さらし文学賞
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毒を蒔く女

『はじめ、はじまり、いちばんさいしょ。
――わたしは、わたしが満たされていると思っていた。
 わたしはわたしとして完璧で、
欠けているところなどあるはずがない。
 わたしはわたしで充足している。
 わたしはずっと、そう信じていた。』



 細い指先がひやりとしたスイッチに触れて小さな音を立てた。ぶぅんと緩い駆動音がして人工の薄蒼い明かりが広い室内を満たすと一面の硝子の向こう側が見える、そこが水で満たされているのが判る。
 室内は少し暑さを感じる程度に生温い。女が硝子の向こうを見上げる脇で、配属されたばかりの若い研究員が感嘆の声を上げた。
 ここが命の源。
 青年はそう呟いて硝子面へ引き寄せられるようにふらふらと近寄った。薄暗い明かりで照らされた硝子の向こうには無数のなにか(・・・)がいる。丸まったそれらの中心からはそれぞれ細い紐状のものが生えていて、床と繋がってゆらりゆらりと揺れていた。
 ここをはじめて訪れたものの大半はまず言葉を失う。そして、懐かしむような表情になる。中には涙を流すものもいる。
 なるほどそれは一理あるのかもしれない。
 硝子面にへばりついて何事か呟いている青年を一瞥して、女は踵を返した。溜息を一つ。今日は仕事にならない。いや、それは言い訳か。
 ここに居たくない。
 女はここが余り好きではない。ぞわぞわとした不快感は何かに似ていて、何に似ているのかはよくわからない。
 ああ、と、溜息のような声が背後から聞こえた。恍惚に似ていて、汚らわしい何かを見せつけられたような気がして吐き気がした。



『けれどある日、あるときのこと。
――わたしは、まことを知ってしまった。
 わたしのなかには虚があって、いつまでたっても、
わたしひとりでは満たされない。
そんな真実を、見つけてしまった。

 わたしはわたしを、満たさなければならない。
 わたしは、わたしを、満たさなければならないのだ。』



 いのちが欲しいのだと女は言って、青年は少しきょとんとして首を傾げた。
「ここに、幾らでもあるじゃないですか」
 いや、ここ以外にいのちのあるところなどないと言ってもいい。青年はごく当然の事実を語るようにそう言ってのけて、女は少しだけ笑った。昔の自分と同じことを思っている。自らの過去はいつも少し苦いし、少し甘い。
「ここにあるものなんて、ニセモノよ」
 女ははっきりとそう言った。理解できていない様子の青年に近付き、身を寄せる。耳元に唇を寄せて手をあてて、そのさまは子どもが内緒話をするときのように無邪気だった。
「わたしに、命を頂戴」
 女は柔らかに微笑んで、長い睫をゆっくりと上下させた。青年は甘い香りを感じてくらりと酩酊するように目を眇めた。
青年はこれが何を意味するのか知らなかった。女は明確な意図を持っていた。
柔らかな唇を寄せ、白い指先で触れ、薄い腹部へと導いた。弾けた飛沫を受けとめて啜り上げて飲み込んで、女はうっすらと微笑んだ。



『――ああ!
これで。これで、わたしは満たされた。
 わたしのなかは、わたしは、充足した。
 わたしのなかをあたたかな水が満たし、
わたしのなかをわたしが満たす。
 
 ――わたしはソレが、わたしでないことを知らなかった。
 そもそもわたしの中身がわたしそのものであるはずなど、
ありえないことに気付かなかった。
 そうして、ソレがわたしでないと気付いたときに、
わたしのなかは、もう――』



 生温い室温は体温より少し高い温度に設定されている。ぼんやりとした薄蒼い人工の明かりの下に立って、女は硝子の向こうを見つめた。
 つるりとした表面に触れても冷たさはなく、同じような生温さだけがある。額をつけて目を閉じ、女は薄い自らの腹部を押さえた。今なら少しだけあの青年の思いがわかる気がした。
 確かにここには神聖なものがある。ただしそれは哀しいくらいの紛い物だ。そうだ、あのぞわぞわとした不快感は、あからさまな劣化コピーを見たときのものに似ていたのだ、今更だけれど。
 白衣のポケットから取り出した四角い箱を硝子面にひたりと寄せて、硝子に額をつけたまま目を閉じて少し惑った。内側から湧き上がる思いを冷静に見つめ返して名前をつければ吐き気がする。けれど女はこうせざるを得ない。それは女が生き残るためであったし、女が生きていくためであった。
 女はそろりと瞼を上げ、ぷかぷかと浮かぶ無数のそれら(・・・)をしばしみつめた。それが何であるか、以前の女は知っていて、今の女にもわかっている。昔と今にはたしかな差異がある。それはもはやなにか(・・・)ではなく、確かな――いのち(・・・)、なのだと、今の女は強く感じていた。
 ここは、紛い物だ。けれどここにあるいのちは、どうしようもなく本物だ。
 女は知らず、薄い腹部にあてた手に力を込めた。熱い気がして、どうしようもないのに泣いてしまう、と思った。湧き上がる気持ちは純粋に懺悔だった。
「……ごめんなさい」
 口の中で小さく呟いた。
そのとき、

「……――ひっ!」

硝子の向こうの全てのそれら(・・・)が目を見開き、女を見据えた。



((((((((――ママ?))))))))



女は、声が響くのを確かに聞いた。
ぞわりと背筋を這い登った恐怖に支配されて、女は咄嗟に手にしていた白いもののスイッチを入れた。ぴしり、と小さな音がして、硝子面に衝撃が走るのを知る。びりびりと硬質な板に波及していく震え。ほんの小さな罅割れが生じさせた歪みが、硝子全体に負荷をかけて、崩壊を促す。
逃げなければ。そう思って踵を返す前に、凄まじい音が、女の体を包み込んだ。硝子が割れて弾けて濁流が注ぎ落ちる、その凄まじく裂けるような音と共に、生温い液体が女を飲み込む。
「あっ!」
生温い水に包まれて流される。柔らかでどろりとした何かが女に触れる。液体は何処までも広がっていく。飲み込まれて連れて行かれる。自然と目を閉じて息を止めて、必死で流れをやり過ごす。
そうして起き上がったときに、女は、地獄を見た。

一面に広がるそれ(・・)は、紅い色をしていた。

奇怪な肉の塊が、ぐしゃり、べちゃりと音を立て、潰れ、流されて広がっていく。ぶちぶちと紐が切れて流されていく。潰れて紅く染まる。生まれそこなったいのちが、生まれたかったいのちが、潰れて壊れて崩れていく。
「あ、あ」
 女にはもはや言葉もなく、愕然と見開かれた目からは正気が消えていく。

 生温い空気は、胎内を模していた。
 生温い水は、羊水を模していた。

 この部屋は、女を模していた。

 そもそもいのちとは、女が造るものだったのだ。
 誰もが忘れてしまっていた原始の真理。
 人が生産され配布され管理されるようになってから、失われてしまった記憶と機能。

 ――紅く染まる水、一面に広がる奇怪な肉の塊――胎児の中に、へたり込む女――
 それはまさに、地獄絵図と言うが相応しかったに違いない。
 ならば、
 その地獄から立ち上がって嗤った女はもはや、人間とは言えなかった。
(まま)(ママ)(ままー)(まーまー)(まんま)(マァマ)(ママ)(ママー)(まぁまー)(まま)(ママ)(まま!)(ママ!!)(まま!!)(ままー!)(マーァ!)(ママー!)
 ぐわんぐわんと頭の中を声が反響して煩い。(まま!)耳をふさいでも聞こえてくる。(ママ!)――それは、呼ぶ声だった。たくさんのノイズが、交じり合い溶け合いながら、秩序なく女を呼び続ける。
 それは胎児の叫びだった。悲鳴だった。懇願だった。女が求めるように胎児もまた求めるのだ。女とは、胎児とは、そういう風に出来ているのだ。けれど女は応えずに、歪んだ唇から歪んだ笑いを発し続けた。けたけたけたけた、と、壊れた笑いが淀んで湿った空間に頼りなく響き渡り吸収された。
 女はずっと、細く白い腕で腹部を押さえ続けていた。女にとって応える相手とは唯一ただ一人であり、それは無数の胎児たちではなかった。女の虚が満たされていく。満たされ続けていく。満たされて広がって満たされて満たされて満たされて、そしてやがて溢れてしまう。
 女は壊さねばならなかった。
女は自らの水槽のために、世界の水槽を壊さねばならなかった。

 女はもはやただの女ではなかった。
 女はもはや、ただの、ひとりの母でしかなかった。
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