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さらし文学賞
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羅針盤は春空に羽ばたく

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 絶対に変わらないものというのはあると思う。このような言い方をすれば、信念とか友情とか愛とか、そういう抽象的なものを賛美する言葉に聞こえるだろうが、私が言いたいのはそんなことではない。むしろ私は、それらに関しては移ろいやすいものだとさえ思っている。
 ではここで私が扱う「変わらないもの」というのは何かと言えば、それはすなわち、ルールや規則、感情によって定められることのない、俗に言う真理のようなもののことだ。
 例えば「ヒエラルキー」という言葉がある。さて、これをひっくり返すということは可能か。ヒエラルキーの逆さまは〝ーキルラエヒ〟? いや、違う。「ー」は文字の先頭にくることはないから、ヒエラルキーは逆さまにはできない。何故か。思うにそれは、「ー」がそれ単独では発音できないものだからだ。もしかしたら別の、もっとちゃんとした理由があるのかもしれないけれど。
 はたして不変の真理とはこんなにも単純でつまらないものであり、同時に私たちは皆、真理という籠の中に囚われた鳥のようなものなのだ。


            1

 遥か遠くから、川のせせらぎが聞こえた。流麗な音楽のようなその音色にそっと耳を傾けつつ、私はほとんど無意識に、額を流れる汗を拭った。
「はぁ…………暑いわ」

 とある国の一角に、この星で最も多くの人類が暮らし今この時も肥大化を続ける、とある都市がある。さらにその都市の機能的中枢を占め、流行と科学の最先端を走るこの街に、私は住んでいた。世界中のあらゆる国のあらゆる人種が集まるこの街を人は〝地球一フレンドリーな街〟と呼ぶ。安っぽいカフェにコーヒー一杯だけで居座る高校生も、曲がり角でぶつかった女性に一目惚れしたサラリーマンも、高層ビルの最上階でワイングラスを傾ける婦人も皆、この街でそれぞれのドラマを生き、そしていつかは死んでゆく。
 ただ一つ、街の片隅に鎮座するあの山の住人を除いては。

 押し寄せるビルの波にも飲まれることなく太古よりそこにあるその山を、人は〝神の庭〟と名付けた。山頂に祠があり神が宿ると伝わるその山を人は畏れ、崇め奉ってきた。故にその山は今日も人間による開発の手を寄せ付けず、食物連鎖のてっぺんから下々の世界を見下ろしている。
 私は現在、その山の頂上を目指していた。急斜面に何度も華奢な足を掬われながらそれでも私が歩みを止めないのは、もちろんレジャー目的や工事の下見のためなどではなかった。今私の身体を動かすもの……それはただ、信念に他ならない。

 頭上では太陽が燃えるように輝いていた。その熱線はレーザーの如く私の後頭部と首筋をなぞりながら、チリチリと乾いた音を立てている。私は頭を抱えた。一体全体、いつからこの地球はこんなに暑くなったというのだ?
 今日が四月二十七日だと言ったら、今から十年前の人間は信じてくれるだろうか。今から十年後にはもう「春」という季節は「夏」に統合されて、四季なんて概念はどこかへ飛んで行ってしまうのではないか。歩きながらふと頭に浮かんだ突拍子もない妄想は熱で浮かされた頭の中でどんどん広がり、私はいつの間にか、盲目的に地球の未来を憂い始めていた。

「自然が増えれば地球温暖化も止められるかしら」
 一人呟き、少し控えめな胸に纏わりつくTシャツを指で摘み上げている時だった。どこまで行っても木々に囲まれていた私の視界いっぱいに突然、雲一つない青空が広がった。やっと着いた。私は残りの道を一気に駆け上がる。


            2

 そこは小高い丘のようだった。山の上に丘とは可笑しな響きだが、山全体を覆う杉の木が何故か頂上にだけは生育せず、さながら山の上に禿げ頭が乗っかったような有様で、そのため本当に丘ではないかと錯覚してしまうほど、この場所だけがまるで別空間だった。
 丘には見渡す限り真っ白なじゅうたんが敷き詰められていた。ほんの一ヶ月前まではまだ黄色い花の姿だったその植物も、今はただ風を待つ綿毛となって揺れていた。そしてひとたびその瞬間が訪れれば、彼らは白銀の翼へと変貌を遂げてここを飛び立つのだろう。
 次に私は丘の中央、散り損ねた薄桃色が未だ残る一本の葉桜に目を移す。殺風景な丘に一本だけ孤独に佇み遥か下の鉛色の街を見下ろすその大木の姿はまるで、世界を見守る神を体現しているかのようだった。しかして、神は実際そこに宿っていた。太い幹に隠れるようにぴったりと寄り添う木製の祠に目をやり、私は小さなため息を吐く。ずいぶんとちんけで黴臭い〝神の家〟がそこにあった。

 私は知っている。神が如何にちっぽけな存在なのかということを。
 秩序の「一部改定」及びその「破棄」。それが神の管轄だ。時を自由自在に駆けたり、死者に再び息吹を与えたり、ましてや他者の運命の針を狂わせるような権限を、神は持ち合わせていない。世界は生まれたその瞬間から、その世界にあらかじめ備わっている〝秩序〟によって回ってゆく。神にできるのは世界の軌道修正のため、その既存の秩序をほんの少しいじくることだけ。所詮、神は世界の舵取り係に過ぎないのだ。
 そして運が悪いことに、この世界に用意されていた秩序は粗悪で下等なものだった。このままだと、地球を待つのは破滅の未来だ。 
 だから諦めの悪い神は今日持てる権利の全てを駆使して、最後の賭けに出た。


            3

「姉ちゃん、なぁ、早くっ!」
 真後ろから突然響いた笑い声に私の思考は一時中断された。振り返る間もなく、三人の子供が私の両脇をすり抜け、一目散に丘の桜木へと駆けて行った。

「なぁ、なぁってば。今日何して遊ぶ?」
「あたしおままごと!」
「えぇー、つまらん! なぁ、姉ちゃん鬼ごっこにしよ!」
「面白いもん!」
「こら、ショウタ。お兄ちゃんなんだからそんなこと言ったらだめよ。ユイも、おままごとは昨日やったじゃない。今日はこの前教えたあれ、やりましょ」

 活発そうなキャップの男の子と、ウサギのお人形を片手にはしゃぐ女の子。そして妙に大人びたおさげ頭の少女。大方家族でキャンプにでも来ているのだろう。いや、昨日も来たと言っていたことを考慮すると、元々この山のどこかに住んでいる可能性もあるかもしれない。
 彼らは会議を終えそれぞれの持ち場に就く。小さな方の二人はおさげの少女から競うように距離を取り、私の二メートル程前方に陣取った。おさげ頭は二人に背を向け、額を桜の木の幹に埋めるようにもたれかかり、そして高らかに声を張り上げた。
「だぁるまさんが……転んだっ!」
勢いよく振り返るおさげ頭。プルプルと震えるお人形。
「なぁ、なぁ姉ちゃん! ユイが動いた!」
「動いてないもん!」
 微笑ましい光景だった。膨らみ切った蕾が花開くように、三人の子供の無垢な笑顔が日の光を浴び、弾ける。私はこの一時だけ、時間も目的も忘れ、彼らの姿を目で追い続けた。

 しかしそんな時間も長くは続かなかった。
 おさげの少女の振り向きと同時に、かけっこのように姉に向けて突進していた幼い二人は慌ててブレーキをかけ、その運動を止めようと試みる。ベちゃっと不細工に転ぶウサギの少女の横で、キャップの少年は着地した右足にぐっと力を込め、前方への勢いを相殺した。そしてそのまま片足で器用に身体のバランスを取り、その場にぴたりと静止する。おさげの少女は「上手ね」と優しく微笑んだ。
 少年たちは気が付かなかった。その足が、一つの綿毛を踏み潰していたことに。
 おさげ頭が前に向き直ったのを合図に少年は綿毛のことなど気にも留めず走り出した。私は慌てて駆け寄り、汚れた綿毛を両手でそっと掬い上げ、そしてやっと気が付いた。周りを見渡せばそこかしこに横たわる、土まみれの、たくさんの綿毛たち。
 その惨たらしい光景は私を二重の意味で憤らせた。それは彼らも結局のところ「ヒト」なのだという諦念、そして、私もその傍観者であったという悔悟だった。特に後者は、私にとって認めたくない事実だった。

 三人の子供たちは無邪気に遊び続けている。だけど、私が彼らの笑顔に見惚れることは二度と無い。強い決心にも似たものを抱えながら、私は手の中の綿毛に語りかけた。
「ねぇ、一つだけ誓って? ――――――」
 本日何億回目となるだろう誓約を勝手に交わした後、少し逡巡して、「十年経ったら、また会いましょう」とこれまた一方的に取り付ける、四度目の再会の約束。
 次の瞬間この日初めて髪を巻き上げるほどの強風が〝神の庭〟に吹き荒れた。綿毛は風に乗ってふわりと舞い上がり、ふらふらと群青の空に吸い込まれてゆく。

 本来、あの綿毛は私のプランの対象外の存在だが、そんなことはもはやどうでもよかった。何故なら、この〝神の庭〟が四月二十八日を迎えた瞬間、四月二十七日までの世界はどのみち終わりを迎えてしまうのだから。私は綿毛の消えた虚空をいつまでも、いつまでも見つめ、明日から始まる新しい世界に思いを馳せていた。

 審判の時まで、残り十年と数時間。


            4

 あまりの蒸し暑さによって夢半ばの起床を余儀なくされた私は、目の前にある天井が見知らぬ、木目調のものだということに気付く。べたつく額をTシャツの袖に押し付けつつ、ベッドに寝かしつけられていた身体を起こして周囲を見渡すと、床に散乱するレディース用下着とファッション誌が目についた。どうやらこの部屋の主は女性のようだ。外開きの窓には水滴がいっぱい付着していて、室内からの光を屈折させているのを見ると、どうやら昨夜は雨だったらしい。また窓の外の景色からしてこの家は山の中に建っているようだった。
 ここで目覚めたということは今日が〝約束〟の日ということなのだろう。
 念のため日付を確認できるものを探し、すぐに見つけた。壁掛け型のデジタルカレンダーが示す日付は四月二十七日。予想は確信に変わり、私は今日があの日から十年後の世界なのだと把握する。
 しかしその時はまだ、「April27」の横に小さく刻まれた「Summer」の文字に、私は気付くことができなかった。

 それにしても、と私は苦笑する。ずいぶんと可愛らしい部屋だ。家具も小物もやたらとピンクを基調とした配色が目立つし、ハンガーラックもほとんどフェミニンな柄やデザインのものによって占められている。それにあのお人形なんかは特に子供っぽく、完全に幼女の趣味…………人形?
 ここまできて思考が停止する。何故なら私は部屋の片隅に転がる、ウサギという動物を模したそれに見覚えがあった。

「うわぉっ! 気が付いたんだね!」
 ドアが勢いよく開くと同時に飛び込んできたのは黒髪ツインテールの少女だった。少女はしきりにウワァ、ハへェなどと意味のない言葉を呟き、時にはホォウと何かに納得しながら、そのビー玉のような瞳をくるくると回して私の全身を隈なく舐め回す。そして唐突に私の両手を掴み、その手をブンブンと激しく上下させながら
「あたし、この家に住んでるユイっていうの! よろしくねっ!」
 頭に生えた二本の触角がピョコピョコと揺れた。


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 一体何の因果だろう。私のプランを見極めるべく出会ったのはあの日の三人の子供たち、いや、正確に言えばあの日の彼女たちとは違う、〝選ばれた彼女たち〟だった。もちろん、彼女たちはそんなこと知る由もないけれど。ユイにキッチンへと引っ張られ、他の二人を含めた三人と食卓を囲むという奇妙な状況の中で、私は胸の奥が微かチクリとするのを感じた。

「お腹空いたでしょ? さぁさぁこちらにどうぞっ」
 ユイによって半ば強引にテーブルへと案内されおずおずと席に着いた私の前に並ぶのは、ベーコンエッグと焼いた食パン、ブラックコーヒー。家畜や作物が姿を変え、人間の「食事」というものになって今私の目の前にあった。美味しそうな匂いに、私の頬がだらしなく弛緩する。
 ふと視線を上げると、正面に座る緩い茶髪パーマの女性の優しげな微笑みとぶつかった。
「私は長女のミサキよ。ユイが迷惑かけたみたいで、ごめんなさいね?」
 ユイの「ちゃんと親切にしたもんっ!」という反論を無視して語りかけてくる女性……かつての「おさげ頭」に、私は軽く会釈で応える。その変貌ぶりに少なからず衝撃を覚えた私は、十年という歳月を初めてリアルに実感した。
 ミサキは続けて彼女の隣に座る、眼光鋭い無造作ヘアの少年に挨拶するよう命じた。が、少年は黙ったままそっぽを向き、パンの耳に噛り付いている。
「早くしなさい!」
 少年は浅黒い肌の隙間から鋭く尖った歯を見せ、「チィ」とわざとらしい舌打ちを一つ。そして目線だけをこちらに送り、渋々口を開いた。
「………………ショウタ」
 どうやら反抗期というやつらしい。

「私たちの紹介も終わったところで、次はあなたのお名前も聞いてもいいかしら?」
 やはり、きた。私は大袈裟なアクションで俯いて見せ、そのまま無言を貫く。どうしたのと急かすミサキの声。ユイは横から私の顔を覗き込み、視界の端にパンを置くショウタの手も映る。もしかしたらこちらの様子を窺っているかもしれない。沈黙の中、私は名乗る代わりに首を横に振って、白々しくもこう答えた。
「名前も、どこから来たのかも、何も分からないの」
 本当は全て知っている。だけどこればかりは彼女たち自身に気付いてもらわなければならないのだ。私は誰なのか。そして何故、私たちは出会ったのか。


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「そっかぁ……だったら、あたしたちとお揃いだねっ!」
 しんみりとした空気を吹き飛ばすようにあっけらかんと言い放ったのはユイだった。ミサキが健康的に焼けた手を優雅にカップへと伸ばしつつ、付け足す。
「私たち三人は皆、ちょうど十年前の今日、四月二十七日以前の記憶を持っていないのよ」
 曰く、彼女たちは十年前の四月二十八日、神の庭で倒れていたところを彼女たちの両親によって発見、保護された。しかし彼女たちは助けてくれたその者たちが自らの両親であることを知らなかった。それどころか名前、言語、過去、生活に必要な諸々の知識まで、人間としての記憶を何一つ留めていなかったらしい。そのため両親は別人のような我が子に初めは戸惑いつつ、それでも徐々に彼女たちを受け入れていったという。
「お母さんったら、『まるで子育てを始めからやり直しているみたい』って笑っていたわ」
 ミサキがしみじみと目尻を下げ、ユイは少し照れ臭そうにはにかんだ。
「だからね、昨日学校帰りに山の中で倒れている君を見た時、絶対に助けなくちゃっ! って思ったんだよっ」
 それが今朝、私がこの家のベッドに寝かされていた理由のようだ。そこまで聞いて今更、あぁそういえばそんな「設定」にしたのだったと思い出した。それと同時に、再び胸の奥が今度ははっきりとした痛覚を伴って刺された。

 しかし私のそんな気を余所に、ここからユイは恐ろしく愉快な暴走列車と化したのだった。手始めに彼女は
「どうしたらいいかわからなくてショウタに電話したら、傘も持たず駆けつけて、君を家まで運んでくれたんだよ!」
 と事の顛末を教えてくれた。私は内心ちょっと感心して、頭をポリポリと掻くショウタにお礼を述べる。それに対して「別に」とそっけない返事が戻ってきて、会話が終わろうとした刹那、
「お姫様抱っこでねっ」
 ショウタの口から食べかけの卵の黄身がポロリとこぼれ、テーブルに転がった。突然訪れた沈黙。二秒ほど経ったところでユイが堪らず噴き出し、食卓は一転して、賑やかな笑いに包まれた。私はといえば、驚きのあまりショウタの顔を見つめていた。
「チィ! ……べっ、別にやらしいことなんか考えてねぇよ! こっち見てんじゃねぇ!」
 私の視線に気付いたショウタは再びそっぽを向き、不機嫌そうに舌を鳴らした。どうやら、私はずいぶん嫌われてしまったらしい。
 ユイの暴走はその後数分間止まらず、ショウタを指さしていつまでも抱腹絶倒していた。対するショウタが顔を真っ赤にしながらも大人の対応するのを見て、私は先程雑談の中で聞いた、この二人が双子だという話がにわかに信じられなくなった。どう見たってユイの方が年下に見える、という感想はあえて黙っておく。
「こらユイ! いい加減にしなさい!」
 ミサキの伸びやかな怒声が鳴り、ようやくユイは大人しくなった。頭の触角がしゅんと元気なく項垂れ、小さく「お姉ちゃんも笑ってたじゃん……」と嘆く声が聞こえた。現在街の大学に在籍していて弁護士を目指して勉強中だというミサキは、家庭の平穏が保たれたのを見届けると、満足そうに二の腕に力を込めた。
「正義感だけは、親譲りなのよ」
 女性のそれにしては逞しいその腕は、強くしなやかに伸びていた。

 時刻は午前八時過ぎ。
「大変もうこんな時間! それじゃ私は行ってくるわ。それとユイ! 夕方にはお母さんたちと一緒に帰るから、それまでに今晩の準備をしておいてちょうだい」
 ミサキはそう言うとバタバタと慌ただしく出かけて行った。私は特に気にも留めずコーヒーの湯気を吸ったり、指に纏わせて遊んでいた。すると突然背中にずっしりとした重みがのしかかり、私の肩を細い腕が絡めとった。びっくりして顔を上げると、カップの内にニィッと笑うユイの顔が映る。
「ねぇ、今から一緒に街に行こっ!」

 審判の時まで、残り約十六時間。


            7

 ユイは肉や野菜が一杯に詰まった紙袋を抱え、こ洒落た店が立ち並ぶ通りをさも楽しそうに、きまぐれに闊歩する。歩くことが不得手な私は、器用に人混みを避けながらスキップする彼女を、親の後を追う小鴨のようによちよちと追いかけた。
「あんまり楽しくなかったかな? 無理やり誘ってごめんね?」
 ショーウィンドウ越しに如何にも彼女が好みそうなフリルのスカートを眺めていたユイが、いつの間にかこちらを申し訳なさそうに振り返っていた。私は少し小走りでユイの横に並ぶ。
「あたしたちがちょっと変わった記憶喪失だって話はしたでしょ? だからね、あたしたちにとっては明日、四月二十八日が誕生日みたいなものなんだ。それでね、今日の夜お母さんとお父さんが帰ってきてくれるから、皆でパーティーするんだよっ! もちろん、君も一緒にねっ!」
 ユイは、記憶を失ったことにもめげず前向きに生きていた。その証拠に彼女は今、私の目の前で屈託のない笑顔を振りまいている。しかしそのことは逆に私の中にずっと燻っていた罪悪感を掻き混ぜもした。だから私は彼女に尋ねる。
「失った記憶が、惜しくなることはないの?」
 ユイはうーんと唸り、
「そういえば、考えたこともなかったなぁ。だってね、忘れちゃったんだもん、大切な思い出だったのかも、今となってはわからないし」
 と至極まっとうな意見を述べた後、
「だけど、たまーになんだけどね、忘れちゃった記憶の中に、とても大切な思い出があったような気がするんだ。そのたびにあたしね、きっと今にも負けないぐらい幸せな日々を過ごしてたんだろうなぁって、過去のあたしに嫉妬しちゃうんだっ!」
 再び悪戯っぽく笑うその顔を見て、私は胸のつかえが取れたような気がした。同時に彼女なら大丈夫だ、とも思った。大丈夫。彼女たちならきっと、私との誓いを守ってくれる。

「そ、それにしても……」
 ユイは顔をほんのりと赤らめ、伏し目がちに呟いた。あぁ、そうか。彼女は周囲の人間の視線が気になるのだろう。私と彼女が会話している間、街ゆく人々が皆彼女と、彼女の視線の先にある空間をしげしげと観察していた。その訝しげな、何か言いたげな視線に彼女は耐えかねたに違いない。
「もっ、もしかしてあたし、有名人なのかなっ?」
 彼女は努めて明るくそう言って、艶やかな黒髪を恥ずかしそうに撫でまわした。
「そろそろ帰ろっか! そろそろショウタがお腹空かせて怒っちゃうよ!」
 踵を返したユイを追って、私はそそくさと商店街を抜けた。

 雨上がりの雫がキラキラとデコレーションする住宅街を、私たちは流行の服の話や好きな男の子の話(主にユイの)をして歩いた。そんな他愛もない会話を、ユイはガールズトークだねっと言ったが、私にその意味は分からない。それでも、コロコロと表情を変えながら話すユイとの雑談は私にある新鮮な感情をもたらした。私の言葉に頷いて、反応して、笑ってくれる人がいるという安心感。逆に彼女が口を開けば、私の心臓は躍るように大きく脈を打つ。この気持ちの名前を私は知らないけれど、今はただ、この石造りの古風な街並みがどこまでも続けばいいと思う。
 山の麓で、今時珍しい一軒の花屋を発見した。「ちょっとだけ! お願い!」と店先の花を眺め出したユイを真似て、私も彼女の隣で一緒に鑑賞することにした。
「あぁっ! これすっごい綺麗っ!」
 ユイが手に取ったのは真っ赤なハイビスカスの花だった。彼女はあらゆる角度から食い入るように見ては、ウワァ、ハへェと触角のような黒髪を揺らしてしきりに頷く。そして最後に自らの財布の中を覗き込み、ホォウと意味深に呟き、眉間にくっきりと皺を寄せた。
「えいっ! もういいや買っちゃえ!」
 この瞬間、彼女の散らかった部屋が頭によぎったことはあえて黙っておく。

 ハイビスカスを見てニヤニヤするユイの、新雪のように綺麗な横顔を見てニヤニヤする、私。時折目が合い、彼女は「君もお花が好きなんだねっ」と言う。それは半分正解で、半分外れだ。ユイは花が好きで、私は花が好きなユイが好き。大丈夫。彼女たちは私との誓いを必ず果たす。

 希望というものが生まれた時、それはいつも、絶望も伴ってやってくる。
「嫌ぁっ! むっ、虫ぃっ!」
 突然のユイの叫び声。彼女の整った顔立ちが一瞬で醜く歪み、その手に持ったハイビスカスの花束を乱暴に振り回した。するとこれは堪らないとばかりに逃げて行ったのは、花の中に隠れていた、たった一匹のてんとう虫。真紅の花びらがはらはらと舞い落ち、灰色のコンクリートの上に横たわった。
「あぁもうっ! 買ったばかりだったのにぃ」
 そう言ってユイはわざとらしく口を尖らせ、一転いつもの無邪気な笑顔を私に向けた。その笑顔の陰で私がこっそりと眉をひそめたことに、彼女は最後まで気が付かなかった。


            8

 家に帰った私たちは硬く無機質なテーブルを囲んで、ショウタと三人で昼食をとっていた。
 ユイは素麺という白く細長い食べ物をちゅるちゅると吸い込み、それを口いっぱいに頬張ったまま、ショウタに何やら耳打ちをしている。ショウタも「うるせぇな」などと悪態を吐きつつもちゃんと耳を貸し、その都度あれこれと反応を示しているあたり、なんだかんだ言って良好な関係なのだろう。私はと言えばそんな彼らを横目に、彼らの作法を真似て一人黙々と、機械的に目の前の紐を口に運び続けていた。
 私の頭の中では先程の光景が、リピート再生のように繰り返されていた。ユイの歪んだ顔が何度もチラつき、そのたび私の箸の動きは速まる。早くこの場所から抜け出さなければ、また彼女たちの見たくない一面を見てしまう、そんな予感が私の手を逸らせた。
 思えばこの時すでにプランの欠陥を私自身どこかで感じていたのかもしれない。

「なっ……! そんなんじゃねぇよ!」
 何度目かの耳打ちの後、ショウタは顔を真っ赤にして怒鳴り、立ち上がった。二ヤニヤしながらなだめようとするユイの態度に、彼はさらに語気を荒げる。
「だからあの、お……お姫様抱っこは、仕方なかったって言ってんだろぉが!」
「まぁまぁ、そう熱くなりなさんなっ。いろんな意味で」
「チィ……やってらんねぇ」
 そう言うと彼はドアに向かって歩き出した。箸を乱暴に置き、大袈裟な足音を立てながら私の横を通り抜けるその瞬間、私の手が、彼の手を掴んで引き留めていた。ユイがひゃあっと歓声を上げ、ショウタの顔はトマトのように色づいた。
「どこに行くの?」
「あぁん? 食べ終わったから部屋に戻んだよ」
「まだあなたの素麺は残っているわ」
「いらねぇよ、そんなもん」
「そんなのおかしい!」
 言うなればそれは、脊髄が発した叫びだった。ようやく脳の処理が追い付いて後悔した時、すでにショウタはわかりやすいほどに狼狽え、ユイはそのくりっとした目を零しそうなほどに見開いて固まっていた。全てが静止したような空間で、時計の針だけが淡々と時を刻む。最初に口を開いたのはショウタだった。
「チィ……食べりゃいいんだろうが、食べりゃ」
 静かな部屋にショウタの咀嚼音だけが響く。私はそれを黙って見届け、ユイは居心地悪そうに私とショウタを交互に窺うばかりだった。数秒後、今度こそ全て食べ終えたショウタが無言で席を立つ。そしてそのまま逃げるように自分の部屋へと……
「あっ! あたしいいこと思いついちゃったぁっ! その……二人で食後の散歩でもどうかなっ! 仲直りも兼ねて! ねっ?」
 ショウタが苦虫を噛み潰したような顔で、提案したユイを睨む。ユイはあははと誤魔化すように笑い、私の耳にはショウタの本日何度目かの舌打ちが届いた。

            9

 木々の合間をとぼとぼと進んでゆくショウタとその後をついて行く私の足取りは、今日の空一面にぶら下がった雲のように、どんよりと重い。二人の間に会話は無く、名前もよく分からない鳥の鳴き声だけが山に空しくこだました。時々ショウタが物欲しそうな目でチラチラとこちらを振り返ってきたが、私はあえて気付かないふりを決め込んだ。

「着いた。ここ、俺たち兄弟の秘密基地」
 少し拓けた場所に出た私たちの目の前には、大きな川が流れていた。昨夜の雨の影響だろうか、せせらぎと呼ぶにはいささか激しすぎる奔流が、十メートルほどの幅で轟音を上げながら流れてゆく。ショウタは川沿いの、三つ並んだ切り株の一番右に腰かけた。私は一人分間を空けて一番左に座る。
 なぁ、とショウタが切り出す。
「お前は、どうせ俺のこと、うぜぇ奴って思ってんだろ? でもまぁ……なんだ。俺はお前のこと、その、別に嫌いじゃねぇっていうかさ……いや深い意味はねぇんだけどよ! ただ、最初会った時から、思ってたんだけどよ、あの、妙に気になるっつうか、懐かしいっつうか……なんだ……」
 彼はしどろもどろになりながら、必死に私に何かを伝えようとしていた。そして、
「もしかして俺たち、前にどっかで会ったことあったりして。……なんてな! そんなわけ……」
 その言葉に驚愕して、私はまた至近距離から彼の顔を凝視してしまった。彼の唇が僅かに震え、掠れた吐息が漏れている。
「思い出したの?」
 身を乗り出して尋ねた私の目と、鋭利なナイフのような彼の猫目が交錯した。彼は「な、何がだよ」とたどたどしく視線を宙に向ける。私の口から、露骨に落胆のため息が漏れた。
「な、なんだよ…………そうだ! ちょっと待ってろよ」
 彼はそう言って足元に咲く一輪の白い花に手を伸ばした。

 そこからは目を覆いたくなるような光景だった。
 ショウタは、根本近くから乱暴にその花を千切り、あろうことか、環状に丸め始めた。その茎が折れないように支えていた細胞の壁が砕け散り、中から血潮のような液体が迸った。結んだり、裂いたり、剥ぎ取ったり。まるでおもちゃと戯れる子供のように、彼は鼻歌混じりに目の前の〝生命〟を弄ぶ。
「フンフンフーン…………よし、できた! ほらよ。これ、花のリング」
 呆然と見つめていた私に差し出されたのは、白い花をダイヤモンドか何かのつもりでこしらえた、命の輝きを失くしたガラクタだった。私は目の前の少年に対して、怒りを通り越して恐怖を覚える。得意げなその顔は、私の目には人の皮を被った悪魔にしか映らなかった。
「花が好きなんだってな。したんだろ、ガールズトーク?」
 下品に口角を釣り上げた悪魔の右手が私の左手に伸びてきて、背筋が凍りつく。こんな手に掴まれるのは、絶対に嫌だ! 触れようとしてきた彼の手を、私は容赦なく拒絶した。
「てめぇ……いい加減にしろよ! あぁん?」
 指輪は川に落ちた。激しいうねりの中に飲まれてゆくそれに見向きもせず、私たちはお互いを睨んだまま対峙する。

「あなたたち、やっぱりここにいたのね。お父さんとお母さんも待っているから、おうちに帰りましょう。今チキンを焼いているところよ…………どうしたのかしら?」
 木陰から突然現れたミサキの声が一触即発の空気を辛うじて打ち破った。すでにショウタは私から目を逸らし、払われた右手を沈痛な面持ちで見つめている。

 彼女の登場によって少しは冷静さを取り戻したのだろう、私はショウタとの不穏な空気の隙間に微かに紛れ込む、ローストチキンの芳醇な香りの存在を認める。どうやら家からここまで漂ってきたらしい。
 その時だった。大きな水沫が上がったと思うと、荒れ狂う川の中心にもがき苦しむ一匹の獣の姿があった。今にも川底に沈みゆきそうな獣の絞り出すような鳴き声が山に響く。野犬だ!
「クソっ! チキンの匂いに誘われたのか! 姉ちゃん、俺縄取ってくる!」
 ショウタが家に向かって駆け出すのと、私が川に飛び込んだのは同時だった。水面と激しくぶつかった脂肪の薄い胸部が軋む。
「何やってるのあなたっ! 駄目よ! 早く戻りなさいっ!」
 ミサキの今まで聞いたことも無いような悲痛な叫びも、私を引き留めるには至らなかった。なぜなら、彼女たちとの〝誓い〟を自らが示すための場は、もうここ以外には考えられなかったのだから。
 私は無我夢中で折れそうな細い腕を振り、行く手を阻む水を掻き分ける。流されないよう、足を川底の石の隙間に差し込み、全身を捩るように使いながら、一心不乱にただ、目の前の茶色い塊へ向かって進み、そしてぐいっと腕を伸ばす。
「……! 届いた!」
 しかしそこまでが私の限界だった。元から慣れない運動であるうえに服が水を吸って重くなってしまっているのだから、もはや私にはどうすることもできない。口内まで濁流に侵食され、私の意識は徐々に朦朧とし始めた。
「おらっ! 早く掴まれ!」
 太いロープが私たちめがけて投げ込まれるのが見えた。私は最後の力を振り絞って右腕一本でロープを身体にぐるりと巻きつけ、深く握り、野犬を抱えた左腕にもう一度力を込めた。
 ゆっくりと近づく岸部、そこには祈るような表情のミサキと、汗を滲ませ必死にロープを引くショウタ、更には駆けつけるユイと二人の人間の姿が見えた。
 川底の石が腹部をごりごりと抉り始めた。痛い。私は野犬の拘束を解き、肩で息をしながらふらふらと立ち上がった。

「良かった! 本当に良かったよぉ!」
 弾丸のような勢いで私の胸に飛び込んできたユイを受け止め……きれず、二人で砂利の上に倒れ込んだ。縄が背中に食い込む痛みと、衝撃で激しく咳き込む。全く人間も楽ではないようだ。
 私は身体を震わせ毛先から器用に水を弾く野犬の姿を眺めながら、私の想いが少しでも彼女たちへ届いていることを願う。


            10

 ありがとう、と素直にショウタに伝えると、彼は倒れている私にごつい手を差し出した。今度は拒むことなく受け入れようと伸ばした私の左手は、しかし彼のものではない、小麦色の柔らかな手に奪われた。その手は私の身体を思いの外荒々しく引っ張り上げ、放し、高く大きく振り上げられた。私はその一連の動作を、これから何が起こるのだろう、と観客のような気持ちでぼんやり眺めていた。
 その手は、私の右頬に叩きつけられた。ぱちんと乾いた音が鳴る。
「いい加減にしなさい!」
 それが平手打ちだと認識することは簡単ではなかった。ミサキは、正義感が取り柄だと語ったその人は、今身を挺して一つの生命を守った少女に向けてその〝正義〟を振りかざしている。なぜ? どうして? 私の頭の中は目の前の状況に追いつけず、ただただ呆然と立ち尽くしていた。そして彼女は、こう言った。
「野犬一匹助けて、それであなたが死んでしまったら、一体どうするの!」
 私は理解する。そう、彼女たちもすでに、「ヒト」になってしまったのだと。

 理解した瞬間、私は地を蹴って走り出していた。先程のロープが身体に巻きついたままなのも気にならないほどに動転しながら、ただひたすら、彼女たちを遠ざけるように。呼び止める声が決して届かないところまで。
 杉の木の間隙を闇雲に駆け抜けては、斜面に足を取られて何度も派手に転倒する。午後四時過ぎに雲間から顔を出した太陽が大気と私を容赦なく蒸し上げると、その熱に誘われたか、山のあちこちで本来あるはずのないものがその存在を主張し始めた。そしてそれが「蝉の声」だと気付いた時、私は思い知った。
今はもう、私の知る「春」ではない。

 結局のところ、世界も人類も、十年前から何も成長してなどいなかった。私は叫び、泣き、そして絶望した。神は最後の賭けに負けたのだ。

 狂ったように走り続けてどれほど時間が経っただろう。ふと見上げれば木々の先端はすでに夜の闇へと溶け出し、山と空の境界線などとうになくなっていた。街の温かな明かりがこの山を照らすことはない。私はようやく、濡れたこの身体が寒さに震えていることに気付く。
「もうどうでもいいわ。何もかも……」
 自棄になって宛てもなく彷徨っていた少女の眼前に突如、望月に照り輝く禿げ頭が現れた。続いて私の目は丘のてっぺん、見慣れたあの桜木の姿を捉える。

 審判の時まで、残り四時間と八分十二秒。


            11

 私は我を忘れていたのだろう。野犬のために命を懸けた勇敢な少女を叩いたこの手が、じんじんと痛い。そしてきっと、あの子の心も。
 追いかけなければ。ユイとショウタが地面を蹴る音がして、私もまた一歩を踏み出そうとした時だった。
「お前たち、さっきから一体何をやっているんだ? お父さんたちをからかっているんならほどほどにしておきなさい」
「何って! 早くあの子を追いかけなきゃ!」
「だから、あの子って誰のことなの? さっきからずっと誰もいないところに向かってぺちゃくちゃと、お母さんびっくりしちゃったわよ」
「誰も居ないって……お母さんもお父さんも見ていたじゃない! 今までそこにユイたちと同じぐらいの歳の女の子が……」
「こらお前たち! お父さん、そろそろ怒るぞ。お前たちはただのおふざけのつもりかもしれんが、お前たちが変なこと言うたびに、お父さんたちがどれほど不安になるかわからないのか、全く。とにかくお父さんはそんな子見た覚えは無い」
 父と母には見えていない。その意味を受け入れた瞬間、私の脳にたくさんの「何か」が激流のようになだれ込んできた。

 ずっと真っ暗闇の中にいた。肌に感じるのは冷たい地中の温度。鼻腔を満たすのは香ばしい草と土の匂い。厳しい季節を耐え抜いた私はゆっくりと土を掻き分け、そしてとうとう硬く重たい天井を突き破る。そうして私の目が初めてオレンジ色の日差しを浴びたその日、大きな手が、真上から私に向かって伸びて……

 それが失われた〝記憶〟だと気付いた時、全てを悟った。ユイとショウタの二人と目が合い互いに頷く。やっと思い出した、あの子の名前も、大事な誓いも全て。そして私たちの本当の姿も。しかし少し遅すぎた。
「今までありがとう、お父さん、お母さん」
 私は今度こそ、大切な彼女の元へと足を踏み出した。例え信念を失くした裏切り者であっても、伝えなければ。そして、本来あるべき場所に帰るために。


            12

 この世界の食物連鎖の頂点には十年前と変わらず、たった一本の桜の木が忘れ去られたように立っていた。ただ、当時と違うところもある。例えば純粋な新緑の葉だけが生い茂った枝は、暗がりでもわかるほどしな垂れて老け込んでいるし、丘を埋め尽くしていたあの花ももういなかった。あるのは、本当にあの木だけ。古臭い祠はさらにみすぼらしかった。外から見るとこんなにも情けない佇まいなのだな、と今更ながら実感し、「間抜けね」と吐き捨てた声は空を覆う排気ガスに溶けた。

 異常気象、干ばつ、洪水、そして地球温暖化。十年前の私は世界がこの先、嵐の中へと帆を進めようとしているのだと知った。そしてその原因が「ヒト」の存在であることは、もはや疑いようのない事実だった。彼らは、口では「フレンドリー」などとのたまいながら、他の生き物から自然を奪い、自らの居場所を増やし続けた。その結果、開発の波に飲まれた地球という船は、灰色の海の中で進むべき航路を見失った。だから私は「舵取り係」として、その誤った道を正したかったのだ。
 そして私は賭けに出た。

 簡単なことだった。問題が人間の傍若無人にあるのならば、彼らが他の生き物たちのことをもっと考えられるようになればいい。ならばどうするか。解は、実に単純明快。自己中心的な人間たちと、それまで虐げられてきた、他人の痛みがわかる者たち、すなわちヒエラルキーの底辺の生物の〝中身〟を入れ替えてしまえばいい。中身とはすなわちその者の性質や記憶、信念などのパーソナリティを刻みつけられた核であり、その容れ物である〝器〟の存在を定義づけるもののことだ。私は便宜上、それに〝魂〟と名付けた。
 十年前の四月二十八日、私はこの世界の〝食物連鎖のヒエラルキー〟という秩序の枠組みはそのままに、そこに属する者の魂を全てひっくり返した。ある人の魂は、微生物や植物たちの肉体へ。小動物や昆虫たちの魂は、またある人の肉体へ。そしてそれが新しい秩序となる予定だった。

 しかし、たった一つの誤算が、私の計算を狂わせた。
 それはパーソナリティというものが、魂を入れ替えた程度で容易く移ろい、歪み、壊れてしまうほど儚いものだったということであった。
 例えば私は今回、パーソナリティの中で「記憶」のうちの一部だけは入れ替えず、元の器に縛り付けるように操作した。そうすることで、魂は転生先の肉体に刻まれた記憶に沿って生活することができると考えたからだ。しかしある者の記憶はその強引な操作に耐えられず、変質し、混乱してしまった。例えば私が出会った彼女たちのように。
 そして何より問題だったのは「信念」の喪失だ。私は信じていたのだ、彼らならきっと、私との誓いを守ってくれると。だからそれを確かめるため、私は今日人間の姿で大地に降り立った。それなのに……かつてその姿から「気持ち悪い」という理由だけでスリッパや新聞紙でその命を狙われていた少女も。勝手に不吉というレッテルを貼られ、人前を横切ることすら許されず忌み嫌われてきた少年も。おかしな薬品をかけられたり、隠居中の年寄りの暇つぶしのために引き抜かれ、庭先にひっそりと生えて日の光を浴びることすら許されなかった女性も。彼らは皆人間に迫害されて生きてきた者であるはずなのに、人間になった途端、権力を笠に着て今度は迫害する側へと成り果ててしまっていた。
 彼らが私に誓った信念は、とっくの昔に死んでしまっていたのだ。

「ヒト」には力がある。だから周りの生き物とは馴染めないし、それは魂が入れ替わったからって変わりっこない。変わることなどできないのだ。

 しかし悪いのはなにも、人間だけではない。偉そうなことを言いながら、家畜や作物の犠牲の上に成り立つ「食事」に舌鼓を打っていたのは誰だ。例えヒエラルキーの底辺でも、彼らなりに歩んでいた大切な時間を、有無も言わさず力で奪い取ったのは誰だ。〝地球一フレンドリーな街〟に住みながら皆に畏れられ、ずっとずっと一人ぼっちだったのはどこのどいつだ。
 そうだ。悪いのは全て、こんな秩序を変えることができなかった私自身だ。私もまた権力を笠に着て、人間を含む多くの生き物の生命を愚弄した一人なのだから。私はヒエラルキーをひっくり返すことで、そして自らも借り物の「ヒト」の器に潜むことで、生まれ変われたつもりでいたのかもしれない。
 どうせならあの日、私自身も微生物にでもなんにでもなってしまえたらよかったのにそれすらできなかった。なぜなら、それが真理だから。ヒエラルキーの〝ー〟は逆さまにしても、決してひっくり返ることはできない。私がヒエラルキーの頂点に君臨し続ける限り、この歪んだ秩序が変わることはないのだ。

 手に持った縄に視線を落とす。身体に絡みついたまま持ってきてしまったものだ。桜の木の下にはちょうどいい〝踏み台〟もおいてあった。私はそれによじ登り、手近にあった枝に縄をかけ、先っぽにわっかを作り自らの首を通した。
 下に見える街が涙に滲んでいる。十年前より遥かに遠くまで伸びたその鉛色が、例えどんなに醜い色であっても、私はこの〝私の庭〟から望む景色が大好きだった。
 一つ深呼吸をしてから足場を蹴り、宙に飛び出す。苦しい。この借り物の「ヒト」の肉体が活動を停止すれば、私の魂とて例外なく朽ちるだろう。枝がミシミシと壊れそうな悲鳴を上げる中、ミサキたちが私を呼ぶ声が聞こえた気がした。さようなら、と心で何度も唱えながら、私の意識は徐々にブラックアウトしてゆく。

「おい、なにやってんだよテメェ」


            13

 こめかみのあたりに鈍い痛みを感じて薄らと目を開けると、視界の中心で黒い物体が二つ、飛んでいるカラスのように上下に揺れていた。私があぁ、最近の天使というのは羽が黒い奴もいるのかなどと考えていると、
「きゃあっ、気が付いたっ! 良かったぁ、本当に良かったよぅ!」
 どうやら天国には行きそびれてしまったようだった。

「無事でよかった……あなたがこのまま死んでしまったらと思ったら、私もう……本当にごめ……」
 ミサキはそこまで言うと、私の前で初めて子供のような顔を見せて、その場で泣き崩れてしまった。そしてなんとショウタまでもがぼろぼろと涙を零している。ここまでくると「心配かけやがって」なんて悪態も滑稽さを帯びて聞こえた。
「ふふふ……あはははははっ!」
 私は腹の底から自然と込み上げてくる笑いを抑えることができなかった。一度は軽蔑したはずの彼らと再会して、こんなにも安堵している私がいて、愛おしくて抱き締めたくて、それが可笑しくて仕方なかった。結局私は、ただ寂しかっただけなのかもしれない。
「変なの、あなた、泣きながら笑っているわ」
 言われて初めて自分が泣いていることに気付いた。決して悲しいからでは無かった。だから私はこれを、自分を許すことができた証なのだと信じることにした。
「ごめんなさい。あなたとの誓いを守ることができなくて……でも、もう二度と忘れはしないわ」
 私は頷く。
「悪かったな、その、忘れちまってて。それとありがとう。感謝してる………………チィ、何とか言えよ」
 もう一度、頷く。
「あのねっ! 君のおかげでこの十年間、最っ高に楽しかったよ! でもねっ、君が思ってるほど、元の生活も嫌いじゃなかったよ! あたしはねっ」
 わかっているよ。私はもう一度、はっきりと頷いて見せる。

「感動のご対面のとこ悪いんだけどよ、そこのテメェ、一言文句言わせろや」
 突然後ろから声がした。しかし、慌てて振り返った私の目の前にあったのは苔の生えた祠だけ。
「こっちだよ、馬鹿」
 声は上から降ってきた。「馬鹿」という単語にどきり、と心臓が跳ね上がる。そして顔を上げた私が見たのは、真っ暗な夜空を背に立つ、白髪の青年だった。神の家を土足で踏みつけるその青年に、私は目を奪われた。
 あぁ、そうか……再開の約束を交わした者が、プラン外の存在が、まだ一人いたではないか。信念が変わらないということを私に見せてくれるかもしれない、最後の希望の者が!

「その方があなたを助けてくれたのよ」
 ミサキが教えてくれたが、そんなことはどうでもよかった。暗闇の中に浮かび上がる透き通った肌も、艶めかしく言葉を紡ぐ唇も、彼の全てが私の心を惹きつけ、何一つ考える余地も与えてくれない。彼が汚い口調で罵るたび、祠をぐりぐりと踏みにじるたび、私の口からは甘い吐息が漏れた。
「おいテメェ、ちゃんと聞いてんのかよ。俺はな、植物や動物を人間より格下だと勘違いしてやがるクソッタレが大っ嫌いなんだよ。自殺するのは勝手だがな、そのために木の枝を傷付けるなんて、言語道断だぜ」
 彼の言葉に、私は自分の顔が熱を帯び、体中の細胞が沸き上がるのを感じた。
 この気持ちの意味を知りたい。だから、私は尋ねる。

「あなたはどうして、こんなところにいたの?」
「あぁ? ……この場所はな、ちょいと思い出深い場所なんだよ。俺にとっては、たとえゴミムシでも人間でも神でも、関係ねぇ。それが命あるもんなら平等に愛す……って昔、」
 ここでお節介なババアに、勝手に誓わされたんだよ。

 その瞬間、地面の底から響くような轟音と共に、世界に光が降り注ぐ。目の前の四人はその眩すぎる洪水に飲まれ、溶け、その一部となった。どうやら神の庭が新しい一日を迎え、〝審判の時〟がきたらしい。そして、光のシャワーがこの星を包み込んだ時……ガチャリ。
 世界が反転する音がした。


            14

 光の中から姿を現したのは十年前と全く同じ姿の丘だった。薄桃色を残した葉桜も、ちんけで黴臭い私の家も、丘を真っ白に染め上げる、あの花も。今度は何一つあの日と変わっていない。変わったのはきっと、私だけだ。

 世界が生まれ変わってからちょうど十年目の四月二十八日、午前零時。日付が変わるその瞬間、神は改定が施された新秩序と、旧秩序のどちらかを選択することになっていた。言わばそれまでの十年間は試験運用期間だったわけで、本来は、転生した人間の中で私と「再開の約束」を交わした者―つまり彼ら三人のことだが―の成長を見届け、私は新秩序を選び、その時を以てプランは全て完了する予定だった。それが〝審判の時〟だ。
 完全に秩序の「一部改定」がなされるはずだったその瞬間、私の心は自らの創り上げた新しい秩序を拒み、あの日失ったはずの秩序を求めた。秩序の「破棄」。その瞬間、世界は神の管轄から一旦外れ、入れ替わっていた魂が全て元の場所に帰ってゆく。それが世界を包んだ光の正体だ。
 だけどもし、帰った先にあるべき〝器〟が無かったとしたら? 
入れ替わっている十年間に帰還すべき肉体が死を迎えていた場合、残された魂は? 神は〝他者の運命の針を狂わせるような権限は持ち合わせていない〟。
 だから世界は、神に運命を狂わされる前、すなわち十年前の四月二十七日に戻ったと、つまりそんなところなのだろう。

 目の前で三人の子供たちが丘を縦横無尽に駆け回っている。彼らはすでに私のよく知る彼らではない、本来あるべき彼らだ。私の知る彼らの方は、元気にやっているだろうか。
「お姉ちゃん! ショウタがお花踏んだっ!」
「踏んでねぇしっ! ……あれ、ほんとだっ! なぁ、姉ちゃん!  どうしよ?」
「もう、だめよ気を付けないと。もう一度、しっかり立て直してあげましょう」
 変わることは難しくても、変わろうとする努力はできる。だって私は、諦めが悪いのだから。

 これが最後になるかもしれない〝春風〟が神の庭を吹き抜けた。舞い上がった無数の綿毛は風の流れに任せ、まるで自由な鳥のように、大きな白い翼となって羽ばたく。
 この希望の種が友達の元へ届くなら、私は「春」だって何だって、きっと守り抜けそうな気がした。

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2013/08/30 08:58 | [ 編集 ]


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