FC2ブログ
さらし文学賞
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |


見える男

 神谷君のことは以前から知っていた。いくつかの授業で一緒になったことがあるだけで、知り合いでもなく、むしろ言葉を交わしたことさえない。けれど、ある理由から彼はとても目を引いたから、密かに広く名前が知れていたのだ。
 容貌はいたって普通、人ごみの中にいたら間違いなく埋没してしまいそうな、人並み。授業のときにしか会わないためかもしれないが、常にむっつりとしたような無表情。誰かと特別親しくしている様子はなく、いつも一人で教室の中ほどの端っこにひっそりと座って、静かに話を聞いている。
 そんな彼が目を引く理由は、彼の不思議な挙動にあった。授業中、騒ぐでもなく、居眠りするでもなく、携帯電話をいじるでもなく、本を読むでもなく、授業を受けている彼なのだが、やけにせわしない。頭を緩く振ってみたり、手を払うようにしたり、何気ない動作ではあるのだが、頻繁ともなると目に付いてしまう。本当に些細なことなので悪目立ちするわけでもないのだが、たとえそれが視界の端でも動いているものは嫌でも気になってしまう。
 動作の意味するところは多分、前髪が目にかかって煩いとか、虫が纏わり付いてくるとか、そんな他愛のないことだと思われるのだが、しかし頻繁すぎるように思うのだ。
 そのせいで、彼はちょっとした有名人だった。同じ教室に姿を見つけると、「お、あいつが例の」という風に密かに奇異の視線でしばらく観察される、というような、珍獣のような扱いだったが。
 私は、彼に大いに興味を持った。と言っても、野次馬根性から来る好奇心ではなく、一個の人間としての彼に興味を持ったのだ。そのとき彼の不思議の挙動は、私にとっては彼を気にするきっかけでしかなかった。
 陳腐で大げさな言い方をするならば、私は彼に一目惚れしてしまったのだ。

「神谷君だよね?」
 彼は少しこちらに視線を上げて、「あ、そうですけど」と言った。その視線には、いぶかしみと煙たがりが見て取れた。
 私は簡潔に自己紹介し、隣に座って良いか尋ねた。彼は、「なんだこいつは」という顔のまま、勢いに押されて「どうぞ」と椅子の上にあった鞄をよけてくれた。
「神谷君てさ、木曜二限の授業も受けてるでしょ? 私も受けてるんだ」
 せめてもの共通の話題をふるが、当然のように彼の反応は優れない。「へぇ……」と気のない返事をしつつ、手元のシャープペンシルを見つめていじくり回している。戸惑いと言うよりも、はっきりとうざったがられている。
「あのさあ」
 埒が明かないと思ったので、無理やり本題に入る。
「授業中、神谷君いつも首振ったり手振ったりしてるじゃない? どうして?」
 私がそう言った瞬間、ぴたりと彼は全ての動きを停止した。え、とそれに私も思考停止しているうちに、何もなかったかのように彼は速やかに机の上に広げたノートもシャープペンシルもペンケースも綺麗に鞄にしまって、立ち上がった。私が混乱していると、彼は「行くよ」と言って、さっさと歩き始める。慌てる私を尻目に、どんどん教室から出て行く。
 彼を追い、教室を飛び出した私は教室の扉で担任講師とすれ違った。彼は、廊下のはるか先を当然のように歩いていた。

 着いた先は、学食だった。彼は授業のときと同じように、ひっそりと隅の席に腰を下ろしていた。息の上がった私が席に着くと、「さっきのことだけど」と話し始めた。その間も、しきりに手を顔の辺りで払うようにする。
「なんでもないから、本当になんでもないから、気にしないで欲しい。だから、あんまり関わってこないで」
 それだけ言うと、彼はおもむろに立ち上がって立ち去ろうとするから、急いで引き止める。迷惑そうな顔をする彼をなんとか留まらせようと口を開いた。
「そんなこといっても、神谷君、すごく有名だよ。別に陰口言ってるとか、嘲笑ってるとかじゃないけど、みんな気になってるんだよ、神谷君のこと」
 別に、それは彼のことを傷付けたり馬鹿にしたりするために発した言葉ではなかった。ただ私も先ほどからの彼の態度に困惑していて、混乱していて、どうにか自分のペースに彼を持っていこうとして言ったのだ。けれど、それを聞いて彼は心底うんざりした顔をした。
「他人はこれだから嫌になる。こっちに事情があるのも知らないで、変だって言うだけで勝手なことを言いふらしたり遠巻きにして見世物扱いしたりする。しまいには、こういう野次馬根性の連中が興味本位で近づいてくる。――もうたくさんだ」
 彼はもう私の方を見ていない。独り言のように、ぶつぶつとそう呟いた。そして、すっと視線を上げて、私の目を見て彼はこう言った。
「迷惑なんだ。笑いものにしたいならすれば良いけど、僕に関わりのないところでしてくれ。もう話しかけてきたりしないで」
 そう言ってまた、彼は立ち上がって今度こそ立ち去ろうとした。私は慌てて、彼の誤解を解こうと立ち上がって強い声で言った。
「違うの。私はそういうことを言いたいのではなくて、――ええと」
 言いよどむ私を、彼は思い切り不審の目で見る。
「――神谷君のことが気になるんです。仕草がどうこうじゃなくて。だから、お付き合いしませんか?」
 神谷君は、理解不能、と言う顔をしてしばらくかたまり、やがて私に背を向けて立ち去った。時折、緩く首を振りながら。

 その日から、私は授業で彼を見かけるたび隣に座り、弾まない会話を無理にした。最初は徹底的に無視された。そして周りから好奇の視線を山ほど浴びた。
 それでも根気良く、しつこく続けていると、ついに彼は根負けしたように応えてくれるようになった。何気ない会話に、ぶっきらぼうな相槌を打ってくれるようになった。
 昼食に誘ったりした。始めは断られ、半ば強引に連れて行くようになり、渋々付いて来てくれるようになった。
 その間も、彼は不可思議な挙動をしょっちゅうしていた。その理由は、もう尋ねなかった。

 ある日の学食で、突然彼は酷く真剣な顔をして、「これからする話を笑わないで聞いてくれる?」と切り出した。私はもちろん頷いた。
「僕、見えるんだ」
 彼は、重々しく言った。私には意味が分からない。
「何が?」
 彼は、声を潜めて言った。
「音が、見えるんだ」
 私は何を言われたのかわからなくて、少し椅子の上で身じろぎした。そのせいでがたりと椅子が鳴ったとき、彼は嫌そうに顔をしかめて、ゆるゆると首を振った。
「それだよ。その音が、僕には見える。纏わりついてくるんだ」
 彼によると、話はこうだった。
 彼には、音が文字で見える。文字になった音は羽虫のように、彼に纏わりついてくる。文字になるのは擬音語の類で、決して人の話し声が文字になって襲ってくることはない。それは多分、言葉は言葉であって、音だとは彼の頭が認識していないのだ。
 彼はそれが当たり前だと思っていたから、他人もそうだと思っていたから、何の気なしにそれを言うと、気味悪がられたり馬鹿にされたりして、友達もできないし人間不信にもなった。だから誰とも話さず、関わらずにいるようにしていた。
 そんなようなことを、彼は訥々と語った。
 それで、彼の不思議な行動も、一人でいることも、初めて私が話しかけたときに言われた言葉も、全てが繋がった。彼は、纏わりついてくる音を払っていたのだ。彼は、自分を守るために一人でいたのだ。彼は、もう人を信じることにうんざりしていたのだ。その間中、悩みの種は彼を悩ませ続けた。風の音も、誰かがノートをめくる音も、教授が使うチョークの立てる音も、自転車のベルも、存在するありとあらゆる音が、彼を惨めな気分にさせ続けた。
「君なら、言っても大丈夫かと思って」
 彼はそう言ったものの、葛藤しているようだった。裏切られるかもしれない。信じてくれないかもしれない。信じて欲しい。受け入れて欲しい。そんな顔を、していた。
 私はようやっとこの状況に至って、気付いた。彼を肯定するとか励ますとか、そんな簡単なことで彼のことを済ますことなどできないのだ。彼のことを本気で考えて、一緒に悩んで、それでも彼のことを本当の意味で幸せにすることなどできないかもしれないのだ。
 私は、軽く物事を考えすぎていたかもしれない。彼は、私と一緒にいるときも、このことを話してくれるのを決めるときも、死ぬほど悩んだだろうに。
 私は彼に、申し訳なくなって黙り込んだ。そんな私の様子を見て、彼はしばらく黙って、やがて「出ようか」と静かに席を立った。私も後に続いた。

 彼を悩ませるだろう物音がひっきりなしに響く校内を、黙って歩いた。意識すると、こんなにも音があったのかと驚くくらい、うるさかった。その全てが、彼を責め続けているのだ。文字になって。虫のように纏わりついて。それを考えると、ぞっとした。でも彼は、ずっとひとりでそれに耐えてきたのだ。
「神谷君!」
 堪らなくなって呼びかける。彼は振り向く。垂れ下がってくる前髪を払うように、手で目の辺りを払いながら。
「私ね、神谷君の気持ち全部理解してあげられないけど、でも、私神谷君と一緒にいたいの。神谷君が困ってること助けてあげられないけど、私は神谷君のそばにいるから!」
 彼は驚いた顔をして、少し呆れた顔をした。
「君は、いつも強引だね」
 私は彼に駆け寄って抱き付いた。彼は、そんな私を抱き締めてくれた。

 ――ほんの一瞬だけ。
 彼の腕が私の背中に回るか回らないかしたとき、彼は私を突き飛ばした。突き飛ばしたというより、彼は私を突き放すようにして後退ったのだ。よろけた私は呆然と彼を見た。
 彼は、耳を両手で押さえて、脂汗をかいて、ぶつぶつ呟いている。何を言っているか良く聞こえない。彼は私の方を見もせず、無我夢中といった体で駆け出した。
 すぐに、その背中は見えなくなった。

 思うに、あのとき彼には見えていたのだ。彼を襲う、無数の文字。聞こえてくる生活音や物音の文字とは比較にならない量の、羽虫のような文字の群れ。
 それは、抱き締めることによって直に肌に感じた私の鼓動や、呼吸音や、筋肉や骨の軋む音、内臓の運動音、その他人間が生きていくために不可欠な身体の働きの音だった。彼が、その身体の内に当然のように持ちながらも、当たり前すぎて、意識しないその音。
 それがいっぺんに彼に纏わりついてきたのだ。恐ろしかったに違いない。だから、彼は耳を塞いだのだろう。払うくらいではどうしようもなかったのだ。
 あれ以来、彼を教室で見かけなくなった。しばらくのうちは、根も葉もない、無責任な突拍子もないような噂がもっともらしく囁かれていたが、それも最近は聞かない。

スポンサーサイト

第七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


勘違い

 それは昼下がりのことだった。チャイムの音に起こされて、寝巻き、寝癖のまま寝ぼけ眼でドアを開くと、そこには歓迎したくない類の客がふたり、立っていた。
「菱崎律さんですね?」
 男は、良くドラマで見かけるそれらを、俺に良く見えるように掲げ。
 俺の答えを聞きもせず、男は言った。
「菱崎律さん、貴方に逮捕状が出ています。よって、御同行をお願いします」

「……はっ」
 それに対して俺の口から出たのは、引きつった笑いめいたものだった。笑い飛ばそうとして、それに失敗して奇妙に歪んだ俺の声。
「おまわりさん、俺が一体何したって言うんだ? おたくらに捕まるような後ろ暗いこと、した覚えが無いな。もし俺を連れて行きたいなら、ちゃんとそこのところ説明してもらえる?」
 精一杯の強がり。けれど、それは本音だった。俺が一体何をした? 警察のご厄介になるような犯罪に手を染めた記憶は、ない。
「そうでしょう。特に菱崎さんのようなケースではその疑問も当然と思い、ご説明する準備をしてきました。上がっても良いでしょうか?」
 当然のように男は頷いて、そう言った。正直俺は拍子抜けして、「どうぞ」と招き入れてしまう。男は、「有難う御座います」と馬鹿丁寧に言って、後ろに控えていたもう一人を伴って俺の部屋に上がり込んできた。

 雑然とした、いつも通りの俺の部屋。いつもより人が増えて、窮屈に見えた。どうにか床の上のものを退かして男ふたりを座らせ、茶を出した。俺は、一体何をしているんだろうと、自問自答しながら。
「それでは菱崎さん、貴方に逮捕状が出た理由をお話しましょう。私の話の途中でも、何か質問があれば遠慮なく仰って下さい」
「はぁ……」
 男は高圧的になるでもなく、畳み掛けてくるでもなく、逆に丁寧すぎるほどに俺に接してくる。まるで役所の窓口のようだ。
 「では」、と男が話を始めた。

 つい最近の話ですが、年々増加の一途をたどる犯罪件数を減らすための試みが、秘密裏に行われ始めたのです。
 その試みとは、ある方法を使って、ある人間が死んでしまえば良いと思っているその相手が本当に死んでしまうようなシステムを作り上げ、潜在犯罪者をあぶりだせるようにしたのです。
「ちょっと待ってくれ、ある方法とか、システムとか、適当なこと言ってるとしか思えないんだけど? 嘘じゃないの?」
 機密により、詳しいことは申し上げられません。しかし、実際にそのシステムは稼動しているのです。信じて下さい。……いえ、今は信じなくても構いません。とりあえず、私の話を聞いて下さい。
「ますます嘘くさいな……まあ、ひとまず聞くよ」
 有難う御座います。……そのシステムをいずれは一般的に展開するために、試験が行われました。
 まずは、刑務所等の、システムが正常に展開しやすいと思われる、閉鎖空間で。そこでは正常にシステムが動作するのが確認されたので、次に一般社会での試験が実施されました。
 無作為に選ばれた人々にシステムを適応させ、試験を行ったのです。
 ……そして、菱崎さん、貴方はその中の一人。そして貴方は無意識とは言え、人をひとり、殺しました。ですから、こうして参上したという訳です。
 「おい、そんなことをして良いと思ってるのか? その事実の因果関係に確証はあるのか? 俺が死ねば良いと思ったから死んだ? ……そんな馬鹿な話があるか!」
 落ち着いて下さい。これは、確かな理論あってのシステムです。私はその原理を詳しくご説明することはできませんが、貴方が望めば公開される情報です。
 話を戻します。菱崎さん、貴方が殺したのは、貴方の職場の同僚である、沼上貴司さんです。
 「沼上………を? 俺が? ……冗談だろう?」
 いいえ。こんな悪質な冗談を言うと思いますか? ……確認して御覧なさい。

 その男の言うことは、信じがたい話だった。全く、馬鹿げている。俺が死んでしまえと思ったら、死んだ? ……冗談じゃない。そんなことで逮捕だなんて、ブラックジョークが過ぎる。
 藪から棒のとんでもない容疑を振り払うように、沼上のケータイに電話をかける。……曰く、「現在、この電話は使われておりません」だと?
 微かな焦りを感じた自分に、体の中を冷たいものが滑っていくような感覚が走る。それを振り払って、割合親しくしている同僚に電話をかける。そいつはすぐに出た。
「もしもし。俺だけど」
「菱崎か、どうした?」
「沼上、今どうしてるか知ってるか?」
 そう問いかけて、振り払ったはずの焦りが込み上げてくるのを感じ、ぐっと手を握り締めた。
「沼上?」
 相手の声がふっと曇った。途端に心臓の鼓動が跳ね上がる。落ち着け、と唾を飲み込んだ。
「お前、沼上と仲悪かったんじゃなかったか?」
 いちいちそんなことを確認してくるなよ! そんなことは良いだろ?
 体が冷たくなる感覚に襲われる。ケータイを握った手が汗でぬるつく。
「沼上にさ、書類の手直し頼んでてさ。出来たかってメール入れたのに、うんともすんとも返事が無いからさ。電話には出ないし、問い詰めたいんだけどさ、知らねえ?」
 早く言え! 沼上はどうなった? 俺はどうなる?
 声が震える。
「……お前、知らないのか。沼上ならな」
 言え! 言え! 早く言ってくれ! 俺をこんな変な状況から解放してくれ!
「死んだよ」

 大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ、お茶飲みますか? ……そうですか、まあ、落ち着いて。
 確認できたようですね。私が申し上げた通り、貴方の同僚の沼上貴司さんは死亡しました。死因は交通事故、ということになっています。
 このシステムが適応されると、他人から死んでしまえば良いのにと強く願われた人物は、その時点で不自然でないような死を迎えます。そのとき、被害者の首筋にあざが浮かび上がり、これが加害者の認識番号になります。
 ……お分かりですね? 死亡した沼上さんの首筋には、貴方の認識番号のあざが浮かんでいました。

 俺は、男の差し出した俺の認識番号の記された書類(見た目は単なる履歴書だ)と、首もとがアップになりくっきりと数字列に読めるあざが見える写真(沼上の首だろう)を見せられ、ただ呆然としていた。
 偽造書類、やらせ写真、グルの発言。そうした単語はぐるぐると頭の中に渦巻いていたが、何故かもう俺は逃げられないと思っていた。
 いちゃもんは付けようと思えばいくらでも付けられるだろう、未だにリアリティの無いうそくさい話だと思う。けれど、俺は抵抗する気が起きなかったのだ。
 ……沼上など死んでしまえ、と思っていたのは嘘ではなかったからだろうか。
 何かと気の障る男だった。相性が合わない、だけでは済まされないものがそこにあった気がした。それは相手も感じていたらしく、関わってこなかった。けれど、奴がそこにいるだけでいらいらした。
 子供でもあるまいし、それだけのことで死んでしまえと願うのは幼稚な願いだろうか。けれど、俺はどうしても耐えられなかったのだ。
 ……ただ。

「誰かを死んでしまえと思うほど憎むのは、誰しもある感情だろ? 普通にあることだろう? なのに何故俺だけは捕まるんだ?」
 俺は、うつむきながら言った。
「あんただって、覚えがあるはずだ。無いとは言わせない」
 何故俺だけが。何故内心で望んでいるだけで。
「他人を嫌うのは自由だろう? 好き嫌いは周りに強制しない限り、自分の心の中で思っている限り、感じるのは自由だろう? なのに何故俺は捕まるんだ?」
 何故。
「思っているだけで、望んでいるだけで人が死ぬようになるのなら、誰だって人殺しだ!」
 叫ぶ俺の肩に、男は静かに手を置いた。
「いいえ」
 静かに、言った。
「このシステムは、的確に目的を達成します」
 静かに。
「このシステムは、あいつなんて死んでしまえ願う人間が、いつか本当にその行動を起こす人物であるときだけ、作動するのです」
 がくり、と力が抜ける。
「いつか、人を殺す人物だけが、このシステムであぶりだせるのです。だからこその、犯罪を未然に防ぐシステムです」
 ……さあ、行きましょう。
 俺は、住み慣れた雑然とした部屋を後にした。

第七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


耳嫌いの囈言

 これから述べるのは私がもう十年も昔に出会った患者の症例である。彼は大学教授だが、聞こえすぎることが仇となり、彼の人生は一変した。他からはみ出るとどうなるのか、いい参考になると思う。
 (以下の部分は授業を当時受講していた学生の記憶をもとに再構成したものである。)
 病院の夜は静寂が支配するが、静かではない。諸君、この言葉は、初めて聞いたものには、矛盾に満ちたような言葉のように聞こえるだろう。諸君らの顔を見ればそんな風に考えていることはよくわかる。私の発言の「~ように」という部分を聞いて、あからさまに顔をしかめた者もいた。お前の言っている事は明らかに矛盾しており、「~ように」などという断定を避けるような表現を使うべきでない、と言っておるようじゃな・・・・・・何?わたしたちはそんなに細かい、重箱の隅をつつくような狭い見方をしているのではない、適当なこと言って学生を貶めるな、とな?ふむふむ、すまんすまん、わしも年をとってな、思い込みが激しくなったのじゃ。老人のたわ言だと思い、聞き流してくれたまえ。
 じゃがな、最初の言葉はたわ言ではないぞ。単なる囈言じゃ。いやいや待て、諸君。帰る支度を始めるのはまだ早いぞ。単位は欲しくないのか?わしは単位が欲しいぞ。たった一単位で博士号取りそこなったからな・・・・・・この授業の単位がなければ、諸君らは学位がとれない。さてどうする?おや聞き分けがよい子じゃの・・・・・・「単位」と言ったらすぐ戻ってきたわい。『イケてる大学教授になるには』に書いておるとおりじゃわい。
 とにかく、まずは本題に入るとしよう。ちなみに、わしの授業では私語厳禁じゃが、公語は解禁しておる。つまり積極的に自らの意見を述べてもよいということじゃ。
では最初に諸君らに質問を一つしよう。諸君らの中で病院の夜を体験したことがある学生はおるかの?おや、おらんようじゃの・・・・・・みんな健康なんじゃな。わしはあるぞ。と自慢げに言ったわしじゃったが、わしはもともと大学病院に勤務しておった医者だから当たりまえじゃな。
 そもそもわしはご存知の通り、耳鼻科医じゃった。若い頃からたびたび宿直として病院で夜を明かしておった。そのころから、わしは夜の病院は静かではないと思うようになった。昼は多くの医者や患者、見舞い客である意味にぎわっている。しかし夜は違う。急患が入ったり、入院患者に何か起きたりしない限り、基本的に音になる原因となることは基本的にはない。もちろん、生命維持装置などの機械音はする。じゃが、それは静寂を破るほどのものではない。
にぎわっている昼には聞こえなかった、否、隠されていたモノが聞こえるのじゃ。この「モノ」を言葉で表現するのは難しい。
強いて言うなれば、それは生と死の相克じゃ。病院という異質な空間が潜在的に内包している独特の空気感は、昼間は隠されている。じゃが、静かな暗い夜になると、それは生々しく顕在化する。これをわしは音として捉えているのじゃ。
ところで、諸君らは「耳」を疑ったことはあるかの?学生たるもの、自らの「耳」に対しても、研究対象として大いに疑問を感じるべきじゃ。わしなんか、年がら年中「耳」を疑っておる。老いではないと付け加えておこう。何を疑っておるのか、それは「耳」が聞き取る音ははたして真にこの世界のあらゆる音を聞き取れておるのかということじゃな。
もちろんわしはここで「人間の耳が超音波を聞き取ることはできない」という事実を言っているのではない。つまり、人間の「耳」が自らの聞き取れる範囲の波長の音であるにもかかわらず、意図的に聞き取らない、あるいは聞き取った音を自分に都合よく改変してはいないだろうかという疑問じゃ。諸君の中にも知っているものがおるかもしれないが、「目」に関してはこのような言説は一般的に言われている。だまし絵に人間の目がだまされる理由としてよく説明される。わしはそれと同じことが「耳」でも起り得るのではないかと考えておるんじゃ。
このことがどう最初の話と絡んでおるのかは学生諸君それぞれに、ぜひとも考えていただきたいことじゃ。
(略:この部分は雑談なのでカット)
ふむ、そろそろ時間じゃな。今日はこの辺りで終わりにしよう。次回は「耳」に対する疑いを裏付ける実験や何やらを紹介する予定じゃ。次回もぜ・・・・・・おやなんじゃ諸君、静粛にしなさい。騒いだらいかんぞ・・・・・・いや、これは学生の私語では・・・・・・耳が、耳が!!耳が聞こえる・・・・・・

 後日、この教授は免職され、そのまま精神病院に収監された。理由は「精神的な疲労の蓄積による幻聴とそれに起因すると思われるたわ言」だそうだ。要するに気がふれたということだ。学生たちもあの教授たちは前からおかしかったと口々に噂しあった。だが私が会った時、教授は冷静で知性は失われていないように思われた。
 入院後、教授を何度かカウンセリングする機会があったが、なかなか効果は現れず、幻聴は続いた。そんなある日、私が見舞いに行くと、教授は眠っていた。耳が怖いとしきりに呟きながら。

第七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


「し」君の悩み事

 幼児がひらがなを覚えるのに使うあいうえおポスター。その中にひらがなが暮らす、ひらがなの世界があるという。
 彼らひらがなの使命は、文字媒体として、人間の意志を伝えること。今この文章を書いている時にも彼らは活躍している。しかし、彼らだって人間に使われてばかりで不満がないわけではない。むしろ、不満を抱えてノイローゼになった者もいる。今回はそんなひらがなの話だ。
 あいうえおポスターの右から三番目、上から二番目に「し」君が住んでいた。縦棒の先を右に曲げただけという、シンプルな体型をしている。隣にいる「き」君と比べると、なんとも貧弱な体だ。「し」君はこの体そのものがコンプレックスだった。
 彼の悩みはそれだけではない。むしろ、もうひとつの悩みのせいで、彼はひどく落ち込んでいた。いつもため息ばかりついているので、「さ」さんや「す」さんに何度文句を言われたことか。「せ」君は引っ越しを考えているくらいだ。
 相変わらず今日も「し」君はため息をついていた。
「なんかすごい落ち込みようね」
 「し」君にとって聞きなれない声がした。「い」君や「か」君ならよくその声を聞いているだろう。辞書で一番はじめに登場する「あ」さんだ。あまりにも「し」君が落ち込んでいるので、どうにかできないかと、「さ」さんが相談を持ちかけたのだった。
「それで、どういう悩みなの」
「確か、人間に対して不満があるみたいよ。そうでしょ、『く』君」
 「さ」さんに話を振られて、「く」君は重い口を開いた。
「そうだよ。人間のやつめ、余計なことをしやがって。『あ』さんも人間にはむかつかないかい」
「まあね。人間ってやたらと私を使いたがるでしょ。マイクテストの時も『ああ』って言うじゃない」
「人間に人気があって結構じゃないか」
「そういう捉え方もあるわね。でもさすがに、あれは困るな。ほら、最近人間はテレビゲームっていうのをやり始めたでしょ。あれで名前を入力するとき、私を乱用するのはやめてほしいな。私が五つくらい並ぶと、なんとも味気ない印象を与えちゃうからね」
 テレビゲームをやったことがある人なら、一度くらいは名前入力で「あああああ」と手抜きをしたことがあるだろう。名前を軽率に扱うなというのは、全ひらがなの主張である。
「でも、僕が悩みはそんなものじゃないんだ」
「そんなものって、一体何に悩んでいるのよ」
 思わず強い口調で「あ」さんが詰め寄る。その態度に「し」君はたじろいだが、ようやく悩みの本筋を話し始めた。
「もとはと言えば、僕らの祖先の漢字がいけないんだ」
 漢字は五、六世紀ごろ日本に伝えられ、それが文字の使用の始まりとされている。その後の平安時代に漢字を基にしてひらがなとカタカナが作られた。ひらがなたちにとって、漢字はご先祖様にあたる。そんなご先祖様の意味や読みを伝えるのにもひらがなは活躍している。
「知っていると思うけど、漢字の中に『死』ってのがあるだろ」
「ええと、生命体がその命を失って、天に召される。そんな意味だったわよね」
 「あ」さんは「さ」さんの同意を求めた。異論はないと、「さ」さんはうなずいた。
「なんで、そんな不吉な漢字の読み方が『し』なんだよ」
 そう言うや、ひときわ大きなため息をついた。
「うーん、これは難しい問題ね」
「だって、『死』の読み方を決めたのって人間でしょ。私たちにはどうすることもできないじゃない」
 「あ」さんと「さ」さんはすっかりお手上げのようだ。まさか今更「死」の読み方を変更するわけにはいくまい。この先人間が滅びるまで、不幸な言葉を伝えなくてはならない。こんなつらい宿命があっていいのだろうか。「し」君がノイローゼになるのも分かる気がする。
 思わぬ難問に突き当たって手をこまねいている時だった。
「ほう、若いの考えごとかね」
 老人独特のしわがれ声がした。ひらがなたちの最後を飾る、長老「ん」氏である。「し」君がひどく落ち込んでいるという噂は、た行、な行、は行、ま行、や行、ら行と伝わり、ついに「ん」氏が属すわ行にまで伝わった。もの好きで知られる「ん」氏は、どれほどの落ち込みようか知ろうと、はるばるさ行までやってきたのだ。ひらがなたちの住処は人間界のマンションと酷似しているので、基本的にどのひらがなとも容易に会うことができる。ご老体には階段がきついくらいだ。
 思わぬ助っ人の登場に目を輝かせる「あ」さん。さっそく、「し」君が悩んでいることを話した。
「なるほどな。しかし、お前さん。それはわしにとっては贅沢な悩みじゃぞ」
「贅沢な悩み?」
「左様。なにせ、わしは単体ではなんの意味も表わせない」
 確かに、「ん」で表せるのは、感動詞で承諾の意味がある「うん」の代用くらいだ。
「それにしりとりも憎いのう。わしが最後についたら負けになってしまうからな」
 これは、んで始まる語がないからである。補足しておくと、んで始まる単語は広辞苑の中ではひとつだけ存在する。アフリカ中部、チャド共和国の首都である「ンジャメナ」だ。ただ、実際のしりとりでこの単語が使われることは滅多にないだろう。
「他の四十九のひらがなたちと比べると、わしは随分ひどい扱いを受けておるんじゃ。わしも若いころは悩んだものじゃった」
「まあ、長老の話には同情するよ。でも、なんか釈然としないんだよな」
 こいつは強敵じゃなと、困ったというよりウキウキしながら「ん」氏は続けた。
「そもそもお主単体で漢字の読みを表せるのが、わしにとってはうらやましいことじゃて。ほれ、『四』という漢字があるじゃろ」
「ああ、確かに僕だったら一人でも読みを表せますね」
「だろう。ところがどっこい、わしの場合は、『よ』君と組み合わさなくては、『よん』と表せないんじゃ」
「なるほど。『ん』氏だと協力しないと表せない言葉を『し』君ならひとりで表せる。素晴らしいことじゃない」
 「あ」さんに結論を言われて、「ん」氏はふてくされた。
「ともかく、お前さんも一人でくよくよせんと、たまには誰かと組み合わさったらどうじゃ」
「組み合わさるね」
 「し」君はふと「あ」さんを見た。彼女と組み合わさると「あし」になる。動物が歩行に使う「足」になったところでどうしろというのだ。「あ」さんの方も「し」君が考えていることがわかり、後ずさった。
「とりあえず、誰かいいパートナーを見つければいいじゃない」
 気まずい雰囲気を打破しようと、「さ」さんが提案した。
「パートナーか。でも、間違っても『ね』さんと組み合わさるのはごめんだよ」
 「し」と「ね」が組み合わさるとどういうことになるかはみな承知だった。この二人の仲が悪いというのも、ひらがなの世界では常識である。
「うーん、『し』君と組み合わさるか。組み合わさる。合わさる。合わせる……」
 眉間にしわを寄せていた「あ」さんだったが、ふと目を輝かせた。
「そうだわ。『し』君にぴったりのパートナーなら、あれよ、あれ」
「なんだい、あれって」
「それは見てのお楽しみ。でも彼を連れてくるなら、カタカナの世界に行く必要があるわね。ちょっと時間がかかるけど、待っていてね」
 そう言うと、「あ」さんはそそくさと出かけて行った。
 あいうえおポスターには、ひらがなだけでなく、カタカナが書かれているものがある。その場合、カタカナが住むカタカナの世界に行くことができる。家の鏡の裏がその通路になっているので、行くこと自体は楽勝だ。しかし、カタカナの世界はいわゆるミラーワールドなので、ひらがなの世界とは文化が真逆である。なので、話しを合わせるだけでもひと手間かかる。「あ」さんが時間がかかると言ったのは、交渉の時間を考慮してのことだ。
 「ん」氏たっての希望で緑茶をすすりながら待っていたところ、ようやく「あ」さんが帰ってきた。ひらがなの食生活も人間と似ているようだ。三時のおやつの時間だったのが、夕飯の時間になってしまっていた。
「なんだい、お困りですか」
 カタカナのしゃべり方は、外国人がしゃべる独特のアクセントをもった日本語と考えてよい。「あ」さんが苦労して連れてきたカタカナの世界の住人とは、「シ」さんだった。
「僕がもう一人合わさるわけ。それだと、『しし』つまりライオンの『獅子』になるけど」
「おう、レオ! かっこいいじゃないですか」
 「シ」さんの甲高い声から繰り出されるハイテンションボイスに「し」君は明らかにひいていた。「あ」さんは、咳ばらいして、「シ」さんを連れてきたわけを語った。
「確かに、『し』と『シ』が合わさると『獅子』ね。でも、普通に合わさっちゃだめなの。ちょっととんちクイズのように考えてみて」
「ええと、『し』と『シ』が合わさる。『し』が合わさる。『し』合わさる……」
「あー!」
「あ」さん以外の面子が声を張り上げた。とんちクイズの答え、それはずばり、
「幸せ」である。
「どう、あなたは人を不幸にするだけじゃない。ちょっとインチキだけど、人を幸せにすることだってできるのよ」
「こんな僕にだって人を幸せにできるなんて。そうだね、僕が落ち込んでいちゃ嫌な意味しか伝えられないや」
 字体が崩壊しそうなほど背伸びした「し」君の声に陰鬱さのかけらもなかった。
 それからと言うもの、「し」君のため息の噂は全く流れてこなくなったそうだ。

第七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


かたらずの歌

 勝浦は、ちょうど夕飯時に帰宅した。そして、食卓のテレビがミュートになっていることに怒り出した。
「湖恵がいるときは、必ず音を聞かせろと言っておいただろう」
 そう言うと、自らリモコンを取り上げて、音声をオンにした。妻の美由紀は、苦しそうに眉を寄せた。それから、傍らに置いてあるメモ帳に、ボールペンでさらさらと走り書きをする。
『ごめんなさい。聞いてるとアタマがいたくなって』
 勝浦はそれを一瞥して、「湖恵のためだ」とだけ言った。その言葉が正しく美由紀に聞き取れたはずはない。しかし夫の意味するところは十分伝わっていた。
 一人娘の湖恵は、父親が母親に冷たくするのをこわごわと見ていた。そして六歳にしては大人らしい気遣いで、「お父さん、今日の肉じゃが、おいしいよ」と明瞭な発音で声をかけた。それを聞くと、勝浦もつい微笑んで、「それはいいな。さっそくいただこう」と答えるのだった。

 勝浦は、俗に「絶対五十音感」と呼ばれる能力を持っていた。これは、ほんの数十年前までは、日本人のほとんどが当たり前に持っている力だった。その頃は、人が声で会話をするのが普通だったのだ。
 絶対五十音感とは、「あ」という音を聞いて、それを「あ」だと認識できる感覚だ。「あひる」を「あひる」と聞き取れるから、人はそれを聞いてあひるを想起することができる。
 しかし、あるときから、それができない者が急増した。聴覚に障害があるわけではない。音楽を楽しむこともできる。しかし、言葉を聞き取れないのだ。「あ」を聞いても、何か意味のわからない音としか感じられず、それが「あ」に該当するということがわからない。聞き取れなければ、いきおい喋れなくなる。それまで行われてきた通常の会話は、成立しなくなってしまった。
 原因は不明だったが、この症状は瞬く間に日本中に広がった。現在では、成人の中で絶対五十音感を持つ者は、全体の一割弱に過ぎなかった。

 字幕付きのクイズ番組をテレビで流しながら――最近は、ほとんど全ての番組に字幕が出るようになっていた――、勝浦を交えての夕食は進んだ。湖恵は時折食べるのをおろそかにしてテレビに熱中するが、勝浦はそれをあまり注意しない。テレビから流れる声は、はっきりした発音のものが多いので、湖恵にはなるべく聞かせるようにしていた。 
 コマーシャルに入ったところで、湖恵は勝浦に話しかけた。
「あのね、今度の土曜日、合唱団の発表会があるの。お父さん、来られる?」
 湖恵は今年から地区の児童合唱団に所属しているのだ。美由紀に相談をもちかけられたとき、勝浦は喜んで賛成した。合唱となれば当然、歌詞を発音できる、絶対五十音感を持つ子供達が集まると思ったからだ。
 そもそも未就学児の場合は、半数が絶対五十音感を持っていると言われている。ただし近年は、両親とも会話が不自由という家庭も多く、その割合は減ってきている。
美由紀は結婚後に五十音感を失った。そのとき勝浦は、自分の子供の音感だけは何としても守りたいと決めた。湖恵という名前も、声にちなんでつけたものだ。
「土曜日か。午後からか?」
「うん、お昼ちょうど」
「そうか。たぶん大丈夫だろう。母さんと一緒に行くよ」
 美由紀が曖昧に微笑んでいるので、勝浦はペンをとって『土曜、合唱』と書いてやった。美由紀は嬉しそうに肯いた。そのときに、おそらく「はい」という意味だろう、意味の通じない唸るような声を発した。勝浦は、妻が傷付くとわかっていながらも、顔をしかめずにはいられなかった。
 合唱団は、音楽としての音感もそうだが、言葉の音感も鍛えられる、理想的な環境だ。その発表会に登場する娘の姿を想像して、勝浦は誇らしい気持ちになった。

 金曜日、勝浦は翌日に仕事を持ち越さないため、業務の処理に追われた。あるメーカーの営業部で働く勝浦は、部内で常に上位の成績をあげていた。取引などの際、双方とも口頭での会話ができれば、筆談などに比べてやり取りが早い。そのため、勝浦のように絶対五十音感のある者は重宝されているのだった。
「勝浦君、手があいたら、ちょっと」
 夕方近くになって、勝浦は上司に呼ばれた。この上司も、絶対五十音感を持っている人物ではあったが、最近は年齢のせいか口の動きがやや覚束なくなっている、と勝浦は気付いていた。
 書類を整理してから、上司の席に向かう。そこで告げられたのは、勝浦を喜ばせる内容だった。ユーザ対応部門のリーダー職をやらないかと打診されたのだ。勝浦は、ぜひ引き受けるつもりだった。
「ただ、条件があってね。いや、そう難しいことじゃないんだが」
「何でしょう」
「うん。君にはね、手話を勉強してもらいたいんだ」
 さっと勝浦の表情が曇った。
「もうね、五十音感のないお客様の方が、ずっと多いんだよ。ユーザ対応の責任者が、手話をできないというのでは困るからね」
「お言葉ですが、筆談をすればいいのではないですか。手話では、細かい数字や仕様などの説明が不正確になります」
「確かに、正式な契約の際などは文書を使って説明することになるさ。しかしね、円滑なコミュニケーションをするとなると、手話の方が適当なんだよ」
「私は手話を学ぶつもりはありません」
「今は、仕事だけじゃなく、どこでも手話ができた方が便利なことが多いだろう? 君よりもう少し下の世代だと、音感があるないに関わらず、誰でも手話ができるじゃないか」
 学校で手話を教えることが必修になったというニュースは、ずいぶん前に広まった。勝浦はそれを聞いたとき、絶対五十音感のある者にとっては非常に屈辱的なことだと思った。
「うちの社でもまもなく、管理職には手話の習得が義務化されるよ。遅すぎるくらいだ。君の優秀さは十分理解している。だからこそ、この機会に手話をやってほしいんだよ。スキルアップだと思って、な」
 ぽん、と肩を叩かれた。勝浦は、身体が震えそうになるのを抑えて、「考えてみます」と短く答えた。
 席に戻って、動揺を鎮めようと、缶コーヒーをぐっと飲み乾した。ちょうど終業のベルが鳴った。そこに、同じ課の小嶋がやって来た。小嶋は勝浦の二年後輩で、五十音感のない男だった。にこにこと勝浦に近付いてくると、短い文章を記したメモ用紙を示した。
『ムスメさん、あすの合唱会にでるんですよね?』
 勝浦は、怪訝な表情をすることで返事に代えた。小嶋は笑顔のままメモに書き足す。
『実は、うちのムスメもメンバーなんです』
 勝浦は驚いた。小嶋の家は、妻も娘も会話ができないと聞いたことがあったからだ。勝浦は、小嶋のメモを借りて、率直にそれを問うた。小嶋は素早く、しかし読みやすい字で答えた。
『五十音かんがなくても、合唱はできるんですよ。そんな子が、たくさんいます』
 勝浦はメモ用紙を穴の空くほど見つめた。自分の頬が紅潮していくのがわかった。

 その夜、湖恵が眠ってから、勝浦は美由紀を怒鳴りつけた。
『だってあなた』
 美由紀は涙目になってペンを走らせた。
『そういったら、コエを合しょう団にいれてくれなかったでしょう』
 ひらがなの多いカタカナ交じりの文が、勝浦をますます苛立たせた。勝浦は美由紀の手をなぎ払うようにペンを取り上げた。
「声で喋れ! 声で喋れ!」
 美由紀は頭を抱えてソファにうずくまった。勝浦は追い打ちをかけようと口を開き、そのまま固まった。
 ――声が出てこない。
 言おうとする言葉は頭の中にある。しかし、その音がわからない。どのくらい口を開ければいい? どんな風に喉を震わせればいい? どのように、舌を――
 恐怖が物凄い勢いで勝浦の背筋をなぞり上げた。泣きじゃくる美由紀を見下ろしたまま、勝浦は呆然と立ち尽くした。

 合唱会に出席するつもりは、勝浦にはなかった。湖恵に合唱団をやめさせることまで考えていた。しかし、何も知らない湖恵が、緊張と興奮のためか、そわそわと朝食を食べているのを見ると、勝浦には何も言い出せなかった。結局、彼は午前の内にコンビニへ行き、耳栓を買ってきた。
 昼少し前に、三人は揃って家を出た。会場は市民会館の小ホールで、合唱会は一時間程度だということだった。プログラムによれば、年少者から歌い始めるということで、湖恵の出番は最初だった。『サイゴの全体合しょうもでるのよ』と美由紀は勝浦に教えた。
 ホールの中ほどに席をとり、二人は開演を待った。正午になると、まず指導者の女性が壇上に現れ、手話交じりで挨拶をした。それからプログラムに入り、湖恵を含む年少のグループが、指導者のピアノ伴奏に合わせて、童謡を二曲歌った。音程はたどたどしいところもあったが、皆がきれいな発音をしていたので、勝浦は満足だった。湖恵が礼をすると、惜しみなく拍手を送った。
 次いで、五十音感の不自由な子供達が壇上に上がった。勝浦は耳栓を取り出して装着した。それに気付いた美由紀は、一瞬夫を咎めようとする素振りを見せたが、呆れたようにため息をついて、そのまま座り直した。勝浦は、何か自分が非常な悪者であるように感じた。
 そのとき、美由紀が勝浦の肘をつついた。促されてホールの後ろを見ると、そっとドアを開けて入ってくる小嶋とその妻の姿が見えた。小嶋は勝浦の姿に気付き、会釈しながら勝浦達の隣の席にやって来た。勝浦は反射的に耳栓を取ってしまった。
 小嶋が腰掛けてすぐ、ピアノ伴奏が始まった。勝浦はそのまま聞いているしかなかった。易しい旋律だったが、子供達は歌詞の言葉を歌えない。本当ならラララとでも歌わせたかったのだろう、と勝浦は想像した。しかしそれもままならず、十人くらいの子供達が発する音はばらばらだった。音程は正確だったのだが、勝浦にはそれも合っていないように聞こえた。
 美由紀が薄暗い中でメモ帳に何か書き、勝浦に見せた。読み取ると、「前レツ右から三人目、コジマさんとこのハルミちゃん」とあった。人一倍大きな口を開けて歌っている子だった。
小嶋の動く気配がした。勝浦が何かと思って見ると、彼は指で何か妻に言葉を送っていた。手話と言うのか、それとも指文字と言った方が正しいのか、勝浦にはよくわからない。とにかく、それを見た彼の妻は微笑んだ。ステージを見る二人の表情は柔らかかった。
勝浦は逆を向いた。驚いたことに、美由紀の表情も優しげだった。湖恵の歌を聞いているときと同じようだった。自分には不快とすら感じられる歌の、何が彼らを感動させているのか、勝浦にはわからなかった。勝浦は戸惑った。
前夜のことがあって以降は、勝浦は自分の発音や聞き取りに問題を感じていない。しかし、あのときの恐怖は消えなかった。自分が不安定だと思う歌声を聞いていると、自らの足場までもが揺らいでいるような気になってくるのだった。
 プログラムが進む間、勝浦はなるべく歌を聞き流すようにしていた。すると、五十音感がない子供の歌に限らず、ほとんど何も印象に残らなかった。勝浦はそのむなしさを振り払うように、湖恵の出演する最後の全体合唱に向けて背筋を伸ばした。
それが始まろうとしたとき、勝浦ははっとした。湖恵が、小嶋の娘と手をつないで壇上に現れた。考えれば当然のことなのだが、最後は五十音感のある者もない者も一緒に歌うのだ。
「俺は……聞かないぞ」
 独り言のように呟いたが、その言葉は美由紀にも小嶋にも届かなかった。勝浦は耳栓をしなかった。せめて湖恵だけに集中しようと思った。
 百人近い子供達が、ステージに並んだ。ピアノ伴奏が始まる。古い歌だ。「翼をください」。
 歌い出しがはっきりした言葉で聞こえてきたので、勝浦は安心した。上級生達に交じって歌う湖恵が立派に見えた。しかし二フレーズ目は五十音感の不自由な子供達が歌った。そしてサビの部分は、本当に全員で歌い出した。
 勝浦は、不協和音に耐えようとした。ところが、ふっと音のまとまりが聞こえた気がした。勝浦は注意深く聞いた。これまでの不快な感じが薄れたように思った。自分の耳がおかしくなったのかと疑った。
 二番に入ってからも、全員が歌い続けた。勝浦は不思議な感覚を覚えながらそれを聞いた。少なくとも、美由紀や小嶋が知っていて、勝浦の知らなかった何かがあることは感ぜられた。
 最後に、サビをリピートして曲は終わるはずだった。一回目のサビの後、ピアノの調子が静かでゆっくりしたものに変わった。勝浦は、はっと胸を突かれた。最初は、子供達がダンスを始めたのかと思った。違う。
 手話だ。
 百人の子供達が、同時に手を大きく広げた。一拍おいて、勝浦はもう一つの異様さに気付いた。
 子供達は歌っていないのだ。口は動かしているが、誰も声を出していない。ただ、手だけが歌そのもののように揺らめいた。
 鳥のように手をはばたかせる。祈るように手を組む。勝浦は湖恵だけを見てはいなかった。壇上と、客席までを含めた全体の中に、自分がいることを感じた。
 終わりに、百の手が一斉に空を指差した。拍手が沸き起こった。美由紀も小嶋夫妻も、一所懸命手を叩いた。そして勝浦も、周りの誰にも負けないくらい熱心に、最後まで手を叩き続けた。

※手話に関しては、WEBサイト「手話☆わ~るど」
(http://homepage3.nifty.com/shuwa-world/ 2008.6.13参照)
を参考にしました。

第七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


Chord in C minor

(待ってる)
(まだ、待ってる)

軽音楽部。
と、大きく書かれたその扉を、一応ノックしてから、ためらいながら開けてみた。
「……失礼しまっす」
鍵がかかってないってことは誰か部員がいるってことで、俺は中を見回した。
一人、女の先輩がいた。多分、先輩だと思うその人は、ちょうど俺に背を向ける形で何かごそごそやっていた。掃除か? 俺に気付いた様子はない。そこで、声をかけた。
「あのー、」
女の先輩は部室の入口で立ち尽くしている俺を無視したままだ。あれ、いいのかな。ま、新入部員大歓迎って書いてあるし、いいか。俺は中に入る。
肩でも叩いて振り向いてもらおうかなまさか無視されてないよなとか考えていた矢先、彼女もさすがに気配で気付いたのか素早く振り返る。後ろに俺が立っていたのを本当に今、気付いたらしい、驚きとも怯えともいえるような顔を一瞬向けて、で、俺の顔をじっと見る。
「や、すみません、俺」
勝手に入ったのはやっぱ不味かったかな?
「新入生の、羽沢彼方っていいます」
挨拶とお詫びを兼ねて頭を下げた。
彼女は口を軽く開けて俺を見て、それから、ウォークマンのイヤホンを耳から外した。
「あ、……」
だから気付かなかったのか。肩まで伸びた髪に隠れて、イヤホンが見えなかった。外したイヤホンからは、確かに小さく音が漏れ聞こえてくる。
彼女はさっと紙とボールペンを出してきた。何か書けって言うのかな? なんて予想はあっさり外れ、彼女はそれに何か書いて俺に見せた。
新入部員?
そう、雑っぽい割に整った字で書かれていた。
「え、いや……一応、入部希望っす」
ごめんなさい。今、まだ部員の人が来てないから。
「部員じゃないんすか?」彼女は首を振った。
その割に、普通に部室にいるから、引退した先輩なのかもしれない。
ちょっと待ってて、そのうち来るはず。
「はあ……」
俺は戸惑いつつも、勧められたパイプ椅子に座った。
ううむ、この戸惑いは入部希望で来てみたら部員がいなかった戸惑いというより、いきなり筆談で会話された戸惑いだ。
そんな俺を見ていた先輩は、自分の喉を指差し、その指でさっきの紙を指差した。
声が出ません、と。
声で言われるより、雄弁だった。

(待ってる)
(待ってる、懐かしい音)

何というか、俺は手持ちぶさたに周りを見回す。そこは軽音楽部の部室らしく、楽器やアンプ、延長コードなんかが雑然と置いてある。壁には色が褪せて青っぽくなったポスターや、部のライヴの写真が張ってあった。
キョロキョロしていると、先輩と目が合う。先輩は片方だけイヤホンをしながら、筆談でまた俺に尋ねた。
何の楽器をやってみたい?
「そうっすね……ギター、やってみたいです」
楽器に触ったこともないのにギターやってみたいなんて照れた。しかも先輩は俺の目を真っ直ぐ見ながら訊いてくる。
先輩は笑って自分を指差す。
私も、ギター。
……ってとこかな?
「難しいですか、やっぱ」
先輩は少し考えるようにしてそれから、ちょっと待って、と楽器ケースを持ってきた。
「や、そんないいですよ」
一応遠慮したのに、先輩はお構いなしにギターを出して俺に持たせる。ブラックにラメの入ったボディ。持たされてしまえば、ギターの艶が眩しいくらいでカッコよくて、遠慮なしに持ってしまう。……いいじゃん。
「いいんすか、これ」
先輩は今度はギターを指差し、自分を指差す。
私のだから大丈夫。
声にしなくても筆談しなくても、案外伝わる。
しかしやっぱカッコいいな。音とか出せないかなあ。弦を弾けばいいんだろうけど、しかしすると右手だけで楽器を支えるのか?
俺が初ギターを危なっかしく持つ様子に、先輩はこうだ、と言うように俺の手を動かす。文字にして説明するのはじれったいというように、俺の手を直接、ギターの正しい持ち方の位置になる場所に。それからストラップを、両手の塞がった俺の代わりに首にかけてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
先輩は俺の顔を見て、それでいいと頷いた。表情で話すからか、先輩は俺の顔を真っ直ぐ見てくる。
しかも距離は離れていない。
さ、弾いてみて。
何で照れるのか分からないまま、ジェスチャーで示されたように、ゆっくりと手を弦の上で動かす。響いた余韻が和音を作った。気恥ずかしくなり、俺はついにやけてしまう。
最初は難しいと思うだろうけど、練習すれば必ず弾けるようになるから大丈夫。楽器ってそんなものだから。
そう書いて見せてくれた。声で話すより伝えるのに手間がかかるからか、その言葉は、悪くない感じに、嬉しかった。
俺はギターを先輩に返した。先輩は手慣れた様子でギターを構えて弦を押さえ、いくつか和音を弾いた。
いい音だった。俺のより澄んだ、少し寂しげな和音。
自分のギター買うくらいなんだから、巧いんだろうな。
ギターに触らせてもらって気が弾んでいた。だから、つい馴れ馴れしく、俺は言ってしまった。
「先輩、何か弾いてもらっていいですか?」

(待ってる)
(待ってる、のに)

先輩は黙って俺を見た。対する返答はイエスでもノーでもなく、俺に突きつけるようにして見せた紙。
このギター、よければ使って?
先輩は俺にそう言っていた。
「え、でもこれ、先輩の私物ですよね?」
頷く先輩。
けれど、楽器がどれだけ値が張るかくらい俺にも分かっている。いや、具体的には分からないけど高いんだということは分かる。
先輩は自分を指差して首を振る。
無理なんだ、と。
俺はあまりの事に、困ってしまう。
でも、何で?
何も言えない俺を、先輩はじっと見ていた。
お互い黙ったまま、空気が止まる。
何か言わなければ。そう思っても、その目があまりに真っ直ぐで、声が出ない。
「あれ、律子、と誰?」
――空気を動かしたのは、外からの声だった。
扉のところに女子が一人立っていた。
「あ、あー、遅くなってごめん。律子一人に新入生任せちゃった……あ、私、部長の塚田ね、」
言いながら入ってきた。と、同時に律子先輩、そういえば名前知らなかったんだよな……はギターを置いて荷物を持って立ち上がった。
「あ、あの……」
律子先輩は俺と塚田先輩に軽く会釈して、部室を出ていく。塚田先輩は手を振って見送り、俺は慌てて、
「ありがとうございます!」
その後ろ姿に、お礼を言った。

(待ってる)
(まだ、待ってる)
(でも)

「ごめんね、私は塚田、軽音楽部の部長をやってます!」
「それはさっき聞きました……」
「えーと、羽沢くん? はギター志望かな。ギター少ないから多分今ならすぐやれるよ。律子のギター弾かせてもらってたの?」
「はい……」
弾かせて、貰ってしまった。本当にいいのかどうか、よく分からない。さっきはとっさにお礼を言ったけれど……せめて、塚田先輩に訊いてみようか。
「あの、このギター」
「そのギター、格好いいよね。私も律子とお揃いで買ったんだよ」
ほら、と塚田先輩は壁の写真を一枚指す。ライヴの写真、暗くて見にくいが先輩たちが写っている。真ん中のスタンドマイクで歌っているのが塚田先輩、その右でこのギターを持って立っているのが律子先輩だ。
「私が赤で、律子が黒。律子が、ボーカルのが目立つのがいいって言ってこの組み合わせでねー。私全然そんなこと考えてなかったんだけど。懐かしいなあ」
塚田先輩は楽しそうに、寂しそうに言う。
そんな話を聞けば尚更、俺はこのギターを貰えない。持っていればいいのに。
「……音楽、やめなくてもいいのに」
「ん?」
「律子先輩、音楽が好きなら、やめなくていいのに」
確かに声は出なくても。
律子先輩は引退した先輩なのだと思っていたけど、話を聞けばそうじゃないことくらい俺にも分かる。
続けられないと、部を辞めた。
「ギターだって、好きなら」
「楽器は弾いてこそ楽器だよ。律子はギターが好きだからそれをあげたんだよ、貰えばいいよ」
それでも、先輩はあんなに音楽を聴いていた。
本当は続けたいんじゃ、ないんだろうか。
「もちろん、律子の代わりに弾く必要はないよ。羽沢君が、ギターを弾くだけだよ。でも、律子はもう――――」

え?

俺は、もう一度、壁の写真を見た。

(待ってる)
(待ってる、懐かしい音)
(音を待ってる)

走って走って、ようやく間に合った。
「律子先輩!」
後ろから呼び掛けた。先輩は振り向かない。俺は、先輩の手首を掴んだ。
一瞬凍りついたような顔で先輩が振り向く。驚かせて、むしろ怯えませてしまったことに、考えが足りなかったと後悔した。
先輩、さっきはすみませんでした。
俺が紙に書いて見せた文字。
先輩は俺の目を見て、首を振る。

律子先輩は、ボーカルじゃない。
声が出ないからといって、辞める必要はない。ギターを捨てる必要はない。

本当に、あのギターはもらってくれていいんだよ。
律子先輩はそう言った。

先輩は俺と話す時はいつも俺の顔を見ていた。
イヤホンから音が聞こえる程の音量で、音楽を聞き続けた。
『だって律子先輩、普通に俺の話聞いてましたよ? 音楽だって、聴いてて……』
『唇の動きを読めるんだよ。あのウォークマンは……音が聞こえてるっていう主張。そして、他の音が聞こえなかったのはそのせいだって言うための』


律子はもう、耳が聞こえないんだよ。
だから俺は、伝わらなかった言葉を伝えようと走った。
ありがとうございました。紙に書いて、見せた。
先輩は笑った。俺が差し出したくしゃくしゃの小さなメモを見て笑った。

(待ってた)
(懐かしい音が聞こえてくるのを)
(静かな世界に、音が聞こえてくるのを)
(だから音をいつも待っていた)
(でも本当は、いつも音は流れているのだから)
(だから、君が歌えばいい)

その笑みは、何故か深く、悪戯げな笑みになって。先輩は自分のイヤホンを片方外した。俺の耳にゆっくりと近付けた。
綺麗で、どこか寂しげな、これは多分洋楽だ。
先輩は少し、俺に問うように首を傾げる。
言葉にしなくても、その意味は分かった。

――この音が、聞こえますか?

第七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


| TOP |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。