遥かに遠い、こんな場所でも音が聴こえているということに気付いてしまったからだ。そして、同時に自分が大人になるずっと前にこの音を聴いていたということを思い出してしまったからだ。
 思わず、手にしていた鞄を落としてしまった。中に重要な書類が入っていることを思い出して、慌ててすくい上げようとする。が、勢い余って身体ごとバランスを崩してしまった。途端に、後ろから手が伸びてきて私のスーツの肩を掴んだ。振り向くと、大柄な男が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
 助けてもらったのだと気付くと、少し恥ずかしくなる。軽く礼を言うと、私は改めて鞄を拾い直した。それから、一度深呼吸をした。
 頭の中では何か、とてもすっきりと配線がつながったような気分でいた。子どもの頃、軒先で聴いていたあの音と、大人に鳴ってから不意に聴こえるようになった音が重なる。何故、そのタイミングでそれに気付いてしまったのかは分からなかった。しかし、自分は重大な事実に気付いてしまったのだという気がした。
 そこから家の最寄り駅に着くまでの時間は少しじれったかった。改札を抜けると、家とは反対の出口を抜け、駅前のロータリーの一角にあるインターネットカフェに入った。通された個室のパソコンを立ち上げると、私は思いつくままに地下から聴こえてくる音の正体を探りはじめた。
 生家のある場所は私が小学生の頃に区画整理が行われた関係で、ガスや水道の配管が多少複雑に入り巡っているようだった。だが、だからと言ってあんな音は出ないだろうし、離れた土地を走る電車内で聴こえたことの説明はできない。
 また、地殻変動が起こった際に聴こえる音についても調べることができた。地下十数キロまで潜れば、動く地殻の発する音を聴くことができるようだった。しかし、地上から、器具も使わないで同じように聴くことはできるのだろうか。大学すら進学していない私に詳しいことは分からないが、これも現実的ではないように思ってしまう。
 私の住んでいる土地では地下を走る電車も自動車もないから、結局のところ原因らしい原因は分からずに終わった。パソコンの電源を落として、店を出たとき、私はもう一度目を閉じてみた。午後六時半の駅を埋め尽くす喧噪、居酒屋の客引き、子どもの声。聴こえてくる音の種類から言えば、通りを走る車の音や正体の分からない音楽よりも、人間が発する音の方が遥かに多かった。そして、その中にやはり、ごおごおと地下からの音は混じっているのだった。
 思わず、私は両方の手のひらで耳を塞いだ。力を込めると、すべての音量が半分くらいになる。
 だが、予想に反して、例の音だけはまったく変わらず、耳に入ってきていた。
 うるさいな、と久しぶりに思った。もしかしたら、思ったのみではなく、口に出していたかもしれない。不意に、近くに立っていた緑色のコートの女性が振り向いた。大きな瞼を見開いて、まっすぐにこっちを向いてくる。私は二、三時間ほど前に電車の中で助けられたとき、覚えたのと同じような羞恥を覚えて、歩き出した。
 しばらく歩いて、商店街の入り口に差し掛かったとき、ふと振り向くと、さっきのひとが遠くに立っていることが確認できた。誰だか思い出せるような、思い出せないような変な違和感がある。前に会ったことがあったっけ。考えても答えの出ないまま、また歩くうちにだんだん、頭の中のそのひとの顔は朧げになっていった。

    ○

 姉夫婦の旅行に付き合わされたのは、甥と姪の面倒をみるためだった。旅行と言っても、一泊二日だけだが、行き先の避暑地の近くには巨大なアウトレットモールがあって、姉にとってはそこで服を買うのが目的のようだった。小学五年生になった甥と二つ年下の姪は、ファッションにはまだ興味がないから、一日中買い物に付き合うと疲れてしまう。生憎、姉の夫はその日、大学時代の友人に会う用事ができてしまったため、代わりに私が姉夫婦の旅行に同行して、甥と姪の相手をすることになった。
 そういう事情だから、初日に甥と姪と近くの小さな町の遊園地を回ると、夜は彼らを両親に引き渡して、終電で地元に帰ってきた。姉夫婦はどこかのコテージの一間を借りて、そこに泊まるのだと言っていた。一応、私は次の日も会社に有給の申請をしていたものの、姉がいるとは言え、ひとつの家族の団らんに割り入るのも気がひけたから、退散することにした。しかし、帰りたかった理由はそれだけではなかった。
 翌日は一日中、雨が降った。診察室から出ると、窓の外ではまだ黒い雲が立ちこめていた。私は、遥か遠くの姉たちのところにも同じように雲が立ちこめているのだろうか、と思った。落ちてきた雨水は何かに当たると、弾けて音を立てる。それが、壁を伝って、室内にいても聴こえていた。そしてその中においても、うなるような音が絶え間なく響いていた。
 音は、確かに聴こえているのだ。どんな場所に行っても、地下で何かが動いている。ただ、私にしかそのことは分からない。
 耳鼻科には定期的に通っていた。耳鳴りがする、と言うと聴力検査で異常のないことを確かめられた後、たいてい粉薬を処方された。だが、それを飲んだところで音は鳴り止まなかった。
 精神科にも行った。一度、精神安定剤を断ってしまってからは、もう何年も何となく足が遠のいていたものの、もしかしたらそのことがよくなかったのかもしれないと思ったのだ。カウンセリングを受けてから、心を落ち着かせるための薬を処方してもらった。私は就寝前、その錠剤を飲み下すために水を一杯コップに汲んで、それからまったく口を付けないまま、流しに捨てた。耳元で聴こえる大きな音は、薬を飲んだ程度で聴こえなくなるはずがない、という確信が何故だか私の中にあることに気付いたからだ。ただ闇雲に気持ちを抑え付けられる感覚を味わうのは嫌だった。
 姉夫婦の旅行先でも、やはり音は聴こえていた。私は家の近所にある総合病院の耳鼻科でそのことを言うと、トリノシンの粉末の処方箋を書いてもらって、薬局で受けとった。横殴りの雨は傘を差していても中に入ってきて、薬局を出てから図書館に移動するまでの間に服がびっしょりと濡れてしまった。自動ドアをくぐると、暖房が効いていて少し安心する。
 昼過ぎまで、集中して地球科学関連の専門書に目を通していた。高校では生物を選択したから、習わなかった分野だ。中学生の頃の理科の中身もあまり覚えていない。だから、今になって最低限の知識を身につけようと思っても、容易ではなかった。仕事の合間を縫って、図書館の本や参考書を読んだ。半年ほどかかって、一般の理系大学生が知っているのと同じくらいの内容は頭に入った。
 しかし、学べば学ぶほど、ある程度の深さの地殻やその下のプレートの動きが地上にいる我々に音として直接伝わるはずもないことが分かってしまう。地下十数キロのところで、人の叫び声が聞こえるという眉唾ものの報告にも目を通した。平日の仕事帰りにインターネットカフェで検索した情報の真偽を、休日に図書館の専門書で確認する。たいていは専門知識を通して見れば、それらが民衆を驚かす単なるはったりであることは見抜くことができる。だが、いくら探しても私が求めるような知識は見つからなかった。
 表紙に「地学」という二文字だけが書かれた厳めしいその本の中身に没頭していた私は、声をかけられたとき、気付かなかった。
「ねえ」
 肩を叩かれて、ようやく顔を上げる。遠くの壁掛け時計が示す時刻は既に午後になっていて、傍にはいつの間にいたのか、髪を肩の辺りで切りそろえた女のひとが立っていた。声をかけても気付かなかったものだから、と謝ってくる。
「これ、落ちてました」
 茶色のコートの袖から飛び出た白い手は私の携帯電話を握っていた。恐らく、本を選んでから閲覧席まで動く間にポケットから落ちたのだろう。私は軽く頭を下げると、受け取った。ボタンを押して起動してみたが、何の異常もなさそうだった。
「どうも」
 傍のひとに声をかける。すると、彼女はもう一度口を開いて、不思議なことを言った。
「いつも、机の上に出しているのに、今日は出していないようだったから。……向こうの棚のところに落ちてましたよ」
 はあ、と呆気にとられる。言葉の意味を少し考えてから、思わずまじまじと相手の顔を見つめてしまった。どこかで見たことのあるような気もするが、思い出せない。少し厚めの唇の上には何か塗っているようだったものの、全体的に見れば、決して化粧の濃い方ではなかった。目元がはっきりして見えるのは、単に睫が長いからだろう。年はまだ若いようだ。
 私の中のいぶかしむようなところを見透かしたのか、彼女は少し微笑んだ。
「私も、いつもここの机の席に座ることにしているんです。何度も正面に座ったことがあるんだけど」
 そう言われれば、その通りのような気もする。しかし、今ひとつ思い出すことができなかった。
「……そうですか。集中すると周りが見えなくなるみたいで」
 言葉を選んで返した。すると、彼女は少し芝居がかったように人差し指を立てて突き出した。
「それに、この図書館以外でも会ったことがあるんですよ」
 彼女の言葉に、今一度頭の中を探ってみるものの、やはり思い当たりそうもなかった。基本的に私には異性の知り合いが少ない。高校時代に関わった何人かの女友達を除けば、繊維工場にいた頃も、地元に帰ってきてからもほとんど知り合いと呼べる女性の数は増えていなかった。勿論、目の前の彼女を、今の職場の周辺で見かけたことはない。
「失礼ですが、人違いではないでしょうか?」
 私がたずねると、彼女はぼつりと一言、うるさいな、と漏らした。顔は微笑んだままだから、少しぎょっとする。が、不意に私の頭を、昨年のちょうど今と同じ頃の記憶がかすめた。思わず、あっと声を出してしまう。私は確かにその言葉を口に出したのかもしれない。記憶の中でどろどろに溶けていた像が目の前のひとの顔の形に固まった。
「……コートの色が変わっていたから、気付かなかった」
 一年以上前、私は駅前のインターネットカフェを出たところで彼女に会った。決して声を交わしたわけではない。正真正銘の赤の他人のはずだった。ただ、彼女は大きく見開いた目で私のことを見つめていた。そのことが何故だか、印象に残っていた。
「思い出してくれないと思ったけど、意外とすれちがった程度でも覚えているものかな」
 彼女は殊更に笑みを浮かべて、そんなことを言った。

    ○

 休みの日曜日に図書館に行くと、彼女は確かに私がいつも使う机で何かの本を読んでいる。私が「地学」に目を通し終わる頃には、会えば必ず少し話をする仲になっていた。と言っても、場所が図書館だから、挨拶程度の内容には違いない。だが、そのうちにアドレスを交換すると、もっと色々と他愛ない話もメールを通してできるようになった。
 来週の日曜日はちょっと、図書館以外で話してみませんか。それがメールによるものだったのか直接彼女の口から出たものだったのかは覚えていない。ともかく、そう誘われたのは図書館ではじめて彼女に気付いたあの雨の日から半年以上経ってからだった。その頃にはコートを着る季節はもう終わって、まだ暑いとまでは行かないものの、薄い長袖の服で充分生活できた。
 待ち合わせた場所は、駅の改札の前だった。職場の同僚に見立ててもらったジャケットを羽織って、約束の十分前に辿り着いたとき、私は既に待っている彼女の姿を見つけた。目が合って、お互い少し微笑む。早いですね、と言うと、私も今来たところですと返された。
 連れ立って、一番近い喫茶店に入った。通っているインターネットカフェの隣の店だ。そのことを伝えると、
「家にパソコンはないんでしたっけ?」
 彼女はたずねた。注文してから、すぐに運ばれてきたコーヒーを一口すすって、私は頷いた。
「家に余計なものを置きたくないんです」
「なるほど。でも、何が余計で何が余計じゃないかなんて、分かる?」
 意地悪をするような目をして、そんなことを彼女は言った。少し戸惑ってから、たぶんと私は答えた。
「そういえば、はじめて会った場所は、すぐそこでしたね」
 話を変えようと思って咄嗟にそう言う。しかし、突然口から飛び出したにしては、それは今まであまり触れてこなかったことだった。彼女はそうですね、と言って微笑んだが、その奥にある感情を見出すことは叶わなかった。
「……あのとき、何がうるさかったんですか?」
 たずねられると、途端にごおごおという音が耳障りに聴こえてきた。私は窓の外に目をやった。あの日、私が立っていた場所を見る。彼女はどこから出てきたんだっけ。
「地面から聴こえてくる音です」
 私の言ったことを冗談にでも受け取ったのかもしれない。彼女は面白いことを聞いたというような笑みを作ると、そう、と呟いた。図書館で自分が彼女の顔を思い出したときと、それが同じ表情だということに私は気付いた。
「だから、地面のことについて勉強しているの?」
 どこまで信じているのか分からないが、彼女はそう聞いた。「何をあんなに追い求めているのか、今日はちょっと聞いてみたいと思ったんです」
 私はまた一口、カップの中の黒い液体をすすった。窓の外はよく晴れていて、日曜日にしては静かだった。太陽がきつく照らしているから、歩道のアスファルトに今、耳を付けたなら火傷してしまうかもしれない。だが、そんなことをせずともはっきりと地面から聴こえる音を私は耳にしていた。
「……ずっと前から僕にだけ聴こえていたんだ」
 一度、話し出してしまえば止まらなかった。彼女は私の目を見つめて、時折相槌を打った。私は自分が子どもの頃に聴いていたのと同じ音が、再び聴こえ出す前のことについても細かく話をした。自分が神経症だと診断されたことや、今も薬を服用していることは普段ならば、あまり言いたくはない事実だったが、彼女に対しては言っても良いような気がした。
「どんな音が聴こえるの?」
「うーん。なかなか説明しにくいんだけど、何か大きなものがごおごおと動いているような感じなんだ」
 彼女は納得しているようなそうでないような複雑な表情をした。所詮、自分の感覚でしかないし、それを事細かに伝えるだけの語彙があるわけでもない。分からないと思うけれど、と言い足すと私は話を続けた。
 現在に辿り着くまでには二時間くらいかかってしまった。しかし、結局のところ、私は自分だけが聴こえる音のことと、調べれば調べるほどそんなものは聴こえるはずのないことが分かってしまう苦悩を吐露していたに過ぎないのかもしれない。
 私が話し終えると、それまでひたすら真剣な目をして相槌を打っていた彼女は、少しだけ自分の話もした。普段は隣町の私立大学で職員として働いていることや、住居が図書館の近くにあること、それから年齢は私と同い年であることなど、ほとんどの事柄は既に日常的なやりとりの中で知っていることばかりだった。もしかしたら、彼女なりに私と対等になろうとしてくれているのかもしれない、とふと思った。
「私の話はこのくらい」
 そう言って、彼女は話を終わらせた。そして、すっかり冷めてしまった自分のカップの中身を飲み干した。それで、と彼女は言う。「あなたの希望は音の正体を見つけることなの?」
 そんなことは長い話をせずともすぐに分かることだった。だが、その通りだと口にしてから、何かその言葉に納得してしまう自分がいることに私は驚いた。音は確かに聴こえる。ずっと響いている。だが、いつからその正体をつきとめることに固執していたのだろう。
「それなら、大学の教授にでもなって、研究することね」と彼女は言った。

    ○

 高校を卒業した後、私が大学に進学しなかったのは、学びたいと思えることが何もなかったからだ。高校生の頃の私は妙に自分の選択に自信を持っていて、ただ漫然と学生の身分で過ごすだけの未来を良いとは思わなかった。それで、高校二年の進路相談の頃には早くも就職を希望していたのだが、結果的に良い判断だったのか悪い判断だったのか、大人になった今でも分からない。ともかく、当時の私には興味のないことを学ぶことほど苦痛なことはなかったし、その上での選択が余計に興味のないことだらけの日常を呼ぶものだという予想もしていなかった。そして勿論、自分が随分経ってから、大学受験をする日が来るなんて微塵も考えていなかっただろう。
 喫茶店で彼女と話した翌週から、私は平日の仕事帰りにインターネットカフェに行く習慣を辞めて、その代わり英語や数学の勉強をするようになった。休日には図書館に行って、彼女の前でその一週間に学んだことの復習をする。新しく学んだことや思い出したことはたいてい話したくなったし、閉館時間が終わった後、彼女は私の話に熱心に耳を傾けてくれた。あっという間に季節はまた冬に差し掛かって、私の誕生日を通り過ぎようとしていた。
 その日、私たちは図書館ではなくて、近くの繁華街の小さなバーにいた。そして、彼女は私にどこかで見たことのあるブランドの印の入ったマフラーを誕生日プレゼントとして差し出した。
「ありがとう」
 私が言うと、彼女は微笑んだ。店を出たとき、時刻はもう随分遅くなっていて、彼女の家まで送ることにした。なだらかな坂道を上りながら、私たちは他愛ない話を続けた。久しぶりに飲んだアルコールの所為か、あまり地下からの音が耳障りにならなかった。それどころか、周りが静かであるとさえ感じてしまうようだった。その中で、彼女の声がよく聴こえた。私は何故だか、急にもどかしい気分になって、囁くように交際を申し込んだ。傍にいた彼女はもう一度、微笑んだ。
「図書館に通ったかいがあった」
 嘯くように、そんなことを言った。
 はじめての大学受験は、結果としては成功した。入学試験の日の少し前から、溜めていた有給休暇をすべて使って本番に臨んだ。隣町の彼女が働いている大学は学力の面から言えば、それほど入ることの難しいところではなかったが、私と彼女は張り出された合否発表をひどく緊張した顔で見つめた。そして、その一時間ほど後になってから、安堵の表情のまま、自分たちの少し前の姿を振り返って笑い合った。
 音は、うるさく思うときとあまり気にならないときがあった。嬉しい気分のときに急に耳障りになって、気分が悪くなることもあったから、決して私の感情に関係していることでもないのだろう。二十代が終わる頃から、何年か経つまでの間に私は仕事を辞め、部屋を引き払って彼女と一緒に住むことにした。平日は大学に通って、空いた時間には再びはじめた派遣会社の登録社員の仕事をこなした。
 専攻していた分野は地質についてだった。教室で一回り年下のひとたちに混じって、地球の環境について学ぶ。授業の後に、自分が聴こえる音について教師に質問しに行くこともあった。たいていは、おかしなことを言っているという扱いを受けたものの、中には興味深いというふうにしっかりと話を聞いてくれる者もいた。
「現時点では、器具がなければ地下深くのことは分からない。でも、そんな場所のことなんて、本当は誰が見たわけでもないんだ。君の体験が正しいか正しくないのかは、これからの研究次第なのかもしれない」
 地質調査を長く専門としている老教授は、遠くを見つめるような目をしてそう言った。ふと私は、彼が話す間にも聴こえている、何か大きなものの動く絶え間ない音の正体を知りたいと心の底から思った。それは、耳障りなものを取り除きたいという、今までの至極生理的な動機とは別の地平にあるものだった。
 地質の調査には半ば肉体労働の面もあったから、大学に在籍する四年の間に私は随分日に焼けて、体格も少し良くなった。そしてそのことを彼女にからかわれることがあった。
「大学教授になる前に、スーパーマンになれるんじゃない」
 彼女は後ろから私の背中を見て、冗談を言う。私はガッツポーズをとってみせた。そんなことが何度かあって、平穏と呼べる生活を過ごしているうちにも、やはり時間はあっと言う間に流れていった。しばらく経ってから思い出せば、子どもの頃と成人するまでの時間的な距離がほんのわずかなものに思えるように、私が彼女と交際をはじめてから、結婚をするまでは一瞬の出来事に思えた。
 大学では良い成績が来ていたから、二年目からは奨学金を返さなくても良いことになった。そのことは、私たちにとって大きな事実だった。と言うのも、製薬会社の事務の仕事を辞めた頃から、私は再び生家からの経済支援を受けていたのだが、甥も姪も少し離れた、中学と高校がエスカレーター式になった私立学校に入学した影響で、それが打ち切られることになったのだ。私本人の金銭状況が芳しくない一方で、彼女もあまり稼ぎの良いほうではなかったから、生活は逼迫していた。
「一緒にいることさえできれば、私はそれでいいと思ってる」
 彼女は口癖のように私に囁いたが、心では何を思っているのかつかめないところがあった。何より、だんだんと丸く膨らみはじめた腹部のことが気掛かりだった。事実が発覚したとき、ふたりで話し合って一旦は自分たちの子どもを生むことに決めた。しかし、現実的に出産とそれに伴う結婚の費用のことを考えれば、私の学費を払っている余裕はふたりにはない。むしろ、学費の分が消えたとしても家計は危うかった。
 派遣社員の他に、深夜にはアルバイトもはじめた。しかし、疲れた顔をして私が家に帰ったときに彼女が見せる、他人を慈しむような、それでいて自らのことを悲しむような複雑な表情を見ることは少し辛く感じた。そういうときはたいてい例の音をうるさく思ってしまう。授業に出て研究をして、派遣社員としてあらゆる事務処理をこなして、ファミリーレストランでは店内を歩き回って。ようやく辿り着いた眠りの中で、私はごおごおという音に心を揺らされながら、地質調査に使う掘削機のドリルのことを考えていた。ボーリング作業で使われるドリルは土を削って、深く深く進んでいくが、硬い岩盤に当たると砕けてしまうことがある。そうなれば、先の作業にはより強いドリルが使われるが、それまでのものはもう使えないので廃棄されてしまう。大学で実際に調査をしたときに見た、そういう光景が頭の中に残っていた。
 私の生活も同じように、どこかで駄目になってしまうまで延々と続くのだろうか。ぼんやりとそんなことを思っていた。頭の中で、ドリルは回っている。地面の中の音はずっと聴こえている。それらは決して交わらず、ただ邪魔なだけだった。やがて、何も考えられなくなる。ふわりと身体ごと浮かぶような不思議な感覚が私を捉えはじめて、慌てて私は目を覚ました。
 辛うじて首を傾けて、遠くの壁掛けの時計を見ると、時刻はもうすぐ明け方の頃で隣には彼女が横たわっていた。私は身体中が汗で覆われていることを不快に思って、起き上がろうと試みたが、足も腕もまったく動きはしなかった。ただ、頭が酷く痛かった。そして、あれだけうるさかった地下からの音が、まったく聴こえなくなっていることに気付いた。

    ○

「何も聴こえない」
 ベッドの上にいた私は、見舞いに来た彼女にそう告白した。六人部屋の病室はどこも淡い色で囲まれていて、現実感がなかった。その中で、彼女の着ている黒いカーディガンが妙に暗い色をしているような気がした。なにもってどういうこと。彼女はたずねた。私は手を動かそうとしたが、点滴につながれていて不自由だったためにしかたなく顎を動かした。自然に視線が降りる。彼女も私の見ている先を辿る。総合病院の二階の病室の白い床。
「地面から、ずっとずっと聴こえていた音が、まったく聴こえなくなった」
 彼女は顔を上げて、そう言う私の方を見つめた。「前に言っていた、地下から聴こえている音のこと?」
 私は頷いた。しかし、彼女が本当にそう言ったのかは分からない。向こうで聞こえる患者同士の話し声も、看護士が食事を運んでくる音も、ぼんやりとしていてとりとめがなかった。それというのも、ずっと聴こえていたはずの音が急になくなってしまった所為で音と音の間を埋めるものがないようなのだった。彼女の声も例外ではなくて、全ての音は妙な静寂の中に漉されてぼんやりと聴こえてきた。
「それは良いことなのかしら、それとも悪いこと?」
 判断しかねるというふうに彼女は言ったが、私はただ首を振ってみせたのみだった。なんだか気分が悪い。過労でどこかの血管が切れてしまったのだ。体調が悪いのは当たり前だったが、胸の中が妙に嫌な気持ちで一杯なのはその所為ばかりとも言えないようだった。大学の授業は事務の方に連絡して、公欠がとれるか聞いておいたからだいじょうぶ、と彼女は言った。私は回らない頭を無理矢理動かして、授業のことを考えた。だが、地面からあれだけうるさく聴こえていた、耳障りな音が突然聴こえなくなった今、地質に対する関心はまったく湧かなかった。
「どうでもいいんだ」
 そう呟くと、私は窓の外に目をやった。耳鼻科のある三階とは高さこそ違うが、診察室を出る度に見ていた景色とカーテンの隙間から見えている景色は同じだった。隣の建物とその上に広がっている空の青い色。そういえば、彼女と図書館ではじめて会った日にもこの景色を見ていた。もっとも、あの日は雨雲が立ちこめていたが。
「こんなに頑張らせてごめんなさい。お腹の中の子が生まれたら、私もまた頑張って働くから」
 彼女は申し訳なさそうな顔をした。私はまた首を振ると、「いや、」と否定した。「大学は辞める。それで、ちゃんとした仕事を探すよ」
「……どうして」
「音が聴こえない以上、もう教授になる理由もないんだ。幻を追い求めるわけにはいかない」
 一言一言、噛み締めるように話した。口に出してしまうと、それは単なる思いつきではなくて、もう随分前から考えていたことのように思えた。同時に、私の選択はこんなにも脆いものだったのだ、と分かって悲しくなる。そんな心中を知ってか、彼女は怒るような表情をした。約束したじゃない、と言う。
「うん、した。音の正体を見つけるって」
 でもなかったんだ、そんなものはと言う声は消え入りそうだった。しかし、そのとき、私の言葉を掻き消すような強い語気で彼女は「ある」と言った。
「本当にそれが地下から聴こえている音なのか、私は知らない。でも、絶対に、あなたが聴いていた音は実在する音なの」
 一息にそう捲し立てると、彼女は居住まいを正した。急に大きな声を発した所為で、周囲にいた患者や付き添いの親族が驚いたように私たちの方を見ているのが見えた。一方で彼女の声は音が聴こえなくなった分の隙間を埋めるようにすんなりと私の中に入ってきた。どういうこと、と私はたずねる。
「私、あなたに隠していたことがある」
 今度は囁くような声だった。「二十六歳の冬、私とあなたははじめて遭遇した」
 私は図書館で知り合う一年前、冬の日にたった一回だけすれ違ったことを思い出した。肯定するように顎を少し動かして、瞬きをしてみせる。
「でもね、本当の出会いはもっとずっと前のことだったの」
「……ずっと前?」
 おうむ返しに私が言う。彼女は頷くと、遠くを見つめるような目をして、語りはじめた。

    ○

 小さな町だったから、小学生の頃は誰かが誰かのことを好きになれば、すぐに学校中に広がった。三組のあの子は上の学年の男の子のことが好きらしいとか、この前、誰かと誰かが公園で一緒にいるところを見たとか、そんな噂を耳にする度に私はなんだか、うんざりした気分になった。
 三年生になってしばらくして、初潮を迎えた。クラスでは一番早かった。自分で誰かに相談したのか、母が他の家庭に喋ってしまったのか、はっきりとしたことは分からない。けれども、気付いたときには周りの女の子が私のことを得体の知れない者として見ている雰囲気があって、誰がどこまで知っているのかたずねても誰も何も答えてくれなかったから、いらいらした。帰り道は一番幅を利かせていた集団にくっついて歩く。一つ上の学年の男子と付き合っていた女の子が、楽しそうに最近知った学校のスキャンダルを話していた。それはたいてい、心の奥底から下らないと思ってしまうものばかりで、そんなことに対していちいち大袈裟に反応する周りの子たちのことが不思議だった。でも、私もわざと同じような反応を繕っていた。
 家に帰ってしまえば、すぐに塾に行く時間になってしまう。テレビに映る子どもの学力低下問題を深刻に受け止めた母は、勉強をはじめるのが早ければ早いほど、子どもの成長の助けになると思っているようだった。だから、小学生になるよりもずっと前から私は駅の近くの学習塾に通っていて、そのことを疑問に思ったことはなかった、はずなのに学校の友達の会話が面白くなくなってきた頃からだんだん不満を覚えるようになった。
 この町は狭いから嫌い。道を歩いていれば、すぐに誰かと会ってしまう。塾の勉強は同じことの繰り返しだから、面倒臭い。まだ、中学校受験までには何年もあるのだから、全力で遊びたい。けれども、遊んでいて楽しい相手もいない。
 道に落ちている空き缶を蹴飛ばしながら、塾までの道を歩いた。我が家の前の小さな道を進んで、突き当たりを右に曲がって、橋を渡って、公園の横を通り過ぎて商店街に入る。その先を真っ直ぐ歩けば、駅の方に出ることができた。それなのに、魔が差したとしか言えないけれど、その日私はいつも通らない道を行こうと思ったのだった。橋を渡った後、商店街には入らずに違う小道の方へ向かってしまったのだ。
 どこにいたって、自分がいる場所のおおよその位置くらいは分かると思っていたのに、気付いたときには知らない住宅街に出ていた。私は自分が途方に暮れるべきか考えてみたものの、どう内省しても、そんなふうには思えなかった。寧ろ、喜びすら感じていた。しばらく歩いてみたものの、知り合いには会わない。スキップをするように私はどんどん迷っていき、そのうちに陽が暮れた。
 遠くで車の走る音が聴こえていたから、きっと大通りがあるのだろうと思っていた。そちらの方に出れば、最後にはきっと帰れる。塾に行かなかったことは怒られれば済むけれど、またここらへんに行けるように地名を覚えていよう。そう考えているうちに、辛うじて舗装されている小さな道の上で男の子が倒れているのを発見してしまった。
 私は恐る恐るその子のことを覗き込んで、あの、と声をかけた。すると、倒れていたはずのその子は途端にこちらの方を向いて、ねめつけた。
「静かに」と男の子は言った。その顔ははじめて見るもので、恐らくは同じ学校ではないのだろうと思った。
 何をしているの、と私はたずねた。男の子は寝そべったまま、耳を地面に当てるようにしていた。
「昼間は熱くて、直接触れないからね。日が沈んできてからじゃないとこうすることができないんだ」
 真剣な声でそう言われて、思わず空を見る。確かに陽はもうほとんど沈んでしまって、その辺りは街灯と周囲の家々が放つ灯りがなければ真っ暗だった。そんな中で、彼のことはよく見えた。肌が白かったからかもしれない。
「そうすると、何ができるの?」
 私が言うと、彼は「音が聴こえる」と返した。
「こっちにおいで」
 そんなことを言いながら、手招きする。私は通塾用鞄を肩から降ろすと、Tシャツが汚れるのも構わずに彼の横に寝そべった。恋愛なんて興味がないと思っていたのに、少しどきどきした。彼は落ち着いた声で何をしているのか教えてくれた。
「アスファルトのずっと下では歯車が回っているんだ」
「……はぐるま?」
「そう。それが上手く噛み合って回り続けているから、地球は回っているんだ」
 私は、地球が太陽の周りを回っているということを塾で習ったのを思い出して、彼に言った。「……でも、はぐるまのことは習わなかった」
 彼はにんまりとした。
「それはそうだよ、僕がはじめて気付いたんだから」
 私は馬鹿らしくなった。けれども一方で、そう信じて疑わない彼のことを少し羨ましく思った。そのくらいには小学三年生の私は大人で、同い年の彼は幼かった。
 ところが、さあ耳を澄まして聴いてごらんと促されてアスファルトに耳を付けると、急に大きな音が聴こえてくるのだった。私は思わず、息を呑んだ。すると、音は少し乱れて、正体が明らかになった。心臓の音がうるさかっただけなのだ。私はそれを伝えようとした。が、隣の彼はまた、静かにと囁くような声で言った。大人しく従っていると、だんだん呼吸も落ち着いてきて、心臓の音が気にならなくなる。遠くの通りの喧噪がはっきりと聴こえてくる。そして、得体の知れない新しい音が姿を現す。
 その音は確かに、何かが噛み合って動くような音だった。
「聴こえた?」
 彼は言った。でも、一度馬鹿らしく思った手前、私は素直に認めることができなかったから、首を振った。彼は少しがっかりしたように、残念だと呟いた。
「また、おいでよ。他の日だったなら、聴こえるかも」
 彼がそう言ったから、私はその道に何度も通うようになった。塾を休みたい気分のときに、そこで彼と地面に耳を付ける。ついでに、傍にあった彼の家で飲み物をもらった。母は急に塾をサボタージュするようになった娘に怒鳴ったけれど、私はべつに怖いと思わなかった。そんなことよりも、彼に会える方が嬉しかった。彼が「今日はどうだった」と言うのに対して、私はいつも首を横に振ってみせた。本当はいつだって聴こえていた。でも、否定すると彼は意地を張ってまた呼んでくれるのだ。
 初恋の終わりは唐突だった。母が、私をもっと勉強させるために都会の方へ引っ越すと決めたのだ。転校することは嫌じゃなかった。クラスメイトが餞別の品としてくれる、シールや文房具はべつに必要としていなかったし、彼女たちから離れることに涙は出なかった。それよりも、例の彼と会えなくなることの方が寂しかった。
 最後に会った日、私はできるだけ平静なふうを装って、「引っ越すことになったの」と伝えた。彼は身動きせずに地面に耳を付けたまま、やはり、「静かに」と呟いた。私は頷くと、自分もワンピース姿のまま寝そべって、アスファルトに耳を当てた。
 地球は、岩石やそれがどろどろと熱によって溶けたものが詰まってできた星らしい。学校の先生に聞いたことだ。でも、実際にはそんなことは世界中のみんなの勘違いで、素直に地面に耳を当ててみれば、本当のことが分かってくるのかもしれないと私は思った。ごおごおと大きなものの動く音がする。これが歯車なのだとしたら、きっとひとつの国と同じくらいの大きさのものが回っているのだろう。
「また、引っ越した先でもこうやって音を聴くといいよ」
 いつの間に彼は私の手を握っていて、近くで約束だよと囁いた。私は深く頷いた。
 けれども、約束は守ることができなかった。電車を乗り継いで、母と新しい町に引っ越した。父は仕事の関係でしばらくの間、前の家に住んでいたものの、私が再び訪れることのないうちに新しい住居にやってきてしまった。学校は前よりも遠くなったし、聞かれたくないことに首をつっこんでくる知り合いもいない。新しい小学校ではできるだけ、男子のことを話題にしない女の子たちと一緒にいた。引っ越した先でも塾には入ったから、放課後に遊ぶことは少なかった。その代わり、ひとりでいると実感する時間は多くなったように思う。
 新しい我が家はマンションの五階で、バルコニーの地面に耳をつけてみても、何も聴こえはしなかった。そこで、誰にも見つからずに彼との約束を守れる場所を探してみたけれど、都会はどこも汚れているような気がして、素直に寝そべることができなかった。そして、結局、一度マンションの裏のゴミ置き場の地面に寝そべっているところを母に見つかってひどく怒られてからは、もう音を聴くのは諦めたのだった。何より、考えてみれば、私はしっかりとあの、ごおごおという音を覚えていて、忘れていなかった。いや、忘れそうになる度にどんな音だっけと思い返すようにしていたのだ。
 また、あの男の子と会いたいと思っていた。何ヶ月か繰り返し、会っていたのに、名前すら聞かなかったことを後悔していた。道の傍にあった彼の家には表札がかかっていたような気もする。でも、そこに何が書いてあったのかはまったく思い出すことができなかった。大きくなったら、絶対に会いに行こう。そう思い込んで過ごした。どうやって、電車を乗り継いでいくのか、調べてノートにまとめたこともある。ふと、あの音のことを思い出す度に彼の手の感触や声が蘇った。
 中学三年生のときに男の子に告白された。野球部のキャプテンだった。中学校と高校はエスカレーター式だから、卒業と同時に別れることもなくて、軽い気持ちのまま三年間も付き合った。背が高くて、育ちの良いことがすぐに分かるような男の子だった。色々な場所に連れて行ってくれたし、プレゼントもくれた。ただ、ふと私が呟いた、「地面に耳を付けると、歯車の音がするんだよ」という言葉を嘲笑った。それで、別れることにした。
 大学受験の少し前、私は久しぶりに昔住んでいた場所を訪れた。前の住居はどこかの家族に貸していたけれど、父の失業を機にそれを完全に売り払うことになったのだ。母が挨拶しに行くのに私は付き添った。
「帰る時間までには戻ってくるから、ちょっとひとりで行きたいところに行っていい?」
 私が言うと、母は納得したような顔をして頷いた。小学校は改築して新しくなったみたいよ、と教えてくれたが、私が行く場所は勿論、小学校ではない。小さな道を進んで、突き当たりを右に曲がって、橋を渡った。そしてその先を商店街には入らずに他の道に入っていった。
 引っ越してから随分経つから、はじめは道に迷ったのかと思った。しばらく歩いて、周りを歩いてみたものの以前とは全く違う景色が広がっていた。私と彼が寝そべっていたあの小道は、既になくなっていて、代わりに新しい家が立っていた。傍にあった彼の家の場所は今は空き地になっていた。
「すいません、十年ぶりくらいにここに来たんですけど、何かあったんですか?」
 私は近くを通りかかった老人にたずねた。そのひとは、きょとんとした顔をしたが、やがて分かったというふうに頷いた。「区画整理があったんだよ。ここらの家は道の場所が変わったから、みんな新しくなったんだ」
 お陰で自分の家も立て替えることになったことを言うと、私がお礼を言うのを聞かないで歩いて行ってしまった。

    ○

 そこから先は大体話してある通りよ、と彼女は言った。私は布団に身体を預けたまま、静かに話を聞いていた。「大学を卒業した後、私は家を出ようと思ったの。それで、どうせ遠くに行くなら、ここに戻ってこようと思った。就職先は意外と簡単に見つかった」
「それが、今の職場?」
 たずねると、彼女は首を振った。「はじめは違うキャンパスで働いてた。何年かそこで勤務すれば、この町のキャンパスに配属が変わることは最初から聞いていたんだけど、私の場合は働きはじめて三年経ってからだった」
 お腹がだいぶ膨らんで、ずっと同じ姿勢でいるのが辛いらしく、椅子に座ったり立ったりを繰り返しながら話し続ける。私が場所を変わろうか、と提案すると、冗談だと受け取ったらしく彼女は少し笑った。
「それで、新しい生活がはじまってからしばらくして、偶然、あなたに会った」
「うるさいな、と言っていた」
「そう。もう大人になっているのに、不思議ね。私、喫茶店を使っていたの。店を出たとき、隣のインターネットカフェの入り口で佇んでいるひとを見つけた。両手で耳を覆っていて、スーツ姿だったけれど、一瞬で誰だか分かったわ。もしかしたら、まだあの音が聴こえているのかもしれないとも思った。でも、確信が持てなかったの」
 その後、彼女はまた同じ場所に男が来ないかどうか、仕事が終わると入り口の近くで張っていることにした。一週間ほどそんなことを続けているうちに、何度か男の姿を見つけることができた。男はいつも何か考え込んでいるようで、話しかけることはできなかった。そしてある日、店から出るといつもとは違う方向に向かうことに気が付いた。男の背中を尾行すると、やがて自分が住むマンションの近くの、市営図書館に入った。それから、地理の本を何冊か借りて、彼は出て行った。
「カウンターで聞いた。さっき出て行ったひとはいつも来るんですかって」
 彼女は言う。私が何故その日図書館に出向いたのか覚えていない。早急に調べたいことがあったのかもしれない。ともかく、彼女はそれ以来休日になると図書館にいることにしたらしい。
 私の頭の中は、音のことで一杯だったのだ。周りに誰がいて、何を考えているのか想像もしていなかった。しかし、はじめて彼女の顔を見たときに覚えたあの違和感の正体をようやく掴めたような気がした。
 小学生の頃、確かに一時期私は誰かと一緒に音を聴いていた。忘れていたが、ようやく思い出した。
「音は、まだ覚えてる?」
 そう聞くと、彼女は顔を遠い目をしたまま、まだ覚えてるとひとりごとを言うように言った。「歯車が、回る音。大きな、絶え間ない音が、目を閉じて耳をふさいでみれば今も聴こえてくる」
 私はもう一度窓の外を見た。だんだん陽が傾いてきて、見渡す限りのものは橙色に染まっていた。太陽が沈んでしまえば、アスファルトの熱もだんだんと抜けて、直接肌をつけることもできるようになるのだろう。そうなれば、また音を聴くことができるだろうか。
「でも、本当に歯車なのかしらね。私、ずっと気になってる」
 彼女の囁くような声を聞きながら私は静かに目を瞑った。聴こえなくなってしまった音を自分も思い出してみる。記憶を振り返る上ではそれは耳障りなんかではなくなっていた。あなたが発見してくれないと、分からない。彼女はそんなことを言った。

    ○

 なだらかな坂道を私と彼女は歩いていた。この場所で私が交際を申し込んでから、何十年か経った。ひとり息子の一家は他の県に住んでいるから、滅多に顔を合わさない。家には私と彼女のふたりきりで住んでいたが、一ヶ月後に退任したら、私たちもそちらに引っ越そうと考えていた。最近、一足早く仕事を辞めた彼女は少し暇を持て余していたらしく、私が大学を出ると、迎えに来てくれるようになった。そのついでにかつて自分が働いていた職場に顔を出しに行くのだ。
「ここらも、変わらないわね」
 坂を上り切ったとき、ふと立ち止まると振り向いて彼女は言った。私も後ろを向くと夕暮れの中に町の景色が広がっていた。自分が卒業してすぐに改築された小学校は、それから随分経って取り壊す計画が立った。商店街も寂れてしまって、店の数は少ない。だが、それでも全体として町の姿は変わらないように思った。
「結局、分からなかったな」
 私が呟くと、彼女は微笑んだ。「色々分かったじゃない」と言う。
 地殻の動きと人間の身体の動きの関係を研究しているうちに、最後には教授にこそなれなかったものの、准教授になった。首都で大きな地震が起きたこともあって、たまに講演をするくらいには有名になった。しかし、音のことはほとんど分からなかった。
 それでもいいか、と思う。そのついでに色々なことができたのは本当のことだ。
「きっとどこかで歯車は回っているんだろう。地球を丸ごと動かすような大きな歯車が」
 彼女は「そういうことにしておきましょう」と言って頷く。それから、また先を歩き出した。だが、私はふと疑問に思ったことがあった。
「それにしても、なんで大人になってからあの音はまた聴こえるようになったんだろうな」
 後ろから声をかけた。すると、彼女はまた立ち止まって、呆れたような顔をしたまま振り返った。
「あなたと私が出会うためですよ」
 私は、彼女が再びこの町に戻ってきた頃の自分のことと、ふたりが巡り会ったことについて思いを馳せた。


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