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さらし文学賞
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極光神界遊戯録

 ここは天上界。
 下界に存在する万物各々を司る神々がおわしまする世界である。
 ある日、暇を持て余した鏡の神は蛍光灯の神に因縁をつけ、勝負を申し込んだ。
「暇なら、勝負せんか」
「ええとも」

 最近の天上界では、下界に住む人間を使った勝負が流行している。蛍光灯の神と鏡の神が行うのは「縁結びの勝負」である。割かし関係が近い一組の男女を選んで、二人の縁を結ぶ側と分かつ側に分かれて攻防戦を行うのである。

 勝負をする前に、蛍光灯の神が言った。
「ならば私はこの男の部屋の蛍光灯になりきる。私が三回交換されるまでに、コイツの恋が成就しなければ、お前の勝ちにしてやる。それでいいかね」
 提案を聞いた鏡の神は喜んでその勝負を受けた。鏡の神は鼻で笑った。
「蛍光灯に何ができる。俺は俺らしいやり方で、恋路の邪魔をさせてもらうからな」


○○○○○○

 これは、「暇を持て余した神々の遊び」に翻ろうされた男たちの物語である。

○○○

 俺が大学生になり、一人暮らしを始めて早くも八か月が経った。年賀状の売れ筋がよくないという夕方のニュースを横目に、薄暗い蛍光灯の光のもとで俺は友人の影村と一緒に仲良くカップ麺を啜っていた。約一週間の間、夕飯はずっとカップ麺のしょうゆ味であった。
「こんな寂しい夕食を、いつまで続けるんでしょうか。ああ、焼肉が食べたい」
 影村は身にふさわしくない願望を垂れながら人の家の食べ物にケチをつけた。腹が立ったので彼が持っていたスープに浮いたチャーシューを喰ってやると、彼は床に崩れ落ちた。それを見て俺は勘弁してやることにした。
 何が悲しくて男二人でこんな寂しい食事をしているのか。年末年始に出費がかさむから節約しているのもあるが、主なモメントはつい先日にアルバイトを解雇されたことである。
 俺と影村はともに近所の大型書店で働いていた。俺が入った時にすでに影村はそこで働いていて、同じ大学でしかも同回生であると知った俺たちはすぐに仲良くなった。しかし悲しいかな、俺が影村に出会っていなかったら、俺は今もその書店で働いていたのであろう。
 影村は良くも悪くも行動力のある奴だ。彼は大学で七つだか八つくらいのサークルを掛け持ち、しかも複数のアルバイトをこなし、週八回は出勤している。俺と一緒にバイトを首になった翌日には新しい勤務先に面接へ向かっていた。そんな彼の学校での成績は案の定下の下であり、俺が卒業する頃には彼は後輩になっていると推測される。
 俺はそんな影村と道連れになる形でバイト先から解雇宣告を受けたのだが……理不尽さに怒りがよみがえってくるので深く考えないことにした。あまり怒ると今度はチャーシューだけでなくメンマ、コーン、その他諸々を横取りしてしまうかもしれない。それでは彼があまりにも可哀想だ。
「もう新しいバイトは見つかったんですかい」
 訊いて、影村は勢いよく麺を啜る。
「首になったのはつい先日だぞ。俺はお前とは違う、そんなにすぐ動けるものか」
「時は金なり、タイムイズマネーですよ柏台さん。立ち止まっていたら時間がもったいないでしょ。学生でいられる時間も残り少ないですし、やれることは全部やっておかないと」
 影村は少し馬鹿にした調子で言う。これが平生の彼の話し方であり、彼をあまり知らない人間は思わずむっとしてしまうが、慣れとは全く恐ろしい。ちなみに柏台とは俺のことだ。
「もっとも、果たしてお前は四年間で卒業できるのかな」
 この時俺は少し下卑た笑みを浮かべていたかもしれない。普段は純真で誠実で水は滴っていないがとってもいい男子である俺は心の中で少し反省した。痛いところを突かれた影村は、箸を止めてううっと唸った。
「テスト前に本気出せば何とかなりますよ。学業に関しては自己責任ですし、その辺は放っておいてくださいな」
 本気を出す暇がないから何とかなっていないのだが、たしかに自己責任なのでそれ以上言及しないことにした。食べ終えたカップ麺の残液を処分して手を洗った後、炬燵に入ってほっと一息つく。段ボール箱からみかんを二つ取り出し、片方を影村に向けて放り投げると、最後の一口を啜っていた彼の頭に的中した。当たる前にそれを悟った俺は素早く炬燵布団の中に潜り込む。ほどなくして奥から右足が襲いかかり、俺はカーリングのストーンのように炬燵から追い出された。
 床の上に仰向けになると、部屋の蛍光灯の明滅がチラチラと肉眼で確認できるほどになっていた。そろそろ交換するべきなのかもしれない。
 俺が借りている部屋はキッチン・トイレ・風呂が完備されていてなかなかに住みよい所だが、収納スペースがほとんどない。部屋には物があふれ、ベッドと炬燵周辺を除いて足の踏み場がほとんどない状況である。そんな中、この部屋の明かりが切れたらどうなるか。キッチンの小さな明かりだけでは足元はほとんど確認できず、部屋中のモノというモノを踏み潰してしまうであろう。教科書やノートを踏み潰すくらいなら全く気にならないが、スーパーファミコンやらビデオデッキやらまで踏みつけてしまうのは憚られる。
「ちかちかしますね、これ目に悪いんじゃないですか」
 影村は蛍光灯を見上げると、鬱陶しそうに目を細めた。
「安心しろ、これ以上俺の眼は悪くならない。なりようがない」
 両眼とも視力〇・一以下の俺はメガネのフレームを指で抑えつつ、自信たっぷりに言いのけた。
「あなたじゃなくて、僕の視力が落ちちゃうじゃないですか。僕両眼とも一・五以上あるんですよ」
「お前の視力など知るか。ここは俺の部屋だぞ」
「一緒に食卓を囲むくらいの仲ですよ。伴侶と言ってもいいくらいの」
「気持ちの悪い言い方をするな。俺が買った食い物をむさぼっているだけじゃないか」
 影村がすり寄って来たので、たまらず俺は脚にしがみつくこいつを引き剥がす。本当に、どうして男同士でこんな茶番を演じなければならないのか。隣にいるのが影村でなくて黒髪の乙女であったのなら、どんなに良かったことだろうか。
 冬休み前までに処理しなければならないレポート課題が一つ残っていたので、そろそろ影村を帰すことにした。ついでに風呂にも入っていきたいとほざいてきたので、尻を蹴って玄関から追い出した。
「帰れ」
「ああん、こんな寒い夜に外に放り出すなんて、そんな殺生な」
「明日は冬休み前の授業最終日だろ。提出するレポートがあるんだよ。お前といると全く集中出来んからな」
 事実、影村と遊んでいると時間がいくらあっても足りない。タイムイズマネー、カネの浪費である。
「そうだ、なんなら今から替えの蛍光灯を持ってきてあげますよ。さっきそろそろ換えなきゃって言っていたでしょ」
「そんなものは休みに入ってからでいい。お前も課題があるだろう、帰った帰った」
 苦し紛れの提案を一蹴し、再び玄関に入らんとする影村を外へ押し出す。
「ありませんよそんなものは。それよりあったかいコーヒーが飲みたいなあ」
「じゃあな」
「あ、ちょっと、ひど」
 寒いのでさっさと扉を閉めて鍵をかけた。背後で罵詈雑言している奴は、放っておけばじきに収まるので気にしない。

 二時間もすればレポートは完成の様相を見せた。外で騒いでいた影村はいつの間にか帰ったらしい。あれだけ迷惑をかけたのだから、今度焼肉を奢ってもらおうそうしよう。
 一服しようとキッチンに向かったところ、取っておいた缶コーヒーがなくなっていた。影村が持って行ったのだろうか。どうやら焼肉どころでは済まないようだ。
 仕方がないので、近所のコンビニまで缶コーヒーを買いに行くことにした。節約している身分ではあるが、少しくらいはいいだろう。自分へのご褒美というやつだ。
 夜も深くなっていたので、外はさんざん寒かろうと思って厚着をして玄関から出たが、影村と阿呆なことをしていたときと比べてさほど気温は下がっていなかった。

 コンビニまでは歩いて数分もかからない。貸家から出て三回ほど路地を曲がったところ、大通りと住宅街の境目のような場所に立地している。
 いつもの練乳入り缶コーヒーを何本か買ってすぐに店を後にした。あまり長居をすればたちどころに煩悩が生まれて無駄遣いをするからだ。
 夜風に眠気を覚ましつつふらふらと路肩を歩いていると、前方から見知った顔が現れた。その人物はウエストポーチを下げて少々早歩きで進んでいた。
「やや、街田さんではないか。こんばんはー」
 歩みを止めて俺は挨拶する。向こうもこちらに気づいたようで、歩調を緩めてこちらに向かってきた。やたら整った姿勢であったので、不意に緊張感を覚える。
 街田さんは俺と同じ大学の同回生で、影村と同じ数学科に所属する女学生である。影村とともに勉学している人間である以上、さぞ偏屈な女かと最初は邪推してしまったが、そんな懸念は彼女と初めて会った途端に大気圏外に吹っ飛び、杞憂という宇宙の藻屑へと化した。
 街田さんは謹直にして楚々、妙妙たる成績で学問を修め、しかもサークルやアルバイトといった課外活動も卒なくこなす、まさに大学生の鑑のような黒髪の乙女であった。ちなみに影村は不義そのものである。
「こんな夜遅くに奇遇ですね」
 軽く会釈をした後、顔を上げて彼女は言った。彼女の、肩のあたりまで伸びた短めの髪がふんわりと揺れるのを見る間もなく、凛とした鋭い眼と目が合ってしまった。なんとなく恐怖を感じるので空を見上げて視線を逸らした。この日の月はあまりに綺麗だったので、それを見た俺はうっかり口に出してしまうところであったが、夏目漱石がなんたら述べていたのを思い出して喉元でとどめた。顔を戻すと街田さんはまだこっちを見ていた。
「街田さんは今からお出かけ?」
 彼女は俺の住むアパートの近くで下宿しているらしく、こうして街角で会うことがたまにある。しかしこの日は奇遇にもやたらと遅い時間に出くわしたのである。
「ちょっと甘いものを飲みたくなったので、そこのコンビニまで買い出しに。この辺りは自販機がないですから。……柏台さんもコンビニでしたか」
「うん。レポートが終わったのでちょっと一息入れようと思ってね」
 そう言って俺は手に下げたレジ袋を見せつける。街田さんは袋をまじまじ見つめると、「それが戦利品ですか」と呟いた。
「そうだ、甘いものが飲みたいならこれはいかが」
 レジ袋から缶コーヒーを一本取って街田さんに差し出すと、彼女はそれをおずおず手に取った。
「これって……アレ、柏台さんもこれ好きなんですか」
「好きだしよく飲むけど。街田さんも好き?」
「たまに飲むくらいには。学校で影村くんが奢ってくれるんです。でもちょうどよかった、ありがとうございます」
 大事そうに缶を両手で包んだ街田さんはきっと表情を綻ばせたのだろう。しかし俺はそれを目に焼き付ける余裕はなかった。影村め、俺と一緒にいるときは女気などからっきしといった素振りをしていたのに、ぬけぬけと学校では女子大生にちょっかいを出しているらしい。今度会ったら、焼肉を奢ってもらうついでに是非ちょっかいの出し方だけご教授願いたい。
 街田さんの目的は果たされたようで、彼女は俺に連れ立ってもと来た道を戻りだした。
「それにしても、柏台さんはどうしてバイトを辞めてしまったのですか。割かし真面目に働いていたのに」
 街田さんは不機嫌そうに言った。何故俺がバイトを辞めたことを彼女が知っているのかというと、彼女も俺や影村が働いていた書店でアルバイトをしているからである。
 八月の上旬、夏休みが始まって毎日のように働いていた頃、街田さんはやって来た。俺と街田さんが初めて面識を得たのもその時だ。彼女の研修期間中に俺は手伝いをしていたが、一週間待たずして彼女は俺よりも要領よく仕事をこなせるようになっていた。その為、はたから見れば俺が街田さんをサポートしているのではなく、彼女が俺のフォローを任されているかのように思われただろう。
 研修が終わった後も街田さんは俺と同じ時間帯で働いていたため、時たま会話を交わすことがあった。会話の主な内容は学校での影村についてである。彼からいつも小馬鹿にされ、舐めた態度をとられていた俺はどうにかして影村の弱みを握ろうと企んでいたのである。
 しかし街田さんが語ったのは、普段の俺とのやり取りからは想像もつかぬような質実剛健な奴の人物像であった。俺がそんなわけあるものかと笑って否定すると、彼女はむっとした表情で「彼を悪く言わないでください」と咎めた。果たしてどちらが影村の正体なのか。あるいはどちらも間違っている可能性がある。あんなに人をけちょんけちょんにするくらいだから、もしかしたら妖怪の類かも、と考えたことすらある。
 そんなこんなであわよくば街田さんとねんごろになろうなどと目論みつつアルバイトを続けていた俺であったが、先日なんと解雇宣告をくらってしまったのだ。
「辞めたというか、辞めさせられたというか……」
 突然のことであったため、街田さんには一報入れることもなく俺はバイト先を去ることになってしまい、彼女は影村の口から俺の辞職を知ったらしい。てっきり影村が成り行きを話してくれていたものだと思っていたが、街田さんは何故俺たちが辞めることになったのか知らない様子であった。
「辞めさせられた? 首ってことですか」
「まあ、そういうことになるかな」
「なぜ、どうして」
 歩きながら街田さんは俺に詰め寄る。ぎりっとした眼差しで見上げられた俺は、その迫力におののいてたまさかに口を滑らせるところであったが、くっと口をつぐんで終ぞことの真相を語ることは無かった。

***

 一週間と少し前、影村と俺は来たるべきクリスマス商戦に向けて、遅くまで残って作業を行っていた。夢中で装飾やら仕入チェックやらをしていると、いつの間にか閉店時間を過ぎており、俺と影村と店長、そしてどこぞの専門学校に通っている女性スタッフだけが残って作業をしていた。
 次の日も学校の講義があるため、俺と影村は切りのいいところで作業を止めることにした。後片付けは店長と女性スタッフの二人でやってくれると聞いたので、遠慮なく俺たちは帰路についた。
 店を後にして間もなくのことだった。影村が突然こんなことを言った。
「あ、そうだ。休憩室の蛍光灯が切れかけているから交換してくれってシフトリーダーに頼まれてたんだ」
 言い終わらぬうちに、影村は駆け出していた。
「今からか? もうだいぶ遅いぞ。電気屋なんてとっくに閉まってるだろ」
「うちに買っておいたのがあるんで、それを持っていけば問題ないでしょ。さあ行きますよ」
「いや待て、なんで俺を連れて行こうとしている」
 すると影村は両手で自分の肩を抱くとおおげさに震えてみせた。
「夜道にこんなか弱い大学生一人じゃあ心細すぎるでしょ、きっと黒服のおじさんに身ぐるみはがされて東京湾に沈めちゃうわん」
「阿呆くさいことを言うな。そんなに怖いのなら今度にしろ今度に。テスト勉強もあることだし」
「今度じゃだめですよ。リーダーに怒られて、カツアゲされて、借金した挙句に黒服のおじさんに身ぐるみはがされて東京湾に沈められちまいますって。単位落とすよりよっぽど怖いですよ」
 そんなに言うならいつか俺が沈めてやると言い放ったが、続く一言で俺の態度は一変した。
「明日は金曜日、いつもお世話になっている誰かさんでも誘ってごちそう食べに行こうと思ってたんだけどなあ」

 影村の家に交換用の蛍光灯を取りに行った後、俺たちは全速力でバイト先の書店へと急いだ。店が閉まっていてはおしまいだが、まだ明かりが点いているので間に合ったらしい。
 裏口から入って、休憩室へと向かう。店が広いせいで、部屋までは結構ある。廊下をぐんぐん進んでいくと「休憩室」と書かれたプレートが取り付けられたドアが見えてきた。
「それにしても、店長たちはどうしたんだろう」
「レジの確認でもやっているんじゃないですか。さあ、とっとと終わらせて帰りましょう。あ、今日は柏台さんの部屋に泊まっていっていいですか」
「さりげなく言いやがって。……明日のごちそう期待しているからな」
 くだらないやり取りを終えた後、俺たちは休憩室に入ってそそくさと蛍光灯を取り換えた。二本ほど切れかけていて、影村は脚立に乗るとそれらを外して新しいものを取り付けた。俺は古いものを受け取り、新しい蛍光灯を影村に手渡す。取り換え自体にそれほど時間はかからず、てきぱきと作業を終えた俺たちは息せき部屋から出た。
「上手くいきましたね」
「上手くいったな」
 顔を合わせると、お互い喜んでいるのか疲れているのか何だかむにゃむにゃとした表情をしていた。さあ帰ろうと俺が出口に向かおうとすると、影村が俺の首根っこを捕えて歩みをとどめた。
「今度は何だ、もう帰るぞ」
 面倒がって俺が言うと、影村は人差し指を口に当て今まさに俺が向かわんとした方向を睨み付けた。 
「店長たちがこっちに向かって来ています。隠れないと!」
「いやいや、隠れる必要もなかろうに」
 俺は何の問題があるのかさっぱりわからなかったが、普段見ることのないあまりに必死な影村の様子と、並々ならぬ彼の気迫に圧倒され、なす術なく隣のロッカールームに押しやられてしまった。
「一体どうしたんだ」
「しっ、声が大きい。今見つかったらやばいですって。……しばらく聞いてりゃわかると思いますよ」
 あんまりごねると殴られそうだったので、しぶしぶ俺はそこで待機することにした。
 足音が近づいてくる。しかしそれをかき消すくらいの声量で、男女が仲睦まじく会話する声が聞こえてきた。それは紛れもなく、店長と女性スタッフの声であった。
「あらま……ずいぶんと楽しそうにやってますねい」耳元で影村がつぶやいた。
「これ、マズいんじゃあないか? 店長って奥さんいるんじゃなかったか」
 店長らは休憩室に入って行ったようだ。徐々に睦言がヒートアップしているが、傍らの影村は意に介さずニマニマ気持ち悪く笑っているようだ。
「幸か不幸か、とんでもないスキャンダルを得てしまいましたね」
「どう考えても不幸だろ。ここにいるのがバレたらマズい。隠れてないと」
「ですが、僕たちいつまでもここにいられませんよ。鍵を閉められたら明日の十時まで出られません」
「一限は諦めろ。二限にはギリギリで間に合う」
「それが無理なんです。一限のテストに欠席したら、今度こそ留年です僕」
 どうやら手詰まりのようであった。店長に気付かれずに部屋から出て、廊下を駆け抜けて彼らより先に店外に脱出しなければならなくなった。
 隣室に耳を傾けると今や睦言は睦事に変転し、壁の向こうで淫猥極まりないことが起こっているのは想像に難くなかった。
「うほあ、こりゃすごいですな。あなたの家の猥褻図書館でも味わえない生々しさだわ」
「まったくだ、下品極まりない……というかお前、見たのか」
「貴重な収納スペースを割いてまで蔵すなんて、さすがはむっつり柏台さんだ」
「うるさいわい」
 こんな戯言を交わしているうちに、やおら苛立ちを覚えた。向こうでは俺より倍は生きている男が、うら若き麗人……か否かは分からぬが年頃の女性と乳繰り合っているというのに、俺はなんという有様か。毎晩のように阿呆学生二人で到底口外できぬ猥談に花を咲かせ、現実味のかけらもない理想を押し並べていつか俺たちは歴史に名を刻むなどというわけのわからぬ妄言を吐き続けるのは留まる所を知らない。学生でありながら向学心はない、それどころか講義すら真面目に聴かない、楽勝単位を落とすなどもはやタブーの塊になりつつある。そのような現況にあって、隣の部屋でいぎれくさっている彼らは実に耳目に障る。恨めしいのである。
 次第次第に声を上げたい衝動に駆られた。今すぐにでも隣の部屋に進撃して、彼らに比翼連理とはかくあるべきとかんかんがくがく語ってやろうか。影村の方を見ると、どうやら彼もそろそろ我慢の限界のようであった。肩をわななかせ、くっくっくと嗚咽するかのように笑っていた。
「……どうするよ」
「どうもこうも、逃げるのみですよ。バーッと飛び出して全力ダッシュで出口まで走れば、向こうでよろしくやっている彼らは追いつけませんから」
「こっそり逃げなくていいのか」
「我々からのささやかなる警告ですよ。もう今度から店でいちゃつくことなんてできやしませんよお」
「いい性格してんなあ」
 向こうはやがてクライマックスを迎えるようで、まるで強盗が入って来たかのような騒ぎだ。俺たちは息を整えると、二人でえいやっと扉を開けた。勢いよく開いた扉はドアストッパーにぶつかり、小気味の良い音を立てた。隣りの休憩室からは店長の「ぎゃっ」という、先ほどの雰囲気は何処へやらな悲鳴が聞こえた。
 ロッカールームを出たあとは、決して後ろを振り返らずに出口へと駆け抜けた。やっさもっさしている店長らが追いかけてくる前に、何とか外に逃げ出す。

 店から出た後も、尚も俺たちはアパートまで走った。久しぶりに全力疾走したため、胸の中心に絞られるような痛みが生じていた。隣りを走る影村はぜいぜい言いながらも歯をむき出してきしきしと笑っている。
「やった、やった。これでリーダーに怒られずに済むし、おまけに店長のスキャンダルまでゲットしちゃった。当分飲み会の話題は決まりですわこりゃ」
 ひーひー言いながら影村は疾走する。
「飲み会も、いいけどなあ、明日の、メシは、よろしく頼むぞ」
 俺はすぐに息切れを起こした。昔は道の整然雑然関係なく駆け回っていた俺も、最近では階段の上り下りが億劫になりつつある。なんだかなあとは思えど、何とかする気はさらさらないが。
「もちろんですとも! あっちが不純交遊に励むなら、僕たちは猥談で対抗です」
「はっはっは。それではいつもと変わらんではないか」
 この時の俺たちは、それはそれは高揚した心持であったであろう。休憩室の蛍光灯の交換に店に戻っていたことなどとうに忘れ、次の日影村に奢ってもらう食事のことばかりが頭の中で浮かんでは消えていった。
 アパートに帰る頃には俺も影村も疲れ果て、ぜえはあケラケラ言いながら部屋に転がり込むとそのまま眠り込んでしまった。
 その翌朝、街田さんが影村にモーニングコールを寄こさなければ、危うく俺たちは一限に遅刻するところであった。影村はテスト勉強をほとんどしていないまま、定期試験へと向かって行った。部屋から出ていくときの彼の後ろ姿の壮烈たるや、さながら手ぶらで死地に赴く戦士かのようであった。俺は心の内でひそかに彼にエールを送った。
 ところで、朝食を作っているうちに頭が冴えてくると、前の晩俺たちは致命的なミスを犯したことに気が付いた。俺は自らの過ちを忸怩たる思いで省みたが、いくら後悔してもどうにもならないのは明らかである。とりあえず目玉焼きを頬張って大学に出かけた。

 一応、その日影村は上手く試験を切り抜けた。学食で彼に会ってそのことを聞いたときには、真っ先にカンニングを疑い問い詰めてやろうと思った。しかしそばに街田さんがいたので、彼の名誉を考えて俺は思いとどまった。我ながら、よくできた人間であると思った。
 先の約束通り、晩飯は影村の奢りになった。俺は近所の高級中華料理店を希望したがあえなく却下され、行きつけの拉麺屋で妥協することとなった。
「結局、いつものココで、ラーメンを食べることになるのかあ」
 俺は丼を手に取った。カウンター越しに差し出されたしょうゆラーメンは、照明の光を受けて美味そうに照り映えていた。
「いいじゃありませんか。ココの味は一級品、食べれば誰もが病みつきになる魔法のラーメンですよ」
 事実、この店で食べる拉麺は格別であった。最初に食して以来、一週間に一度はこの店に行きたい衝動に駆られる。それは日中深夜問わず襲ってきて、俺の食習慣を乱す主たるファクターとなっている。
「それにしても」影村は麺を啜った。「店長って意外にモテるんですねえ」
「誠実で、似た者同士だと思ったんだがな」
「似てるところは頭の中が桃色に染まっていることだけだと思いますけど」
 影村はいつものように軽口を言う。一泡吹かせてやろうか、俺はその日の朝に気づいたことを彼に打ち明けることにした。
「そしりはしりに事欠かない奴だな。……なあ、やっぱり俺たちやばいんじゃないか」
「なにがです?」
 メンマをはふはふ頬張りながら、影村は首を傾げた。
「そりゃあ、現場を見ちゃったことだよ」
「別に、黙ってればいいじゃないですか。店長もあの女性も僕たちには気づいていないんだし」
「確かにあの時俺たちの姿は見られていない。しかし、防犯カメラはどうだろうか」
「……」
 影村は絶句した。目を見開いたまま、石にされてしまったかのようだ。そのくせ、相変わらず口元だけは笑っていた。
 その日の朝、店の従業員出入口にも監視カメラが備え付けられていたことを思い出した。その時すでに、店長たちは俺と影村が彼らの淫行現場の目撃者であることを知っていることであろう。
「……首だな、俺たち」
「ですね」影村はえらく簡単に相槌を打つ。
「ずいぶんと冷静だな」
「ほかにも掛け持っているバイトがありますからね。新しい仕事を見つけるまでは稼ぎは少なくなりますが、問題はないでしょう」
「むむ、そうか、お前はほかに稼ぎ口を持っているのか。俺はどうしようかな、年末の仕事を探そうかな」
「そんなこと言って、探す気なんてさらさらないでしょう。僕が紹介してあげましょうか」
 実のところ、影村の言っていることは当たっていた。首になったら、もう今年はゆっくりしてバイトは来年探そうかと内心で考えていた。
「まあ、まだ首になると決まったわけではないし、気長にしてましょうよ」
 影村が言ったあと、携帯電話二台分の着信音が、ほぼ同時に鳴った。それは、明日店に来いという店長からのお達しだった。
「決まっちゃったみたいだぞ」
「いーやー冬の特別ボーナスかもしれませんよ」
 影村はニヤニヤ笑っているが、額に汗が浮かんでいる。ひょっとすると焦っているのかしらと思ったら、スープに大量の七味唐辛子が浮いているのに気付き、見当違いだと悟った。

 そして次の日、店に行った俺たちを待ち受けていたのは店長からの解雇宣告と「退職金」と称された口止め料であった。俺は一応抵抗しようとしたが、影村にとどめられて結局俺たちはその場で首になったのである。

***

 首になったことを思い返すと、どうにも影村の行動が気にかかる。いくらシフトリーダーに頼まれたからって、たかが蛍光灯の交換ごときに翌日控えていたテストを犠牲にする必要があったのか。それに奴の冷静ぶりも引っかかる。まるで俺たちが首になることを知っていたかのような素振りであった。
「柏台さん」不意に横から街田さんに呼ばれて、俺は身を捻る。
「あなたが何をしでかしたのかは知りませんが、本来あなたは首になるはずではなかったと思います。なぜかは分かりませんが」
 俺は彼女の言葉を笑って受け止めたが、心の中ではそれは違うと言っていた。
 おそらく、どんなところに居ようとも影村と馬鹿をやってつまみ出されるのが落ちだと思う。今回は彼が発端となったが、別のバイトに俺と影村がいたとしたら今度は俺が原因で首になっていた気がする。俺たちはお互いが足を引っ張り合う関係なのかもしれない。
「何はともあれこれで俺は首だ。俺がいなくなってもしっかり頑張ってね……と言っても、最近は俺が街田さんに迷惑をかけることが多かったかな」
 俺は頭を掻いて自嘲気味に笑った。書店での仕事に対しては何の未練もないが、街田さんのような黒髪の乙女と一緒に仕事ができないのは、いささか幾ばくか多少割と結構なかなか過不及無く甚だ残念である。
「確かに最近の柏台さんは、真面目にやっているようでもいらぬ所で失敗して店長に怒られていましたね」
 俺の自嘲にも街田さんは表情を変えることなく、隣りを歩いている。もう彼女にはバイト先で会うことはないので、俺は今のうちに仕事上の非礼を詫びておくことにした。
「それはそうと、俺のせいで街田さんにも手数をかけてしまったな。ごめんなさい」
 …………。
 俺がそう言うと、街田さんはわずかに眉をひそめた。
「そうですね。もう少し要領よく働いてもらえれば良かったです。でも――」
 言いかけて、彼女は眉尻を下げて目を伏せ、ため息をついた。そしてそっと続きを紡いだ。
「あなたと仕事するのは、嫌いじゃあなかったんですよ」
 白い息が虚空へと霧散するのを見送ったあと、街田さんは静かに微笑んだ。思い返せば、彼女の笑顔を見たのはこの時が初めてだったかもしれない。

***

 ふわふわした心地のまま、俺は街田さんと別れの挨拶を交わし、アパートの自分の部屋に転がり込んだ。そしてバイトを首になったことを激しく恨んだ。よくよく考えれば、街田さんのような女性とお近づきになれる場所なんてあの書店のバイト以外存在しないのである。学校では孤高を極め、サークルは入会二か月で辞め、女性以前に人間と関わる機会が無かった俺にとって、あの書店でのバイトこそが、一番人間らしく生きていられる時間であったのかもしれない。ちなみに影村は人間ではなく妖怪だと思って差支えない。
 蛍光灯は、チカチカしていた。鬱陶しい、引っこ抜いてやろうかと考えたが、明かりがなくなったらもっと苛立ってくるのでやめた。
 もう夜も遅かったので、炬燵に入り込んで恨み言をぶつぶつ言っている間に眠ってしまった。イライラする時ほどよく眠れるとはこれいかに。

***

 翌日俺は少し早く起床した。というのも今日が冬休み前の最後の授業日で、提出物やらテストやらで準備することが沢山あったからである。明かりをつけると蛍光灯が切れかけているのを思い出した。それと同時に、バイトを首になる発端となったことも思い返して腹が立った。早く換えないと、このままでは苛々が積み重なってストレス性の顎関節症になってしまうかもしれない。今日帰宅したらまず一番に電気屋に行こう、そう決めて俺は家を出た。

 その日はテストやら手続きやらで一日中大学を駆けまわり、帰宅するころにはもともと少ない精根がゼロに振り切れるまで尽き果てていた。おかげで換えの蛍光灯を買うことも忘れて寝込んでしまった。

***

 目を覚ました時には、部屋は真っ暗で何も見えなくなっていた。慌てて蛍光灯を点けると、壁にかかった時計が午後八時前を示しているのが分かった。俺は時間を無駄にすることが嫌いであったが、今日から冬休みであったのでさほど気に留めなかった。
 カップ麺でも食べようかと思いキッチンに向かおうとしたが、やたらと視界がチラチラするのを感じて足を止めた。天井を見上げると、蛍光灯が明滅を繰り返している。そこで俺は思い出した。蛍光灯を買わなければ。

 蛍光灯の品番をよく調べてから、近所の家電量販店に出かけた。閉店時間が近いということもあり、店の中にはそれほど人はいなかったのだが、蛍光灯を探しているうちに思いがけぬ顔を見かけてしまった。
 白物家電コーナーのあたりで、仲良さげな男女が二人。父娘かな、と思ったら店長と例の女性スタッフであった。すぐに疑問が生じた。今日この時間、店長とあの女性は書店の仕事をしているはずだ。それなのにこんなところで油を売っているのだとすれば、それは職務放棄以外の何物でもない。
 たちどころに、俺の心に黒い靄がかかるのを感じた。彼らの決定的瞬間を撮影して、バイト先で晒してしまおうかと考えた。どうせあのバイトに未練なんて全く……無いのだから。
 交換用の蛍光灯を買って、俺は店長たちを追跡することにした。そして決定的瞬間を携帯電話のカメラに収めてやるのだ。かくして俺の計画は人知れず始動した。

 店長たちは繁華街の方へ向かっていた。すると俺と同じように店長たちの跡をつける者がいることに気が付いた。暗闇に顔をぎらぎらさせ、まるで妖怪のような顔をしている。影村であった。
「影村、お前何やっているんだ」近づいて、俺は言った。
「あなたと同じですよ。彼らの仲の証拠を握って、店長を失脚させてやるんです。そしたら僕はあのバイトに再び戻れるようにシフトリーダーにはからってもらうんだ。リーダーは店長に、僕はシフトリーダーに仲良く出世ですわ」
 影村は俺よりはるかに賢く意地の悪い計画を企んでいた。俺たちは肩を並べて店長たちのストーキングを再開した。
「柏台さん、あなたはもう帰れば? あとは僕がやっておきますんで」影村はにんまり笑った。
「あなたにはこういうのは似合いませんよ。わざわざこんなところに出向いて来ないで、僕を頼ってくれればよかったのに。手に持っているやつ、換えの蛍光灯でしょう。僕の部屋にそれと同じタイプの余りがあったのに」
「それを昨日言ってくれよ、ただでさえ金銭で困っているというのに。あと、お前だけは頼りたくない」
 俺はぷりぷりと怒った。影村は店長たちにカメラを向けつつ、「まあまあ」と俺をなだめる。
「これに成功すれば店長はどっかに飛ばされて、僕たちはまた戻れますって。そうしたら金銭問題は解決ですよ」
「お前が俺を助けてくれるなど、絶対に信じられん」
「あれ、結局僕頼みですか。自分で店長たちに一矢報いるという考えは毛頭ござらんのですか」
 店長たちが歩みを止めては俺たちがこんなやり取りを繰り返し、また歩き出したら俺たちも追いかけ、そうこうしているうちに決定的瞬間は訪れず、そろそろ繁華街に差し掛かる所までたどり着いてしまった。
 俺はだんだん追跡に飽きてきた。こんなことに時間を費やして、何の意味があるのか真剣に考える気も失せていた。隣を見ると影村も退屈しているようで、彼は大あくびを噛みしめていた。
 その時、影村の携帯電話の着信音が鳴った。結構大きい音だったので、影村は急いで通話ボタンを押した。十分に距離をとっていたため、店長たちに気配を悟られることは無かった。
 影村は電話に出ると、相槌を数回打ってすぐに通話を切った。彼はやや気難しい顔をしていた。
「どうした」俺は訊ねた。
「シフトリーダーから呼び出しをくらってしまいました。なんでも、僕の忘れ物があるらしいんですよ。そういうわけですから柏台さん、あとはよろしく頼みましたよ。僕とリーダー、そしてあなたの運命は、あなたの双肩にかかっていますからね!」
 影村は俺の肩に手を置いた。
「ちょっと待て、お前あんなにやる気満々だったじゃあないか。しかも俺がこういうの不得手だってのは分かってるだろ。成功するとは到底思えないぞ」
 いきなりに影村に任されて、俺はあわあわと手を振った。
「大丈夫です、きっとうまくいきます」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺は独りぼっちで追跡を続けることになった。

 繁華街に入った店長たちは、特に店に入るといったこともなく、ぐんぐん奥へと進んでいく。俺はなんとなく彼らの行き先が分かってしまった。この先はファッションホテルが立ち並ぶモーテル街である。
 それにしても、彼らのサボタージュのレベルの高さには脱帽せざるを得ない。今頃シフトリーダーやらは二人欠けた仕事場でてんやわんやしているだろう。ひょっとすると影村は、手伝いのために呼び出されているのではないだろうか。
 周りを見渡すと、夜の繁華街は若者たちであふれかえっていた。ちょうどこの時期に学校が冬休みになるので、解放感にあてられた阿呆な学生がうようよしているに違いない。俺のような、阿呆ではないが行動力も金もない野郎には無縁の喧噪である。そんな中、男女の恋路を意地悪く追跡する自分の姿を客観的に見つめると、些か顔をそむけたくなる気がしないでもない。
 後ろから眺めていると、店長たちは本当に仲が良さそうだった。さっき見かけたときは父娘のように思えたが、今はまるで夫婦のようであった。彼らは許されない恋愛をしているはずである。それにもかかわらず、彼らが無邪気にはしゃぎ合っているだけのようにも見える。

 店長たちが寄り添って宿泊施設に入って行くのを見届けたあと、俺は近くの自販機の前で立ち尽くしていた。その心はうつろ、思考はぼんやりとして、ただただバイトを首になってからの自分のありようを反芻していた。そのうちに、宿泊施設の一室の明かりが点いた。照明はやたらチカチカしていた。
 チカチカ……俺はアッとした。手に持っていたはずの蛍光灯が無い。辺りを探してもどこにもない。おかしな話だが、どうやらどこかで落としたらしい。
 何だかすべてがどうでも良くなってしまった。意識は遥か高い所から自分を見下ろしているような感覚であった。今の今まで、自分は何のために店長たちを追っていたのだろう。自分の孤独さを改めて確認して、みじめになるだけだったというのに。
 猛烈に腹が減った。時計を見ると午後十時前であった。今から家に帰ってカップ麺を食べることを思うと、虚しさのあまり食後に吐いてしまうかもしれない。そう考えた俺は、実に合理的な「外食をする」という行動に踏み切った。

「結局、いつものココになるのかあ」
 いつかも言ったようなことを呟いて、俺は丼を手に取った。俺はまた、いつもの拉麺屋にたどり着いていた。
 スープを一口飲むと、やや濃いめの味がすきっ腹に程よくしみ込んだ。俺はここのラーメンのちょっぴり優しさのこもっている味が大好きだった。辛いとき、悲しいとき、苛々するとき……様々な負の感情を抱えるときでも、ここのラーメンを口にした途端にそれらは全て取るに足らぬ他愛もないことだと思えてくる。いつ食べてもその味は俺を裏切らぬ。
 俺がひと時の贅沢を堪能していると、店主が突然あっと声を上げた。
「あれ、あいつだろ、おまえとよく来る……」
 店主は外を見つめたまま皿を洗う手を止めている。つられて、俺も近くの窓から外を見た。
 直後、俺は素っ頓狂な声を上げた。
 窓から見えたのは、並んで道を歩く影村と街田さんの姿であった。
 店の中から確認できたのは、影村の表情だけであった。彼は俺が見たことのない笑顔を浮かべていた。綺麗な笑顔であった。まるで純粋無垢な少年のそれだった。俺はそいつが影村であることが信じられなかった。
「あいつ女がいたんだなあ。お前、先を越されちまったなあ」
 遠い目をして店主は言った。さながら、我が子を見守る父親のようである。
 街田さんが影村とそんなことになっていたのには驚いたが、思い当たる節が無いということもない。俺が影村の悪口を言う度に、街田さんはいつも俺を咎めていたし、彼女が語る影村のありようは、とても甲斐甲斐しい男であった。やはり街田さんは影村を好いていたのだろうか。

 すぐに影村たちの姿は見えなくなった。俺は彼らを追うこともなく、黙々とラーメンを食べ続けた。店主は何かを悟ったのか、それ以降俺に話しかけなくなった。

 スープ一滴すら残さず、俺はラーメンを完食した。代金を払って外に出ると、いくらか冷たさの増した風が頬を撫でた。腹は満たされるのに、心が渇く気がするのは、塩気の強いものを食べたからだろうか。

 アパートに帰ると、玄関の辺りにレジ袋が落ちていた。中身を見ると、先ほど俺が買った蛍光灯が入っていた。それともう一つ、紙切れが一枚入れられていた。
 紙には「Now or never」と書かれていた。何を今すぐに始めろというのだ。とはいえ、蛍光灯が戻って来たのはありがたい。部屋に入るなり、俺は切れかけていた蛍光灯をすぐに取り換えた。今までチカチカしていた視界が一転、くっきりと見えるようになった。

 すると、蛍光灯の明かりが一瞬だけ強く光った気がした。途端に視界がむにゃむにゃとしてきて、まぶたが重くなるのを感じた。腹が満たされて眠くなったのかもしれない。それにしても眠い、今すぐ寝てしまいたい。ああ、どうせもう冬休みなのだ、このまま眠ってしまっても問題あるまい。真っ白な蛍光灯の明かりが、俺の身体を飲み込んでいく。光に包まれ、俺の意識がその奔流に飲み込まれる。

**

 目を覚ました時には、部屋は真っ暗で何も見えなくなっていた。慌てて蛍光灯を点けると、壁にかかった時計が午後八時前を示しているのが分かった。俺は時間を無駄にすることが嫌いであったが、今日から冬休みであったのでさほど気に留めなかった。
 カップ麺でも食べようかと思いキッチンに向かおうとしたが、やたらと視界がチラチラするのを感じて足を止めた。天井を見上げると、蛍光灯が明滅を繰り返している。そこで俺は思い出した。蛍光灯を買わなければ。

 しかし外に出る直前で俺は思いとどまった。そういえば、影村がこの前買った蛍光灯が余っていた、とかなんとか言っていたような……
 俺は影村の携帯電話に電話をかけた。蛍光灯の品番を伝えると、どうやら彼は余りを持っているらしい。いただきに参上したいと俺が言うと、影村はさんざん唸った挙句、しぶしぶ承諾した。俺の部屋に上がっては食い物をせびるくせに、ケチなやつだと思った。

 影村のアパートに着くと彼は玄関先で煙草をふかしていた。彼は未成年であったが、酒もたばこもサークルの先輩から頂戴できるらしい。
「こんばんは、柏台さん。ずいぶんひどい顔ですな。まるで友人のとんでもない秘密を知ってしまったかのような表情をしちゃってまあ」影村は俺を確認するなりひどいことを言った。
「どういう顔だ。ああ寒い寒い、早く入れてくれ」
 俺はガタガタ震えながら影村に詰め寄った。彼は「おっかない、おっかない」と連呼しながら部屋に入れてくれた。
 部屋に入るやいなや、テーブル中央に置かれた大きな土鍋が目を引いた。ぐつぐつと、おいしそうに煮立っていた。
「これはアレか……鍋というやつか」
「どうせ帰宅してすぐ寝ちゃって、夕飯もまだ食べていないんでしょう。たまには僕が手料理を振る舞ってあげますよ」
 席をすすめる影村は、妙に優しかった。鍋に毒が盛られているのではないかと、思わず疑ってしまうほどだ。
「心配しなくとも、毒なんて盛ってませんよ。ささ、食べてください」
 影村はせっせと鍋の中身を取り分ける。様々な野菜と鶏肉が入ったごく一般的な鍋料理だった。
「どういう風の吹き回しだよ。えらい優しいじゃあないか」
「日頃のお礼ってやつですぜ。柏台さんにはカップ麺を何度も奢ってもらっていますからね」
 今までに何回か、俺は影村にくれてやったカップ麺の総額を数えようとした。しかしレシートを貰ったその日に捨てていた俺になす術はなかった。だが、少なくとも鍋の二、三杯分は奢ったはずである。影村に何杯か食わせてもらっても、何ら問題はあるまい。
 思えば、鍋料理は一月に家族と食べたもの以来であった。山野の奥に佇む実家は生活上では不便であったが、住み心地はげに良いものであったと最近になって実感した。都会は不自由なく暮らせるが、どこか虚ろで、冷たい。ふと、実家に帰りたくなった。正月までには帰ろう。
 影村と鍋を突っつきながら、俺はこれからの冬休みの予定を考え始めた。特に課題は出ていないから、やることといえば勉強して、実家に帰ってそれから……、それから?
 俺は愕然とした。実家に帰る以外、これといったイベントがない! 俺の夏休みは連日のアルバイト、急性の腸炎の治療、及び影村との馬鹿騒ぎによって浪費された。予定のない日は何をしていたかは忘れてしまった。これはゆゆしき事態である。冬休みで何かしなければ、きっと春休みも無味無臭な休暇として処理されるであろう。
 そうはいっても、いかにして約二週間という短い冬季休業を過ごそうか。バイトを首になったのでお金が無いし、旅も買い物もできない。そういうわけで持っているモノで楽しむしかないのであるが、自分の部屋にあるのはスーパーファミコンとビデオデッキ、巻数がまばらな漫画と文庫本数冊それと猥褻図書だけだ。極めて不健康的である。こんなことなら格好つけて洋書なんて取り寄せないで、天体観測用の機材でも買っておくべきだった。結局影村と暇をもてあそび、あの薄暗い部屋で男二人むさ苦しくいぎっているしかないのか。
 自分の部屋のことを考えているうちに、影村の部屋に来た目的を思い出した。蛍光灯を貰いに来たのだ。
「して影村よ。換えの蛍光灯はどこか」俺は訊ねた。「危うく、鍋を喰ってそのまま帰る所だったわ」
 影村は得意気に笑うと、手を後ろに回して何やらがさがさ取り出した。そしてそれを俺に渡した。
「代金は要りませんから」
 受け取った蛍光灯の型は、俺の部屋で使っているモノと一致した。タダでくれると言われたので、お言葉に甘えることにした。
「本当にどうしちまったんだ。いつもの影村はどこへ行ったんだ」
 俺が訊くと、影村はまっちろい歯を見せて、へにゃっとニヤけた。違和感を覚えた。奴の笑みにいつものいやらしさが無い。
「さっき玄関先に置いてきてしまいましたよ。今頃は繁華街やらを駆け回ってるかも」
「何わけの分からんことをぬかしとるんだ」
「昨今はミステリアスでわけの分からん男子がモテるんですよ。柏台さんも少しは僕を見習ったらどうです」
「なんだと!」
「あんまりミステリアス過ぎて孤立しないようにね。まあ、それはさておき、柏台さんは冬休みの予定はどうなんですか」
 影村は試すような視線を送ってきた。俺は白滝を勢いよく啜ってから、胸を大きく張って拳を掲げた。
「これから埋める!」
 正直自力で予定を作ろうとは思っていないが、影村に手伝ってもらうことにしよう。
「まさかとは思いますが……。僕は冬休み中は予定だらけで、柏台さんに付き合っている暇はないですよ」
「なんとっ」
 影村に心を読まれ、俺は箸を落とした。彼はやれやれと言って肩をすくめた。
「ホントに暇人なんですね。心配した僕が馬鹿でしたわ」
「心配? お前が俺を心配したのか?」
 箸を拾いながらおもむろに尋ねると、影村は顔をやや強張らせた。
「いいえ……」彼は鍋に視線を落とした。「何でもないですよ」
 そうかい、と俺は相槌を打って、取り分けた具材を口の中にかき込んだ。それにしても、大変なことになった。冬休みに俺は真の暇人になってしまうらしい。
 腹が膨れてきたので、そろそろお暇することにした。影村の部屋に長居しすぎると、いつの間にか妖怪になってしまうという伝説が俺の心の中で伝承されているからだ。
「こんなこと考えてると、また街田さんに怒られてしまうかも……」と俺がぶつぶつ呟いて上着を羽織っていると、影村の纏う雰囲気が急に変わるのが分かった。「街田さん」という言葉を発した時、彼の身体が跳ねるのが見えた。
 影村はもじもじして、何かを言いかねている様子だった。
「なにをまごまごしているんだ? さっきから微妙におかしいが、お前は本当に影村なんだよな?」
 訝しげに俺が訊くと、影村は重たそうに口を開いた。
「あのう、柏台さんに相談があるのですが……」彼はせわしく手をさすっている。
 なんだ、と言いかけたところで俺はぎょっとした。影村が、人を小馬鹿にしたようないつもの顔をしていない。頬を鬼灯色に染め、濁りのない瞳を潤ませるその表情はまるで、そう、恋する男子のそれである! 俺には分かる。俺もしょっちゅうそんな顔をしていたから。
「いや、課題をやらねばいかんしなあー。今日は帰ることにするよ」
 俺は恋なんぞ成就した覚えも成就させた覚えもないし華やかに生きているシティボーイでもないので、もし色恋沙汰の相談なんて受けようものならストレス性の顎関節症になってしまう。俺は逃げようとした。
 ところが影村は俺の退路を断つようにして、戸の前に立ちはだかった。
「ただで蛍光灯を手に入れて、お鍋まで奢ってもらって、このまま帰るなんて虫が良すぎやしませんかあ?」
「カップ麺で十分釣り合いが取れてるだろう」
「残念ながら、額面上釣り合いは取れておらんのですよ」
 影村は得意気に紙切れを俺の前に掲げた。それは今までに影村が喰った俺のカップ麺の一覧と総額、そして俺が影村に貰った蛍光灯と鍋の食材の合計金額であった。わずかにカップ麺の総額が劣っていた。
「それでも、ほとんど変わらんではないか」
「それでも、相談費にはなるでしょう」
 にらみ合う影村の必死さに、俺は根負けした。そのまま座布団にへたり込んだ。どうやら俺は根競べに弱いらしい。あるいは優しいのかも、きっとそうに違いない。
「はー、じゃあ言ってみろよ。よもや恋話などではあるめえな?」
 俺は茶化すように言った。影村は相変わらず歯を見せて笑みをしていたが、覇気がない。俺の軽口は正鵠を射たようだ。
「生まれて初めてですよ、こんな感じは……」影村は遠い目をした。「つい先ほど、僕は恋をしてしまったのです」
「気持ち悪っ! お前そんな喋り方だったっけ? しかも初恋かよ!」
 ころころ表情を変えながら、俺は影村に応答とも取れぬ返事をする。
「この気持ちを誰かに打ち明けなければ、僕はどうにかなってしまいます。助けてくださいよお」
 影村がすり寄って来たので、たまらず俺は脚にしがみつくこいつを引き剥がす。前にもこんなやり取りをしたような……
「わかった、わかった……じゃあまず相手を聞こうか。サークルの人か、それともバイト先の人?」
 俺の知らないところで、影村は沢山の人間と関わっている。普通の男がそれだけ他人と接点を持っていたら、女性の一人や二人、好きになってもおかしくはない。しかし妖怪モドキの影村まで同じだとは思わなんだ。
 影村の口が開きかかった。果たして彼の思い人やいかに。聞いたことのない名前を出されたら、適当に聞き流して帰ろうか。
 しかしながら、彼の口から語られたのは俺がよく知る人であった。

「僕、街田さんを好きになってしまいました」

 転瞬、俺の思考は停止した。そして「街田さんって、あの街田さん?」と、どの街田さんなのかさっぱりわからない訊き方で影村に確認する。
「あの街田さんです、あなたと一緒に働いていた彼女です」
 俺は突如として脇腹をえぐられるような痛みを感じた。肉体的な痛みとは少し違う、不気味な痛みであった。俺は必死にそれを噛み砕こうとしたが、痛みはのらりくらりと全身を這いずり回り、影村に呼び掛けられて我に返るまでそれに俺は苦しみ続けた。
 まさに青天の霹靂であった。あの影村が、正反対の世界にいるような街田さんに思いをかけるとは。「もしかしたら」という念が全くなかったわけではない。影村の周囲にいる人間の中で、俺が知っている女性で思いつくのは、街田さん以外いなかったのだ。それでもやはり、意外も意外であった。
 いや、もしかしたら正反対の人間であるがゆえに、興味を抱いてしまうのかもしれない。磁石のN極とS極のように、互いに惹かれあうのかもしれぬ。
 ……いや違う、街田さんは影村を好いているわけではあるまいし。しかし、ふと、以前街田さんに影村のことを話した時のことを思い出す。俺が影村の悪口を言うと、彼女は決まって影村を庇い、俺を咎めていたのだ。ということは、影村と関わっていて街田さんは満更でもなかったのではないか。この時俺は人生で最も愚かな早とちりを犯したのだ。
「街田さんかあ」
 やがて俺も遠い目になった。今まで身近に感じていたものが、手の届かぬ所に行ってしまったような気がした。
「バイトを首になった日、次の仕事を探すことを考える前に、街田さんのことを思ったんです。もう彼女と一緒に仕事ができないと考えたとき、なんでか寂しくなったのです。それからはずっと街田さんのことを考えっぱなし。そこで僕思いました、これって恋じゃあありませんか」
 違いない、と俺は言った。まどろこしいが、間違いなく影村は恋をしている。それはもう「向上心のない奴は馬鹿だ」と言わんばかりである。
「クリスマス」影村は朗読するかのように語る。「街田さんを誘ってどこかに行きたい」
 影村の声は震えていた。街田さんに会いたくて震えているのではない。平生の自分らしからぬことを口走るとき、人の声は震えるのである。影村は遮二無二秘めたる思いを俺に晒しているのである。
 その上で俺はどうしたか。茶化したか。話を切ってうやむやにしたか。「お前には無理」と言ってのけたか。あるいは、逃げ出したか。
 否、俺は彼を応援することにした。
「お前が決めた場所なら、彼女はどこにでもついていくと思うぞ。俺に相談するまでもなかろうて」
 俺は得意気に言うと、影村は狼狽した。なんというか、普段の影村より可愛げがあるな。
「え、え、そんなわけないですよ。もっとホラ、蓄えてきた知恵を振り絞ってくださいよお」
「大丈夫だって。何せ、街田さんだからな」
 俺は笑ったつもりだが、本当は一体どんな顔をしていたのだろう。影村はきょとんとして俺を見つめていた。
 さらに俺は畳みかける。
「やるなら今のうちだぞ、影村。 "Now or never" だ」
 影村は何かを語ろうとしたが、彼の携帯電話が鳴ったため、会話はそこで一旦途切れた。「あちゃ、かつてのシフトリーダーからです」影村は通話ボタンを押した。
 影村は電話に出ると、相槌を数回打ってすぐに通話を切った。彼はやや気難しい顔をしていた。
「どうした」俺は訊ねた。
「シフトリーダーから呼び出しをくらってしまいました。なんでも、勤めていたときの僕の忘れ物があるらしいんですよ。そう言うわけですから柏台さん、鍋の余りは喰っていってください。処理が面倒くさいので。あとは合鍵がそこにあるので、それを使って施錠して帰ってください。それじゃ」
「ちょっと待て。合鍵、持って行っていいのか」
 いきなりに影村に任されて、俺はあわあわと手を振った。
「大丈夫です、後で回収します」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺は独りぼっちで鍋を食べることになった。
 最後の笑みまで爽やかであったので、俺がこの時話していたのは影村であるか甚だ疑問ではあるが、まあそうなんだろう。

 鍋の残りを平らげたあと、俺は影村の部屋の隅で丸くなっていた。その心はうつろ、思考はぼんやりとして、ただただバイトを首になってからの自分のありようを反芻していた。影村の部屋の蛍光灯は、やけに眩しかった。目がチカチカする。
 チカチカ……俺はアッとした。手に持っていたはずの蛍光灯が無い。辺りを探してもどこにもない。おかしな話だが、影村が間違えて持って行ったのだろうか。
 時計を見ると十時前であった。鍋を片付けようとすると、テーブルの片隅に袋入りのラーメンが置いてあった。影村が締めのために取っておいたものらしい。俺は無性にラーメンが恋しくなって、一袋だけ食べることにした。

「結局、ラーメンを食べることになるのかあ」
 いつかも言ったようなことを呟いて、俺は麺を啜った。俺はまた、夜にラーメンを食べていた。
 スープを一口飲むと、やや濃いめの味が膨らんだ腹にも程よくしみ込んだ。俺は鍋の締めに食べるラーメンのちょっぴり野菜の出汁が効いている味が大好きだったことを思い出した。やはり、いつ食べてもその味は覚えているものである。

 結局、汁一滴残さず俺は鍋の中身を食べ終えた。食べ終えて、影村と街田さんのことを考える。

 影村に打ち明けられた後、俺はおぞましいまでの孤独感に襲われたことを思い出した。
 考えたくもないが、俺は街田さんに嫉妬したのかもしれない。影村の所属するサークルや、彼のバイト先の人間ですら俺と影村を引き離すことができなかったというのに、今や街田さんは彼の心を虜にしている。さすれば、影村は街田さんとよろしくすることにかまけて、俺の前からいなくなるかもしれない。そんな不安があったのかもしれない。
 もしくは、影村と同じく俺も街田さんに惚れていて、影村に先手を打たれて途方に暮れたのかもしれない。バイトを首になった日、俺は街田さんとの接点が無くなったことを心の底から悔やんだ。加えて、一度だけ見た街田さんの微笑みが、脳裏に焼き付いて離れぬ。それを踏まえれば、そう考えられなくもない、かも。
 考えに考えて、両方の理由を含めて俺はさみしくなったのだと結論付けた。早合点かもしれぬが、それについてはこれ以上考えても気の毒である。
 次に、俺は影村を応援することにした。正確にいうと、俺は影村と街田さんの二人を応援することにした。俺は影村に思いとどめるようにすすめなかったし、彼より先に街田さんを手ごめにしようなどとは考えなかった。なぜなら、先に述べたさみしさが俺の心をとらえて離さないからだ。どちらかを重んじようとすれば、もう片方が俺の元から離れて行ってしまう、そんな気がした。あの短い時間では、一人に絞る判断を下すことはできなかった。街田さんと結ばれて、影村とも末永く付き合っていけるような大団円を思い描くこともできなかった。
 瞬間的に論理回路をはたらかせた結果として、俺は二人の恋路を応援するという打開策を生み出した。仲人という立場につくことによって、影村とは恋愛協議によって今まで通り仲良くやっていけるだろうし、「友の恋のため」という名目で街田さんに色々仕掛け、彼女とは再びお近づきになれることであろう。従って、二人とはそれなりにうまくやっていけるという俺らしいぬくぬくとした恩恵が得られるのである。
 だが、果たしてそんな短絡的にこれからの方針を決めてしまっていいのだろうか。街田さんに男がいたらどうするのか、影村が嘘をついている可能性だって否定できない。あれこれ思案しているうちに、時間だけが過ぎていった。影村はまだ帰ってこない。仕方なく合鍵を持って自分のアパートに帰ることにした。

 外に出ると、いくらか冷たさの増した風が頬を撫でた。腹は満たされるのに、心が渇く気がするのは、塩気の強いものを食べたからだろうか。

 アパートに帰る途中、影村に会った。彼の顔は平生を取り戻していた。先ほどの、恋する男子の顔はどこへやらといった容貌であった。暗い路地だったので、一瞬彼を妖怪と勘違いした。
「おや、柏台さん。今から帰りですか」影村はニヤニヤ笑う。「風俗店にでも行っていたとみた」
「ちがうわ、お前が全部食えというから、お前特製の鍋を平らげていたんじゃあないか。締めのラーメンは美味かった」
 俺が腹をさすりながら言うと、影村はくつくつ言いながら思案している様子であった。やがて白い歯をむき出しにしてしゃべり始めた。
「そういえば僕、あんたになんか話しましたよね。何を話しましたっけ。さっき変な所を打って、忘れてしまったんですよ」
 影村はいたって真面目な様子であったが、俺は憤慨した。あれほどの体たらくを晒しておきながら忘れるなんてあまりにも阿呆すぎる。それこそ、本当に打ち所が悪かったに違いない。
 俺はそんな彼を諭すように、先ほど影村が俺に打ち明かした話の一部始終を述べた。俺が話し終えると、彼はハチ切れんばかりに顔面の筋肉を引き締めて、いひひっと笑った。
「ああ、そうだった。そんなこと言ってましたねえ。でも柏台さん、あんたも街田さんに惚れているんでしょう? このままでいいんですかい」
「惚れてなどいない!」俺は断固として否定した。「俺はお前と街田さんを応援するぞ」
 俺がそう言ったとき、影村の笑みに陰りが生じた。彼は怒っていた。眼をカッと見開いて、俺を睨み付けてきた。
「はあ? 腰抜けですかあんたは。そんなんだからいつまでも僕ぐらいしか友達がいないんだ」
「なんだと」俺も思わずけんか腰になる。「俺はただ、お前の恋の成就を願っているのに」
「そんな協力、こっちから願い下げですわ。僕は分かってるんですよ。あんたは街田さんがバイトに入ってきた辺りから仕事の効率が悪くなった。それは、あんたが街田さんをいつも見ていたからだ。よそ見をすれば注意散漫になって失敗が増える。あんたは間違いなく、彼女に惚れていたんですよ」
「そんな馬鹿な! 確かに街田さんは通りを歩けば誰もが振り返る、うら若き黒髪の乙女であることに違いはないが、俺は惚れてなど、いない」
「ちょっとは闘争心を見せたらどうですか」
 影村は冷たく言い放った。
「だから、惚れてなんか……」
 次第に、夜の路地で惚れてる惚れてないなどと言い合っているのが恥ずかしくなってきた。語尾が思わず小さくなる。
「だったらここで誓ってください。街田さんには決してそういう関係を求めないと」
 俺は迷わず宣言してやろうとした。しかし喉元まで達している言葉が、なかなか外に出てこない。
「やっぱりね」影村は再び笑った。意地の悪い笑みだ。
「柏台さん、もういっぺん考え直しなすってください。あんたはこんなことになっている場合ではありませんよ。どうにかして、街田さんとくっつくんだ。僕なんかに負けてはいけない。あなたはアイツに勝たなくてはいけない」
 影村は意味不明な言葉を次々と紡いでいく。そうして、彼は持っていたレジ袋を俺に手渡した。中身を見ると、先ほど俺が貰った蛍光灯が入っていた。それともう一つ、紙切れが一枚入れられていた。
 紙には「Now or never」と書かれていた。何を今すぐに始めろというのだ。とはいえ、蛍光灯が戻って来たのはありがたい。
「さあ柏台さん。ここで無駄話なんかしていないで、部屋の蛍光灯を取り換えないと。切れかけているんでしょ」
 そう言った影村の口調は嘲るようであったが、どこか奇妙な優しさを感じた。
 口論の途中であったはずだが、彼にぐいぐいと背中を押されて俺はいつの間にか住んでいるアパートの目の前にたどり着いていた。
「大丈夫です、きっとうまくいきます」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺は独りぼっちで自分の部屋に帰った。
 部屋に入るなり、俺は切れかけていた蛍光灯をすぐに取り換えた。今までチカチカしていた視界が一転、くっきりと見えるようになった。

 すると、蛍光灯の明かりが一瞬だけ強く光った気がした。途端に視界がむにゃむにゃとしてきて、まぶたが重くなるのを感じた。腹が満たされて眠くなったのかもしれない。それにしても眠い、今すぐ寝てしまいたい。ああ、どうせもう冬休みなのだ、このまま眠ってしまっても問題あるまい。真っ白な蛍光灯の明かりが、俺の身体を飲み込んでいく。光に包まれ、俺の意識がその奔流に飲み込まれる。

 *

 以下で述べるのは、俺が目を覚ましてから蛍光灯を交換するに至るまでの一部始終である。

 目を覚ました時には、部屋は真っ暗で何も見えなくなっていた。慌てて蛍光灯を点けると、壁にかかった時計が午後八時前を示しているのが分かった。俺は時間を無駄にすることが嫌いであったが、今日から冬休みであったのでさほど気に留めなかった。
 カップ麺でも食べようかと思いキッチンに向かおうとしたが、やたらと視界がチラチラするのを感じて足を止めた。天井を見上げると、蛍光灯が明滅を繰り返している。そこで俺は思い出した。蛍光灯を買わなければ。

「いいやもう、面倒くさい」
 俺は早くも諦めた。別に冬休み初日に蛍光灯を取り換える必要はない。それに、なんだか嫌な予感もする。蛍光灯を買いに行って、嫌な思いをする気がする。
 炬燵布団に入って、みかんを一つ取り出して無心で皮を剥く。外皮を剥いて、可食部にくっ付いている白い奴も取る。夢中で取る。蛍光灯の白い照明の下では、この白い奴が見つけづらい。切れかけた明かりなら尚更だ。
 俺はみかんの皮を機械的に剥き続けながら、蛍光灯に想いを馳せる。
 俺はこれまでの人生を蛍光灯とともに歩んできたと言っても過言ではない。実家の照明は全部蛍光灯であったから、家にいる間は常に蛍光灯に見下ろされながら俺は家族と生活を送っていた。学校や塾にいる時だって、教室の照明は蛍光灯であった。
 蛍光灯は、俺が健やかなるときも、病めるときも、喜ぶときも、悲しんでいるときも、富めるときも、貧しいときも、俺を愛したり、敬ったり、慰めたり、助けたりすることは無かった。蛍光灯はその命ある限り、電子放出性物質を尽くして空間を照らすのみであった。まさに蛍光灯はわが人生における傍観者の一つであり、俺が人生で大きなターニングポイントにぶち当たった時には、必ず蛍光灯が天井から俺を見守っていたことであろう。俺が初めて自分の足で立ったとき、言葉を発したとき、掛け算九九を覚えたとき、いじめられて小学校を転校する羽目になった時、中学生時代に女の子を家に招いたとき、生まれて初めて手に入れた猥褻図書を必死に隠しているとき、ボヤキながら受験勉強をしているとき、親に手を上げそうになって姉に思い切り殴り飛ばされたとき、大好きだった祖父が寝床でぽっくり亡くなったとき、下宿を決めて母親がなぜか泣いていたとき……。数々の記憶の中では、決まって蛍光灯が天井にぶら下がっていたのである。
 今こうして切れかけている蛍光灯を眺めて、そう言えば俺は今まで蛍光灯を一度も変えたことがないなあと思った。家の蛍光灯はどれもがいつの間にか交換されていて、一度も切れたのを見たことがない。もしかしたら、蛍光灯が切れる現場に立ち会うと不幸な目に合うのかもしれない。今まで蛍光灯が切れる前に交換してくれていた家族に感謝しよう。
 蛍光灯は神様でもある。夜眠れないとき、俺は蛍光灯にテレパシーを送ろうと試みることが何回もあった。もちろん返事は来ない。自分の脳内ででっち上げたメッセージを、さも向こうから受け取ったものだと確信したように振る舞って、夜中布団から抜け出して歓天喜地する様子は一種の宗教のようにも思われただろう。天使を見よ、頭のわっかはきっと蛍光灯である。蛍光灯は天使も見守るのである。つまり神である。
 そうこうしているうちにみかんの白い奴が全部剥き終わってしまった。蛍光灯は先ほどからチカチカしている。見ているうちに、可哀想になってきた。これは早く交換してやらねばならぬ。面倒くさいなどとほざいている場合ではない。神である蛍光灯をないがしろにしては、祟りが起こる。
 少し億劫だが、電気屋に向かうことにした。時刻は間もなく午後八時半というところであった。蛍光灯はそれはもうすごい勢いで明滅を繰り返している。俺を急かしているのであろうか。
 その時、俺の携帯電話が鳴った。通知を見ると、俺が首になったバイト先の番号が映っていた。
「もしもし」気だるそうな声で応答する。「何ですか。先日首になったのですから、もう用はないはずですが」
「もしもし、柏台君かね。君の私物らしきものが残っているから、早く取りに来てくれ」
 電話の向こう側で話す男は俺が全く知らない人間であった。俺が「そのうち取りに行く」と伝えると、さっさと電話を切られてしまった。忙しいのだろうか。
「別に荷物は今度でよかろう、問題は蛍光灯だ。待ってろよ、すぐに取り換えてやるからな」
 俺がひとりごちると、蛍光灯は言葉に呼応するかのように何やら規則的な明滅を行い始めた。
「もしや、これは蛍光灯からのメッセージではないか。だとすれば、世界初の蛍光灯とコミュニケーションをとれる人間は俺ということになるな」
 俺は勝手に喜んだ。そうして「待っておれ、今から換えの蛍光灯を買ってくるからな」と言ってやった。すると蛍光灯の明滅が激しくなった。
「これはもしかすると、モールス信号か!」
 俺は勝手に納得した。しかし俺はモールス信号の教養がなかったので、蛍光灯からのメッセージは雰囲気で解釈することにした。
「つーつーとんとん、つーとんとん……先にバイト先を訪ねよ、つーとんつーとん……さすれば道開かれん。だがしかし蛍光灯よ、おまえも早く新しい自分になりたくはないのか?」
 クワっと蛍光灯の明かりが強くなった。まるで俺に喝を入れているかのようである。
「つつーとん……お前が先に変わらないでどうする、つーとんつーつーつー……時間がないから急げ。……蛍光灯よ、これはお前からのメッセージなのか?」
 それ以降、蛍光灯は不規則な明滅を繰り返すのみであった。俺は換えの蛍光灯を買いに行くのを止めて、以前のバイト先に向かうことにした。決して、蛍光灯からのメッセージに影響されたのではない。単純に、俺の気分が変わっただけである。

 しっかりと施錠して、俺は駆け足でバイト先へと急いだ。早く用が済めば、換えの蛍光灯を買って帰れるかもしれないからだ。
 街を流れる川にそって土手の上を歩いていると、前方から見知った顔が現れた。影村だ。
「どうしたんです、こんなところで。もうすぐ九時ですよ」影村の表情は、逆光の月明かりに隠れて窺うことができない。おそらく、ニヤけているはずである。
「例の書店に行くんだよ。荷物があるから取りに来いだと」
 俺がそっけなく言って立ち去ろうとすると、影村は直立したまま、そこに立ち尽くしていた。このままでは俺が前に進めない。「どいて」と俺が言っても、彼は動かない。
「誰の入れ知恵です?」影村は首を傾げた。「蛍光灯を換えるのが先でしょう?」
「その蛍光灯からのお達しだ。先にそっちに行くと良いらしいんだと」
 俺は得意気に言って、蛍光灯とコミュニケーションする能力があるというどうでもいい自慢をした。俺はてっきり馬鹿にされると思っていたから、次の瞬間影村が放った言葉に戦慄した。
「蛍光灯ですって? まさかあいつ、そんなことができるとは!」
 影村は地団駄踏んだ。心底悔しそうであった。俺は不思議そうにその様子を見守っていた。すると影村は突然俺に詰め寄ってきた。
「とりあえず、蛍光灯を換えましょう。柏台さんにそんなことを吹き込む蛍光灯なんて、持っていても損するだけですよ。さあさあ、換えましょう。僕の家に蛍光灯がありますから。さあ、今すぐ」
 その時の影村の気迫と言ったら、野獣も獲物を置いて逃げ出すほどの闘志満満ぶりであった。俺はその迫力に気圧され、影村とともにもと来た道を引き返そうとした。その時に彼の表情を少しだけ確認できた。まるで、純真無垢な少年のような表情をしていたような……あり得ないか。
 俺が踵を返そうとしたその転瞬であった。紫電一閃、茂みから男の影が現れた。その影は、影村を捕まえると彼ともみくちゃになりながら、土手へ転がって行った。
「影村、大丈夫か!」
 俺が土手を駆け下りると、そこにいたのは影村一人であった。ほかに人影一つも見当たらない。
「どうしました?」
 月明かりに照らされた彼の顔には、いつもの気味の悪い笑みが張り付いていた。俺はそれを見て、なぜかホッとした。
「お前、今誰かに襲われなかったか?」
 俺が問うと、彼はかぶりを振った。
「いいえ、全然」「ここから出せ!」影村の方から二人分の声がしたような気がした。
「それで蛍光灯がどうしましたって?」
「いや、蛍光灯からの啓示が……」言って、なんだか気恥ずかしくなってきた。「いや。今度、蛍光灯を換えないとなって思ってさ」
「それはいけない! 今日中に換えてください」
「いや、だからお前が家にあるやつをくれるからって言って、今から引き返そうとしているじゃあないか」
 俺はむっとした。さっきから影村の会話がかみ合っていない。ううん、前にもこんなことあったような……。
「それもいけません」影村はきっぱりと言った。「あなたが蛍光灯から受けた御命を守って、その上でその蛍光灯を今日中に交換するんです。思い出したんですけど、僕の家に予備の蛍光灯はありません」
「そんなもの無理だろ。お前とあーだこーだ出しているうちに、もう午後九時過ぎだ。バイト先で用事を済ませてから電気屋に寄っている時間はないだろう」
 俺は首を横に振った。あわあわと手を振った。
「大丈夫です、きっとうまくいきます」「ちくしょう、ここから出せ!」
 影村はにんまり笑っているが、やっぱり彼の方から二人分の声がした。
「さっきから、誰かそこにいるのか?」
 俺が訝しむと、影村はさらにいっそう口の端を吊り上げ、ケラケラと笑った。
「あんまり細かいことを気にすると、好機を逃しますよ。ささ、早く行ってください。そろそろ僕もお腹が空きました。今日の晩御飯は鍋料理です」
 彼は俺を見るとにんまり笑って、闇夜に紛れていなくなってしまった。本当に一瞬の出来事であった。俺はまた独りぼっちでバイト先に行くことになった。

 俺が裏口のインターホンを鳴らすと、先ほど電話で聴いた声の主が応対してくれた。そのおかげで俺はすんなりと従業員スペースに入り込むことができた。
 中に入ると、つい先日入ったばかりだというのになんだかとても懐かしい気分になった。空気、匂い全てが感慨深く感ぜられる。
「君が柏台君か」男は仁王立ちして待っていた。「少ないけれど、荷物が残っているんだ。持って帰ってくれよ」
 俺は頷いたが、どこに荷物があるのか皆目見当が付かないことを伝えた。すると男が通りかかった一人の従業員を呼び止めた。呼ばれた従業員は歩調を緩めてこちらに向かってきた。やたら整った姿勢であったので、不意に緊張感を覚える。
――街田さんだ。
 彼女の姿を見たとき、俺はまるで長年追い求め続けた宝を探し当てたときの冒険家のような気持ちになった。心が躍り、全身の血液が活発に流動するのを感じる。俺はこの時ようやく実感した。
――俺は街田さんに惚れていたのだ。
 俺は彼女の、謹直でいて堂々とした性格が好きであった。何でも卒なくこなす要領のよさが好きであった。楚々とした立ち居振る舞いが好きであった。一度見せてくれた花のにほふような微笑みが好きであった。不機嫌そうな険のある表情も好きであった。ふんわり揺れる短めの黒髪が好きであった。微妙にちょこちょこした背の高さが好きであった。清流のせせらぎのような声が好きであった。艶があって蛍光灯のように白い肌が好きであった。初めて会った時から、彼女を愛おしく感じていた。
「おや、柏台さん。また会いましたねえ」街田さんはニヤッとして、すぐに真顔に戻ってそれから男の方へ向き直った。「どうしたんですか、リーダー」
 リーダー、シフトリーダーか! 影村に蛍光灯の交換をするように言い渡し、俺と彼が首になる原因を生み出すきっかけを創造した張本人。ここであったが一日目、成敗してくれらあと思ったが、そばに街田さんがいるので思いとどまった。
「柏台さんの荷物があると思うんだが、取ってきてくれないか。彼、一応部外者だからね」
 裏口から入れた時点で部外者もへちまもないと思うが「細かいことを気にすると、好機を逃しますよ」という影村の言葉が脳裏をかすめ、俺を拘束した。
「分かりました。ちょっと取ってきます」
 言い終わらぬうちに街田さんは駆け出した。その後で、リーダーがハッとして頭を抱えた。
「しまった、別の人間に取りに行ってもらえば良かったー」
「どうしたんですか」
 俺は訊ねた。
「いやね、店長ともう一人のスタッフが買い出しに出かけて以来、帰ってこないんだ。困ったもんだよ。こっちは大忙しだっていうのに」
「大変ですね、ハハハ……」
 リーダーのボヤキに、俺は力なく笑うしかなかった。本当にお疲れ様です。今頃店長たちは睦言を交わしていることでしょう、とは言わなかった。どうせ近くの家電量販店で、白物家電でも見ながらイチャイチャしているんだろう。
「街田さんに探しに行ってもらえれば、すぐに見つけ出してくれるんだろうけどなー。まあいいや、おうい、そこのキミ。買い出しに行った場所まで店長たちを探しに行ってくれ。時間分の給料は出すから。急ぎで頼むよ」
 リーダーは若い男性従業員を呼び止めると、店長たちの捜索に向かわせた。可哀想に、この寒い中、冬休みになって無駄にウキウキしている阿呆学生たちの喧噪をかいくぐって、店長たちの情事を目撃してしまうのであろう……何だか無駄に想像力が働く。まるで俺が経験したことがあるみたいになってしまったではないか。
「そういえば、影村はどうした? さっきから電話をかけているんだが、全然つながらないんだ」
 しょっちゅうスマートホンと睨めっこしている影村には珍しいことだと俺は思った。ということは、彼は今よほど大事なことに取り組んでいるのだろう。例えば店長たちの追跡とか、鍋をがつがつ食べているとか。
 しばらくするとリーダーは仕事に戻ってしまった。誰もいない休憩室に、俺は一人取り残された。こんなんで、防犯とか大丈夫なんだろうか。

 やることもなくカレンダーをぺらぺらしていると、街田さんが戻ってきた。
「これです」
 街田さんは俺にレジ袋を手渡した。礼を言って受け取って、中身を見ると、蛍光灯が入っていた。しかもそれも俺の部屋で使っているものと全く同じ型の蛍光灯であった。いつの間に俺がそんなものを持ち込んだのかは分からないが、タダで蛍光灯が手に入ったのはありがたい。それともう一つ、紙切れが一枚入れられていた。
 紙には「Now or never」と書かれていた。
 直後、俺はハッとして街田さんの方を見た。顔をあげると、彼女と目が合った。いつもは気恥ずかしくてすぐに視線を逸らしてしまう俺であるが、この時は固まったかのように顔が動かなかった。俺と街田さんは数秒見つめ合った。やがて、街田さんが先に顔をそむけた。街田さんは視線を紙切れに向けると、半ば強引に俺の手からそれを取って「なう、おあ、ねばー」と読み上げた。
「今やれ、さもなくば二度とできない……見慣れない英語ですね」
 ついでに直訳チックに翻訳してくれた。俺は笑った。手には換えの蛍光灯を力いっぱい握りしめていた。
「好機逃すべからず……ことわざみたいなもんさ。ああ、そうか。つまりそういうことでいいんだな、影村」
 俺が発した言葉は、半分が街田さんへの解説で、残りは独り言であった。頭上に疑問符を浮かべている街田さんに俺は続けた。
「街田さん、夕飯は済ませましたか」
「まだです」
「そうしたら、バイト終わりに一緒に食べて帰りませんか。立ち読みして待っているので」
「それはいいですね」
 仕事の話をするかの会話ぶりであるが、これが俺の限界だった。絞り出そうとしても、うまく言うことができない。誰かが俺の恋路を邪魔しようとする、最後の妨害工作のようにも思えた。しかし俺は屈しなかった。
 なぜならば、「なう、おあ、ねばー」だからだ!

「結局、いつものココで、ラーメンを食べることになるのかあ」
 いつかも言ったようなことを呟いて、俺は丼を手に取った。俺はまた、いつもの拉麺屋にたどり着いていた。
 なぜ女性を連れてラーメン屋で食事しているのか。どこにしようか迷っていると、街田さんが「柏台さんの行きつけの店に行きたい」と言い出したからだ。
 スープを一口飲むと、やや濃いめの味がすきっ腹に程よくしみ込んだ。俺はここのラーメンのちょっぴり優しさのこもっている味が大好きだった。辛いとき、悲しいとき、苛々するとき……様々な負の感情を抱えるときでも、ここのラーメンを口にした途端にそれらは全て取るに足らぬ他愛もないことだと思えてくる。いつ食べてもその味は俺を裏切らぬ。
 黙々としょうゆラーメンをエレガントに啜る街田さんをしげしげと眺めて、拉麺屋の店主はため息をついた。
「お前にも女がいたんだなあ。よかったなあ」
 目に涙を浮かべて店主は言った。さながら、我が子を見守る母親のようである。
「私、いつから柏台さんのモノになったんでしょう」
 不機嫌そうに街田さんは言った。店主は「そうなの? てっきり……ゴメンネ」とかるーく謝った。
 俺がチャーシューをはふはふ頬張ってそのやり取りを見ていると、街田さんが突然こんなことを言った。
「私は柏台さんとまだそのような関係に進展しておりません」
「まだ……って、どういうことですかいそれえ」俺は自分の耳を疑った。
「大きな意味はありませんが」
 そう言った街田さんは、やたら楽しそうであった。

 俺と街田さんがひと時の贅沢を堪能していると、店主が突然あっと声を上げた。
「あれ、あいつだろ、おまえとよく来る……」
 店主は外を見つめたまま皿を洗う手を止めている。つられて、俺も近くの窓から外を見た。
 直後、俺は素っ頓狂な声を上げた。
 窓から見えたのは、並んで道を歩く影村と女性の姿であった。
 店の中から影村の表情を確認できた。彼は俺がいつも見ている不気味な笑顔を浮かべていた。汚い笑顔であった。まるで陰陰滅滅な妖怪のそれだった。俺はそいつが影村であると、たちまちに信じた。
「あいつ女がいたんだなあ。お前、先を越されちまったなあ」
 遠い目をして店主は言った。さながら、我が子を見守る父親のようである。
「あれは、古藤田さんですね」街田さんが言った。「数学科の人です」
 影村が道を通り過ぎる間に、少しだけだが影村の隣を歩く古藤田さんという女性の容貌を知ることができた。古藤田さんは深窓の令嬢みたいな人だった。背中ほどまで伸ばした黒髪をさっとなびかせ、何だかヒラヒラふわふわした白い服の上にワインレッドのカーディガンを羽織って悠然と歩いていた。影村の話が面白いのか、口元を軽く押さえてやんわりと微笑んでいた。
「お嬢様だ、お嬢様が出た」
 影村たちが見えなくなった後、俺は興奮気味に街田さんに言った。
「古藤田さんは大変綺麗で上品なお方です。大学でもかなり目立っています。まさか影村くんとそういうことになっているとは」
 街田さんは腕を組んで、感慨深そうにしていた。
 影村が女を連れていることにも驚いたが、彼が連れていた女性に対して、俺は心底びっくりした。
 話を聞くに、古藤田さんは影村と真逆の人格を持ったような人である。まさに青天の霹靂であった。あの影村が、正反対の世界にいるような女性に思いをかけるとは。意外も意外であった。
 いや、もしかしたら正反対の人間であるがゆえに、興味を抱いてしまうのかもしれない。磁石のN極とS極のように、互いに惹かれあうのかもしれぬ。
 俺は密かに影村を応援した。がんばれ影村、今こそ比翼連理の理想形を示す時だ。そして俺はラーメンのスープを飲み干して、隣りに座る街田さんを軽く驚かせた。
「ああ、美味かった。いつも俺を癒してくれるラーメンだけど、気分がいい日に食べるとまた格別だな」
 俺はほくほく顔であった。店主は「そりゃあ、当ったり前よお」と言って笑った。
「私、柏台さんがここの味を好む理由がなんとなく分かりました」
 街田さんも笑っていた。俺は久しぶりに幸せな気分であった。

 スープ一滴すら残さず、俺はラーメンを完食した。代金を払って外に出ると、いくらか冷たさの増した風が頬を撫でた。それでも身体はぽかぽかとして、とても暖かかった。

 帰り道、俺は街田さんと並んで住宅地をのんびり歩いていた。空気はいっそう冷たく、辺りはしんしんとしていた。
「今日からもう冬休みですね」街田さんが口を開いた。「柏台さんは、何か予定はありますか」
 俺はちょっと考えたけれども、脳内スケジュールには「実家に帰省、以上」としか書き込まれていなかった。このままでは、真の暇人になってしまうかもしれない。
「冬休みは、正月に実家に帰るくらいですねえ。ホント、冴えない大学生活を送っとります」
 だからこそ、俺は一歩踏み出さなければならぬ。自分を変えなければならぬ。街田さんとかろうじて結びついている一縷の糸を手繰り寄せなければならぬ。しかし俺はどうするべきか考えあぐねていた。
 俺はレジ袋に入った蛍光灯の箱を取り出してみた。せっかく蛍光灯が背中を押してここまで導いてくれたというのに、俺の体たらくの何と不甲斐ないことよ。
「じゃあ、お暇なんですね」
 街田さんの言葉は、程よく俺の心に突き刺さった。これで俺は、彼女から「暇人」のレッテルを張られてしまった。俺はうなだれた。かすかな希望が雲散霧消して行ってしまうかのように思われた。手に持った蛍光灯の箱を強く握りしめた。
 だがその時、くすぶっている俺に救いの手が差し伸べられた。俺に助け船を出したのは神でもなく、影村でもなく、蛍光灯でもなかった。俺と街田さんをつなぐ糸を引き寄せたのは、街田さんその人であった。
「でしたら、柏台さんにお願いがあるのです」
 街田さんは俺が手に持っている蛍光灯の箱を見つめた。
「何でも言ってください。何しろ暇人ですから」
 俺は藁にも縋る思いであった。こんなところを影村に見られたら「最高に格好悪いですねえ、柏台さん。のび太くんでももう少し甲斐性を見せてくれますよ」と言われて、笑われてしまうに違いない。
 街田さんは何か言いかねる様子であったが、やがてぽつりぽつりと言の葉を紡いでいった。
「その蛍光灯を見て思い出したのですが、私の家の蛍光灯も切れかけているのです。早く交換したいのですが、なにぶん電機について疎いので、型とか値段とかがよく分からないのです。で、ですからあの、そのう」
 街田さんがしどろもどろになっているという、普段では決してお目にかかれない光景に、俺は思わず破顔した。そして、彼女が言わんとすることを察した。つとめて早く答えた。
「それなら、俺が選んであげましょうか。こう見えても、蛍光灯については結構詳しいんですよ。コミュニケーションも取れます」
 俺は胸を張って拳を当てた。それを見た街田さんは吹き出した。
「なんじゃそりゃ……でも、それはいいことです。是非お願いします」
 街田さんはぺこりと一礼した。あまりに礼儀がいいから、つられて俺もお辞儀をしてしまった。
 そして俺は、いつか黒髪の乙女に言おうと思って、かねてから腹の中であっためていた言葉を口にするのである。
「そうしたら、その後に茶でも飲んでゆっくりしませんか」

 翌日に会合する約束をして、三叉路で俺は街田さんと別れた。彼女の蛍光灯は駅の近くの電器屋で買うことにした。書店の近くの家電量販店も選択肢にあったが、何だかとっても嫌なものを見てしまう気がしたので避けた。今日はやたらと思い付きな行動が多かったが、結果オーライなので良しとしよう。
 アパートにたどり着く直前で、影村に会った。
「調子はどうです? 蛍光灯換えられそうですか?」
 彼は素っ気なしに訊いてきた。返事代わりに俺は手に持っていた蛍光灯をこれ見よがしに掲げた。
「おお、自分で手に入れたのですね。それは良かった、良かった」
 影村は満足げにうっしっしっと笑い、彼の下宿に戻ろうとした。
「影村」俺はちょっと彼を呼び止めた。「さっきはありがとな。お前があの時言ってくれたおかげで、コイツをゲットできたぜ」
 歩きながら、影村は首だけこちらに向けて短く言った。
「でっかいオマケも付いてきたでしょう」
 月明かりに照らされた彼は、いたって不気味な顔をしていた。これが平生の影村である。もし影村が純真無垢な顔をしていたり、質実剛健な態度であったならば、それはきっと偽物である。影村の姿をした別の何かである。奴のドッペルゲンガーである。そんなものに出くわしてしまったら、俺はきっと不幸になる。

 アパートに帰った俺は、真っ先に蛍光灯を交換しようとした。とりあえず部屋の明かりが無いとどうしようもないので、既存の蛍光灯を点灯させる。しかしスイッチを入れても、部屋は暗いままであった。どうやら切れてしまったようだが、それにしても消耗が早い気がする。先日までは明滅がちょっと気になるくらいであったというのに。
 やむを得ず、キッチンの小さい明りを点けて蛍光灯の交換に取り掛かる。古い奴を取り外したとき、まだ温もりが残っているのを感じた。蛍光灯はとっくに切れていたはずである。しかし、いささか、あたたかい。
 ふと、俺は今日の夜までにあったことを思い返した。そして、俺が首になってから三叉路で街田さんと別れるまでのすべての場面に蛍光灯が関わっていたことを思い出した。そこで俺は考えた。これだけ蛍光灯と関わっているのだから、今までと同じように、ここ数日の出来事はきっと俺の人生でのターニングポイントになるに決まっている、と。
 役目を終えた蛍光灯に最大限の感謝を述べて、それをゴミ袋に葬った。そして新しいものを取り付け、いよいよスイッチを入れる。
 点された明かりは、今までのものより相当明るくなった。部屋の隅々まで照らされて、俺の部屋の汚さがよりいっそう際立ってしまった。
「蛍光灯よ、さっきお前は俺に言ったな。蛍光灯を換える前に、まず自分自身を変えろと。今しがた俺は変わったぞ! 手始めに部屋を片付けるぞー」
 片づけはものの三分で諦めてしまった。悲しいことだが、人間そうやすやすと変われないのである。しかしゆっくりでいい、これから変わっていけばいいのだ。
「そして最後には、街田さんへの想いを成就させるからな!」
 俺は蛍光灯に向かって誓った。


 以上が俺がその日目覚めて蛍光灯を換えるまでの全容である。
 その後、俺と街田さんの関係がどのような進展を見せたか述べるのは、この独白の趣旨から逸脱してしまうため自粛させていただく。俺の敬愛する人がよく言っていた言葉を拝借して言うなら、「成就した恋ほど語るに値しないものはない」のである。

 俺は蛍光灯に見守られながら、また一つ人生の分岐点をやり過ごした。
 この独白を読んでいる読者諸君の中にも、今にも切れそうな蛍光灯が身近にある方がいらっしゃるかもしれない。そんな時は少し考えていただきたい。もしかしたらあなたは、今まさに人生のターニングポイントに差し掛かっているのかもしれないと。

○○○

 こうして、下界の者たちの物語はここで幕を下ろす。

○○○○○○

 所変わって、ここは天上界。
 下界に存在する万物各々を司る神々がおわしまする世界である。

「大団円を迎えたようだな」眼下遥かに下界を見下ろして、蛍光灯の神は言った。「これで私の勝ちだね」
 蛍光灯の神の隣で地団駄を踏んでいる神がいた。鏡の神だ。
「まさかお前ごときに負けるとは」鏡の神は頭を抱えた。「油断したかな」

 つい先ほど、柏台という男と街田という女の縁が結ばれたという報告が飛び込んできた。結局、蛍光灯の神が勝ち、鏡の神は敗北したのである。

「まさか、影村が俺の作った分身に勘付き、あろうことか歯向かってくるとは!」鏡の神は地に拳を打ち付けた。「自分の分身に平気で対応しているあたり、奴は魑魅魍魎の類に違いない。使う人間を間違えた」
「相手が悪かったな」蛍光灯の神はうなだれる鏡の神に向けて言った。「お前は人間を甘く見た。あいつらは一度認めた他人対して、ものすごく情が厚いんだよ。仲間や親友のためならば、どんなことでもやってのけてしまうことがあるのさ」
「しかしお前、蛍光灯になりきったまま柏台に助言を与えたそうじゃあないか。一体どうやったんだ?」
 鏡の神が尋ねると、蛍光灯の神は呵呵大笑した。
「私は何も言っとらんぞ。柏台の気まぐれだ。結局は自分でどうにかせにゃあいかんのさ」


 ただ蛍光灯になりきっているだけで男女の縁を結んだ蛍光灯の神は、天上界でも指折りの有名な神に成り上がった。

○○○

 光向こうの蛍光灯の神は言う。
「柏台の人生もそうであったが、諸君も蛍光灯に見守られた人生を歩まれていることであろう。彼らはその命絶えかけている時、チカチカしていささか目障りである。しかし心のうちでは諸君に遺言を残そうと必死にしているかもしれない。チカチカしている奴を見かけたときには是非とも、諸君の鋭敏な感性で奴らのメッセージを受け取っていただきたい。そうすれば、使い捨てられゆく彼らもちょっとは報われるはずである。柏台のような阿呆学生は気が付くのにだいぶかかったが、聡明な諸君ならもっと早く分かるだろう。

 蛍光灯とともに生きる諸君らの人生に、新品の蛍光灯に負けないくらい明るい光が満ちたらんと願う。
 そして、その光が切れかけたときにはちょいと自分を変えてみようではないか。
 蛍光灯と同じように、いつまでも同じ自分じゃあ、明るい光はたもてないのだから」

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切れかけの蛍光灯

切れかけの蛍光灯 

 今日も私の病室の蛍光灯は点滅している。私はいつもそれをぼんやりと眺めえている。もう五年になるだろうか。中学入学して、すぐにこの病室に入院することになってしまった。自分としては何も不調な部分はなかったのだが、春の健康診断の後、私の体に異状が見つかったらしく、大きな病院で一度検査を受けたあと、この有様である。
 詳しいことはお医者様もお母さんもお父さんも話してはくれない。多分、相当に重い病気なのだろう。学校は中退させられ、当然のごとく、高校にも通えない。時々、窓から見える同じ年頃の制服姿の子たちを見ると、とても羨ましく、妬ましく、そして自分が惨めに思える。友達と談笑しながら帰宅する人たち、手をつないで歩くカップル、部活帰りでぐったりしながら帰る男の子達。同じ年でどうしてこんなに境遇の差があるのか、なぜ自分だけがこんな目にあわなくてはならないのか。入院当初にはそんなことばかり考えていた。今ではだいぶ少なくなったが、ふとそう思うことがある。そんなときはそういう星の巡りなのだろうと思うことにしている。
 この生活はひどく退屈だ。私はまともに友達も作る間もなく、こうなったため、お見舞いに訪れる人もいない。一度だけ、担任とクラスの代表をして女の子が来てくれたが、当たり障りもない定型文を並べるだけで帰ってしまった。それから訪れるのはお医者様と看護師さんと両親だけになってしまった。することいえば、睡眠、食事、体調の検査、読書、それと運動機能を劣らせないための簡単なエクササイズ。それが私の生活サイクルだ。毎日同じことがひたすら繰り返される日々。
 そんな毎日にもある日変化が起きた。私の体調が悪化し、それと同時に蛍光灯が切れかけ始めたのだ。そりゃ消耗品だから、いつか寿命が来るのだろう。いつから変えられていないかは知らないが、たまたま私の時に切れるのだろう。特に気にすることもないのでわざわざ変えてもらうこともなかった。
 蛍光灯も蛍光灯でなぜか私が一人でいる時にしか点滅しないのだ。まるでまだ使えますよ、と虚勢を張るかのようにしている。まるで私が辛い時でも人前では元気に振舞っているのと同じように。いつしか私は自分の命を蛍光灯に重ねて考えるようになっていた。似たような話だと葉っぱだろうか。最後の葉っぱが全て落ちたら自分の命が尽きてしまうのではないかと考えるように、私もこの蛍光灯が切れると死んでしまうのではないのかと考えるようになっていた。
 私の体調がいい時には蛍光灯は点滅しないし、逆に悪い時には点滅する。私の体調の指標になっているみたいだった。それとも、蛍光灯を見ることで、私の気分が変動しているのか。どちらにしろ私と蛍光灯はリンクしていた。
 そして、初雪が降った寒い冬の日の夜、私の病態は急に重くなった。いつも通りに本を読んでいたはずなのに、始めに胸が苦しくなり、それから体全体に痛みが広がり、それと同時に気だるさ襲う。体を思うように動かせない。呼吸さえも辛い。声も出せない。今度ばかりはやばいと感じた。すぐにナースコールを押そうと手を伸ばしたが、届かない。すぐそこにあるのに。早く早くと、心は焦るのにどうにもならない。そして、蛍光灯も激しく点滅している。それがより私を急かしているようだった。私の意識が遠のいていくと同じように、ぼんやりとしてきた視界では蛍光灯の光も徐々に弱くなっているように感じた。
 もうだめだ。そう思うと同時にバリンッ、と音が聞こえた。その音を聞くと、私の最後の一線が途切れたように意識を失った。

 目を覚ますと一面にお花畑や川があることはなく、見慣れた天井だった。ふと横を見るとお母さんが泣いていた。私が目を覚ましたのを見ると、途端に笑顔を見せ、大丈夫、辛くはない、などと矢継ぎに質問を私に投げかけたあと、落ち着きを取り戻すこともなく、そのまま看護師さんを呼びに行った。
 どうやら私は生きていたようだ。お母さんがお医者様と看護師さんを連れて戻ってくると、両方とも驚いた表情で私を見ていた。どうやら私は当分目を覚まさないと診断されていたらしい。それでも、私は一週間以上眠っていたのだが。それから様々な検査を受けて、落ち着いたあとにあの日のことを聞いた。
 偶然にも私の病室のまえを通った看護師さんが部屋から何か割れる音を聞き、部屋を覗くと、私がベッドから崩れていたのを見つけたそうだ。それからすぐに緊急治療室へと運ばれ、即座に手術が行われ、一命は取り留めたが意識の回復はほとんど見込めないということだったらしい。
 目を覚ましてからは私の体は安定して回復していった。もう少しで退院ができるらしく、私はこれからの生活が楽しみでしかたなかった。そんなはしゃぐ気持ちを押さつけて、寝ようと天井を向く。そこには新しい蛍光灯が付けられている。寝るためにその明かりを消す。私はあの蛍光灯が私を助けてくれたのだと思っている。自ら割れることで、私の危険を看護師さんに知らせてくれ、私の代わりに死んでくれたのだと、そう考え、そう信じている。他人に話せば、ただの偶然と済ませられるだろう。もちろん、私はそれを否定はしない。この考えを受け入れてもらうとは思わない。私一人がそう思い続ければいい。だって、そのほうが素敵なことだと思うっから。

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眠り島

眠り島


            ◆

 角の取れた消しゴムはよろよろと君の元へと転がる。慌てて追いかける僕。だけど追いついた時にはすでに遅くて、君は教室の後ろで談笑する女子の輪から外れ、かがんで足元のそれに手を伸ばしていた。
 僕は恐る恐る君の前に立つ。同時に君と談笑していた女子たちの、ごみを見るような視線が僕を刺した。君はといえば、特に嫌な顔をするでもなく、前かがみのまま顔だけ僕の方に向けて、拾った消しゴムを差し出した。
「はいどうぞ」
 その時の君の顔が僕は忘れられない。それはこれまで軽蔑や嘲笑ばかり向けられてきた僕にとって、生まれて初めて他人から向けられた、純粋な笑顔だった。
「あ、あ、ありがとう」
驚いた僕はぼそぼそとお礼を言って君の手から消しゴムを奪い取り、自分の席へと逃げた。

 チャイムが鳴った。数学担当のハゲデブ教師が卑しい笑顔で唾を飛ばしているのを横目に僕は、真剣に授業を聞く君と、初めて感じた不思議な動悸に夢中になっていた。




 暗い気持ちというものは忘れたい記憶までぶり返させる効果があるのだろうか。故郷行きのフェリーの上で、僕はふとそんなことを考えた。
昨晩また、中学時代の夢を見た。

 親や妹からの冷たい視線から逃れるように都会のマンモス大学に進学して四年。二度の留年を経て、この夏中退を決意した僕は今日、四年振りに実家がある離島に帰る。
そして僕を暗い気持ちにさせる原因は、実家に帰らなければならないこととは別にもう一つ。
「ユウくん、アイにゃんのこと好き?」
「はあ? 好きじゃねぇから――愛してる」
「あーん、アイにゃんも愛してるぅ!」
 それは先程から僕の後ろで繰り広げられている、いかにも馬鹿らしい、若者カップルの会話だった。
 僕はああいう人間が大嫌いだ。自己中心的で、低能で、いつも色恋沙汰に関する事ばかり考えている、社会にとって迷惑極まりない存在。奴らは大抵お互いを利用し合うために群れて行動し、猿山ごっこに興じられないまっとうな人間から次々と排除していく。
不運なことに、僕の周りの人間は昔からそんな奴らばかりだった。

 男の手が女の腰に回されると、女から嬌声が漏れ始めた。
(この、猿どもめ!)
 僕は侮蔑を込めた目でカップルを睨む。だけど、男の手が女の腿へと伸び、短めのスカートの裾が捲れ女の下着が露わになった刹那――僕は興奮していた。
 この時僕が感じたのは断じて歓びなどではない、猛烈な悔しさだけだった。気にしたら負けだと自らに言い聞かせ、荒れた鼻息を整えながら僕は思う。いっそ全てを捨てて逃げ出すことができたら、どんなに楽になれるだろう。

 地鳴りのような轟音が響いたのは、そんな時だった。


 口の中がじゃりじゃりする嫌な感触で目を覚ますと、僕は知らない浜辺に倒れていた。正面には途方もなく広がる海。背後にはうっそうと茂る密林。どうやらここは無人島らしかった。
 こんな状況になった理由は考えるまでもなく思い出していた。僕が乗っていたフェリーはその航路の途中、岩礁に乗り上げ、難破したのだ。
 普通の人間はこういう時酷く絶望するのだろうけど、僕の場合は特にそういうわけではないようで、未だ生が続くことに対して、小さなため息が出たのみだった。

 目が覚めてすぐに寝床を確保するため島の探索を始めた僕は、実はサバイバル適性があるのかもしれない。驚くほど冷静に、次にするべきことを見極められた。
 最初の発見は、島のあちこちに散らかる肉食動物の食事跡らしきものだった。もしかしたらこの島は僕が思っているよりもずっと危険な場所なのかもしれない。
 さらに島の大半を覆う密林地帯の探索中、五階建てのビル程はあろうかという巨岩を発見した。またその岩の下部には裂け目があり、さながら洞窟のようになっていること、てっぺんには蔓状の植物が豊富に生育していることも、遠目から確認できた。

 一通りの探索を終えた僕は元の浜辺へと戻り、状況を整理してみることにした。見たところ自然豊富な島なので、食料に関してはなんとかなるだろう。寝床も、あの巨岩の洞窟ならば雨風を凌ぐことができるだろう。
だけど、と僕は思う。
 僕はこれからたった一人でこの島を生きてゆくのだろうか。これまでの人生も一人だったといえばそうなのだが、そういうことではない。そう、この島にはコンビニも薬局も無ければ、警察だっていないのだ。頼れるのは自分だけ。こんな状況でもし病気になったり、あるいは猛獣に襲われたりしたら……
 ぼんやりとした不安が僕の心の中に立ち込めだした、その時だった。
「あっ、いや、待ってユウくん! そこはだめぇ!」
「そんなこと言ってほんとは期待してるんだろ?」
「で、でも無人島でこんな……」
「いいじゃん! どうせ俺たちがいっぱい作って、すぐに無人島じゃなくなるんだからさ」
「いやん! ユウくんのエッチ!」
 近くの岩陰から聞こえた覚えのある声に、僕は驚きを通り越して呆れた。
 新たな発見。この島には人はいないが、猿は棲んでいるらしい。


「鍾乳洞ってエロくね? 響き的に」
「ユウくんマジウケるぅ! それで、アイにゃんの鍾乳洞探検はいつしてくれるの?」
 明らかに鍾乳洞という言葉の意味を理解していない(ここは鍾乳洞ではない)であろう低能二人と共に、僕は巨岩の洞窟を進んでいた。本当は協力などしたくはないが、一人で行動するよりは生存率が上がるだろうと、僕から提案してのことだった。そういう意味では、奴らと僕が同じ島に流れ着いていたことは不幸中の幸いだった。
 洞窟内は意外と広々としていて、多少臭いが気になる点を除けば、理想的な寝床になりえそうだった。それより問題はむしろこの低能二人の方だ。
「おい、うるさいぞ! 肉食動物の住処かもしれないんだから、少し静かにしろ」
「はあ? 超ムカつくんですけどぉ。死ねよチビデブキモおっさん」
「おっさんじゃない二十二歳だ!」
「同い年とかマジ超ウケるんですけど!」
「超とかマジとか、本当にボキャブラリーが貧相だな! これだから低能はこま……なんだよ?」
 おい、あれを見ろ、と突然僕の肩を叩いたのは、ユウくんと呼ばれている男の方だった。続けてアイにゃんというらしい女の方の絶叫が洞窟に響く。僕はと言えば、腰を抜かしてその場にへたりこんでいた。
 松明が照らし出す洞窟の奥の少し開けた空間。その真ん中に転がるそれ――白骨死体は、あまりにも生々しい「生」の跡を携えて僕の前に現れた。
 骨の周囲に散らかる厚手のセーターやコートなどの衣類、毛布、リュック、小型蛍光灯などのあらゆる物品が、この場所がその人物の居住地であったことを示していた。恐らく季節は冬だ。今は夏なので、亡くなったのは半年ほど前だろうか。
 そして壁一面にびっしりと書き込まれた文字は、恐らくその人物が書き込んだものだろう。目的は定かでないが。

 やはり僕はサバイバルに向いていたらしい。腰を抜かしはしたもののすぐに冷静さを取り戻して、状況をつぶさに分析すると、自分が今やるべきことがわかった。
 小型蛍光灯のスイッチを入れてみる。数秒の間の後に微弱な光を灯したため、一応まだ使うことはできる。が、極力温存した方が良さそうだ。次にそこらに散らばる衣服や毛布を整理する。今の季節はまだ必要ないが、これから先気温が下がってきた時に貴重な物資となるだろう。次に……
「……おい。何してんだよ、おっさん?」
「ここに住むための準備だ」
「ウソだろ? 人の死体があったこんなところに住むとかどんな冗談だよ!」
「外で過ごすのは肉食動物に襲われるリスクが高い。実際、昼の探索で肉食動物のものらしい食事跡を見つけた。それでもいいなら、勝手に出て行けばいい」
「なんでこの状況でそんな、冷めたこと言えるんだよ……」
 自分では冷静に分析しただけのつもりだったが、他人からは冷めているように見えるらしい。だけどそれもある意味では間違っていない。
 僕は生きるための熱を失っていた。身体は動いているのに、心は眠ったように一ミリも動かない。
「そんな…やだよ。こんな、こんなのって……」
「……諦めるんだ。僕たちはもう、ここで暮らしながら救助を待つしかないんだよ」
 そう言った瞬間、蛍光灯の光が小さく揺らいだ気がした。涙を流して崩れ落ちた女に背を向けて、僕は骨の埋葬作業に取り掛かる。


 カレンダーによると、今日で無人島に漂着してちょうど二か月らしい。日にち感覚を失わないようにと記録しだしたものだ。ユウ、アイとの共同生活は仲良く、とは言わないまでも、初めと比べれば大分打ち解けたと言えるだろう。
 役割分担も自然と生まれた。今日はアイが林で植物採集、僕とユウが海での釣りだった。
「調子はどうだよおっさん」
「駄目だな。さっぱり釣れん」
「あちゃー、こっちもさっぱりだわ。今日は狩りにした方が正解だったみたいだな」
 そう言ってユウは僕の隣に腰を下ろした。思えば、僕がこのように他人と会話を交わすことは、この島に来る以前にはなかったことだ。

 俺たちさ、と言ったユウの口調がいつもの軽々しいものではなかったので、僕の中で緊張が糸を張った。
「駆け落ちの途中だったんだ。俺の収入が低いせいでアイの両親に結婚を認めてもらえなくて、それならいっそ遠くの島にでも逃げて二人で暮らそうって」
「それで、僕の故郷の島に渡る途中に船が難破したと」
 ユウには悪いが、底辺にはよくありそうな話だな、と思った。
 実際僕の通っていた私立中学の生徒などは、お堅い家庭、裕福な家庭に生まれた者が多く、我が子の結婚相手に一定以上の収入を求める親も珍しくは無かったそうだ。もちろん、僕に友人などはいなかったため、教室で机に突っ伏して寝たフリをしている時に得た情報に過ぎないが。
「最初はアイさえいれば他に何もいらないって思った。だけどよ、この島で暮らしだしてから、アイが毎晩寝言で呟くんだよ。『お父さん、お母さん。会いたいよ』って」
 夢と聞いて僕が思い出したのは中学時代だった。夢を見るという行為は一体、人間のどんな心境の作用なのだろう。

「俺、この島を脱出したいと思ってんだよ」
 ユウは唐突にそう言った。そしてこう続けた。
「そのためには、あんたの力が必要だ。俺頭悪ぃから、自力じゃ脱出する方法なんて思いつかねぇんだ。悔しいけどよ」
 彼はそう言って、本当に悔しそうな表情を浮かべた。
 この時僕が取るべき行動は、脱出のためにユウたちに知恵を貸すことだっただろう。二か月も待って音沙汰なしという時点で、救助がもはや期待できない状況であることは、十分わかっていた。それなのに……

「……無理だ。そんな方法僕にも思いつかない。この島からの脱出はできない」
「はあ? なんでだよ!」
 なんで? そんなの決まっている。
「だから、そんな方法が無いからだと言っただろう」
 違う。怖いからだ、元の場所に帰るのが。
「イカダでもなんでもやりようがあるだろうが! それくらい、おっさんならすぐに思いつくはずだろ!」
 ここにはユウやアイがいる、僕を頼りにしてくれる。でも、この島の外には僕を邪魔者扱いする人間しかいない。それならいっそ、この島に残る方がずっといい。
「イカダを作るにはロープが必要だろう。だけど残念なことに、この島でロープ代わりになるようなものはあのバカ高い岩の天辺にしか生えていない。これだけ言えば低能なお前でもわかるだろう?」
 そうだ。僕のこの苦しみは、猿のように何も考えず生きてきたお前らなんかには、絶対にわかるまい。

「……へぇ。そうかよ、よくわかった」
ユウは吐き捨てるようにそう言った。何とか納得してもらえたようで良かった、と安堵したのも束の間、
「おっさん、島から出たくないんだろ。ダチとか彼女とか、なにも持ってなさそうだもんな」
 僕の考えは、ユウには全て見通されていた。目下のところ最も親しい人間(消去法ではあるが)に言われたその言葉は正直、心に刺さった。今までの人生で浴びてきたどんな罵詈雑言よりも、痛い。
「残りたいなら一人で残ってろ。俺は絶対にアイと一緒に島を出る」
 一人その場に残された僕を嘲笑うかのように、海面でお気楽な魚が跳ねた。

 洞窟に戻るとアイが小さな嗚咽を漏らしながら泣いていた。慰めていたユウに理由を聞くと、どうやら洞窟の近くの林で植物採集をしていた時に、巨大な生き物の影を見て、恐ろしくなって逃げ出してきたということらしい。
話を聞いた瞬間、島に来た日に見つけた食事跡と、無残に転がった白骨死体が頭を掠めた。
 アイの背中をさすりながらユウが僕を睨んだ。島から出る覚悟を決めろ、と無言の圧力をかけられているようで居心地が悪くなり、僕は早々と眠りについた。

 この日の夜、僕は久しぶりに夢を見た。


            ◆

 思えば僕も人生で一度だけ、色恋の事ばかり考える猿だった時期があった。

 以前よりさらに丸みを増した消しゴムは、君の元までまっすぐに転がる。何度も繰り返すうちに精度はかなり上昇し、最近では寸分違わず君の爪先の前で停止できる程になった。
「また今日も落としたんだね。はいどうぞ」
 僕は一瞬だけ君の顔に目をやり、笑っているのを確認したら、すぐに席に戻る。これが僕たち二人だけの意思疎通だった。
そう、僕たちはあの出来事以来、恋人となったのだ。
 僕たちが言葉を交わすのは僕が一日一回消しゴムを落とした時だけだったが、それで十分だった。彼女の笑顔が、彼女が僕に寄せる好意のなによりの証拠だった。僕もまた、彼女のことを愛していたので、そこに言葉などはいらなかった。

 ハゲデブ教師が学校を辞めたのは僕たちが交際を始めて半年が経ったころだった。学校での生徒との淫行がばれたのが原因だったというのは、立ち聞きして知った。馬鹿な奴だと、僕は心の中で笑った。その教師も、相手の生徒も。
 次の日、僕の愛する恋人が学校を辞めた。

 目を覚ますとどうやらまだ夜中のようだった。全身が汗びっしょり気持ち悪い。
 視界の端がチカチカするのを感じて起き上がると、いつのまにか枕元の蛍光灯が付いていた。寝ぼけてスイッチを入れてしまったのだろうか。
 その光は僕がここに来る以前よりずっと弱く、今にも消えてしまいそうに思えた。




 冬がやってきた。結局僕は未だに島を出る決心はつかないままで、ユウとはなんとなく気まずい日々を過ごしていた。今日の担当はアイが薪を作るための木材の調達、僕とユウが釣りだったのだが、海がいつもより荒れていたため、僕たちは早々と切り上げて洞窟に戻っていた。
 おい、おっさんと先に切り出したのはユウの方だ。
「なんでそんなに、島から出ることを怖がるんだよ」
ちょうどいい。僕の方も話をしなければならないと思っていたところだ。
「怖いからだ」僕は答えた。
「なんでだよ」ユウは逃がさないと言わんばかりに追及してきた。
 隠すつもりなどなかった。もしかしたら僕自身、誰かに吐き出したいと思っていたのかもしれない。僕は今までの人生全てを、ユウにさらけ出した。

 周囲の人間に虐げられながら過ごした幼少期。いわゆるいじめられっこというやつだ。家では出来の良い妹と比較され、「教育にだってお金はかかるのよ」と嫌味を言われた。僕の母はそういう教育ママ的な面を持っていたし、妹も自分より頭の悪い兄を尊敬することは無かった。
 中学生時代、そんな僕にも初めて認めてくれる人ができた。だけどその人も結局は僕を捨てて、馬鹿にしていた数学教師と一緒に僕の前からいなくなった。
 それが決定打だった。
 僕の周囲の人間は皆僕を毛嫌いし、排除しようとしてくるから。そして仮に認められたとしても、いつかは見捨てられるから。だから怖いのだ、と僕は伝えた。

「バッカじゃねぇの? いや、馬鹿だろおっさん」
 ユウは冗談とも本気ともつかない調子で言った。その瞬間、僕の中で脊髄反射的なスピードで嫌悪感が込み上げた。 それはお前にだけは言われたくない、とユウの言葉を身体が拒絶したようだった。
「お前みたいな低能にはわからないだろうな」
「それだよ、テメェはそういうところが馬鹿なんだよこのクズぼっち野郎」
「ど、どういう意味だ!」
「テメェは今までもそうやって、周りの人間を見下してきたんだろ? ダチも彼女もできねぇのは、全部てめぇテメェのそういう性格が原因だって言ってんだよ」
「なっ! 彼女はいたことあるって言ってるだろう!」
「はあ? どう考えたってテメェの片思いだっつーの! なんだよ『微笑んでくれた』って! 嫌いな奴が相手だって世間体で愛想笑いぐらいするんだよ普通は」
「僕はそれで十分に彼女の愛を確かめられた! 低能の物差しで僕を測るな!」
「はあ……じゃあ、仮にその女がテメェに惚れていたとしといてやる。だけど、テメェの気持ちはその女にちゃんと伝えたのかよ? あぁん? 一方的に自分だけ気持ちを貰って相手には何も返さないなんて、頭脳派(笑)さんは流石に駆け引き上手だな」
 僕はこのユウの皮肉に対して何も言い返せず、言葉を飲みこんだ。馬鹿だ馬鹿だと思っていた相手が今、完璧な正論を武器に目の前に立ちはだかっていた。
「テメェがぼっちだったのはテメェに勇気が無かったからだろ。俺やアイは確かに、おっさんみたいなタイプと好んでつるみはしねぇだろうけど、近づいてくる相手を拒みもしねぇよ。おっさんの周りの人間がどうだったのかは知らねぇけどな」
「だ、だから! お前らみたいな低能のお友達なんてはこっちから願い下げだと何度言ったら……」
「うっせぇな! モテなかったりぼっちだったりするのを僻むのは勝手だけどよ、それを周りのせいにしてんじゃねぇよ。本当は仲間に入れてほしかったくせに」
 そしてこの言葉で、「僕が望んで周囲の人間と馴染んでいないだけ」という形を取ることで辛うじて保っていた僕のプライドは、脆くも崩れた。                                                                                                               
 だけど不思議と嫌な感じはしなかった。それはユウの言葉が僕を傷付けるためでないことが、なんとなく僕にも伝わっていたからなのだと気付いたのは、ずっと後になってからだった。

「テメェだけが辛いみたいな顔しやがって、うぜぇんだよ。アイだって親のことで悩んでたんだ」
「お、親から逃げたのはお前らも同じだろう?」
「だからテメェも島から出てやり直せって言ってんだよ」
 外を見てくる、と言い残してユウは出て行った。
 僕はユウの言葉を何度も心の中で咀嚼する。「やり直せ」という言葉がゆっくりと身体に染み込んでゆく。
 こんな僕でも、勇気を出せばあの二人は受け入れてくれるのだろうか。

 洞窟の外からアイの悲鳴が響いたのは、ユウが出て行ったすぐ後だった。
 慌てて様子を見に行った僕が目にしたものは、腕から血を流したユウと――あまりにも巨大な、一匹のヒグマだった。去年の冬に亡くなったと結論付けたあの、白骨死体が再び脳内にフラッシュバックする。そしてやっと気付いた。この洞窟はクマが冬眠をするための穴だったのだ。
「来るなおっさん! アイを連れて逃げてくれ!」
 ユウがそう叫び終わる前に、僕はヒグマに背を向けて走り出していた。息を切らして洞窟の奥、僕たち寝床に転がり込んだ僕は、休む間もなく、その場所で役に立たないオブジェと化していた「それ」を掴み、洞窟の外を目指す。
 再びヒグマの姿を目にした時、そいつは倒れたまま動かないユウと、彼に寄り添うように涙を流すアイに、今にも襲いかかろうとしていた。
「うわあああぁぁ! 離れろぉぉー!」
 気付けば僕は闇雲に蛍光灯を振り回して目の前のヒグマに立ち向かっていた。はたから見ればそれはもはや、自殺行為に等しい行為だったかもしれない。
 そう、島に来た時のサバイバル巧者の僕はもういない。死を目の前にして冷静に状況を分析できるあの時の僕は、もういない。僕の中で眠っていた情熱が目を覚ました。
(やり直すんだ! この島を出て、二人と一緒に!)
 心で叫んだ瞬間、手に持った蛍光灯が激しく燃え上がり、一瞬輝きを取り戻したような気がした。いや確かに取り戻したのだ。その証拠に、怯んだヒグマが僕の前から走り去るのが見えた。僕は疲労でその場に倒れ込んだ。

「ユ、ユウくん! ユウくんしっかりして!」
「大丈夫、ちょっと擦りむいただけだよ。心配かけたなアイにゃん」
 ユウは右腕に怪我を負っているものの命に別状はなさそうだ。良かった。
 ほっと胸を撫で下ろした僕の元にアイが駆け寄ってきた。そっと差し出された手。僕は久しぶりに向けられた明確な好意の行動に一瞬戸惑うも、ゆっくりとその手を取った。
「あ、ありがとな」
「こっちこそ! 本当に、助けてくれてありがとう!」
 アイがにっこりと微笑んだ。動悸が激しくなる。なぜならその笑顔は、僕が知っている唯一の純粋な笑顔と、そっくりそのまま重なったのだから。
「今気付いたんだけど、おっさんよく見ると、私の初恋の人に似てるかも」
 そう言ってまたアイが微笑んだので、いよいよ僕は恥ずかしくなり、逃げるようにユウの元に向かった。
「あえて言うけど、おっさんバカだろ。 俺にはいつもリスクが~危険性が~って散々言ってたくせによ」
 うるさいな、と形式的に毒づいてから、僕はユウに覚悟を伝える。もう迷いは無かった。
「イカダを作ろう。この島を脱出するんだ」


 故郷行きの船に乗りながら、僕はさっきの出来事を思い出していた。
 ヒグマを退治した直後、近くの林から突然人が現れた時、僕は驚いた。そしてその中の一人を指して「お父さん!」と言ったアイにはもっと驚いた。
 僕たちが島に流れ着いて半年も経っていたのにまだ捜索が続いていたことには驚きを通り越して呆れた。行方不明者の捜索にはそれなりにお金がかかるのだ。半年ともなると、一体どれほどの額になるのだろう。
 と、ここまで考えてアイの両親がユウとの結婚に反対していたという話を思い出した。アイの家が大変裕福な名家であったのなら、それにも納得できる。僕の出身中学校では、本当にそういう親は大勢いたようだ。

 僕は今一人、船内の部屋のベッドで横になっている。隣の部屋はアイとアイの父、そしてユウが使っている。きっと今ごろなんらかの話し合いが行われているのだろう。大丈夫だろうかと少しだけ不安になるが、なんとなく大丈夫なような気もした。いや、きっと大丈夫だ。
 むしろ心配なのは自分の方だ。大学中退の話、これからの話。家族にしなければならない話はたくさんあるが、逃げるつもりはもうない。

 しばらくすると急に眠気が襲ってきたので、少し早いが寝ることにした。明日も早い。
 部屋の電気を消しながら、明日アイとユウに僕の本名を教えようとふと思いついた。いつまでもおっさん呼ばわりは嫌だ。それに……もし本名を聞いたら、アイはどんな反応をするのだろう? とても楽しみだ。
 布団を被りさて寝ようと思った時、まだ眠れないことに気が付いた。
「こいつも消さなきゃな。明るすぎてゆっくり眠れん」
 そう一人ごちて、枕元の蛍光灯に手を伸ばす。それは少し前向きになった僕を後押しするように、力強い光を放ち続けていた。

            ◆

 あの話には実は続きがある。

 君が学校を辞めたその日、僕は失意の中家路につこうとしていた。靴を取り出そうと下駄箱の扉を開けたその時、一枚の紙が中から出てきた。
 君からの手紙だった。

「武藤恭平くんへ

 お手紙を書くのは初めてだね。というより、ちゃんとお話したこともなかったよね。いつも消しゴムを拾ってあげてたのに、なんか変な感じ!

 私には今、好きな人がいます。だけどその人と私は決して結ばれてはいけない関係です。だから、私たちは二人で逃げることにしました。後悔はしてません。

 恭平くんは今この手紙を読んで、どんなことを考えてるのかな? 少しでも悲しいって思ってくれていたら嬉しいな。

 ……最後だから言うね。実は私、ずっと恭平くんのことが好きでした。

 これから先どうなるのか、私にはわかりません。今大好きな人のこともすっかり忘れて、全然関係ない人と結婚する日が来るかもしれません。

 だけど恭平くんのことだけは、私絶対に忘れないよ。なんたって、私の初恋なんだから!

 もしまた逢えたら、その時は友達になってくれたら嬉しいな!
 それじゃ、またどこかで。

                        藤森亜衣」

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小さな部屋

 今日もまた、暗くなった道を親子が歩いていく。
 大きな体をした男の人と、ひらひらしたワンピースを着た小さな女の子だ。よくは知らないけれどたぶん、お父さんとその娘だと思う。女の子は昨日、少し嬉しそうにして歩いていたけれど、今日はどこか寂しそうだ。俯いてとぼとぼ歩く少女の手を、男の人は放さないとでもいうように包み込むように手をぎゅっと握って、ゆっくりと歩いていく。それから時折、まるで思い出したみたいに大振りな動作で少女に話しかけるけれど、その男の人の表情も強ばっているようにも思えた。地面を見つめたままの少女が何かを言ったのか、男の人は大きな手でぐしぐしと優しく不器用に、彼女の頭を撫でてあげていた。二人の間で交わされた言葉は少なかったけれど、そこには目に見えない繋がりが彼らをしっかり繋げているようにも見える。言葉で表せない暖かさがあるようだった。


 少なくとも三日に一度、多いときは毎日、二人は外を眺める私の前を通り過ぎていく。何かを話しているだろう事はわかるけれども、少し距離があるせいか彼らの声はほとんど聞こえてこない。あるいは私と彼らを隔てるガラスの窓があるからかもしれない。最近になって吹き始めた冷たい風に、道行く少女と男の人が着ていたコートの襟をしっかりと締めた。ちょっと身を寄せ合って、お互いを温めあってる姿はどことなく微笑ましい感じがする。ひゅーっと私の部屋にも、窓の隙間からひんやりした冷気が入ってきて、身震いを一つ。少し寒いけれど、我慢できないほどじゃない。外で直接浴びるよりは、こんな狭い部屋でも四方を囲まれていた方が暖かい。そう。暖かいはずなのに、私の胸をつく、ちくちくという痛みは一向に消える気配が無い。身体は暖かいのに、心が震えていた。寒さが原因ではないことぐらい分かっていた。とっくに感情なんて無くしてしまったと思っていた心が、きゅっと縮んだ気がした。
 羨ましいなんて思ったのは、これが初めてだった。

 くる日もくる日も、聞こえてくるのは近くまで飛んできてくれる鳥たちのさえずりと、時々やってきては私の部屋の窓をがたがたと揺らしていく風の音。あとは結構高い頻度で救急車が、高らかにサイレンを響かせて私の部屋の前を走り去っていく。何処かで誰かが助けを待っているのだろうか。暗い夜闇すらも切り裂いて光る赤色灯は、行き先を失った人を導く救いの光だ。でも私はここから動けないけれど、助けに来てもらうよりは、誰かを助けに行ってみたいな、なんて思う。他に耳に入るのは、かつかつと鋭い音を立てて道を穿つヒールの音や、ふらふらになるぐらいまでお酒を飲んだ男の人たちの、大きな笑い声ぐらい。昼間は私の前を通る人は少ないから普段は静かなものだ。私も寝ていることが多いから、その間のことはほとんど知らないのだけれど。

 私はいつもひとりぼっち。毎日、他に誰もいない小さな部屋から、大きな窓越しに外の世界を見つめるだけ。毎日同じ日々の繰り返し。窓の外ではいろいろなことが起こっていても、私の部屋の中は変わらない。はす向かいのお家に誰か住んでることは分かってるけれど、会ったこともなければ話したこともない。窓越しにただ少し、見えるだけ。私と同じように狭く小さな部屋に押し込められて、きっと最後の日を待ち続けている女の子だ。偶に会う目は、全てを無くしてしまったように澄み切っていて、もう何も写してはいないような錯覚に陥った。輝くような白い肌をした彼女も、私みたいにきっとひとりぼっちだ。ひとりとひとり、お互い目の届くところにいるのに決して手は届かない。もう、寂しいなんて気持ちも忘れてしまったはずだったのに。


 視界にうっすらと黒い靄がかかって見えるようになってきた。いつものように通りを歩く親子の姿が、ぼやけて見えたことで私はそれに気がついた。部屋へ食事が届けられる音で目覚めた私は、ちょうど彼らが私の方を見上げるところを見た。いつもならはっきり見えるはずの彼らの表情が、少し陰って見えた。嬉しそうに繋いだ手を振って歩いているのに、彼らはどこか不安そうに私を見上げているみたいだった。彼らだけじゃない。窓越しに見える世界の全てが、延いては私の小さな部屋すらも、暗い影が落ちて見えるようになっていた。でも私が不安に思うことは何もない。それどころか、心に去来するのはほっと安心する気持ちと、充足感だった。いずれ私の身に訪れるはずだったことが始まったに過ぎないのだ。この小さな部屋にも随分とお世話になったけれど、それもそろそろ終わり。
 私の身体がもう限界を迎えていた。

 それからの毎日は私の体調次第で、大きく波打つように、あるいは星が瞬くように、その姿を大きく変えてみせた。ある時はいつものように親子の様子がはっきり見え、またある時は、古い映写機のごとく断続的にしか、世界が見通せないこともあった。変化は視界だけに止まらない。少しずつだったが、耳鳴りがするようにもなっていった。外には何も起きていないのに、じりじりという異音が私を苛んでいく。終焉は私の身体を蝕んでいくけれど、痛みを感じない私には長い間待ち望んでいた変化でしかなかった。ずっと小さな部屋の中から焦がれていた、何も持たない私を塗りつぶすような、劇的な変化だ。部屋の中まで押し寄せた闇が、私を端っこから浸食していく。私が見通すことのできなくなった暗黒が、ひたひたと私のことを付け狙っていた。
 でも――それが楽しくて仕方がなく思えたのも、これが初めてだった。生きているという実感が、今までで一番している気がした。まるで、誰からも相手をされなかった日々を哀れに思った神様が、私の最後に素敵な贈り物をしてくれたみたいに思えた。私はうまく笑えているだろうか。こんな毎日がずっと続けばいいのにと、心から願う。もう後がないことは、重々承知の上で。

 毎日ほとんど決まった時間に私の元に送られてくる、食事も少しずつ来るのが早くなっている。ぼんやりとした頭では、それが何を意味しているのか、よくわからない。もう私の目は、以前の半分も見えなくなっていた。窓の外を眺めていても、通りを歩く人が正確に見分けられない。あの小さな女の子は、元気でやっているのだろうか。はす向かいの女の子の姿も、もはやかろうじてその白さが分かるぐらいだ。私よりも少し前から苦しそうにしている姿が見えていたから、彼女ももうあまり長くはないのかもしれない。彼女は今、何を考えているのだろう。私と同じように笑っているのだろうか。あるいは迫り来る暗闇に怯えているのだろうか。
 いずれにせよ、私はほとんど興味もなかった彼女のあり方すら、美しいと思えた。

 こうなった私たちの末路を、私はうっすらと知っている。それはまだ、私がここに来てすぐのことだ。この小さな部屋は、私ではない誰かが使っていた。何も分からないままに連れてこられた私の目には、部屋から連れ出される名前も知らない誰かの、壊れたような笑みが焼き付いていた。死にかけの者から順番に使えなくなったものを交換するかのように、事務的に入れ替えて、誰かの代わりに私は来た。私の次にも、きっと誰かがやってくる。この部屋はそう言う部屋なのだ。長い間、ずっと分からなかったあの人の笑みの意味も、今の私なら理解することができた。生きてきた長い時間の光よりも、今際の際の一瞬の輝きに全てを託す。そんな笑顔だ。だから私も、次の人にそれを伝えたいと思った。
 そのときも私は、今みたいに笑っていられるのだろうか。
 それだけが気がかりだった。

     ☄

 今日もまた、暗くなった道を親子が歩いていく。
 嬉しそうに笑い声を上げながらゆっくりと歩く。満面の笑みを浮かべた少女は、二つに縛った髪やふんわりと広がるスカートの裾を揺らし、飛び跳ねるように歩みを進めた。それを微笑ましげに見つめる男の傍らには、寄り添うように昨日まではなかった影があった。多少ふらつくような足取りで歩く、ほっそりとした女性は、それでも柔らかい笑みを浮かべている。少女が駆け寄って、女性の足にきゅっと抱きついた。バランスを崩した女性を男性は優しく支えた。三人の間に楽しげな笑い声が響く。外の寒さに負けない、暖かな輪がそこには存在していた。
 空に昇った真ん丸の月が新しい夜を祝福する。世界は明るくなった。

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幕末のおせっかい侍


 時は一九六十三年五月、幕末の動乱期。これから始まるのは史上最悪の殺人鬼と言われた攘夷派長州(山口)藩士――「幕末の返り血侍」の、知られざる真実の物語……

            ◆

「だめだな。こりゃもう使い物にならん」
 当代一の刀鍛冶職人、「ようだ屋」の店主陽田は、渡された「蛍光刀」を一目見るなりあっさりとお手上げを宣言した。
「そいつは困る! これを直せるのはこの周防国、いや、世界であんただけなんだ! なんとしてでも直してくれ」
 そう言って、後に「幕末の返り血侍」と呼ばれ社会科の教科書にも載ることとなる、痩身小柄な侍――河上藤次郎は、もう一度深々と頭を下げた。件の切れかけの蛍光刀の持ち主である彼がここまで必死になるのには、ある理由があった。

 蛍光刀――従来の日本刀の柄に発光する棒状の刀身を備えたその刀は、日本刀に代わる当時最先端の武器として一部の武士の所持するところとなっていた。
 開発者の陽田によると、蛍光刀の仕組みは放電により発生する紫外線を可視光線へと変換しているとのことだが、一九二六年にドイツのゲルマーによって初めてなされたと思われていた発明が、実はその数十年も前に一人の東洋人の手によってなされていたというのは驚くべき事実だった。
 実際、陽田は当時においても大変な驚きをもって迎えられた。
 ある日突然光り輝く棒を手に周防国に現れた陽田は、一八五三年ペリーが「黒船」を率いて現れて以来、海の向こうの国々に対する漠然とした不安を感じていた人々によって救世主のように歓迎された。彼の技術は恐るべき外国のそれに対抗する唯一の希望のように人々の目に映ったからだ。
「陽田の技術は三百年先を行っている」これはとある有力尊王攘夷派志士の言葉だ。そして「彼の技術は我々にとって大きな武器となるだろう」とも。
 彼の言葉が示す通り、外国人を実力行使で排斥しようという思想を持つ攘夷志士にとって、陽田の作る「蛍光刀」は攘夷を正当化するための切り札となった。蛍光刀を持つことは、我々の技術は西欧のやつらに負けてなどいない、だから外国に屈する必要などないのだという開国派の者たちへのアピールになったのだ。

 攘夷志士である藤次郎の蛍光刀が破損したのは一週間前、公武合体派の開国論者の男を斬った時だった。蛍光刀の基本戦法は殴打。背後からひっそりと歩み寄り後頭部に一発目、よろめく相手にすかさず追撃の一発、そして最後にとどめの一発を放った、その時だった。
 硬いものが割れるような嫌な音。しかし自身にも蛍光刀にもとりわけ変わった様子はない。藤次郎は気にせず逃走した。そして昨日、蛍光刀が切れかけていることに気が付いた。
 この時はまだ藤次郎は焦っていなかった。なぜなら「蛍光刀が切れた」のは彼にとって初めての経験ではない。これまでも切れかけるたび陽田の元へ出向き、柄の部分に仕込まれている「電池」とかいうものを変えてもらうことで、蛍光刀は本来の能力を取り戻していたのだった。
 今回も当然そのつもりで、藤次郎はようだ屋を訪れた。そして冒頭の陽田の発言に至る……


「直せと言われても……」
「なんとかするのがあんたの仕事だろう! 頼む、これがなければ俺の大義は……」
 藤次郎は焦燥感をこらえるように唇を噛む。この時代、蛍光刀は攘夷志士のシンボルと言える存在となっていた。それを切らしているということはつまり、攘夷志士としての活動が困難であることを意味する。
 それどころか酷い場合、開国派に転向したと受け取られかねない。
「蛍光刀は放電によって発生した紫外線を蛍光物質に照射して可視光線に変える仕組みだというのは以前話したな。つまり、この棒の中には紫外線を白い光に変えるための物質が詰まっているわけだ。
 ところがだ、藤次郎さんが蛍光刀にひびを入れたせいで中の蛍光物質が漏れ出しちまった。これ以上漏れないようにすることはできるが、入れ直すことはできねぇ。
 そもそもこの棒はちょっとやそっとじゃ壊れねぇような物質でできてるんだ。そんなことできるのは、本来なら発明者の俺ぐらいのはずなんだが?」
「そ、そうなのか……すまん。じゃあせめてこれ以上漏れないようにしてやってくれ。それと新しい蛍光刀を至急用意してくれるよう頼む。近いうちに外国が攻めてくるかもしれない」
 そう言った藤次郎は、すでに先ほどまでの焦りようなど嘘のように落ち着き払っていた。

 藤次郎は感情のコントロールに長けていた。それは彼が攘夷志士となり、たくさんの人を斬ることで自然と身に付けた能力だ。彼は人を斬る瞬間ですらその女性のような端正な顔を決して歪めない。国の未来にとって必要だから斬る、それだけだった。
「新しい蛍光刀か……まあ、数週間待ってくれれば作れないことも無いが……」
 陽田はばつが悪そうに頭を掻いた。これまでどんな注文だっていとも簡単にこなしてきたようだ屋店主のそのような表情は、付き合いの長い藤次郎でさえ初めて見るものだった。
「藤次郎さんはよ、ちょっと働きすぎるところがあるだろう。攘夷だの開国だのっていう思想は俺にはよくわからんから口出しはしねぇけど、あまりその、なんだ……人殺しをむやみに働くのはな。
 まあ、偶然こうやって蛍光刀が切れちまったのも、きっとなにかの縁だ。これを機にしばらく攘夷志士としての活動を休憩してみろっていう仏様の……」
「おい、あんたは俺の邪魔をするのか? 俺は必要ならばあんたでも斬るぞ」
 藤次郎はそれ以上言うなという牽制を込めて、心にもないことを言った。しかし、どうやら陽田にはそれが冗談とは伝わらなかったらしい。
「えぇい、わかったわかった! 蛍光刀の注文は確かにうけたまわった! だからそんな物騒なことは言わんでくれ」
「はははっ! 冗談に決まっているだろう。さすがの俺も、あんたほど付き合いのある男を斬る度胸は無い」
 友人にすら恐れられる不幸を誤魔化すかのように、藤次郎は努めて豪快に笑った。


 藤次郎の言った「近いうち」はすぐにやってきた。
 六月、米仏軍艦が馬関(下関)海峡に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍は壊滅的な打撃を受けた。それは五月に長州藩が馬関海峡を封鎖し、幕命として航行中の米仏蘭艦船を無通告砲撃したことに対する報復だった。約一年経った一八六四年七月現在、長州藩は砲台を修復し、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行しているものの、この「下関事件」で長州藩が受けたダメージは計り知れなかった。
 ある日の昼下がり、藤次郎はふらりとようだ屋に現れた。

「おい、蛍光刀をくれ」
「悪いな藤次郎さん。まだもう少し時間がかかりそうだよ」
「その言葉はこれで一体何回目だ? 全く」
 そう言って、藤次郎は店の奥に連なった陽田の自宅に上がり込んだ。客間まで真っ直ぐにたどり着き、中央にどっかりと腰を下ろす。そしていつものように「陽田、茶をくれ」と言った。
「本当に無遠慮な人だよ、藤次郎さんは」
「そう言うな。俺とあんたの仲だろう」
 出された茶を一気に飲み干した藤次郎は、おもむろに立ち上がり納戸へと向かった。いつものことなので、陽田も慌てず彼の後を追う。

「相変わらず面白いものが多いな。全部あんたの発明品なのか?」
「まあ、そんなところだよ。それにしても毎回毎回、よく飽きもせず見ていられるね。あっそこ引き出しの中だけは見ないでおくれよ。へそくりが隠してあるんだ」
 陽田の発明品の鑑賞。これは藤次郎がようだ屋に通い詰めるようになった一年前からのルーティーンワークのようなものだった。あまりに浮世離れした発明の数々を見ることは、藤次郎の日々の楽しみの一つになっていた。
「こんな物珍しい発明に囲まれて飽きるわけがないだろう。これは確か『ケータイデンワ』だったか? 遠くに離れていても会話ができるとかなんとか。そしてこれが「ヒゲソリ」、「ウォークマン」……
 ん? おい、この金ぴかのものはなんだ? あんたの発明品にしては珍しく、ちゃんと動いているようだが」
「ああ。それは『腕時計』だな」
「ウデドケイ? これは何に使うものなんだ?」
「時を刻む機械だよ。これを見れば現在の時間が一目でわかる。ただ、定時法を使っているからこの時代では使えないがね」
「この時代?」
「ああいや、なんでもない」
「これもあんたが発明したんだよな?」
「いや、そいつは……」
 陽田は突然口ごもった。そのどことなく罪悪感を帯びたような顔を見て、藤次郎は蛍光刀を注文した時の、ばつの悪そうな陽田の顔を思い出した。何かを隠しているようで、それでいて何かを言いたげな、そんな顔だ。
訝しく思いつつも藤次郎はあえて陽田が口を開くのを待つことにした。
「親友から譲り受けたものだ。いや違うな、はっきり言えばそいつは親友の形見だ。先祖代々伝わる大事なものなんだって、そう言っていたよ」
「おいおい、あんたは時々変なことを言うな。友人の先祖って、一体何年前の話だ? さすがに信じがたい話だな」
「信じるかどうかは藤次郎さんの自由だよ。そんなことよりも……」
 陽田はあからさまな話の転換を図る。問いただしたい藤次郎だったが、続けて陽田が出した話題のせいですぐにそんなことはどうでもよくなっていた。

「藤次郎さんところの藩が馬関を封鎖しているせいで、英国やなんかとえらく険悪になってるらしいと噂になっているが」
 その言葉に、藤次郎は自分でも気付かないうちに険しい顔になっていたのだろう。「いや、だからどうというわけではないがな」と陽田からフォローが入った。自身の動揺が悟られたようで思わず恥ずかしさが込み上げる。
 雑念を振り払うように、藤次郎は力強く宣言する。
「それは確かに事実だ。しかし、そんなことで怖気づいていてどうする! 二年前薩摩藩は英国との戦争に敗れ、技術力の差を痛感したと攘夷に積極的でなくなっている。なんと馬鹿げたことだ! こちらには陽田という三百年先を行く技術者がいるというのに。俺は絶対に神国であるこの国を、外国の手から救って見せよう!」
「俺の技術なんて、なんの役にも立たないよ」
「そんなことはない! あんたの技術はどう控えめに見たって世界一だ! 実際、蛍光刀が我が藩の主要武器として日本刀に代わり採用されて以来、武力排斥派の時流が……」
「なあ、藤次郎さん」
 陽田は恐る恐る、といった様子で言った。斬られるのではないかと恐れながらも、必死に言葉を探しているらしい。その姿で、藤次郎には彼が次にどんなことを言うのかは想像できた。
「尊王攘夷は、そんなに正しいことなのかね。攘夷を決行すれば、藤次郎さんはもっと人殺しをせにゃならんし、藤次郎さん自身も死んでしまうかもしれん。そうしたらおリンちゃんが悲しむよ。子供もできたばかりだろう?
 いやなにも、藤次郎さんの考えを全て否定するんじゃないんだ。ただ、外国の文化を受け入れ、そのうえで技術を吸収して、国力を蓄える方が、よっぽど賢いやり方のように思えるんだよ。
 藤次郎さんどんなに攘夷を目指したって、結局この国は開国の道を進むかもしれない。どれだけ人を斬ったとして、全て無意味になるかもしれないんだ」
「わははははっ! あんたはよっぽど、俺に人殺しをしてほしくないらしい。だからいつまでたっても蛍光刀を寄越さないんだろう。さては作り始めてすらないな?」
「はは……全てお見通しだね」
 陽田は脱力したように乾いた笑いを漏らした。よほど怖かったのだろう。藤次郎の身を案じて怯えながらも正論をぶつけてくるような馬鹿は、この男が初めてだった。
 そう思うと、藤次郎は急に可笑しくなってきた。人を斬る時ですら冷静な藤次郎が、この陽田の前でだけはなぜか心を乱される。
 そうだ、陽田は何も間違ったことなど言っていない。
 攘夷がそんなに正しいのかと聞かれたら、藤次郎にはわからないとしか答えられない。多くの人が犠牲になる武力排斥は、合理的に考えれば間違っているのかもしれない。
 それでも……
「尊王攘夷が感情的で間違った考えなのかなんて、俺にはわからん。だけど陽田、俺はただ、この国を守りたい。この信念だけは曲げられないんだ」
 藤次郎の意志は固かった。陽田もそのことを理解したのか、しばらくの沈黙の後ただ一言こう言った。
「ならもう、何も言わんよ」

 結局藤次郎が蛍光刀を受け取ることは無かった。
「そんな光るだけの棒で技術力をひけらかすより、日本刀で敵を斬りまくって仲間を守る方が藤次郎さんらしいよ」
 陽田はそう言って笑った。彼がそのようなことを言うのは正直意外だったが、なにやら吹っ切れたらしい良い表情にも見えた。
「ああ、そうだ! 最後に一つ。会うのも最後になるかもしれないから、聞いておきたかったんだ」
 帰り際に藤次郎が振り返り言った。
「あんたの下の名。出会ってからずいぶん経つのに、まだ聞いてなかったろ」
「名前? それはあれだよ、ほら、なんだったかな」
「名を名乗るのに何を躊躇うことがある?」
「いや、そのあれだ、ええと……そうだ! 俺の名前は……」
 陽田が名乗ると、藤次郎はくくっと小さく笑った。
「怒羅衛門? 変わった名だな」
 そう言って藤次郎は陽田に背を向けて歩き出した。
一八六四年七月二四日。これから約二週間後、「幕末の返り血侍」が誕生した日と語り継がれる、あの「四国艦隊下関砲撃事件」が起こる。


 むせ返りそうなほど血生臭いにおい。藤次郎はたくさんの死体に囲まれて倒れていた。さっきまで生きていた仲間たちは、一体何を思い死んでいったのだろう。
 陽田の言った通り、光るだけで実際の戦闘では対して役には立たなかった蛍光刀。それを滑稽にも必死に振るう仲間の隣で、藤次郎は日本刀で戦い続けた。敵の砲撃に次々と倒れる仲間を守ろうと、何人もの人を斬った。
 気付けば、体中が返り血で真っ赤になっていた。
 それなのにこのザマだ。攘夷志士たちの剣は、外国の技術力を前にことごとく跳ね返された。攘夷など到底不可能だと突き付けられてしまった。
「全く、まるでスターウォーズのようだったな」
「……あんたは、たまに変なことを、言う。それは、一体なんのことだ?」
「分からないならいいよ」
「どうしてここに、来た?」
「もう喋るな。とりあえず安全なところに運ぼう」
 そう言って陽田は藤次郎の身体を支え歩き出した。戦争はほぼ終結しているため、現在大きな危険はない。
「なあ、陽田……どうして、役に立たないと、分かっていて……蛍光刀なんてもの、作ったんだ?」
「……一つ例え話をしよう」
 陽田はそう言って、突拍子もないことを話し始めた。だけど藤次郎にはその話が、不思議とあっさり受け入れられた。
「俺がもし未来の科学者だったとして、タイムマシンを発明したとしよう。タイムマシンというのは、自由に過去や未来に行ける乗り物のことだ。
 俺には親友がいた。彼は『幕末の返り血侍』と呼ばれた大量殺人鬼の子孫だった。そのせいで、周囲からの目は冷たかった。だけど彼は言い張ったんだ。『幕末の返り血侍は殺人鬼なんかじゃない。自分の信念を貫いただけだ』と。
 結局彼は若くして頭が狂って死んじまった。俺はそれを返り血侍のせいにした。そいつが人殺しなんかしなけりゃ、彼が死ぬことはなかった、とな。だから過去に行って返り血侍に人斬りを止めさせようと思った。
 俺は過去の世界で蛍光刀を普及させた。それがなければ攘夷志士として活動ができないというほどに。もちろんそれは返り血侍の手にも渡った。実はその時、俺はそいつの蛍光刀にだけ細工をしておいたんだ。そいつの蛍光刀の刀身にひびをいれて破損しやすくなるように、な。
 しかしてそいつの蛍光刀は切れた。俺はこれでやっと、親友が救えると思った。だけどそいつは諦めてはくれなかった。俺は蛍光刀は壊せても、そいつの信念は壊すことができなかった」
「敵を斬って、仲間を守れと言ったのは、あんただろう」
「藤次郎さんはのび太というよりジャイアンだったな」
 陽田のその謎の言葉を聞いたのを最後に、藤次郎の意識は途絶えた。


 目が覚めると陽田の家の客間にいた。陽田を呼んだが、いつまでたっても茶は出てこない。直感で陽田はもう元の時代に帰ったのだろうと思った。
 納屋に行ってみると、そこにあったはずの陽田の発明品は全て消えていた。「ケータイデンワ」も、「ヒゲソリ」も、「ウォークマン」も全部。
 部屋を見渡すとタンスの引き出しが一段だけ開いていることに気が付いた。陽田が以前へそくりを隠しているから開けるな、と言っていたあの引き出しだった。陽田の住む未来への抜け道でもあるのではないかと期待して中を覗いたが、残念ながら見当たらなかった。そこにはただ、金ぴかに光る陽田の忘れ物があっただけだった。
 藤次郎はおもむろにその忘れ物を左の手首に嵌める。いつかこれを手にする子孫のため、恥じない生き方をしようと誓った。

            ◆

 その後のことは我々の知る通りだ。
 彼は「四国艦隊下関砲撃事件」後もたくさんの人を斬り続けたが、結局日本が進んだのは彼が望んだのとは違う道だった。日本の将来のためと信じてその身を賭した男はいつしか、「幕末の返り血侍」と呼ばれるようになっていた。
 彼は決して英雄などではない。しかしまた、彼はただの殺人鬼などでもなかった。
 本当の彼は誰よりも不器用に、そして誰よりも深く日本の未来を案じ続けた男。言うなれば「幕末のおせっかい侍」とでも呼ぶべき男なのだと、最後に記しておく。


※あんな夢やこんな夢をいっぱい詰め込んだこの物語、信じるかどうかはあなた次第です。

第二十七回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


フラグメンツ・ライト

 2095年、地球は二つの変革に見舞われた。
 磁場の乱れによる大規模な地殻変動と、それによって生じた国々の対立による第三次世界大戦だ。
 その日、世界の歴史は大きく変わった――らしい。
 そんなことは、ぼくが生まれる前に起こった出来事に過ぎない。歴史は大きく変わったと言うけれど、3015年になった今もまだ人間はまだしぶとく地球上で生きているし、世界にはまだ国が数多く残っている。今を生きるぼくたちには、関係のない話だ。歴史が変わったことを認識できるのは、変わる前を知っている人たちだけで、変わった後に生まれたぼくたちにはそんなことは全く実感できないし、そんなことを気にしている暇も無い。前のほうがよかった、なんて言っている場合じゃないのだ。今を生きなきゃいけないんだから。
 なんてことをつらつらと、とりとめも無く考えていると、何かがこちらに飛んできて、頭にコツンと当たった。
 緑色の小さな板状の物体だ。旧時代にはいろいろなところでパーツとして使われていた基盤というものらしい。今じゃほとんど見かけなくなったものだけれど、ぼくたちが探しているものでもある。
 もちろん基板が勝手に飛んでくるわけもないので、誰かが投げたに決まっている。顔を上げてみると、少し離れたところに積み重なったがれきの隙間から、少女がじっとこっちをにらんでいた。黒いリボンで二つに縛られたブロンドの髪が、彼女の怒りを示すようにちょっと逆立って見える。
「ユウタ。何サボってんの? 早く終わらせないと帰れなくなっちゃうよ」
「ご、ごめんよエリス。ちょっと考え事してたんだ」
「ユウタはいつも考え事してる! あ、あたしがあんまり見つけられなかったときは、仕方ないから許してあげるけど、今日はいっぱいあるんだからちゃんとしてよね」
「ごめんって」
 彼女の怒りに身のすくむ思いを感じて、ぼくは慌てて目の前の基板の山に手を伸ばした。彼女をあんまり怒らせると、いろいろと後が大変なのだ。それに今日は珍しく、エリスもぼくも忙しく働けているのだ。稼ぎ時のチャンスを棒に振るのはあまりにももったいなかった。
 いつも行くところよりも少し遠出して、旧電気街アキハバラまで来たぼくたちは、想像していた以上のお宝に恵まれててんてこ舞いになっていたのだ。いつもは割と暇してるぼくも、今日は一つでも多く基板を拾うことが求められている。
 海に面しているここは、年中潮風に晒されることもあって、基板が錆び付いていたり、劣化していたりするもののほうが多く見つかることで有名だ。ぼくたちのように基盤を探す人たちの間では、腐った鉱山なんて呼ばれていたりする。そんなだから、初めてここに来たぼくとエリスが、こんなに綺麗な宝の山を見つけられたことは、幸運だった。それ以外にも、エリスという存在がぼくたちのチームを確実に潤わせてくれているのも確かである。
「ほら、今日はまだまだいーっぱい見つかったんだから、キリキリ分別してよね」
 山から出てきたエリスが、両手いっぱいに持った大小様々な基板を、どさどさとぼくの前に積んだ。
「かなり、あるな」
 帰れなくなっちゃうよ、と言ったばかりなのに追加でこんなに持ってきてどうするのだ、という抗議の意味を込める。だがそれは彼女には届かなかったらしい。
「うん。ユウタが言ってたみたいに、ちょっと探せばいっぱい見つかったよ」
 二つの意味でがっくりと膝をつきたくなりながら、早速手をのばす。
 それはエリス、君だからだよと言いたくなったが、それを飲み込む。代わりに周りを顎で示しながら彼女に言う。
「その言葉は、絶対他の人に言ったらダメだからね」
 現在、アキハバラの街は居住制限区域に指定されていて、ぼくたちのような探索者や通り道として使う人はいても、生活をしている人はほとんどいない。というのも、先の地殻変動によってここは壊滅的な被害を受け、半ば放棄された廃墟になっているからだ。多くの建物が倒壊したまま残されているため、崩れかけたビルや、がれきの山になった場所などがあちこちに存在する。いつ倒れるのかわからないような危険なビルが多いため、結構ここにいるのは命がけだ。しかも基板はこうした崩れた建物の隙間から見つけてこなければいけないのである。
 ぼくが彼女に示した先にも、同じように基板を探す人が数人、うろうろと建物の間を下を向いて歩き回っていた。電気街の名前を聞いて、わざわざ遠くから探しに来たのか、大きな荷物を車に積んでいる人もいる。だがぼくたちのように忙しく基板を集めているというよりは、困ったように途方にくれている人のほうが多いのが、印象的だった。目に付くところの基板は既にあらかた回収が済んでしまっていて、残っているのはほとんど金にならないような、錆び付いてボロボロのものばかりなのだ。
 ぼくたちがここで忙しくしているのは、ひとえにエリスのおかげに他ならない。でも肝心のエリスは、きょとんとした表情で首を傾げた。
「どうして?」
「ライバルに取られるぐらいなら、ぼくたちが見つけて収入にしたいだろ」
 真実をぼかして伝えると、エリスは素直にこくんと頷いた。
「うん。見つけたもの勝ちだもんね」
「そうだね」
 ぼくも曖昧に同意する。彼女は知らないのだ。ぼくたちが今になってもこれだけ数多くの基板が集められているのは、奇跡に近い必然なのだということを。
 なんとなくばつが悪くなって、ぼくは目の前の基板に手を伸ばした。
「とりあえず、帰るまでにこれを全部分類しておくから、エリスはもう少し潜ってきていいよ」
「うん。わかった。サボってたら帰れないんだからね!」
 ぴょんぴょんと、足場の悪い道を飛び跳ねるようにして再びがれきの山のほうに戻っていくエリスの背中を目で追いながら、ぼくは通算何度目ともしれないため息をついた。やっぱり彼女にはいろんな意味で頭が上がりそうにない。
 手に持った基板を一つ一つじっくり眺めては、錆の有無や劣化の具合を調べる。もともと壊れている基板を回収しているだけだから、それそのものの状態なんて本当はあんまり関係がないのだけど、綺麗なものと劣化したものでは多少なりとも買い取り価格が変わってくる。分別して綺麗なものをたくさん納品したほうが、結果的には身入りが多くなるのだ。とはいえこれは、回収作業を二人でやってるぼくたちだからこそできるやり方であって、普通の探索者はこれをやらない。分別する暇があったら、一つでも多く回収したほうが良いからだ。
 エリスが集めてきた基板をだいたい二種類に分け終わると、今度は持ってきたリュックにそれをしまっていく。一つがぼくので、もう一つがエリスのだ。今日はわりと綺麗な基板が多かったから、こっちをぼくが背負って帰ることになる。
 彼女が探して、ぼくが分別する。これがぼくたちチームのやり方だ。本当なら女の子ががれきの山に潜って探しに行くのは危ないし、重いがれきに塞がれている場所とかもあるから、分担を逆にしたほうがいいはずだった。だけどエリスは身体が小さいのを上手く利用して、ぼくが入れないような隙間にもどんどん潜って行って、基板を見つけてくる。むしろ、少し身体が大きくなってきたぼくが入れるようなところは既に、他の大人が探した後のことが多いから、彼女のほうがたくさん見つけてくることが多かった。結果的に探索の役に立たないぼくは、集めてきた基板を分類するか、それを持って帰るときの荷物運びぐらいにしかなれなかったのだ。
 役割分担、適材適所と言えば聞こえは良いのかもしれないけれど、どう見たってぼくはほとんど彼女のヒモだった。まぁそれで現状、何も問題が起きていないのだから悪いことではないのだろう。
 彼女が集めてきた基板の分別がだいたい済んだころ、上空にあったサッカーボール大の大きな太陽は、もう水平線にその身を沈めようとしていた。真っ赤な夕日がぼくを照らす。アキハバラの壊れた街も赤く色づいていて、火の海になってしまった街を彷彿させる。気がつけばぼく以外の人の影はもう見えなくなっていて、まるで燃えさかる街に取り残されたようで少し恐ろしくなった。
 それから少しして、壊れかけた建物の陰からぴょこんと金色の頭が飛び出した。
「ユウタ! ユウタ! なんかすごいのみつけた!」
 そんなにすごいものがあったのか、彼女の声や二つの尻尾が弾んでいる。
「大きな基板でも見つけたの?」
 ぼくはさっきまで感じていた恐怖を隠すように、基板を分別するふりをしながら尋ねた。不思議ともう怖くはなかった。
「ちがうの。もっとすごいやつ! よくわかんないけど、すごいの!」
「よくわかんないのにすごいのか。ぼくにはさっぱりわかんないよ」
 身振り手振りを交えながら説明しているのに、さっぱり要領を得ない彼女の説明力のなさに苦笑いしながら、ぼくは彼女のところまでリュックを持って行く。もう準備は終わっていたから、彼女の言うすごいのを見たらそのまま帰ろうと思ったのだ。
 いままでにもエリスは何度もこうして、何か見つけてはぼくに報告してきたし、手で持って来られる本などはそのまま持ってくることもあった。ぼくが手持ち無沙汰で退屈しないように、という彼女なりの配慮であることをぼくは知っている。だって、基板があんまり見つからなかったときに限って、少し申し訳なさそうな表情をしながらも嬉しそうに持ってくるんだもの。おかげで暇つぶしに、いつ使うのかも分からない、そもそも使う機会が来るのかどうかも不明な謎知識が増える結果になった。
「あれ? すごいのは持ってきてないのか?」
 エリスのところまで行ったぼくは、彼女が何も持っていないことに気がついた。彼女が立っていた建物の裏には、がれきに埋もれて、彼女ならスルリと入れそうなぐらい隙間があった。ぼくでぎりぎりか、あるいは無理かもしれない。おそらくエリスはここから出てきたのだろう。どんな危険があるのかもわからないのに、どんどんとこういうところに入っていける彼女にはいつも驚かされてばかりだ。
「すごいのいっぱいあったから持って来れなかった。ユウタも一緒に来て」
 そう言って再び隙間に入っていこうとするエリスを、ぼくは慌てて引き留めた。
「来てって言われても、ぼくはそんな隙間は入れないよ!」
「大丈夫。狭いのはここだけだから。奥のほうに、広い部屋があるの」
 行きたくてうずうずしているらしいエリスが、尻込みするぼくを不満そうな表情でみつめる。両頬が少しふくらんでいるところが彼女らしい。
「来てくれないの?」
「そう言われてもねぇ……」
 ぼくは持ってきた荷物をがれきの間において、隙間に半身を突っ込んでみる。正直、かなりぎりぎりだ。入れるには入れるけど、ささくれだった表面が身体に当たって痛いし、この先これ以上隙間が細くなるようなら詰まる可能性もある。こんな場所じゃ方向転換も出来そうにないから、進めなくなったら終わりだ。
「よーし、ユウタ。いっけー」
 不意に後ろからエリスが押してきて、ぼくの身体は完全に隙間へと押し込まれる形になった。
「ちょっと、エリス! 押さないでよ!」
 振り替えられないから仕方なく、前に向かって叫ぶ。わんわんと狭い隙間に大きな声が反響した。
「大丈夫、大丈夫。道は一本だから、このまま行けばつくの」背中越しにエリスの声が聞こえて、少し安心する。「そんなに遠くもないから、すぐだよ」
 彼女の小さな手がぼくの背中を押して、どんどん先に進むように仕向けてくる。
「ぼくが詰まったらちゃんと助けてよ?」
「はーい」
 エリスの楽しげな返事が、どうにも不安だった。
 仕方なく手探りで慎重に壁の様子を確かめながら、ぼくは先に進む。最初のころは夕日がどこかの隙間から差し込んでいて、かろうじて前が見えるぐらいの明るさはあったのだけど、それもすぐになくなってしまった。今はぼくたちが帰るときに道を照らすのに使う、小さなポケットライトの光が全てだった。アキハバラは磁場の乱れが強いのか、その光も消えそうなぐらい揺らいでいる。
 ただ、こういう大人はあんまり入らない場所には、まだ基板がいくつも落ちているというのはわかった。がれきの隙間を覗けば、まだ届きそうな範囲に基板が見えたところがあちこちにあった。エリスの手の届く範囲よりは少し離れた場所だったから、つまりはそういうことなのだろう。
「ユウタ、そろそろつく」
 時間で言えば20分ぐらい、でも距離で言えば1キロも行かないぐらいで、再びエリスが声をかけてきた。それまではぼくの「怖いよう」というぼやきに、楽しそうに笑っていた。こんな狭いところで楽しそうにできる彼女の神経が、ぼくには全くわからない。
「えー、なにも無いけど」
 彼女の言葉に従って、ぼくは周りを見渡してみるが、すごそうなものは何も見つからない。
「あるよー。鉄のドアが左のほうにあるはずなの」
「鉄のドア? そんなものが……あった」
 あるわけがないと思っていたから気がつかなかっただけで、揺らぐ明かりでよくよく照らしてみれば、そこには確かにドアがあった。がれきがこちら側に落ちてきた衝撃で多少歪んでしまっているが、少しぐらいなら動かせるようだ。
「そこ押して」
「うん」
 押し開きになっていたドアを開けると、そこはどうやら倉庫のような場所だった。驚いたことに、ここに来るまでの道と言えないような隙間とは違って、中身は散乱しているものの、崩壊は免れたようだ。想像できるものよりもずっと綺麗なここには、外ではほとんど見かけなくなった昔の電化製品や、何かの部品がたくさん置かれていた。この一部屋だけで、かなりの量の基板が手に入ることだろう。
「なんだ、ここ」
「ね? 広いでしょ」
 ぼくの後から倉庫に入ってきたエリスが、にこにこと笑顔を浮かべて言った。驚いてほとんど言葉が出ない僕を見て喜んでいるらしい。
「それでね、これがすごいの」
 そう言ってエリスは、散乱する電気製品には目もくれず、部屋の端のほうに放置された箱に近づいていった。
「すごいのって、この部屋のことじゃないわけ?」
「ちがうよ。これのことだよ!」
 箱の中から彼女が取りだしたのは、細長い白い棒だった。彼女が両手をいっぱいに広げた分ぐらいの長さはあり、見かけによらず軽くてすぐに壊れてしまいそうだ。爪の先でこんこんと弾けば、およそ中が空洞であることが察せられた。
「ね? なんかよくわかんないけど、すごいでしょ?」
「うーん……」
 エリスがこれを取り出した箱の中には、同じような棒が何本も入っていたが、地震のせいか既に壊れてしまって半分になっていたり、粉々になってしまったりしているものが大半だった。ぼくは壊れた破片を箱の中から取りだして、確認する。おそらく、これはガラスだ。薄い筒状になったガラスの管が、もともとの形だったのだろう。かなり繊細に扱わないと、このように割れてしまうのかもしれない。
「ユウタはこれが何なのか知ってる?」
「わるいけど、ぼくが見た本には載ってなかったなあ」
「えー」
 エリスが不満そうにぶーたれた。一体これの何が、彼女の琴線に触れたというのか。
「ユウタ、役にたたないじゃん」
「いや、でもこれの入ってたらしい箱に書いてあるのは、何となくわかるよ」
 エリスに馬鹿にされたままでいるのは嫌だったので、ぼくはちょうどそこにあった棒と同じサイズの筒状の箱を指さした。おそらくこの箱に一本ずつ入れて管理して他のだろう。中身が粉々になったために、箱だけになったものが落ちていた。
「ここの真ん中にデカデカと書かれた”Panasonica(パナソニカ)”は今の世界的大企業”Panasonys(パナソニーズ)”が出来る前の、昔の会社の名前だったはず。確か、シロモノカデンとかいうので、一世を風靡したらしいよ」
 ぼくが本から手に入れた聞きかじりの知識をひけらかすも、エリスはちょこんと首を傾げた。彼女のブロンドの二つの尻尾が目の端で揺れる。
「シロモノカデンって、なに?」
「レイゾウコとか、センタッキとかそういうものをまとめていう言い方だって」
「ふうん、変なの」
 エリスが興味を無くしたように、そっぽを向いた。元々そういう話に興味が無い彼女には、難しすぎる話だったかもしれない。ある程度は知っているぼくも、これ以上のことはよく分かっていなかったから、突っ込まれなくて良かったとも思う。旧時代はシロモノカデンが世の中には溢れていたのだろうか。どんなものなのかはさっぱりわからないけれど、ちょっとだけ不思議だと思った。
「でも結局、これがなんなのかはわかんないんでしょ?」
「……うん」
 エリスの言葉に、ぼくは頷くしかなかった。勢いだけじゃさすがに誤魔化せなかったようだ。
 細長い白い棒について書かれていた本は、あいにくと読んだ記憶がない。案外、昔の人にとって身近だったものとかは記述に残らないものだから、これもそういった類いのものかもしれない。この破片の量からして、ここにはかなりたくさんの棒が保管されていたみたいだったからだ。この一本が残っていたのはかなり偶然だろう。
「おじいだったら、知ってるかな?」
「たぶんね」
 おじいというのは、ぼくたちがいつも基板を集めて売っているおじいさんのことだ。変革の起こる前から生きていた人で、ずっとここら辺で暮らしていたらしい。ぼくたち二人が探索者の中ではまだまだ若いからと、基板を買い取る以外にも、いろいろなことを教えてくれる物知りな人だ。とっても頼りになるしいろいろ助けてもらっているから、ぼくとエリスは親しみを込めておじいと呼んでいる。なんていうのか、両親がいないぼくたちのおじいちゃんのような存在なのだ。
「じゃあ、持ってかえろう」
 エリスが笑顔で、それを抱き抱えるようにして持つ。少しかさばるサイズではあるけれど、重さはあまりないので持って帰るのに不都合はないため、反対する理由は何もない。とはいえ、電気製品の山を目の前にして、価値のあるのかどうかも分からない物だけを持って帰るというのもおかしな話だ。
「じゃあ、戻ろ。早く帰らないと、どんどん遅くなっちゃうよ」
 ドアを開けた格好のまま、エリスがぼくを呼ぶ。彼女の言うことも一理ある。これ以上の長居は、時間の関係でかなり厳しくなってくる。ぼくは後ろを惜しみつつ、ドアをくぐる。
「エリス、あそこってまた行けるかな?」
 身体ギリギリの隙間を、今度は外を目指して抜けた後、せめてもの慰めにと尋ねると、エリスはきょとんとした様子で首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって、きみも見たでしょ。倉庫に放置されてた電気製品の山を」
 するとエリスは、納得がいったとでも言うように目を大きく見開いて、ぼくを見た。
「ユウタがあっちを見てたのは、でんきせーひんの基板が欲しかったからなの?」
「うん。あんなにあれば、かなり稼げるだろ」
 その一言に、彼女が少し顔を曇らせた。
「残念だけど、あそこにあるのは全部からっぽだよ。エリスが来たときにはもうなくなってたもん」
「からっぽ?」
「うん。エリスぜーんぶ調べたけど、一個も見つかんなかったもん。誰か先に来て、持ってっちゃったみたい」
「……もうちょっと早く、教えて欲しかったな」
 ぼくは基板のたくさん入ったほうのリュックを背負いながら落胆のため息をついた。心なしか、リュックもさっきより重たく感じられる。一攫千金の夢はそう簡単に叶うものではないようだ。
「大丈夫だよ。今日はいっぱいエリスが見つけたし、明日も探すもん」
 倉庫で見つけたものを大事そうに抱えて、笑顔を浮かべたエリスが元気よく先導して歩きだした。ぼくにはちょっと、彼女の背中がまぶしい。

   *

「ほぉ~。これは蛍光灯じゃな」
 エリスが渡した白い棒を見たおじいは、首ぐらいまで伸びた白い髭を撫でながら、息を吐き出すように言った。
 住処に戻ってきたとき、すでに辺りはすっかり暗くなってしまっていた。時間もいつもよりも大分遅くなってしまっているのだろう。ぼくたちが帰ってくるまで、待っていてくれたおじいは、大量の基板を見ていっしょになって喜んでくれた。
 そして今は、まるで昔を懐かしむように、目をじっと細めて蛍光灯とやらを観察している。どうやらおじいも久しぶりに見るものだったらしい。
「けーこーとー?」
 目を丸くしたエリスが、舌足らずな口調で呟く。想像していたよりもずっと簡単に名前が分かってしまったことに、むしろ驚いたらしい。ちょっと口が開けっ放しになっている。
「そうじゃ。良く見つけてきたのぉ」
 おじいがエリスの頭を撫でる。嬉しそうに撫でられたあと、エリスがこっそりとぼくに向かってピースをしてきた。こっちを向いた顔は、どうだとばかりににやけている。それはぼくに対してやってくるのは、役に立たなかったことへの当てつけか。蛍光灯とやらを見つけたことは、そこまで自慢げにすることでもないだろうに。
「蛍光灯は昔は極一般的に使われていた照明器具でな。もしかすると、今も使われている電球よりもいろんなところで使われていたのかもしれんな。何しろ消費電力が少なく、長持ちするものだったからの」
「じゃあ、なんで今はほとんど見かけないのかな?」
 昔はかなりたくさん使われていたというのなら、今だってあってもおかしくはないと思うのだ。確かに旧時代に使われていたものの多くが、変革後には正常に動作しなくなってしまったようだが、それでも一部ではまだ騙し騙し使われているというのが現状である。現に僕らが使っている電球を使ったライトだって、昔はもっと煌々と明るく光るものだったらしい。落ち着きがなくゆらゆらと点滅するのは、今だからこそだ。
「そりゃもちろん、磁場が大幅に乱れたせいじゃな」
 おじいは、ぼくの疑問にも簡単に答えを出した。本当に、おじいの見識の深さには驚かされてばかりのぼくたちだ。
「もともと蛍光灯はな、電子と呼ばれるものをこの管の中を飛ばして光っているものなのじゃ。電球が、電気を通すフィラメントが発光するのに対して、蛍光灯は通るんじゃなくて飛んでいく仕組みなのだ。電子が飛んでいくときに、この管の内側に塗られた光を出す蛍光物質が発光するようになっている。だから、磁場の乱れによってうまく電子が飛ばなくなってしまったから、蛍光灯は使えなくなってしまったというわけじゃ」
「でんし? けーこーぶっしつ?」
 専門的な用語が出てきた途端に、ちんぷんかんぷんになったエリスは、困ったような表情でぼくとおじいを交互に見上げた。
「えーと、エリス。難しかったら別に先に外に出ててもいいよ」
 ぼくの言葉にこくりと頷いて、エリスは一人で外に出ていく。おじいの小さな小屋は三人で入ると結構狭いから、ゆっくり話しを聞くにはどうにも適さない環境なのだ。特にそういうものにあんまり興味がないエリスには、苦痛だろう。エリスは白い棒の名前が分かっただけで満足したようだ。もうそろそろ帰る時間だろう。
「オーロラでてるよ!」
 外に出たエリスの声が、小屋の中まで聞こえてくる。
「オーロラか。昔はこんなところじゃみえなかったものじゃが」
 おじいは窓に近づいていくと、ガラス越しにそっと空を見上げた。その様子は楽しげでもあり、同時に昔を思い出しているのか寂しそうでもあった。
 以前おじいに聞いた話では、旧時代にはオーロラというのは北極にほど近い場所など、限られた場所でしか見ることができなかったものらしい。それもかなり条件が整わないときれいには見えない、割と希な現象だったということだ。だけど変革が起こったあと、オーロラは地球上のどこにいても、頻繁に見ることのできるそこまで珍しくない現象にまで成り下がっている。これもまた、磁場の変化によるものらしい。太陽からのエネルギーも変質しているということも、原因にあげられるらしい。運が良ければ、昼間にもオーロラを見ることができるぐらいだ。
「ときにユウタよ。おぬしは、この蛍光灯が光るところを見てみたいとは思わぬか?」
 空を見上げていたおじいが、ぽつりと言う。
「磁場のせいで、使えないんじゃないの?」
「蛍光灯をはめて使う土台の部分さえ手に入れば、少しぐらいつけることはできるはずじゃ。丁度、ゼロの夜も近づいておるしの」
 ぼくは一も二もなく頷いた。エリスもきっと賛成するはず。彼女は難しいことは苦手だが、ぼくが何かをやっているのを見るのは好きなのだ。
 再び点灯させるためには土台を探してこなくてはいけないようだが、旧時代ではかなり普及していたもののようだし、壊れていない蛍光灯を見つけるよりはずっと簡単であることだろう。
「そうか。いいか、ゼロは明後日の夜に起こる。それまでに集めてこないと、次の機会はおそらく一ヶ月後になるじゃろう」
 おじいの小さな目が眼鏡越しにぼくをじっと見つめてくる。そこに何かすがるような色を見て、ぼくは思わず唾を呑んだ。
「……大丈夫。ぼくたちが絶対見つけてくるよ」

   *

 それから二日後。
 ぼくとエリスは、なんとかおじいが教えてくれた必要なものを、がれきの山のなかから発見してきた。スターター方式がどうとか、インバータ方式がこうとか、おじいは細かい知識もいろいろくれたが、そんなことよりもまずは、今もまだ壊れていないで動くものを見つけるほうが大変だった。蛍光灯を設置する土台となる部分にも基板は使われていたようで、ぼくが歩き回った範囲で見つけてきたものの殆どは基板が抜き取られてしまっていた。まだ残っているものも多少はあったが、そういうものは全て基板がかなりさび付いてしまっていて、正常に動作するという保証が全くなかった。
 結局、ぼくが外で土台とバッテリーをつなぐケーブルを探している間に、エリスが崩壊した建物に潜って、まだ使える土台を見つけてくるという分担になった。蛍光灯を再びつけてみるというアイデアをエリスに話したあと、彼女はいつも以上にやる気になって、いろいろな場所を探し始めた。手近な場所で見つかるのが一番良かったのだが、最後は再びアキハバラに行き、そこでようやくまだ使える土台は見つけられた。蛍光灯も一本しかないのは心許なかったため、まだ使えそうなものをかき集め、なんとか三本確保することに成功している。そのうちの一本でも点けば御の字である。
「ユウタはあんまり役に立たなかった。エリスがけーこーとーも土台も見つけたんだから、エリスが明かりをつける係でいいよね」
「セットしてるのはぼくなんだけど」
「いいのいいの」
「まあそれぐらい別にいいけどさ」
 いつもよりも早い時間におじいのところに戻ってきたぼくたちは、集めてきたものを順番につないでいく。電気を流す大元のバッテリーは、おじいがいつも乗っているバイクのものを使わせてくれることになっていた。おじいによれば昔は電線というものが町中に張り巡らされていて、どこの家でも電気が使えるようになっていたらしい。だけど磁場の乱れは、その電線を通る電気をも乱してしまうことが分かってから、それらは急速に無くなっていったんだそうだ。もちろん、家においてあるほとんどの電気を使う物が正常に動作しなくなったということもある。
 今夜、蛍光灯がつけられるのは丁度ゼロの夜と重なるからだ。ゼロの夜とは新月の日のことで月が地平線に沈んだ時間から数時間程度だけ、磁場の乱れが殆どなくなる現象のことを指す。そのときだけは、昔に使われていたような全ての電気を使ったものが、正しく動く。なんでも磁場の乱れが収まって、丁度昔と同じぐらいの水準で安定するからなのだそうだ。ぼくたちが急いでいたのも、この日が近かったからである。
 ちなみにゼロの夜が近づいてくると、オーロラの動きも活発になるという特徴もある。エリスが先日見たオーロラもそれの影響であることが想像された。
「ほう。だいたい準備は整ったようじゃな」
 なかなか慣れない作業に手間取ってしまい、ゼロの夜が始まる少し前にやっと準備を終えることができた。これでもうあとはスイッチを入れるだけだ。押す係に立候補したエリスは、もうスイッチの前でスタンバイしている。
「まだー?」
「ちょっと待機するのは早すぎると思うよ」
 スイッチの前でうずうずしているエリスを窘めながら、ぼくも自分が興奮しているのを感じていた。
 変革の前と後では、人々の生活はおよそ180°変わってしまったという。以前は当たり前に使われていた電気製品というものが、今はほとんど使えなくなった。人間の暮らしは、昔を知っている人からすれば不便になったらしい。だけど、そんなことは変革のあとに生まれたぼくたちには知りようもない事実だ。準備した蛍光灯を感慨深げに見つめるおじいと、わくわくしながら見るぼくたちには、見えないけれど大きな隔たりがあるのだろう。
 おじいが時折話してくれる昔話では、ここらへん一帯にはかなり栄えていた都市があったらしい。夜になっても消えることのなく電気の照明が闇を切り開き、一日中暮れることのない不夜城と化していたんだとか。今、空を見上げてもそこに輝くのは星の光ばかりで、それ以外の明かりなど、本当に僅かしか見えない。闇は深く、粘りっこくぼくらにからみついてくる。ぼくにはどっちのほうがいいのかなんて、わかるわけがなかった。だって今しか知らないのだから。エリスだって同じだろう。散りばめられた星を指さし、屈託なく笑ってみせる彼女が、昼間のように明るい夜を好むとは思えない。
 でも、おじいは? それを尋ねることはぼくにできそうになかった。
「そろそろ時間じゃな」
「……ああ、うん」
 静かに風に乗って届いたおじいの呟きに、ぼくは現実へと引き戻される。今は答えの出ないことをあれこれと考えている場合じゃない。蛍光灯に集中するべき時だ。
 気持ちを切り替えて、あらかじめ用意しておいたコンパスを、ぼくたち三人のちょうど真ん中におく。磁場の乱れの影響を諸に受ける旧時代製のコンパスだ。北を指すべき赤い針は、まるで進むべき道を失ってしまったかのように、ふらふらと動いて落ち着かない。
「…………」
 スイッチの前に座ったエリスが、真剣な眼差しでコンパスを見つめる。舞い降りた静寂が、否応なしにぼくの心臓の高鳴りを伝えてくる。他の二人にも聞こえているんじゃないかと心配になってきたころ、コンパスの動きが変わった。
 ぐるぐると回るばかりで、何も示さなかったところから一転。大きくぶれ動きながらも、赤い針は一点に向けて静かに収束を始める。それは隠されていた答えが、磁場の乱れが収まることによって今、姿を現そうとしているようにも思えた。
 そうして、ついには針がピタリと静止する。
「今だ!」「押すよ!」
 瞬間、ぼくとエリスの声が重なる。視界の端で、おじいもすこし身を乗り出すのが分かった。エリスの小さな手によって、パチリとスイッチが弾かれる。
 初め、ぼくは失敗したと思った。エリスがスイッチを入れたはずなのに、何も起こらなかったからだ。
 まずはちゃんとスイッチが入っているかを疑い、それから設置したケーブルが正しく繋がれているかを確かめる。エリスが泣きそうなようすで、機材を確かめるぼくと蛍光灯を見つめるのがわかった。目視した限り、おかしなところは見当たらない。これはもう蛍光灯がおかしいのか、あるいはそもそもあり合わせの部品だけで蛍光灯を点けるのは無理だったのか、それらのうちのどちらかだ。
 ぼくはそっと、予備に集めてあった蛍光灯に手を伸ばす。
「焦るでない」
 それを遮ったのは、おじいの静かな一言だった。ぽつりと呟くように言ったはずの言葉が、ぼくたちの身をピタリと止めさせる。エリスもぼくも、おじいの方に目を向けた。
「古い部品じゃ。直ぐに点くとは思うな」
 おじいが蛍光灯をじっと見つめたまま、諭すように言った。
「耳を、すましてみなさい」
 ぼくたちは揃って、静かに蛍光灯に注意を傾ける。
「あっ!」
 エリスが小さく声を上げ、そこでようやくぼくも気がついた。ジーという電気の流れるような音が、蛍光灯からしてきていた。
 そしてとうとうぼくたちが見つめる前で、蛍光灯が点滅を始める。
 何度か点滅を繰り返した後、不意に夜闇を切り裂くように光が灯り、ぼくとエリスが顔を軽く手で覆った。眩しいのに目が慣れて手を外すと、想像していたものよりもずっと強い光が三人の顔を照らし出していた。いつもぼくたちが明かりとして使っていた小型のライトと比べれば、太陽と月かと思うぐらいに蛍光灯は煌々と光を放つ。
 ぼくにはそれが、昔と今の差を表しているようにも思えた。明るい光に満ちあふれた便利で暖かい太陽のような世界と、冷たく暗い文明の残り香を思わせる月のような世界。それでも太陽にも月にも、それぞれに良いところはあって、どっちのほうがいいかなんて簡単には決められない。だって決めようがない、月は自ら光ることをしないから太陽のことなど知りようがないんだから。
「うわぁー、すっごい」
 目をきらきらさせながら、エリスが蛍光灯を眩しそうに見つめる。だが、おじいはそれを少し残念そうに見ていた。
「ふむ。どうもやはり、昔と同じようにとはいかないようじゃな。こんなのは切れかけの時と同じぐらいじゃ」
「でも、すっごい明るいよ?」
「これが新しい蛍光灯なら、もっと明るかったということじゃ」
「へぇー。旧時代もすごかったんだねー」
 二人が話すのをききながら、ぼくはエリスの言葉に引っかかりを覚えた。
「旧時代も、じゃと?」
「エリス、今と比べたら旧時代はずっと進んだ技術を持ってたんだぞ」
 だが、ぼくたちの言葉にエリスはきょとんとした顔をして言った。
「え? だってエリス、旧時代のことなんて何にも知らないもん」
 ぼくは虚を突かれる思いがした。エリスが続ける。
「でもエリスは、今のことならいーっぱい知ってるよ。基板拾ったり、壊れた建物の中を探検したり、宝探しみたいで毎日楽しいもん。だから今のほうがもっとすごいんだよ」
「……そうか」
 正直な話、ぼくにはもうそれしか言うことができなかった。昔と今、どっちがいいのかなんて決められない、なんて考えている場合じゃなかったのだ。昔のことを知って、賢しく今と比べたりなんかしているぼくに、それを決める資格なんてないのだ。今のほうがいいと言えるのは、今を生きるぼくたちにしか出来ないことだから。今のぼくたちが選ばなくて、一体誰が選ぶと言うのか。
 つまりは、決められなかったんじゃなくて、ぼくが迷っていただけだった。昔のいいところを知ってしまったぼくが、見たこともない景色を想像して、勝手に現実とのギャップに苦しんでいただけなのだ。エリスは昔のことなどほとんど興味を持たなかったから、今を愛していられた。
「エリスは良い子だなぁ」
 おじいが静かに手を伸ばして、エリスの頭を撫でた。その一言に、ぼくはおじいの気持ちをうかがい知ることができた。そしてその答えが、ぼくたちとおじいの差、引いては昔と今の違いなのだとわかった。
 きっとおじいは、昔が恋しい。
「ねぇ、おじい。なんか昔のことお話してよ」
 明るく光る蛍光灯を囲みながら、エリスがねだる。
 ぼくはもう間違えない。夢を見るんじゃない。
 一つの歴史としてそれを聞くのだ。新しい歴史を作るぼくたちの参考として。
 それが、これからのぼくには大切なことだと思った。
「ええぞ。じゃあ、こんなのはどうじゃ――」
 それからぼくたちは、再び磁場の乱れが発生して蛍光灯が消えてしまうまで、ずっとおじいの話を聞き続けた。
 蛍光灯が照らしたのは一夜限りの夢のような時間だったのかもしれない。

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「き」「れ」「か」「け」「の」「け」「い」「こ」「う」「と」「う」


 れかけの蛍光灯がチカチカと瞬いている。天井が低く光源が近いからだろうか、余計に目が疲れるように感じる。すぐに取り替えればよいだけの話なのだが、なにせこの蛍光灯、まだ買って三日目なのである。それが余計に男を苛立たせる。
化品を掴まされたな。大方、展示用にでも使われていたのだろう。だから安いだけで決めるのは感心せんと云ったのだ」
い物の荷物持ちもしない人に云われたくないわね。別にいいじゃない、切れるまで使いましょうよ。どうせ食事どきにしか居間にいないくせに」
 ろりとした顔で云い返す女。実際、男がこの居間を使うのは食事どきを除いては滅多にない。しかも朝や昼は蛍光灯をつける必要すらないわけで、時間にして三十分もないのだ。そんなに嫌ならのんびりしてないで自分で行けばいいじゃない、とぼやく。それを耳聡くも聞きとった男は激昂した。
んびり、だと! 毎日忙しく働いてるのは誰のためだと思ってるんだ! さっさと行ってこい!」
 光灯は男の言葉に応えるかのようにひと際激しく明滅した。
きたければ行ってくればいいじゃない。私はまだ家事が残っているんだから。まさかそこでふんぞり返ってるくらいしかできない、なんてわけじゃないでしょう?」
 の女の挑発の一言が完全に男の怒りを爆発させてしまった。
るさい! もう黙っていろ!」
 突に男は天井に手を伸ばして蛍光灯を引っ掴み、抜き取った勢いそのままに女の頭部へ振り下ろした。バシンと音を立てて蛍光灯は割れ、女は気絶した。男は荒い息を整え、ふん、と鼻をならしてからぽつりと呟いた。
ん、なんだ、案外役に立つじゃないか、切れかけでも」

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キューピッ灯


 いつもとなんら変わらない、放課後の軽音部室。
「健吾、結衣! ちょっと今から二人で蛍光灯買ってきて」
いつものようにライブの練習をしていた私の前に仁王立ちして、米倉明美部長は唐突に言い放った。
「おい明美、どうしていきなりそんなこと……」
 私の疑問を代弁したのは私と共に明美に指名された副部長の永津健吾くん、その人だった。彼は目だけは一応明美の方に向けているけれど、その手は狂いなくギターのネックの上を滑り続けている。
「なんでって、切れかけてるじゃないの。ほら」
 そう言って明美が親指でちょいちょいと指した先の天井には確かに、弱々しい明滅を繰り返す蛍光灯。だけどそれはもう半年程前からずっとこんな状態で、最近ではもうすっかり慣れてしまっていた。
どうして今さら?
「買ってくるのはこれと同じ種類のものね。もちろん費用は部費からおりるから安心して。それじゃ、よろしく」

 一方的に用件を伝え、さっさと自分の練習を始めようとしている明美。普通ならば横暴だと不快に思うところなのかもしれないけれど、私は腹を立てるどころかむしろ、感謝でいっぱいだった。なぜなら、
(永津くんと二人きり……!)
 そうこれはきっと、何かのきっかけで私の恋心を知った明美が蛍光灯を口実に謀った策略に違いない。ありがとう明美! 今度何か奢ってあげるからね! と、こんな調子でまぬけに浮かれていた私。
 だけど、永津くんは私とは対照的だったようで、
「……明美。蛍光灯なら別に家の近所でも買えるんだから、帰りに俺たちで買いに行けばいいだろ」
 彼は頬を僅かに染めてそう言った。その姿に私は胸に痛みを覚える。
 そうだ。永津くんと明美は幼馴染で、そしてたぶん、彼が好きなのは明美。明美は気付いていないみたいだけど、私はとっくにわかっていた。こうなることだって最初からわかっていたはずなのに。
「文句言わない! 健吾は昔っからそんなだから、みんなに『ホタルを見習え』って言われるのよ! いいからさっさと行って来い!」
 明美は永津くんのことを「健吾」と呼び、私が知らない昔の彼を知っている。たったそれだけのことが私を、協力しようとしてくれた明美にまで暗い感情を抱く嫌な女にしてしまう。
「わ、わかったよ。行こうぜ、里中」
 いつものように私を名字で呼び、永津くんは部室を出て行った。私は椅子にかかっていたコートを握り締めると、明美にお礼も言えないまま永津くんの後を追った。


 無言でずんずんと歩く永津くんに私は校門のところでやっと追いついた。息を切らす私に気付いた永津くんは「悪いな」とぶっきらぼうに言って、歩く速度を緩めてくれた。永津くんのことだから本当は少しでも早く練習に戻りたいだろうに。
 寝グセなのかセットなのかもわからないような髪型に飾り気の全くない白のスニーカー。ギター以外の事には驚くほど無頓着で、明美にはいつも「身なりに気を遣わないのは人前に立つバンドマンとして失格だ」なんて言われているけど、本人は全く意に介していない。
 不器用でまっすぐ。永津くんと私は普段ほとんど話さないただの「部活仲間」だけど、いつも永津くんばかり見てきた私は明美と同じぐらい、彼のことをたくさん知っている自信がある。

「ね、ねぇ永津くん」
「……なに?」
 緊張して少し声が震えたけれど、永津くんは意外と普通に返事してくれた。大丈夫、私だってたくさんお話すればきっと彼と仲良くなれるはず。明美には絶対負けてなんかやらない。
「永津くんって、なんでギターを始めたの? 実は前から聞きたいなって思ってて!」
「ええと……あまり覚えてない」
「そうなんだ」
「うん」
(えっ……それだけ?)
 待てど暮らせど、永津くんは本当にそれ以上何も言ってくれなかった。いつにも増して冷たい反応。正直心が折れそうになるけれど、私はまだ諦めるわけにはいかなかった。
 軽音部の引退ライブ。数週間後に迫ったそれはすなわち、私と永津くんの唯一の接点が消失する時でもある。そしてそうなれば幼馴染というアドバンテージがある明美に、私は勝てる自信など無い。  
 だから、絶対にここで引くわけにはいかない。
「そ、それじゃあさ! 永津くんって普段どんな音楽聞くの?」
「まあ、いろいろと」
「……なら、好きなアーティストさんは?」
「言ってもわからないと思う」
「そ、それでもいいから、教えてほしいな。私ずっと、永津くんが好きなものとかもっと知りたいなって」
「………」
「永津くん?」
「え?……ああ、悪い里中、聞いてなかった。それでなんだって?」
「う、ううん! 何でもないよ……」
 ああ、もう駄目だ。諦めないって思ったのに、さすがに心が折れた。永津くんは私と会話もしたくないんだ。泣きそうになるのを堪えながら歩く私に、無情にも目的の店は近づいてゆく。


(あーもう! またやっちまった!)
 無愛想な表情を浮かべているであろう顔の裏で、俺は内心頭を抱えていた。せっかく、明美が無理やり二人きりにしてくれたのに。今日という日を逃すわけにはいかないのに。こうして焦れば焦るほどうまく話せないのは、昔から何も変わっていない。
 実際今もずっと切り出す台詞やタイミングを考えていたのに、いざという時になると里中に先を越されて、俺は何も言えなくなってしまう。おまけに自分の話しか考えてなかったせいで里中の質問にはまともに答えられず、里中に嫌な奴だって思われてしまったかもしれない。
 だけど落ち込んでいる時間は無い。俺は必死で探した。口下手な俺でもすらすらと継げるような話題で、かつ里中にもわかるような話題を。
 そして一つだけ見つけた。
 俺は意気揚々と切り出す。その話題が、より状況を悪くするものだとは知らずに。


「それにしても……」
 酷く難しい顔で歩き続けていた永津くんが突然そう言ったのは商店街に入った時だった。永津くんに無視されて落ち込んでいた私の心は、そのたった一言を聞いた途端に飛び起きて、会話の準備態勢に入る。嫌われていることはさっき十分わかったのに、それでもまだ小さな可能性に縋りつく自分に驚いた。
「ぬあっ、なに?」
 変な声が出た。永津くんに変な風に思われてなければいいのだけれど。
 実際、永津くんは何とも思っていないようだった。その証拠に永津くんは、私の言葉に被せるような勢いで次の言葉を続けてきた。
「明美の奴も酷いよな! いきなり蛍光灯買ってこいなんてさ」

 永津くんが私の隣でずっと話し続けてくれている。今まで見たことのないようなハイテンションで。それこそ、必死さすら感じるほどの勢いで。
 それなのにどうして私はこんなにも悲しいのだろう。
「あいつ、昔からそういう所あるんだよな。思えば中学校の生徒会長やっていた時なんかさ……」
「まあでも、ああ見えても結構いい所もあるんだぜ。例えば毎年俺の誕生日には……」
「まあ腐れ縁みたいなもんだよな。俺が高校で軽音部に入るって言ったら、なぜかあいつもついてきて、俺は来るなって言ったんだけど……」
(お願いだからもうやめて。私の知らない昔の話なんて聞かせないで。もう明美の勝ちでいいから。永津くんに付きまとったりもしないから……)
 視界が滲み、立ち止まる。気付けば堪え切れなくなったものが溢れ出していて、あっという間に地面に大きな黒い染みを作っていた。
「里中……?」
 永津くんの優しい声がする。きっと心配してくれているのだろうと思うと、自分が酷く惨めに思えた。勝手に盛り上がって、ライバル視して、永津くんと明美にいっぱい迷惑をかけて。そして今も迷惑をかけている私を、永津くんは友達として気にかけてくれている。
「どうしたんだよ、本当に」
「ううん、なんでもない! ごめんね心配かけて」
 私は明美には勝てなかった。だったら、私は永津くんと明美のために次にしなければいけないことは、わかっている。マフラーでぐいぐいと乱暴に涙を拭ってから顔を上げると、永津くんは本当に心配そうな顔で私を見てくれていた。最後に泣いて、ちょっと良かったかな。
「永津くんは本当に明美のことが好きなんだね! お似合いだと思うよ! 私も友達として、二人のこと応援するね!」 


 俺には里中がどうして突然そんなことを言い出したのかわからなかった。だけど、目に涙を溜めて無理やり笑顔を作っている里中が、誰のせいで傷ついているのかということだけは明らかだった。
 俺は馬鹿だ。口下手なくせに口先でご機嫌を取ろうとして、昔から何度同じ失敗を繰り返せば気が済むんだ。これじゃ明美に言われた通り、本当に「ホタル以下」だ。
 俺は不器用なんだ。雰囲気とか、駆け引きとか、トークとか、そんな恋愛上級者のテクニックなんてやめてしまえ。俺は今日何をしに来た? 里中に何を伝えに来た? 言ってもわからないことなら共有すればいい。
 俺は死に際の騎士の如く覚悟を決めて里中の前に立った。


 永津くんは一瞬、表情を硬くした。やっぱり突然応援するなどと言われても困るのだろうなと勝手に納得していると彼はおもむろにブレザーの胸ポケットをいじり始め、何かのコードのようなものを取り出した。
「な、なに?」
 永津くんは何も言わない。代わりに、コードをつまんだ右手を私に向けて伸ばしてきて、そして左耳にその右手をぐりぐりと押し込んできた。
(痛っ! えっ、何?)
 それが何か理解したのは、左耳からポップなメロディーが流れてきた時だった。
「音、楽……?」
「知りたかったんだろ? 好きなアーティスト」
「えっと、ありがと……」
「……行くぞ、ほら」
 永津くんはそう言って反対側のイヤホンを自分の右耳に差し込んだ。イヤホンが外れないようにすると、自然と永津くんとの距離が近くなる。
「やめてよ……そんなことされたら私、勘違いしちゃう。明美だってきっと、こんなところ見たら……」
「それがもう勘違いなんだよ」
「え? どういう意味?」
 この質問はまた永津くんに無視されてしまった。だけどそれでも別にいいやと思えたのは彼の顔が真っ赤になっていることに気付けたから。全く、恋心というのは落ち込んだりはしゃいだり、本当に自分勝手でやっかいだ。

「意外とキャッチ―な感じの曲が好きなんだね……」
「似合わないだろ」
「そんなことないよ。私もこういう曲好きだな」
「……帰りに買ってやるよ、CD」
「え! そんな、悪いよ」
「別に。だって……」
「なに?」
 永津くんはなかなかその先を言おうとせず、もごもごと口の中で言葉を選別するような間が数秒。だけど結局口をつぐんだままなぜか通学カバンの中を漁り始めると、今度は透明な袋を取り出した。
「誕生日、おめでと」
「えっ、えっ?」
「明美に聞いた。今日、誕生日なんだろ?」
(あっ……すっかり忘れてた)
 これで全てが繋がった。明美がなぜ突然蛍光灯の交換などと言い出したのかも、永津くんがなぜよそよそしかったのかも。
 本当に、あとで明美に何か奢ってあげなきゃ。
「ありがとう……」
 私はその袋の中に入っている歪なそれ――クッキーに、大きな手で一生懸命生地をこねる永津くんの姿を思い描く。どうしよう。こんなの抱きしめたくなっちゃうぐらい、
「……かわいい」
「なに?」
「ううん、なんでもないよ! 家でゆっくり食べさせてもらうね!」


 永津くんはその後、目的のお店に着くまで何も言わなかった。だけど不思議と私の胸は温かい気持ちで溢れていた。
 私は永津くんのことをいろいろわかった気でいたのに、本当は何もわかっていなかった。今日だけでいくつも知った、ギターにしか興味が無いと思っていた永津くんの意外な一面。
 永津くんは言葉じゃなくて行動で、彼の不器用な優しさを伝えてくれた。彼のことを教えてくれた。これが私たちのスタイルになればいいな、とこの時ふと思いついた。


 電気屋に着いた。永津くんはしばらく蛍光灯のコーナーを避けるように回っていたけれど、私はあえて何も言わなかった。それは少しでも長く彼と一緒にいたかったのもあるけれど、それよりも、永津くんにも何か考えるところがあるのだろうと直感したからだった。
 しばらくすると永津くんは突然さも今発見しましたと言わんばかりに蛍光灯のコーナーに突撃した。もちろん本当に今発見したのかもしれなかったけれど、別にどっちだっていい。彼は一つの蛍光灯を掴み取ると、私に確認を取ることも無くレジへと向かった。
 部室の蛍光灯とは明らかに種類が違う蛍光灯を持って。
「永津くん、それ部室のとちが……」
 言いかけて、やめた。蛍光灯を購入してばつの悪そうな顔で戻ってきた永津くんが、私と同じことを考えてくれていたらいいなと思った。

 帰り道。まだ日が高いうちに私たちのおつかいは終わった。普通に帰れば練習する時間はある程度残っているだろう。
 あのさ、と永津くんは切り出した。
「明美が言ってただろ? 俺の昔の話」
「ホタルを見習え?」
「中学校の時から言われてたんだ。あれ、どういう意味かわかる?」
「ううん、わからない」
「ホタルって、求婚の時オスが明滅を繰り返してメスにアピールするんだってさ。それで皆に言われたんだ。虫にさえそんなことができるのに、健吾はす、好きな子とまともに話すこともできないからって……まあ、そういうこと」
「えっ? それって……」
 全身が熱い。きっと今、私の顔はトマトみたいに真っ赤だ。だから永津くんがどんな顔をしているのか確認することはできない。だけど……
(期待してもいいんだよね?)
 このまま部室に帰れば、明美はわざとらしく私たちを叱り飛ばすだろう。そして、もう一度二人で買い直して来いと、私たちはきっと叩き出される。
「ふふっ」
「どうした、里中」
「何でもないよ! 『健吾』くん!」
 健吾くんの身体がぴくりと反応する。私はその右手に自身の左手を伸ばしかけて、やめた。まだ時間はたっぷりあるのだ、何も焦らなくてもいい。

 私の勇気が形に変わるのは、次のおつかいの時でも遅くはない。

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四畳半生活


 僕はいつからかここにいる。四畳半の狭い部屋だ。畳は擦り切れて足の裏をちくちくと刺す。壁は生壁色をしていて、僕の真正面に小さく明かり窓がある。僕はそこから覗く四角い空の色から時刻を読み解く。今は黄昏時だ。空の紅が僕にそう伝えてくる。もうすぐ夜が迫ってくるから、明かりをつけなくちゃいけない。そうして僕は天井から伸びる糸に手を伸ばした。糸を引く。明かりが灯る。
 白い光を散乱させる蛍光灯がわずか四畳半の世界を浮かび上がらせる。以前はもっとはっきりした光だったのになあ、なんて寿命が近づいてうすぼんやりとしてきた蛍光灯に哀れみを向ける。蛍光灯は使い捨てのかわいそうなものの筆頭なのだ。代わりがいくらでもいるからと、切れかけてきたらさっさと殺されてしまうのだ。とつとつと白いものへと憐憫を積もらせて、僕は小さく息を吐き出した。
 きっと、外は今頃お母さんが夕飯作りに精を出しているのだろうなと思考する。僕が好きなおかずはなんだったのかと考えるけれども、どうも言葉が霧散して上手くいかない。白いご飯を食べた記憶はある。それがどれだけ昔のことかまではわからないけれど。
 この部屋にいると食事という言葉を忘れそうになる。今はかろうじて覚えているけど、それは食事という行為があるということを知っているだけであって、ひどく概念的なものだ。僕はこの部屋に入ってからずっと食事をしていない。エネルギーを摂取していないのにどうして生きているのかはわからないけれど、それを問題と思えるほど、頭は細部まで作りこまれていなかった。
 ときどき瞬くようになってしまった蛍光灯を見上げてかわいそうだなあと言葉を落っことして、僕は部屋を見渡した。僕の左隣には回転し続ける地球儀がある。五秒間に一周くらいのスピードで回り続ける青い球体を感慨なく見つめる。コンセントなんてついていないのに、どうして回っているんだろう。そんな些細な疑問はきっと電池式なんだという答えで氷解した。僕がこの部屋にいる長い間動き続けるなんて、すごい省エネ技術をいつの間にこの国は生み出したんだろう。
 右隣には小汚い毛布だ。僕が毎晩就寝時にお世話になっているそれは、垢にまみれて黄色になっている。洗濯したほうがいいとわかっていても、この部屋の出口がどこにあるのか知らないからどうしようもなかった。四畳半には洗濯機を置けるスペースがない。そして洗濯物を干せる空間もなかった。
 部屋の四隅には空の本棚が座っている。それらは褪せた茶色をしていて、こげ茶色した美しい木材に脱色剤をぶっ掛ければあんな色になるに違いないと、勝手に僕は思っている。たしか一番最初にこの部屋に足を踏み入れたときには、本棚に目一杯文庫本がぎゅうぎゅう詰めにされていたように思う。本のサイズはどれも同じ規格に統一されていて、色もすべてセピア一色だった。いつからか本はすこしずつなくなっていった。そして、もう一冊だって残っていない。
 決して僕が紛失したのではない。記憶の中でその本たちに指一本さえ触れたことはないのだ。いつの間にか、忽然と、消えていく。まるで最初からなかったかのように。本の内容なんて知らないけれど、なんだか悲しいような気がした。だけれども、それもすぐに夜に溶けていった。
 もう空は黒一色だ。切れかけの蛍光灯の頼りない光が唯一の反抗。この光が完全に沈黙したとき、僕は夜に飲み込まれる。その想像はなんだか恐ろしさを携えている。じりじりと蛍光灯が唸っている。僕はまぶたを下ろすことが怖くなる。どんなに僕が黒を怖がっていても、睡魔は僕が眠らないことを許さない。
 ごわごわとした毛布を手繰り寄せて身体に巻きつける。いやがおうにもまぶたは落ちていく。静かな空間の中で回り続ける地球儀が発するキュルキュルといった音が、やけにうるさく鼓膜をひっかいた。

 それから何日たっただろう。まもなく蛍光灯が死ぬ日のこと。ひとつの紙飛行機が明かり窓から侵入してきた。僕はすこし、本当に少しだけ何も変わらない日常に飽きていたので、紙飛行機を拾うのに躊躇するはずもなかった。
 晴れ渡った空のような見事な青色のそれを僕は眺める。僕の荒れた指先が傷つけてはしまわないかと心配になる。
「君は空から生まれたみたいだ」
 なんと恥ずかしい言葉を紡いでしまったのだろうと、僕は頭を抱えてしまった。かすかな音を立てて紙飛行機が畳の上に転がる。ああ、ごめんね。ささくれが突き刺さって痛いだろうと、僕は紙飛行機をやさしく拾い上げて、この世界から逃がした。青い紙飛行機はまっすぐ飛んでいく。風を切る音が聞こえた気がした。そうして、紙飛行機は空へと消えていった。
 その次の日のことだ。明かり窓の向こうに手が生えていた。起き抜けのその光景に僕は驚きのあまり変な声を出して、慌てて口を押さえた。手はゆーらりゆらりと左右に揺れている。ホラーだった。
「おはよーこんにちはこんばんは! はじめまして知らない人!」
 甲高い声が部屋の空気を引き裂いた。まだ変声期を迎えていない少年の声。明日の希望をなんのしがらみもなく信じることができ、暗闇にすら冒険を見出す幼い年頃の。小さな頃の僕も同じように世界を見つめることができていただろうか。
 初めて耳にしたはずのその声に、僕の心には荒波が立つ。静寂のまま閉じられようとしていた世界がぼろぼろに砕けていく。せり上がる感情は何色をしているだろう。血の色かな、無残な世界の傷跡から垂れ下がる狂った色かな。
「おかしいなあ、ねえ! もしかして寝ているんですか? もうとっくに朝日は昇って、悲しいものは全部太陽がむしゃむしゃ食べちゃってますよ。返事だけでも、してくれませんか」
 少年の声はすでに騒音と形容するにふさわしかった。まっすぐな声はたやすく僕の変わり映えしない、少しばかり飽きが来るけどそれでも平穏な日常を瓦解させていく。
「ああ、なんだい。少しうるさいよ。僕はもう起きているさ。それで、君は誰だい」
「君ってもしかして俺のこと? それならたぶん名乗る必要なんかないと思う、です。それより早く、ドアを開けてくれませんか。これじゃあ顔が見れないです」
「君はひとつ間違っているよ。この部屋にはドアがないんだ。だから開けようと思っても開くはずがないんだ。それともなんだい、君にはドアが見えているの?」
「うん見えてますよ。ほら、ここにドアノブがあるじゃあないですか。もう朝なんです。人間は動く時間ですよ」
 食い違う会話が空気に波紋を生んでいる。知らない人間同士の意味もない会話だ。久しく使っていなかった声帯がびりびりと震える。声がすぐにかすれて音が紡げなくなる。
 へんてこりんな押し問答を数回続けて、僕と少年との掛け合いは終わりを告げた。霞のような沈黙が二人を包む。青い空を掴むかのようにまっすぐに伸ばされている腕を見つめて、僕はなんだか居心地の悪さを感じた。まるで僕一人が意固地になっているような、聞き分けのない頑是無い子どものような気がしたのだ。
「あーあ、まあいいや。それじゃあ明日も来るね。でもあれだよ、蛍光灯が死んじゃう前にドアを開いたほうがいいと思うよ」
 それはどういう意味なんだいと尋ねる前に、少年はさっと消えてしまった。振り上げた腕もそのままの状態で、さっと、消えたのだ。僕はなんだか狐につままれたような心持になって、これは夢だと思うことにした。
 眠りに就く前に僕はふと、なんだかしけた色をした部屋を一度見渡してみる。今日も同じ速度で回り続ける地球儀とお世辞にも温かいとはいえない一枚の毛布。さらにくすんだ光になってきたかわいそうな蛍光灯。何も変わらないな、と一応のため息をついて、僕はひとつの異常に気がついた。
 すっからかんであった本棚に一冊の本が現れていた。それは見事な青色をしていて、手元にはさみがあったのなら、僕はそれを八つ裂きにしていたことだろう。

「おはよーございまーす! もうきっと起きてるよね。ほら、いるのはわかってるんだからさっさと開けてくれませんか。俺、はやくあなたと会いたいんです」
「不審者に会おうとは思わないけど」
「あれひっどい。不審者って俺のこと? こんな紅顔の美少年を不審者呼ばわりするなんて、商店街のお姉さん方が怒りますよ。だから、さっさとドア開けてよ!」
 さっそく語尾の崩れ始めている少年を笑ってやると、少年が満足そうに言葉を揺らした。それから機嫌よさそうに鼻歌を歌う。メロディらしいつながり方をしない音符に僕は呆気にとられた。五線譜の上に適当に散りばめられた記号が好き勝手に踊るさまが見えた。
「ねえねえ今日は機嫌がいいの? なら散歩しようぜ? どうせこんなところで引きこもりなんてしているんだったら、川原にでも行こうよ。季節すらわかってないんだろ、教えてやるから出てきてよ」
 ねえ、と少年は哀れっぽく嘆願する。声音には切実さが混入していて、ただ自分の部屋にこもっているだけなのにまるで僕が少年にひどいことをしているような、変な気分になってくる。
「だからね、君。ドアがないんだから僕は出ることができないんだよ」
「勝手にそう考えてるだけじゃないか。じゃあどうやって入ったんだよ」
「さあ? もう忘れてしまった。どうにも僕の頭は緩いらしくて、上手く考えることができないんだ」
 敬語をかなぐり捨てた少年を、僕は喜ばしく思った。思考回路が空中分解を起こしたような脳ではその理由もわからなかったけれど。
 少年の大きなため息が聞こえた。ついで壁からゴスッという重たい音。どうやら少年が思い切り蹴りつけたらしい。
「あのな、」
「うん」
「俺じゃあ開けられないんだよ。ドアノブが遠すぎて届かないんだ」
 だから早く出てきて。悲痛な叫び声だった。感情の振幅のあまりの広がりに僕は飲み込まれそうになった。そうして、懐かしいものが一欠けら僕の手元に戻ってきたような、そんな気がした。
「俺、はやくあんたに会いたいんだ。俺は全部知ってるんだ、でも教えちゃいけない。な、どうやったら出てきてくれるの。たくさんの色が外にはあるんだよ」
 少年の叫び声を手がかりに、僕は今まで甘受してきたこの日常について目を向ける。まったくもっておかしいことだらけだ。何も食べないで生きつづける身体、止まらない地球儀、消えていく(あるいは増える)本。ドアはないのに入ってきた感覚はあって、だのに壁に継ぎ目ひとつ見当たらない。
 紙飛行機が飛んできた日を境に、僕はおかしくなってしまった。今まで気にも留めなかったことが思考の細部にまで入り込んでくる。
「本当を見つめる勇気もないんだろう、この意気地なし」
 少年が泣く声がする。嗚咽の隙間から弱りきった罵りが零れ落ちていく。かわいそうに、と僕は思った。しかしそんな感情を抱いても彼にしてやれることはないのだと、形容しがたい無力感が湧き上がる。
「あんたはいっつもそうだ。知ったかぶりの道化で八方美人で愛想を振り向いて、最後には心臓抱えて逃げ出すんだ。俺は知ってる。そうして何人傷つけてきたの、どうして俺まで傷つかなくてはならねえの」
 ねえ、ねえ、ねえ、ねえ。少年の言葉は確実に僕のなにか、奥まったところに刃をつきたてた。僕は本棚に目を向ける。そこに何かが浮かび上がろうとする。どうしようもないほどの吐き気がした。
「……逃げてるだけでは何も変わらないことを、あんたは自覚すべきだよ」
 震える声が鼓膜を揺らした。たった四畳半の空間が音楽ホールのように悲しい音を反響させる。僕はぎゅっと汚れた毛布を握り締めた。この垢まみれの布が僕自身だ。
「また明日、来る」
 君は一体誰なんだい。問いかけは言葉にならずいたずらに声帯を震わせただけだった。身体が芯から凍えていく。明かり窓から降り落ちるなけなしの陽光が世界からの、唯一にも等しい温情だ。
 僕は本棚に視線を向けた。そこには血の様な真っ赤な色の装丁のなされた文庫本が存在している。新しい本に僕は震える指を伸ばす。ぐるぐる回る思考からはじき出された言葉が一つ、赤の上に放り出された。
 薄っぺらい赤い本の中身は、たった一行の内容で終わっている。数秒で終わってしまう文字列、それを目にした瞬間に僕はこの本を火あぶりに処してしまいたいと瞬間的に思った。この内容はなんだ、気味が悪い。
――今日、私はずっとずっと遠く、手の届かないところにまで、そう車でも電車でも飛行機やあるいはロケットでさえ辿りつけないような遠い遠い所にまで消えてしまいました。
 赤い本を壁に叩きつけて、僕はぎゅっと目をつむる。恐れる暗闇が意識を包むけれどそれでも構わなかった。おかしいことからは目をそむけて、うだった脳で怠惰に流れる時間を飲み込んできた。夜が来るたびに少しの恐怖と蛍光灯への憐憫を噛みしめればいいだけだったのに。
「どうして最後の最後に、君が来るんだ」
 言葉が勝手に喉を通っていく。この意味を僕は知らない。わからない言葉を吐き出すのは実にナンセンスだ。まるで脳髄をすすられている気分に襲われる。気持ちが悪い。
 しばらくして、暗闇に僕の意識は飲み込まれた。頭の中で誰かが、知っているような知らないような違和感のある声で何事かを叫んでいた。

 それから幾日を重ねても、少年は「おはよう」を携えて僕を訪ねてきた。その日の気分で、僕は会話に応じた。少年の口はよく回り、僕が一言も発さずにいても言葉は止まるところを知らなかった。少年の話はだいたいが何の変哲もない日常のことである。同じクラスの誰かがかけっこで優勝したとか、誰それが人気の女の子に告白をして無事付き合うことになっただとか。どこかで聞いたような、誰しもが息をしているうちに一度は体験するような他愛のない、もの。それをさもこの世で一番の宝物を見つけたかのような声で話すものだから、僕はなんだか可笑しくなってしまった。
 そのうちに、知らず知らずにひとつの遊びができた。少年の話に一回でも笑みをこぼせば少年の勝ち。笑わなければ、僕の勝ち。たいていは僕のほうが勝った。少年はそのたびに、帰り際に「もっと笑えばいいのに。笑う門には福来るっていうじゃん、さあ」とすこしばかり悲しみのにじんだ声で言うのだ。僕はなんだか意地になって、その言葉には反応しない。
「そんなだから、蛍光灯が死んでしまうんじゃないか」
「君に何がわかるっていうの」
「ずいぶん最初のほうに言ったじゃん。俺は全部知ってるって」
「それなら教えてくれてもいいじゃないか」
「それはだめだよ、意味がねーもん」
「……強情だね」
「どうも」
 今日も日がな一日少年は跳ねるように言を紡いでいく。空が深い青に染まる。少年の話は今日もありふれたものばかりで、僕は少々眠たくなった。美しい小鳥を見かけたとか、友達の誕生日に路傍の草花の花束を贈ったとか。そう、昔は僕もそんなことをした気がする。少年と同じように純粋に今日という枠組みの中で息をしていた。疑いを知らなかった。
 あれほど回転することを忘れていた脳がすこしずつ錆びた音を立てて動き始める音を僕は聞いた。緩慢な動作はやがて素早いものに変わり、僕はだんだんとこの空間が何かを思い知ることになる。
「――嗚呼、そういうことなのか」
 少年は先ほどまでぺらぺらと喋っていたくせに、僕の一言で一瞬にして沈黙した。僕はたしかに、ずいぶんと薄っぺらになってしまったものの欠片を見つけたのだ。僕は本棚を見る。その家具の表す意味にも、僕は気づいてしまった。気づかなかったほうが、もしかしたら幸せだったのかもしれない。
「積み重ねというものは大事だね」
「そりゃそうさ。本は増えた?」
「おかげさまで」
「もっと嬉しそうに言えよ」
 少年は沈黙する。本棚がぎゅうぎゅうづめになっていて、カラフルな背表紙に華やいだ色をしている。
「昔は僕も笑ったものさ。家の近くの空き地で草花を摘んだり、一日空を見上げて移り変わるさまを不思議に思っていたりした。気になっている女の子もいたね、彼女は小学校の――三年生くらいで、遠くに引っ越してしまったけれど」
 少年は聞き上手でもあった。つらつらと唇からこぼれる音を黙って受け止めるものだから、僕はついつい余計に喋ってしまった。急な酷使に声帯が悲鳴を上げても言葉は吐き出されていく。僕が最後の言葉を押し出したとき、もう空は夕暮れの、淡紅に染まっていた。
 やわらかに染まる四角い空を僕は泣きそうな表情で眺める。ことり、と積み重なる時間を知る。時間も使い捨てだ。一度きりという言葉に翻弄されてしまう、かわいそうな存在だ。
「明日が、最後だよ」
「――そうかい」
 今日、私はずっとずっと遠く、手の届かないところにまで、そう車でも電車でも飛行機やあるいはロケットでさえ辿りつけないような遠い遠い所にまで消えてしまいました。朗々と少年は暗唱する。少年の編んだ音を空は吸い込む。悲しい余韻を残しては消えていく。
 カチリと音を立てて蛍光灯をつける。苦しそうな光が灯る。僕はぼんやりと空を眺めた。空が深い色へとその身を投じていく。吐き出した息は白く染まった。
 そう、僕は本当に気づいてしまったのだ。この動かない脳に裏切られてしまった。少年が何者かなんて、ここがいったいどこなのかなんて。よくできた牢獄だと僕は嘲る。嘲りの感情すら本となって形を持ってしまう。
 地球儀が回る。僕の居場所はない。本棚は空である。思い出は捨てられた。蛍光灯は消える。未来なんてない。毛布はだんだんと汚れていく。それもそうだ、所詮使い捨てのずたぼろの雑巾だ。
 少年は夜になっても帰らなかった。蛍光灯は最後の悪あがきをしている。消えて、点いて、消えて、点いての繰り返し。あと何呼吸かしたら僕は真っ暗な空間にほっぽり出されて、冷たい夜気に肺を炙られて窒息死してしまうんだろう。それはそれですばらしい最後のような気がした。閉じこもったまま出口も見つけられないような人間の終わりにはふさわしいと、思えたのである。
「君さあ」
「なに?」
「外にいて、寒くないの」
「決まってるじゃん。寒い」
「バカじゃないか」
「あんたもね」
 風邪を引いたらどうするつもりなのかと、口を開きかけたところで言葉を呑みこんだ。もうすぐなのだ、かつて僕が望んだ終わりまで。
「もうすぐ明日だよ」
 少年が硬い声音で告げる。窓の中心に半月が差し掛かっている。もうすぐ時計の短針と長針が同じ数字を指すのだ。僕に終わりが通告される日がやってくる。僕の心は凪いでいた。風もない、白波も立たない広大な海みたいに、落ち着いていた。
「これで本当に最後だよ。ねえ、その部屋に出口はないの? 俺じゃあ開けられないんだよ、ノブを回して出てきてったら」
 もはや少年は呆れている。君の最後の成れの果てだよと笑ってやろうかと思ったけれど、さすがに意地が悪すぎるかと止めた。代わりに汚れきった毛布を羽織る。あともう少しで、この虚構の世界は夜にぱっくりと食べられてしまうのだ。
「だから、はやく開けてって言ったじゃん」
 もう蛍光灯が死ぬ間際だというのに、存外少年は往生際が悪い。僕はふっと息をこぼした。それが笑みなのか、ため息かなんてのは、もうわからなかったけれど。ぼやけていく思考の中で、僕は外へと続く逃げ道を夢想した。ドアは明かり窓のすぐ下に隠されていて、古めかしい金色のノブが掴みやすい高さについている。下部には幼い頃僕が落書きした下手くそなヒーローが描かれていて、この世界に疫病をもたらそうとする邪悪な悪役をぎったぎたにのしているのだ。
 僕は暗闇に身を寄せた。これから、僕が光に照らされることはない。最後まで僕を見捨てようとしなかった少年には悪いことをしてしまった。そこに後悔はまったくないといえば、少年は泣き声で怒るのだろう。
 真っ黒い意識の中にきらびやかに存在を主張するドアが少しずつ開いていく。その向こうから真っ青な光が漏れてくる。まるで夏の蒼穹のような、終わりのない広がりと透明感を持つそれを柄にもなく美しいと思った。あの紙飛行機みたいに溶けていけたらそれは至高の幸福だ。混ざり合ったそこにはもう苦しみも悲しみもない。あるのは開放感と喜びと――それからなんだろう、涙を流すぐらいの賛美が僕を包むのだ。
「残念だね、俺、あんたを見捨てられるほど冷酷じゃないんだ。はい、新しい蛍光灯」
 もう意味を成さないはずの聴覚が妄言を拾う。夜に飲み込まれるはずの視界はいつまでたっても青い光に包まれたままで、これは異常であると大脳が告げてくる。さわやかな風が僕の頬を撫でた。
「俺じゃあ手が届かないからさ、あんたが取り替えてよ。ほら目ぇ開けて」
 いつまで子どもみたいに知らん振りするの、子どもの時代は終わったんだよ。ほら、俺が最後だ。しがみついたって時間は進んで、蛍光灯みたいに擦り切れて死んでしまうんだ。その前にバトンタッチをしよう。明日は新しい蛍光灯が煌々と灯っているんだから。
 耳朶が拾う少年の声はいっそ恐ろしいほどに慈愛に満ちていた。恐々と瞼をあげた視界には青い光が広がっている。少年は青い清廉な光を背中で受け止めて、もはや真っ黒い影にしか見えなかった。
「外は、夜だ」
「違うって。外は昼でも夜でもないよ。ただ……夜になるときもあるから蛍光灯が必要なんだ。暗い道は気をつけて進まないと冷たい川に落っこっちゃうかもしれないから」
 少年が身をかがめる。同じ高さの視線になる。少年が僕の腕を掴み、白くて硬い何かを握らせる。少年の手のひらはやわらかく、そして炎のように熱かった。
「今日が新しい始まりって言ったら、なんだか恥ずかしいや。さあ、消えちまった私のもとに俺は辿りついた。ねえねえ、褒めてくれる? 昔、俺らの母さんがいい子ねって頭を撫でてくれたみたいに!」
「それは――あれかい。初めてのおつかいが成功したときみたいにかい」
「そうさ! そんな単純なことが、俺をここまで導いてくれたんだ」
 少年が笑う。触れ合った二人の手のひらからじんわりと冷たい蛍光灯に熱が移っていく。とっくに古い蛍光灯が切れた室内は、青い光で満たされていた。部屋の様相が様変わりする。本棚の数が増えた。そこには今にも溢れ出さんばかりの書物があり、地球儀がピタッととある島国の、無名の一地方を教えている。毛布は高価そうな羽毛布団へと変身して得意げだ。
 僕は立ち上がる。部屋の面積が六畳、八畳と大きくなっていく。腕を目一杯伸ばせば、天井へは簡単に届いた。古い蛍光灯をはずそうと手に力を込めると、意外とあっけなくそれは僕の手の内に収まる。羽毛のようという例えには語弊があるけれども、その驚くほどの軽さに僕は戸惑う。僕が、心を預けていたのはこんなにも脆いものなのだ。
「こんなものなのか」
「そうさ、そんだけの重みしかないものが、あんたを照らしていたんだ」
 僕は新しい蛍光灯を取り付ける。その間に少年は古い蛍光灯でぷらぷらと遊んでいる。腕にくぐらせたり、回したり、ときには首にかけたりして。
「終わった?」
「終わった」
 確認の言葉を投げ合って、僕と少年は相対する。少年はきょろきょろと落ち着かなさげについ先ほどまではわずか四畳半であった空間を見渡して、それから満足げに「よし」と頷いた。少年は古い蛍光灯を天使の輪っかのように頭上に高く掲げ、精一杯手を伸ばして届くあたり――僕の心臓の位置に手を置く。
「いつでもここにいるから……なんちって!」
 満面の笑みで少年は消えていく。小さく腕を振る動作をかろうじて僕の眼球は捉えた。きらりきらりと輝く粒子が新品同然の畳の上に降り積もる。僕はかつて空想に励んだ明かり窓を眺めた。それよりもっと広い出口が、空に向かって開いていた。
「さてどうやら、僕は昔から自分に甘い人間らしい」
 なんでもない呟きを、空は宝物のように抱きしめた。   

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