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さらし文学賞
ピアニシモ

 「妹が妊娠したの」と、彼女は朝食の席で唐突に告げた。視線が食卓の上を車のように滑り、野菜ドレッシングの上で急ブレーキをかける。僕がそれに反応する前に、先端をよく手入れされた爪がゆっくりとそのボトルに近づき、キャップを掴んで彼女の胸元へ引き寄せられた。ドレッシングをサラダに傾ける彼女の動作にふと我に返り、そうか、妊娠か、と先ほどの言葉を噛み締める。それが何を示唆しているのかなど言うまでもない。彼女はそのことについて深く語ろうとはしないが、僕は何となくその言葉に男特有の後ろめたさと嫌悪感を覚える。だが僕は、「ああ、そうなの、おめでとう」と直観とは正反対の祝意を挟まない声で淡々と応じた。妊娠、という単語をさして気にしない風に装って、殊更興味ないように見せかけられるように、僕の意識を深く埋めてしまえるように。彼女はそれに笑いもせず、ただいつも通りの人形のように整った顔でドレッシングのかかったサラダを凝視したまま「そうね」と呟いた。

 七畳の洋間の中央に据えられた白い卓袱台で、彼女と共に静かな朝食が続く。彼女は相変わらず光を宿さない黒澄んだ瞳で自分の指と食卓ばかりを見ている。一見無防備な彼女のその姿から、僕は自分から視線が外されているのをいいことに、密かに彼女と距離を詰めたい、と願う。しかしそれが出来ればしゃくしゃくと咀嚼されるレタスが彼女の鮮やかな赤い舌に絡めとられるのを、僕が羨ましそうに眺める必要もない。触れたいならば、触れられる。今すぐ握った箸を放り出して、その柔らかに揺れる髪を掴んでしまえばいい。そしてその皮膚の生ぬるさを、翻る長い髪を、思う存分楽しめばいいだけの話なのだ。

「ねえ」

 醤油とって、と右手を差し出した彼女に、僕の意識は現実に引き戻される。想像と目の前の光景のギャップが、まるでプールから泳ぎ疲れた体を引き上げようとするかのような感覚を僕にもたらす。現実には聞こえないため息がなぜか胸の内で聞こえる。声も出さずに右手の側にある醤油注しを摘んで彼女に渡す。彼女は感謝の言葉を述べることもなく醤油を数滴皿に垂らす。

僕らの間から、食器が擦れる以外の音がまた消えた。こういうとき、何でもいいから音の出るものを置いておけばよかった、と思う。例えばテレビ、例えばラジオ。何でもいい、一つあれば僕たちの会話の隙間を、簡単に埋めてくれたことだろう。けれども僕は無意味な音が嫌いだから、部屋にそういった類のものを置いていない。テレビもラジオも、僕一人でこの部屋に住んでいる限りは必要ない。あるいは彼女がいても同じかもしれない。この部屋で唯一音が出るのは、隅に置かれている一流国産メーカー製のグランドピアノだけだ。

食事を終えて僕が食器を片づけようと席を立つと、彼女は自分の空きになった食器を、僕が持った皿やらコップやらの上に次々と無言で乗せてきた。お前が運んでくれ、ということらしい。僕は何かを言い返すわけでもなくただ沈黙のうちに押し付けられた食器類を受け取って台所の流し台に持っていった。背後で彼女が立ち上がる気配がした。ああ、もう弾き始めるのか、早いな、と思いながら、僕は蛇口をひねって食器に水を滴らせ、スポンジを泡立てる。水が流れる音の向こうに、彼女が接近していく足音が聞こえる。僕にではない。部屋の隅のピアノに、だ。彼女の指が鍵盤に吸い寄せられ、細い爪がそのボディに触れる。

弾く。白く細長い指が、その内側を撫でるようにして鍵盤に触れる。まるで外で雪が降っているかのような、冷たく静かで柔らかな音が紡がれる。水が流れる落ちる向こう側で、僕の聴覚を彼女の音色が満たす。艶やかで輝かしいばかりの音階。滑らかで妖艶な指使い。一音の狂いもなく、楽譜通り正確に動く腕。速度が高まると同時に傾く首と体。髪が波打ち、首筋が覗き、肩や胸が呼吸と共に上下する。

後ろを振り返りなどしなくてもそれを知覚できてしまうほどに僕の感覚は鋭敏だった。僕は水の音で何とか彼女の存在を消し去ろうとした。極力彼女を見ないようにと努力をした。それなのに、うまくいかない。どうしても気になる。出来ることなら欲望や感情と言った類を捨ててしまいたい。心を乱す何もかも、僕の前から消えてほしかった。違う。本当はそんなことはどうでもいい。

彼女の弾く曲が、提示部を終えて展開部に近づく。

分かっているのだ、本当は僕自身もそのどうしようもない実際の欲望と言う奴を。

連続するスタッカートの後の見事なスラー。

ただ認めたくないだけだ。僕が僕自身の欲望と言う奴を認めたくないだけなのだ。そのどうしようもなく動物的で、本能的で、浅ましく下劣な欲望を認めるくらいなら、いっそ自分自身を捨ててしまいたいと、そう思っているだけだ。

展開部の繊細な和音、それに重なる左手、ここからの速度は、アレグロ。

理知的に装っている僕自身の心を覆うものを引っぺがしてしまいたくないだけであり、その強がった姿勢の裏に隠しきれない欲望があることにいらだち、心を乱す何ものかを排除したくなっている。それだけだ。感情があることにも欲望があることにも文句はない。それに振り回される自分が恐ろしく女々しく気持ち悪い、唾棄すべき存在だと思っている。上っ面だけはおとなしく、冷静に見せかけて、何もかも悟っているように見せかけて、余裕を醸し出したい。彼女に焦りを悟られたくない。焦っていること自体を認めたくない。だからこそ、いっそ感情を捨て去りたい。心を惑わす全てを視界から排除したがっている。分かっている、本当は分かっているからこそ、理解したくない。受け入れたくない。無視できない答えが何であるかを分かっているくせに、あえてそれをなかったことにして無視する。

だから僕はこれだけ高ぶった思いを抱えているにも関わらず、未だに欲望に身を委ねることが出来ない。

 

僕たちが付き合い始めてからもう丸二年半が経とうとしていた。僕は彼女を愛している。それだけは間違いない。何がどうあろうと、この気持ちだけは救いようがないほど深く僕の心に根を張っており、誰がどう言おうと僕がこの感情を否定することなどありえない。それだけは確かだ。

それなのに、僕は二年半も付き合っているにもかかわらず、まだ彼女の手一つ握ることすら出来ない。手を握ってすらいないのだから、もちろんそれ以上のこともしていようはずがない。

これを友人等に打ち明けると、お前は本当に彼女を愛しているのかと真顔で問い詰められるが、先にも述べたとおり僕が彼女を愛していることに間違いはない。僕も曲がりなりにも男子大学生である。出来ることならその柔らかく白い腕に触れたいとも思うし、髪に顔をうずめ首筋に口付け、ゆるやかにまどろむ彼女の瞼を見ながら自身の欲望に身をゆだねたいと思う。時には彼女の苦悶に歪む表情を認め全てを己のモノにしてしまいたい欲求に駆られることもある。僕も他の友人たちと同じく、確実に彼女を異性視しているのだ。

にもかかわらず手が出せない理由とは何なのか。僕は、その原因の半分が自分、もう半分が彼女にあると勝手に思い込んでいる。 

僕と彼女は同じ音大の同じ学年であり、ピアノ科に所属している。そして僕は、二年半前、ピアノ科のとある単位修得試験の公開会場で彼女のピアノの才に一目ぼれし、その日のうちに彼女の元へ出向いて意味も分からないままに告白してしまった。あとあと思い返して僕自身もあれは馬鹿で無謀な事をしたものだと思った。そもそも彼女の人格を一切知ることなく、ただピアノに惚れたからという理由で告白する奴がどこにあるというのか。せめてその日のうちは連絡先を聞いておくに留め、後日改めて手紙を書くなりメールを送るなりして、ある程度の親密さを得てから告白すべきだったのだろう。

しかし告白した際の彼女の返答は実に淡白なもので、無駄な言葉を紡ぐでもなく、嬉しそうな笑顔を見せるでもなく、ただ首を一つ縦に振っただけだった。まるでひな人形みたいな細くて鋭い目が僕を射ぬき、会場内を走り回ってただでさえ早かった心音の速度にいっそう拍車がかかった。僕は決して気が小さい方ではないはずなのだが、以来彼女のその視線に当てられるとたちまち体が縮みあがってしまうようになった。

とはいえ一応にも恋人として寄りそうことを許された身。あのピアノが再び、いつでも聴けると思えばひとしおその喜びも増すというものだった。だがその時、僕はそうして落ち着き払った態度で受け入れられた嬉しさとは反対に不本意ながらこうも思ったものだった――本当にこんないい加減な言葉付けで彼女の側にいてよいのだろうか。

そのときの僕の不安は果たして後の僕たちの関係を予見していたものに違いなかった。付き合い始めたのはいいが、僕と彼女は恋人としての進展がいっこうにないまま一年目を過ごした。僕も意を決して何度か彼女にアプローチしてみたことはある。誕生日にバイト代を溜めて買ったブローチを渡してみたり、女の子が甘いものが好きだと聞いておやつにちょっとおしゃれな店の苺タルトを買って来てみたりした。デートの定番といえばカラオケか、音大にいる以上音感は人並み外れていいはずだから、行けばさぞ楽しいだろう、と思い二人で歌いに行ったこともあった。だがそこでも僕は本来の目的を忘れて彼女に流されるばかりだった。カラオケではいつのまにか彼女の歌うカロミオベンに聴き惚れてしまっていた。伸びやかなメロディに陽気に舌を巻くイタリア語の発音、それを見事に歌い上げる麗しい彼女の声。僕も負けじと腹から声を出してサンタルチアを熱唱するなどして対抗してみたが、そうした歌が頭の中で鳴り響いてしまえば、もう俗っぽい欲望などどうでもよくなってしまった。見事なまでに、僕は流された。ブローチを渡した際に抱きしめてその気にさせるつもりが、彼女の発した「ありがとう」の一言と爽やかな笑顔に消し飛ぶ。苺タルトをおごった際に計画していた文字通りの甘い展開も、彼女の「コーヒーいる?」の問いかけで全てなかったことになる。

そんな状態だからもう、僕にはこういうことは向いていないのだろうと諦める以外に他なかった。これでは何のために付き合い始めたのか分からなかったが、そもそも僕が彼女と付き合い始めたのはそういうことがしたかったからではない。ピアノだ、彼女の弾くピアノがもう一度聞きたかった。だから本来であれば僕はこのような衝動を我慢するどころか、抱えることすらないはずだった。彼女の演奏によって満たされる感覚を余すところなく味わい、彼女を僕だけのオルゴールにしてガラスケースに入れ、大事に扱っていればそれで満足できたはずだった。例え彼女に触れることが出来なくても、言葉を交わすことができなくても、僕は彼女のピアノを聴いていられればそれで幸せなはずだと思っていた。

しかしあの日僕が何の気なしに彼女に告白をし、付き合うことを了承され、本当はそれだけに留まっていたはずの欲求が一緒にいるうちにいつの間にか膨れ上がってしまっていた。認めたくはなかった。もっと自分は高尚な部分で彼女と繋がっているのだと思い込んでいたかった。でも時折彼女が見せる無防備な姿に僕の決意は脆くも崩れ去る。その度、気持ち悪いだの女々しいだのと言って己を戒め、死ねばいいのにと言って自分を罵る。だからその感情は今でも頑丈に鍵を掛けて心の奥底にしまっておくことにしている。ただ、僕が彼女を愛している以上、時折何も考えずに触れたくなることはある。その鬩ぎ合いに酷く苛まれては、ああもういっそ、愛していると言ってしまえば触れてしまっても問題ないのかも、と結論しかけて、そこで一番重大なことに気づいて自省する。

というのも、何せ最初は訳も分からず交際を申し込んでしまった身だ。僕がどれだけ彼女を深く愛していたとしても、彼女が僕を愛しているとは限らない。彼女の本心を、僕はまだ彼女の口から一度も聞いてはいないのだ。

正直なところ、僕には彼女の真意が読めないために彼女に触れられない、といった恐怖が少なからず存在していた。

僕自身、彼女と会っている間にこれほど心を乱される可能性を、告白した当初は微塵も考慮していなかった。だからあの告白の日、彼女も似たような気持ちで僕との付き合いを考えていたのではないか、と思ってならない。そしてもしそれが事実だとしたら、今ある僕たちの関係が、僕の安直な欲望によって壊れてしまう可能性だって充分にあり得るし、そうなる可能性がある以上僕が手を出せないのも道理ではないか、と考えるのである。

以前一度「何故あの時頷いてくれたのか」と彼女に尋ねたことがあった。彼女は色のない瞳を向けてこう言った。「断る理由がなかったから」。そうだ、その通りだ。初対面の人間の申し出を断る理由などない。何せその人物が何者なのか、名前が何であるのかすら知らないのである。彼女は当たり前のことを当たり前のように述べている。しかしそれは寧ろ僕を不安にさせ、心の内に引っかかるものを感じさせる答えだった。ではあの時告白したのが僕でなくてもよかったのだな、と、余りにも簡単な結論を導き出すより他なかった。それを否定しきれない自分、それを否定してくれない彼女がいることを分かっていながら、それでも何事もなく彼女と接し、その中で僕は彼女にどんどんはまり込んでいくのを自覚しなくてはならなかった。

だから僕が彼女に触れられないのは僕自身の臆病と彼女の物言わぬ態度の、すなわち二人のせいに違いないと信じ込む。決して僕だけのせいではない。彼女にも原因があるのだ。

しかしそう思う一方で、僕自身も何のせいにすればいいのか、僕がどうしたいのか、分からなくなることがよくある。全てめちゃくちゃだった。彼女と付き合い始めてから僕の思いが安定したことなど一度もない。あるときは歪な欲望、またあるときは歪な欲望を嫌悪する自分に悩まされてきた。彼女と向き合う自分が恐ろしくてたまらず、彼女と向き合って乱れる自分の心がとてつもなく嫌だった。

僕は彼女を愛している。それは確かで間違いない。しかし一方で、彼女を愛している自分を愛することができない。故に本当の意味で彼女を愛することができているのか、常に疑い不安に頭を抱えたくなる。指先一つ触れられない彼女への思いが一方的に募り、それを嫌悪しては彼女に嫌われまいとする態度ばかりが表に出て、何一つ本質らしい本質が見えてこない。

僕には彼女が見えない。彼女が見えないから、僕も見えなくなる。何も分からない。どうすればいいのかもわからない。

 

ピアノを弾き終えた彼女は鍵盤の上にカバーをかぶせて席を離れ、卓に戻って浅くなった呼吸を整えた。計ったわけではないから正確な時間は分からないが、少なくとも三時間は練習していたようだった。僕が皿洗いの際に流れる水の音に耳を傾け、その後に買い物をするため暫く部屋を空けていた間ずっと、彼女はピアノの練習に没頭していた。僕が帰って来た時にちょうどピアノの蓋を閉めて練習をお仕舞いにしたところだった。

「さっきの話」

 冷蔵庫を開けてみると中にスポーツドリンクが入っていたのでそれをコップに注いでいく。練習をすると体力を消耗するから、という彼女のリクエストに応じて僕が用意したものだ。僕の部屋には彼女のためのものが他にもいくつかある。

「ん」

「妹さんが妊娠した、って」

 今更蒸し返すのもどうかとは思ったが、彼女が心配しているのはそのことだろうと僕にはわかる。「ああ」と彼女は疲れたように返事をする。僕はスポーツドリンクを入れたコップを彼女に差し出す。手に取ってから何秒もしないうちに、彼女はあっさりコップを空にした。

「心配なのかい」

 彼女の視線は未だこちらを向かない。飲み干したコップを手で弄び、子どもっぽく、つう、と淵を舐める。

「あの子、まだ十七だもの」

 名残惜しげに空のコップを舐め回す彼女に、僕は一瞬忘れかけていた記憶を思い出して「そうだね」と、いかにも重苦しく返した。十七、確かに一般に子どもを身ごもる年齢にしては早い。自分が十七だった頃なんて、そんなことを思い悩めるような余裕もなかった。ただ勉強――もちろんその時も音大を意識していたからにそれは音楽の勉強だが――に明け暮れ、気付いたら高校三年、もう受験、という状況になっていた。彼女の妹がそのような典型的な進路を取らなかったのには何か訳があるはずだとは思うが、それは僕には関係がないことだし、そもそも原因を突き止めたところで彼女の妹が妊娠したと言う事実は変わらない。

「ついさっき、お母さんから連絡があって。あの子のことは私たちで何とかするからあなたは心配しなくてもいいの、って言われたけど」

 色のない瞳は同じく色のない声で淡々と告げる。

「無理だわ、そんなの。無理。できっこない」

 無理と言う割に言葉に起伏がない。ああ、あんなに美しくピアノを弾く君にも出来ない事があるのか、と僕は場違いな感想を抱いて彼女のコップにもう一杯スポーツドリンクを注いでやった。僕がボトルを傾けると内容液がぽこぽこ音を立てながら彼女の器の底へ流れ落ちていく。

「じゃあ、君はどうするつもりなの」

 確かに僕と違って一応実家通いということになっている彼女がその問題に干渉できる可能性は十分にあるが、何せ問題が問題だ。一人で太刀打ちするのは相当に難しい。

「それが分かれば苦労はないわ」

 彼女は見事なまでに僕の予想したとおりの返答をする。

「まあそうだろうね」

「そもそも、どうして妹がそうなったのかも私は知らない。理由を聞く時間も興味もない。私が家に帰る頃には、皆寝てるから」

 一口、また一口と、咽喉の奥に液体を流し込む。そんなに疲れたのなら焦らずに休めばいいのに、彼女は何でもかんでも全力で取り組もうとする。そうやって何でもかんでも頑張っている姿を見ると支えてやりたくなるのに、僕はその支えてやりたいと言う欲求すらも疑ってかかって、結局は何もしてあげられない。

「こんな関係なのに心配するなって言われて無理、って即答できる」

 ふい、と僕の方に瞳が向いた。その瞬間、血沸き肉躍る感覚が僕の足元から背筋にかけてぞわりと駆け巡った。

「どうしたいって、いうのかしら」

濃密なまでに絡めとられる視線。なぜかまずい、と思った。流されてしまう。久しぶりに、目が合ったのに、顔を逸らしてしまいたい気恥ずかしさと認めたくない強烈な熱が込み上げてくる。彼女が僕に何を求めているのかが分からない。突然ぶつかった視線に狼狽し、焦燥し、まともな思考が出来なくなっていく。

「わか、らない」

 絞った声から出たのは何とも情けない答えだった。彼女は「そうね」と言い、僕からまた視線を外して床にあったバッグを手元に引き寄せ、中からスコアブックを取りだした。そして先ほどまでの話がまるでどうでもよかったかのように楽譜に目を通し、口を動かして音を拾っていく。

 わからない。彼女が何を大切に思って何を大切に思っていないのか。僕はその気まぐれな彼女をどう扱えばいいのか。繊細で薄く、繋がりの見えない彼女の態度。一秒前のことが信じられないほど遠く感じられる。音楽のせいか。僕のせいか。まとまらない思考はいつも僕を苛む。僕は僕を愛せない。僕は彼女を愛する僕を愛せない。

 でもきっと、僕は彼女を愛している。

 

 夕方になっても彼女は一向に自宅に帰ろうとはしなかった。日が暮れるまで、彼女はずっとスコアを片手に楽典の勉強をしていた。

彼女はなぜか自宅を嫌っていた。僕が告白してすぐに聞かれたのは、君は一人暮らしなのか、ということだった。僕が一人暮らしだ、と言うと彼女は冗談でも何でもなく、それじゃあ暫くお世話になるかもしれない、と告げて、それ以上は何も言わなかった。以来意味も分からずに彼女と半同棲生活をすることになったのだが、なぜか夜になると彼女は必ず岐路に付き、僕の部屋に泊まり込みになることは一度もなかった。その時彼女が利用するのは決まって終電だ。僕のアパートから駅まではそれなりに距離があるため、そうなる場合は僕が必ず彼女を送ることにしている。

 夕食に作ったグラタンを相変わらず褒めるでもなく貶すでもなく黙々と食べ終えた後、彼女はまたピアノの練習を再開した。曲はフランツ=リスト作曲、嬰ト短調『ラ・カンパネラ』。超絶技巧練習曲としても名高いこの曲は難易度が非常に高く、演奏には大練習曲の言われに相応しい技術力を要する。飛ぶように音符が並び強弱に安定がない楽譜は、聴いている方ですら目まぐるしいまでのリズムの変化に時々どこを演奏しているのか分からなくなる。

 一番有名な第三楽章の強弱記号は、ピアノから始まる。直後にデクレッシェンドが加わっていきなり音が抑制される。この曲の序盤の強弱はひたすら弱めだ。ピアノとピアニシモがひたすら続く。弱く細く、繊細に丁寧に。雨が降るかのようにしっとり濡れた音色がピアノから零れ、部屋に冷たい空気が満ちる。冬とは思えないほどの、湿った旋律。それでいながら心に直接響く音色。この曲のテーマは確か教会の鐘の音だったはずだが、僕が連想するこの曲のイメージはいつも、霧雨の降る古城だ。西洋風のレンガ造りの建物が軒を連ねる先に、一際大きくそびえたつ城。それが降りしきる雨の中でぼんやりと輪郭を薄くして浮かび上がっている。町はひたすら静かにそれを見守り、喜びも悲しみもしない。雨のために城も人々も町も全て色が薄い。ただただそこにあるものを受け入れるだけの存在。それが僕が抱くこの曲のイメージ。

 これは彼女のイメージにもぴたりと当てはまる。僕は数ある曲の中でもこの曲を弾いている彼女の姿を見るのが好きだった。古城に舞い降りた姫君、というわけではないけれども、彼女が真っ赤なドレスを着てこの曲をステージで演奏したらどんなにか生えるだろうと思う。弱い、弱い、ピアニシモを奏でる彼女の指が、スポットライトを浴びて僕の脳裏に古城のイメージを植え付ける。寸分の狂いなく再現されるレンガの街並み、城、雨。鍵盤の上で楽しげに踊る指。僕はそれに何度も魅了される。ピアニシモに。それを弾く彼女の姿に。

 そこで音が唐突に切れた。

 それと同時に僕の脳裏で徐々に明確になって来た驟雨の古城も、蜃気楼が失われたときのようにさっと息を潜める。視界がまっさらになってしまった中で、夢から覚めるような心地が僕を現実に引きずり戻す。

「……駄目ね、やっぱり気が散る」

 彼女は指を鍵盤から降ろした。一瞬僕が聴き入っていたことを咎められたのかと思い胸が引き攣ったが、彼女が僕を顧みて何か言うことなどまずない。大方気が散る原因と言うのは、彼女の妹のことだろう。

 彼女はふうとため息をついた。思い通りに練習できない、音が奏でられない。そんな表情をしている。ピアノに悩む彼女を見ているのはどことなく辛い。いつも光輝かんばかりに美しく演奏しているだけに、彼女の演奏には感情が籠らない。だがここで僕は逆説的にもそうした演奏態度の裏に彼女にしては珍しいものが隠されていることを察知した。

 乱されているのだ、彼女も彼女自身の、言いようのない感情に。

「今の演奏」

だから僕は思いがけず言ってしまった。普段であれば絶対言わないし、これを言えば彼女のプライドに必ず触れてしまうであろうと思ったが、この時ばかりは言わなければならなかった。僕が悩みに悩んだ自分の感情を裏打ちするための鍵が、意外にも、これだけ身近で何度も聴いてきたピアノの演奏にあったとわかったのだから。僕は決定的なことを見落としていたのだ。

彼女の演奏は、感情は、決して色がない、なんてことはなかったということを。

「僕はよかったと思うけどな」

 パシン、と乾いた音が響いて、頬に鋭い痛みが走った。何が起きるのかは予想済みだったし、彼女の腕はピアノを弾くためだけのものだから、痛みはそれほど強くは感じなかった。それよりも、ああ、やはりそうだったか、と彼女の思いを確認できた嬉しさが勝り、寧ろこれくらいの仕返しでいいならいくらでも受けてやりたい、と変に寛大になった。

「良いわけない」

 彼女はしっとりとした水のような怒りを内に秘めていながら、声を荒げず静かに言った。

「この程度の演奏で満足するなんて、あなた、音楽家としての格が下がったの」

 内に秘めている彼女の感情が今の僕にははっきり感じとれる。妹のことを気に病んで演奏に集中できない自分に苛立ち、技術はいつもどおりなのに満足できない。にもかかわらず、僕にそれを褒められて、余計に心を乱され反射的に腕を振るってしまった。僕を僅かに罵って自分を奮い立たせようとするも、その言葉自体は自分に向かっていっているだけで、僕を罵ろうなどと言う気は、本当はまるでない。

「音楽家として言ってるんじゃないさ」

 そもそもまだ大学生だから、音楽家を名乗るのには少し早いだろうし、と僕はここにきて異常なほどに冷静になった。心が見えると言うのはこうも気持ちのいいものか。それならそれで全然問題ないではないか。なぜ自分は今までこんなつまらないことに悩んでいたのだろうか。

「僕は一聴者として、素直に今の演奏が良かったと思った。今まで聴いてきたどの練習よりもよかった。聴衆が良かったと思ってしまえば、演奏者がどんな思いでそれを弾いていようと、関係のないことさ。演奏は聴衆がいないと意味がないって、君だって散々教わって来ただろう」

 挑発をひらりとかわし、逆に相手に挑発で返す。姑息な手段だが今はこれが一番いい方法だ。そうでなければ、普段無言の僕の口がこんなに回るはずがない。

 彼女はいよいよ追い詰められて言いあぐねていたようだった。普段ぴくりとも動かないフランス人形のような美しい眉間に、僅かながら皺が寄っている。自分の感情と演奏、それに僕の挑発が効果的に混ざり合って、彼女に今までなかった新たな変化を生みだそうとしている。

 本当はこんな風に追い詰めるのは反則だとは思うのだが、この機を逃してしまえば次いつ、このような偶然に恵まれるのか分かったものではない。利用できるものは全て利用すればいい。例えそれが、彼女自身を追いつめることになったとしても。

「……もういい」

 彼女はそれ以上ものを語ろうとはせず楽譜台の楽譜をまとめてクリアケースの中に入れた。それからピアノの蓋を閉めて、手近にあったコートを勢いよく手に取る。が、すぐに椅子から立ち上がろうとはしなかった。ふと時計を見ると、時刻は午後十時を回ったところだった。おそらく、今自宅に帰っても、まだ家族は寝ていないことを思い出したのだろう。外でうろつくにしても冬の夜気に当てられては体が冷える。建物に入るにしても、柄の悪い店以外どこも開いていない時間帯だ。

 ここで彼女に助け船を出すのはとても簡単だ。「このまま家にいたらどうだ」と、そう言えばいい。だがこのタイミングでその言葉は逆効果であることは目に見えている。そう告げれば、彼女はおそらく今すぐ暖かい僕の部屋から飛び出して、冬の寒空の下、ベンチに座り込むことを選ぶだろう。せっかくの機会を無駄にしてしまってはならないし、そういう行動をとらせてしまったら、その光景を想像した僕の方が凍えてしまいそうだ。

よって僕は残酷にも彼女を静観することに決めた。後の処理は、彼女に任せた。すると、彼女は果たしてコートを膝の上に乗せて、またピアノを弾き始めた。悩んでいることを全てぶつけるかのような恐ろしくテンポが速く乱暴な演奏だった。傍から見ていてもそれが分かるのだから、弾いている本人はさぞ気にくわない事だろう。しかしその気にくわないという思いが余計に彼女を駆り立て、さらに演奏を感情的なものにする。その感情に苛立ち、また曲が速くなる。どうにもならない悪循環が彼女を襲う。

そうして時間を忘れて彼女はひたすら練習し続けた。訳の分からない思いに焦燥し、力を入れるべきではないピアニシモでさえ扱いかねてフォルテで弾いた。学科の教授などが見たら、この演奏は激しく非難されることだろう。どうした、本調子じゃないのか、と言われることだろう。それが自身でも分かっているからこそ、彼女の悪循環は止まらない。僕の中に想起される古城の町に降る雨は、霧のような小雨から次第に大風を伴った雷雨へと変化していった。荒れ狂う彼女、乱れた街並み。でも不思議とそれも悪い気はしない。それが僕自身の変化に由来するものか、あるいは彼女の変化に由来するものなのかは知らないけれども、二人の間で起こった反応は紛れもなく僕にとっては好機だった。

やはり僕は、彼女を愛せていた。僕の言葉一つで乱れた彼女を見て、そう実感できた。

 

遮二無二鍵盤を叩く彼女は遂に息を荒くして、ピアノを弾き続ける機械のようになっていった。疲れを伴っているにもかかわらず精密に黒と白を交互に押さえ続けるあたりがさらにその印象を強くする。時刻は既に午前一時を回った。もう終電まであと五分もない。いつもならばこの辺りで練習を切り上げ「じゃあまた」とコートを着込み出ていくはずなのだが、なくなった言葉の代わりに部屋へと響き続けるピアノの音は、それすらも彼女の思考から排除しているらしかった。音大生としていつでもピアノの練習が出来るように、マンション内も一部屋欠かさず防音室になっているから隣人の睡眠を妨害する心配はないが、いくらなんでもさすがに弾き過ぎである気もする。尤も昼間練習していたのは腕を酷使しやすい「ラ・カンパネラ」ではなく、ソナタ形式の別の曲のようだったが、今の彼女にそんなことは関係ない。どんな曲であれ、これだけ練習していたら腕が痛くなるに決まっている。僕でさえ受験の年に毎日九時間練習したらピアノ線の一本を切った挙句に暫く筋肉痛になって腕が上がらなくなった経験があるほどだ。彼女は頑張りすぎる。頃合いを見て止めさせなければそれこそ腕が壊れるまで延々と弾き続けてしまうだろう。

 ピアノを弾くと言う行為そのものに取り憑かれた彼女の額には大粒の汗が滲んでいた。音が跳ね跳ぶ楽譜を追う瞳の動きにはもう覇気がない。ひたすらに指を動かし、腕を動かし、体全体で音を表現し尽くしてきた彼女の疲労はもう限界に達しているはずだった。虚ろに揺れ動く情感はそのまま、演奏態度として旋律に現れる。遂に和音すらまともに取れなくなった時、僕はその頑張り続けたか細く白い腕を、握りしめないわけにはいかなくなっていた。僕は不安を態度に示すことへの抵抗を今だ、と迷うことなく振り払った。そして高音を押さえるために中央の鍵盤から飛び跳ねてきた彼女の腕を、力強く掴み取った。

 気付くと、は、と彼女が息を飲んでこちらを仰ぎ見ていた。僕たちの間から音と言う音が全て消え去る。

「もういい」

 僕は言った。殊更優しく、殊更低く、彼女をいたわるかのように。

「もういいよ、そんなに頑張らなくても」

 今度ばかりは彼女も抵抗する気にならなかったようだ。僕が初めて彼女に触れたことにすら、何も言及せずただじっとこちらを見ている。彼女の手は若干汗ばんではいたが、肩に妙な力が入っている様子はなかった。やはり彼女の方が、ピアノの技術力に関しては僕よりも一枚も二枚も上手だ。だがどんなに素晴らしい演奏をし続けたことで僕の耳が満たされようとも、ここは止めなくてはならない。僕のために、また彼女自身のためにも。

「君の演奏が素晴らしいことは、よく分かったから」

「素晴らしい、素晴らしい、って言うけど」

 放心から復帰して腕を掴まれたまま、彼女は椅子から立ち上がった。

「何が素晴らしいのか私には全く分からない。具体的に言って。でないと安心できない」

 安心、という言葉が僕の心を深く抉る。と、同時にいつか見た彼女の黒々として色を写さない鋭い瞳が僕を捉えているのに気が付いた。

安心。僕が彼女を安心させられると思う言葉で、彼女が本当に安心するのか。僕には彼女を安心させられるという確固たる自信はないし、実際それを言って彼女がどう反応してくるかは、正直分からない。分からない、が、しかしもう僕は迷わない。先の彼女の演奏を聞いた時に、そう決めた。彼女の瞳は、完全に沈んでいるのではない。淡いながらにも、色はある。ぼんやりとしていて、見えにくいし良く見ようとしないと見えない。でもちゃんとある。それがやっと、演奏から聴きとれるようになった。ここで迷ってはいけない。

僕は彼女の腕を掴んだまま僕を捉える彼女の視線を真正面から受け止めた。次に僕が言葉を発するまでの、数秒か、数十秒か、果てまた数分かの間、僕らはお互い一歩も譲らずに視線を絡めあった。僕は彼女を受け止めた。彼女も僕を受け止めた。緊迫した空気の中で、微動だにしない二人の見つめ合いはいつしか呼気を合わせ、瞬きを合わせ、また皮膚から感じる熱を同じくさせた。

「僕は」

 ため息の代わりに空気を吸って、無音の一瞬間に彼女の腕を引き寄せる。傾いた彼女の体は僕の胸元へとすっぽりと収まり、僕はその頭を柔らかく抱きとめてやる。

「ふ」

「何でもいいから君の思いが知りたかった。何も言われなかったから、不安だった。今日の君の演奏でやっと分かったんだ。君にも、悩むことがあれば怒る時もあるって」

 自分でも何とも姑息な手を使ったと思っている。でももう、これ以外に僕が落ち着ける方法は何もなかった。相談されても、彼女の妹が妊娠したという事実を変えることもできないし、それに関して僕が彼女にしてあげられることは何もない。愛していると言う自覚だけが先行してばかりで、時に彼女の真意が見えずに、彼女を愛している自分自身すらも疑わねばならなかった。元を正せば全て、今まで僕が彼女の気持ちを察することが出来なかったからだ。

それが今日、二年半付き合ってきてようやく初めて崩れた。彼女の色のない瞳にやっとのこと僅かながらの色彩を認め、その中に彼女を愛する自分自身の姿を見つけることが出来た。その色を見つけることが出来たのは、言うまでもなく彼女を追いつめた状況そのものであり、それが形となって現れることになった彼女の演奏のためである。だからこそ、僕はどんな形であれその情感のこもった彼女の演奏が素晴らしいと思った。思わざるを得なかった。

 これを言っても君は安心しないかもしれないだろうけどね、と最後にそれだけ言って僕は彼女の頭を抱きしめる力を強めた。そして驚きのためであろう、体を硬直させている彼女の耳元に唇を寄せて、「きっと君はこれでもっともっと、上を目指せるよ」と囁いてやった。恥かしさのあまり脈拍が撥ねあがるのが自分でもよくわかる。おそらく胸の中に抱いている彼女も当然それに気付いたことだろう。何せ普段鍛えられている分、音を聞き取る能力は人並み外れている。とはいえ、僕の聴きとり能力も似たようなものなので、先ほどから彼女の体を流れる赤い心音が、ときんときん、と耳を打ってうるさいほどなのだが。

ピアノを弾いているのを遠目に見ているだけでは美しいとしか感じなかった体が、今は熱として僕の胸にぴったりと寄り添い、ひたすらに愛おしい。彼女が僕の指摘に何か反抗してくるかとも思ったが、頭が真っ白で何も考えられないらしく身じろぎ一つしなかった。僕はその状況に任せて自分の今の思いを、言葉に尽くせる限りで言葉にした。安心して。好き。愛おしい。愛してる。狂おしい。夢中だ。大丈夫。僕はずっと側にいる。そのあと何度も何度も同じ言葉を連ねて、最後に「もう、今晩、電車ないから」と、その先に含まれている意味をわざと隠した。動揺に瞳を滲ませてモノクロトーンのピアノが視界に入らなくなった彼女は、もの言わぬ訴えに自らすっと背伸びをして僕の首筋にただ唇を押しあてた。咽喉仏の薄皮一枚を隔てて触れる頬から人肌の温かさを感じ、それでもう僕は何もかもがどうでもよくなった。

 

 僕たちの関係は最初からして、ただの偶然に過ぎなかった。例えばあの時僕が彼女と同じ講義を受講してなかったら、そして彼女が天才的なピアノの才を持っていなかったら、僕は彼女に告白するなんてことはなかっただろうし、きっと彼女は別の男のものになっていたに違いない。また、どういう理由か彼女が親元へ帰りたがらず、母から聞いた妹の妊娠について僕に相談をし、かつ自宅の代わりのピアノの練習場所として僕の部屋を選ぶ、といった一連の偶然がなかったのであれば、僕が彼女に触れられなかった事実が覆ることもなかっただろう。けれども、そんな細く繊細な音色しか奏でない糸が、いくつも集まり混じりあって束になるとき、変わらないと思っていた事実も同時に変動を迎えることがあるかもしれない。

 妹の懐妊の話を聞いた二週間後、彼女があの日懸命に練習していた「ラ・カンパネラ」を披露する機会がやって来た。試験に向けて課題曲をお互いに聴き合おうという、学科内での密かな練習コンサートが催されたのである。

始まってから数分で彼女の番になり、演奏が始まった。この曲の序盤はひたすら静かなピアノが続く。演奏開始直後、僕の頭に霧雨の古城のイメージが浮かび上がる。中盤から変化する、ピアニシモ。薄く緩く降りしきる雨の中で、レンガ造りの街並みを歩いている人々が、しだいに見えてくる。

だが、なぜかこの時はそこに僕と彼女が混じっているのが見えた。どこか温かみを欠いているような街並み、限りなく白に近くぼんやりとした雨。しかしそれでもかろうじて色彩を保っている、道行く人々、過ぎた建物、褪せた歩道。ただ霧の中を彷徨うように僕たちは古城に向かって静かに歩いている。

 だがそこから情景は一変する。最後、クレッシェンドとメゾフォルテ、そこから連なるフォルテッシモで強まる曲のインパクトを、情感を得た彼女が正確な指遣いと確かな表現力で弾き始める。突如として輝き始める音と音の重なり。前段階があってこその、拡大するボリューム、内臓にさえ響き渡らんばかりの力強い音色。例えるならそれは空間と光の躍動だった。コンサート会場では彼女の演奏を聴いていた者たちが皆息を呑み、その鮮やかなまでの曲の変貌ぶりに目を見張る。イメージの中では町全体を覆っていた霧雨がさっと鳴りを潜める。僕と彼女が圧倒的な存在感を持った古城を見上げ、ひたすらに立ち尽くす。城は町の建物と同じレンガ造りで、屋根の部分だけが綺麗な緑色をしていた。僕はそれを見て彼女に微笑みかけ、彼女も僕を見て頬に笑窪を作った。僕たちは手を繋いで城の中へと入っていく。赤い絨毯が敷き詰められた内部では、彼女の両親と妹、それにその小脇に抱える子どもが、笑顔で僕たちの入城を迎えてくれていた。

そして演奏が終わり、頭のイメージが未だその像を結ぶ、ごく僅かな時間。僕の周りの聴衆と、城で僕たちを迎えた彼女の家族が、皆一斉に、雨のような拍手を、送る。

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