さらし文学賞
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幻想と空間の狭間で

扉を一歩くぐると、そこは別世界だった。
 そこかしこにガラスが張られ、その向こう側には水が満ちている。日常生活している中で、濡れることなく水に囲まれる機会は、決して多くない。水自体も、普段見るような無色透明ではない。絵本や、子供向けのアニメで見るような水色から青。もちろん、水そのものが変色しているわけではない。照明の光が水の中を通り、私たちの目にそう映るだけだ。
 入って正面のガラスの向こう側、水の中にいる彼らが、新しい客を歓迎するかのように大きく動く。足繁く通っている私のことをようやく彼らも理解してくれたのかと思うとうれしく思う。
……そう感じるのは、やはり私の願望なのだろう。いくら顔をつきあわせたところで、相手は所詮爬虫類、脳の容量などたかがしれている。この亀たちの脳ミソは人間の個体を認識できるほどありはしないだろう。
かくいう私も、これだけ通いながら彼らの識別をできていない。……ふと、ある考えが頭をよぎる。ひょっとしたらやつらも私のことを、やつらの個体差を識別できない愚か者としてみているのではあるまいか……。そう思い始めると、あの大きなつぶらな瞳が私のことを哀れむ眼差しを向けているかのように思えてくる。
いや、そんなことはありえない。私の脳ミソの容積が小さいだなんて、そんなことあるはずがない。見るな。見るんじゃない。名もわからぬ亀、その瞳でこっちを見るんじゃない。
そう。そうだ。同じ人間同士であっても人種が違えば認識できないことがあるのだ。異種族間でそれができると考えることがそもそもの間違いなのだ。よって、私が彼らを個として認識できないのは、私の脳ミソが少ないせいではない。これは種が異なることによって起こった悲劇なのだ。
そう。この眼差しは、互いを理解できない互いの身の上の悲しみを私に訴えかけるものなのだ。ああ、亀よ。どうしてお前は亀なのだ。お前が亀でなかったならこのような思いをせずにすんだのに。そのような視線を投げかけてくれるな。私とて辛いのだ。
さっと、逃げるように脇の通路へと進む。きっと、きっとまた会いに来るからな。その時まで……。

進むと、上下左右ともガラスに囲まれた、トンネル上の通路へと入って行く。
いつもながらここを歩くのは心臓に悪い。今、この瞬間に下のガラスが割れて、落水してしまうのではないだろうかという不安に苛まされる。
この不安、恐怖はどうにもならない。私は泳げないのだ。水族館で溺れたとあっては、周囲の笑い者になることは確定である。これは、同じ境遇に立つ者にしかわからない心境である。
同胞に忠告する。この水族館には来ない方がよい。万一、如何ともしがたい理由で来なければならなくなった場合は、決してここを通らないように。順路を無視すればここを避けて館内を回ることができる。だが、逃げたら負けだと思い、敢えてこの道を選ぶという猛者のチャレンジを止める気はない。むしろ、そのような人は是非挑戦して欲しい。そして、私とこの感覚を共有しよう。

恐怖地帯を抜けると、一転、一つ一つのブースに魚が数種類ずつ小分けにされている場所にたどり着く。
小さな箱の中、生息地帯のある一部だけを切り取って模された環境に詰め込まれた魚たち。本来あるべき水の流れもないところが多い。自然の状態に比べ、格段に不自由であることは想像に難くない。
その窮屈さの代わりに、外的から狙われる心配がなく、日々の糧を得るために精を出す必要もない堕落した生活が約束され、また許されている。
……うらやましい。私も明日の心配なく、気ままに日々を過ごしたい。そのためだったらかなりきつい束縛だって受けますよ。どうでしょう。と言っても誰も反応してくれませんね。そうですね。返事が聞こえたら危ない人です。
やはり働くしかないのであります。それが日本国民としての義務なのであります。こうしてたまの休みに一人で水族館に来るしか楽しみのないワーキングプアも、たとえ生活保護を受給したほうが楽になろうとも、生活保護の申請などせずに懸命に働くのであります。そうでないと故郷の両親に申し訳が立たないのであります。

……寒い。はっとして周囲を見渡すといつの間にか館外へと出ていた。
思考にふけりながらも、きちんとドアは自分で開けたようだ。人間の無意識の動作とは素晴らしいものである。この調子で普段の仕事も無意識下で行ってくれれば、大変ありがたいのだが、やはりそううまくはできていないところが残念である。
それにしても寒い。曇り空の上、風が吹いていて寒いことこの上ない。
館外のプールではイルカのショーが随時催されているそうだが、機会がなく、まだ一度も見たことがない。興味があるのにとても残念なことである。
パンフレットの開催予定時間と現在の時刻を見比べると、今から五分ほど後に始まるようだ。
どうしよう。確かに興味はある。しかし、何も機会がこんな寒い日に来なくてもいいじゃないか。例えば先週とかであれば日も出てて暖かかったというのに、これはいじめなのか。いや、何も今日見る必要はない。これからもここには通うつもりでいるのだ。また機会が、少なくとも今日よりは気候のいい日にやってくるだろう。だが、今まで通っていて、ちょうどいい機会、時間に巡り合ってきていなかったことも事実。これを逃したらしばらく見る機会など訪れないのでは。
結局、私は観覧席の隅っこに一人陣取っている。やっぱりせっかくだし、ね。ショーを見て熱くなれば外気の寒さなんてきっと忘れるよ。
真ん中最前列では幼稚園児とその保護者たちと思しき団体が騒ぎ立てている。あれくらいの子供に水族館で、しかもイルカショーを前にして落ち着いていろと言うのは無理な話だ。平日の夕方ということもあって、他に人は見受けられない。誰に迷惑をかけるわけでもないのだから、放っておけばいい。
そんなことを思いながら、見ていると、ふと、子供の中の一人と目が合った。軽く笑って小さく手を振ると、大はしゃぎでぶんぶんと音が出そうなほど力いっぱい手を振り返してくれた。 
ああ、かわいらしいな。そう思ったのも一瞬、母親が子供を正面に向き直らせ、こちらをきっとにらみつけた。
何を勘違いしている。意思疎通を図ることの何がいけない。そうやって他人を遠ざけて育てるから、分別のつかない、コミュニケーション能力の低い子供ができてしまうのだ。昨今の若者問題の現場に遭遇したようだ。これは明らかに親害だろう。子供は他者と触れ合おうとするのに、親が過保護になってその機会をすべて奪ってしまう。このような親を持ってしまった子はかわいそうだ。親に負けず、強く、正しく育ってくれ。
おっと、そんなこんなしているうちに、飼育係三名とイルカ三匹が出てきた。飼育係が順にイルカの紹介をし、紹介を受けたイルカがプールサイドを滑る。滑り終わったイルカは、そこで別の飼育係から餌を受け取っている。餌を直接口に入れてもらったり、放り投げられた餌をキャッチしたりと、その度に子供たちから歓声が上がる。
イルカなどはその知能の高さと愛らしさからショーなどを仕込まれ、こうやってプールで人々を楽しませている。しかし、その一方でその生態を解明するため実験室や水槽、海では観察や実験が繰り返されている。
これは我々と自身と同じなのではないだろうか。人々は他者を喜ばせるために芸や能力を身につけ、その一方で自身も含め人間のことがわからないために人間観察や種種の行為をし、他者の反応を伺うなどする。
これが観察者としての神が存在すると仮定すると、この地球そのものが実験室であり、水槽なのかもしれない。どこまでだったら生きていけるのか、快適に過ごせるのか、こうした状況に陥った時、どのような行動をとるのか。観察者がそれを見たいがために地球は環境を変えているのかもしれない。
だとすると、環境をいじくるたび、人間を始め、地球上の生物たちが何とか生き残ろうとするのを観察者は楽しんで見ているのだろう。だが、生憎と人間はじたばたと騒ぐものばかりではない。わたしのようになんとはなしに生き続けている者が少なからずいる。ちょうど、働きアリの数割のように。そのような人間も観察者にはよいサンプルになるのだろうか。

子供たちの歓声が一際大きくなる。どうやらショーが終わってしまったようだ。ガヤガヤと興奮冷めやらぬ様子で子供たちがプールを後にする。
風が冷たい。もちろんショーの内容などまるで覚えていないのだから熱くなれるはずもない。やはりまたの機会にするべきだったろうか。

閉館のアナウンスが流れる。今日もいい時間をすごした。今日見たのは亀とイルカと……ええと、なんだっけ。まあ、いいか。次の休みにまた来よう。暇な時間はたっぷりある。
                  了

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