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さらし文学賞
迷惑なバスジャック

 折しも世間はお盆休暇。行楽地に向かう人や、実家へ里帰りする人などでどの交通機関も連日混雑が続いていた。特に、最近の政策の影響か、高速道路では渋滞が多発していた。車での移動において渋滞ほど嫌なものはない。毎年車で帰省する人にとっては悩みの種である。
 そして、それは高速バスでも同じであった。格安で遠隔地に移動できるので、貧乏学生の帰省手段として重宝されたりする。東京と名古屋を結ぶこのバスの車内でも、それらしき客がちらほらと見受けられた。席はほぼ満席。東名向ヶ丘から高速に入り、しばらくして渋滞にはまったのだ。
 だが、いらついている雰囲気はなく、友人と談笑する者、本や新聞を読む者、仮眠する者など、みな思い思いのことをして過ごしていた。時間はかかれど、このまま何事もなく休憩がとられる足柄に到着する予定であった。

「動くな」
 雑然としていた車内に、突如として緊張感が走った。バスの最前列に座っていた男が立ち上がり、ナイフを突きつけたのである。その切っ先は、隣に座っていた女性客の首筋に向けられていた。
 こんなシチュエーションは、ドラマの中だけと思いこんでいる乗客がほとんどであった。まさか、自分が犯罪に巻き込まれるなんて思っちゃいない。男の気違いだと決め込み、無視しようとしている者もいた。
「騒ぐんじゃねえ」
 ざわついていた車内が一瞬で静かになった。その怒気もさることながら、目が血走り、体を小刻みに震わせている。ただならぬ雰囲気に、これは芝居でも何でもなく、現実の出来事だと、乗客は合致した。
 この非常事態に対し、まずやるべきは警察への通報。そう考え、携帯電話に手を伸ばす者もいた。もちろん、運転手も異変に気づき、行き先表示を「異常事態」に変更しようとしていた。だが、
「余計なことはするな。大人しく、俺の言うことを聞け」
 叫び声に圧倒され、携帯電話を操作する手がとまる。しかし、運転手の手を止めるには、タイミングが遅かったようだ。男は判断しようがなかったが、この時バスの行き先案内は、ばっちりと異常事態を告げていた。
 男の言うことなど聞かずにさっさと警察に通報すべきなのだろうが、自分がきっかけで人の命が奪われるとなると目覚めが悪い。なので、男の言いなりになり、みな何も手を出せずにいた。そのため、バスの中には異様な沈黙が漂っていた。
「き、君の狙いは何だ」
 震える声で運転手が尋ねる。乗客一同、男の返答を固唾を飲んで見守る。男は振り返って運転手を見据え、こう言い放った。
「できる限り早くサービスエリアに行け」
「サービスエリアですか。予定の足柄までだと三十分以上かかりますが」
「なにをとぼけたこと言ってるんだ。一番近くのサービスエリアでいい」
 取り乱した声で男はわめき散らす。バスは先ほど伊勢原バスストップを通過したばかりであり、次のサービスエリアは予定どおりの足柄までない。道路が空いていれば三十分強で着くのだが、いかんせん前の車が動いてくれないので、いつになるのか分からない。途中でバスストップなどが存在するが、男の要求に従い、目的地を足柄に設定した。
とはいえ、車の列は動く気配がなく、望んでもいないのに膠着状態が続いていた。重圧に耐えきれず、仲間内でひそひそ話をする者もいたが、さすがに男に取っ組みかかろうとという無謀なものはいなかった。また、男も乗客のざわつきが大きくなりつつあるのを気にとめていないようだった。
 外からクラクションが鳴り響く。「異常事態」の表示に対し、様子を探るために後方の普通乗用車が鳴らしたものだった。クラクションで答えたいが、男に救助を求めていることを感づかれては元も子もない。なので、ハザードランプを点滅させて、返事の代わりとする。
 しかし、クラクションが鳴った時点で、男は嫌な予感をしていたのだろう。
「おい、余計なことはするんじゃねえ」
 運転手に吠えかかる。運転手はすくみあがったが、男はさらなる行動を起こす気配はない。
 やがて、少しずつではあるが、車の群れのスピードが上昇しだした。所要時間案内の掲示では、この先渋滞を示す赤字はなかったはず。渋滞によるタイムロスは十五分ぐらい。ともかく、なるべく男を刺激しないように行動には注意しなくてはならない。運転手はそう決心し、ハンドルを握る手に力を込める。
 しかし、順調に走りだしてから数分後、男は予想外の提案を持ちかけてきた。
「あの中井というところに止まれ」
「中井ですか。あれはパーキングエリアになりますが」
「どうだっていい。とにかく止まるんだ」
 訳が分からなかったが、事態は良い方向に転がったと言っていい。男が示した中井パーキングエリアは駐車待ち渋滞がなさそうであるし、何より足柄よりもはるか前方。この緊急事態の早期解決が望めるのだ。
 バスは即座に左車線へ路線変更し、中井パーキングエリアの入り口を目指した。バスの走行速度からして、到着は約三分後。このまま事態は動かない。そう信じていた。
 しかし、男のあまりに傍若無人な態度に、いつまでも黙っていられるわけがなかった。男がただ喚き散らしているだけで、隣の女性に対する攻撃行動を起こさなかったことも、この展開を招いた要因だろう。後部座席に座っていたがたいのいい若者が立ち上がり、ずかずかと男の元に歩み寄った。
「な、なんだ、止まれ」
 男は刃物を突き付ける。しかし、若者は怖気づくことなく、男と真っ正面に向かい合った。そして、男の手首をむんずとつかむと、その手に力を入れた。
 その若者は、柔道でもやっているのか、筋骨隆々とした腕を誇っていた。握力も恐ろしいものがあり、男は万力で締め付けられているかのような苦痛を味わった。もちろん、そんな中武器を持ち続けることはできず、その手から凶器がこぼれおちた。
 すると、男と通路をはさんで対称の席にいる乗客が、転がり落ちている刃物を見て目をしかめた。
「これ、もしかしておもちゃじゃないの」
 男を掴んでいる若者も目を落とした。遠巻きだと本物っぽく見えたのだが、至近距離からだと精巧に作られた玩具だと分かる。まさかこんな子供だましに脅かされていたとは。全乗客のうっぷんが爆発した。
 そこから先は、パーキングエリアに着くまで、総立ちで男を責める大喧騒が続いた。運転手は必死にアナウンスでなだめようとするが、数十人の前には無力。もはや、別の意味でパーキングエリアへの到着を待ち望むこととなった。
 中井パーキングエリアの駐車場では、通報を受けて警察官数人が待機していた。おそらく、目標がこのパーキングエリアに到達したとの連絡がなされ、応援が続々と駆けつけることだろう。
 男は、ここで自分の真の目的を明かすはずだった。しかし、詰め寄る乗客の怒声により、なかなか実行に移せずにいた。更に、運転手の方も、警察側の突入準備が完了するまで持ちこたえるよう指示がなされていた。ただ、目を張るスピードで警察官が集まってきており、突入開始が成されるのは時間の問題であった。
 だが、この状況下、律儀に待機していられるほど、運転手の器量は大きくなかった。
「静まってください」
 口調は丁寧だが、ほとんど怒鳴り声に近い勢いで、マイクに向かって叫んだ。バス内をこだまする音響に、騒いでいた者達は一様に口を結んだ。
「ただ騒いでいても仕方ありません。ここは、犯人の要求を聞こうではありませんか」
 それはもっともな判断だが、頭に血が上っていた乗客たちには及びつかなかった考えだった。
 ようやく、犯行の動機があかされる。固唾を飲んで見守る中、男はただ一言発した。
「外に出してくれ」
 これは意外であった。人質を要求されるかもしれないと身構えていたものは、一気に肩の力を抜いた。
 一方、その返答に困ったのは運転手であった。仕方なく、本部に犯人がバス外に出る旨を伝えた。すると、即座に警察にも連絡がいったようで、胸にプロテクターを付けた特殊部隊が、バスの出入り口を囲んでいった。
 そして、運転手がドアを開けた瞬間。男は何かに取りつかれたかのように、外の空気へ突進した。これでようやく目的が果たせる。
 しかし、待ちうけていたのは武装集団の群れだった。男は行方を阻まれ、なすすべもなく立ち尽くすしかなかった。
「大人しくしろ」
「話を聞かせてもらうぞ」
 バス内で繰り広げられていた悪夢が再来した。度重なるハプニングに、よくここまで耐えられたのが奇跡だった。しかし、もうこれ以上あふれ出ようとする黄金のさわやかな液体の放出を留めておくことはできなかった。
 男がどうにでもなれという表情で、股間を濡らしていく様に、さすがの警察も度肝を抜かれた。まさか、武装した集団に恐れをなす小心者だったのか。突然の出来事に対処に困っている警察を尻目に、男は淡々と語り出した。
「……まさか、こんなことになるとは。トイレに行きたかっただけなのに」
 話によると、男はバスに乗った直後に急な尿意に襲われ、瞬く間に我慢の限界に陥った。高速バスにはトイレ休憩があるものの、そこまで我慢することはできなかった。かといって、大の大人がトイレに行きたいなどと言ってバスの運行を妨げるのは気恥ずかしい。そこで、バッグの中におもちゃのナイフがあったのを思い出した。
 実は、この男は玩具製造会社に勤務しており、ナイフはその試作品だったのだ。こうして、バスジャックを装ってトイレに行けば、気恥かしい思いをしなくてすむ。
 そんな男の画策もむなしく、トイレでバスの運行を妨げるよりも恥ずかしい状況に陥ってしまった。結局、威力業務妨害と脅迫罪の疑いで取り調べを受けたが、嫌疑不十分のため、厳重注意で釈放されたという。

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