FC2ブログ
さらし文学賞
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |


夢実

夢実
 
 私は自分のことをごく平凡なサラリーマンだと思っている。親に言われたとおりに大学に進み、それなりの中小企業に就職したのが八年前、それから三年経って、同僚の女性に恋をし、交際を始めた。それから約一年後に結婚をして、すぐに子どももできた。男の子だ。
 もうすぐで五歳の誕生日を迎える頃だ。プレゼントには何かおもちゃと、弟か妹も作ってあげられたらいいな、と考えている。
 どこにでもいそうな一般的な家庭だ。特別なことはないが、それなりに幸福な人生を歩んでいる。
 そう思っていた。あの夢を見るまでは―――――――


「向井さん、起きてください」
「うーーん?」
「もうすぐで起きる駅ですよ」
「ああ、そうか。ありがとう」
 どうやら帰りの電車で居眠りをしてしまっていたらしい。
「最近、疲れ気味ですね」
「あまり寝付けなくてね。疲れが取れないんだ」
「そうなんですか?」
「それに夜の方もちょっとあってな。そろそろ二人目を作ろうかと」
「それは羨ましい限りで。でも、体調管理はきちんとしてくださいよ。向井さんが倒れたら、僕の仕事が増えてしまいますから」
「それには気をつけてるよ。無理はしないようにはしているし」
 そこで到着のアナウンスが流れる。
「じゃあ、降りるか」
 扉が開く前に席をたち、降りる準備をする。そして。開くと同時に他の乗客に揉まれながら降りる。改札口あたりまでこんな感じだ。働き始めた当時は帰りでも混雑することにいらいらしていたが今ではこなれたものだ。
「今日も相変わらず混んでいましたね」
「そうだな」
「そういえばさっきのことなんですけど、いい薬局紹介しましょうか? 僕も寝付けない時があったんで、睡眠薬を探していたんですが、そのときにいいとこ見つけたんですよ。薬剤師一人で経営してるんですけど、そこの薬は良く眠れたんですよ。どうです?」
「個人って、大丈夫なのか?」
「まぁちょっと変な人でしたけど、大丈夫だと思いますよ。現に僕が平気なんですから」
「それもそうだな。それじゃ、教えてもらえるかな」
「じゃあ、後で細かいことも含めてメールしておきますね」
「そうしてもらうと助かる」
「分かりました」
 改札からしばらく歩いて、交差点に差し掛かる。ここで私はまっすぐ、彼は左手の道へ別々の帰路につく。
「それじゃ、僕はこっちで。お疲れ様です」
「お疲れ様」
 前の信号が青になったので歩き出す。後、五分もすれば家族が待つ我が家である。
 少し外装のペンキが禿げていたり、きれいとは言い難い三階建てのアパートだが、そこまで不便ではない。自分の身の丈には合っている。そのうちはマイホームを持ちたいという希望はあるが、いつのことになるかは分からない。それよりは今は子供のことを頑張りたい。
 部屋のある三階まで疲れた重い足をのっそりのっそりと一段ずつあがる。まだ三十代にも到達していないのに体力に衰えを感じる。それとも単なる疲れか。どちらにしても健康は大事なので何か運動でも始めようか。
 階段を上がりきり、ようやく部屋の前までたどり着く。上着のポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。
「ただいま」
 そう声をかけると息子の悠太が玄関まで駆けてくる。
「おかえりなさーい。ねぇはやくあそぼ、あそぼ」
 子供は疲れた私に気づくはずものなく、無邪気に笑顔を見せて、遊びをせがんでくる。
「お父さん、今日疲れたるんだけどな」
「ええー、あそぼうよ」
「そのくらいにしなさい。お父さんも大変なんだから」
 そう言って、エプロンで手を拭きながら妻の百合恵が奥から出てくる。どうやら料理の途中だったようだ。
「おかえりなさい。ご飯まだできてないから、先にお風呂でも入っていて」
「分かった」
「ゆうもはいる!」
「そうね。一緒に入りなさい」
「うん」
 どうやら風呂でゆっくりすることも難しそうだ。


夕食を終え、悠太も遊んで九時を短針が過ぎる頃にようやく悠太が床についた。
「はぁ疲れた」
「お疲れ様です」
 そうお茶を一杯コップについでくれた。
 冷たい麦茶が体に行き渡る。
「ビールでも飲みたいんだけどな」
「ダメよ。アルコール入れたら、すぐ寝ちゃうでしょ。これからなんだから」
 どうやら今日も早くに寝かせてはくれないようだ。
「今日は疲れてるんだけどな」
「でも、そろそろ排卵日だし、今を逃すとまた先送りになっちゃうけど。もうちょっとだから頑張ってお父さん」
「わかったよ。だけど、もう少し休ませてくれ」
「はいはい」
 正直、悠太の相手をするよりも体力を使うのだ。
 ふと携帯を見ると、メールが届いていた。後輩の三田からだった。先ほどの睡眠薬のことだろう。メールを開くと、薬局の場所と名前が書かれていた。
 〇〇区〇〇町〇〇―〇〇 野原薬局
 携帯の地図で調べると、意外と会社から近いことが分かった。明日の帰りにでもよってみよう。
「そろそろいいかしら?」
 体力が残っていれば……


 昨日は早めに切り上げてもらったのだが、やはり疲れが残っている。それなのによく眠ることができない。
 なので、さっそく教えてもらった薬局に足を運んでみた。
 外観は至って普通の薬局で、看板は少し古臭く、局の文字がかすれてしまっている。
 扉を手前に引いてドアを開ける。それに合わせて鈴がからんころんと鳴る。
「いらっしゃい」
 奥の方から若い男性の声が聞こえてくる。そして、人がのっそり出てきた。
 白衣を着ていて、背は高いのだろうが、猫背のせいで背が低く感じる。髪もぼさぼさで科学者のみたいだ。それもマッドとつきそうな。年も自分と変わらない、あるいは年下かもしれない。
 中は少しだけ変わっている。というのもほとんど薬が店に並べられていないだけなのだが。
「本日はなんのご要件で?」
「睡眠薬を欲しくて。最近よく眠れないので」
「そうですか。うちはお客様一人一人に合わせて薬を調合していますので、少々お時間をいただきますがよろしいですか?」
「どのくらいですか?」
「三十分もあればできると思いますが」
「それぐらいなら構いません。お願いします」
「では、いくつか質問をさせていただきます。いつから寝付けないですかな?」
「ええと……」
 そのあとも体調管理の仕方や食生活などのことを聞かれた。病院で診察を受けている気分だ。
「分かりました。では最後に一つだけ。最近夢は見ましたか?」
「夢ですか。ほとんど見てないと思います。見たとしても夢って忘れてしまうものでしょう?」
「そうかもしれませんね。ただ、夢っていうのも一日の情報を整理してる時なのでできるだけ見ている方がいいのですが。それに夢にはその人の本質が出てくるものなのです」
「本質ですか?」
「そうです。フロイトの夢分析みたいな感じです」
「それが薬作りに関係あるんですか」
「あるといえばありますが、ほとんどは僕の興味・関心です。人の夢の話を聞くことは楽しいので。
 それに目を背けていることと向き合う機会にもなりますよ」
 この時、少し気味悪い笑顔を浮かべる。何か企らんでいるかのような、だがすぐに先程までの営業スマイルに戻る。
「では、作業に取り掛かりますね。外で適当に時間でも潰していてください」
 そう言い残し、裏の方へ姿を消してしまった。
 店の中にいても仕方がないので一旦外に出ることにする。近くに本屋があったのでそこで時間を潰すことにした。
 新刊のミステリーを立ち読みしていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。続きも気になるので買っていくことにした。
 レジで会計を済ませ、野原薬局に向かう。
 からんころんと扉を開けると、すでに裏から出てきていた。
「お待ちしていましたよ」
「ありがとうございます。いくらですか?」
「千円に税を含んで千八十円です」
 財布から千円札と百円玉を取り出し、手渡す。
「では二十円のお返しです。一週間分です。こちらの薬ですが、何か副作用があるかもしれません。体質的に合わなかったり、私がミスを犯してしまった可能性もあります。なので、体調を崩されたら、すぐに来てくださいね」
「分かりました」
 薬が入った袋を受け取り、カバンにしまう。
「では、よい夢を」
 そうにへらと笑って言った。


 今夜さっそく使ってみることにした。今日は妻の体調がすぐれないということで夜の営みはなしになった。
 紙袋から取り出すとビニールで小分けされた袋が七つ出てきた。白い粉末ぱっと見、危ない薬に見えないこともない。
 一つを残して、他の袋を戻す。台所から水を一杯汲む。袋を開けて、口の中へ入れ、一気に水で飲み流す。
 そのまま百合恵の寝るベッドに向かう。布団に入り、小さい明かりだけを付け、夕方に買った本を読むことにする。だが、一ページもめくることなく、睡魔に襲われ、そのまま意識がすうっと落ちていった。


「起きて、あなた」
 気がつくと、もう朝だった。いつもの朝と違いすっきりしている。薬のおかげだろうか。
「おはよう」
「おはようございます。それと電気がつけっぱなしでしたよ」
「ああ、ごめん。本に夢中になってたよ。ほら、これ」
 布団の上に開いて置いてあった。少し折り目がついてしまっていた。
「気をつけてくださいよ。電気代も馬鹿にならないんですから」
「気をつけるよ」
 なんだか夢を見ていたような気もするが忘れてしまった。
 まぁともかくこの薬はいいかもしれないな。今日三田にお礼でも言っておこう。
「朝ご飯もできてますから早く支度してくださいね」
「分かったよ」
 妻が寝室から去り、私も着替えを始める。
 さてと今日も家族のために頑張りますか。


 薬を服用し始めて三日目ある異変が起きた。異変とうことでもないのかもしれないが、とても不吉な夢を見た。日が経つたびにはっきりしていくのだ。毎日同じような夢をみているのだと思う。記憶に残っているのは一面が真っ赤に染まっている部屋だ。それも私の部屋だ。
 ただの夢なのにひどく心に引っ掛かりを残す。何か大事なことを忘れているような。
 でも、それだけだ。体調の方は何にも問題はない。むしろ快調なほどだ。疲れも取れ、仕事にも成長ができている。
 私の過剰な心配だろう。そう自分に言い聞かし、今日も職場に向かう。


 服用四日目、夢の情報が加わった。赤い赤い部屋の中に人のような…いや、人だ。人が倒れている。赤いのは血なのだろう。
 あれは誰なんだろうか。
もしかして私なのだろうか。
それとも私の近くにいる誰なのか。
予知夢などというものを信じる気は毛頭ないのだが、心をざわつかせる夢だ。
薬のせいなのか。これも副作用に内にはいるのだろうか。
今日の帰りにでもあの薬局に寄っていこう。
 しかし、あの薬局をいくら探しても見つからないのだ。それどころか三田からのメールさえ残っていない。受信履歴をいくら探しても見つからない。
 三田本人に電話もしてみたが、残業に集中しているのか分からないが繋がらない。
頭は混乱していくばかりだ。近くにあった本屋は存在している。でも、薬局は見つからない。建物そのものが存在していない。
これが狐に化かされたとでも言うのか、自分の記憶を疑わざるを得ない。
どうもあの日から何かが狂い始めている。
痛い頭を抱えながら、帰宅する。
「おかえりーーー」
「お帰りなさい、あなた」
 家は何にも変わりない。いつもごく普通のそこそこ幸せな家庭だ。安心な我が家だ。
 でも、不安は払拭されはしない。家には薬が存在しているのだ。
「なぁ百合恵」
「なぁに? 早くお風呂に入ってきたら」
「ああ、すぐに入るよ。この薬なんだけど、俺なんか言ってたか?」
 すると、一瞬何を言っているのだろうという顔を浮かべた後、口を開く。
「同僚に勧められた薬局でもらった睡眠薬だって言ってたわよ」
「そうだよな」
「大丈夫? 疲れてるのかもしれないわ。今日は早く休みましょう」
「大丈夫だよ。ちょっと勘違いしていただけだから」
 心配そうな表情を浮かべるが、それ以上は何も言わずに台所に戻っていった。
「ねぇ、おとうさん」
 いつまにか悠太が足元にいた。
「いっしょにおふろはいろう!」
 そう言ってズボンを引っ張る。
「そうだな。入るか」
「やったー。 ゆうさきにはいってるねー」
 そう言って、さっさと洗面所に向かってしまった。子供は悩みがなさそうで羨ましいなどと考えながら、スーツをハンガーにかけて、自分も風呂に入る準備をする。
 浴室に入ると湯気がぶわっと顔にかかる。私は最初に体を洗ってから浴槽に浸かるので、椅子に座り、体を洗い始める。
 悠太は湯に浸かりながら、おもちゃで遊んでいる。
 その後は悠太の体も洗ってやる。二人の体がきれいになったところで、ゆっくりに湯に浸かる。疲れも癒される至福の時だ。
「ねぇおとうさん」
「何だ?」
 悠太が話しかけてくる。
「ゆうね、きょうこわいゆめみたの」
 一瞬だけ頭に今朝の夢の景色がよぎる。悠太の言葉は続く。
「おとうさんにおこられるゆめ」
「お父さんだって、悠太が悪いことしたら怒るぞ」
「ゆうなんにもしてないもん。それにすごいたたいたりしてきたの」
「大丈夫だよ。お父さんは悠太が良い子にしてたら怒らないよ」
「ほんとう?」
「本当だよ」
「ぶったりしない?」
「しないよ」
「………だ」
 小さくて聞き取れない。
「…そ……だ」
「何だ? 聞こえないぞ」

「―――――うそだ」

 はっきりとそう言った。今まで聞いたことない。悠太の低い声だった。本当に悠太の口から発せられたのかと思うほどに。
「う、嘘じゃないぞ」
「嘘だ嘘だ」
「だから嘘じゃ…
「うそだ! 嘘だうそだ。嘘だ。うそ! う・そ・だ!!」
 何が起こっているのか、全く分からない。そりゃ悠太はまだまだ幼い癇癪を起こすこともあるけど、これは子供が起こすものではない。こんなことはなかった。
目の前のこれは誰だ。本当に私の息子の悠太なのか。そう自分を疑う。悠太の皮をかぶった別の何かと言われても信じてしまいそうだ。
「お父さん、やめてって言ってもゆうを叩いた。やめてって言ったのに蹴った、殴った、投げた、投げつけた、刺した、手で足で椅子でペンで包丁で顔をお腹を背中を腕を足を全身を。痛いって言ったのにやめてくれなかった!」
 低い声で叫ぶ。
 顔は憎悪で歪み、目は虚ろ。以前の悠太の面影などどこにもない。
「な、何を言ってるんだ。お父さんそんなことをーーー
「うるさいうるさいうるさーーーい!」
嘘つき      うそつき    ウソつき  嘘吐き
  うそつき嘘つき   ウソつき    ウソツキ  嘘
 ウソつき   嘘つき  嘘つきウソつき嘘吐きウソつき嘘吐きウソつきウソつきウソつきうそつきうそつきうそつk

―――――――人殺し―――――――








「ああああああああああああああああああああああああああ」
 私は跳ね起きた。呼吸は荒く、心臓はばくばくと落ち着くことはなく、血は全身を駆け巡っている。同時に汗もびっしょりで、寝巻きをが体に引っ付いて、気持ち悪い。
 だけど、先ほどまでの浴槽ではない。寝室のベッドの上だ。当然悠太もいない。部屋の明かりは付いていなくて、真っ暗だ。カーテンの隙間から漏れる月明かりでうっすらと見える程度だ。
 
 バンッ!

突然ドアが開く。
体が音に反射してびくっとなる。そして、明かりがつく。明るさに目がなれず、眩しい。誰かが部屋に入ってくるのは分かるが、誰かが見えない。
そこに声がかけられる。
「大丈夫!」
 百合恵だった。
「今大きな声が聞こえたけど、どうかした?」
「なんでここに?」
「あなた覚えてないの。お風呂でのぼせたのよ。お父さんが寝ちゃったって、悠太が教えに来てくれたのよ。見に行ったらぐったりしているし。大丈夫? 私の言うことちゃんと理解できてる?」
「大丈夫。大丈夫だ。頭は動いてる」
「本当に? 気をつけてくださいよ」
「ああ、そうだ」
 いつから夢を見ていたのだろう。どこから夢を。
 そうだ。悠太は。
「悠太はなんともないか」
「大丈夫よ。今はぐっすり寝てるわ。もう十一時ですもの。あなたの心配してのよ」
「そうか。他に何か変わったことはないのか?」
「何かって?」
「その何だ。突然喚いいたりとか、人が変わったようになるとか」
「そんなことはないわよ。やっぱりまだ寝てた方がいいんじゃないの?」
 やっぱりあれは夢なのか、あの悠太は。
 最近の夢はどこかおかしい。あの薬を飲み始めてからだ。少し服用をやめよう。特に寝つきが悪いことはないんだし、一旦やめよう。
「ああ、でも」
「でも、何だ」
「ええとね、そういえばあったわよ

―――――――あなたが私たちを殺したことよ

 えっ
 首が自分でももげるかと思うほど、百合恵の方に顔を向ける。
 そこにはさっきまでの優しい百合恵の面影はどこにもなかった。表情は歪み、というか頭がひしゃげている。鈍器で殴られたように凹んでいる。顔は血で真っ赤に染まり、今もなおその血は固まることなく、ぽたぽたと床にたれ続けている。
「何を驚いているの? あなたが殺ったんじゃない」
「私は何も」
 私はまだ夢を見ているのか。こんな悪夢早く覚めてくれないか。これは何なんだ。何故こんな夢を見る。
「なぜって、少しでも私たちに後ろめたいことがあるからじゃないの?」
「そんなことはない」
「じゃあこれはなんだと思うの?」
「し、知らない。僕は何も」
「うそつき」
 入口に立っている百合恵の横にいつのまにか悠太がいた。
「うそつき」
「そうね。嘘吐きね。私たちにあんなに酷いことをしたのに」
「酷い、ことって」
「悠太に教えてもらわなかった? 暴力を散々私たちに向けたあと、殺したのよ」
 そう赤い笑顔を浮かべる。
「違う違うこれは夢だ。夢のはずなんだ。お前らは誰だ! 百合恵と悠太は! これは夢なんだろ!!」
「そうね。これは夢かしらね」
「そうだろ夢だろ。あれだって―――――――

あれ

「って、何かしら?」
 全身に鳥肌が立った。
すごく冷え切った声音だった。
心臓が止まるかと思った。
「おとうさん、あれって、なに? ねぇなに?」
「違うあれは夢なはずだ。あんなこと僕はしてない。してないんだ!」
「だから質問に答えて
「あれって
「「何?」」
 一歩ずつ詰め寄ってくる。血まみれの無表情で。砕けている足で、ひしゃげた腕を垂らしながら、血を滴らせながら。僕の方を一心に見つめながら、光彩のない目で近づいてくる。
 記憶には存在している。でも、あれは夢だ。悪い夢だ。そうなはずなのに。僕はどうしてこんなにも追い詰められている。
 だけど、夢だと思い込もうするにつれて、頭の映像はだんだん鮮明になっていく。同時に手にもそのときの感触が思い出されていく。
 違う違う。あれは夢なはずだ。最近見始めた悪い夢だ。これも何か悪い夢だ。目を覚ませば、いつもの幸せな家族が存在しているんだ。
「どこに幸せななんてものがあったの。あの地獄のような日々のどこにそんなものがあったの?」
「それなりに幸せだったはずだ。お前がいて、悠太がいて、どこにでもいる平凡な家族だったけど、稼ぎも多いとは言えないけど、面倒かけてばかりだったけど、うまくやっていてじゃないか」
「あなたの記憶ではそうかもね」
「何が違う」
「さぁ? あなた自身で思い出してみて」
「違う。これは夢なんだから。目を覚ませば…」
「あなたはさっきからそればかりね。それじゃ夢から覚めてみなさい」
 その言葉と同時に意識が一瞬遠くなった。

 目を覚ますと寝室だった。携帯には午前六時と表示されている。何も普段と変わらない。
 悪い夢を見た。
僕が百合恵と悠太を殺す?
 そんなことあるはずない。現に横で百合恵は寝ているんだから。
 頭が冴えてしまって、二度寝する気は起きない。とりあえず、寝起きのコーヒーを飲もうと静かに台所へ向かう。
 給湯器に水を入れ、スイッチをいれる。コーヒーの粉をを取ろうと棚に手を伸ばしたところに。
「おとうさん」
「わっ」
 突然声を掛けられた。
 驚いて振り向くと悠太が眠そうに目を擦りながら、立っていた。
「びっくりしたな。どうしたこんな朝早くに」
「あのねこわいゆめをみたの」
「どんな夢だ?」
「あのねあのね。おとうさんがね」
「うん」
「ゆうのことをころしちゃうゆめ」
「えっ」
 今なんて言った。これもまだ夢の続きなのか。一体にいつになったら解放されるんだ。
「大丈夫だよ。お父さんはそんなことをしないよ」
「またうそをつくんだね」
 途端に悠太の様子が一変する。外見に似つかわしくない低く不気味な声。
「いつまでもすすめないんだから」
「これも夢、なのか?」
「どうだろうね。そもそも夢って何? 現実って何? 何を持って夢と決めて、現実だと決めるの?」
「それは」
「どうして、これが夢だと思うの? ゆうがおかしいから?」
「そ、そうだ。悠太はそんな声で話さないし、こんなこと言わない」
「確かにこれは夢かもしれない。じゃあ、この次に意識が覚醒したときは現実? でも、そんなのわかんないよね。現実のような夢を見ているだけなのかもしれないよ。現実を現実と認識する方法はないんだよ」
「でも、これは夢だ」
「そんなことはどうでもいいんだよ。大事なのはおとうさんが自分の罪を自覚すること」
「僕は殺してなんかいない」
「そう思い込むのは自由だよ。でも、忘れちゃだめだよ」
「何を…」
「ゆうとおかあさんは苦しんで死んでいったこと、そして、お父さんを憎んでいること」

 一体何度目を覚ませばいいのだろうか。夢を幾重にも見ていた。ためしに頬を引っ張ってみる。
 痛い。
 これは現実だ。今度こそ夢の世界じゃない。時計は七時を回る頃。流石に起きなければ、遅刻してしまう。
 いつもなら、とっくに起きて、朝の支度をしているはずの百合恵はまだ横で寝ている。仕方ないなと思ったが、いつもやっているんだからたまには自分でやろう。
 からだを起こし、忍び足で寝室を出る。そこで何か異臭を感じた。何かが腐った臭いだ。臭いのもとを探したが見つからない。後で起きた百合恵に探しておくように言っておくか。
 他にも、カーペットが黒ずんでいる。百合恵にしては、ミスが目立っているな。少しキツめに言っておくか。
 コーヒーのための湯を沸かしていると、外がガヤガヤと騒がしくなってきた。よく耳を澄ませてみるとパトカーのサイレンまで聞こえる。
 何か物騒な事件でも起きたのだろうか。家族にまで危害が及ぶとなると心配だな。後で様子を見てくるか。
 朝のニュースを見ながら、コーヒーを飲んでいると、インターホンが鳴った。
 誰だ、こんな朝早く。二人が起きてしまうじゃないか。幸いまだ寝たままだけど。
 僕もそろそろ支度をして、仕事にいかければならないのに。愛する家族のために。
 わかったわかった。そんなに急かさないでくれ。すぐに出るから。 
 全く、一体の何の用なんだか。

スポンサーサイト

第二十八回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


~異類~コイン~tongue~

~異類~コイン~tongue~


「じゅっこさんや、ごはんをくださいな」
「昨日食べましたよ」
「そうでした」
 そういえばそうでしたー、と間抜けな声を上げながら、シュルシュルと私に登っていたヘビのニシキさんはぽてっと落ちた。そのままぴたっと動かなくなる。
「踏むといけないから高いところにいてくださいよ」
「そうでした」
 シュシュッと素早くニシキさんはテーブルの上に登って、またぴたっと動かなくなった。私がレンジでチンしたスパゲッティを置こうとしたまさにその場所で。むかついたので、あつあつのたらこスパゲッティを脇に置いて、私はニシキさんの頭と尻尾を引っ張ってピンと伸ばして、麺棒のようにころころ転がした。
「やめてくださいねじれてしまいます」
「へーびーがねじれるとー、どーなりまーすかー?」
「ちぎれます」
 即答だった。そして本気だった。ニシキさんはいつだって本気なのだが、いつもと一段違う超本気というか、本当にそうなっちゃうからやめてくださいおねがいしますという「ちぎれます」だった。私はそっとニシキさんを丸めてテーブルの隅の方に置いた。
「さーせんした」
「わかってくれればよいのです」
 しゅしゅしゅしゅしゅ、と舌を出し入れするニシキさん。私が冷蔵庫からビールを取り出して戻ってくると、彼は自分も飲む気満々でスタンバイしていた。その小さな頭を指でそっとつまんで裏返す。
「だめー」
「なぜに」
「食後ならともかく、食べてる途中のお酒は分けてあげませんのであしからず」
「わたしにあしはないのでよいではありませんか」
「そうですか。ところでニシキさん、私はお腹がすいているので、テーブルに乗っているものはなんであろうと食べてしまうかもしれません。ほら、スパゲッティとヘビって似てるじゃないですか。にょろっとしてて」
「こわい」
 ニシキさんはびょいんとバネみたいに飛んでテーブルからタンスの上に移動した。ヘビって飛べるんだー、とか思いながら私はスパゲッティを食べる。ビールを開ける音でタンスの上から蛇頭がのぞいたけれど、スパゲッティをくるくると丸めて口に運ぶ私を認めてすぐにひっこんだ。
「すぱげってぃきょうふしょうになりそうです」
「ヘビは食べないんだからいいじゃないですか」
「そうかも」
 それでいいのかニシキさん。それでいいのだニシキさん。ヘビだもんね。
 スパゲッティを食べ終わった私は台所からニシキさん専用おちょこを取ってきて、飲み残しのビールを注いであげる。ニシキさんはそこに顔をつっこんでんぐんぐ呑んだ。
「そうだニシキさん。返済返済」
「おやわすれていました」
 酒精でぐだぐだになる前に済ませておかなければならないことが、私たちにはある。財布から五百円玉を出してニシキさんの開いた口に押し込む。ヘビの口がごくんと飲み込むと、どこかでちゃりんと音がした。
「ごひゃくえんたしかにいただきました」
「残額はいくらですか」
「はっせんごひゃくろくじゅうにちょう、ななせんよんひゃくきゅうじゅうごおく、ろくせんよんひゃくななじゅうごまん、ごせんななひゃくろくじゅうはち、えん、です」
 8,562,749,564,755,768円。
 宝くじの一等を当てたところで一パーセントも減らない、砂漠の石油王を捕まえて身包み剥いでもどうにもならない額。
 私がニシキさんに背負っている借金。


 そもそものはじまりは両親の死にある。
 頼る親戚もなく両親の葬儀を終えた後、私は荒れた。
 これでもう私と血が繋がった人は誰もいないのだという寂寥感とか、こういうときに縋れる相手がいないような人付き合いしかしていなかったのだという衝撃とか、そういう。
 酒を飲んだ。しばらくして誰も一緒に飲んでくれなくなったので一人で飲んだ。飲んでいたらいつの間にか横にヘビがいた。あまつさえ話しかけてきた。酔っ払いの悪癖で私はそのヘビに酒を飲ませて、うわばみなのに下戸なそのヘビはべろんべろんに酔っ払った。それを指差してげらげら笑いながら、冷静な私は、こんなものが見えるくらいまで私は病んでいたのか、お酒はもうちょっと控えないとな、しかし私はヘビが好きだったのか、いや気持ち悪いイキモノなんだけどな、立ち直ったらヘビでも飼ってみるかな、と考えていた。そのときは。
 しかしながら私が立ち直ってもヘビはまだいた。素面のときでも喋っていた。飲ませるとべろんべろんに酔っ払った。おさけはすきだけど、じぶんはさけによわいからおなじへびとはのめなくて、じゅっこさんみたいなのみともだちができてうれしい、とか言っていた。じゅっこというのは私の本名をもじったもので、透子→とおこ→十個→じゅっこ。妙なあだ名をつけられたものだけど、ヘビはニシキヘビしか知らないからニシキさんと呼んでいる私の方がひどい。
 なにはともあれ私がどうもオカルトなことになっているらしいと認識したところで、ニシキさんはようやく彼が私のところに来た理由を話し始めた。困ったことにそれがもっと妙な話だった。
 遠い遠いご先祖様、殿様だった彼の人はあるときヘビの神様に借金をしたらしい。結局彼が生きている内に返済することはできなかったらしいが、気の長いヘビたちは子々孫々から少しずつ少しずつ返済してもらうことにした。ところが元の借金が莫大な額であるところに利子がついたものだから、借金は雪だるま式に膨らんでいった。こうなるともうどうにもならない。転がりだした雪玉は子孫たちの手を離れ、ヘビたちの……舌を離れ、制御不能になって天文学的なところに行ってしまった。一京円突破記念に無利子二割引サービスまでしてもらっても、どうにもならないものはどうにもならない。それでも子孫たちは律儀に細々と返済をしていたのだけれど、一人減り、二人減り、ついに残された子孫は私一人となってしまった……。
 返せるかーとか信じるかーとか言うには喋るヘビのニシキさんはオカルトすぎた。祟りとかありそうだった。なので毎日五百円、月々一万五千円くらいのお手軽プランをふっかけたら「わかりました」とあっさり受け入れられてしまった。なので、返済ついでに晩酌につきあってもらっている。


「きょうはとくべつなひだったのですか」
「あー、うん、まーねー」
 ちびちびとビールを舐めていたニシキさんがくっと顔を上げてそんなことを聞いてくる。今更私の服がいつもと違うのに気づいたらしい。
「友達の……結婚式で……」
「それはめでたいことですね」
「うん。めでたかった。めでたかったんだけど……」
 私はごつんとテーブルに頭をぶつけた。繋がりで呼ばれた大して親しくもない友達とはいえ、精一杯祝福をしてきたつもりだ。もうしわけないことだがそれはおまけというか口実であって、メインはお相手探しだったけれど。この歳になると出会いがない。一抜けした新婦のお慈悲の下、私の属するグループはいい人を探しに行ったようなものだった。
 でも、メインの二次会に行こうという段になって、私はこうして帰ってきてしまった。
「ニシキさんは結婚したことある?」
「どくしんです」
「そうなんだ」
「じゅっこさんは」
「ないですよーだ。知ってるでしょ?」
「そうでした」
 そもそもニシキさんは若いのか、どうか。聞くのはなんだかこわいような気がしてやめた。そのかわりにニシキさんのひんやりした鱗を一枚一枚指で撫でてみる。
「この鱗ってご利益とかあったりする?」
「ありますがはがしてはいけません」
「あるんだ……凄いね、ニシキさんて」
「はがしてはいけません」
 爪を立てるとニシキさんはするするっと逃げてしまった。寂しくなってビールを一気に飲み干す。ついでにニシキさんのおちょこも奪い取って一気に飲み干してやった。
「ニシキさん!」
「はい」
「今日は、とっておきのを、あけようと、思います!」
「おおなんですか」
 早くもおぼつかなくなった足でよろよろしながら、私は部屋の隅にある酒専用冷蔵庫の扉を開いた。ビールの缶を脇に押しやって黒い瓶を取り出す。ニシキさんが来るようになってからこっそり買ったとっておきだ。特別なときに飲もうと思っていたのにな、という考えが一瞬泡のように浮かんですぐ消えた。別にいい。こんなにつらいのも特別だ。
「かの八岐大蛇を酔い潰した酒を再現したという……八塩折仕込! 限定品だからめったに手に入らないよ!」
 しゅしゅしゅしゅしゅ、とニシキさんの舌がせわしなく出入りする。どうやら怒ってはいなさそうだ。ちょっと悪趣味かなと思わないでもないけど、それはそれとして、本当に高くておいしいらしい酒なのだ。テーブルに置くとニシキさんは素早く瓶に絡みついた。そうしているとヘビの飾りがついた豪華な瓶みたいで少し面白い。
「どう?」
「すごい」
「でしょでしょ」
「じゅっこさんのことだからはぶしゅがでてくるかとおもいました」
「ん? 飲みたくないのかねニシキさんや」
「のむ」
 ニシキさん、必死。私はくすくす笑いながら蓋を開ける。きゅっと捻るだけでふわっと香りが広がった。日本酒なのに花蜜のようなあまい香りだ。すぐさま頭を突っ込もうとするニシキさんをぶん投げて、まずは自分のコップに注ぐ。そしてニシキさんのおちょこにも。不透明な琥珀色の液体に私とニシキさんが映る。
「ではでは」
「はい」
 良い酒を前にして、酒飲みに言葉は要らない。私たちは飲んだ。とろみがある。甘い。こくがある。熟れきった果物のような、湧き出る清水のような。幾つもの要素が折り重なって馥郁たる馨香となり、喉を潤す。どちらともなく、溜息をついた。
「凄い」
「すごい」
 こんなものが売ってていいんだろうか。私だったら売らずに自分で全部飲んでしまうけど。早くもおちょこを乾してしまったらしいニシキさんはテーブルの上でひっくりかえってうねうねうねっていた。彼がしたたかに酔ったときによくやる癖だ。指で撫でると尻尾が絡みついてくる。
「ねえニシキさん」
「はい」
「結婚ってした方がいい?」
 ぴくん、とニシキさんの動きが止まった。しばらくして、またうねうね。
「はい」
「やっぱり」
「しますか?」
「うん、いずれは、と思ってはいるんだけど」
 せっかくおいしい酒を飲んでいるのに、なんでこんなことを喋っているのだろう、私。それでも、なんでも聞いてくれるニシキさんにどうしても言いたくて、言ってしまう。
「今日、結婚式に行って思ったんだけど、結婚て、相手を見つけて、恋愛して、結婚しようってなるまで仲良くなって、とか、そういう、エネルギーがいることだよね」
「えねるぎー」
「うん……式自体もさ、すっごい手間とお金がかかってさ、なんていうかね、私ね、自分にそれだけのエネルギーあるかっていったら、なくて、だから今日、帰ってきちゃったんだけど」
「はい」
 別にニシキさんが悪いわけではないんだけど。憎らしくなってニシキさんの尻尾の先をこりこりと指でつまんでやる。ニシキさんはひいとか言いながらびたんびたん暴れた。
 こんな、ヘビに借金返済中とかいうよくわからない事情を説明するのかと思った瞬間、気力が萎えてしまった。そうするということは、ニシキさんと仲良くお酒を飲んでだらだら喋るのを捨てるということだ。こういうのに依存するのはいけないと思うのだけど、でも、捨てられるかと問われたら。
 だいたいニシキさんが優しすぎるのが悪いのだ。ヘビのくせに。両親が死んでめちゃくちゃになっていた私を支えてくれた。辛抱強く話を聞いてくれて、やさしく諭してくれて、どんなひどい扱いをされても一緒にいてくれて。

 でも、それは。

「けっこんしますか」
「……知らない」
「しましょう」
「知らない」
「じゅっこさん」
「うるっさいな! 結婚した方がいいって言うのも、借金を返す人がいなくちゃならないからでしょ。ここで血が途絶えたら困るから。しますよ結婚。テキトーな人と結婚して子供いっぱい産んだら、ニシキさんはそれで満足なんでしょ! しますよ、します! すればいいんでしょ!」
 テーブルの足を蹴っ飛ばした拍子に八塩折仕込の瓶が落ちてばしゃっとこぼれた。部屋中に良い香りが広がる。とっておきを駄目にしてしまった。もう、なにもかもがつらくて、決壊してしまった。結婚しろって言われると思った。思ってたけど、でも、別に無理しなくてもいいんだよとか、なんか、そういうことを言ってほしかったのだ。言ってくれないだろうなとわかっていたのに、試すようなまねをした。ばかだ。
 泣きじゃくる私の腹に冷たいものがしゅるっと巻きつく。するすると登ってきた。
「なにかごかいがあるようなのではっきりいいますね」
「……」
「じゅっこさんぼくとけっこんしてください」
「へ?」
「びです。ぼくはじゅっこさんすきなのでけっこんしてください」
「いや、いや、えっと、ニシキさん」
「じょうだんでこんなことはいいません」
 冷たい鱗が首を回って耳元に近づく。しゅーしゅーと独特の音が耳元で鳴る。
「まいにちきてもらえるように、まいにちごひゃくえんかえすといったりする、さびしがりなじゅっこさんがぼくはすきです。なのでけっこんしてください」
 背筋がぞくっとした。自分でも気づいていなかった自分のばかな考えを言い当てられて、顔が一気に赤くなる。
「待ってニシキさん、酔ってる、あなた酔ってる」
「しらふでもいえますよ。じゅっこさんのためならぼくははぶしゅになったっていい」
「いらないいらない。あ、いや、ニシキさんがハブ酒になったっていらないってだけで、ニシキさんがいらないってわけではなくて」
 床にこぼれた八塩折仕込の香りが放散して頭がくらくらしてくる。もう、よくわからない。胸がいっぱいになった私がなにも言えないでいる内に、無礼なヘビはするっと服の内側にもぐりこんできた。
「ぎゃ、こら」
「ああもうじゅっこさんぼくはじゅっこさんがだいすきですよてきとうなおとこなんてゆるしませんじゅっこさんぼくとこどもをいっぱいつくりましょう」
 私の肌にじかに触れて、ニシキさんは興奮してしゅーしゅー言っている。というか子供とか言ってるけどもしかして今そういう興奮をしているんですかニシキさん。
「ま、待ってニシキさん、ほら、ええと、私たち人間とヘビだし」
「どうにかなります」
「借金とか、ほら、まだまだあるし」
「どうにかできます」
「好きって、そんな、そんなに好きなの私のこと」
「どうにかなりそう」
 そんなことをうっとりと囁くニシキさんの言葉は熱で蕩けていた。やばいやばいやばいやばい。本気だ。ニシキさん本気だ。冷たい鱗の感触がだんだん下の方に降りていってるのもやばい。
「そ、そのほら、ニシキさんちょっと待って、あんまりいきなりだから私準備ができてなくって」
「まちません」
「ひーどーいー!」
 しばしの格闘の末、私はどうにか服の下を縦横無尽に動き回るニシキさんを捕まえることに成功した。ベルトのようにお腹に巻きついている彼を握り締めて、問いかける。
「ニシキさん……あの、異類婚姻譚とかって、毎回すごいバッドエンドだったような記憶があるんだけど、そこらへん、どうなんでしょうか」
「いるいこんいんたんなんてわすれてください。つらいおわりかたをしたひとのはなしがのこっているだけです。はっぴーえんどはのこってないだけでいっぱいあります。ぼくとじゅっこさんもはっぴーえんどにすればよいのです」
 ニシキさんは自信満々に、きっぱりと言った。ハッピーエンド。夢のような話だ。
 私は服の下からニシキさんを引っ張り出してテーブルの上に置く。ヘビのつぶらな黒い瞳が私をじっと見つめてくる。
「あのね、ニシキさん。好きって言ってもらえて、とっても、嬉しかった」
「じゅっこさん」
「でも私、いままでニシキさんをそういう目で見てなかったし……あの、その」
「じゅっこさん」
「ヘビのニシキさんを、そういう相手として、見られるかは、ちょっと、わからない……」
 せわしなく出入りしていた舌がぴたっと止まる。決定的な一線を踏み越えてしまったという自覚はあった。でも、誠実に請うてもらったのだからこちらも誠実に応えなければいけない。たとえヘビとはいえ、好きと、結婚してほしいと言ってもらえるのは、嬉しい。でも、首を縦に振ることなんてできない。お酒と一緒だ。夢のようなひとときを過ごすことはできても、それにすべてを委ねることなんてできない。
 ピシッ、とニシキさんの尻尾がテーブルを打つ音だけが部屋に響く。せっかくのお酒もほとんど乾いてしまっている。私の火照りも醒めてゆく。
「じゅっこさんのこたえはわかりました」
「ニシキさん」
「こうなることはかくごしていたのでいいです」
「ニシキさん」
「わかっていたんですこんなことおもったってめいわくでしかないってことは。でもいいたかったんですいわずにはいられなかったんです」
「……ごめん、ね」
「どうじょうは、ごめんです!」
 それきり、ニシキさんはとぐろを巻いて、頭をその中に突っ込んで動かなくなってしまった。泣いているのだろうか。そうに決まっている。ヘビも泣くのだ。
 床に落ちた八塩折仕込の瓶を拾って、残っていた中身をコップに注ぐ。甘いはずの最後の一口が、ひどく苦かった。


















 むくっ。
「ではさらってゆきます」
「えっ」

 おしまい。

第二十八回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


夢の花

夢の花
                                

僕はオレンジ色の種を一粒蒔いた。彼女が僕にのこしたその種を柔らかな土に穿った小さな穴にそっと埋めた。
「夢の花は季節に関係なく咲く。育てる人の叶わなかった夢が花の唯一の栄養となるから。でも室温は高すぎたり低すぎたりしないようにしてね。それと水を毎日上げること!」
 彼女が種とともにのこした癖字で書かれたメモを読み返す。もう何度目になるかも分からない。
 僕は小さな黄色いジョウロで少しだけ水をかけた。茶色い土は黒っぽくなった。
 やがてプラスチック製の茶色いプランタに埋められた種は芽を出し、生長し、花を咲かせるのかもしれない。咲かせないのかもしれない。
 しばらくプランタの中を覗き込んだ後、顔を上げて空を見た。秋晴れの空には、細かにちぎれた雲が列状に行儀よく並んでいる。そのうち雨が降るかもしれないし、降らないかもしれない。
 ベランダから部屋の中を見れば、面白みのない僕の部屋が見渡せた。部屋を借りたときの状態に、生活に必要なものを持ち込んだ空間。趣味のものなどもない。そもそも趣味といえるほどの関心ごともない。つまらない人間なのだ。しかし、彼女の痕跡がまだ部屋には残っている。彼女は確かにこの部屋にいて、そして僕の隣にいた。
 風が吹いた。冷気を含んだ風は、半袖シャツから零れた腕の表皮から熱を奪っていった。
 もう秋になってしまった。彼女が隣にいた夏は終わった。



彼女は物事の悲観的な部分に美しさを見出す人だった。
幸福より不幸に、生より死に、ハッピーエンドよりバッドエンドに、出逢いより別れに。一度だけ一緒に行ったカラオケでも悲しい歌を唄っていた。彼女の好む映画も何だか胸が塞ぐようなものばかりだった。
そんな彼女と出会ったのがいつなのか、どこなのか、はっきりと覚えていない。大学に入学してからなのは確かだし、出会ったのも大学構内だったはずだ。
しかし僕らが出会うきっかけが何だったのかは覚えていない。サークルの新歓だったかもしれないし、一般教養科目の講義だったかもしれない。もしくは友人の友人だったのかもしれない。全部違うのかもしれない。大切に思っていたはずなのに。大切に思っているはずなのに。
何にせよ彼女はいつの間にか僕の周囲にいて、いつの間にか僕の生活に溶け込んで、いつの間にか僕の隣にいた。それは不思議としか言いようがなかった。
彼女は何者だったのだろう。それは分からない。
 僕が彼女に抱いた最初の印象はあまり良くなかったと思う。彼女もきっとそうだろう。彼女は何だかつまらなそうな表情で僕を見ていたから。彼女と親しくなったのは偶然であった。大学の食堂や図書館の席が混んでいて相席したり、一般教養科目の講義で席が近かったりして話すようになった。内容は下らないことばかりで、聞いた先から忘れていきそうなゴシップじみた話や趣味の話、僕のどうでもいいような過去の失敗談など。また僕はノートをまとめるのが苦手だからよく彼女のノートを見せてもらうこともあった。彼女は癖字だけどノートをまとめるのが上手だった。
「臆病だね」
 ある時彼女は僕にそう言った。あの時は、彼女が財布を忘れて、僕がジュースを買ってあげて、ついでに近くの公園のベンチで話をしていた時だ。それは確かに覚えている。
「へえ、臆病に見える?」
「だっていつも作ったような笑いを顔に貼り付けてる。それって他人が怖いからこびへつらっているんでしょ? 正直言って見ていて不快」
 感情を押し殺した様子で、だからこそ迫真を持った彼女の言葉が今でも耳に残響する。
「傷つくな。泣いてしまいそうだ」
冗談だと分かるような口調と身振りをするが、内心では言葉通りだった。僕はお調子者を装うことが多々あるけれど、それは真面目に他人と関わる自信がないからだ。僕の誠実が他人に嘲笑されるのが怖かったからだ。それはとても吝嗇だし、なによりも臆病であることの証明だった。醜悪で矮小でカッコ悪い男なのだ。
「なんか卑怯だよね、そういうの。みっともない」
「放っておいてくれよ」
 笑って言おうと思ったけれど少し怒気が口調に混じってしまった。
「下手くそだね。上手に隠せないなら最初から隠さなきゃいいのに」
「これは俺なりの人への気遣いなんだ。君みたいに物事を率直に言うとさ、怒ったり悲しんだりする人は少なくないだろ。俺は誰ともケンカしたくはないんだ。善良な性格だから、ね」
 少し本心を混ぜながら、本心をごまかすために終わりの言葉を冗談っぽく言ったはずだ。
「だから笑顔を貼り付けるの? それじゃあ本当に理解してくれる人は現れないよ」
「別にそんなもの求めてなんかいないよ。それよりも向うで男一人、女二人で言い合ってる。修羅場ってやつじゃないか?」
「真面目な話は嫌いなんだね」
「だってさ、そんなことを真面目に論じてどうするんだよ。今更、やめろって言われても手遅れなんだよ。君の言う通り俺は臆病なニワトリちゃんだからさ、こういう顔しかできないんだよ。だから放っておいてくれよ。おっと、男が平手打ちされた。痛そうだな、ここまで打撃音が聞こえたぜ」
「私はあなたに真面目な顔で話してほしい。不器用でもいいから」
「何だよ、無茶言うなよな」
 僕は少し不機嫌そうにそう言った。彼女は眼線を少しだけ下げて黙ってしまった。僕も何を言っていいのか分からなくて、無言で怒りながら立ち去っていく女の一人を観察していた。片方が立ち去ってからすぐにもう一人の女も男から立ち去っていた。残された男は茫然とした様子で、その場に立ち尽くしていた。
彼女に対して罪悪感が湧き上がっていた。他人の誠実に、優しい誠実で返すことのできない自分の情けなさに苛立ちも覚えていた。
「じゃあ俺、まだ講義があるから」
 僕は二人の間の気まずさと周囲の気まずさに耐えきれなくなって、適当な口実でベンチから立ち上がり彼女の下から立ち去った。
 
その次に彼女を見かけたのは彼女が男と二人でいるところだった。この前、公園で平手打ちされていた男だった。僕は何だか裏切られた気分になった。別に僕は彼女と付き合っているわけでもないし、彼女に対して特別の好意を持っているわけでもなかった。それでも僕は不快な気持ちを抱えていた。彼女は僕に気づいたようだったが、僕は気づかなかったふりを装ってその場を通り過ぎた。彼女に対してまともな態度をとれるようには思えなかった。
 それからしばらくは何となく物憂げな気持ちで生活を送っていた。梅雨の天気が憂鬱な気持ちを助長させていた。新生活を送る上での少しの無理が応えてきてもいた。それでも僕はお調子者のふりを無意識に続けてしまう。その度に僕は彼女の顔と彼女の言葉を思い出すようになってしまった。自分の笑顔に対する違和感が大きくなっていた。そのうちに自分は笑えなくなってしまうのではないかと不安になった。それでも誰一人として僕のそんな様子に気づいてはいなそうだった。もしくは気づいていたけれど僕なんかどうでもよかったのかもしれない。僕たちの関係などたかが知れていた。
「お前は悩みが無さそうで良いよな」
 学部の友人の無神経な言葉が感情を荒く逆撫でしても僕は笑顔を貼り付け続けた。僕にはこういう生き方しかできないと思っていた。
 講義の終了後に彼女が話かけてきた時、僕はかなり陰鬱な思いに沈んでいた。
「最近、暗いね」
「そうか?」
「うん、それに最近避けてるよね、私のこと。前は臆病なくせに馴れなれしかったのに」
「そんなことない」
 いつの間にか僕は彼女に対して軽口を叩こうとしてもできなくなっていた。
「彼と会話しているのをあなたが見てからだよね。あの時、気づかないふりして立ち去ったでしょ?」
「何のことだよ」
「あなたは嘘が下手だよね。すぐに分かっちゃうもの」
 僕が何も言い返さずに顔を伏せていると、彼女は再び口を開いた。
「別に彼とは何もないよ。あなたも彼が浮気をしたところを見たでしょ?あなたが私から逃げたあとに、声をかけて相談に乗ってあげただけ。この前もそう」
「勝手なこと言うなよ。逃げてなんかない」
「逃げたよ」
 顔を上げれば彼女の瞳と正面から向き合ってしまった。その瞳には絶対の確信が宿っていた。僕は彼女には敵いそうもないと悟った。
「もういいよ。お節介もほどほどにしておけよ。君の勝手だけどさ」
「別に面白そうだから声をかけただけで、親切心とか老婆心ではないよ。むしろ野次馬根性」
「たちが悪いな。もっといい人だと思ってたんだが」
「いい人なんかじゃないよ。私は自分のしたいようにしているだけ」
 そういう彼女は清々しかった。少なくとも僕にはそう見えた。けれど、きっと彼女の内心はそんなに清々しくはなかったのだろう。
「分かったよ。それで、どんな相談だよ。またうまく復縁して二股したいって相談かよ」
「そう言っても差し支えないよ。この前は相談ついでに私を口説いていたけど」
「随分と軽薄だな」
 僕は彼に対して物凄い嫌悪を感じていた。
「そうだね。彼は少し他の人を下に見ているみたい。自己評価も高いみたいだしね」
 そうでなければ二股なんてできないのかもしれない。そうでもないのかもしれないけれど。僕にはできそうもない。
「少しほっとした顔になったね。私のこと好きなの?」
 彼女は真面目な顔で聞いてくる。恥ずかしそうにする様子もない。
「ジュースを奢りたくなるくらいには好きだよ」とでも冗談めかして言おうと思ったけれど、「ああ」と低い声の肯定しかできなかった。
 肯定してみると、自分でも把握し切れていなかった自己の心情をすんなりと消化できた。
「俺、君のことが好きだ」
 自分でも驚くほど素直な言葉が出た。そして、言って怖くなった。僕の誠実が否定されるのはたまらなく恐ろしかった。僕は自分の臆病さで誰かの誠実を踏みにじったのかもしれないのに。
「それは冗談?」
「違うよ。これは違うんだ」
 疲れていたのだろうか、それとも彼女にはそう言って欲しくなかったのだろうか、僕は涙目になってしまっていた。
「あなたが臆病な理由はは、やっぱり、すごく弱いからなのね」
「うるさい」
 大学生になって、こんなことで泣きそうになってしまう自分があまりにも子どもらしくて情けない。僕は体が大きくなっただけで、実際は全く成長できてなかったのかもしれない。
 彼女はあまり表には出していなかったけれど、かなり困惑していた。それが嬉しかった。僕の誠実は彼女に伝わっていた。
 彼女は何も言わなかった。

梅雨が去っていくのと同じころから彼女が僕の家を訪れるようになっていた。
彼女が僕の家に行きたいと言ったのがきっかけだった。僕は初めのうちは無駄に緊張したり、そわそわしたり、思考を無駄に遊ばせていたりしたけれど、僕たちの間には何にもなかった。彼女はレンタルショップから借りてきた映画をよく見ていた。彼女の家にはテレビが無く、僕の部屋にはテレビがあった。だから彼女は僕の部屋に来るようになったのだと思う。僕の知らないタイトルの映画ばかりだったけれど、僕は彼女の隣でほとんどいつも食い入るようにして映画を見ていた。暗い影のある作品が多かった。それらは盛大な悲劇的結末を迎えたり、明るい幸せな終わりを迎えたり、冒頭とほとんど変化のない物語だったりした。つまらないものもあったけれど、面白いものが多かった。鑑賞後は僕が作った簡易で味気ない食事を交えながら映画の感想を述べ合った。彼女は乾いた作品が好きだと言っていた。例として二人で見た映画の何本かを挙げたけれど、それは僕にとってはそこまで好きな作品ではなかった。視線を逸らせないほど見入らせる作品ではあったけれど。僕は少しギャグを含んだ作品が好きだと言った。その方がフィクションの良さを引き出せている気がするから。
「私たちはお互い感性が違ってるね」
彼女はそれを喜ばしいことのように言った。それが僕には嬉しかった。
映画といえば、彼女はたまに同じ映画をかけていた。その映画は二人で見るものでなく彼女が同じ場面を流し続けて、そのシーンを見て涙を流すためのものであった。どうやら悲恋の話らしく、売春婦に身を落としたヒロインが汚れて老いていくのを花が枯れていくカットを使って表しているシーンだった。紅いバラの花がくすみ、黒っぽくなって、水分が失われていく。途中途中に女の苦悶の日々が無音で挿入される。やがて花弁は零れ落ちて虚しい音を立てる。そのシーンを見て彼女は眼を赤くして涙を幾筋か流す。僕はその瞳と滴に見惚れた。
 今年は熱い夏だった。テレビでは引っ切り無しに熱中症で亡くなった人々を取り上げていた。西日本では水が不足しているらしかった。
 僕はアパートの近くにある区の図書館で勉強していた。前期末試験の半ばだったからだ。この頃から僕はお調子者のふりをすることが少しずつ減っていた。おかげで少し交際が減った。そしてその程度で切れる人間関係は特に必要なものでもないことを知った。アパートに帰ると、彼女が円筒形のプラスチックから生える植物を抱えて僕の部屋の前にうずくまっているのを見つけた。
「お帰り、今日は暑いね」
 彼女の額を汗が伝っていた。暑さに弱りながら微笑む姿は何だか美しかった。
「連絡を入れてくれればよかったのに」
「待ちたい気分だったから。できれば待つだけ待って、結局あなたが来ないということを望んでたんだけどね」
「まあ、そういう気持ちも分らないでもない。それで、手に持ってる植物はなに?」
「夢の花」
 僕は怪訝な顔をするが、そういう異名を持つ花なのだろうと納得した。
「それがどうしたんだ?」
「あなたの部屋に置かせてもらおうと思って」
 彼女が突拍子もない提案をするのは割とよくあることなので、特にそれ以上の勘繰りはしなかった。
「取りあえず入りなよ」と鍵を開けて彼女を部屋の中に招き入れながら、彼女に合鍵を渡すべきか思案した。しかし、付き合っているわけでもないのに相鍵を渡すのは不自然に思った。
「この花は育てた人の叶わなかった夢を養分として花を咲かせるんだって。一度は散ったものが花として咲くなんて素敵だと思わない?」
 部屋のエアコンが効きはじめた頃合いで彼女は持ってきた植物について説明した。
「いったいどこで手に入れたんだよ」
「結構前のことだから忘れた」
彼女はベランダに植物を移した。僕のベランダは午前の間は陽が射すけれど、午後になるほとんど射さなくなる。別にそれでもいいなら自由に使ってもらって構わなかった。僕の部屋に彼女がいる日常は僕にとってかけがえのない日々だった。こんな日々がずっと続けばいいのにと淡く思っていた。
 その日から彼女は今まで以上の頻度で僕の部屋を訪れるようになった。持ち込まれた黄色くて小さなジョウロで夢の花に水を与えていた。それから二人でアイスや僕の地元から送られてきた果物を食べたりした。もちろん映画も見たし、どうでもいい話をした。彼女は自分の趣味や考えなどの話はしてくれたけれど、自分の過去の話については全く話さなかった。僕は彼女についてもっと知りたいと思ったけれど、そのせいで今の日々が少しでも変わってしまうのが怖かった。そんな予感を表皮の裏側で感じていた。今になって、僕は彼女の口から聞くべきだったと思う。

「ねえ、あなたの叶わなかった夢はなに?」
 ある時、彼女は僕に訊ねた。いつもの映画のいつもの場面を見て泣いた後だ。試験がようやく全て終わり、長い夏休みがようやく始まった。
「今の大学は、本当は第一志望じゃなかったんだ」
 少し考えて最初に思いついたのは大学受験での失敗だった。一番新しい挫折だった。
「本当はね、今の大学じゃなくて地元の城跡近くにある大学に行きたかったんだ。でもダメだった。浪人する勇気もなかった」
 今までの人生でも挫折や失望を味わったけれど、あれほど強い失敗体験は初めてだった。自分が必要とされないということを初めて痛感して、自分の努力が不足していたとまざまざと見せつけられた。そして再挑戦することに対する重圧を恐れ、僕は今の大学に来た。
「でも、今の生活は楽しいから、今ではあまり後悔してないよ」
 少し前までは取り繕った言葉にしかならなかったけれど、今では本当にそう思えるようになっていた。それはきっと彼女のおかげでもある。
「あとは、高校の時の部活かな。最後の大会前に怪我をして試合に出られなかったんだ。部活はあまり好きじゃなかったけれど、あれは悔しかった」
「あなたも色々と失敗してるんだね」
「君はどうなの?」
 彼女は深く沈黙した。僕は訊いたことを後悔した。
「花が咲いたら」
「ん?」
「夢の花が咲いたら、教えるよ」
 彼女の口から零れた泡のような言葉に、ゆっくりとした首肯を返した。

 夏休みも終わりに近づいて、僕はいい加減地元に帰省することにした。帰るのにもそれなりに金がかかるし億劫だったから盆も帰らなかったが、母親が帰省しないならもう仕送りをしないと脅してきた。僕は彼女に合鍵を渡した。どうせ貴重品は持っていくし、彼女が花に水を遣れなくなっては困るだろうと思った。帰省する間だけ、持ち帰ってもらってもよかったけれど、僕は出来るなら僕のベランダで彼女の夢の花を咲かせてほしかった。今にも開きそうな蕾が落ちたりしてほしくなかった。
「鍵はしっかりかけてくれよ」
「うん、しばらくお別れだね」
 そう言って少し辛そうに笑う彼女を見て胸騒ぎがした。
「戻ってきたらさ、花火を見に行こう」
僕は胸騒ぎを払拭するためにそう提案した。
「今の時期にやってる花火大会ってあるの?」
「探すよ。なかったら自分たちで買って花火をしよう」
 彼女は笑って承諾してくれた。
地元は何も変わってなかった。僕だけが変わっていた。帰った日は二年前に亡くなった祖父の仏壇に線香をあげて、少しだけ豪勢な夕餉を食べた。田舎だから同級生はほとんど地元を出てしまっている上、時季外れに帰ったため、地元に残った親友の一人と遊んだ以外はほとんど家にいた。何も変わってなかったと言ったけれど、それは間違いだ。一つだけ大きく変わったことがあった。実家にいる甥っ子が見違えるほどに大きくなっていた。その変化は大きくて、僕なんか何も変わっていないようだった。久しぶりの家は居心地がよかった。しかし、居心地がよいだけで退屈だった。結局五日ほどでまたこっちに戻った。
 夢の花が咲いていた。
彼女は姿を消した。



「お別れです。急でごめんなさい。あなたには迷惑をかけたね。
 夢の花が咲いたの。あまりの美しさに少し涙が出た。それと、あなたには話していなかったけど、聞いた話によると、花を育てた人は夢の花の咲いた花びらを見ると、叶わなかった一番大切な夢が直感的に理解できるんだって。
 お別れした後ですが少し私の話をさせて。私の叶わなかった夢の話。
 あなたには謝らなければいけない。私はずっとあなたをだましてた。私は大学生じゃない。それどころか高校を中退してる。更に言えば私はあなたよりも一つ年下なの。本来ならば今ごろ受験生のはずだった。しかし、今では大学生の真似事をするどうしようもない人間になってしまった。去年、悪いことが続いた。年の離れた兄が事故で重い障害を負った。父親が不祥事の責任をとって勤めていた会社を解雇された。母親は精神を病んでしまった。学校で嫌なことがあった。耐えきれなかったの。どうしようもなく苦しくて、けれど、どうしようもなくて、私は自分を偽ることにしたの。そうすれば苦しみから逃げることができたから。私はバイトをする片手間で大学に足を運ぶようになった。バイトに打ち込む大学生を演じようと思った。そして私はあなたに会った。あなたに言った言葉は私に対する言葉。私はあなたを鏡として見ていた。けれど、あなたは私よりも純粋で優しくて勇気のある人だと知った。臆病で弱いのは私だった。真面目な顔で嘘を言っていた。結局、私はあなたの作り笑いと同様のことをしていた。ううん、もっと酷いね。
 夢の花の種を手に入れたのがいつなのか、どこなのか、はっきりと覚えていない。きっと家族が壊れて茫然としている時期だった。私はこの花の存在をすっかり忘れてたけれど、ふと思い出して種をまいてみたの。すぐに芽吹き、瞬く間に大きくなった。栄養分がよかったのかもね。私は夢の花が咲く前から私の叶わなかった一番大切な夢が何なのか見当がついてた。『幸せな家族が続くこと』か『幸せな当たり前の生活が続くこと』。このどちらかに違いないと思ってた。
 花が咲きました。私は直感的に理解できた。私の叶わなかった一番の夢は『あなたがそばにいる日々が続くこと』。いつの間にか私の中であなたの存在は大きくなっていたみたい。そして、あなたが私のそばにいることは叶わない夢。それも当然。あなたの知る私は本当の私ではないのだから。名前さえもデタラメ。存在しないはずの人間。叶うわけがなかった。
さて、私は家族とともに父の実家に引っ越すことに決まりました。前々から決まっていましたが言えなかった。重ね重ねごめんない。今までの償いにはならないけれど、夢の花の種をあなたにあげる。さようなら。もう会わないね。
あなたと私の別れが生んだ花が、想像さえ超えた美しさを見せてくれて、私はとても満たされた気分だよ。
追伸   鍵はポストに入れておきました。花火を見に行けなくてごめんなさい」



僕は彼女の残した置手紙を久しぶりに取り出して読んだ。彼女の癖字が僕の自然となるほどに読んだため、今となっては内容を完全に覚えている。
 桜が花を咲かせている。その薄ピンクの花びらの美しさも、あの時に見た花の美しさの前では霞む。あの夏の終わりに見た夢の花は、悲しいほどに美しかった。すぐに萎れてしまったのだけれど。
 僕の蒔いた夢の花は芽吹くことさえなかった。オレンジ色の種は土の中で眠ったままだった。養分が足りなかったのだろうか。それとも別の要因だったのだろうか。今になっても分らない。
 この頃になって僕は趣味らしきものができた。休日にふらりと遠出をするようになった。奇跡的に彼女を見つけることができないかと心の片隅で期待しているのだろう。見つかる可能性なんて皆無みたいなものなのに。だから純粋に散策を楽しんでいる。そうでなければやっていられないだろう。
 ただ、もしも彼女に会うことがあったら僕はこう言いたい。
 僕たちの夢の花は実を結んで、あの花の色にも勝る虹色の種になったよ、って。
 そして彼女に虹色の種を手渡すのだ。物事の悲観的側面に美を見出す彼女はどう思うだろうか。何を言うだろうか。どんな顔を見せてくれるのか。そんなことを考える。
 それは、きっと、叶わない夢なんかじゃない。

第二十八回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


ラジオ、始めました

 ラジオ、始めました

 お昼の十二時四十分ごろ。地元の公立高校に通う俺、春宮葉助(帰宅部一年)は、どういうわけか放送室にいた。幼馴染の高咲唄葉(帰宅部一年)に呼ばれたからであるが、なぜ呼ばれたのかは聞かされていない。それでも俺がここまで来たのは、別に幼馴染の頼みだからというわけではなく、昼休み開始直後に『返してほしかったらダッシュで放送室まで来なさい!』というセリフと共に盗まれた俺の弁当を取り返すためである。が、ダッシュで来てみれば唄葉はいない。俺より先に教室を出たくせに、一体どういうことだろうか。
「はぁ、やっと着いたぁ」
 スマホを取り出して電話でもしてやろうかと思ったちょうどその時、放送室のドアが開いた。走ってきたのだろうか、頭の後ろのほうで一つにくくられた長くも短くもないポニーテールが左右に揺れ、額には少々汗が浮かんでいる。呼吸もまだ整っていないのか、平均をやや上回るサイズの胸が上下していて大変目に毒だ。左右両の手には弁当の包みを持っている。左手に持っているやつが俺のだ。走ってきたのだとしたら中身が心配だ。
「いやー、遅れてごめんね? ちょっと道に迷っちゃって」
「ここ学校だぞ⁉」
 通い始めて既に二か月近くは経つし、別段学校が広いわけではない。一体どこで迷うというのか。
「しょーがないじゃん。放送室がどこかイマイチわかんなかったんだもん」
 だもん、じゃねぇ。つーか、自分では場所もよくわかんない所に俺を呼び出しやがったのか。我が幼馴染ながらどういう神経してやがる。
「……はぁ。とりあえず弁当返せ。そして説明しろ」
文句を言ったところでどうにもならないことを知っている唄葉検定一級の俺は、弁当の返還を要求しながら話を聞く姿勢に入る。
「うん。実はねー」
 机を挟んだ俺の向かい側に着席しながら喋り出す唄葉。弁当は未だにやつの両手。弁当返せよ。
「私、ラジオ部を作ったんだー」
「あ、そう」
 軽いノリで言われたので、同じく軽いノリで返す。そもそも唄葉が突然何かを始めるのはいつものことなので、大して驚くことではない。
「ちなみに部員は私と葉助の二人ね」
「……はい?」
 ちょっと待て。どうして俺まで参加させられている? そんなもの承認した覚えはないんだが。
「だって葉助、どこの部活にも入ってないでしょ? なら問題ないよね」
「問題大アリだよ! せめて本人に話し通せよ!」
「でも、唄『葉』を『助』ける、で葉助だよ?」
「人の名前の由来を曲解すんじゃねえ‼」
 そもそもこいつと初めて会ったのは幼稚園のときだ。ただの偶然だろうが。
「そんなこと言いつつ、助けてくれるんでしょ?」
 分かってるよー、みたいな顔でニヤニヤしている唄葉。こいつ、調子に乗ってやがるな……。灸をすえねば。
「助けねーよ。なんでお前の思い付きに俺が協力しなきゃいけねーんだよ。一人でやれ」
「あっ、ひどーい! 協力してくれたらお弁当返すつもりだったのにー。いいもん、私が食べるもん」
「何でもするので弁当返してください」
 作戦失敗。敗因はやつに弁当を奪われてしまったことだ。あの時点ですでに勝敗は決していたんだ。帰宅部とはいえ、男子高校生にとって昼食抜きは拷問に等しい。
「まったく。最初から素直にそう言えばいいんだよ」
 やれやれ、みたいな表情で弁当を返してくる唄葉。くそっ、余計調子に乗らせる結果に……。
「……で? どうしてそんなもん作ったんだよ?」
 この学校は別に部活が少ないほうではないと思うんだが。
「つまらないからだよ!」
「すげー適当!」
「適当じゃないよ! この学校って、お昼休みの時間無音でしょ? 中学の時は放送部が曲流したりしてたけど、この学校には放送部がない。だから、お昼休みがつまんないの‼」
 力説された。確かに中学時代のお昼の放送は楽しかった。自分の好きな曲がかかると嬉しいし、そうじゃなくても友人同士の会話のネタにもなる。だから、会った方がいいという意見にはまあ、賛成だ。だが……。
「なら、どうしてラジオ部なんだ? 放送部でもいいだろ?」
「それは、私がラジオをやりたかったからだよ!」
「すごい個人的だ⁉」
「そうだよ!」
「全肯定だと⁉」
 いっそ清々しいな、ここまで全力で言い切られると。
「……まあいいや。それで? 俺は何をやらされるわけ?」
 唄葉がパーソナリティをやるのだろうから、俺は機材のほうか?
「私がパーソナリティをやるから、葉助はその相方と機材ね」
「無茶苦茶だ⁉」
 機材を操作しながら唄葉の相手だと? 死ぬわ。
「大丈夫、葉助ならできる!」
「どこの熱い人だよ……お前は俺を何だと思ってやがる……」
「富士山?」
「その人のネタはもういいよ!」
「じゃあ、ただの男子高校生?」
「……その通りだよ!」
 急にまともなこと言うからつっこみがワンテンポ遅れてしまったじゃないか。というか、分かってるならどうして俺に無茶を押し付ける。慣れない機材を操りながら唄葉の相手とか、ただの男子高校生のキャパ超えてんだろ特に後者。
「まあ、高校生のお昼の放送的な軽いやつだから、大して難しい操作はいらないはずだよ」
 ならお前がやれ、とも思ったが、こいつは同時に二つの作業ができるほど器用ではないので諦めた。俺、こいつといると損しかしてなくね?
「あ、放送は十二時五十分から一時五分までの十五分の予定だからね」
「あと五分もないし! 結局弁当食えないし!」
 もう少し俺のこと考えてくれ……。
「ほら、はやくしないと!」
 俺を急かしながらブースに入っていく唄葉。あ、本当に機材の件丸投げしやがった……。仕方なく、その辺にあった『機材の使い方~誰でもできるよ~』という張り紙を参考に急ピッチで作業をし、全ての準備を整えて俺もブースに入る。開始予定一分前だった。とりあえず今日の放課後は唄葉に説教をしよう。
「で、台本は?」
 一分とはいえ、話の流れの確認くらいはできるだろう、と思って唄葉に尋ねる。
「ないよ?」
「は?」
 が、返ってきたのは更に絶望を上塗りする回答。
「ザ・フリートーク!」
「お前絶対ラジオなめてるだろ⁉」
 こいつと俺が十五分間フリートークするラジオとか……誰得だよ。
「まあまあ。ほら、後三十秒で始まるよ? 葉助は、いつも通りに話してくれればいいから。ラジオを変に意識しないで、いつも通りにしてね?」
「はあ」
 それが一番楽ではあるが、それで本当にラジオとして成り立つのか?
「十秒前!」
 唄葉のその声に、俺は思考をいったんやめ、放送のスイッチに手をかける。
「五! 四! ……」
 三以降は、音が入らないように指で示す唄葉。その指がゼロを示した直後、俺はスイッチを入れる。ピンポンパンポン、というお決まりの合図の後、唄葉が喋り出した。
『はい! みなさんこんにちはー! お昼休み楽しんでますかー? 本日からお昼のラジオ活動を始めることになりました、ラジオ部です! お相手は私、一年の高咲唄葉と!』
 そこで、唄葉が言葉を切って俺を見てくる。自己紹介しろ、ってことか。
『同じく一年、春宮葉助』
『で、お送りしまーす!』
 ここまでは割と普通だ。このまま十五分、何事もなく終わってくれればいいが……。
『さ、葉助。話題プリーズ』
『そんなフリがあるか‼』
 ……なんて、甘いですよね。思わず素でつっこんでしまった。
『じゃあ、どんなフリならいいの?』
『知るかよ……。つーか、お前がメインパーソナリティなんだから、自分で話題くらい考えろよ』
 自分で企画しといて内容丸投げとか、何考えてんだこいつは。
『んー……じゃあ、葉助の話しようか』
『誰得だよ⁉』
 お昼の放送で一男子高校生(しかも俺みたいな、全てのスペックが平均並みという地味なやつ)の話をされたところで、反応に困るしつまらないだろうが。
『それもそうだねー』
『あっさり認めるのかよ⁉ 少しくらいフォローしろよ‼』
 分かっていた事実を改めて突きつけられた俺の心はひどく傷ついたぞ。
『だっ、大丈夫だよ。葉助のこと知りたい人だって、きっと多分恐らく奇跡的に天文学的数値で一人くらいいるって』
『まったくフォローになってねえよ‼』
 俺の心の傷は悪化したぞ。フォロー下手過ぎんだろ。
『むー、仕方ないなー。じゃあ、私が事前に友達に聞いておいた『ラジオで話題にしてほしいこと―』っていうアンケートから話題を探そう』
『最初からそれを出せ‼』
 なんだったんださっきまでの無意味なやりとり。無駄に俺が傷ついただけじゃねーか。
 そんな俺の内心など意に介さず、唄葉はブース内に持ち込んでいた鞄からハガキのようなものを十枚ほど取り出し、机の上に裏返しにして広げた。
『さて、私たちの前には『ラジオで話題にしてほしいことー』というアンケートの用紙が裏返しで置かれています。今から私がその中から一枚を引いて、それについて二人で話していくよー』
 なんか割とまともな企画になっている。
『よし、じゃあ選ぶよー。んー……よし、これ!』
 唄葉が一枚のアンケート用紙を手に取り、俺のほうへ向けてくる。俺が読め、ってことか?
 俺はそれを受け取ると、ひっくり返して文面をそのまま読み上げる。
『あー、ペンネーム『唄葉は私の嫁』さんから』
『何そのペンネーム⁉ てか、誰⁉ 私、その友人との今後の付き合い方を考えないといけないよ⁉』
 なんか唄葉が叫んでいるが、スルーして文面を読み続ける。
『私には夢がありません。とりあえず唄葉を嫁にするという未来は確定しているのですが、それ以外には特にやりたいことも就きたい仕事もありません。ラジオ部の二人はどうですか?』
『そんな未来は確定してないよ! っていうか、私がアンケート取ったのみんな女の子だから、結婚とかできないよ!』
『同性婚を認めている国もあるぞ?』
『どうしてその子の味方をするの、葉助⁉』
 唄葉をからかうのが面白いからに決まってるじゃないか。
『まあ、それは置いといて本題に入ろうじゃないか』
『そんな簡単に流せる問題じゃないよ……』
 唄葉は複雑そうな表情をしたままだが、あまり時間もないのでスルーして話を進めよう。
『夢、ねぇ……俺もこの人と一緒で特にやりたいこととかないんだが……唄葉は何か夢あるか?』
『え? うーん、一応あるにはあるけど……』
 ほほう。あるのか。
『ちなみに、その内容は?』
 長年幼馴染をやっているが、あんまりこういう話はしたことがない。せっかくの機会だし聞いておこう。
『お嫁さん』
『ぶふっ!』
 吹いたww
『おまっ、高校生が真顔でそれ言うか!』
『女の子の永遠の憧れだよ!』
『いや、そうなのかもしれないけどさ……』
 そういうのは、幼稚園児や小学生あたりが言うもんだろ。高校生にもなってそれは『真面目に考えろよ』とか言われちゃうレベルだって。
『……でも、よかったな。その夢、叶うじゃんか』
『……え?』
 俺が言うと、唄葉は何やら期待のこもった視線で俺を見つめてくる。俺はそれに応えるように、自信をもって告げる。
『この『唄葉は私の嫁』さんが叶えてくれるからな!』
『だからノーサンキューだよ‼』
 アンケート用紙を示しながらドヤ顔で言ってやったところ、唄葉は叫びながらアンケート用紙を俺から奪い、丸めてゴミ箱へ投げ捨てた。が、勿論入っていない。
『なんだよ、せっかくの夢をかなえるチャンスだぞ?』
『だからって、女の子同士は勘弁だよ! 私だって男の人と結婚したいの!』
 贅沢なやつだな。
『もう私のことはいいでしょ⁉ そろそろ葉助の夢の話するよ‼』
『いや、俺の話はもうしただろ?』
『あんな『自分も同じです』みたいな安い意見で済むと思ってんの⁉ ラジオなめてんの⁉』
 まさかここでお前にそれを言われるとは。確かに唄葉が言っていることは正しいようにも思うのだが、そもそも俺はラジオがやりたくて今ここにいるわけではなく、誰かさんの思い付きに巻き込まれているだけなので『ラジオなめてるの⁉』とか言われても、正直反応に困る。
『というか、私がここまでいろいろ言われたんだから、やり返さないと私の気が済まないよ‼』
『それが本音か!』
 とことん自分本位なやつである。
『で、葉助はやりたいこととかないの?』
『本当にないよ』
 習い事もやってなければ部活も万年帰宅部、趣味と呼べるようなものも特になし。そんな俺がやりたいことなんてあるはずもない。そんなのは幼馴染である唄葉が一番知っているはずなんだが。
『うーん、本当かなぁ……』
 その唄葉はどうやら納得していないご様子。仕方ない、適当にごまかすか。
『本当だよ。そもそも、高校生でそんなはっきりと夢持ってるやつなんてそうそういないだろ?』
 何も知らない小学生ならいざ知らず、ある程度現実を知ってしまった高校生が夢を持つというのはかなり難しい。例えば高校生が今からプロ野球選手を目指したってその夢が叶うことはまずないだろう。たとえ小さい頃から続けていたとしても、甲子園の予選にでも出てみればいやでも自分の実力のなさを突き付けられ、その夢を断念せざるを得なくなる人がほとんどだろう。高校生とは、今まで認識できていなかった現実の壁の高さを思い知り、夢を諦めたり妥協したりする時期なのかもしれない。
『そんなことないんじゃないかな』
 だが、俺の幼馴染は違う意見らしい。
『私の持論に『夢は小さな夢の集合体』っていうのがあるんだ』
『……はい?』
 夢の集合体が夢? ちょっと何言ってるかわからないんだが。
 と思っていると、唄葉が解説を始めた。
『夢って、要するに目標でしょ? 将来こうなりたいなぁ、ていう』
『まあ、そうだな』
『それって、小学生くらいの頃ならだれもが持ってるものだと思うんだ。でも高校生くらいになると、その目標の達成がどれだけ難しいことかがわかってくる。だから、高校生になるとあんまり夢を口にしなくなる。葉助が言ったのはそういうことだよね?』
『……ああ』
『でもそれは、夢を諦めたから、ってことじゃないと思うんだ。もちろん中にはそういう人もいるかもしれない。でも、高校生になって、目指す目標の高さが明確に見えたからこそ、どうすればそこに辿り着けるのかがわかるようになるんじゃないかな。そうしたら、今度はそこに辿り着くためにやるべきことを、小さな夢を一つずつかなえていけば、最終的にその目標は、夢は叶うじゃん』
 ……それで、夢は小さな夢の集合体、ってことか。唄葉にしてはなかなかいいことを言ったんじゃないだろうか。きっとこのラジオを聞いている夢を諦めかけていた生徒たちの心にも火が再燃した事だろう。少しだけ唄葉を見直してしまった。夢に対してネガティブな思考しかできなかった俺とは違うな。
『まあ、全部お母さんの受け売りだけどね』
『台無しだ⁉』
 やっぱり唄葉は唄葉だった。俺の感心を返せ。無駄に見直してしまったじゃないか。
『っと、ちょっと一つ目の話題が長くなりすぎちゃったね。じゃあ、次のにいこうか。まあ、時間的にあと一つが限界なんだけど』
 ……もうそんなに時間がたってたのか。
『……よし、これ!』
 一つ目を選んだ時からそのままになっていたアンケート用紙の中から一枚を手に取り、先程同様俺に差し出してくる。やっぱり俺が読むのか……。
『ペンネーム、春宮唄葉さんから』
『何でに連続でペンネームがまともじゃないの⁉ しかもこっちのは超恥ずかしいし‼ なにコレ⁉ 私への嫌がらせ⁉』
 唄葉が顔を真っ赤にして叫んだ。俺にキレられてもなぁ……。俺もお前と同じくらい恥ずかしい思いをしてるわけだし。とりあえずいえることは、こいつはもっと友人を選んだ方がいいということだけだな。
 ブース内の空気はかなり気まずいことになっていたが、ラジオで黙ってしまうと放送事故なので、気まずさに必死に耐えつつ俺はアンケート用紙の続きを読み上げる。
『私の友人はすごくいい人なんですけど、周りには全く理解されていません。私はその友人の魅力をみんなに知ってもらおうとするのですが、本人にその意思がないのでもどかしい毎日です。なので、私の友人魅力をこの場を利用して伝えてください。お願いします』
『ペンネーム全く関係ないし‼ そして、その友人とやらが誰だかわからないから伝えようがないし‼』
 ペンネームって基本そういうもんだろ。一枚目もそうだっただろうが。そして後者についてはまったくその通りだよ。用紙にはそれ以上の情報は何も書いてないし。これでどうしろというんだ……。
『これ書いたやつ、天然だな……』
『天然で済まされるレベルじゃないよ⁉』
 ここまで重要な部分をすっぽり書きもらすなんて、天然か、さもなくば嫌がらせだろう。……あれ? ペンネームの件もあわせて考えると嫌がらせの説のほうが有力だぞ?
『……まぁ、その友人さんの魅力を伝えることはできないけど、この人には共感できるなぁ』
 唄葉がなんとか話題をつないでくれたので、俺もそれに乗っかる。
『そうか? 俺はこの友人さんと同意見だけどな。本人が望んでないことを無理にする必要はないだろ?』
『そんなことないよ! だってこれ、自分だけはその人がいい人だって知ってるけど、周りは知らない、誤解されてるってことだよ? それってやっぱり気分悪くない?』
 それは……確かにそうかもしれない。友人さんからしたらこの人は少々おせっかいっぽく映るのかもしれないが、この人からしたら自分の友人がまわりから誤解されてる、ってことなのだ。自分に置き換えて考えてみると、あまり気分のいいものではない。例えば唄葉が周囲から誤解されているとしたら、やはり気分は悪いし、なんとかして誤解をとこうとするだろう。
『確かに、その通りだとは思う』
『でしょ?』
 しかし、だ。二連続で唄葉に言い負かされてハイ終わり、というのも気分はよくない。
『だが、それはこの人から見たときの意見だ。今度はこの友人の立場から考えてみろよ。この友人だって、自分のことが誤解されてるのは普通気分悪いだろ?』
 よっぽど他人に興味がないなら話は別だが。
『そりゃそうでしょ』
『だろ? じゃあ、何でこの友人は、友達が手を差し伸べているにもかかわらず、積極的に誤解をとこうとしない?』
 気分が悪くなるようなことを放置しておく理由はない。せっかく友達が助けようとしてくれてるんだ、普通は頼る。でもこの友人はそうはしない。理由は簡単だ。
『誤解をされてても、気分が悪くないからだよ』
『……どゆこと?』
 首を傾げる唄葉に、俺は答える。
『つまりこの友人には、この人という理解者が一人いればそれで充分なんだよ。たとえ万人に理解されなくても、この人一人が自分を理解してくれている。この友人は、それで充分なんじゃないか?』
『…………』
『理解者も友人も、たくさんいればいいってもんじゃない。上辺だけの会話しかしない友人、外面だけは理解した風を装う理解者。そんなのが何人いようと意味なんかない。それよりも、心から何でも話し合える友人、心から理解し合い、信頼し合える理解者が一人いる方が、よっぽど価値があって、大切なことだろ?』
 ……なんだからしくないことを口走ったな。クラスメイトとかに笑われてないだろうか。やべーすげー心配。
『……さすが葉助! 私が相方に選んだだけはあるね!』
 お前の手柄になるのかよ。
『……まあ、な。ちなみに今の、俺がは○ないから学んだことだ』
『台無しだよ⁉』
 先ほどの仕返しである。
『それとそのネタ、いったい何人のリスナーに伝わるの⁉』
 ……意外と伝わるんじゃないか? まあ、略称だったので、知らない人には何のことだかさっぱりわからないだろうが。
『っと、おい唄葉、そろそろ時間だぞ』
『流したな⁉ ……まあいいや、確かに時間だし。さてみなさん、ラジオ部のお昼の放送はいかがでしたか? ちなみにつまらなかったなどの意見は受け付けません』
『理不尽だ⁉』
 それじゃあ消去法でいい評価しか入ってこないじゃないか。
『まあ、次回からもこんなノリでお送りするので、よろしくねー』
『え、次回もあんのこれ⁉』
 もうこんなノープランフリートークウィズ唄葉は勘弁なんだが。
『そりゃあるよ、部活動だし。でも毎日だと大変なので、週二回、火曜日と金曜日にお送りしまーす!』
『それでも十分大変そうなんだが』
 せめて週一にならないのか。きついぞ、主に話題とか話題とか話題とかが。
『確かに、話題がなくなりそうだよね。でも、そんなあなたにこれ! アンケート用紙と回収ボックス!』
『なぜに通販風……』
『今回は私の友人からの募集だけだったけど、次回からは公募にします。今日の放課後から、これを昇降口にセットするので、なんでもいいからどんどん投稿してください。お悩み相談でも構いませんが、今日のラジオの雰囲気も考えて相談してくださいねー』
『なんでもいいんじゃなかったのか……』
『さあ、もう残り時間が三十秒となりました。葉助、どうだった?』
『すごい疲れた』
『ストレート!』
『だってお前、この十五分で俺が一体何回つっこんだと思ってやがる』
『何回なの?』
『知らねえよ!』
 また一回増えたし……。
『とまあ、こんな私たちですが、今後もよろしくお願いしまーす! 次回はゲストもあるかも⁉』
『唄葉は私の嫁さんだな?』
『それだけは勘弁して‼』
 と言ったところで、唄葉が合図をよこしたので、スイッチをオフにする。ピンポンパンポンという音の後が流れ、第一回目の部活動が終了した。時計を見れば一時五分ぴったりだ。
「いやー、お疲れー!」
 ブースの椅子に座ったまま軽く伸びをする唄葉。男の前でそんな胸が強調されるようなポーズとるなよ……。天然なのか、それとも幼馴染の俺は男として認識されていないのか……どっちもありそうだな。
「どう、葉助? 楽しかった?」
「……まあ、それなりには」
 リスナーがどんな反応をするかは分からないし、やる前はどうなることかとひやひやだったが、終わった今となっては素直に楽しかったと言える。
「そっか。なら良かった」
 そう言って満足そうに笑う唄葉。
 ……このまま気付いてないふりをして、何も聞かずに終わってもよかった。でも、俺は聞く。その理由を知るために。
「……なあ、唄葉」
「うん? なーにー?」
 身体を伸ばしながら、適当に返してくる唄葉。
「これ書いたの、お前だろ」
 唄葉が伸びをやめ、こちらを向く。その視線の先には、俺の手に握られた、二通目のアンケート用紙。
「……何言ってるの?」
「この字、お前のだろ」
 幼稚園からの幼馴染で、宿題の移しっこなんかもしてきた俺が、唄葉の字を間違えるはずがなかった。本当は用紙を裏返してペンネームを読んでいる段階で気付いていた。でも、ラジオの放送中に言いだせるはずもなく、黙っていた。
「それにこの内容。お前と俺に似てるよな」
 俺も、友達は多いほうじゃない。と言うかむしろ少ない。下手すれば片手で事足りる。それでも俺は十分だったのだが、それで納得しないのが唄葉だ。なんとか俺の友達を増やそうと、度々いろんなことを画策してきた。俺がそれに積極的ではなかったために、成功した試しはなかったが。
「……あーあ、まさかばれるとはなぁ」
 ついに唄葉は、自分が書いたことを認めた。
「どうしてこんなの書いたんだよ」
「んー……葉助に、知ってほしかったから、かな」
「……?」
「私が普段、どんな思いをしているか」
「……あ」
 今日のラジオを踏まえて考えるなら。こいつにとってはずっと、幼馴染が誤解されているって状況なわけで。
「葉助って、仲良くなってみると、すごく面白くて、一緒にいると楽しい人なんだよ。それは私が一番知ってる。でも、学校では誰かと積極的に話したりしないから、誰もそんな葉助の姿を知らない。それどころか『あいつっていつも一人だよな』とか『いつも一人でいるとか、気持ち悪いよな』とか、葉助のことをよく知りもしないくせに適当なことばかり言ってる。私はそれが、我慢ならない」
 そんな状況を、唄葉が心地よく思うはずもなかった。
「だから私、ラジオ部を作ったんだよ」
「ゑ?」
 思わぬところに話が飛び、変な声が出た。
「もともとこれは、葉助の本当の姿を知ってもらおうと思って、始めたことなんだよ。葉助があんなに全力でつっこんだりボケたりする人なんだって、多分全校生徒が初めて知ったんじゃないかな」
 ……だろうね。いままで学校であんなに全力で叫んだことなんてなかったし。
「これをきっかけに、葉助のことをもっと知ってもらって、友達が増えてくれればなぁ、と思って始めたんだよ」
「……たかが幼馴染のために、そこまでするのかよ」
 軽口を叩くように、半笑いで言った。
「するよ」
 対して唄葉は、今までで一番真面目な声で返してきた。
「私にとって葉助は、それぐらい大切な人だもん」
 ……そうだな。俺もお前と同じ状況にあったら、方法は違えど、唄葉と同じくらい大胆なことをしてでも現状を何とかしようとするだろう。俺にとっても唄葉は、それぐらい大事な存在だ。それ以上の理由は、いらないな。
 ……しかし、なんだか真面目な雰囲気になってしまったな……これは、俺たちらしくない。
「なんだか、告白みたいだな」
「にゃっ⁉」
 唄葉が変な声をあげた。
「それにお前が書いたアンケート用紙のペンネーム。あれも……」
「にゃーっ‼ あっ、あれはそのっ、あの、違うの!」
 唄葉がだいぶ取り乱している。だいぶ取り乱している唄葉面白いな。
「何が違うんだよ?」
「だ、だからっ、そのっ、あれは私の夢なのっ‼」
「……え? なに、俺プロポーズされてんの?」
「にゃあー‼ 違う、ぜんぜん違うの‼ このペンネームなら私だとばれないと思ったのっ‼ まさか筆跡でばれるとは思ってなかったのー‼」
 やばい、唄葉がちょっと涙ぐんできてしまった。ちょっとやりすぎてしまったか?
「……そういう葉助こそ、私が書いたの知ってて、あんなこと言ったんでしょ? それこそ、告白みたいじゃない?」
「う……」
 痛いところをつかれた。あれを変換すると『お前さえいれば十分だよ』とか言ってるように聞こえる。やべー、俺も何口走ってたんだ⁉
「よ、葉助は、わ、私さえいれば、いいいいんでしょ?」
 恥ずかしいなら言うなし‼ 俺も恥ずかしいし‼
 と、ここで昼休み終了の鐘が鳴った。この五分後には午後の授業が始まる。これ幸いと俺は逃走を図る。
「ほ、ほら、唄葉! のんびりしてると授業始まるぞ!」
「こらっ、逃げるな‼」
 しかし、ブースの出入り口近くにいた唄葉に逃げ道を塞がれてしまう。
「このまま二人で遅刻なんてしたら、今後この部活動できなくなるぞ!」
 部活やってたせいで授業に遅れました、などと言おうものなら部員が二人しかいないこの部なんか即刻活動停止である。
「それは困る‼」
 俺の指摘でようやくその事実に気付いたのか、唄葉が慌てて荷物をまとめ始める。と言っても、机に広げたアンケート用紙を鞄に突っ込むだけなので大して時間はかからない。一方の俺は、ここにはもともと弁当を返してもらいに来ただけだったので手ぶらだ。って、そういえば今日弁当食ってない‼
「よし、準備完了! 葉助、行くよ‼」
「お、おう」
 弁当を食い忘れた事実に気付き、午後に授業を思って憂鬱な気分になったが、授業に遅刻するわけにはいかないのでなんとか足を動かし、先に走り出した唄葉を追う。そういえば来た時も思ったんだが、どうして放送室の鍵は開いていたのだろうか。そして閉めなくていいのか。
「鍵はあとで顧問が閉めてくれるから平気だよ!」
「顧問いたのか……」
「そりゃいるよ⁉ いなきゃ部活として成り立たないよ⁉」
「走りながらつっこむとか……疲れないか?」
「じゃあつっこませないでよ‼」
 またつっこんでるし……。
 でもまあ、これでいいんだよな。俺たちの日常は、ラジオでも全校生徒にお届けしたようにこんな感じなんだ。それはきっと、これから何年たとうが変わらないだろう。いや、変わらないでほしい。……そうだな、とりあえずはそれを唄葉が言うところの『夢』ってことにして『小さな夢』とやらを叶えていこうか。差し当たっては、今日から始まった俺たちの新しい日常、ラジオ部を守るために、授業に遅刻しないことか。
「って、おい唄葉! 教室はそっちじゃない‼」
「え⁉ そうだっけ⁉」
 ……放課後は、学校案内かな。
 そんな調子で、俺たちの日常は過ぎて行く。今日芽生えた夢に向かって、一歩ずつ。

第二十八回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


夕焼け食べた

夕焼け食べた 
                  
 僕には忘れられない思い出がある。それは美しく、まるで現実とは思えない、白昼夢のような体験であった。この、太陽がぎらぎらと輝く季節は当時のことを鮮明に僕に思い出させる。あの頃僕はどうしようもなく幼く、そしてそれが許されるほど子どもだった。

 都心近くのベッドタウン。そのころ生まれ故郷には開発の手が伸び始め、あちこちで新しいマンションが建築される音が響いていた。田畑と交差して新品の道路が整備された。土の見えない道が珍しく、友達といっしょに裸足になってアスファルトを踏みしめ、その独特な痛みに叫んだ。新築マンションに引っ越してくる家族はみんな、どこかしら違う土地の面影を残していた。
 建築にやってくる人たちは陽気で、母に言われるがままにペットボトルと紙コップを休憩の合間に差し入れすれば、豪快に笑いながら感謝の言葉を投げかけてくれた。自分の生まれた故郷が違うものに作り変えられていくみたいと、開発について快く思わない同級生もいたが、少なくとも僕は目新しさが先行して、心が躍る日々であった。僕には不安など何もなかった。なにせ田畑や山なんて、ずっと自分の隣にあるものだと何の疑いもなく信じていたからだ。少々の開発で失われたって、それは決して、奪われることのできないものだと感じていたのだ。
 小学四年生、夏休みに入ったばかりの頃。蒸し暑さの中叫ぶ蝉を、なんとかして捕まえようとしていた。僕も、友達も真っ黒に日焼けして、お互いを「まるで真っ黒くろすけのよう」と笑いあった夕暮れ。建築途中のマンションの向こうに、赤い光線を反射して輝く田んぼがあった。まだ成長途中のイネがその葉先に光の粒をきらめかせる。静かな水面に赤色が浮かんでいる。ときたま生まれる波紋はアメンボか、それともカエルか。ねぐらへ帰ろうとする白鷺すら赤く染まる。太陽が沈みかける時刻にだけ、作り出される美しい情景。それは僕らの単純な感性にするりと入り込んできた。
 そうして僕と友達はその光景に見入り、馬鹿なことに、あの夕焼けを捕まえに行こうとどちらからともなく言い出したのだ。陽がとっぷり暮れてから帰れば母親に怒られることなどわかりきっていたことなのに、どうしようもなく冒険をしたい年頃だった。太陽はちょうど、田んぼの真ん中に座る小さな山に食べられようとしていた。
 畦道を踏みしめればバッタが跳ねる。思いっきり駆け出せば、風になった気分になる。走りながら手を広げればバランスを崩して転びそうになった。友達が馬鹿にしたように笑うから、お返しとばかりにその腕を引っ張る。戯れを続けながらでこぼこの畦道を走る。視界の端をかすめる不揃いに並んだイネが、初夏の田植えを思い出させた。
 二人は今にも太陽を隠さんとする小山を目指す。僕たちは、その山のことをよく知っていた。カブトムシが群がるクヌギの木の場所とか、木登りに最適な木はどれかとか、誰某が転んで膝をぶつけたのはどこか、そんなことをたくさん知っていた。だからたとえ、夕闇がすぐそこに迫ってくる時刻に入山したとして、なんにも恐ろしさなんてなかったのだ。あんまりにもよく知っていたものだから。
 木々に埋もれるようにして頂上へと向かう石畳の階段に一歩足を踏み入れて、二人は顔を見合わせて笑った。心の底から温かい色をした雲が沸きあがってくるようだった。半分苔に隠れた階段を息を弾ませながら登る。そうこうする内にも空は段々と青ざめていく。僕も友達も、負けるものかと一気に走った。
 そう、そうして辿りついた山の頂上から見えた景色。今まで何回も踏みしめた頂から、僕は果てのない赤を見つけた。太陽はこの小山どころかもっと遠い遠いどこかで、静かに眠ろうとしていた。その瞬間の、地平線に与えられた一筋の赤い色を、僕は今でも鮮明に思い出せる。そうして、赤に引っ張られるように、僕は不思議な世界に足を踏み入れていたのだ。
 息を吸って、吐いて、また吸って。何度もそれをくり返して、太陽があっさりと隠れてしまったことになんだか悲しさを覚えながら、僕は横を向いた。そこには友達が、僕と同じように赤の美しさに心を打たれているはずだった。
「結局、夕焼け捕まえられなかったな」
 そんな言葉を携えて向いたそこに、友達はいなかった。僕は驚きのあまり息を一瞬止めて、友達の名前を呼ぼうとした。何度も何度も口にしたその音は、なめらかに零れ落ちていくはずだった。実際は、空気を震わすことさえなかったのだけれど。
 友達のいるはずだった隣には、幼い少女がたたずんでいた。下を向いているためにその表情は見えない。人形みたいなおかっぱ頭をして、その手に赤い鞠を大事そうに抱えていた。臙脂色した着物を着て、そのあまりに深い赤色がまるで夕焼けのように思えた。
「お兄ちゃん、夕焼け好きなの?」
「……へ? あ、いや。好きだよ」
「好きだから、夕焼け捕まえたいと思うの? あんな遠くにあるのに。木の天辺に登っても届かないよ」
 少女の言を聞きながら、きっとこれは夢だろうなと僕は考えていた気がする。あるいはあまりにも夕焼けがきれいだから、こんな幻想を見ているのだと。そう信じることでなんとか平静を保っていた。そうして、何事もなく現実へと戻り、友達とくだらない会話をしながら母に怒られるために、僕は少女と話すことにしたのだった。
「たしかに届かないけど、やってみたくなるじゃん」
「どうしてそんな、無駄なこと」
「どうしてだろ。ただ、僕だって無駄だって、届くはずないってわかってるけど、やりたくなるんだ」
 どうしてだろう。僕は呟いた。どうしてなの? 少女は反復した。何度も何度もどうして、なんて小さく呟いて、少女はその小さな手に抱えていた鞠を、地面に落とした。鞠はぽんぽんと数度跳ねると、僕らの二三歩前で静止した。赤い刺繍糸で形作られた模様は細く繊細で、彼岸花のように艶やかだった。
「じゃあ私も、無駄だってわかってるのに不満を言っていい? お兄ちゃんに言っても無駄なのはわかりきってるのに、それでも、言っていい?」
 少女は顔を上げない。ただ、その声がひどく震えていて、僕は非常に申し訳なくなった。たとえ夢だと考えていても、泣きそうな声を搾り出す理由をつくってしまったのは僕にあるような気がして仕方なかったからだ。どんな理由でも、自分より幼い子どもを泣かすことは悪いことだと、昔から教えられていたからだ。
「言えばいいよ」
 この簡単な言葉は、純粋な僕の思いだった。だってこれは夢だから。夢の中でどんなことを言われようと、所詮は「夢」の一言で終わらせることのできるものなのだ。
 ここに来てようやく、僕は周囲の情景をまともに認識できるようになっていた。鞠の転がったところには茂みがあり、そこからちろちろと、蛇の鋭い瞳が垣間見える。僕らの頭上には桜と梅が同時に咲き誇り、白と赤の競演が美しい。鼻をくすぐるかぐわしい芳香は、きっと少女の向こうに咲き誇る白百合のものだ。雀の群れが枝葉を揺らす。騒がしいさえずりは椋鳥だろうか。
 山石楠花、躑躅、石榴。さまざまな花が一堂に会していた。そこには草本も低木も高木も、何の垣根もない。ただ伸ばしたいように枝を伸ばし、自由につぼみをほころばせていた。不思議なのは枝が決して絡まることなく、仲良くやわらかな陽光を浴びていることだった。肺に染み渡る香りすら、不快感ひとつ催さない。
 少女の肩で駒鳥が羽を休める。木々の向こうで鹿が遊んでいるのが見える。足元からぐんぐんとすさまじいスピードで蒲公英が花を咲かせる。明るい黄色の花のあとに綿毛のような種が現れると一陣の風が吹き、あっという間に丸裸にしてしまう。種が芽を出し、つぼみが綻び、花が咲き、そして新しい種を作る。何度も何度もくり返される。まるで定点カメラ一年分の映像を見せられているようだと思った。終わりの内容に思える繰り返しの最後に、少女の鞠から、彼岸花が咲き誇った。
「変わっていくのが嫌いなの。もう、無くなってしまうということが、どうしようもなく恐ろしいの」
 少女がつい、と白百合を指さす。するとたちまちの内に白百合は枯れ、茶色い残骸を地面に落とした。
「もうあそこはね、生き返らない。何十年かけても元通りにはならない。水が汚れてしまったから、井戸水は汚くて使い物にならない」
 それからね、と少女は桜を指さす。大の大人が腕を広げても抱えきれないほどの太さのその幹が、重い音を立てて崩れ落ちた。
「あんなに皆に愛されてたはずなのに呆気ない。どんな強風に耐え抜いたって、日照りにも水害にも耐えてがんばって毎年花を咲かせたのに」
 そうやって続々と周囲の草花は枯れていった。並行するように動物の姿も消えていった。淡々と少女は話し続け、とうとう残っているのは、鞠から咲いた彼岸花だけだった。
「もうここだけなの。あんなにたくさんいたはずなのに、どうして。仕方がないのはわかってて、お兄ちゃんに言ったってどうしようもないことだっていうのも、わかってるよ。でもやっぱり、どうしてなのかなあ」
 悲しい夢だと、僕は思った。美しいものが次々と消えていく嫌な夢だった。少女が泣いているということがなにより辛かった。
 僕は色々な言葉を探した。どうすれば少女を泣き止ますことができるのか、足りない頭で必死に考えた。口は音もなく動くばかりで閃き一つもたらしちゃくれない。
「――あのさ、夕焼け好きだから捕まえたいって事じゃないんだぜ!」
 最終的に、僕の口から飛び出たのは知性なんて欠片もないような文章だった。少女の語りと何一つ触れないことを話してしまい、瞬間僕はパニックになった。懸命に、言葉と意味をつなげようとした。
「ええと、な。僕は確かに夕焼けが好きだけど、触ってみたいとか思ってるけど。でもやっぱ無理ってことはわかってて……だけどそこはほら、冒険心はくすぐられて。なんか負けた気分になるしちょっと挑戦するのもいいかなって。あの、うん」
 少女は驚いたように僕を見る。大きな黒い瞳が挙動不審な僕の姿をきれいに写していた。意味もなく両腕を振る、そんな動作も全て丸写しだ。
「そんで、なんかまったく繋がらないけど。無理だから諦めるのは当たり前でしょうがなかったりするけど、なんだか癪じゃん。えっとさ、だからちょっと反抗するのもいいかなって思ったり?」
 どぎまぎと僕は歩を進めた。立派に咲く彼岸花のほうへ。篝火みたいなきれいな赤色は、夢を見る直前の夕焼けを思い出させた。
「彼岸花の赤って夕焼けみたいに思わん? 透明で、きれいでさ。こうして触ったら、ほら夕焼け捕まえたってことに」
 彼岸花には毒があることを知っていたのに、脳からその知識がすっぽり抜けたままの行動だった。思い返したら、本当に僕はなんて馬鹿なことを言っていたのだろう。いくらパニックだったからって、あんまりにも恥ずかしいことを口にしていた。
「……夕焼けと、彼岸花はまったくちがう」
 少女の言葉は正論だった。薄桃色の唇がゆっくりと動く。眦はすこし赤らみ、瞳は潤んでいるけれど、それでも涙が見えないことに僕はほっとした。
「ねえお兄ちゃん、彼岸花好き?」
「へ? うん、好きだけど」
「私、お兄ちゃんのことよく知ってる。みんなとよく、この山で遊んでるよね。いつも友達といて笑ってて楽しそう」
 不思議な気分だった。僕は少女の顔にまったく覚えがない。このあたりで日常的に着物を着ている女の子を見たことはないし、うわさを聞いたこともない。なのに相手は僕の――僕たちのことを知っているなんて。嘘だと思うことは簡単だったが、少女を疑うのは駄目な気がした。そしてやはり最後には、これは夢だから起こっていること全て信じていいのだと、何かが僕に囁くのだった。
「笑ってるのも、楽しそうなのもあったかいから嬉しい。だから、少しだけでも、この山がこのままで、それで皆で、遊んでいられるように。そうしたら毎年お花咲かせるから、見に来てね。お願い」
「じゃあいつもどこにいるのか教えてくれよ。僕、失礼だけどまったく顔知らないからさ、家がどこかもわからない。教えてくれて、それなら会いに行くけど。なんなら明日にだって」
 すると少女はふんわりと笑った。小首を傾げて、それから緩やかに首を横に振る。
「だめ。私、今はきちんと会えない。それなら、秋にここに来て。この山がある限り、何回でも咲くから」
 まるで自分が花であるように言うと思った。視界の隅で、彼岸花の花弁が風も吹いていないのに揺れた。
「ねえ、どうか覚えておいてね。大人になったって、白百合の咲く丘があったこと、人に愛された桜があったこと、無くなったものを忘れないで」
 僕は強く頷いた。それは決して少女の意を全部理解してではなく、ただ安心させたいというエゴからの、不純なものだったけれど。たったそれだけで笑顔になってくれたものだから、この選択は間違ってないと思った。同時に、意味がわからなくても少女の言葉を覚えておこうと思った。今わからなくたって、いつか大人になった日、唐突にわかるときがくるかもしれないから。
「それなら、秋に会いに行くよ」
 約束ね、と少女は微笑む。それから、夕焼けに手が届いたら教えてね、とも。それはおそらく、赤い少女の精一杯のお茶目だった。
「やくそく」

「約束?」
 友達の訝しげな声に、僕はハッとして辺りを見回した。太陽は沈んだばかりのようで、西空に赤紫の線が幾筋も入っている。慌てて隣を振り向けば、そこにはそばかすだらけの、友達がどうかしたのかと僕を見ていた。
「ううん、なんでも」
「ふぅん、ならいーけど。結局さあ、夕焼け捕まえることできなかったな」
 必死で走ったのに、と友達はおどけた口ぶりで話す。そうだな、と頷いて、二人で太陽の沈んだ空を眺めた。
「また、秋にここ来よう」
「どうせ夏休みなんだから、秋以前に来るよ。カブト採ったり、かくれんぼしたりにさ。蚊がうざったいけど」
「まあそうだけど……秋にも」
「いいよ、来よう。そん時は紅葉狩りかな。俺、いいスポット知ってんだ」
 頂上にお別れをして、木立の隙間から薄闇が染み出てくる階段を下る。段々と空気が冷たくなる。夜のにおいだ、と僕は思った。
 肺の奥深くまで浸透していく澄み渡った空気が、きれいで、きらきらしていて、美しいと感じた。魔法をかけられたように気分がよかった。夜空の星がはっきりと輝いていた。
 その後母親の雷が落ちたこと、生まれて初めての拳骨を味わったこと。今となってはすべてが懐かしいと思う。それでもやはり、夢の中の少女との出会いは、格別のものなのだ。
「なあ、今年の秋もあの山登るか?」
「そのつもりだけど。なに、今年も付き合うのか?」
「まあ、なんだかずるずると毎年行ってるからな。むしろ行かないと落ちつかねえ」
「そうか」
 蝉も鳴かないような猛暑の昼だ。日向の草花はあまりの暑さにうだっている。空を見上げれば、立ち並ぶマンション類によって直線的に区切られた空が僕たちを見下ろしている。
 今なら僕はあの少女の言いたかったことが理解できる。かといって何ができるものでもない。僕が理解できる年齢になったときには、もう既に開発の大部分は終わっていた。だから仕方がないことなのだ。田畑の大部分は消滅して、昔からの住人が細々と農業を営むだけの結果となってしまったことも。星があまり見えなくなってしまったことも。思い出に感傷の影を落としながらも、それでも結果は覆せない。
 ただあの山だけは残った。街にも緑地が必要だとか、そんな行政的な判断によるものなのかもしれないけれど、とにかくあの山だけは当時の状態のまま、残されている。カブトムシの群がるクヌギの木や、木登りしやすい木はどれかとか、そういったことはこの地で生まれ育った僕らだけの秘密だ。
「あの夏の日、僕はきれいで悲しい夢を見た」
 友達はへえ、と気のない声を上げた。興味の範疇外だったのだろう。
「とてもとてもきれいな夢で、だから今年も、僕はあの山に登るよ」
 彼は笑い声を上げた。いわく、成人男性が夢見る少女のようなことを呟いて気持ち悪い、と。まあ確かに、少しは自覚しているので否定はしない。
 見上げた僕らの頭上には空が広がっている。風が吹き、風鈴が歌う。甲高い音色に紛れて車が走る。景色は変わってしまったけれど、あの山の頂から見える夕焼けは、きっとこれからも変わることはないだろう。そして、夕焼けを丸ごと閉じ込めたような美しい赤い花に会いに行くことも。



第二十八回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


Nevicata

Nevicata
 

「ねぇ、思い出した?」

 彼女は訊いた。

「何を」

俺は訊き返す。
 地上数百メートルという高さの展望台は、真ん中から綺麗にちぎれて。取れた先端部分は逆さまになって、遥か眼下のビルに突き刺さっていた。まるで盃のようだ。
灰色に霞む地上。
雪に埋もれた世界に、動くものはない。
そこに一体何があったのか、俺は知っている。人が、獣が、機械が、どのようにして雪に埋もれていったのか。世界がどのようにして終わっていったのか。俺は覚えている。けれど、彼女が思い出せというものが地上の終焉の様子ではないことも、俺は覚えている。

「私のこと。それか、貴方のこと。それか、私たちのこと」
「知らない」

 知らないから、そう答えた。
 彼女は酷く苛立っているようだった。展望台は壁と天井が失われた今でもその機能を捨てていない。今でこそ雪の向こうだが、晴れてさえいれば眺めは良かっただろう。そんな場所で彼女は床にカーペット宜しく降り積もった雪を睨みつけ、淡々とした調子で地上へと蹴り落としていた。蹴り落としながら、少しずつ俺から離れていく。風は吹いていない。塊になった雪は、解れることはあってもまっすぐに落ちていくのだろう。
俺は代わりに空を仰いだ。雪は降り続いている。溜め息が白く曇って、灰色の空を背景に消えていく。

「どうしても認めないの?」

 彼女の声は澄みきり、凍りつきそうな程冷たかった。

「何を」
「私のことと、貴方のことと、私たちのこと」
「知らない」

 雪のように、淡々と降るだけのやり取りだった。
 彼女の黒髪は艶やかに長かった。彼女が身動きする度に彼女の身体を撫で、緩く曲線を描く輪郭を空間に示していく。雪を蹴り落とす彼女の向こう側に街が、街だったものが横たわっている。温度のない灰色だけが、雪の白の間に所々顔を覗かせている。死者の顔のようだった。
地上の全ては炎に焼かれて、死んで灰色になった。俺はその灰の中から目覚めた。思い出すことなど、それ以降の経験しかない。もしそれ以前の「記憶」を思い出したのだとしても――――街の焼ける光景や、建物の崩れる音や、逃げ惑う人々の叫びを思い出したのだとしても――――それはある種、夢のようなものにしか過ぎないのだろう。
思い出している。けれど、そんなことは「知らない」。

「どうして認めないの?」

 彼女は無意味な除雪作業をやめて立ち止まった。それから、まっすぐに俺を見据えた。
鋭い眼差しだった。

「知らないから」

 俺はただ彼女を見つめていた。

「でも思い出してるんでしょう?」
「思い出してる」
「だったら」
「知らない」

 俺の答えは変わらない――――変えては、いけないのだ。
 相変わらず雪は降り続いている。足先が凍えて、徐々に冷たいという感覚が痛いという感覚に変わっていく。俺はゆっくりとその場で足踏みをした。靴の上に積もっていた雪を落とす。逆に彼女は雪を落とすやる気をなくしたようだった。酷く歪んだ表情で、じっと俺を見つめている。見方によっては、泣き出しそうな顔にも見えた。

「じゃあ、教えてあげるよ。何があったか」

彼女は酷く冷めた目をして、ぽつりと言った。

「私が言ったら、それが貴方の記憶と重なったら、認めて」
「何を」
「私のこと、貴方のこと、私たちのこと、全部」

俺は答えなかった。重なるに決まっていると思ったから。今までの繰り返しの中で、彼女の語ることと俺の思い出したことが合わなかった、という出来事は今までに一度もない。恐らくは、これから先もない。

「この世界を終わらせたのは、」

彼女だ。

「私」

ほら。

「でも、それは私の意志じゃない」

 彼女は苦しげだった。彼女の右腕がそっと持ち上がって、痛みを堪えるように左腕を握り締める。

「私が貴方のことを思い出した時、勝手に世界は燃える。私の意志とは関係なく、唐突に……そして私が焼いた世界の灰から、貴方が目覚める」

知っている。毎度、そうしてきた。
目覚めた俺は彼女に誘われるままここへ上がり、こうして彼女と話を聞き、彼女の願いを聞く。俺たちの間で繰り返されてきたことだ。それは淡い雪のように、降ることはあっても積もりはしない。溶けて、なかったことになる。俺たちの時間は、重ねる度になかったことになる。
――――ただ、彼女が知っているのはそこまでだ。

「……ねぇ、合ってるんでしょう?」
「何と」
「貴方の記憶と」

語り終えた彼女はそう訊いて、ほとんど縋るような目で俺を見ていた。俺と彼女の間に雪が舞う。欠伸の出そうな程緩慢に。
そうだ。俺の記憶と彼女の話に齟齬はない。俺たちは確かに、繰り返されてきたそれの記憶を共有している。俺の記憶は夢なんかじゃない、本物の「経験」の記憶だ。そんなこと、嫌という程分かっている。彼女だって分かっているはずなのだ。それでも彼女は、俺がそれを認めることに執着する。何度も何度も、彼女は俺に認めることを迫る。
彼女は覚えていないのだ。記憶が欠けているのは彼女の方だということを、彼女は知らない。

「……合ってるよ」

思ったより諦念を含んだ声が出た。
彼女の顔が輝く。きっとこの辺りから彼女の記憶は曖昧なのだろう。これもまだ、繰り返しの一部だというのに。

「でも、認めない」
「どうしてっ」

彼女の声は最早叫びに近かった。

「どうしてそんなこと――――」
「むしろどうして」
「えっ」

 完全に予想外だったのだろう、彼女はほんの僅かに不安げな表情を見せた。俺の推測が確信に変わる。
 今回の彼女は、ここから先を「覚えていない」のだ。

「どうしてそんなに認めて欲しいの」

 だからこそ、俺はいつものシナリオ通りに。

「それは……」
「それは、俺があんたと過ごした時間を認めることが、あんたの中にある《鍵》の消滅に関わるから。だろ」

 要は死にたいんだろ。吐き捨てるように、心の中でそう付け足す。
本当は失望も怒りも、何一つ湧いちゃいない。いつだって俺の中にあるのは諦念だ。何も変わらない、何も変えられない、気付いた時には既に、この台本の上に乗せられている。それは彼女のせいでも俺のせいでもなく、誰のせいでもない、ただ「世界がそういう仕組みになっているから」という、ただそれだけのことで。
 彼女の唇は寒さで悴んだ色をしていた。氷の彫像か何かのように、色を失って凍りついている。僅かに揺れる髪と降り続ける雪だけが、辛うじて時間の流れを感じさせた。
 彼女に向かって、一歩を踏み出す。

「思い出してるよ。あんたは世界の終焉の扉を開く《鍵》だ。鍵がなきゃ扉は開かないが、鍵は自力で扉を開け閉めできるわけじゃない。そして、《鍵》を消せるのは俺だけだ」

 一歩。また、一歩。

「あんたは壊れてしまいたいんだろ」

 もう一歩。

「何もかも捨てて、何もかも忘れて、ただの人として生きていきたいんだろ」

 自分でも驚く程、冷たい声が出ていた。

「そしてそれを願い出る為に、目覚めた俺の案内役まで買って出た。世界の終焉に立会い、味わい、見届ける、その痛みを代償に背負ってまで。そうなんだろ」

 今や彼女は手の届くところにあった。
その大きく見開かれた目に涙が溜まるのを、一体何度見たことだろう。彼女は何も言わずに頷くだろう。俺は泣き崩れる彼女を抱きしめ、その望みを叶えると嘘をつく。自分でも寒気がするほどの甘い声で。それから目を閉じるようにと囁く。目を閉じた彼女を抱きかかえ、そしてそのまま、展望台の下へ、灰色の雪原へ、虚無の中へ、彼女を投げ落とすのだ。まるで展望台に降り積もった雪を、蹴り落として片付けるように――――。

「――――違う」

 彼女は、震える声でそう言った。
 戦慄が走った。
……俺は、こんな展開は「覚えていない」。

「別に、人として生きられなくたって……いいよ」

 彼女はその頬に涙の筋をつけた。
 ……「覚えていない」。こんな展開は「覚えていない」。

「私が貴方にしてほしいのは、そういうことじゃ、ない」

 彼女は涙を流しながら、ゆっくりと両膝をついた。
 身体が酷く冷えだした。目の前の雪原が急に白さを増したような気がした。彼女の曲線を描く輪郭が、その白の中に浮かび上がる。雪は酷く眩しかった。俺の目を射るように、俺の心を照らし出すように、俺の思考を、邪魔しようとするように。
 俺は――――俺は、こんな展開は「覚えていない」……?

「――――じゃあ、何」

 辛うじて吐き出せたものは、そんな言葉だけだった。
膝の力が抜けて、俺は意図せずして彼女と同じ高さになる。彼女の涙は止まりそうになかった。遠目に艷やかだった黒髪は近くで見ると雪に濡れていて、いくらかは彼女の白い頬に張り付いていた。凍えた色の唇は小刻みに震え。俺を見上げるその瞳は、吸い込まれそうなほどに深い、黒。
俺は今まで、彼女の何を見ていたんだろう。今目の前にいる彼女は、俺が見たことのない「彼女」に満ちていた。

「……どんな方法でもいい、から。この世界がもう……終焉を迎えないように、して欲しいの。《鍵》、なんて。なくしてしまってほしいの」

 今回の彼女は、俺には分からない。
 同じことじゃ、ないのか。何が違うのか。何より何故、彼女は泣きながら微笑んでいるのだろう。彼女がどんな風に理由を説明するのか、俺は暫く考えてみたものの、何一つ分からなかった。何一つ知らなかった。何一つ覚えていなかった。俺は彼女の出すであろう答えを、思いつけなかった。
 こんなことは今までにない。身体の、震えが止まらない。

「――――どうして?」

 訊くしかなかった。
 彼女のことを知りたいと思ったのも、初めてのことだった。

「私、思い出せたんだ」
「何を?」
「私のこと。貴方のこと。それから、私たちのこと」

 彼女は、少し自嘲気味に笑みを深める。

「覚えてなかったのは、私の方だったんだ。貴方が「合ってるよ」って言う、その一言でいつも私の記憶は途切れてた……思い出せたんだよ。その後に、起こること。私が最後に、本当に最後の時に、経験していたこと――――」

 雪が降っていた。彼女の上に。俺の上に。全ての上に。
 いつもそうだった。いつだって、そうしてきた。

「――――貴方はいつも、私を下へ落とすんでしょう?」

 そうだ。そう答えたいのに、声が出ない。中途半端に口を開けたまま、俺はただ彼女の言葉を聞いていた。

「いつも震えて、泣きそうな顔で、私を見てた……」

 そうだ。いつもそうしてきたのだ。
雪と一緒に地上へ向かいながら、彼女はいつも、目を開けてしまう。目を開けてしまうと知っていながら、俺はいつも目を背けられない。動けない俺の視線の先で彼女は目を開き、俺の目を見つめ、それから、そっと微笑む。その口が、開く。「ごめんね」と、小さく動く。
彼女は謝るのだ。今みたいに。涙を流して。

「ねぇ。もう、やめにしよう……?」

 彼女は、柔らかい声でそんなことを言う。それはどこまでも優しい声で、優しい言葉で。
――――なのに俺は、背に走る震えをはっきりと感じていた。
 彼女に、心を開いてはいけない。開いてはいけなかった。記憶を、認めてはいけなかった。心臓が急に早鐘を打ち始める。視界をちらつく雪が俺を焦らせる。やってはいけないことだ。これは、何があっても守らなければならない決め事なのだ。なのに彼女が思い出してしまったから、それを知って、俺が台本を外れてしまったから。こんなことは今までなかったのに。このまま行けば、このまま彼女の言葉を聞けば、俺は思い出した記憶を認めてしまう、認めてしまえば、その記憶を認めてしまえば、彼女は。

 彼女は、消えてしまう。なかったことになってしまう。

「私……」
「言うなっ」

 彼女は怯えるように身を竦ませ。見開かれた目の中に、俺が映っていた。恐ろしく歪んだ顔で、追い詰められた獣の目をして。

「私は、貴方を――――」
「言うな、もう何も言うな――――っ」

 ――――彼女の言葉を、俺は彼女の喉で止めようとした。

 体勢が崩れる。彼女の頭が雪に叩きつけられる。くぐもった声、呻き、震える喉、見開かれた目、零れ落ちる涙。彼女の気管を通りそこねた空気が鳴る。冷気が俺と彼女を撫でる。

 彼女の手が、俺の手に重なる。

彼女の喉は温かい。彼女は温かい。彼女は生きている。彼女は人間だ。彼女は世界の終焉を開く《鍵》だ。何もできないまま、自分が存在するというそれだけで炎に包まれる世界を見る。空から黒い雨が降るのだ。黒い雨は激しく地上を打ち据え、炎となって燃え上がる。それは獣を焼き、人を焼き、街を焼き、陸を焼き、海を焼き、世界の全てを焼く。干上がった海に灰となった大地が入り、世界は平面と化す。俺たちが約束の地と定めたこの街と彼女だけを、浮き上がらせるように残して。

彼女の手が俺の手に重なっている。

彼女は《鍵》の記憶を思い出すとそれ以前の生活の記憶を忘れるのだ。覚えている。夢のような淡い記憶の中に、ただの人として生活する彼女の姿がある。だけど、これは何なんだ。俺は灰から生まれるのに。灰より前の世界の記憶は一体何なんだ。俺は何なんだ。分からない。俺は何なんだ、どうしてこんなに分からないんだ、こんな分からない俺を導くこいつは、こんな分からない俺に優しくするこいつは、お前は、お前は何なんだ、お前がいると俺は、俺は。

彼女の手が俺の手に重なっている。

彼女は《鍵》の記憶を思い出すより前の世界の記憶を持っていない。俺は朧げにではあっても持っている。目覚める前の記憶を持っている。でもそれは燃え上がる街並みや、建物の崩れる轟音、人の焼かれる匂い、子供の泣き叫ぶ声、どれもこれも世界の終焉の光景ばかり。彼女はきっと、その光景をいくつも知っているはずだ。いくつもの終焉を見てきたはずだ。もう見たくないだろう。そうだろう。そう思っていい。何もおかしくない。だったら、なんで「彼女の最期」の話をしたんだ。ただ一言もう見たくないと言えばよかったじゃないか。なのに彼女は俺の話をした。最期に見る俺の話をした。何故だ。それさえなければ俺は、お前を落とすだけでよかったんだ、こんなに動揺して、こんなに焦って、こんなに苦しい気持ちになって、こんなに震えたり、泣いたりせずに済んだんだ、お前を、お前の死ぬ姿を、見ずに済んだんだ……。

彼女の手が、俺の手に重なっている。
その下で、彼女の首の骨が――――嫌な音を立てた。

終わった。

「…………散々だよ」

 思わずそんな言葉が零れ落ちる。涙が止まらない。ゆっくりと、俺は彼女の上に座り込んでいた。雪はまだ降っている。喘ぐように息をする俺の口に雪が飛び込んで、消える。

 叫んだ。

 自分の下にある彼女の身体は柔らかく、温かかった。
彼女はもう生きていない。俺が、殺した。いつだって俺はそうするしかない。
彼女の死。それが世界の再生の《鍵》だ。俺だけがそれを知っている。《鍵》を作り直せるだとか、毎度彼女に言う言葉はただのデタラメだ。彼女は俺を神か何かと思っているようだ。けれど、本当はそんなんじゃない。俺は特殊な期間にしか生きられないだけの、灰の中で目覚めて雪の中に眠るだけの、ただの、人間でしかない。ただ《鍵》の為に目覚めさせられて、用が済めば眠らされるだけの、人間でしか、ない。

 ――――それでも。
それでも、彼女には《鍵》でいて欲しいのだ。俺と同じ時間を生きて、俺と同じ記憶を持って欲しいのだ。俺と出逢って、灰と雪に埋もれた街を歩いて、そして俺と、同じ雪を見て。その大きく見開いた目に、俺の姿を映してほしいのだ。俺を、俺だけを、映してほしいのだ――――。

酷く、眠たかった。
彼女の手を下ろして、俺は彼女の喉から手を離した。彼女の目を、慎重に閉じた。少し、微笑んでいるように見えた。体が重い。彼女の隣に寝転がる。刺すような冷たさを感じる。
雪はまだ降り続いている。次に目覚める時も、きっと雪が降っているだろう。傍らには彼女がいて、俺が目覚めるのを見るなり微笑むのだ。探したよ、と。

少し伸ばした手が彼女の手に触れて。そっと、握った。

雪は降り続いている。視界が滲んでいても、そのくらいは見て取れる。けれど、空は心なしか明るく見えた。
雪の中に手をつないで眠る、なかなか悪くない。
例えひと時の夢だったとしても、俺にはこの時間しか与えられていないのだ。本当は他の全てが夢であればいい。世界の終焉も、黒い雨も、地上を這う炎も、全部全部俺の見る夢ならいい。でも、きっとあれが現実だ。彼女が俺に気付かなければ世界は終わらないし、世界が終わらなければ俺は目覚めないし、俺が目覚めなければ世界は再生しない。けれど世界の仕組みがどうしても俺たちをここへ招くから、俺たちがどうあがいたって、世界は焼ける。
だったら、こうして彼女と夢を見るくらい。
世界をひとつ巻き込んで、彼女と時間を重ねるくらい。
世界を再生させることを、彼女に会う「ついで」にするくらい。許されたって、いいんじゃないか。

目を閉じた。
俺と彼女の上に雪が積もる。

雪に埋もれた世界に、動くものはない。

第二十八回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


| TOP |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。