さらし文学賞
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微笑みは忘却の速度で


 暮れなずむ夕日の中を背負って、少女は電柱の上に腰かけていた。
 一日の終わりがもうすぐ迫っている。国道を行く車の量はだんだんと多くなり、買い物袋を片手にぶら下げた主婦が帰路を急ぐ。電柱の上にいると町の様子が良く見えるものだ、と思う。イツキはここで、普段ならばこの時間にはやってくるはずである相棒を、首を長くして待っていた。
「……ったく、あいつ何やってるんだよ。早く来ないと、せっかく最後まで来たのに、ゲームオーバーになっちまうぞ」
 未だ遠くまで見渡せる国道に安堵しながらも、イツキは尚も現れない相棒に対して悪態を吐いた。相手がいつ現れてもいいように、右手には武器であるメイスを持ち、左手には昨日戦った相手から奪い取ったグローブを着用している。身を包んでいる真っ青な戦闘服は一見するとアニメか漫画のコスプレイヤーのような格好で滑稽に見えるかもしれない。が、そんな子供のおもちゃのような代物ではないことは、その服に染み込んだ、シャボンとも花ともつかない不思議な香りが教えてくれる。いい香りであることには違いないが、その香りを発するものが何であるのか、イツキには心当たりがない。おそらく地球上を探しても見つからない何かで出来ているのだろう。
「よう、気分はどうだい」
 ぼんやりしていると、右肩付近の空間がぐるぐるとねじ曲がって、そこから蝙蝠に似た鋭い羽を持つ生き物が現れた。蝙蝠はイツキの目の前に来ると、体に似合わない大きな口をガバと開けて飛び回る。
「最悪だよ、アヴァロン。このままじゃ、私が一人で、しかも傷だらけになりながら相手しなくちゃならなくなりそうだ」
 アヴァロンと呼ばれた蝙蝠は風の吹くような音を立てて旋回し、イツキの前で停止した。
「ククク。そいつは見ものだなあ。色んなところを引き裂かれて戦闘服をぼろぼろにしながら呻き声を挙げるイツキ。そそるぜ……? いっそのことこのままサエが来なければ、お前の苦しむさまを見られるんだがなあ」
「黙れ変態」
「おっと」
 アヴァロンを叩きつぶそうとした左手が空を切る。イツキはチッと舌打ちした。
「そんなことより、本当にサエはどうしたんだよ。お前の力でここに呼び寄せたりできないのか」
「そんなサービスはねえよ。俺らはただの監視役だからな」
「何だよ、使えねえな」
「悔しかったらお前の魔法でどうにかしろよ」
「やだよ、これから敵さん来るだろ? 出来る限り、力は温存しておきたい。それに、いろいろ、とね」
 その返答に、アヴァロンはまた咽喉の奥を鳴らして笑った。耳障りな蝙蝠の声は、イツキにとっては悪魔の嘲笑いにも等しい。傷だらけの女に興奮する異常な性癖に下劣な八重歯を覗かせている時とは、また違った嫌らしさがある。その意味するところがイツキにも分かるだけに、イツキはなおアヴァロンに対する嫌悪感が止まらない。出来ることならば、もう少しマシな目付役が欲しかった。使い魔は使い魔らしく、主に従っていればいいものを。
「ほらほら、そんなこと言ってる間に、敵さんのお出ましだぜ」
「何……!」
 アヴァロンの一言に、イツキは緊張で体をこわばらせた。相手がどこにいるのかを確認するため、上下左右に視線を向ける。
 と、電柱の下、国道のガードレール内側を歩いてくる二つの人影を発見した。沈みかけた夕陽で影になって、顔は良く見えないが、二人とも同じ学校の制服を着ている。仲よさそうに雑談に興じている声が、電柱の上に座っているイツキの耳にもはっきり届いて来る。だがその姿は、ただの女子中学生の下校風景にしか見えない。
「おい」
 傍らの蝙蝠に鋭い声を飛ばす。アヴァロンはひゅぅと旋回してイツキの肩に止まった。
「あいつら、本当に今回の敵か? どうみても一般人じゃねえか」
 顎でしゃくってその姿をアヴァロンに示す。アヴァロンはクク、と咽喉を鳴らした。
「俺が信用できねえっていうならそう思って貰っても構わねえぜ。ま、俺はお前が勝つ姿より、負ける姿に興味があるんだからなあ」
「真面目に答えろ」
 急に太くなったイツキの声に、アヴァロンは、おぉ怖、と挑発混じりの声を漏らした。
「間違いはないわな。魔力は間違いなくあいつらから出てる。ただ、あっちの監視役の姿が見当たらないのは妙だな。魔法少女を監視するのが俺らの役目なら、あいつらの使い魔は確実に規則違反だぜ」
 ふむ、とイツキは鼻を鳴らした。逆光になっている二つの人影は使い魔もなしに魔力を放出している。アヴァロンに敵と示された以上はおそらく彼らが敵であることには違いない。しかし、使い魔がいないというのは、敵である自分たちに悟られないように、魔法少女であることを隠しているということなのだろうか。だがアヴァロン曰く、それは規則違反だと言う。ゲームのルール上、規則違反はそのまま、ゲームオーバーとなって、魔法少女の資格を剥奪されるはず。
「何か理由、もしくは抜け穴があるってことか。まあ、こっちもサエが来てないから、好都合だ。とりあえず、様子見と決め込むか」
「いや、そうもいかねえみたいだぜ」
 アヴァロンの指摘にイツキは一瞬呆けて「あ?」と肩に視線を移した。アヴァロンが全身を動かして、先ほどの中学生たちが歩く場所を見るように促す。釣られてそれを追うと、二つの人影はいつのまにか制服から華やかな戦闘服へと姿を変えていた。イツキとアヴァロンをじっと見据え、もう既に武器も手にしている。一人はサーベル、もう一人はステッキを持ち、臨戦態勢である。見えない顔が、「見いつけた」と不気味に歪んでいる気がした。
「やべ。こりゃ考えてる暇もなさそうだな!」
 イツキは腰かけていた電信柱から立ち上がって足に力を込め、二人がいる方向とは逆側に向けて思い切り跳躍した。足をばねのように動かして、二軒先の建物の屋根へと見事に着地する。二人に追いつかれてしまったら、即戦闘に突入するだろう。相手は二、こちらは一。サエがいない今、敵に先手を打たれれば、防戦一方なのは目に見えている。下手をすれば、サエが来るまでの時間稼ぎにもならないかもしれない。
「くそっ……! せめて私とあいつの属性が逆だったら!」
 二人の少女に追いかけられながら、イツキはいつ来るとも分からない相棒を恨んで、今日何度目かの舌打ちをするのだった。

***

 イツキが魔法少女となった経緯は、二か月前に遡る。
 その日、イツキは父から自宅の蔵書整理を頼まれた。高給取りで仕事に明け暮れる父は夜になるまで帰って来ないため、テスト前で早めに帰宅したイツキが空いた時間を使って整理をするように連絡があったのだった。
 父はイツキが幼い頃に母と離婚した。イツキは母の顔をほとんど知らずに育ち、父の言うことを何でも聞いて暮らした。その日の書斎の整理も、父から命ぜられた自分の仕事の一つだと思った。
 書斎内はインクと草紙類が埃にまみれる書庫独特の匂いに満たされていた。図書館と同じ匂いだ、とイツキは思った。天井の高い場所ながらも、空気が入れ替えられそうな大きな窓もなく、唯一ある明かり取りの出窓も、本が日に焼けてしまっては困る、としてカーテンで遮光されている。
 イツキは予め持ってきた懐中電灯のスイッチを入れ、本棚に並べられた書籍の背表紙を照らし出し、作業を開始した。父から送られてきた書籍リストと照合し、必要ないと思われるものを本棚から取り出す。リストには百冊余りのタイトルが並べられていたが、父曰く、整理する書棚にはその五倍以上の量の本が収められているらしい。よくこんなに集めたものだ。昔から収集癖があったんだ、と本人は語っていたが、本は収集するものというよりはその内容を読んで理解し楽しむものだ。どうせ収集するなら、本ではなく、何か別のものにすればよかったのではないか。
 イツキがリストと睨めっこをしながら該当の背表紙を探していると、丁度顔の当たりの棚に、異様な存在感を放つ、辞書のように分厚い背表紙の一冊を見つけた。
「ん……? なんだこりゃ」
 その本の背表紙には『あなたの願いを本当に叶える本 妖術・禁術・魔法大全』とある。書棚に並ぶ他の本の大半が新書や小説など、文庫サイズが多いのに対し、その本は縦横共に広く、ひときわ目を引いた。イツキはリストを床に置き、その本を力いっぱい引っ張り出してみた。手に取ってみると、腕にずっしりと紙の重さを感じた。表紙には、背表紙と同じ字体でタイトルが書かれている。
「相当古そうな本だな。けど、父さんのリストにはこの本は乗ってない。まだ読むのか?」
 何となくページを開いてみる。表題紙には題名が書かれ、一ページ目には見慣れない言語で何かが書かれている。ぱっと見では少しオシャレな西洋風の本だが、中身は日本語の書籍だ。イツキははしがきのページに目を落とした。
「何々? ……『この本にはあなたの願いを叶えるために必要な、妖術・禁術・魔法を、古今東西を問わず、歴史的な裏付けのあるものから伝説、神話に伝えられているものまで幅広く収録した本です。現代科学の発展した今もなお語り継がれる術式を細に入り微に入り説明した本書にて、あなたの願望が実現されたとすれば、本書の著者として、これほど嬉しいことはありません』……?」
 何だ、この胡散臭いはしがきは、第一はしがきと呼べるかどうかすら怪しい、と思いながら、イツキは途中を読み飛ばした。が、最終段落の米印で結ばれる一文が、何となく目に入り、それを読み上げてみた。
「『なお、掲載箇所によっては禁忌とされている内容も躊躇わずに説明してあるため、取り扱いには十分ご注意ください』……?」
 取扱い注意も何も、こんなものただの本に過ぎない。この場にあるだけで発火してしまうような爆弾でもなし、触っただけで服が焼け溶けてしまうような危険な化学薬品でもない。まさかこんな内容を本気にして実行しようとする者がいるというのだろうか。そして著者は、この本の内容が実際に危険なものであると本気で考えて、出版したのだろうか。確かに、『願いを叶える魔法の本』というと、まるで新商品のカタログを見るときのような期待をかすかにしてしまうのは否めない。魔法の本、というファンタジックかつオカルトな響きが、好奇心を刺激してしまうのもわかる。しかし、それはあくまで「ないもの」を「あるように」見せかけているからに過ぎない。この中身は、危険であるかないかというより、「実際にないもの」が「リアルなつくりものとして」書かれているから面白いのだ。それを、著者本人がこれらファンタジックなつくりものを実在していると公言して憚らないのは、何だか自分の幸運を他人にあえて言いふらすのと同じくらいその話の内容をつまらなくしている。
 イツキはそう思うと段々この本の存在そのものが滑稽に思えて来て、書かれたことが逆に全て嘘であるような気がしてきた。そしてそれを眉間に皺が寄るほどに大真面目な顔をしてタイピングしている作者がいるかと思うと、馬鹿馬鹿しいながらに面白半分で、その内容を読んでみたくなった。イツキは一度本を閉じ、そこから適当に頁を開いた。開いた先には魔法少女についての記述があった。イツキはそれを目で乱読した。

【魔法少女】
〈上文〉
魔法少女は、元々不思議な力を使う少女として創作された、日本を発端とする文化である。「魔法」という言葉は古くは呪術的・妖術的な意味合いが強かったが、科学的に説明できない不思議な力を意味することから、戦闘や生活でもこの意味合いでの「魔法」が用いられることとなり、力を使う幼い存在として魔法少女が創作された。
他国(特にキリスト教的文化圏)では、魔女と言う言葉が一般的であり、日本で言う魔法少女に当たる独立した単語は存在しない。現代の西洋文化の捉え方で言う「Magical Girl」とは、日本のアニメや漫画、サブカルチャーで取り扱われる魔法少女の事を指し、この言葉の中のニュアンスとして「超常的な力を持つもの」(男性でいえばSupermanなど)を含むとされている。
 故に魔法少女の存在方法は、魔女と比べて形式や儀式などにこだわらないことが多い。以下は、本書で取り扱うに当たり、実際の魔法少女の生成方法と、その任務である。……

 用語の説明はさらに続いていたが、イツキはそこで読むのをやめた。この本は一般的な知識体系を述べているものだと思ったが、記述はさらに実用的な方面に話を勧めているようだったからだ。第一、魔法少女の誕生方法と任務とは何だろうか。この本は著作者の妙な考えが綴られているに留まるはずなのに、なぜそんなものを書く必要があるのか、理解できない。表題には『あなたの願いを叶える』と書かれているが、それに由来しているのだろうか。だが、それにしても、あまりの現実感のない本の内容にイツキの頭は混乱していた。
「馬鹿馬鹿しい。何が、願いを叶える魔法だ」
 そんな簡単に願いが叶ったら苦労はしない。今まで散々手は尽くしてきたことが、こんないかがわしい本一冊に解決できるようなら、努力は必要ないのだ。イツキは表紙を閉じ、本を棚の元あった場所に戻そうとした。本に向けていた懐中電灯を棚へと向け、取りだした場所を探す。
「ったく、こんなアホみたいな内容でよくこの量書こうなんて考える奴がいるな」
「おぉっと、だが、そう侮って貰っちゃ困るぜ、小娘」
 思わぬ方向からの聞いたことのない突然の声に、心臓が飛び出るかと思うほど躍動した。一瞬、驚きのあまり視界が色彩を失くし、完全に光が無くなったように、イツキは感じた。
「誰だ! ……」
 慌てて声のした方に懐中電灯を当ててみたが、人らしいものは見当たらない。この書斎には今、自分一人しかいないはずである。家の鍵を開け放した記憶もないし、この書斎には人が入れそうな窓もないため外部から侵入することは不可能。書庫全体を照らし出しても、声の主は見つからない。いよいよイツキは不安になった。
「おいおい、まあ、そう力むなって。ちょっと力抜けよ、ほら」
 先ほどと同じ声が聞こえたかと思うと、今度は首筋の辺りを空気が通り抜けていくような感覚に襲われた。思わず声を漏らして飛びのく。真剣に身に危険を感じた。
「く……おい、何だ。いい加減に姿を見せろ」
 出来る限り敵意をむき出しにして威嚇し、イツキは胸の前に手を構えた。だがそれを嘲笑うかのように、見えない声は言った。
「俺ならさっきからここにいるっての。ほれ」
 再び、イツキの肩に風が通る。気配がした瞬間に避けると、その場所に一匹の蝙蝠がいた。だが普通に見かける蝙蝠よりも一回り胴体が大きい。イツキは自分の五感を疑った。だが間違いなく、声はその蝙蝠から発せられてるのだった。
「初めまして、嬢ちゃん。俺はアヴァロン。あんたをこれからちょいと素敵なゲームに招待しようと思って、遥々その本の中からやって来たってわけさ」
 飛びまわる蝙蝠は軽々とイツキの足元に舞い降りると、恭しく翼を畳んでふう、と一息ついた。イツキは足元を懐中電灯で照らしだす。蝙蝠がよく見えるように、膝を折り、子供がありの観察をしている時のような姿勢になる。
「本?」
「ああ、お前の持ってるそれのことだ。魔法少女、って項目にいろいろ条件が載ってたろ」
 慌てて手にずっしりと重みを残す厚さのそれを開き、先ほどと同じページを探す。が、厚く大きい本の量に負けて、該当のページがなかなか探し当てられない。
「ったく、面倒な奴だな。ほらよ」
 と、アヴァロンが折りたたんだ翼を広げて一振りすると、たちまち魔法少女の項目が載ったページが現れた。
「え?」
「驚くこともないだろうが。自分の家の場所を覚えてない奴があるか?」
「あ、ああ……」
 立て続けに起こる不可解な出来事に混乱しながらも、イツキは読んでいた場所の続きを探して目を通した。


***

規約
【第一条】条件と生成
〈第一項〉魔法少女になる者は、全て心身健康な未成年の女子に限る。
〈第二項〉魔法少女の生成は、前項の条件に該当する者が上文を読んだ時点で成立する。
〈第三項〉上文の項目を照度五百ルクス未満の暗い場所で閲覧した者を黒魔法少女、照度五百ルクス以上の明るい場所で閲覧した者を白魔法少女と定義する。この分類を属性と呼ぶ。

【第二条】貸与物
〈第一項〉黒魔法少女には破壊の術を、白魔法少女には治癒の術を与える。同時に、それぞれには任務遂行のための戦闘服、および武器が各一つずつ与えられる。戦闘服、および武器はそれぞれが持つ属性の術を載せることにより、魔法の効力を発揮する。なお、属性と反対の術を武器に乗せることはできない。
〈第二項〉黒魔法少女と白魔法少女には、二人に一匹、使い魔が貸与される。使い魔は魔法少女の任務遂行状況、規約順守を監視する義務を負う。

【第三条】目的
〈第一項〉黒魔法少女と白魔法少女は二人一組になって、土地半径十キロ圏内に存在する同じ時期に生成された魔法少女を倒すことを目的と定める。これをゲームと呼ぶ。
 
【第四条】生成対価
〈第一項〉全て魔法少女は、生成後、生成される以前に接点を持つ人物たち全ての記憶から、その存在を抹消される。
〈第二項〉全て魔法少女は、第三条の目的を達成するため、生成された直後から目的達成までの間、魔法少女と使い魔以外から不可視の存在となる。
〈第三項〉魔法少女が術を発動させる場合、発動の対価として自身の記憶を消失する。発動の対価として消失する記憶は、術の強弱によって範囲指定される。
〈第四項〉白魔法少女が術を介して生成対価、および発動対価として消失した記憶を蘇らせることはできない。

【第五条】報酬
 第三条の目的を達成した魔法少女に対しては、本規約の解約と貸与物の返却、および報酬が支払われる。報酬は、記憶の操作以外の無条件による願望の実現とする。

【第六条】罰則規定
 本規約に違反した場合、もしくは本規約に違反した行為として使い魔に判断され、魔女に深刻された場合、魔女裁判に処し、その判決を罰則とする。

***

 たった六条しかない条文に目を通しながら、イツキは谷底よりも深い場所に突き落とされたような気分になっていった。一条一条読み進めていく度に、魔法少女が如何に世間から隔絶された存在であり、このゲームが非現実的かつ理不尽に振りかざされているのか、思い知ることになってしまったのだった。この規約をすっぱり、あり得ない、と突き離すのは簡単だった。だが、目の前の喋る蝙蝠や本の意味不明な内容を見る限りでは、信じないと思うより正しいと思う気持ちの方が強かった。これを読んで最初にイツキが思ったのは、これは規約などではない、ということだった。なぜか。自分は何も知らずに契約書に判を押してしまうよう、陥れられた立場に等しかったからだった。
「おい、この規約は規約として成り立たないだろ。規約ってのは、“取り決めをするにあたって同意できる事項を並べた書類“の事を言うのであって、その書類以前に契約が交わされてるなんて、法律的に考えたらあり得ない。だからこの規約は無効だ」
「法律! 今、法律って言ったな?」
 足元で大人しくしていたアヴァロンが翼を広げてイツキの顔の前にずいと近寄ってきた。イツキは勢いに押されて顔を引っ込める。アヴァロンは、ちゃんちゃらおかしい、というように、咽喉を鳴らして笑った。
「魔法の世界に法律なんてものが存在してると思うか? 魔法は魔法。魔術を使って作られた法律だ。お前らの世界と俺らの世界が違うのは当たり前なんだよ、ガキが。お前らの世界で駄目って言われてることでも俺らの世界で駄目とは限らねえだろ。まして、魔法少女は魔女の下っ端。んで、人間はその更に下。人間から昇格できたんだからありがたく受け取るのが筋ってもんだろうが。でなかったら、最初に上文を読んじまった自分の不運を嘆くんだな」
 酷い言われようだ、と思いながらも、イツキは眉をしかめるばかりでそれ以上何も言い返せなかった。どうもこの蝙蝠と自分の間とに会話が成り立つ気がしなかった。全て「魔法の世界では違うんだ」の一言で強制的に終わらせられるような気がした。
 だが、イツキには最早そんな悠長なことを言い争っている暇はないと感じた。仮に本に書いてあるこの規約が本物だとするならば、自分は魔法少女でありながらにして透明人間、記憶喪失候補となる。イツキは再び規約を懐中電灯で照らした。聞きたいことは山ほどあった。が、ゲーム、魔法少女、願望の実現、どれも俄かには信じがたいし、想像が及ばない。自分のことを知る全ての人物の自分に関する記憶が消える、と言っても、父親が仕事で出払ってる今、確かめようもない。記憶を代償に魔法を使う、という魔法少女は、初めて聞いたが、そこまでして魔法を使わなくてはいけないものなのだろうか。
「そういえば、ここには黒魔法少女と白魔法少女がいるって書いてあるけど」
 イツキは数ある質問のうちで、最初に目にとまった第一条の部分から質問していくことにした。最初に書いてあるということは、おそらく最初に聞いておくべきことだと思った。
「私が黒魔法少女、とすると、組むべき白魔法少女がいるんだろ? それは誰だよ」
「やっと気付いてくれたんだね」
 アヴァロンに聞いたはずが、全く別のところから新しい声が答えた。イツキはまた背筋に冷たい感じを覚えて、声のした方に懐中電灯を向けた。
 先ほどまで誰もいなかったはずの書斎の隅に、身長を越える巨大な箒を持った少女が座っていた。茶色の癖っ毛が腰のあたりまで伸びており、レースが多めのふわふわしたピンク色の服を着ている。年は自分と同じくらいだろうか。
「おお、何だ、サエ。いたのか」
 アヴァロンが彼女の方を振り返り、鋭い翼でそちらの方へ飛んでいく。全く気配がしなかったのに突然現れた少女は、同じく現れたばかりの蝙蝠をその白い指先に止めた。
「随分と早かったな。何だ。魔法でも使ってきたのか」
 アヴァロンは少女の指から肩に移動してその顔を覗き見、からかうように言った。陽だまりのように優しい笑みを浮かべた少女は、イツキの方を一瞥すると、再びアヴァロンに視線を戻して、ふと息を漏らした。
「そりゃあもう。心待ちにしていた相棒が現れたんだもの。歩いて、なんて悠長なことしてられないよ」
「ケッ。そうかいそうかい。そいつは、ご苦労なことで」
 なぜかアヴァロンは不機嫌そうだった。イツキはアヴァロンの真意を測りかねた。
 少女は手に持っていた箒をどこにともなくしまうと、(それはイツキにはまるで消えたように見えた)イツキの方につかつかと歩み寄ってきた。彼女の桃色の服からは、蜂蜜のように甘い香りがした。
「やあ。私があなたの相方の白魔法少女だよ。サエって呼んでね。よろしく」
「あ、ああ……よろしく」
 イツキは鍵をかけておいたはずの自宅にいとも簡単に侵入してきた少女を訝しく思いながら、これから相棒となる白魔法少女に会釈した。全く見知らぬ相手と暫く行動を共にしなければならないと思うと、少し先が思いやられた。だがサエはこちらのそんな心境を知ってか知らずか、ずっとほほ笑みを浮かべたままだった。妙にこちらを見つめながらニコニコしている。
「あの、何か……?」
 やがて動かない眼差しに強烈な違和感を覚えて思わず訊き返した。サエは、表情をそのままに、ふ、とまた息を漏らした。
「ああ、ごめんごめん。あんまり驚いてないようだからつい。まあ、最初の間は今までの生活と、魔法少女の生活とに大分ギャップを感じると思うけど、段々慣れてくるから大丈夫だよ」
「驚いてないってことはない。寧ろ、あんたもそこの蝙蝠も、突然出てきたからすげえ驚いてるよ、そりゃあ」
「クク。俺たちが突然出てきたんじゃねえよ。お前が、こっち側に、来たんだ」
「どういうことだ。さっき本から出てきたって言ったじゃないか、お前」
「確かに俺の住処はあの本の中だが。規約に書いてあったろ? 普通の人間には魔法少女も使い魔も不可視の存在になるんだ。つまり、普通の人間に、見えねえんだ、俺らは」
 平然と言ってのけるアヴァロンに、イツキはまたもや戸惑った。どうやら、先ほどの本に書いてあった規約は本当らしい。自分は、抗うことのできない状態の中で、魔法少女とやらに、なってしまったようだ。全く実感がわかない。
「とにかくね。今日から、魔法少女だよ。自分の記憶を犠牲にさえすれば、魔法使い放題だよ。黒魔法少女は破壊系の魔法しか使えないのがちょっと厄介だけど。ゲームをクリア出来れば、何でも願望を叶えて貰えるらしい、っていうと、少し張り合いがでるんじゃないかなあ」
「記憶を犠牲に、って」
「書いてあったでしょ」
「いや。そうじゃなくて」
「そうじゃなくて、って、何?」
 堂々と言ってのけるサエに、イツキは戸惑っていた。記憶を犠牲にして魔法を使う、なんてことが本当にまかり通っているようなら、一体任務をこなすのにどれほどの思い出を捨てなくてはならないのだろう。忘れたくない事、忘れてはいけないことを犠牲にしてまで、任務で魔法を使わなくてはならないのだろうか。それで願いを叶えなくてはいけないのだろうか。
「あんたは平気なのか、それで」
 イツキが質問すると、サエは首を横に振った。笑ったままだった。
「そんなの」
 傍らでアヴァロンも笑っていた。
「もう忘れちゃったよ」
 イツキは意味が分からなかった。

***
 
 走り抜ける町並みはまるで電車内の車窓から外を眺めた時のように後ろへと飛び去っていく。もう随分と走った。二人の少女は相変わらず、魔法で攻撃してくることもなく、イツキをひたすら追い掛けて来ていた。
「畜生、あいつらいつまで付いてくる気だよ?」
「そりゃあ、いつまででも追いかけてくるだろうな。お前を倒せば、あっちは優勝。願望を実現できるんだから」
「んなこたあ分かってる!」
 イツキは声を張り上げて当たり前のことを答えるアヴァロンを叱責した。
「敵さんとしてはそりゃあ、極力魔法を押さえて、失う記憶を最小限にしておこうって魂胆なんだろうがな。こっちはもう持たねえぞ。早い所サエを見つけて応戦しねえと、体の方が先に音を挙げちまう」
「体の方が先に、ね。そらあ、いいね」
 クク、とアヴァロンは嬉しそうに笑った。黙れ、と言いたかったが、最早その体力はなかった。かといって、相手の魔力を足止めに使う気にもなれない。
 イツキはこれまでゲーム攻略のためにあまり積極的に魔法を使ってこなかった。魔法少女の戦闘服は想像していたよりもずっと高性能で、殴打や蹴りなどの肉体攻撃は人間であった時の何倍にも強くなったし、人間とは比べ物にならないほどの跳躍力も得られた。元々、貸与物の武器がメイスと強力であっただけに、この戦闘服の力で増強される攻撃力の高さは戦った魔法少女たちと比較しても随一であったと自負している。
 だがそうした攻撃力の高さを誇るイツキがゲーム攻略のために魔法の使用を制限したい、と言いだした時に猛反発したのがサエだった。サエは「魔法少女になったからには、魔法を使わなければ絶対に勝ち残れないよ」と言い、イツキに何度も魔法を使うように勧めた。
「なんでそこまで魔法を嫌がるの。どうせ、私たちのことは、誰も覚えててくれないよ。イツキ。あなたが、人間だった頃の記憶を覚えている人は、もういないんだよ。世界中のだれもかれも。あなたの友達だった人も、あなたの家族も、もうあなたのことを覚えてなんていない。あなたの唯一の肉親だったはずの、あなたのお父さんだって、もうあなたのことを覚えてないんだよ。そんな思い出、覚えていたって、悲しいだけでしょう? なかったことにしてしまった方が、いっそのこと楽じゃないの」
 イツキが魔法を制限していることに我慢が出来なくなったサエは、そう言ってイツキを諭そうとした。しかし、イツキは首を縦に振らなかった。
「例え世界中の誰が私のことを覚えていなかったとしても、私の中にある父さんや皆との思い出は、むざむざ捨てていいものじゃねえよ。それがなくなる、って分かってるなら尚更だ。そんなことしたら、せっかくゲームをクリアできても、何も残らないじゃねえか」
 これは、イツキが魔法少女になってからずっと考えていたことだった。このゲームは横暴とも言える理不尽な条件で回っている。まず、それがおかしい、と感じた。たった一つの上文を読むことによって無理やり規約に従わされる。姿を奪われ、記憶を奪われ、相手の魔法少女に倒されればその時点でゲームオーバーとなり、命を奪われる。ゲームに反すれば、魔女裁判に処されて、どんな罰を受けさせられるか分からない。その癖、ゲームをクリアしたところで与えられるのは、記憶の復活以外での願いの実現のみだ。イツキはその悪条件の中で自分たち魔法少女が何か得られる利益があるとは到底思えなかった。そしてその不安は、戦闘を重ねれば重ねるほどに、どんどん強くなっていった。
「なあ。サエ、ひとつ聞くけどよ」
 ある日の戦闘が終わった後、イツキはサエに尋ねた。
「お前、自分がいつから戦ってるのか、覚えてるか」
「いつ、って」
 サエはこともなげに答えた。出会った時と同じ、純真無垢な笑みを浮かべていた。
「そんなの、イツキと出会ってからに決まってるじゃない。タッグを組まないと、ゲームには参加できないんだから」
「そうじゃなくて、例えばこのゲーム、規約に沿わずに自分一人でもできる、とか考えたことはなかったのか? そのために魔法を使おう、なんてことはなかったのか?」
 サエはイツキが何を言っているのかわからない、と言ったようにきょとんとしていた。
「そんなことしたら、駄目でしょう」
「なんでだよ」
「規約違反だから。違反したら、魔女裁判、でしょ」
「それって本当にあるもんなのか」
「……? 何が言いたいの」
 イツキの質問に、サエはまたもや首を傾げた。形のいい大きい目が、イツキを食い入るように見つめた。
「あまりにも、よく出来過ぎていやしないか、ってことだ」
「言ってる意味が、ちょっとよく分からない。それが魔法を使わないことと、何の関係があるっていうわけ」
「わかったよ、もういいよ」
 不服そうに顔を歪めるサエに対し、イツキはこの質問でゲームについてのある確信を得たのだった。
「いいって言われても、あまり納得できないんだけど」
「なかったことにしてしまった方がいいこともある。さっきお前はそういったばかりだろう」
「それはそうだけど、それとこれとは話が違う気がする」
「気にするな」
 ぽん、とサエの頭に手を置いてなだめた。サエは訝しりながらも何度か頭を撫でられているうちに気持ち良いと見えて脹れっ面を納めた。
「じゃあ気にしないよ。どうせ魔法使ってる間に忘れるしね、こんなこと。とにかく、イツキが魔法使わない、っていうなら、私がサポートに回って、どんどん強化していけばいいだけだし」
 自分が自分の理屈で動いているならば、サエもサエの理屈で魔法少女という状況をやりくりしているらしかった。そこが問題なのだが、とイツキは思ったが、あえてそれは言わないことにした。
 そのときの発言通り、イツキが魔法を使わないのを補填するかのように、サエは魔法を使い続けた。サエの使う白魔法は、イツキの攻撃の強化と防御を主としていた。強い武器に強力な戦闘服、そしてサエの白魔法による能力の増強を行なわれたイツキの攻撃は、他の黒魔法少女の使う黒魔術に匹敵するほどだった。その甲斐あって、イツキとサエは、最後の戦闘まで生き残ることができた。イツキにとっては、サエの白魔法はもはやなくてはならないものだった。
 だがそのサエが、今はどこにいるともわからない。最後の最後に限って、どこにも見当たらない。これでは魔術を使ってくる相手に対して、応戦することもできず、逃げまどうだけだ。
「もう、お前もいい加減、諦めたらどうだ」
 アヴァロンが焦る気持ちに追い打ちを掛ける。記憶を惜しんでいる場合ではない、と言ってくる。
「いや、まだ行ける。サエが、見つかれば」
 この期に及んでまだ他力本願にならなくてはいけない自分自身が恨めしかったが、一つの結論に辿りついた以上は、ここで引き下がるわけにもいかなかった。アヴァロンが、そうかい、と呆れたように言った。イツキは尚も走った。
 と、直後、背中に向けて凄まじい水流が浴びせられた。氷のように冷たい水が背後から押し寄せて、イツキの体を直撃する。骨が折れるかと思う水圧に、イツキはうめき声を挙げた。
「うう」
 強化と治療がない分、ダメージは深刻だった。一人でいるところを襲撃されることが思いがけずイツキを孤独に突き落としていた。規則がどうとか、記憶がどうとか、そういった問題を全て流してしまうほどに、痛みが深刻だった。さすが、最終戦といったところだろうか。イツキの頭に、早くも敗北の字が見え始めていた。
 だがまだ少しではあるが体が動いた。叩きつけられた地面に手をつき、膝を押さえて立ち上がる。つま先の辺りに力を入れると、先ほどとまではいかないものの、大きくジャンプが出来た。イツキはない力を必死で振り絞り、追いかけてきた二人に見つからないように、今度は物陰に隠れながらあたりを走った。
 いつの間にか大分時間がたったらしい。空には星が輝き初め、静かに月が浮かび上がっていた。影になる場所を選びながら、時々地べたに座り、休憩した。追いかけてきた二人の少女の姿は、もうどこにも見当たらなかった。イツキは腰かけた場所で深く息を吐くと、そのまま思い切り寝転んで、頬を冷たいアスファルトに寄せ、軽く目を閉じた。ひんやりと熱を吸収していく、石の硬さが心地いい。
 ここまで一体どれだけの距離を走ってきたことだろうか。サエはどこにも見当たらなかった。このままサエに合流できずに、再びあの少女たちに見つかったら、今度こそ自分は終わりだろうと思った。
「なあ、アヴァロン。質問がある」
 イツキは使い魔に声をかけた。
「おう、何だ」
「もし、ペアになった白魔法少女と黒魔法少女のうち、片方がやられた場合、残された方はどうなるんだ?」
「クク。早くも自分より仲間の心配ってか。お涙頂戴の展開だな」
「いいから答えろよ」
 口を吐いて出てくる言葉には力がこもらず、やや迫力に欠けた。
「さあな。そんな例、俺は見たことねえから知らねえよ」
「そうか。よくありそうな例だと思ったんだがな」
 イツキはアヴァロンの答えを聞くと、安堵したようにため息をついた。どうやらこの使い魔が自分にもたらしてくれる情報は、殆どなしに等しいらしい。ならば逆に都合がいいのかもしれない。イツキは口を開いた。
「少し話を聞いてくれ、アヴァロン。今から言うのは、私のほんの世迷言に過ぎないし、推測の域を出ない。だが、今まで魔法を使って来なかった私だから、逆に一つだけ分かることがあるんだ。いいや、分かると言うと少し言い過ぎだ。これもあくまで予想の一つだ。だけど、サエではこの答えには辿りつけないだろう。私だから分かるんだ。まあ、死ぬかもしれないやつの独り言だと思って聞いてくれ」
 アヴァロンはククと笑った。死ぬかもしれない、という言葉を、ボロボロになった本人から聞いて、より現実味が増したのだろう。最後の最後まで悪趣味な奴だ、と思う。それもこの不敵な使い魔であれば仕方がないのかもしれないが。
「……私は最初からこのゲームのルールは妙だとずっと思っていた。私には、自分自身の記憶を犠牲にしてまで叶えたい願望なんてない。せいぜい、昔別れた知らない母親の顔を一目見てみたかったな、と思うくらいだった。だけど、このゲームの魔法少女は、生成された時に姿を奪われ、任務をこなすための燃料として記憶を奪われる。そしたら、あまりその願望と言うのは、実現できないだろうと考えるのが妥当だ。けど、それでもなぜか戦う。常人には考えられないようなリスクを背負ってでも、少女たちは戦いをやめないし、記憶を燃やして魔法を使い続ける。それはなぜだ? どうあってもリスクの方が大きく見えるのに」
 アヴァロンは黙って聞いている。頷くでもなく、話すでもない。ただ沈黙を守って、じっとイツキを見ていた。
「だから私は考えたんだ。このゲームは、初めからよく出来過ぎていたんじゃないかって。だからあえて、魔法と言うのに乗らない選択肢を選んだ。魔法を使うと、記憶がなくなるらしいなら、魔法を使わずに、記憶を溜め続けたらどうなるか、試してみることにした。それで、分かったことが一つあった。サエが私に、気付かせてくれたんだよ」
 そこまで言ってイツキは激しくむせ込んだ。背中の痛みがじわじわと全身に広がっていくのがわかったのだった。喋ることすら困難になるほどの激痛だった。だがイツキは手で唇をぬぐい、再度話し始めた。
「なあ、よく考えてみりゃあおかしいんだ。魔法を使う度に記憶が蝕まれるなら、もし最後にこのゲームをクリアできたとして、その先にある実現可能な願望っていうのは一体何なんだよ? 全く記憶がない状態でも、願望って言うのは生まれるものなのか? 魔法を使うたびにどんどん記憶がなくなっていったら、最初考えていたような願いとやらも、いずれは思い出せなくなるんじゃないか」
 咳き込んで切れた口の中から、黒々とした塊のようなものが溢れ出た。イツキの言うことを無視して、アヴァロンは黙り続けた。
「私は、サエを見ていてこれに気付いた。あの子は私が魔法使わない、って言ったら、その補填をしようと他人の倍の量で魔法を使って、記憶を消失させていたんだ。そしてな、いつしかその記憶を消失する速度が、記憶を蓄積していく速度を上回ってしまった。するとどうなると思う? 覚えてないんだ、何もかも。今、自分が魔法少女だということも、昨日まで私と一緒に戦っていたことも、全部その場で忘れてしまうんだよ。記憶の蓄積を上回る忘却は、最早彼女の人格そのものを突き破ってしまった。これで今日、戦いに来なかった理由も説明できるだろ」
 頭の中が徐々にぼんやりとしてきた。いよいよ自分が自分で亡くなりそうな恐怖に侵食される。だが段々逆にそこから冷めてくる自分も発見する。まだ全てを語ったわけではない。
「それで、だ。もしこの憶測が正しいとしたら、サエは今どこにいる? 答えは簡単だ。さっきお前に聞いただろ。私は、サエの心配をしていたんじゃない。お前に聞いたときに、一緒に死ぬんだよ、とか言われたら、私のこの話は成立しないからな。そうでないと、私があの連中から追いまわされている間のことの説明が付かないし。まあ、ここまできたら、もうそんなことも関係ないか……眠くなってきたよ、いよいよ」
 ほう、いい顔するじゃねえか。ようやくアヴァロンは沈黙を破って一言呟いた。るせえ、と消え入りそうな声で返そうとすると、呼吸が口からすうと漏れただけだった。心なしか、その息は鉄の味がした。服についていたはずの、シャボンとも花ともつかない不思議な香りは、決して拭いきれない真っ赤な匂いに塗りつぶされた。
「俺はただの使い魔だからな。お前の話には何とも言えねえ。だが」
 首のあたりに、風が当たるのを感じた。
「今のお前の顔は、最高に綺麗だぜ。寝顔の中では最上級の部類だ」
 そいつはどうも、イツキは心の中でほほ笑んだ。きっとサエもこういうときには笑っているに違いない。どこかで会ったら、「お前は忘れてるだろうけど、私はお前の事はちゃんと覚えてるぞ」と言って、あの陽だまりのような笑みに笑い返してやろう。

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