さらし文学賞
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水槽

(ある冬の朝、××海岸で倒れていた少女が保護された)

 死のうと思って海まで行った。
 溺れることが、確実な自殺の方法だとは思わなかった。海で死ぬにしても、船に乗って行って沖の方で飛び込むのならともかく、海岸から入るというのはあまりうまくない、とはわかっていた。だから、私はたぶん、本当は死にたくなかったのかもしれない。
 それでも、とにかく私は死ぬつもりだった。
 天気予報では、最低気温が零度を下回ると言っていた。そんな日の午前五時、海に人がいるわけはなかった。
 それなのに、先客がいたのだ。夜と変わらない暗さの中で、視界は、やや離れた道沿いの街灯の光が頼りだった。まず目に入ったのは、海辺に立っている男の人だ。私の父よりは少し若そうだった。
 一応、見つからないようにはしたつもりだ。けれど、他に誰もいない海岸に、人の気配は濃すぎたらしく、男の人はすぐに私に気付いた。
「おはようございます」
 私は思わず頭を下げた。男の人も「おはよう」と言った。
 笑顔だった。素敵だった。
 彼は、私に挨拶をした後は、すぐに海へと視線を戻した。彼が何を見ているのかはすぐにわかった。海で泳いでいる人がいたのだ。
 遠くてよく見えないが、女の人のようだった。女の人は、ときどきこちらを見ているようだ。
「美根子だよ」
 彼はそう言った。
「奥さんですか」
「そうだね」
 瞬間、私はかっと燃えるような嫉妬を感じた。なぜこんなに頬が熱くなるのかわからなかった。私はつい、彼の隣に寄り添うように立った。
 奥さんは楽しそうに泳いでいた。海岸から少し離れた、足をつけばやっと頭が出るくらいのところを、左右に行ったり来たりしている。白っぽい水着を着ているようだった。彼の方は、ジーンズに薄手のTシャツを着ていた。死にに来た私でさえ、分厚いコートを羽織っているのに。
「美根子は、心臓が弱いんだ」
 独り言のように、彼は言った。私は彼の顔を見上げた。
「だったら、こんな冷たい海で泳ぐのは、危なくないですか」
 彼は答えずに手を振った。私にではない、海に向かってだ。奥さんを見ると、こちらに向かって、やはり手を振っているようだった。
「あそこまで海に入った時点で、もう同じことなんだよ」
 彼はまたぽつりと言った。彼が奥さん以外に気を払っていないのは明らかだった。私は空気のようなものだ。いてもいなくても、彼には何の影響も与えない。
「あの奥さんが死んだら、私と結婚してくれますか?」
 私は死ぬつもりだったのでどんなことでも言えた。
「ごめんね。僕は美根子を愛しているんだ」
「そうですか。残念です」
 断られても、意外なほどがっかりしなかった。
 奥さんの頭は、波間に出たり消えたりしている。そこだけをとると、衝立の反対側で鞠が跳ねている様子にも似ている。奥さんの首が鞠だ。最初の勢いを失った鞠が、だんだん跳ね上がらなくなってくる、そんな危うさまでよく似ていた。
「君は、何をしにここに来たの」
「……何となく、です」
「もしかして、世界が水槽の形をしているって、知っている?」
「いいえ。そんな話、初めて聞きました」
 彼は私に話しかけてくれたけれど、もう私を見てくれることはなかった。私は、彼の話が何であれ、それをただ一所懸命聞こうとした。
「大きな四角い水槽を想像してごらん」
 私は目を閉じて言われる通りにした。
「少し厚めに、砂を敷き詰める。そこに水をそそぐ。たっぷりと、でも高さは水槽の半分くらいまでにとどめて」
彼の頭の中にあるイメージを、そのまま私の頭に映し出したいと思った。
「その水槽を、ぐっと傾ける。わかるかな? 水の溜まった海の部分と、砂が底にへばりついた陸地の部分ができているって」
「わかります」
「そう。その砂の上が、僕達の生きている世界と同じなんだ」
 それきり、彼の説明はなかった。私は、ぱち、と目を開けた。
「でも、それだと世界は傾いていることになりますね」
「その通りだね」
 いい質問だと認められたようで嬉しかった。
「欠陥住宅なんかで、床がほかの少しでも傾いていると、住人は大概頭痛を訴えるんだ。家も世界も変わらない。だからみんな言うじゃないか、生きにくい、生きにくいって」
 ああ傾いていたからなんだ、と私は納得した。
「だったら、水槽をまっすぐ置き直せば、きっといい世界になりますね」
「いい世界? でもね、もし水槽が、水平なところに置かれたとしたら」
 彼は指揮者のような手振りを加えた。
「世界は終わりだよ。全ては水に埋まってしまう」
 そうですけど、でも、と私は反論を試みた。
「まだ、水があります。水の中だって、世界でしょう?」
「どうこう言っても、僕達は水の中では生きられないんだよ。僕達にとっての世界の終わりが、すなわち世界の終わりだ。それとも、君は魚の終わりについて考えているの?」
 私はそこまでお人好しではなかったので、首を振った。
「そう、砂が世界で、水は異界だ。砂が生で、水は死だ。だから、海は死そのものだよ。夏に海水浴に来る家族がいるね。今思うと、恐ろしいよ。どうして、ああやって死の中で遊べるのだろう。夏だから良かった、と思うしかない。夏の太陽は、水を奪ってくれるから。でも冬はそうはいかない。だから冬の海は死以外の何物でもない」
それは詩、それとも物語――? 私の口は弱々しく動いた。
「どうして、そのことに気付いたのですか」
「気付いたのは美根子だよ。心臓の病気になってから、感覚が違ってきたんだろうね。それで、僕に教えてくれたんだ」
 そう言う彼はどこか誇らしげで、私は初めて彼を人間らしいと思った。私の気持ちがほころびかけた、そのときだった。
「君は、帰ってくれないかな」
 突然、頬をはたかれた気がした。
「君はもう、ここが元々傾いている世界だって知ったんだから、だから、まだ砂にしがみついていていいと思うんだ」
 何でですか、と問い詰めたかった。そこまで知った私が、どうして引き返さないといけないんですか、と彼の襟首をつかんで揺さぶりたかった。
 しかし彼は、私への関心をすぐになくして、手を振っていた。奥さんに向かって手を振っていた。それでわかった。単純なことだ。彼は私に邪魔をされたくないのだ。
「――そうします」
 彼は私の返事を聞いて嬉しそうだった。だから、私はこれでよかったのだと自分に言い聞かせた。
 そのとき、さっと筆を走らせたように、空が白んだ。私達の足下に、海岸線がくっきりと姿を現した。
 私の頭の中に、再び、水槽のイメージが浮かんだ。傾いた水槽の中で、水と砂の境目が揺れる。私は呟いた。
「ここが、世界の果てなんですね?」
 彼は、ひどく満足気に肯いてくれた。

 ふいに、誰かに声をかけられたかのように、彼は海の一点を見つめた。私には何も聞こえなかった。
 彼はまた、海に向かって手を振ってみせた。
「ああ、美根子が呼んでる」
 奥さんは手を振っているのではなく痙攣しているのではないかと思った。
「じゃあ、行ってくるね」
 この人が戻ってくるかどうかだなんて尋ねる方がおかしいのだと思った。
「一人で残って大丈夫?」
「大丈夫です、私」
「そう。気を付けてね」
 彼は微笑んだ後、私に背を向けて海へと歩き出した。私は耐えきれずに叫んだ。
「何に?」
 彼が立ち止まる。足はもう膝近くまで海水に浸かってる。私はゆっくりと尋ねた。
「何に、気を付ければ良いのですか?」
 なぜだか彼の表情が少しもわからなかった。最後の言葉が、スローモーションとなって耳に届く。
「終わりに向かって転がり落ちないように」
 彼の頭が沈むまで、私はずっとその後ろ姿を見ていた。下半身から徐々に見えなくなっていく様子は、確かに傾いた道を下っていく姿にも見えた。
 私は立っている。頭が痛む。どこということもなく、痛みが頭に蔓延っている。傾いている。世界ははじめから傾いている。この痛み、この痛み――。

(少女から話を聞き出した警察は、付近の海を捜索したが、男女の遺体は発見されなかった)
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