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さらし文学賞
良い浅瀬、愛よ差せ

 がたがたと、一斉に生徒たちが立ち上がる音がして、ホームルームが終わったのが知れた。次々に教室から出ていく人の波に逆らって、教室の後ろのドアからそっと首を出すと、それに気付いてくれた涼子先輩が鞄を持って立ち上がる。
「帰ろっか」
 せっかく帰り支度を始めてくれた先輩には悪いけれど、今日は断りを入れにきたのだ。会話の先手を取られて申し訳ない気持ちでいっぱいになるけれど、私は切り出した。
「ごめんなさい、せんぱい。今日は夏希たちと約束しちゃったんです」
 そっか、と先輩は微笑んだ。こういうとき、先輩は不満そうな顔をしたことがない。それがちくりと、胸のどこかで痛む。けれど、反対に先輩が今の私と同じことをしたら、私も同じように笑って先輩を送り出すだろう。特別にそう取り決めたわけではないけれど、自然と私と先輩の関係はそうなっている。それなのに、かすかな痛みを感じるのだ、いつも。
 そうしたささやかなひっかかりが、私の頭の中で先輩の笑顔からコンマ数秒で繰り返されていると、後ろから聞き慣れた声がかかる。
「ちかげいたいたー。理央がさー、おなかへったって今にも暴れ出しそうだから、はやくいこ?」
 誰が暴れ出すってーと怒鳴り声が遠くから聞こえる。先輩が笑い出した。
「ほら、お迎えがきちゃったじゃん。いってきな」
 先輩のその言葉に、夏希が私の肩に手をかけて、おどけたように言った。
「涼子先輩、今日はちかげお借りしますね」
 どうぞどうぞ、と先輩も愉快そうにそれに答える。さ、行こうか、と私と夏希が回れ右したその正面には、満面の笑みの理央が控えていた。目が、笑っていない。
 あちゃー、と小さな夏希の呟きが聞こえてきた。

「それで最近、例の彼はどうなのさ」
 お詫びとして、夏希に奢らせたハンバーガーを食べながら、理央は当の夏希に水を向けた。
「いつも通りよ」
 夏希は澄まして答えた。理央の機嫌を取るためのよけいな出費のせいで、皿に盛られたポテトだけが夏希の取り分だ。ただその出費は十分効果を発揮したようで、すっかり理央の機嫌は直っている。それにしても、具だくさんで食べるのに集中していてもきれいに食べるのが難しいアメリカンサイズのバーガーを、喋りながらも優雅に食べている理央は、いつもながらすごい。
「いつも通りって言ったってねえ」
 それって、未だにストーカーしてるだけじゃない、と理央は続けた。人聞きが悪いなぁ、と夏希はのんびりと言った。この会話が何度繰り返されたことか。恋愛に関して、理央は、当たって砕けるタイプ、夏希は外堀を徐々に埋めていくタイプ、理央はそっと相手を観察しているだけの夏希にやきもきし、夏希は理央の言葉を飄々とかわしている。よって、双方のやりとりはいつも堂々巡りになる。
「休み時間に本読んでるのをじっと見てるだなんて、根暗っぽいよ」
「そのうち、ストーカーに進化しそう」
 私が追撃のセリフを言うと、やっと夏希の顔が曇った。本人も、進展がないことを憂いていないわけではないらしい。
「でも話しかけられないよ、いつもあんな調子じゃ」
 夏希が現在気にかけているのは、クラスの男子で三島君と言う。私の中で彼は、日がな一日小難しげな本を読んでいる、というイメージだ。というよりも、それをこっそり見つめている夏希の情報からしても、そうなのだ。あまり喋っているところも見たことがない、大人しいというか教室の中で影が薄い(夏希に言うと、足りないカロリーの当てにされるので口には出さない)。そんな相手にこんなに入れ込めるのだから、私は素直に感心してしまう。
「あーあ、ちかげはいいな。先輩優しいし、美人だし。あと付き合い方に余裕あって」
 夏希はそうぐちぐち言い、そうそう、と理央もそれに同意した。そうだね、と私もそれに笑顔で答えるが、どこかでちくりと棘が痛んだ。けれど、それを表に決して出してはいけない。誰にも、もちろん先輩にも、この友人たちにすら。
 その後もドリンクバーでずるずると身のない話をいくらかし、じゃあね、と別れた。私は二人と逆方向だから、ひとりでとぼとぼ帰ることになる。
 そうしていると、思考が泡のようにわいては消える。最近は、先輩のこと。
 私は、先輩の些細な好意に、そして先輩との関係のことをうらやましがられることに、最近自分でも敏感になっているのが分かるのだ。どうしてだろう? 具体的な、形のない不安。後ろめたいことも、不満も何もないのに。
 むしろ、周りはこの特殊な関係を祝福してくれている、幸運なことに。祝福、と言うのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも容認はしてくれる。夏希と理央に至っては、「変わって欲しい」とうらやましがられるほどである。
 しかし、何故か私のどこかが、ちくちくと責めてくる。反抗もせず、先輩に従っていく私に。本当にお前は先輩が好きなのか、と責めてくる。私は、それに答えられない。
 先輩のことが好きかと尋ねられたら、好きだと答えるだろう。けれど、その好きは一体どこまでなのだろう。先輩と、手を繋ぐのもいい、抱き合うのもいい、しかしたとえば(これは本当に下衆な想像だ、自分が嫌になるほど)、恋人たちらしく身体の交わりを求められたら一体私はどう答えるのだろう? そこには、漠然とした不安だけが漂っている。多分、具体的に言えばそういうことなのだ。私は、先輩の言うことに、ただ拒否をする理由もないからうなずいているのではないか? それが実は先輩を傷付けているのではないか? そういった、不安なのだ。
 ぐるぐるとそんなことばかり考えているうちに、家に着く。当然のように、家の明かりは点いていない。私は、自分で家の明かりをつけ、暗い無人の家へ、入っていく。
 そしてその不安が、私を責めに、ついにやってくるのはその翌日のことだった。

 それを見たとき、背筋がふわっと温かくなり、座り込みたくなるほど嫌な予感がしたのだ。嫌な予感、と言うかそれはほとんど予告だった(自分の自意識過剰だと、笑って済ませられたらいいのに)。さぁ帰ろう、涼子先輩のところへ向かおう、とした私が、習慣で携帯電話を開き、メールをチェックすると、広告メールに混じってそのメールは大人しく私を待っていた。
 クラスのフォルダに入っていたそのメールアドレスは、見慣れない、しかしどこかで見た記憶のあるそれで、クラス連絡を回してきた誰かだろうと見当をつけて開いてみた途端にこの予感だったのだ。
 確かに、送信元はあまり親しくないけれど知り合い程度の、クラスメイトだった。そんな関係でしかない彼が、わざわざ「二人で会いたい」とメールしてくる理由なんて(実際、自意識過剰だと笑っていられないほどに)、明白ではないだろうか? 私は、そのメールに憎しみさえ感じた。私と先輩の約束を台無しにしたばかりか、こんな厄介ごとを持ち込むなんて。
 しかし、行かない、と言う選択肢はほぼないに等しい。芽は、潰さなければならない。期待を持たせてなど、やらない。
 私は先輩にメールを打った。ごめんなさい先輩。メールの返信はすぐに来た。
『了解。もし用事が早く終わるったら、いつものお店でしばらく時間潰してるから、それからおいで。七時には帰ります。』
 ちくちく、痛む。しかし、ここで負けてはいられない。早いところ終わらせて、先輩に会いに行こう。そう決めて、私は教室を出た。
 そう決めた、はずだった。しかし、棘がそれを許してはくれなかった。

 予測した言葉。予測できていた言葉。返す言葉はたった一つ、しかし私の舌は凍りついた。その言葉を相手の口から聞いた瞬間、さーっと体温が下がっていく気さえした。何を動揺しているの、と言う声がした。返事をしないと。もう、言うべきことは決まってる。
 しかし、私は言葉を発することができなかった。その沈黙を、相手は別な風に取ったようだった(付け込む隙を与えてはいけないのに)。心配そうな顔で(何が心配かって、我が身の利益とプライドが、だろう)、次なる言葉を畳み掛けてくる。
「もしかして、もう付き合ってる人とかいる?」
 もう、私は彼の言葉など聞いていなかったのかもしれない。そのとき、私の心の中に湧き起こり、荒れ狂っている感情は、怒りだった。彼の言葉に答えるべき言葉をもちながら、何も言うことができず、相手のペースに乗せられ続けている、自分のふがいなさにたいする怒り。私をそうした動揺の渦中に放り込んでおきながら、のうのうと私の答えを期待しながら待っている相手の自分勝手さに対する怒り。何故こんな動揺をしなければならなくて、怒りに身を任せなければならないのか、分からない理不尽さに対する怒り。
 私は、それでも言葉を発せずにいた。怒りのあまり、言葉と共に涙もこぼれそうな予感がしたからだ。それはまずい、とかろうじて理性がそう忠告するのを理解できた。この文脈で泣いては、相手にいらんチャンスを与えるだけだと。
 その沈黙を、相手はさらに自分の言いように解釈したようで(怒りのせいで推測が歪んでいるようにも思えるが、それでなくてもドラマの見すぎ、と言う感じの展開であるのは確実)、慌てたように付け加える。
「いや、返事は今じゃなくてもいいから。じっくり考えてくれていいから」
 それはもっとまずい、と怒りで我を忘れかけている部分までもが、そう叫ぶ。私はあんたに(あんたなんかに、と正常な私なら言うだろう、今はそれができない、いまいましい)余計な希望を与えたくない。そのためには、ここではっきり断ればいいことは、論理的にもそうでなくても明らかだし、だからそれ以前に断る理由があるだろうという現状なのに、何故私は黙り込んでいるのか?
 先輩のことが、本当に好きなのか? と言う問いを引きずったままだったのが敗因である、と言うきっぱりとした声が、絶望的に響いた。こんなことで、揺さぶられるとは計算外だったのは事実だが、付け入られる隙を、私がそのままにしていたのも、また事実なのだから(本心としては、もっとゆっくり一人で考える時間が欲しかった、切実に)。
 というような結論が出るまで、幸いなことに現実時間はそう経過していなかった。生傷はぱっくりとその傷口を開いているが、相手の潰えるしかない願望を退けるにはまだ間に合う。どうせ相手の言うことに甘えて、じっくり考えようと考えまいと、私の答えは一つなのだから。一つなのだったら、一つなのだ。迷いよ、お願いだから惑わさないで。私を裏切り者に、嘘吐きにしないで下さい。
 これ以上黙っていてはいけない。言わなければ。と言うか、改めて、何故分かりきったことを口に出すことができずにいるのだ、私は。
「……ごめんなさい。付き合ってる人、いるから」
 それだけを口にするのが精一杯だった。しかし目的は果たした。目の前の相手は、傷付いたような顔をしている。けれど、それに対して私がいだかなければならない責任などない。ないはずだ。少し、悪いことをしたとは、思うけれど。
「……そう。じゃあ、迷惑なことを言ってごめん」
「いや、そういう訳じゃ」
 相手が(これ見よがしに、と思うのは、やはり私が彼の評価に辛いからなのか)フェアに引き下がるその発言を、けれど私は上の空で聞いていた。もう、私のことなんか放って置いてよ、お願いだから。
 けれど、相手はそう簡単に私への執着を手放す気はないらしかった。未練がましく聞いてきた次の言葉が、私の心を叩き折った。
「嫌なら言わなくてもいいんだけど……誰と付き合ってるの?」
 答えられない、と瞬時に下ったその判断が、私をもっと深い絶望の淵に身を乗り出させて覗き込ませた。ぶしつけな問いかけだから答えてやる価値がないのではなく、私が「答えたくない」と思ったそのことは、……酷く酷く痛かった。私は、先輩のことが好きなのだ。本当に、ただ好きなのだ。先輩も多分、そう思ってくれている(ここに自信が持てないというのは、悲しいことの一つであるが、現在の問題にはさして問題ない)。それは、誰にはばかることではないのだ。後ろめたいと思うこともない。ここで正直に答えたことによって、私に生じる不利益は、何もない。
 けれど私は、「答えたくない」し、何よりも「答えられない」のだった。私は、それによって決定的な、手酷い裏切りを先輩にしてしまった。そんな裏切りを浮き彫りにした彼の言葉に、やつあたりする余裕もなく、ただ私は狼狽していた。
 それを表に出さないのがやっとで、悪手だと知りながら、私は黙って首を横に振り、ごめんなさい、じゃあ、と小さく呟いて回れ右して、一刻も早くここから離れたい思いだけで足を進めた。
 しかし、どこにも逃げ場はなかった。

 まっすぐ家に帰った。まだ先輩が待ち合わせの場所にいてくれる時間だと知りながら。一体、どういう顔をして先輩の前に行けばいいというのだろう(これはたとえこんな状態にならなかったとしても、告白されたなんて真面目な顔で言えたセリフではない、ただこの場合は幸せなのろけだが)?
 一人の暗い部屋に入ると、制服も着替えないまま、悶々と悩みこんだ。問いを発しても、それに答えてくれる人はおらず、自分で答えるしかなかったから、考えは堂々巡りばかりしていた。私は本当に先輩のことが好きなんだろうか? つまり、先輩が私に与えてくれているものを、私は同じように返せているのだろうか? 私は、先輩に何かしてあげられているのだろうか? 私が先輩に抱き締めてもらえるととても幸せなように、先輩も嬉しいと感じてくれているのだろうか? 私は、自身を持てずにいる。私は、私をふがいないし、もどかしいと思うしそれは先輩への裏切りだと思うのだ。先輩を好きだと言うことに、疑いを持つということが。先輩が、私を好きだと言ってくれるそのことを、怖いと感じることが。
 先輩からのメールは来ない。先輩は、待ち合わせ時間に私が現れなかったので、私の用事が長引いていると判断し、約束通り引き上げたのだろう。しかし、私は用事の途中だから、邪魔したり私が余計な気遣いをしたりしないように、メールはしない。そうした先輩の姿を、私は正確に思い描くことができる。文庫本でも読みながら、ゆっくりと時間を潰し、ふっと時間を確認すると、きっぱりと立ち上がり店を後にする、その姿が。私は一体何をしているんだろう。何故先輩に嘘を吐いて、先輩をひとりで帰らせたりしているのだろう。何故先輩は、先輩に嘘を吐くような私を、丸ごと信じることができるのだろうか。
 私は、砂がいっぱいに詰まったような頭で携帯電話を取り出し、先輩にメールを打った。嘘を塗り重ねるために。
『せんぱい。用事、長引いてしまって、約束の時間に間に合いませんでした。ごめんなさい。おわびに、今度奢りますね。ではまた。』
 しばらくすると、打てば響くような速さで、着信ランプがゆっくりと瞬いた。先輩空のメール着信は、深い青色。先輩の色だ。
『気にしないでね、勉強はかどっちゃったから。また明日ね。』
 また明日、とひとり呟いた声は、暗い部屋の隅に、誰にも届かないままとけてきえた。優しい先輩。大好きな先輩。なのに、それがこんなにも苦しくて辛い。

 じっと座り込んでいることもできずに、財布だけ持って外に出た。ぐるぐると考え込んでいてもどうしようもないし、現実的に、今現在家には何の食料もなかった。真剣に鬱な気分なのに食事の心配をしなくてはいけないなんて間抜けな話だが、貧血で倒れる方が馬鹿馬鹿しいので、自己管理するしかないのである。
 外は、雨が降り出していた。霧のように傘の内側に侵入してくる、細い雨だった。制服の表面に降りかかった雨粒が、まるでもともと銀糸を縫い込んだ布地であるかのように、ひかえめに光った。
 コンビにはまるで、不夜城のように煌々と明かりを灯していて、しかし客は全くおらず、店員がレジを明けて品出しに精を出していた。商品がいっぱいに詰まった棚をゆっくりと見て回り(ただし頭の中はほとんど空白だ)、たっぷりと時間をかけた、これ以上は時間を潰せないとやっと思った頃、お弁当とペットボトルの水を買って、コンビニを出た。まだ、雨は降っている。傘を差し、逆の手でコンビニの袋を持ち、ぶらぶらと歩き出した。
 やはり傘を差していても濡れるので、来た道とは別の道を選んだ。商店街をつっきる道で、アーケードになっているから、その距離の間濡れずに済むという訳だ。商店街も、眩しいほどに明かりが灯っていたが、もうどの店もシャッターをおろしていて、やけにがらんとして感じられた。通りかかる人も、もう店が閉まっているからいない。
 しずくを垂らす畳んだ傘を持ち、それ自身の重みと遠心力でぶらぶら揺れるコンビニ袋を、持ち手のかかった指を支点に、やや投げ遣り気味に雑な持ち方をして、寒々しさを思わず感じてしまうような空間を進んだ。明かりだけがやけに強くて、所々濡れたタイルの上に、黒々と影が落ちている。
 埃まみれでくたびれたシャッターが、無言で延々と並んでいる。その中に、ぽつんと張り紙がしてあるシャッターを見つけた。特に意味もなく、そばに寄って何が書いてあるか、張り紙を読んだ。そこには、癖の強い字で、こう書いてある。
『まことに勝手ながら、本日はお休みさせていただきます
 明日は通常営業いたします
 店主』
 何のことはない、臨時休業の張り紙なのであった。しかし、私の頭の中には、不思議な感慨が起こってきた。明日は通常営業する、ということは、明日は、疑いようもなく、当然のようにやってくるのだ、と。考えてみるまでもなく当たり前のことなのだが、何故か私は天啓にうたれたかのように、目の前がさあっと開いていくような感覚を味わっていた。今日がどんな日であれ、明日が来ることに誰も疑いをいだいたりしないし、そして間違いなく明日は来るのだ。
 それはもちろん、何の問題の解決にもならない閃きだ。むしろ、明日がやってきて、どんな顔をして先輩に会えばいいのやら分からない、と落ち込みそうな事実に気付いただけに思える。しかし何故か、そのときの私には、ひどく前向きになる事実に思われたのだ。暗闇に一筋、光が差し込んできたかのような、明るい気持ちになれそうな事実のように感じられたのだ。何も問題は解決してなどいないけれど、明日先輩に空いた、と私は思えたのだ、それだけのことで。驚くべきことに。
 私は手の中のコンビニ袋をしっかりと持ち直して、今度こそ家に向かって歩き出した。アーケードの外に出ると、めっきりと暗く、しかし雨はやんでいた。空気が水分を含んでひどく冷えたが、少し歩いたおかげで身体はあたたまりつつあった。

「ちかげ」
 教室後方のドアからひょこっと中を覗くと、私に気付いた先輩が微笑んだ。かばんを肩にかけて帰り仕度をし、駆け寄ってきてくれる。こういうときにちらりと先輩が見せる、小動物的なかわいさが、いいなぁと私は頭の隅で考えていた。
「待った? ごめんね」
 そう言う先輩に、私は首を横に振って、こちらこそごめんなさいと続けた。
「朝の忙しい時間にメールなんかして」
「いいのいいの、大丈夫。でも、ちかげからこんなことしたいって言うの、珍しいね」
 いいけどね、じゃあ行こうか、と先輩は歩き出した。私はそれを少し後ろから追うようにして歩き出す。先輩の背中を見ながら、手を繋ぎたいなと思ったけれど、学校だし、学校を出たとしても平日の放課後はまだ学校の延長線上に自分がいる気がして気後れがするので、私は先輩の手を取ったり先輩にお願いしたりせずに、ただ黙って歩いた。そして、別のことを考えている。
 そう、私は、今朝先輩にメールを送った。
『せんぱい。おはようございます、朝からごめんなさい。今日はせんぱいと二人きりでゆっくりお話しをしたいので、うちに来ませんか。では。』
 突然のお願いだし、その上深読みさせてしまうような文面のメールだったので、何か先輩が悪い予想をしたり何か探りを入れてくるのではないかと半分不安だったが(もう半分はそれを望んでいたのかもしれない、先輩はそんな余裕のないところを私に見せたことがないのだし、心の中で万が一の予想としていたとしても、それを表に出しはしないし、それが私の絶望の理由の一端でもある)、先輩はいつもと変わりのない様子だった。いつも通り適度な会話を先輩は提供してくれる(それを寂しいと感じる私を、もう一人の私が激しい調子でなじった)。しかし過度なお喋りはなく、ほとんど黙々と歩いて我が家に到着した。当然、明かりは落ちている。
「相変わらず、仕事忙しいみたい?」
「みたいです。最近顔合わせてないので、よく分かりませんが」
 この家の、私以外の唯一の住人である母にとって、この家は寝に戻る場所でしかない。その上、帰ってくるのは夜もほとんど更けきった頃、出て行くのはまだ夜も完全に明けきらぬ頃で、最早何のために家に帰ってきているのか分からぬ有様である。私一人でこの家に住んでいるといっても過言ではない。むしろ、それが事実である。そのことは先輩に言ってあって、何やかや心配してもらったりしている。
 どうぞ、散らかってますけど、と先輩を中に通した。半日ほど前には自分がここにいたというのに、家の中には既に人気のなさが漂い始めている。
 先輩には私の部屋に待っていてもらい、私はお茶をいれた。茶菓子のような気の利いたものどころか、食べるものが相変わらずこの家にはない。何しろ先輩にメールを送ったのは今朝で、私が気を遣わなかったのが当然失敗だったのだが、先輩には申し訳ないが、今日はお茶だけで勘弁してもらおう。
「ごめんなさい、せんぱい。今日はわがままを言って」
 テーブルとお茶を差し挟んで、私は先輩と向き合った。噴き出すように、弱さが、論理も脈絡もなく先輩に泣きつけと命令してくるが、無視する。こちらから呼び出しておいて決壊してしまっては、ただのテロだ。
「むしろ私は、ちかげの方から『こんなことしたい』って言われると嬉しいけどね」
 と、先輩は言ってにっこりとした。先輩の優しさが、ちくちくと私を責めてくるような気がする。何故だろう。何故私は、素直に幸せだと受け取れないのだろう。
「それで、どうしたの? 誰にも聞かれたくない話?」
 あくまで、私を責める風でなく、むしろ励ましてくれているかのような先輩の声音。私は、どこまで先輩に迷惑をかければ気が済むのだろう。勝手に、涙が目の奥にじわりとしみ出した。泣くまい、と涙の後から追ってきた感情の洪水をやり過ごそうと意識をこらす。惑わされてはならない。
 私は、相当酷い顔をしていたのかもしれない。黙り込んでいた時間はそう長くはなかったのだが、先輩はやはり優しく、しかし抗えない響きで私を呼んだ。
「おいで、ちかげ」
 その言葉に従って私がにじり寄っていくと、先輩は肩に腕を回して、ぎゅっと抱き締めてくれた。私と先輩と、重たい報告をするとき、こうすることがならいになっていた。目が合わない代わりに、声が近い。手が背中に回って、安心する。ゆっくりと物事を整理しながら相手に語りかけることができる、という訳(大抵お世話になるのは私の方だ)。条件反射で、感情の本流が穏やかになり、涙の予感も遠ざかり、ふっと張り詰めていた気持ちが楽になった。じっくりと自分の思考をもう一度なぞり、私は話し出した。
「私、昨日せんぱいに嘘を吐きました。本当は、待ち合わせに間に合ったんです。でも、ひとりで帰りました。せんぱいに、会える自信がなくて」
 先輩は黙って聞いている。しかし、背中に先輩の温かいてのひらを感じる。
「告白されたんです、男の子に」
 「男の子」、という言葉は、少し苦い。私はともかく、先輩は男の人を恋愛対象として捉えない。だから、この言葉が、先輩にとってどう響くか、私は分からない、怖い。
 けれど、やっぱり先輩は黙っている。最後まで通して私の話を聞く体勢のようだ。私は続ける。
「断ったんです、私。でも、……でも、私、せんぱいのこと、相手に言えなくて」
 先輩の顔が見えない。先輩がどう思っているか読み取れない。
「誰と付き合ってるの、って訊かれて、答えられないと、私思いました。それは」
 それは、私の裏切り。
「……せんぱいのこと、好きだっていうことに、自信がなくて」
 ふっと、溜め息が私の耳元と髪を揺らした。先輩の、言葉を口にするための息継ぎのような、重苦しくない溜め息。
「わたしのこと好きじゃない、ということではなくて?」
 それは、私の思い込みでなく、責めたり呆れたりしている声音ではなく、ただ純粋に確認するような響きだった。
「せんぱいのことは好きです。でも、せんぱいが私にしてくれるように私がせんぱいのこと思ってるのかとか、なんでせんぱいは私みたいな人間にこんなによくしてくれるんだろうとか考えちゃって、そうすると」
 私は、せんぱいのこと、本当に好きなのかな、って思うと怖くて。という続きは、先輩の制服の肩口に紛れた。先輩の体温と、自分の吐息でそこは優しいほどに、温かかった。温かさに身を任せていると、気付くと先輩の肩口は私の涙で濡れていた。
「ちかげが辛いならね、やめれば、って言おうと思ってた」
 一語一語浸み込ませるように、ゆっくりと先輩は言葉を繋いだ。感情の高ぶりのない、凪いだ声音だった。
「ちかげは優しいから、私のことが大嫌いでない限り、私がちかげのことが好きって言えば、応えてくれるだろうっていうのは分かってた。でもそれが、ちかげの本当の意志じゃなくて、何の意味もちかげになくて、しかもそれが重荷なら、私が無理をさせているなら、させるべきじゃないっていうのは、ずっと思ってた。それが私の本音」
 穏やかな口ぶりで、先輩は言う。声は、私の耳の後ろから聞こえてくる。
「ねえ、ちかげ。怖いのはちかげだけじゃない。私は、絶対の自信が、ちかげのことを私が好きで、そのことがちかげを幸せにする自信があって、ちかげのことを好きだって言うことはできてない。私だって、無尽蔵にはあげられない。そんなことできない。ただ、ちかげが私のこと好きなんだって分かる瞬間に、自身持ってもいいかもしれないって、やっと思えるの。だから、ちかげのその恐れは、私にとって嬉しい。でも、そう思ってるのが私だけで、ちかげが私を思うことで辛いなら、私に特別な好意を持ってくれなくていいの」
 回された手が、私を安心させるように背中をなでた。
「ちかげが無理をしないような好きでいてくれたら、私はそれでいい。いわゆる恋人の関係でなくてもいい。誰に関係を証明したいわけでもなければ、ちかげに見返りを要求したいわけでもないの。ただ、私が自分の力でちかげを少しでも幸せな気分にできたらいいと、私が思っているだけ。こういう言い方は、消極的だし抽象的で、むしろちかげに失礼なのかもしれないね。だから、これだけははっきり言うね」
 澄みきった、先輩の声。
「私はちかげのことが好き。ちかげが私のことを好きなら、嬉しい。ただ、それだけなの」
 私は、力なく回していた腕に力を込めて、先輩にきつく抱き付いた。後から後から涙がこぼれて、先輩の制服の肩の辺りはしどとに濡れてしまっていた。その間、先輩はただずっと私の背中をなでてくれていた。

 しばらく、私たちは抱き合ったままでいた。それは、おそろしいほど幸福な時間だった(先輩と改めて顔を合わせるのが照れくさかった、というのも若干の割合で含んでいたのは先輩には秘密、せっかくの雰囲気が台無しだ)。でも、やがて先輩が取り直すように背中をぽんぽんと叩いて、私たちは身体を離した。すぐさま冷えていく先輩の体温がちょっと名残惜しかった。
 と私が浸っていると、先輩が快活に笑った。
「ちかげが、すっごい泣いた後の顔してる」
 かわいい、と笑う先輩が憎らしく思えるほど恥ずかしくなって、私は飛び上がるようにして立ち上がり、ひきむしるような勢いでドアを開けた。その途中に、ティッシュボックスを先輩に投げつけるようにして渡しておくのも忘れない。
「顔洗ってきますから!」
 はいはい、とあやすように返事する先輩の声が、背中の後ろで遠ざかった。
 洗面所の鏡を覗き込むと、なるほど、目は潤んでいるし頬はほんのり上気しているし、目の付近はもちろん顔全体が何となく水っぽくむくんでいるし。恥ずかしいのを通り越してなにやら情けなくなり、水を出すと、乱暴に顔を洗った。指から漏れる水越しに触れる顔面が、じわりと熱い。
 ぴたぴたと顔中念入りに水で冷やし、さらに念には念を重ねて、目元を冷やすためのタオルをかたく絞り、部屋に戻った。先輩は、ティッシュで涙に濡れた肩口をぽんぽんと叩いているところだった。何となくばつが悪い。
 できるだけ平静を装って元のところに座ると、タオルで目元を覆った。冷たくて、気持ちいい。このまま、丁度先輩が見えないついでに、謝ってしまおう。
「せんぱい、ごめんなさい」
 うん、と答えた先輩の声は、期限がすこぶるよさそうな感じだった。鼻歌を歌い出しそうなくらいに。
「ちかげはかわいいな、ということが再確認できたし」
「……かないませんね、せんぱいには」
 恥ずかしいことを、さらっと言わないで欲しい。くすぐったくて、でも、幸せだ。ようやっと素直にそう思えて、すると調子よく、全てがうまくいっているような気がしてくる。問題がなくなるわけではもちろんなくて、また落ち込んだり辛かったりすることは当然あるだろうけれど、先輩がいる限り、私何度でもここに戻ってこられる。その確信が、私をますます幸せな気持ちにさせる。
「せんぱい、すき」
 目を合わせなくてもいい今なら、私だってこれくらい言えるのだ。私は幸せだ、だからもっといくらでも言えるし、伝えたい。
 これに、先輩の返事はなかった。ただ、突然(なにしろ、目の前に見えるのはタオルの布地だけだ)手が頭の上に置かれて、くしゃくしゃとなでられた。それにぼうっとなった私を見逃す先輩ではない。私のくちびるにやわらかいものがやさしく触れ、それはもちろん――。

「壮大なのろけをどうもありがとう。そしてゴチソウサマ」
 今現在、目の前にいる二人は、本当に呆れた顔をしていた。私は途轍もなく恥ずかしいので、それでおあいこにして欲しい。
「うらやましいというかなんというか……」
 と理央が言えば。
「もう勝手にしてって感じ……」
 と夏希が溜め息を吐いた。そこまで言われると、ちょっと傷付くんですが。
「あーあ、それに対して私なんかちっとも進展がないし。悲しい」
「……それは、夏希の自業自得によるところが大きいです」
 理央が容赦のないツッコミを入れると、夏希はさらに溜め息を深くした。ほとんどみつめているだけだから、理央の言う通りではあるけれど……しかし下手に何か言って夏希がストーカーにランクアップするのは見たくないので、慰めは控えた。
「……二人が楽しくやってるなら、何も言うことはないね」
「でも、ちかげが付け入られやすいのは問題だと思う、今回に限らず。ちかげもそんなにぼんやりしてちゃだめ。男に勘違いされやすいタイプの人間なんだから」
「そうそう。小動物っぽくって大人しくて、守ってやりたい的な」
 まるで保護者のようなセリフの応酬に、私は苦笑するしかない。残念なことに、二人の言うことは現実的だ。参考にしようと思う、涼子先輩のためにも。
 そのまま私が心得るべきことを真剣に話し合い始めてしまった二人に圧倒されていると、机の上の私の携帯電話がメールの着信を告げた。瞬く青いランプ。
 内容を確認すると、私は荷物をまとめて立ち上がった。
「ごめん、今日はせんぱいとご飯食べに行くから。また明日ね」
 突然のことに面食らう二人を残し、私は店を出た。暮れていく通りのそこここに、街灯が灯り始める。

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