さらし文学賞
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水槽は砕けない

「ちょいとそこ行くお兄さん、見ていかない?」
 俺のよく使うとある駅の前。怪しげなティアラと口元を隠す薄布という占い師のような出で立ちの女を爽やかに無視し、俺は帰宅の途についた。
「あー、コラコラ! こんな美人の声を無視するなあ!」
 顔は目元しか見えず、体つきは無闇にぶかぶかなローブで分からない自称美人は俺の手を無理やり引っ張って、彼女が多分無許可で陣取るスペース、机越しに向き合う位置に俺を座らせた。
「来るべき旧人類終末の日。新たな人類として主に召されるためには主のたまいし聖具を携えるしかありません。人並みならぬ気をお持ちの貴方になら、私が持つ聖具を破格にてお譲りしましょう」
 無駄に厳かに言った女は、微妙に古くさい壺を取り出した。
「いや、俺は召されたくないし。いざとなったら諸共に旧人類ってのと滅びることにするよ」
 じゃあな! とここ一月で一番爽やかな笑顔を浮かべた俺は席を立ったはずが気付くと戻されていた。催眠術なんてチャチなものじゃなく、机の下から超スピードの足払いをされたようだ。
「あんたなぁ」
 一言文句を言ってやろうとした俺を制すると、女はティアラと口元の布とを外し、ローブを脱ぎながら言った。
「さあさあお立ち合い! ここに見えますは一見なんの変哲もない水槽、しかしてその実態は伝説の金属オリハルコンをガラスに練り込んだ特注の水槽なのさ! どう、欲しくなった? 欲しくなったっしょ!?」 さっきまでの衣装は壺と共にいずこへか仕舞われ、えらく気さくになったツナギ姿の女はいけしゃあしゃあとどこぞから引っ張り出した水槽なんぞを勧めてくる。
「旧人類終末の日はどうした。それに聖具とかいうのは?」
 女は何それわっかんなーいとか嘯きながら首を傾げた。
「そんな怪しい宗教みたいなの、今さら流行りませんよう。今のブームは癒し! ヒーリング! ケア! 要介護認定!」
 最後のは流行ってほしくない。
「こう、ゆらゆら泳ぐアロワナを見てれば、下らない悩みなんて井の中の蛙、みたいな?」
「なんでアロワナ限定なんだ……大体アロワナには小さすぎるし、この水槽。エンゼルフィッシュとかグッピーとかネオンテトラとか、そういうご家庭で飼うのに常識的な小型のしか飼えないよ」
 学校にあるような一般的机から多少はみ出す程度のサイズではそこら辺が関の山だろう。
「おお、お兄さん詳しいねえ! You、この水槽で熱帯魚飼っちゃいなyo!」
「いや、俺一人暮らしで普段世話できないし」
 言ったあと、このチョイスはまずったなと気付いたが後悔後の祭り、もとい先に立たずというやつで、ツナギ女は目をキラキラさせながら詰め寄ってくる。
「ちょうどいいじゃん! 魚の世話なんて犬猫ほど手間じゃないし、一人暮らしの寂しさを魚達がHealing! しかもこの水槽ったら、神秘のオリハルコンパワーでこんなに丈夫!」
 流行らない宗教的言葉を混ぜつつのべつまくなくまくし立てたツナギ女は、どこから取り出したかはもう突っ込むまい木槌を思い切りよく水槽に叩き付けた。がきん、と音を立てて弾け飛ぶ、木槌。
「うそ、ホントに割れなかった」
 水槽が割れなかったことに驚いた女。水槽が割れない確信なく暴挙に走ったツナギに驚いた俺。我に帰ったのは僅かにツナギ女が先で、それが明暗を分けた。
「今ならこの割れない水槽がなんとたった一万円!」
「買った!」
「売った!」
 するりと万券は俺の財布からツナギ女の手に流れていった。
「ついでに怪しげな壺も買っちゃいなよ!」
「いや、それはないから」
 壺どころか、水槽を買ったことを若干後悔し始めてどうにか今から値切れないかと考えているところだ。
「ああ、君達。この辺りで霊感商法が行われているという通報があったのだが、何か知らないかね?」
 微妙に偉そうな警官登場。微妙に表情が固くなるツナギ女。
「全然知りませーん」
 よく言う。
「そうかね。ところで、ここで店を開くような申請は出ていないようだが、何を?」
 いやぁ、怪しまれているねぇ。不審者を見る目だ。
「うん? この机、近くの小学校で盗難届が出された机に似ているな。ちょっと署まで来てくれるかな?」
「お断りしますっ!」
 水槽も載っている机をまるごとなぎ倒し、ツナギ女が駆け出す。見たところ手ぶらだが、壺も衣装もここに残されていない辺り、どうにかして持っているらしい。机をぶつけられて怯んだ警官は体勢を立て直して走り出した。俺はどうしたものかと思ったが、ツナギ女が置いていったらしい荷造り紐があったので工作開始。それも終わってすっかり暇になった頃、息咳切らした警官が帰ってきた。
「さ、先程まであの女といたようだが、な、何か被害に遭っていないか? いや、あの女について知っていることがあれば何でもいい、教えてくれ」
 その女に転がされたブツを背負い直しながら俺は答えた。
「いいえ、まったく。すみませんね、力になれなくて」
 感謝しやがれ、ツナギ女。


「なんでじゃあ!」
 妙な混ぜ物のせいか割と重かった背中のモノを乱雑に下ろしての無意識の第一声だった。擲つように置いたにも関わらず、未だにヒビ一つ入った様子がない無駄に頑丈な水槽。
「なんで買っちまったかなあ!」
 誰に聞かせるでもない恨み言。警察にちゃんと訴えれば金が戻ってきたかもしれないのに、そうしなかった俺。頑丈さが取り柄の水槽なんて、何の役にも立たないのに。なのに、なんでこの水槽を見てると、笑みが零れるのだろう?
「ブームは癒し、か」
 ツナギ女の言葉を思い出す。あれは水槽を売り付けるための方便だったのかもしれないが、あの妙なテンションに乗せられてみてもいいんじゃないだろうかと、ちょっと思ってしまうのだ。
「とりあえず、魚でも買いに行くか」
 軽くなってしまった財布をさらに軽くするため、俺は家を出る。もしあのツナギ女を見かけたら何て言ってやろうかなんて考えながら。
 空っぽの水槽は、癒しを与える時を今か今かと待っていた。

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第五回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


タニシ

私はタニシを飼っていた。
 いつも水槽のガラスでできた側面にへばりついている、一回り他のものより大きいタニシ。
 飼ってるといっても、もちろん餌などは勝手に藻などを食べて生きているので、眺めているだけ。
 むしろその横をすいすいと泳いでいく金魚のほうに目を奪われることのほうが多かったが、それは私のものではなかった。

 幼稚園のころだったことは覚えている。果たしてそれが何歳なのかは覚えていなかったが、幼稚園の納涼祭りで、一回百円の金魚すくいをやって、金魚を取った。
 両親に貰った三百円のうちの残り二百円は何に使ったか覚えていないが、金魚を誇らしげに見せた私を前に、両親がちょっと困った顔をしたことはおぼろげに覚えている。
 母親が優しく、どうやって飼うの? とか何とか言って、威勢よく答えていた私も、さすがにどこで飼うのかと聞かれて困ってしまった。
 ちょっとした沈黙の後、私が泣き出しそうになった時、父親が突然、ああと声を上げて言った。
「そういえば、水槽があるぞ」
 目を輝かせた私に、父親は、たぶん汚れているだろうから水槽は自分で洗うことと、ちゃんと餌をやることを約束させた。
その日の夜、私は父親がどこかから出してきた水槽を洗い、非常に満足して床に就いた。
 考えてみれば、それ以外の作業、例えば餌の用意も、エアーポンプの設置も、水道水から塩素を取り除く作業も、全部父親がやっていたわけで、それは多少わがままなことだったのかもしれないと思う。
 とりあえずその日はペットボトルの中で金魚は一日を過ごし、次の週末には、砂がしかれ水草が浮き、エアーがとめどなく湧き出る環境に仕上がった水槽で泳いでいた。
 もちろん、幼稚園児だった私が餌をやり続けることに飽きるのは早かった。一ヶ月もすると私は金魚の存在を忘れ、父親が金魚を管理していた。
 ふと金魚の数が増えた事に気付き、私の金魚はどれ? と父親に聞くと、こう返ってきた。
「餌をやっているのは父さんだし、全部父さんのもののようなものだろう?」
 このときから、あの金魚は私の金魚ではなくなった。
 最初は駄々をこねたが、餌をあげることもしようとしなかった私はそれにも飽き、必然的に興味も薄れていった。
 ある日、ふと水槽を見ると、何か黒っぽいものがへばりついているのを見つけた。
 父親に聞くと、それはタニシだよ、と名前を教えてもらい、ついでに水槽の掃除をしてくれるのだと教えてもらった。
 よく見るとタニシとやらはいっぱい居て、そのうちの一匹が他のタニシより少し大きかった。そのタニシがなんとなく気に入った私は、これは私のものだ、と心の中だけで決めた。
 気がついたときに、タニシを見て、金魚を見て、ただそれだけだけど、それが楽しかった。

 いま、水槽は空だ。
 父親が入院した際にばたばたしていて、誰も餌をやることを忘れた金魚が死んでいることを発見したのは一ヶ月も後の話で、二十数年かそこらが経ったそのときには金魚はかなり代替わりしていた。私のタニシも、いつの間にか姿を消していた。新しく金魚を入れる気にはなれず、結局水槽から水は抜かれた。
 今日は、子供の幼稚園の納涼祭りだ。
 もしかしたら、今度こそ私が金魚を飼うことになるのかもしれないと、引っ張り出してきた水槽を見ながらに思う。

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探偵小説

・オープニング
 舞台中央に、<探偵>、フェイド・イン。さらにその横に、薄汚れた大振りの水槽を乗せた小机にもスポット。
 <探偵>、恭しく一礼し、話し始める。
「みなさま。ご覧の通り、この水槽は空です。さて、この水槽はかつて何で満たされていたのか――ここに、証言者を集めました。しかし、みなおかしな証言をするのです。果たして、その真相はいかなるものなのか。聞いてみましょう」
 また一礼。<探偵>、フェイド・アウト。舞台上にはスポットの当たった小机の上の水槽が残される。

 ・<証言者A>の証言
 初老の女性がフェイド・イン。椅子に座った彼女は、困ったような口振りで話し始める。
「私はね、この水槽で万年筆を飼っていたのです。まだこどもの、小さな万年筆。万年筆は甲羅干しをするのを喜びますから、マンションのベランダに置いておいたんです、いつも」
 そこまで話すと、深く溜息を吐いて、続ける。
「けれどね、ある日数えてみると一匹少ないんです。ちゃんと探しました。普段は掃除をしない水槽から水を抜いて、置石の影から水槽の中から探しました。でもいないんです。
――どうもね、鳥に攫われたらしいんです。万年筆が置石の上で甲羅干しをしていますでしょ、そこを狙うみたいなんです。きっと、カラスですよ」
 うなだれて、首を振る。
「そうやって、うちの万年筆たちはいなくなっていってしまったんです。まだ小さなこどもの万年筆だから、狙われたんでしょうねえ……。
そうじゃなくたって、どうしてか万年筆って脱走が得意で、いつの間にか水槽を出てしまって……マンションのベランダ伝いにお隣さんのところやらにいるのが見つかって、そのままそこの家の息子さんがどうしてもということであげてしまったりして少なくなっていたのに……。
そうやって万年筆を失ってしまってからは、飼い直す気が起きなくて……水槽もそのままにしてあるんです」
 寂しそうな顔をした女性が、フェイド・アウト。

 ・<証言者B>の証言
 品の良さそうな紳士がフェイド・イン。にこやかに話し始める。
「昔、うちではヒトデを飼っていていましてね。私は妻には先立たれまして、子供もいなかったものですから唯一の同居人でした。
しかしある日突然、私、馘首されまして。にっちもさっちも行かなくなりましてねえ、あの時ばかりは。私の日々の生活どころか、ヒトデの餌にさえ困る状況でしたな」
 ちょうど寒い季節でしてね、その中暖を取れるのは薄っぺらい布団にくるまったときばかり、食事をしようにもまず材料がない。
 ついには動くのも億劫、というほどにまで追い詰められましてね。仕事を探しにも行かれず、布団の中でがたがた震えるばかりだった私は、ふとヒトデのことを思い出しました。力を振り絞って水槽のところまで這って行って覗いてみますとね、巣の素材の中にもぐりこんでもう動きませんでした。酷く衰弱しているようでした。
 可哀想なことをしたと思いました。……でもそこでね、ふと気付いたのです、ずっしりと感じるこの重み。まだ死んではいないとは言え、そうなるのは時間の問題でしょう。だったら、なにもそう酷くはないのではないか、と。
ええ、食材はないとは言っても調味料類は残っていましたのでね。幸運なことに、油も、塩も、胡椒も、あったのですよ。
 腹いっぱいには届きませんでしたがね、私は絶望的な飢餓感からは逃れられたわけです。そこからまた活動を始めて、今の会社に落ち着いてからは平穏無事です。
 ――非常食、などというと、ヒトデたちに失礼ですかねえ。」
 仮面のような紳士の笑顔。フェイド・アウト。

 ・<証言者C>の証言
 かっちりと化粧をしたスーツ姿の若い女がフェイド・イン。椅子に座ったまま話し始める。
「麩を飼っていたの。縁日で見かけるようなごく普通の麩。水槽に水草も入れて、砂利を敷いて、ぼこぼこ空気の出るあれも入れて。結構長い間飼ってたから、最初に買ってきたときより二回りくらい大きくなっててね、そんなのを十匹くらいだったかしら。
 水槽の掃除は二月に一回くらい。麩を洗面器に移して、砂利と水をすすいで水槽の壁もきれいにして。水道水はそのまま使えないのよね、薬品が入ってるから。汲み置きにしておくのが面倒だったから、カルキ抜きの薬を入れてた。
 あるときね、水槽の掃除中。そのカルキ抜きの薬を入れずに麩を水槽に戻してしまったの。ぼんやりしてたのね。
 しばらくたって、何気なく水槽を除いたら、みんな麩が水面に浮かんで口をぱくぱくさせてたわ。あわてて薬を入れたけどもう遅かった。次の日の朝、水面に浮かんだままもう動かなかった」
 そこで一度言葉を切り、女は真っ直ぐ前を見て言った。
「……その麩を水槽に戻すとき。さっきはぼんやりだって言ったけど、本当は違うのよ。
 心のどこかは冷静だったの。もし、このまま麩を戻したらどうなるのかしらって。死んでしまうだろうってわかってたけど、やってみたかったのよ。
 ――あれ以来、もう麩を飼いたいとは思わないわね」
 真っ赤な口紅を引いた口を、にっと歪ませる女。そこでフェイド・アウト。

 ・<証言者D>の証言
 くたびれた白いトレーナーとジャージの、薄ら笑いを浮かべた男がフェイド・イン。髪はぼさぼさで、心なしかやつれている。へらへらと軽い口調で話し始める。
「え、俺が水槽で昔何飼ってたかって?
 エビ、飼ってたんだ。ほらほら、有名なあのでっかくて毛むくじゃらなやつ。毒のある、あれ。
 何でって、そりゃ観賞用に決まってるだろ。もともと好きだって言うのもあるけど。いや、格好良いじゃん。ま、とにかく飼ってたわけよ。エビ。
 でさ、毎日そういうサイト巡ってたわけよ。観察日記とか、色々。
 そういうサイトに混じってさあ、なんか変なサイトがヒットしてさ。うさんくさい話ばっかのページ。
 そこで見たんだけど、タランテラって知ってる? いや、俺はそれまで知らなかったんだけど。なんかどっかの民族音楽らしくて、頭のおかしい名前の由来があるんだ。エビにかまれたときこれを踊ると毒が消えるとかさ。
 馬鹿みたいだろ?
 でもさ、俺ちょっと気になってさ、色々調べて、CDとかネットで買って、試してみたんだ。
 いやあもう、かまれて気持ち悪くなるし、踊ったらすげえ速いテンポでぐるぐる目が回るし。しかも幻覚って言うの? なんか見えたし。
 なんかもうその辺でぶっ倒れて訳わかんなくなって、気付いたら病院にいて。エビのこと話したらここに連れてこられた訳。
 別に気が狂ってるわけじゃないんだけどなあ!」
 身体を折ってけたたましく笑う男。フェイド・インしてからもしばらく笑い声が聞こえる。

 ・<証言者E>の証言
 眼鏡をかけた神経質そうな青年がフェイド・イン。視線をそらしながらぼそぼそと話し始める。
「ビニール袋を買うのが長く夢でした。水の塩分とか水温とかの調節が色々面倒だし、そのための装置なんかも高かったし、そう簡単に飼えるものではなかったのです。
 でも初めての給料で水槽からなにから一式と一緒に、念願のビニール袋を買ってきたのです。小さい、初心者には飼い易いと薦められた種類でした。
 それからはビニール袋を眺めるのが日課になりました。幸せでした。
 どうしても外出しなくてはいけない用事があったり、会社へ行かなければならない時間になると、心が苦しくなりました。
 家の外にいる間中嫌な想像が頭の中でちらついて、集中するどころではありません。煩わしいことから解放されると、それこそ一目散で家に帰りました。そして浮いたり沈んだりするビニール袋を眺めました。」
 疲れたように、ほぅ、と溜息を吐く。
「ある日、ビニール袋たちの透明度が心なしか上がっているように思えました。あれこれ装置を調べましたが、悪いところはどこにもありませんでした。けれど、日に日にビニール袋たちの姿は薄くなります。気が気ではありませんでした。けれど、ある朝水槽を覗き込むとそこには何の姿も見えませんでした。
 ビニール袋たちは水槽の水に溶けてしまったのでしょうか? 水槽の水は捨ててしまいました。あの水を取っておいたら、ビニール袋たちは戻ってきたのでしょうか?」
 青年、初めてまっすぐ前を見る。心底不思議だ、納得できないという顔。応えはないまま、フェイド・アウト。

 ・エンディング
 舞台中央に再び<探偵>がフェイド・インして登場。一礼して、話し始める。
「さてみなさま。証言者たちはおかしなことを言っていたでしょう。水槽に飼ったものもばらばら、それを失った理由も様々。これでは収拾がつきません。
 ――しかし私は<探偵>。この謎を解き明かして見せましょう。」
 そう言って探偵が芝居がかった仕草で腕を上げると、椅子に座った証言者A~Eが現れる。それぞれの表情を浮かべて、黙って座っている。
「――彼らがこの水槽に飼っていたのは全て同じものなのです。
 ほら、あなたにも見えるでしょう?」
 手で水槽を指し示す<探偵>。しかし水槽にはなにも入っていない、ように見える。
「わかりませんか? 彼らが水槽に飼っていたものが。あなたにも必ずあるはずなのです。
 ――そう、妄想、が。思い出、と言い換えても良い。
 彼らはみな、この水槽の中に彼ら自身の妄想を映して、それを飼っていたのですよ。」
 ふっと、証言者A~Eがフェイド・アウト。舞台の上に残ったのは<探偵>と薄汚れた水槽だけ。
「この水槽をめぐる話はこれで終わりです。みなさま、今日はお気をつけてお帰り下さい。
 水槽の中に飼ったものに、飲まれてしまってはだめですよ」
 <探偵>、優雅に一礼。そのまま、<探偵>、水槽、フェイド・イン。

 ――会場の明かりが久しぶりに点る。

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全ては水槽の中

一、その怪盗、予告状は達筆

「木を隠すには森の中。人を隠すには人込みの中。では、宝石を隠すには?」
 怪盗は、闇の中で微笑みながら呟く。
「もちろん、石の中よね」
 と、サイコロ大の輝く宝石を水槽の中に音も無く落とした。
 水槽のヌシである一匹の金魚の傍を、ダイヤモンドが沈んでいく。底に敷き詰められたクリスタルのように輝く小石に紛れて、もはや誰の目にも宝石を判別することは出来ない。
 くすり、と怪盗は笑んだ。
 その瞬間、入り口が何者かに叩かれる。
 怪盗は、そちらには目もくれずに一言、「開いてるわよ」と告げた。入り口からは、少女が堂々とした足取りで入ってくる。そして、
「おねぇちゃんは目立ちたがり屋過ぎるのです」
 開口一番、怪盗に文句を言った。膨れっ面である。
「人気取りも大事なことなのよ? それに、スリルがないと、ね」
 闇の中でもそれとわかる満面の笑みで怪盗は少女に悪びれもせずそう言った。
「私が、この高層マンションの全セキュリティーシステムを掌握するために、一体どれだけの労力を使ったことか……。今、標的を持って帰ればリスクも皆無ですのに」
 ため息混じりに少女は嘆く。
「まぁまぁ、明日の朝のニュース、楽しみにしてなさいって。今回はドジだけど健気なところを全国のお茶の間にアピールするから♪」
 少女は怪盗の笑顔の前には何を言っても無駄であることを知っている。ちらりと腕時計を確認し、少女は淀みなく怪盗に告げる。
「今、午前二時二十四分。計算ではあと四時間と三十五分後に、五人を経由して足跡を消した上に無駄に達筆な草書の犯行予告状が警察とマスコミに届きます。くれぐれも、本当のドジをしないように」
 怪盗は、満面の笑みで、その笑顔という名の凶器で、少女に答えた。「もちろん!」

二、その刑事、憧れは銭形

 刑事が現場に着いたとき、犯行は終了していた。
 近くに並び立つもののない超高級マンションの最上階。その完璧なハズのセキュリティーは蜘蛛の巣を箒で掃いたかのようにあっさりと破られ、厳重に保管されていたハズのダイヤモンドが盗まれていた。犯行予告状が届いたのは朝の七時、一分前。ほんの十分前に犯行予告を確認してすぐに飛んできたのだが、この様子では犯行後にわざわざ犯行を知らせてきたようだ。しかし、何のために?
 冬の冷たい空気の中、日が昇ってから時間が浅いこの部屋は、しかし強力な暖房で既に居心地のいい室温を保っている。刑事は、その強面には出さないものの、ひどく興奮していた。待ちに待った、『ライバル』の登場。今日こそがその日なのかもしれない、と。
 今時、怪盗なんてまずいない。犯行予告状なんて、バカでも作らない。だが、今朝はその有り得ない事が起きた。予告状は確かに届き、宝石は盗まれた。怪盗が現れたのだ。
 齢五十を超えて、夢見るベテラン刑事は、俄然やる気だった。部下たちから、部屋から盗られているものが確かにダイヤモンド一つであることが報告される。宝石一つ以外は、金魚はおろか裸でタンスに入っていた現金すら手付かずである、と。
 刑事は、静かに呼吸を整えて、言った。
「お前を捕まえるのは、この私だ」
 その顔がどことなく嬉しそうであるのに気づいたのは、長年彼の助手を続けてきた部下一人だけだった。
 程なく捜査に行き詰った刑事は、迷わずに携帯電話の短縮ボタンを押した。刑事は手段を選ばない。通話相手は、『探偵』である。

三、その探偵、趣味は俳句

 探偵は午後三時になると、どこからともなくティーセットを持ち出してアフタヌーンティーを始めた。超高級な紅茶を、何の断りもなく勝手に被害者の棚から見つけ出し、驚くべき手際の良さで刑事たちと自分の分を作ってしまった。被害者に金額を聞くのが怖ろしい。経費で落ちるだろうか?
 事件の捜査に行き詰った我々が呼んだのは、稀代の名探偵などではなく、私の旧い馴染みである。いつも自分の事務所でソファーに座って俳句を作っている。風流な男だが、二十年前に一度だけ犯人を言い当てた事がある。
 探偵はいつもよりも何倍も柔らかいソファーに、いつもと同じようにゆったりと腰掛けて、優雅に紅茶を飲んでいる。朝のドタバタとした捜査や、取材の慌ただしさが嘘のようだ。
 特に、満点放送の朝イチ特攻リポーター。散々に現場を荒らされた。非常に可愛かったし、季節を無視したミニスカートも良かった。寝癖もきゅーとだ。何でも許してしまいたくなる魅惑的な笑顔も、毎朝テレビで観る時よりも何倍も輝いていた。
 だからといって、捜査をまるで無視して部屋の中を縦横無尽に歩き回ったうえに、金魚の入った水槽までひっくり返すとは。金魚や水草はもちろん、底に敷いてあったこれまた高級感溢れるキラキラした石まで部屋中に飛び散った。その瞬間が最高視聴率を記録したというから怒る気にもなれない。
 あの笑顔が無ければ番組降板はもちろん、公務執行妨害で逮捕だ。結局、捜査員の満場一致で、リポーターは無罪扱いとなった。人情は刑事に必須である。
 午前中には全ての取材陣が引けて、正午と同時にのんびりと探偵が現れた。
 一通り状況を聞くと、そのままウロウロと一時間ほど部屋の中を歩き回って、捜査員にいくつかの質問をすると黙ってしまった。それからもう二時間。
 刑事と捜査員全員の忍耐がついに切れようとしたその時、探偵は重い口を開いた。
『超高級 部屋から消えた ダイヤと金魚』
 季語が無い。金魚は、季語なのだろうか?
 刑事は、たっぷりと数十秒待ってから、厳かに告げた。
「探偵よ、お前さんの俳句を聞きたくて呼んだんじゃ無いんだが。しかも俳句にすらなってないぞ」
 探偵は紅茶をそっと口に運ぶと、一気に残りを飲み干した。
「刑事、この紅茶、持って帰ってもいいか?」
 捜査はこの日の午後に証拠ゼロとの結論によって打ち切られた。

四、その少女、学校では生きもの係

 少女は闇の中で手元の小型端末を器用に操り部屋の中のありとあらゆる情報を改竄して一切の痕跡を消去してみせた。時刻は午前二時四十分。時間は余りある。怪盗は朝の準備のために後始末を少女に任せて先に帰っている。
 一仕事終えて、超高層から見下ろす深夜の街並みにしばし見惚れる。ダイヤモンドよりも、よほど夜景の方が好きな少女であった。
 脳内時計で正確に一分。自分の趣味を全うすると、少女は宝石が沈む水槽に近づいていく。だが、少女の興味は「世界で最も完璧なバランスと完成度を誇るカットを施された唯一無二のダイヤモンド『クイーン・オブ・クイーン』」ではなく、水槽を気ままに泳ぐ金魚の方に向いていた。
 そのパッチリとした目と、一点のくすみも無い真紅の身。その無駄の無い姿に、生きもの係を熱心に務める少女の心は強く強く惹きつけられた。
「飼いたいです」
 無意識に言葉が口から出ている。自分の言葉にも、気づかない。
「おねぇちゃんに、メールしておこうかな。『お土産』はお人形じゃなくてこの子にして欲しいって」
 少女は懐から固形の簡易食料を取り出すと、成分に軽く目を通してから、水槽に一欠けら落とした。金魚はまるでずっと待っていたかのように一瞬で平らげてしまう。少女はほんの少し目を見開いて、優しく微笑んだ。
「可哀想に、腹ペコだったのですね。ではさようなら、金魚さん。縁があれば、もう一度お会いしましょう」
 忙しそうに口を開け閉めするその様子は、少女への返答に見えた。少女は音も立てずに入り口から出て行く。エレベーターはほんの一息つく間に少女を地上へと運んだ。マンションから外へと少女が出て行った瞬間、超高層マンションの全セキュリティ機能が、まるで催眠術から解けたかのように一斉に稼動し始める。もちろん、怪盗の存在も少女の存在も、どこにも残されてはいなかった。空白の時間さえも、そこには記録されていない。
 ただ一匹の金魚だけが、少女が去ったのを惜しんでいた。少女から得た食料で自分の空腹を思い出したかの様に、水槽の赤いヌシは自分の世界を縦横無尽に泳ぎ回る。

五、そのリポーター、笑顔は凶器

 後ろ髪の寝癖はわざとだ。ミニスカートも世の中のおぢさま連中を虜にするため、寒さを我慢して穿いている。ドジなキャラクターを演じるのは、もはや私にとっては呼吸するよりも容易い。カメラ映りを完璧に把握した立ち居振る舞いも、身体に刻み込んだ。
 あとは、『事件』さえあればいい。
 私が目立つことの出来る、奇抜で奇妙でワイドショーが飛びつく様な、愉快な事件。
「怪盗が犯行予告状なんかを出して、実際に宝石なんかが盗まれれば、大注目は間違いないわね」
 そのためだけに面倒くさがるあの娘を『お土産』で説き伏せてこの『舞台』を作り上げたのだ。失敗はしない。私は、スターの階段を登りきってみせる。
 カメラマンから合図が出る。いつもの、私にとって武器とも言える笑顔で、カメラ越しにお茶の間の人々に笑いかける。背筋に、ぞくりとした快感が走り抜ける。
 時刻は午前八時。捜査開始から一時間足らず。
 カメラに赤い光が灯り、世界が、私のために、巡る。

六、そのカメラマン、想像力はピカイチ

 午後の六時。一日の仕事を終えて帰宅したカメラマンは、壁に張ったリポーターのポスターに「ただいま」と告げた。
 自分で撮った憧れのリポーターの笑顔は、眩しいくらいに素晴らしい。
 今日も、一緒に仕事をすることが出来た。最高の一日だ。
 慌ただしかったけど、いつにも増してリポーターが輝いていた。その輝きを全国に伝えることが出来るなんて、自分はこんなに幸せでいいのだろうか。
 張り切りすぎて刑事さんに注意されたり、水槽を派手にひっくり返して割ってしまったり、居場所がなくなって可哀想だからと言って金魚を引き取ったり、今日はリポーターの魅力がまさに満点の一日だった!
 もしかしてもしかしたら、実はリポーターが怪盗の正体で、犯行予告状も何もかもがリポーターの仕組んだ大芝居で、水槽をひっくり返したのは実は水底に宝石を隠していたからで、金魚を引き取ったのはその隠したはずの宝石を金魚が食べてしまったと考えてのことだったりして……。
 カメラマンはそこまで妄想を膨らませるとリポーターのポスターに向かって笑いかけた。
「まさか、ね。俺も冒険小説の読みすぎだなぁ」
 真実は、カメラマンの苦笑いと共に、沈んでいく。

七、その結末、全ては水槽の中

「ただいま~」
 お茶の間を賑わす人気リポーターは気落ちした声で自宅へと帰ってきた。その手には小さいビニール袋が提げられている。膨らみ具合から見て、水がたっぷり入っているようだ。
「おねぇちゃん、お帰りなさい」
 エプロン姿の少女が、歳の離れた姉を出迎える。夕飯の香ばしい香りが部屋の中を暖かく包んでいる。
「はい、お望み通りの『お土産』よ。あそこにいた真っ赤な金魚。ダイヤの方はどこかにいっちゃったわ。もしかしたら、一緒に水槽の破片とか片付けてた捜査員の誰かが持って帰ったかもね。あ~あ、人気と財産を一石二鳥で手に入れる計画だったのに!」
「おねぇちゃんは、欲張りすぎます。この子が家族に増えたことで、良しとしましょう」
 少女はあくまで淡々としながらも、眸を輝かせて金魚を受け取ると、いつの間にか用意していた水槽に金魚を放してやった。金魚は我がもの顔で泳ぎだす。
「今日からは、餓えさせたりはしませんから、ご安心ください」
 少女は優しく金魚に語りかけると早速、一欠けらのエサを水槽に落とし込んだ。
 口を開け閉めしている金魚は、しかし、つい十数時間前と比べていささか食欲に勢いがなかった。
「金魚さんはいつの間にか満腹のようです」
「まぁ、満足しているならそれでいいんじゃない? 私たちも、ご飯にしましょー♪」
 金魚は少々重くなった身体で、しかしそれでもエサに噛り付くのだった。
 真実が明らかになるのは、いつのことか。
 その結末は全て、水槽の中で今日も元気に泳いでいる。

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水槽のとりこ

 私の飼っていたエビが死んだ。透明な体に長いひげが美しい、ヤマトヌマエビという種類のエビだ。見つかったのは水槽の、循環型の濾過機の中。ポンプに吸い上げられたのだろう、濾過用の黒いスポンジに押し付けられて息絶えていた。
 まぁ、そんなことはどうでもいい。
 いまや濁ってしまった甲殻が、白く浮き上がっていた。白濁した体、ちぎれて溶けたひげ、絡まって取れかけたか細い脚。
 あぁ、いや、そんなことはどうでもいい。
 どうでもいい、どうでもいい、どうでもいいのに考えてしまう。濾過機に吸い込まれて窒息した、これが私の。弟かもしれない、なんて。

「あの子も吸い上げられていなくなっちゃったんだよ」
「だから?」
 灰色に濁った曇空を背景に、白い顔が浮き上がって見える。私は首を真上に向けたまましゃべる。
「だから、あのエビは私の弟だったんじゃないかって」
「意味分かんない」
 論理が飛躍しすぎですー、とミナミは笑った。
「こっちに、降りてきたら」
 教えてあげるよ、と言ったのに。
「やだよ、そんなとこ降りたら上がれなくなっちゃう。あたしチビだもん」
とミナミは笑う。
 ただの、使われてないプールなのに。五年前にここで行方不明者が出てから、水が抜かれて使われてない、かわいそうなプール兼防火水槽。新しく市営のプールができたせいもあって、簡単に放棄されてしまった、狭いくせに深い防火水槽。底にはすっかり土が積もって、雑草なんかが生えて、水はけが悪いせいで湿原みたいになっている。
「ミゾレはいいよ。背ェ高いもん。わかんないでしょ、水の入ってないプールから出るのって、結構大変なんだってこと。それにあたし、スカートだし」
「はしご使えばいいじゃない」
「サビだらけだから触りたくない」
わがまま、と、防火水槽の底に座り込んだ私は、真上にいるミナミに笑いかける。プールのふちぎりぎりに仁王立ちしている彼女は、なんで笑うのか理解不能だという顔をした。
「ミナミ、ぱんつ丸見え」
「死ね変態」

 結局ミナミは、私の隣まで降りてきた。いわく、真下を向いていると首が痛いらしい。真上を向いてる私とどっちが痛いのかな。逆のシュチュエーションには、いまだかつて一度もなったことがないのでわからない。ここに座り込んでいる私を、ミナミが探しに来て真上に立つ。その繰り返し。
「まぁ飽きもせず、毎回毎回こんなところに来るよね。いくら思い出の場所ったって。……ミゾレの弟君、ここでいなくなっちゃったんだっけ? 竜巻で」
「そう、五年前」
 竜巻に巻き込まれて、舞い上がって、行方不明。そんなバカな話があるもんかって、他の人はみんな見つかってるのにって、ずいぶん長く捜されたけど。見つからなかった、一向に。
 私はその時その場にいなかった。遠くから、見てただけ。夏休みだからプールに行きたいと、弟が騒いでいたのは覚えていたけれど、それだけ。私はクラスメートと遊びに行っていた。だから遠くから、見てただけ。まさか真下に弟がいるとも思わずに。今日みたいな曇りの、でもひどく蒸し暑い日。
「そんな遠くから見えるぐらい、大きな竜巻だったわけ?」
 ミナミは心底不可解そうだ。それは当然と言えば当然。大騒ぎになったあの竜巻を、三年前に越してきた彼女は見ていない。
「竜巻って、風がくるくる渦巻いてるのと違ってね、上から垂れさがってくるの。雲がぐるぐる回って、地上に吸い付く」
 だから最低でも空の高さはある。細いけれど、曇り空から一直線に垂れてくるあの忌々しい灰色の渦。

「私の飼ってたエビが死んだんだよ」
「その話は聞いたよ、ミゾレ。ポンプに吸い上げられて詰まってたんでしょ?」
「だから私の弟も、どこかに詰まっているかもしれない」
「え?」
「この世界は大きな水槽で、あの竜巻はたまたま勢いの強くなったポンプで、私の弟はあのエビとおんなじで、吸い上げられてどこかに詰まっているかもしれない」
 ミナミは沈黙した。絶句したのかもしれない。いきなり五年前のことを引っ張り出して、何を言うのかと思ってみれば、って。
 でもわからない。どうしてあの子が見つからないのか、あの子だけがいなくなったのか。ちっとも。さっぱり。
 魚が泳ぐように鳥が飛んでいる。カニが歩くように動物が歩いている。水草のように植物が。エビのように人間が。灰色の雲がふた。空気は水。
 ほら、この世界は大きな水槽。
 普通の水槽と違うのは、水の循環機が見えないこと。ポンプが一定の位置にないこと。ろ過されているのを誰も知らないこと。誰かが詰まっているかもしれないなんて、誰も心配しないこと。
 私の弟はどこへ行った?
 この世界をろ過した、その汚れと一緒に、空のどこかにいるんだろうか。灰色に濁った、この水槽のどこかに。
 逃げられなくて吸い込まれて巻き上げられた、私のエビみたいに。
「エビが死んで悲しいんでしょ」
 ミナミは言う。
 そうなのかな、それだけかな。そんな言葉で片付けないで欲しいけれど、でも実際それだけかもしれない。ちっちゃい頃に消えた弟と、最近まで飼っていたエビの、私の中の立ち位置は、同じくらいなのかもしれない。
「新しいエビを買えばいいじゃない。ミゾレの弟と違って、エビには代わりがいるんだから」
 代わり? それってなんのこと。水槽の中にいるのは、大きな種族。
 エビ。人間。
 死んだエビと新しいエビは、私とミナミくらいの違いしかない。私とミナミくらいの違いがある。
 違う?
「ううん、ミゾレは、エビが死んで悲しいんだよ」
 どうして。
「ミゾレ、飼ってたエビの種類は?」
「ヤマトヌマエビ」
「弟君の名前は?」
「ヤマト」
「ほら、ミゾレは重ねてるだけ。エビと弟君を、じゃなくて、弟君と、エビを」
 南はにんまり笑う。笑う。
「次飼うエビは、ミナミヌマエビにしてね。あたしは、いなくなったりしないから、さ」

 じゃ、あたし塾の時間だから、と言って、ミナミははしたなくスカートをたくしあげて、元防火水槽兼プールから出て行った。私はミナミを見送った時の格好のまま、水槽の底から、首を真上に向けて空を見る。

 灰色に濁った空は、渦巻いているようにも見えたけれど、一向に垂れ下がってはこなかった。

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毒を蒔く女

『はじめ、はじまり、いちばんさいしょ。
――わたしは、わたしが満たされていると思っていた。
 わたしはわたしとして完璧で、
欠けているところなどあるはずがない。
 わたしはわたしで充足している。
 わたしはずっと、そう信じていた。』



 細い指先がひやりとしたスイッチに触れて小さな音を立てた。ぶぅんと緩い駆動音がして人工の薄蒼い明かりが広い室内を満たすと一面の硝子の向こう側が見える、そこが水で満たされているのが判る。
 室内は少し暑さを感じる程度に生温い。女が硝子の向こうを見上げる脇で、配属されたばかりの若い研究員が感嘆の声を上げた。
 ここが命の源。
 青年はそう呟いて硝子面へ引き寄せられるようにふらふらと近寄った。薄暗い明かりで照らされた硝子の向こうには無数のなにか(・・・)がいる。丸まったそれらの中心からはそれぞれ細い紐状のものが生えていて、床と繋がってゆらりゆらりと揺れていた。
 ここをはじめて訪れたものの大半はまず言葉を失う。そして、懐かしむような表情になる。中には涙を流すものもいる。
 なるほどそれは一理あるのかもしれない。
 硝子面にへばりついて何事か呟いている青年を一瞥して、女は踵を返した。溜息を一つ。今日は仕事にならない。いや、それは言い訳か。
 ここに居たくない。
 女はここが余り好きではない。ぞわぞわとした不快感は何かに似ていて、何に似ているのかはよくわからない。
 ああ、と、溜息のような声が背後から聞こえた。恍惚に似ていて、汚らわしい何かを見せつけられたような気がして吐き気がした。



『けれどある日、あるときのこと。
――わたしは、まことを知ってしまった。
 わたしのなかには虚があって、いつまでたっても、
わたしひとりでは満たされない。
そんな真実を、見つけてしまった。

 わたしはわたしを、満たさなければならない。
 わたしは、わたしを、満たさなければならないのだ。』



 いのちが欲しいのだと女は言って、青年は少しきょとんとして首を傾げた。
「ここに、幾らでもあるじゃないですか」
 いや、ここ以外にいのちのあるところなどないと言ってもいい。青年はごく当然の事実を語るようにそう言ってのけて、女は少しだけ笑った。昔の自分と同じことを思っている。自らの過去はいつも少し苦いし、少し甘い。
「ここにあるものなんて、ニセモノよ」
 女ははっきりとそう言った。理解できていない様子の青年に近付き、身を寄せる。耳元に唇を寄せて手をあてて、そのさまは子どもが内緒話をするときのように無邪気だった。
「わたしに、命を頂戴」
 女は柔らかに微笑んで、長い睫をゆっくりと上下させた。青年は甘い香りを感じてくらりと酩酊するように目を眇めた。
青年はこれが何を意味するのか知らなかった。女は明確な意図を持っていた。
柔らかな唇を寄せ、白い指先で触れ、薄い腹部へと導いた。弾けた飛沫を受けとめて啜り上げて飲み込んで、女はうっすらと微笑んだ。



『――ああ!
これで。これで、わたしは満たされた。
 わたしのなかは、わたしは、充足した。
 わたしのなかをあたたかな水が満たし、
わたしのなかをわたしが満たす。
 
 ――わたしはソレが、わたしでないことを知らなかった。
 そもそもわたしの中身がわたしそのものであるはずなど、
ありえないことに気付かなかった。
 そうして、ソレがわたしでないと気付いたときに、
わたしのなかは、もう――』



 生温い室温は体温より少し高い温度に設定されている。ぼんやりとした薄蒼い人工の明かりの下に立って、女は硝子の向こうを見つめた。
 つるりとした表面に触れても冷たさはなく、同じような生温さだけがある。額をつけて目を閉じ、女は薄い自らの腹部を押さえた。今なら少しだけあの青年の思いがわかる気がした。
 確かにここには神聖なものがある。ただしそれは哀しいくらいの紛い物だ。そうだ、あのぞわぞわとした不快感は、あからさまな劣化コピーを見たときのものに似ていたのだ、今更だけれど。
 白衣のポケットから取り出した四角い箱を硝子面にひたりと寄せて、硝子に額をつけたまま目を閉じて少し惑った。内側から湧き上がる思いを冷静に見つめ返して名前をつければ吐き気がする。けれど女はこうせざるを得ない。それは女が生き残るためであったし、女が生きていくためであった。
 女はそろりと瞼を上げ、ぷかぷかと浮かぶ無数のそれら(・・・)をしばしみつめた。それが何であるか、以前の女は知っていて、今の女にもわかっている。昔と今にはたしかな差異がある。それはもはやなにか(・・・)ではなく、確かな――いのち(・・・)、なのだと、今の女は強く感じていた。
 ここは、紛い物だ。けれどここにあるいのちは、どうしようもなく本物だ。
 女は知らず、薄い腹部にあてた手に力を込めた。熱い気がして、どうしようもないのに泣いてしまう、と思った。湧き上がる気持ちは純粋に懺悔だった。
「……ごめんなさい」
 口の中で小さく呟いた。
そのとき、

「……――ひっ!」

硝子の向こうの全てのそれら(・・・)が目を見開き、女を見据えた。



((((((((――ママ?))))))))



女は、声が響くのを確かに聞いた。
ぞわりと背筋を這い登った恐怖に支配されて、女は咄嗟に手にしていた白いもののスイッチを入れた。ぴしり、と小さな音がして、硝子面に衝撃が走るのを知る。びりびりと硬質な板に波及していく震え。ほんの小さな罅割れが生じさせた歪みが、硝子全体に負荷をかけて、崩壊を促す。
逃げなければ。そう思って踵を返す前に、凄まじい音が、女の体を包み込んだ。硝子が割れて弾けて濁流が注ぎ落ちる、その凄まじく裂けるような音と共に、生温い液体が女を飲み込む。
「あっ!」
生温い水に包まれて流される。柔らかでどろりとした何かが女に触れる。液体は何処までも広がっていく。飲み込まれて連れて行かれる。自然と目を閉じて息を止めて、必死で流れをやり過ごす。
そうして起き上がったときに、女は、地獄を見た。

一面に広がるそれ(・・)は、紅い色をしていた。

奇怪な肉の塊が、ぐしゃり、べちゃりと音を立て、潰れ、流されて広がっていく。ぶちぶちと紐が切れて流されていく。潰れて紅く染まる。生まれそこなったいのちが、生まれたかったいのちが、潰れて壊れて崩れていく。
「あ、あ」
 女にはもはや言葉もなく、愕然と見開かれた目からは正気が消えていく。

 生温い空気は、胎内を模していた。
 生温い水は、羊水を模していた。

 この部屋は、女を模していた。

 そもそもいのちとは、女が造るものだったのだ。
 誰もが忘れてしまっていた原始の真理。
 人が生産され配布され管理されるようになってから、失われてしまった記憶と機能。

 ――紅く染まる水、一面に広がる奇怪な肉の塊――胎児の中に、へたり込む女――
 それはまさに、地獄絵図と言うが相応しかったに違いない。
 ならば、
 その地獄から立ち上がって嗤った女はもはや、人間とは言えなかった。
(まま)(ママ)(ままー)(まーまー)(まんま)(マァマ)(ママ)(ママー)(まぁまー)(まま)(ママ)(まま!)(ママ!!)(まま!!)(ままー!)(マーァ!)(ママー!)
 ぐわんぐわんと頭の中を声が反響して煩い。(まま!)耳をふさいでも聞こえてくる。(ママ!)――それは、呼ぶ声だった。たくさんのノイズが、交じり合い溶け合いながら、秩序なく女を呼び続ける。
 それは胎児の叫びだった。悲鳴だった。懇願だった。女が求めるように胎児もまた求めるのだ。女とは、胎児とは、そういう風に出来ているのだ。けれど女は応えずに、歪んだ唇から歪んだ笑いを発し続けた。けたけたけたけた、と、壊れた笑いが淀んで湿った空間に頼りなく響き渡り吸収された。
 女はずっと、細く白い腕で腹部を押さえ続けていた。女にとって応える相手とは唯一ただ一人であり、それは無数の胎児たちではなかった。女の虚が満たされていく。満たされ続けていく。満たされて広がって満たされて満たされて満たされて、そしてやがて溢れてしまう。
 女は壊さねばならなかった。
女は自らの水槽のために、世界の水槽を壊さねばならなかった。

 女はもはやただの女ではなかった。
 女はもはや、ただの、ひとりの母でしかなかった。

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硝子のパレット

ちりんと、小さなベルの音が鳴る。そんな音で、店員に来客が伝わるのだろうかと、燈子は不思議そうに店内に入る。奈々は薄暗く静かな店内を見渡した。一見、昭和の香りのするレトロな喫茶店。しかし、その壁は大小の水槽で埋め尽くされていた。
「きれい」
 壁一面にはめ込まれたそれらを見渡し、燈子は息をついた。薄暗い店内で、水槽の照明は水を煌めかせ、魚の姿を色々に変えていく。
「いらっしゃいませ」
 奥から一人の男が現れた。そして、店主の小宮です、と一礼する。二人はつられて小さく会釈した。小宮はその姿に笑むと、メニューを携え、優雅な身のこなしで奥の席へと二人を促した。
「あの、見立ててくれるって聞いたんですけど」
 奈々は出されたメニューを見て、小宮に問う。
「ええ、うちは喫茶店でもありますから。そこにあるのはソフトドリンクのみです。魚を飼えないお客様が、うちの魚たちを見ながら店内でおくつろぎいただくためのサービスなんですよ。お客様がたは、オススメコースでよろしいですか?」
 奈々は、はい、と笑んで返した。燈子もそれに続く。小宮はかしこまりましたと深々と礼をして店の奥に姿を消した。
「――ねぇ、大丈夫なの? 決めてもらっちゃって」
 店主が奥に消えるのを見送って、燈子は言った。
「奈々が今度の展覧会は、熱帯魚を描きたいって言うから来たんだよ? どの子が良いか、自分で決めなくて良いの?」
 奈々はえへへと笑った。
「うん、一度試しに。燈子こそ、飼ってみたいって言うと思わなかったよ」
 話していると、店の奥から小宮が再び姿を現した。焦げ茶の盆の上に、二つのグラスが載っている。
「お待たせいたしました」
 そろりと、目の前に一つずつグラスが置かれた。
 ちらり。
 青と白のヒレが揺れる。水面がつられて光を散らした。水面と底のガラス玉の間に閉じこめられた光を浴びて、四、五センチほどの体が向きを変え、こちらを見上げた。燈子は息を呑んだ。


 燈子は脇に置いた小さなコルク瓶を取る。白い小粒のエサを一粒出すと、つまんで水面近くまで持って行った。
「レィ」
 レィはスッと近づいてきて、口をもたげた。燈子は目を細めてエサを落とした。レィの動くのを目で追う。
ひらり。ひらり。
尾びれが揺れる。飼うつもりは、実はなかったのだ。本当は猫が飼いたかった。暖かい体を抱いて、縁側で足を伸ばして寝転がりたかった。けれど、白くて硬い壁のマンションに、そんなものはないし、そもそも猫は禁止されている。違う。一緒にいてくれる相手が欲しかったんだ。一人暮らしの部屋に、温もりをくれる。
「私、飼ってよかったのかな」
聞きたい。レィに。こんな中途半端な好奇心で、飼ってよかったのか。
 ひらり。
燈子は思わず笑んだ。
「――きれいだ」
 ぽっ
 レィは口から泡をはき出した。水面に、一ミリほどの小さな泡が浮かぶ。くるりと泡が一回転して中に青色を巻き込む。色を閉じこめた泡は、消えずに水面を漂った。


《うちも浮かんだよ、水晶》
 奈々は携帯を操作しながら、三十センチ水槽の前に屈んだ。蓋の上に白いレースをかけた水槽は、中で同じ色の魚がひらひらと泳いでいる。
《レィは体と同じ色だったんだ。ましろのは、パステルイエローだったよ》
 そう打ち込んで、奈々はメールを送信した。脇に置かれた小皿には、ましろが吐き出した水晶が三粒置かれている。まだまだ小さくて、ましろの口の半分ほどの大きさしかない。琥珀のような甘い色が、ライトの光を反射する。ましろはそれにはお構いなしに水槽を横切った。真っ白の体は、見る度に色が変わる。ましろの体はパレットだ。思いもよらない色を湛えてこちらを見つめている。奈々ははっきりと、この子を描きたいと思った。ときどき、奈々の筆はキャンバスの上を迷う。どう描けばいいのかと。それを、ましろは体を一回転させる度に解消させた。奈々は、運命だと思った。本当は、何でもよかったのだ。熱帯魚でなくても。ただ、思うように進まない筆と自分のこころの矛先を反らそうと、偶々聞きつけた小宮の店の噂を試しに行った。選ばなかったのではなくて、選べなかった。どれを描いたらいいのか、見当も付かなかった。そんな奈々に、小宮は真っ白なましろを渡した。奈々ははじめ途方に暮れた。真っ白な魚を、どう描いたらいいのか。あまりにも選択肢が多すぎて。それでも、自分で何かを選ぶ気になれなくて、そのまま受け取った。そんな奈々に、ましろはすぐに答えを用意した。これは運命だ。奈々は小宮に感謝した。


 レィを迎えて初めての春が訪れた。まだ水温が下がり気味の水槽は、ヒーターが場所をとっていて、中に小物を入れることができない。もう少し、大きな水槽に移してみようかなと、燈子は考え始めた。レィはだんだんと、燈子のことを覚えてきているのではないか。燈子は水槽の掃除をしながらそう思う。スポイトでゴミを取るときと、エサの時では明らかに態度が違う。奈々に送る写真を取ろうとカメラを向けても、逃げ出すことはない水晶は口の大きさよりも大きくなってきた。水面に吐き出したそれを、つつきながら少しずつ大きくしている。その大きさは成長に比例しているのだと、小宮は言っていた。最終的には、一センチほどになると。既に五ミリ程の大きさがある。調べてもこの魚の生態はわからないため、あとどれほど一緒にいられるのかもわからない。
「――私は、よかったかも。レィを連れてきて」
 レィはどうだろう。燈子は呟く。レィの考えていることは全くと言っていいほどわからない。燈子のことを覚えてきていると言っても、生きる上で最低限のつながりだと、言ってしまえばそれだけだ。それ以上に言葉を交わせるわけでも、心を通わせるわけでもない。
 燈子は窓を開ける。隣の家の桜が、吹雪いてベランダに花びらを散らした。燈子はそれに手を伸ばす。花びらはするりと手のひらから逃れた。燈子は何となく悔しくて、再び手を伸ばした。何度も逃げられて、その度に手を伸ばす。何度目かの挑戦で、一枚がようやく両手に挟まった。燈子は初めての戦果に顔を綻ばせる。両の手のひらで花びらを挟んだまま、水槽の側へ小走りに駆け寄った。蓋を外してぱっと手を離すと、花びらはひらひらと水面に落ちた。レィはすすっと寄ってくる。突然の来訪者に、レィは威嚇するでもなくじっと見つめている。次に、二三度つついた。つついては離れ、水面を見つめる。そのこころは、燈子にはわからない。
「伝わったら、良いのに」
 レィは目をきょろきょろさせた。


 二度目の冬がやってきた。奈々は温めた水を水槽へ移す。熱帯魚に、寒さは毒以外の何者でもない。最近、ましろはヒーターの側でじっとしていることが増えた。水晶もあまり吐き出さなくなった。奈々は頻繁に水温計を気にかけた。気になるばかりで、なかなか絵に集中できない。奈々は次の展覧会で、ましろではなく別の題材を描くことに決めた。それでも、色に詰まるとましろを眺める。ましろが揺れ動くのを見て、こころに色を戻す。
燈子の方はどうだろう。奈々は携帯を見遣る。燈子の水晶は、日増しに透明になっているという。燈子は首を傾げていた。水晶は大きくなるにつれ、色がはっきりしてきた。ましろの方は相変わらず濃い琥珀色をしている。体も心なしか黄色っぽくなってきたような気がする。命が、尽きようとしているのか――。奈々はぶるりと体を震わせた。
こわい。
違う、手放したくない。
ましろはましろしかいない。パレットのような体を持った、私の願いに適うのは。奈々は泣きそうな顔でましろを見つめた。


 それでも、レィもましろも、二度目の冬を越えた。桜のちらつく中、燈子は小宮の店へ足を向けた。店は二年前と変わらない様子でそこに在った。小宮も。
「先日、ご友人がいらっしゃいましたよ」
「――聞きました。ましろに似た子が欲しいと」
「えぇ。時折、そういったお客様がいらっしゃるんですよ。うちには」
 小宮は笑んだ。
「お客様はどうなさいますか?」
 燈子は、頭を振った。バックからハンカチを取りだし、それを開く。二センチほどの楕円形の水晶がころりと出てきた。
「起きたら、水槽にこれが浮かんでたんです。蓋は閉まっていたし、周りも探してみたけれど飛び出してはいなかったんです。他に、考えられなくて」
「――ましろは、何も残さなかったそうですね」
 燈子は頷いた。ましろは奈々の目の前で、ゆっくりと透明になって、水の中へ融けていった。展覧会が終わって、二、三日水晶を作らず、水槽の中心でたゆたっていて。その後のことだったという。
「私のところには、この水晶が残りました。中に、桜の花びらが入ってるんです。こんな水晶、今までに作ったことなかった」
 小宮は、それぞれですよと、微笑で返した。
「人間だって、違うでしょう? その後は他の人の解釈しだいですよ」
小宮はそれ以上何も言わなかった。燈子は礼を言って店を後にした。
桜の花びらが吹雪いている。燈子は空を見上げた。薄い色の空に、桃色の吹雪が流れていく。ああそうか、と燈子は心の中で呟く。レィには、水面に浮かぶ桜が、こんな風に見えていたのか、と。レィは、もう一度見たかったのかもしれない。あの、桜が。勝手な解釈かもしれないけれど。
奈々は、形を残さないでくれて良かったのかもしれないと、言っていた。ましろは一つの色に染まらなかった。体も色も動かなくなるという、最も恐れていたことを、目の前から取り除いてくれたと。それがましろの本意であったかどうかはわからないけれど。燈子がいつかこの空気の中に溶け込んでしまった時、自分の残した言葉を、相手は正確に汲み取ってくれるだろうか。そんなことは、わからない。
燈子はレィの水晶を取りだした。薄空に花びらを浮かべたのを閉じこめたような水晶。燈子はそれを、そっと手のひらにのせる。風がひと吹きすると、それはするりと手からこぼれて空に融けた。
私はレィを連れてきて良かったと、燈子は手に残る風の感触にこころを託した。

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水槽の中にいる

 緑に濁った水の中を白く丸いものがゆっくりと落ちていく。それには黒く円状のシミがある。あぁ、あれはなんだろうか。黒いシミは丸く、光沢を持っている。そうだ、そうか、あれは人の目玉だ。
この水はどこのものだろうか、長い間ずっと放置されてきたためか、水は薄汚れた緑で視界ははっきりとしない光も差し込まず、気味の悪い緑色の藻が水中をゆらゆらと浮かんだり沈んだり、水の流動性を奪うように粘着性をもって存在している。
視界の端から突然、黒い影が現れる。薄い藻が揺蕩う緑色の水の中をゆっくりと落ちていく目玉を影は包み込むと、そのまま視界から消えていった。

 目を覚ますと汗をびっしょりとかいていた。枕も汗で濡れてしまっている。私は何の夢を見ていたのだろうか。何か不気味でよくない夢をみていたような気がする。だけども何も思い出せない。いつも隣りに寝ている母はすでに起きたのか、布団はたたまれてしまっている。一年前まで逆隣りに寝ていたはずの父はすでに死んでしまった。今では彼の灰になった骨が同じ部屋の仏壇の中に少しだけ納められている。枕がしっとりと湿っている。まだ八時半、休日だから出来ればもう少し寝ていたい、しかしこんなに湿ってしまっている枕にもう一度頭を乗せる気も起こらない。私は布団から抜け出すことにした。

 一人、朝食を終えると食器を洗っていた母は私に聞こえるくらい大きな声で呟く。
「今日は土曜日だから、水槽が捨てられるんだけどあの人は死んじゃったし…結局、私が捨てるしかないのかしら。」
 呟き終えると、今度は大きく溜息をつく。何年か前に金魚を飼っていたときに使っていた水槽、水槽は金魚を飼うにしては馬鹿にでかくて、母は身重な私に大きなゴミを捨てさせてたくないのだろう。
 金魚を飼っていたのは何年前だっただろうか。朝食を食べ終え、庭に放置しっぱなしなっている水槽のところへと向かう。祭の屋台からすくってきた五匹の金魚を飼うために買ってきた水槽だった。生来、動物好きだった父は私が珍しく生き物を飼うことに喜んだのか、無駄に大きな水槽を買ってきた。五匹いるといっても屋台ですくってきた金魚、あまり大きくない。だから、その大きな水槽は金魚たちの住処としては無相応なほど大きかった。金魚たちは大きな水槽の中をゆっくりとゆったりと泳ぎ続けていた。私が水槽の上から餌をやると今度は急に騒がしげにやってきて固形状の餌を丸い小さな口をあけて一生懸命体の中へと入れていった。そのころの水槽は美しかった。小さな猩猩色の金魚たちがのんびりと泳ぎながら暮らし、水槽の下には雑貨屋で買ってきた白と黒の丸く磨かれた石が敷き詰められ、所々に私が小さいころ宝物のように扱っていたビー玉が入っていた。緑色の水草が金魚が傍を通り過ぎるたびにゆらゆらと少し揺れていた。水を替えるのは父と私が交代で行った。随分と頻繁に行ったおかげか、水槽の中の水はいつでも透き通っていて美しかった。仕事に行く前に可愛い金魚たちに丸い餌をやり、彼らの前で一緒に朝食を食べる。仕事から帰ってきては晩酌をしながら彼らがひらひらと泳ぐ姿を眺める。これが私の日課だった。

 庭に放置されたままの水槽を見やる。水槽は新聞紙で包まれており、中の様子は伺えない。一年以上も野ざらしにされたせいで新聞紙は雨水を吸い、そのインクは滲んでしまい、一体何が書かれた記事だったのかすら、わからない。
金魚が全部死んでしまい、水槽はその住人を失った。濁った水を捨ててここまで水槽を運んだのは祖父だった。そういえば、最後に死んでしまった太った金魚を埋めるための穴を掘ったのも彼だった。小さな手持ちスコップで年老いた体に鞭打ち、一生懸命に最後まで生き延びた金魚を成仏させるための小さな穴を掘った。その上に割り箸で作った卒塔婆に金魚の名前であるギョという文字を書き込み、土の上に差し込んだ。荒れ果ててしまった庭の中で今での割り箸の卒塔婆は朽ちることなく立ち続けている。

金魚は一匹一匹と死んでいった。五匹いた中から一匹一匹と死んでいき、そのたびに水槽に増えた隙間を埋めるかのように、残った金魚たちはぶくぶくと太り、大きくなっていった。金魚たちは大きくなった口で貪欲に小さな丸い餌を食べる。食事を終えるとエネルギーを温存させるかのように水槽の中でじっと漂う。一匹、二匹と金魚たちが死んでいく。残り二匹になったあたりからだろうか、父が体調を崩した。交互に世話をしていた私たちの一人が倒れ、私や母は彼のことで奔走させられ、金魚などのことを構う暇はほとんどなくなってしまった。
ある日、彼の入院先から私が帰り、途中で買ってきたコンビニ弁当を啄ばみながら、ふと机の隣にあった水槽を見やった。水を替えたのはいつだっただろうか、水槽の中の水は濁りきり、丸く綺麗な光沢を放っていた砂利には汚らしい緑色の藻が生えていた。水槽の側面の硝子も藻が所々に生え始めており、中の様子はモザイクがかかったかのようにうかがい知ることができない。中に入れておいたはずの水槽は柔らかい部分は啄ばみつくされ、もう茎だけがゆらゆらと水槽のなかでゆれている。疲れ果てながら見ていると、ふと水面に漣が走る。なんだろう、餌もまだやっていない水面に浮かぶものなど何も無いはずだ。水槽を上から覗き込む、金魚が一匹浮かんでいた。ぷくりとした腹を上に向け、ぽかりと浮かんでいた。あぁ、また金魚が一匹死んでしまったのだ。浮かんでいる金魚がぴくりと動いた。なんだろう、残った一匹の醜く太り肥えた金魚が泳ぎ、水を揺らしたのだろうか。断続的に金魚が痙攣したように動く。なんだろう、この動きは、と水槽の中を覗くと残りの金魚が死骸の側を泳いでいた。彼は死骸をつつく、一度つつくと一辺はなれる。水槽の中を一周するように泳ぐと、再び死骸に近づきつつく。醜く太った巨体をゆらしながら泳ぎ、水面に浮かぶ死骸に近づきつつく。彼は同じ動きを何周も何周も行っている。いったい、何をしているのだろうか。あぁ、そうか死骸を彼は喰っているのだ。そう、思考が行き着いたとき、目が覚めた。
食べかけの弁当の上に置かれたままになっていた割り箸で急いで死骸をつまみ出し、残ったままになっていた固形状の金魚の餌を水槽へとぶちまける。死骸の片面は長い間空気にささられ鱗からは輝きが失われ、逆側は啄ばまれ、ぼろぼろになっていた。

 なんとか体調を良化させた父が退院した。以前に比べ痩せこけて疲れ果ててしまった父は入院中の分を補おうとするように精力的に金魚の世話を続けた。そんな姿をみて、私は彼に残った金魚のギョが死んでしまったキンを啄ばんでいたことを伝えることはできなかった。
 ギョは父の丹念な世話のおかげか、たった一人だけのものとなった大きな水槽に体のサイズを合わせるためか、今までにもまして、どんどんとでかくなっていった。小さく、細かったはずの体は大きくなり、それにもまして腹の部分がぶくぶくと太りだしている。小さいころは流線型の綺麗な形をしていたのに関わらず、今ではぶくぶくと太り、今までは気が付かなかったようなところに凹凸が見える。なんて醜い姿だろうか、その泳ぐ姿は優雅ではない。泳ぐというよりも肥満体型の男が沈んでいくようだ。嫌悪感がぬぐいくれない。
 父はギョに生気を吸われているのではないかと疑いたくなるように痩せていった。弱々しく動きながら、水槽の上から餌を父はやる。パラパラと落ちていく餌を面倒くさそうに水面にあげってきては口で吸い込みただ食べ続けるギョ、すぐに浮いている餌を食べ終えるとギョはまだ喰い足りないと主張するように水面の下をぐらぐらと泳ぎ続ける。急かされるように父は水面に餌を落としていった。

 このままでは父が先に死んでしまうのではないかと思っていたが、意外にもギョは先に水面に浮かんでしまった。でっぷりと太った腹を水面に映し出し、ぷかぷかと浮いていた。ようやく死んでくれたかと私は思った。そのまま死骸をゴミ箱に捨ててしまいたかったが、父は最後まで生き残った金魚なのだからと言い張り、丁重にギョを埋葬した。だから今でもこの庭にはギョの死骸が埋められている。もう住人のいなくなってしまった水槽は父の手で丁寧に洗われ、庭に置かれていた。そのうち捨てればいいだろうと思って置かれていた。しかし、そのあと父は死んでしまった。

 水槽の中を窺い知ることは私にはできなかった。今、私の腹は徐々に膨らんでいる。母は事情はどうであれ、新しい命が大きくなってきていることに対して喜んでくれている。私は喜べない。あのぶくぶくと太っていったギョのように、父の生気を吸って育っていったギョのように。ぶくぶくと太ったギョはまるで化け物のようだった。今まで長年一緒に暮らしていたはずの仲間の金魚の死骸を啄ばみ、死に損ないの父から餌をせがみ、ぶくぶくと太っていた。私の腹の中にいるのは私の子供なのだろうか。この中にいるあれもギョのような化け物なのではないのか。本当にギョは土の中に埋まっているのか、水面に浮かぶ姿は死んではおらず、ただ浮かんでいるだけで、狭くなってしまった水槽の外へと出て行く手立てだったにすぎないのではないか。そして、庭においていかれた水槽に潜み、いつか私の体の中のあれと喰いあいを始めてしまうのではないか。

「こんなところで、何しているの
庭に出てきた母が水槽の前で佇んでいた私に向かって話しかけてきた。
「いいわ、この水槽は私が捨てることにしたから、貴方は家の中でゆっくりしてるのよ」。そういいながら、母は水槽に近づき、持ち上げる。
「あら、思ったより重いのね。中には何も入っていないはずなのに。」
 本当に中に何も入っていないのか。中を検分しようと、母に話しかけたい衝動に駆られる。しかし、そんなこといっても鼻で嗤われるだけだ。黙って私の前から去っていく母を見やる。ゆっくりと歩きながら、母は去っていく、何かが入っているかもしれない水槽を抱えながら。そっと、私は腹に手を当てる。私の中でゆっくりと何かが育っている。

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水槽

(ある冬の朝、××海岸で倒れていた少女が保護された)

 死のうと思って海まで行った。
 溺れることが、確実な自殺の方法だとは思わなかった。海で死ぬにしても、船に乗って行って沖の方で飛び込むのならともかく、海岸から入るというのはあまりうまくない、とはわかっていた。だから、私はたぶん、本当は死にたくなかったのかもしれない。
 それでも、とにかく私は死ぬつもりだった。
 天気予報では、最低気温が零度を下回ると言っていた。そんな日の午前五時、海に人がいるわけはなかった。
 それなのに、先客がいたのだ。夜と変わらない暗さの中で、視界は、やや離れた道沿いの街灯の光が頼りだった。まず目に入ったのは、海辺に立っている男の人だ。私の父よりは少し若そうだった。
 一応、見つからないようにはしたつもりだ。けれど、他に誰もいない海岸に、人の気配は濃すぎたらしく、男の人はすぐに私に気付いた。
「おはようございます」
 私は思わず頭を下げた。男の人も「おはよう」と言った。
 笑顔だった。素敵だった。
 彼は、私に挨拶をした後は、すぐに海へと視線を戻した。彼が何を見ているのかはすぐにわかった。海で泳いでいる人がいたのだ。
 遠くてよく見えないが、女の人のようだった。女の人は、ときどきこちらを見ているようだ。
「美根子だよ」
 彼はそう言った。
「奥さんですか」
「そうだね」
 瞬間、私はかっと燃えるような嫉妬を感じた。なぜこんなに頬が熱くなるのかわからなかった。私はつい、彼の隣に寄り添うように立った。
 奥さんは楽しそうに泳いでいた。海岸から少し離れた、足をつけばやっと頭が出るくらいのところを、左右に行ったり来たりしている。白っぽい水着を着ているようだった。彼の方は、ジーンズに薄手のTシャツを着ていた。死にに来た私でさえ、分厚いコートを羽織っているのに。
「美根子は、心臓が弱いんだ」
 独り言のように、彼は言った。私は彼の顔を見上げた。
「だったら、こんな冷たい海で泳ぐのは、危なくないですか」
 彼は答えずに手を振った。私にではない、海に向かってだ。奥さんを見ると、こちらに向かって、やはり手を振っているようだった。
「あそこまで海に入った時点で、もう同じことなんだよ」
 彼はまたぽつりと言った。彼が奥さん以外に気を払っていないのは明らかだった。私は空気のようなものだ。いてもいなくても、彼には何の影響も与えない。
「あの奥さんが死んだら、私と結婚してくれますか?」
 私は死ぬつもりだったのでどんなことでも言えた。
「ごめんね。僕は美根子を愛しているんだ」
「そうですか。残念です」
 断られても、意外なほどがっかりしなかった。
 奥さんの頭は、波間に出たり消えたりしている。そこだけをとると、衝立の反対側で鞠が跳ねている様子にも似ている。奥さんの首が鞠だ。最初の勢いを失った鞠が、だんだん跳ね上がらなくなってくる、そんな危うさまでよく似ていた。
「君は、何をしにここに来たの」
「……何となく、です」
「もしかして、世界が水槽の形をしているって、知っている?」
「いいえ。そんな話、初めて聞きました」
 彼は私に話しかけてくれたけれど、もう私を見てくれることはなかった。私は、彼の話が何であれ、それをただ一所懸命聞こうとした。
「大きな四角い水槽を想像してごらん」
 私は目を閉じて言われる通りにした。
「少し厚めに、砂を敷き詰める。そこに水をそそぐ。たっぷりと、でも高さは水槽の半分くらいまでにとどめて」
彼の頭の中にあるイメージを、そのまま私の頭に映し出したいと思った。
「その水槽を、ぐっと傾ける。わかるかな? 水の溜まった海の部分と、砂が底にへばりついた陸地の部分ができているって」
「わかります」
「そう。その砂の上が、僕達の生きている世界と同じなんだ」
 それきり、彼の説明はなかった。私は、ぱち、と目を開けた。
「でも、それだと世界は傾いていることになりますね」
「その通りだね」
 いい質問だと認められたようで嬉しかった。
「欠陥住宅なんかで、床がほかの少しでも傾いていると、住人は大概頭痛を訴えるんだ。家も世界も変わらない。だからみんな言うじゃないか、生きにくい、生きにくいって」
 ああ傾いていたからなんだ、と私は納得した。
「だったら、水槽をまっすぐ置き直せば、きっといい世界になりますね」
「いい世界? でもね、もし水槽が、水平なところに置かれたとしたら」
 彼は指揮者のような手振りを加えた。
「世界は終わりだよ。全ては水に埋まってしまう」
 そうですけど、でも、と私は反論を試みた。
「まだ、水があります。水の中だって、世界でしょう?」
「どうこう言っても、僕達は水の中では生きられないんだよ。僕達にとっての世界の終わりが、すなわち世界の終わりだ。それとも、君は魚の終わりについて考えているの?」
 私はそこまでお人好しではなかったので、首を振った。
「そう、砂が世界で、水は異界だ。砂が生で、水は死だ。だから、海は死そのものだよ。夏に海水浴に来る家族がいるね。今思うと、恐ろしいよ。どうして、ああやって死の中で遊べるのだろう。夏だから良かった、と思うしかない。夏の太陽は、水を奪ってくれるから。でも冬はそうはいかない。だから冬の海は死以外の何物でもない」
それは詩、それとも物語――? 私の口は弱々しく動いた。
「どうして、そのことに気付いたのですか」
「気付いたのは美根子だよ。心臓の病気になってから、感覚が違ってきたんだろうね。それで、僕に教えてくれたんだ」
 そう言う彼はどこか誇らしげで、私は初めて彼を人間らしいと思った。私の気持ちがほころびかけた、そのときだった。
「君は、帰ってくれないかな」
 突然、頬をはたかれた気がした。
「君はもう、ここが元々傾いている世界だって知ったんだから、だから、まだ砂にしがみついていていいと思うんだ」
 何でですか、と問い詰めたかった。そこまで知った私が、どうして引き返さないといけないんですか、と彼の襟首をつかんで揺さぶりたかった。
 しかし彼は、私への関心をすぐになくして、手を振っていた。奥さんに向かって手を振っていた。それでわかった。単純なことだ。彼は私に邪魔をされたくないのだ。
「――そうします」
 彼は私の返事を聞いて嬉しそうだった。だから、私はこれでよかったのだと自分に言い聞かせた。
 そのとき、さっと筆を走らせたように、空が白んだ。私達の足下に、海岸線がくっきりと姿を現した。
 私の頭の中に、再び、水槽のイメージが浮かんだ。傾いた水槽の中で、水と砂の境目が揺れる。私は呟いた。
「ここが、世界の果てなんですね?」
 彼は、ひどく満足気に肯いてくれた。

 ふいに、誰かに声をかけられたかのように、彼は海の一点を見つめた。私には何も聞こえなかった。
 彼はまた、海に向かって手を振ってみせた。
「ああ、美根子が呼んでる」
 奥さんは手を振っているのではなく痙攣しているのではないかと思った。
「じゃあ、行ってくるね」
 この人が戻ってくるかどうかだなんて尋ねる方がおかしいのだと思った。
「一人で残って大丈夫?」
「大丈夫です、私」
「そう。気を付けてね」
 彼は微笑んだ後、私に背を向けて海へと歩き出した。私は耐えきれずに叫んだ。
「何に?」
 彼が立ち止まる。足はもう膝近くまで海水に浸かってる。私はゆっくりと尋ねた。
「何に、気を付ければ良いのですか?」
 なぜだか彼の表情が少しもわからなかった。最後の言葉が、スローモーションとなって耳に届く。
「終わりに向かって転がり落ちないように」
 彼の頭が沈むまで、私はずっとその後ろ姿を見ていた。下半身から徐々に見えなくなっていく様子は、確かに傾いた道を下っていく姿にも見えた。
 私は立っている。頭が痛む。どこということもなく、痛みが頭に蔓延っている。傾いている。世界ははじめから傾いている。この痛み、この痛み――。

(少女から話を聞き出した警察は、付近の海を捜索したが、男女の遺体は発見されなかった)

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幻想と空間の狭間で

扉を一歩くぐると、そこは別世界だった。
 そこかしこにガラスが張られ、その向こう側には水が満ちている。日常生活している中で、濡れることなく水に囲まれる機会は、決して多くない。水自体も、普段見るような無色透明ではない。絵本や、子供向けのアニメで見るような水色から青。もちろん、水そのものが変色しているわけではない。照明の光が水の中を通り、私たちの目にそう映るだけだ。
 入って正面のガラスの向こう側、水の中にいる彼らが、新しい客を歓迎するかのように大きく動く。足繁く通っている私のことをようやく彼らも理解してくれたのかと思うとうれしく思う。
……そう感じるのは、やはり私の願望なのだろう。いくら顔をつきあわせたところで、相手は所詮爬虫類、脳の容量などたかがしれている。この亀たちの脳ミソは人間の個体を認識できるほどありはしないだろう。
かくいう私も、これだけ通いながら彼らの識別をできていない。……ふと、ある考えが頭をよぎる。ひょっとしたらやつらも私のことを、やつらの個体差を識別できない愚か者としてみているのではあるまいか……。そう思い始めると、あの大きなつぶらな瞳が私のことを哀れむ眼差しを向けているかのように思えてくる。
いや、そんなことはありえない。私の脳ミソの容積が小さいだなんて、そんなことあるはずがない。見るな。見るんじゃない。名もわからぬ亀、その瞳でこっちを見るんじゃない。
そう。そうだ。同じ人間同士であっても人種が違えば認識できないことがあるのだ。異種族間でそれができると考えることがそもそもの間違いなのだ。よって、私が彼らを個として認識できないのは、私の脳ミソが少ないせいではない。これは種が異なることによって起こった悲劇なのだ。
そう。この眼差しは、互いを理解できない互いの身の上の悲しみを私に訴えかけるものなのだ。ああ、亀よ。どうしてお前は亀なのだ。お前が亀でなかったならこのような思いをせずにすんだのに。そのような視線を投げかけてくれるな。私とて辛いのだ。
さっと、逃げるように脇の通路へと進む。きっと、きっとまた会いに来るからな。その時まで……。

進むと、上下左右ともガラスに囲まれた、トンネル上の通路へと入って行く。
いつもながらここを歩くのは心臓に悪い。今、この瞬間に下のガラスが割れて、落水してしまうのではないだろうかという不安に苛まされる。
この不安、恐怖はどうにもならない。私は泳げないのだ。水族館で溺れたとあっては、周囲の笑い者になることは確定である。これは、同じ境遇に立つ者にしかわからない心境である。
同胞に忠告する。この水族館には来ない方がよい。万一、如何ともしがたい理由で来なければならなくなった場合は、決してここを通らないように。順路を無視すればここを避けて館内を回ることができる。だが、逃げたら負けだと思い、敢えてこの道を選ぶという猛者のチャレンジを止める気はない。むしろ、そのような人は是非挑戦して欲しい。そして、私とこの感覚を共有しよう。

恐怖地帯を抜けると、一転、一つ一つのブースに魚が数種類ずつ小分けにされている場所にたどり着く。
小さな箱の中、生息地帯のある一部だけを切り取って模された環境に詰め込まれた魚たち。本来あるべき水の流れもないところが多い。自然の状態に比べ、格段に不自由であることは想像に難くない。
その窮屈さの代わりに、外的から狙われる心配がなく、日々の糧を得るために精を出す必要もない堕落した生活が約束され、また許されている。
……うらやましい。私も明日の心配なく、気ままに日々を過ごしたい。そのためだったらかなりきつい束縛だって受けますよ。どうでしょう。と言っても誰も反応してくれませんね。そうですね。返事が聞こえたら危ない人です。
やはり働くしかないのであります。それが日本国民としての義務なのであります。こうしてたまの休みに一人で水族館に来るしか楽しみのないワーキングプアも、たとえ生活保護を受給したほうが楽になろうとも、生活保護の申請などせずに懸命に働くのであります。そうでないと故郷の両親に申し訳が立たないのであります。

……寒い。はっとして周囲を見渡すといつの間にか館外へと出ていた。
思考にふけりながらも、きちんとドアは自分で開けたようだ。人間の無意識の動作とは素晴らしいものである。この調子で普段の仕事も無意識下で行ってくれれば、大変ありがたいのだが、やはりそううまくはできていないところが残念である。
それにしても寒い。曇り空の上、風が吹いていて寒いことこの上ない。
館外のプールではイルカのショーが随時催されているそうだが、機会がなく、まだ一度も見たことがない。興味があるのにとても残念なことである。
パンフレットの開催予定時間と現在の時刻を見比べると、今から五分ほど後に始まるようだ。
どうしよう。確かに興味はある。しかし、何も機会がこんな寒い日に来なくてもいいじゃないか。例えば先週とかであれば日も出てて暖かかったというのに、これはいじめなのか。いや、何も今日見る必要はない。これからもここには通うつもりでいるのだ。また機会が、少なくとも今日よりは気候のいい日にやってくるだろう。だが、今まで通っていて、ちょうどいい機会、時間に巡り合ってきていなかったことも事実。これを逃したらしばらく見る機会など訪れないのでは。
結局、私は観覧席の隅っこに一人陣取っている。やっぱりせっかくだし、ね。ショーを見て熱くなれば外気の寒さなんてきっと忘れるよ。
真ん中最前列では幼稚園児とその保護者たちと思しき団体が騒ぎ立てている。あれくらいの子供に水族館で、しかもイルカショーを前にして落ち着いていろと言うのは無理な話だ。平日の夕方ということもあって、他に人は見受けられない。誰に迷惑をかけるわけでもないのだから、放っておけばいい。
そんなことを思いながら、見ていると、ふと、子供の中の一人と目が合った。軽く笑って小さく手を振ると、大はしゃぎでぶんぶんと音が出そうなほど力いっぱい手を振り返してくれた。 
ああ、かわいらしいな。そう思ったのも一瞬、母親が子供を正面に向き直らせ、こちらをきっとにらみつけた。
何を勘違いしている。意思疎通を図ることの何がいけない。そうやって他人を遠ざけて育てるから、分別のつかない、コミュニケーション能力の低い子供ができてしまうのだ。昨今の若者問題の現場に遭遇したようだ。これは明らかに親害だろう。子供は他者と触れ合おうとするのに、親が過保護になってその機会をすべて奪ってしまう。このような親を持ってしまった子はかわいそうだ。親に負けず、強く、正しく育ってくれ。
おっと、そんなこんなしているうちに、飼育係三名とイルカ三匹が出てきた。飼育係が順にイルカの紹介をし、紹介を受けたイルカがプールサイドを滑る。滑り終わったイルカは、そこで別の飼育係から餌を受け取っている。餌を直接口に入れてもらったり、放り投げられた餌をキャッチしたりと、その度に子供たちから歓声が上がる。
イルカなどはその知能の高さと愛らしさからショーなどを仕込まれ、こうやってプールで人々を楽しませている。しかし、その一方でその生態を解明するため実験室や水槽、海では観察や実験が繰り返されている。
これは我々と自身と同じなのではないだろうか。人々は他者を喜ばせるために芸や能力を身につけ、その一方で自身も含め人間のことがわからないために人間観察や種種の行為をし、他者の反応を伺うなどする。
これが観察者としての神が存在すると仮定すると、この地球そのものが実験室であり、水槽なのかもしれない。どこまでだったら生きていけるのか、快適に過ごせるのか、こうした状況に陥った時、どのような行動をとるのか。観察者がそれを見たいがために地球は環境を変えているのかもしれない。
だとすると、環境をいじくるたび、人間を始め、地球上の生物たちが何とか生き残ろうとするのを観察者は楽しんで見ているのだろう。だが、生憎と人間はじたばたと騒ぐものばかりではない。わたしのようになんとはなしに生き続けている者が少なからずいる。ちょうど、働きアリの数割のように。そのような人間も観察者にはよいサンプルになるのだろうか。

子供たちの歓声が一際大きくなる。どうやらショーが終わってしまったようだ。ガヤガヤと興奮冷めやらぬ様子で子供たちがプールを後にする。
風が冷たい。もちろんショーの内容などまるで覚えていないのだから熱くなれるはずもない。やはりまたの機会にするべきだったろうか。

閉館のアナウンスが流れる。今日もいい時間をすごした。今日見たのは亀とイルカと……ええと、なんだっけ。まあ、いいか。次の休みにまた来よう。暇な時間はたっぷりある。
                  了

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