FC2ブログ
さらし文学賞
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |


奴隷センター

零日目
 いらっしゃいませ
 当店では様々な商品を取り揃えております。男と女はもちろん、年齢、国籍、能力、お客様のご希望に添える品々ばかりでございます。用途はお客様の自由です。家事をさせるのも、働かせるのも、はたまた性欲を満たすことも思いのままでございます。
 購入後の基本返品は受け付けておりません。ただし、購入後一週間以内であれば、購入金額の半額で返品は可能です。また、期限を過ぎた後、病気や事故による商品の死亡に対しての保証、責任は一切持ちませんので、その点はご了承ください。
 それではごゆっくりご覧になってください。

零、五日目
 深夜二時。雑誌やカップ麺のカップ、ビニール袋などのゴミが足の踏み場もないほど散乱していた。古びたアパートの六畳一間の暗い部屋の中でパソコンの明かりだけがついていた。いつも通り俺は適当に面白いものはないかとネットサーフィンをしていた。そんな時に一通のメールが届いた。
「こんな時間にメールか。どうせ出会い系からだろ」
 そう思いながらも一応確認してみる。タイトルにはあなたにぴったりの商品がございます、だった。
「なんだ。通販系か?」
 メールを開いてみると、それらしい内容ではあった。以下がその文面である。
『小池喜津様
 あなたは見事抽選の中から当選いたしました。通常はお得意様の紹介がなければならないのですか、あなたはその必要がなく、我が社の店に来店することが可能です。きっとあなたにふさわしい逸品が見つかることでしょう。ぜひ一度ご来店ください。あなたのご来店をお待ちしております。
Slave center 千葉支店 ○○区○○町○丁目○○ビル tell ○○○―○○○○ 二四h』
 いかにも胡散臭い内容である。こんな風に客を誘い込んで、高額商品を売りつける詐欺まがいのものだろ。今更こんなものに引っかかるやつなどいるものか。
 しかし気になる点が二つある。一つは何でこちらの名前が知られているかということである。まぁ、色んなサイトに出入りしているから、どこからか漏れたのだろう。手口としてはよく使われるから、そこまで気にする必要はないだろう。もう一つは
「slave。奴隷か。まさか人でも売っているのか」
 流石にそんな犯罪的行為は行われていないだろう。昔の西洋でもあるまい。現代の日本でそんな商売が成立しているはずはない。それでは奴隷とは何を指しているのだろう。
 馬鹿らしい。わざわざスパムを相手にすることはないだろう。そんな暇は……いらないほど持て余している。大学受験に失敗し、就職に失敗し、そのまま堕落して、今は親の金で生活している。いわゆるニートだ。起きて、飯を食って、ネットやゲーム、漫画などで適当に過ごして、腹が減ったら、また飯を食い、眠くなったら寝る。そんな毎日を十年以上もしている。もうすぐで世間でいうアラフォーという年にもなる。腹はみっともなく出て、典型的なメタボ体型。髪はまだ残っているが、白髪まじりでぼさぼさ。人生負け組の姿そのものである。家族には世間体を気にして、家を追い出されて、一人暮らしの家と生活費が支給された。その金も地道に貯めてきた。
 暇もある。金もある。退屈を紛らわしに冷やかし程度に行くものいいだろう。どうせこのままくだらなく死んでいくのだから。
 明日、行ってみよう。

 夕方八時。住所は家からそう離れておらず、二駅ほどで最寄り駅に着き、今俺はネオン街に囲まれている。周りにはスーツを着て、仕事を終え、飲み来ているサラリーマンや客引きのおっさん、ホストやホステスが蠢いている。こういった場所はあまり好きではない。自分の姿がより惨めに感じるからだ。とっとと目的地に行ってしまおう。行く途中で何度か声をかけられたが、気にせず歩みを進めていく。
 そして、五分後。
「この辺りだよな」
 住所通りに来たが、先ほどとは一転し、周りには店どころか人すら見当たらない。電灯もまばらにしかなく暗い。そのおかげで苦労したが、ビルを見つけることができた。中に入っても、受付に一人女性がいるだけだった。待合のための椅子などもなく、ひどく無機質な感じがした。女性は短髪できれいな顔立ちをしていた。ぶっちゃけ美人だ。受付に近づくと、彼女はお辞儀をし、血のように赤い唇を開いた。
「本日はどのようなご用件でいらっしゃいましたか?」
「小池喜津というものですが、昨日メールが届いたので来てみたのですか」
 すると、彼女は驚いたように目を開き、言葉を発した。
「あなたが小池様でしたか。これは失礼いたしました。まさかこんなに早くご来店いただけるとは思いもしなかったので。では、お手数をかけますが、当店のご来店にはメンバーズカードが必要となります。入会費や年会費はかかりませんのでご安心ください。本日は身分証明となるものはお持ちでしょうか?」
「保険証なら」
「大丈夫です。それではこちらの用紙に必要事項を記入し、保険証を提示してください」
 そう言って紙とペンを手渡してくる。欄には名前、生年月日、住所、連絡先と基本事項ばかりあったが、最後の項目に「ここでの出来事を一切公言しないことを約束します」というものがある。やはりここは人身売買なるものが行われえているのか。だが、今更引くわけにもいかない。サインをする。
欄を埋めた用紙を渡し、保険証を取り出す。女性はそれぞれを確認して、顔をあげ、口を開ける。
「不備はありませんね。少々お待ちください。こちらが会員の証明となるカードになります。無くさないようご注意ください」
 手渡されるカードはよくあるレンタルビデオ店などと同じものである。表には黒地に白で大きくSCと書かれている。
 そして、彼女は妖艶な笑みを浮かべ、再び赤く染まった唇を開いた。
「それではご案内いたします。ようこそSlave center、通称奴隷センターへ」


「申し遅れました。本日小池様の案内を務めさせていただく、神崎です。以後、お見知りおきを」
「は、はぁ」
「では、まいりましょう。こちらです」
 そう言いビルの中に案内される。薄暗い廊下を二人の足音だけが反響している。行く先にはエレベーターが見える。
「こちらで地下にまいります」
「地下にあるのか」
「はい。その方が秘密のクラブみたいでしょう?」
「そう…かもな」
「でしょう」
 会話がなくなる。エレベーターの動く音だけが聞こえる。ここで気になっていることを解消することにする。
「それで奴隷というのは」
「そのままの意味でございます」
「すると、ここでは人身ば」
 そこでチン、とエレベーターの着いた音がする。
「到着しました」
 扉が開くと、先ほどまでとは裏腹に人は大勢いた。店内はまるでペットショップのようにショーウィンドウが並べられている。そこから明かりが漏れている。その前には客とそれに付き添いの神崎のような会社側の人間がいる。客はどの人も高そうなスーツを着込み、品定めをしている。
「結構人がいるんだな」
 こいつらはこの異常さを意識しないのか。
「はい。では、ご自由にご覧ください。質問などがあれば、何でも聞いてください」
「分かった」
 とりあえず見てみることにしよう。
ショーウィンドウにはちょっとした移住空間ができている。中にはテレビやクーラーなどの電化製品、それにテーブルやクローゼットなどの家具が置かれている。そして、白いシャツと灰色のスウェットを着た二十代半ばの女性がいた。彼女は座り込んで雑誌を読んでいる。
 想像ではボロボロの衣服を着て、監獄のような場所に監禁されている感じだった。しかし、実際は違いごく普通の生活をしている。その事実に驚きしばらく声が出ない。現実を受け入れ、口を開く。
「これが商品か?」
「そうです」
「本当に人が売られているのか?」
「生物学上の分類ではそうなりますね」
「どういうことだ?」
「奴隷というものは人以下の存在です。人と同等の扱いされることはありません」
「だが、彼女は普通の生活をしているぞ」
「今の時代、不衛生で不健康な奴隷は売れません。こちらも売らなければ商売にならないので、ある程度の生活空間も彼らに提供しているのです。小池様でも汚れたものを買おうとは思わないでしょう」
「それもそうだが」
 こちらとしては違和感この上ない。他人の生活を覗き見しているようだ。彼女の方はこちらのことなど気にも留めていないようだ。
「ちなみにこのガラスはマジックミラーとなっており、向こうから見えることはありません」
「な、なるほど」
 他にも見て回る。ガラスの向こうには若い女だけではなく、男もいるし、俺と同い年くらいの中年もいる。それとは逆に子どもまでいる。そして、日本人だけでなく、外国人もいる。各々が自由に生活している。先ほどの女性と同じように雑誌を読んでいる人、寝ている人、ゲームをしている人。しかし、隅っこに座り込み怯えているようにしている人もいた。この時にはもう俺は人を買うという異常な事態にも頭が回らなくなっていた。すでに彼らを商品とみて、買う気になってしまっていた。
「神崎」
「何でしょう?」
「ここの人たちはどうしたんだ?」
「どうと申しますと」
「どこから連れてきたんだ?」
「それは極秘事項です。教えることはできません」
「そうか」
 どうせやばいルートで手に入れてるのだろう。踏み込むべきではない。
「そういえば、値段はどうなっているんだ?」
「若さや能力、需要に応じて決められています。ピンキリからありますが安いもので最低でも百万はします」
 高い。いや、人一人買うのだから妥当、むしろ安いのかもしれない。
「ただ、購入際には二つの注意点があります。病気や事故での死亡に関しての責任や保証を一切こちらは持ちません。その手の業者を紹介はできますけど、別料金がかかります。もう一点は一週間内でのクーリグオフが可能な点です。ただし、全額返金とはなりません。半額の返金となります」
「お試し期間ってやつか」
「そうです」
 半額返ってくるのはなかなかいいな。一週間使って、返してを繰り返せば、かなり得ができる。 見て回っていると、明らかに他の部屋と異質な雰囲気を漂わす部屋を見つけた。壁は黒ずみ、物は散らかり、清潔感などの皆無だった。その汚れた空間の真ん中に座り込んでいる女がいた。もとは白いワンピースだったのだろうが汚れ、裾はただれており、破けてしまっている。
「あれは?」
 神崎が少し困った顔しながら答えた。
「あれは正直あまりお勧めしません。不良品です。見ての通りの状態ですし」
「だったら、何で残しておくんだ?」
「購入はされるんです、高頻度で。だけど、帰ってくるんですよ」
「帰ってくる?」
「大抵の客が返品してくるのです」
「何で? 大金をはたいているんだろ」
「それがですね。これだけは特価価格で二十万円なんですよ。だから、お試しとして買って、使うだけ使って返すという感じなんです」
 二十万でこれか。それぐらいなら余裕で手が届く。しかも返品まで視野に入れると十万で使える。それに下手に風俗通いするよりも安く済むだろう。どう転んでもこちらにデメリットはほとんど生じない。
「じゃあ、俺もお試しということでこれ買ってみようかな」
「そうですか。他にもいい商品があるのですが」
「とりあえずな。初めてだし、お金のことも考えるといきなり高いものにも手は出しづらいし」
「分かりました。では、こちらで手続きを」
 書類に必要なことを書き込むだけで簡単に手続きは終えた。
「それでは、明日の午後六時頃にお届けにまいります」
「分かった」
「ご購入ありがとうございました。またのおこしを」
 そう言い、営業スマイルで見送られた。その笑みはなんだが不気味に見えた。
 こうして、俺と彼女の生活が始まった。

一日目
 時間通り午後六時ちょうどに女は届けられた。流石に段ボールに梱包されているということはなく、二人の黒スーツの男に連れて来られた。
「小池様ですね?」
「ああ」
「では、こちらに判子かサインを」
 配達便にする伝票とほぼ同じだった。サインをし、手渡す。
「これでいいか」
「結構です。こちらが商品となります」
 後ろから昨日と同じ格好で女が現れた。
「では、我々はこれで。当店のご利用ありがとうございました。今後ともによろしくお願いします」
 扉が閉まる。
「ま、まずは中に入れ」
 カーテンを閉め、電気も付いていない暗闇の部屋の中に言われた通り女は入っていった。
 そして、俺はゴミ埋められた布団に女を押し倒した。溜まっている性欲と自分の想いのままにできる女ができたという支配欲の充足に我慢ができなくなっている。頭にはこの女を犯すことしかなかった。ワンピース、そして下着を裸にし、唇を強引に引き合わせる。舌を入れ、口の中を犯す。そのまま舌を体に這わせながら、乳房までいく。右手で胸を揉みしだきながら、乳房を吸う。空いている手で股をまさぐる。
それらの行為に彼女は何の抵抗を見せない。拒否の感情すら感じない。今までもこんな風に扱われて慣れているのだろう。俺はたいして考えもしないで、自分のもので口や下の穴を一晩中犯し続けた。

二日目
 朝目を覚ますと、昼の一時を過ぎていた。昨日のことを思い出し、今回の買い物は成功だと思った。改めて人を買うなんてと思ったが、そんな罪悪感よりも満足感が上回っていた。
ただ、飲まず食わずで一晩中していたせいもあり、腹が減っている。買い置きしているカップ麺を沸かすために起き上がると、女が横にいないことに気づいた。逃げたかと思い、一瞬体が熱くなったが、部屋を見渡すと、部屋の隅で裸のまま体育座りをしていた。安堵と同時に一つ気づいた。こいつにも飯を食わせなければいけないのだった。食費が二人分になるのは少々痛手だ。その分こいつには働いて盛らなければならない。
「おい。ポットで湯を沸かせ」
「………」
「聞いてんのか? カップ麺食うからお湯を沸かせってんだよ。カップ麺はそこの段ボールの中に入ってるから、適当に二つ出せ。お前の飯でもあんだから、早く動け」
 女はゆっくりと立ち上がると、そのまま台所の方に足元のゴミを踏みしめながら、ふらふらと向かってゆく。
 その時に俺は初めて、女の体をきちんと見た。昨日は暗かったし、ましてや意識もしてなかった。体には痣や傷が所々にできていた。もちろん、俺がつけたものではない。相当乱暴に扱われてきたのだろう。だが、俺には関係のないことだ。俺はただ買っただけだ。俺は何も悪いことはしない。そう言い聞かせた。
 女がお湯を入れたカップ麺を二つ運んできた。その辺に散らかっているものをどかせ、置くスペースを作る。
「割り箸がカップ麺と同じ段ボールに入ってるから取ってこい」
 女は今度も返事もせずにカップ麺を置くと、箸を取りに行った。戻ってきたところに服を渡してやる。ずっと裸というのも流石にどうかと思うし、風なんてひかれちゃ困るからな。
 食事も終え、することもなくなる。テレビでもつけ、適当にチャンネルをまわす。女は先ほどと同じ位置で同じ体勢になっている。そういえば結局一度も声を聞いていない。まぁ、そのうち聞くだろう、今日の夜にでも。

五日目
 毎日がほとんど同じように過ぎていった。昼はテレビかネット、夜は女を犯すだけ。そんな日々だった。女には適当に家事をさせた。掃除や洗濯、簡単な料理はできるようだった。しかし、家の外に出すわけにも行かないので、買い物には俺が出ていた。
 そして、結局今日まで女の声を聞くことはなかった。さらにこの女にも飽きはじめていた。どうしても行為が単調になり、なにより女からの反応がないのだ。どんなにやっても何の感情どころか声さえださない。こう毎日毎日では流石に飽きた。明後日には返品することを考え始めていた。そんな時だった。
ピンポーン
 誰だ? こんな時に訪ねてくるのは。どうせ新聞勧誘だろう。無視しておこう。
ピンポーンピンポーン
 なかなか諦めの悪い勧誘である。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポ
「分かった。出る、出るから、もう鳴らすのやめろ」
 文句言って、さっさと追い返してやる。
「どちらさまですか」
 怒気を込めて言い、ドアを開ける。
 そこには高そうなスーツで身を包んだ弟の和樹がいた。
「久しぶりだね。兄さん」
「和樹か。何の用だよ」
「いや、ちょっと様子を見にね」
「何で、今更」
 弟の和樹は俺とは違い某T大に行き、大学在学中に企業をお越し、今や年商百億を稼ぐ大企業の社長である。情けないことに俺の生活費はこいつからも入っている。
「最近調子はどうだい?」
「別に」
「ところであの店には行ったかい?」
「あの店ってどの店だよ」
「ん? どの店って奴隷センターだよ」
「!? 何でお前が知っている」
「何でって。そりゃ僕が兄さんをあの店に紹介したからだよ。僕はあの店にも出資しているからね。ある程度の融通は利くのさ」
「何のために?」
「何のためにそりゃ兄さんじゃろくな生活を送れてないと思ってね。特に女には飢えていると思って」
そう笑いながらいう。
 こいつの手で弄ばれていたことに悔しさと苛立ちに言葉が出ない。
「まぁ、兄さんが来たことは神崎から聞いたよ」
「神崎から?」
「そうだよ。彼女の知っていることは全部僕は把握しているからね」
「何で?」
「何でって、彼女は僕の所有物だし」
「所有物って」
「そりゃ僕の奴隷だよ。兄さんがあれを買ったようにね。あの店で最低ランクの商品を。まぁ、兄さんにはそれで丁度いいか」
「黙れよ」
「そりゃそうだよね。大学受験に失敗して、父さんや母さんの期待を裏切って、落ちぶれていった兄さんにはお似合いだよ」
「黙れ」
 堪え切れずに大声を出してしまう。そんなことを気にもせず和樹は平然としている。
「まぁ、精々人生を楽しんでくれよ。父さんと母さんのことは僕にまかせて、ね」
 そうゴミを見るような目で言い放ち、去って行った。
 俺と和樹はずっと両親から厳しい教育を受けていた。遊ぶ時間などは当然なく、勉強ばかり、さらには必ず比べられる。テストでいい方だけが優遇され、悪い方は相手にもされない。もっとできないのかと罵られもしない。ただ、居場所が消えるだけだ。いい方はいつも俺だった、高校までは。大学受験に失敗し、ご覧の通りの有様だ。
 この日は女を相手にする気にもなれず、寝た。

六日目
 女を返す前日。今日最後に使って、返そうと思った。その事後である。女が急に話し出した。
「私を返すのですか?」
 女の声をこのとき初めて聴いた。そのことに戸惑いながらも答える。
「そ、そうだ」
「お願いです。このまま私をここに置いてくれませんか? この一週間のような扱いで構いませんから、どうかお願いします」
 土下座をする勢いで頭を下げ、頼み込んでくる。そんなに戻りたくない理由でもあるのだろうか。
「何か理由でもあるのか?」
「私は十五の時からのあの店にいます。さんざん体を使われました」
「俺も使ったぞ」
「まだ優しい方でした。酷いときにはもっと乱暴されました。何より私の貞操は十二の時に奪われました。強盗犯によって」
「強盗…犯って」
「私以外の家族はそいつ全員殺されました。お父さん、お母さん、弟全員。深夜突然入り込んできて、ナイフで一突きです。私だけは性玩具とするためにお金と一緒に攫われました。そして三年間ひたすら犯される毎日でした。逃げられないようにロープで拘束されていました。長年の扱いで気が緩んでいたのでしょう。犯人はロープが腐りかけているのにも気づかず、そのまま放置してました。私は犯人が寝ている間にロープを断ち切り逃げ出しました。そのまま自分がどこにいるのかも分からず逃げているところに奴隷センターの人に会ったんです。そのときの私はそんなことも知らずに助けを求めました。彼は了解してくれました。そのことに私は安心して意識を失いました。そして今の通りです。私は商品となり、売られ買われています」
 途中に何度か息継ぎを含め、彼女の長い告白が終えた。彼女がそんな人生を歩んでいたとは知らなかった。自分の不幸など彼女に比べたら、小さなものに思えた。この時には俺は彼女に同情を覚えていた。
「戻っても、同じことが繰り返されるだけです。お願いします、私をこのまま置いてください」
 あんな話を聞いた後で断れるほど自分は落ちぶれてはいなかったようだ。
「分かった」
「本当ですか、ありがとうございます」
「ただし、扱いは今のままだぞ」
「構いません。一人の人に仕えたいんです」
「今更だけど名前は? あるだろ」
「村田美咲です」
 そう少し前までは想像できない笑顔で答えた。

三十五日目
 あれから約一月が過ぎた。美咲の告白の後、俺は奴隷センターには連絡しなかった。そして、彼女を一人の人として扱い始めた。家だけでなく外出も許すようになった。始めは返ってこないかと思ったが、予想に反し律儀に帰ってきていた。普通に外に二人で出歩き、食事をし、情事を営んでいた。そうしているうちに俺は彼女にある想いを抱きつつあった。ただし、それを伝えるにはまだ駄目だ。まだ足りない。その不足を補うためにここに来た。
「どうぞ、はいって」
「失礼します」
 俺は会社の面接に来ていた。
「では、お座りください」
「お願いします」
 椅子に座る。社長直々に面接をしてもらうことになっている。
「では、質問を始めます。なぜ、我が社をご希望になられたんですか? 兄さん」
 そう俺は和樹の会社の面接に来ている。
「はい、私は御社の……」
「そんなこと聞いていない。口調もいつも通りでいい。何で、俺の会社に来た」
 こないだのからかい半分の感じとは違い、威圧感を漂わしている。弟であり、かつて俺が見下していた存在に俺は今怯えていた。だが、こんなところで燻っているわけにはいかない。
「俺が今からまともに就活して、就職できるとは思っていない。俺だってそこまで馬鹿じゃない。でも、仕事がいるんだ。頼める伝手はお前しかいないんだ。お願いだ、どうか俺を雇ってくれ。なんだってする。下働きでも何でもいい」
 頭を下げる。プライドなど当に捨てている。なりふり構ってなどいられない。
「今更何なんだ。兄さんみたいな屑を雇って何の利益がこちらに生まれるんだというんだ。なぜ急に働くことになった?」
「それは……」
 しかめっ面から、急に納得顔になった。
「もしかしてあの奴隷か。そういえば神崎から兄さんは返品してないと聞いたぞ。何だ。情では移ったか、あんなものに」
 あんなもの? だと。あんな不幸な目に会って、生きている相手にあんなものだと。しかし、ここで逆らってはいけない。耐えなければならない場面だ。
「そうだ」
「マジでか。それは傑作だな。あれにか」
 そのまましばらく腹を押さえ、笑っている。突然笑いを止める。
「いいよ、兄さん。それは面白そうだ。実に面白い。久しぶり笑ったよ、こんなに」
「ありがとう」
「いいよいいよ。兄さんが一人いようといなかろうと何も変わらないし。まぁせいぜい頑張って。それじゃ」
「失礼しました」
 そう言って社長室を後にした。

 家に帰り、美咲に仕事の話をした。彼女は驚き、喜んでくれた彼女の期待を裏切らないように俺はこれから頑張らなくてはいけない。

八十六日目
 美咲との同棲生活も後少しで三ヶ月が経とうとしていた。仕事は始めのうちは怒鳴られっぱなしだったが、最近やっとまともにこなせるようになってきた。少しづつ安定し始めていた。そんなときだった。
 弟の和樹が死んだ。
 何でも強盗殺人に会ったそうだ。それなりにいいセキュリティの家に住んでいたはずだが、突破されたらしい。寝ているところに心臓を一突きだったらしい。どこかで聞いたような話だ。さらには金品も奪われたらしい。それと同時に和樹が行っていたらしい悪事が次々と明らかになり、会社の信用がガタ落ちしていった。そんなときに俺が社長に推薦された。単なる責任の押しつけだ。
 家に帰ると落ち着かなそうにしていた。
「大丈夫ですか? 喜津様。テレビで見ました。喜津様が和樹様の会社を継ぐだとか」
「そうだよ」
「しかも和樹様の行いの責任まで取らされるとか」
「そうなるだろうな」
「大丈夫なんですか? 心配です」
「まぁ、どうにかするさ」
 不安でいる美咲とは違い、俺はこれをチャンスと考えていた。会社の経営さえ立て直しさえ頑張れば、俺が年商何十億の社長になれる。そうなれば、美咲に自由で裕福な生活を送らせることができる。
「本当に無理はしないでください。この子のためにも」
 そう言いながら、両手をお腹へ持っていく。
「もしかして…お前」
「はい。身ごもっています。だいたい五週目だそうです」
 その言葉を聞いたとき言葉にできないほど喜びを覚えた。知らず知らずのうちに美咲を抱きしめていた。
「俺頑張るから」
「はい」

百七十日目
 俺は会社の立て直しに成功し、和樹以上の年収を得ていた。親からも今になって認められた。そして、美咲のお腹も順調に大きくなってきていた。約半年の中で俺の人生は百八十度逆転した。何もかも美咲のおかげだ。彼女に会えたから、今の俺になれた。美咲に感謝し、奴隷センターにもそこに俺を紹介してくれた和樹にも感謝しよう。
 俺は美咲とこれから生まれてくる子どもとともに幸せな家庭を築くのだ。そのためにも今日も俺は会社に行く。

終わり









 とでも考えていたのかな、この男は。滑稽だな。だいぶ前に和樹も言っていたが、こいつは本当にお笑いものだ。笑いが止まらない。まぁ、いいか。もう何も偽る必要はなくなったし。あれどうされたんですか? 喜津さ・ま~。お腹からそんなに赤いもの垂らして、その年になってお漏らしですか~? 冗談ですよ、冗談。私が刺した後ですもん。それくらい分かりますって。後どのくらいで死ぬんですかね? それまでにはお話してあげてもいいですよ。私を買ってくれたことに免じて。えっ、全部嘘だったのかって? う~ん、そうですねぇ。私の境遇についてはほとんどノンフィクションですよ。違うのは一部だけですよ。私はロープじゃなくて、鉄の手錠されてたんですよ。自力で抜け出すなんて不可能だったんです。どうやって抜け出したかっていうのは、闇金の人に助けてもらったんですよ。あいつヤバいところから借金してて、その取り立ての時に私が見つけられ、そのまま取り立てられました。そして、奴隷センターに売り渡されたんです。その後も何回か売られましたよ。喜津様は何人目でしたっけね。忘れちゃいました。そういえば知ってました。いや、もちろん知らないんでしょうけど、和樹様だって知らなかったのですからね。あの店の稼ぎのほとんどは私なんですよ。わ・た・しがあの店での最大の利益を生んでいるんです。そうそう、もう一つ秘密があるんです。私は返品なんてされたことありませんよ。自分で返ってくるんです。買ってくれた人を殺してね。ついでにお金ももらって。何がなんだか分からないって顔ですね。まぁ、思考力もないでしょうしね、今の体力じゃ。私が猿でもわかるように説明してあげます。私はわざと安く買われるようにして、その雇い主に取り入り、お金を巻き上げてくる。あっ、猿じゃ日本語分からないか。でも、分かりましたよね。あなたは騙されたんですよ。奴隷センターに神崎に私にも、ね。でも、あなたほど私の話を真に受けた人はいませんでしたよ。大体の人は奴隷の戯言と流しましたよ。なのに喜津様は真剣に向き合って、なんと社長にまでなられました。実に愉快でした。お金まであんなにたくさん。私のために頑張ってくださってのでしょう。ありがとうございます。そして、ばぁか。そんなんだから騙されんだよ。はっ、いけないいけない。死ぬまでとはいえ、ご主人様になんて言葉を、って今更ですよね。えっ? 何でこんなことしてるのかって? そりゃ、私が幸せになるためですよ。私お店の中ではあんな感じですけど、裏ではすごい優遇されてるんです。神崎だって私には頭があがらないんです。そりゃ、立場は奴隷ですけど、一級品の扱いを受けています。その理由はですね。私が人を殺すことに長けているからですよ。客に取り入り、油断したところで、こんな風にズブリと。ごめんなさい。また深く刺しちゃった。でも、許してくれますよね。私のことが好きなんですから。ああ本当に可笑しい。でも、ちょっと嬉しいですね。まだ人の情が私にあるなんてね。そろそろ終わりみたいですね。それじゃ、和樹様によろしく。そうだそうだ、最後にもう一つだけ。お腹の子は奴隷センターに寄付します。今までだってそうしてきたんですから。あそこにいる子どもはほとんど私の子なんです。この子もその一人になるんです。また、高く売れるといいな。そんな死にそうな顔しないでくださいよ。あっ、死にそうなんでしたね。でも、いいじゃないですか。
だって『お腹の子はあなたの子ども』ではないのですから。この子は和樹様の血を受け継いでいるんです。どうやってって? そりゃ和樹様とセックスをして、和樹様に種付けしてもらったんですよ。喜津様が自由に過ごしていいって言うから、好きにさせてもらったんです。あなたよりも女の体の扱いが上手でしたよ。あなたの子なんて孕むわけないでしょう。役立たずの遺伝子なんか必要ないですし。そんなに睨まないでください。あなたが社長になれたのも私が和樹様のものになって、殺してあげたからですよ。ちなみにあの人の死に顔とそっくりですよ、今。あれ、もしかして死にましたか? それではごゆっくりお眠りになってください。では、最後に一言。

 奴隷センターのご利用ありがとうございました。またのお越しは二度とないでしょう。

スポンサーサイト

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


剣氷の双巫女

 「おい、早く炎系統の降臨士をつれてこい! このままじゃああいつの命もどうなっかわかんねぇぞ!?」
「いや、もう何人も挑戦してんだが、あいつの冷気が強すぎる! 燃焼温度が維持できないだとかで、火が消えちまうんだと! 今、よその支部にも応援を要請してるが、それでどうにかなる規模じゃねえぞ!」
避難した人たちが、結界の外で騒ぎ立てている。
そう、今、人口7万の町、その6割が白い世界となっている。
暴走。
その一言で片付けられると同時に、その一言では片付けてはいけない規模の超暴走が今、この町で起こっていた。
3日3晩、その吹雪は吹き荒れたが、奇跡的に死者を出すことは無かった。
この事件は『雪姫騒乱』と呼ばれ知らぬものはいないが、この事件を起こしたものを知るものは少ない。
だが、この事件を真に知る者はさらに少ない。
ごくわずかの真実を知るものは、暴走を起こしたものをこう呼ぶ。
『白袖の雪姫』……もしくは。

『絶氷の白神子』と。


〈さぁて本日の決闘は! もはやメジャー、異国の妖怪イフリートを宿した神名火達磨(かんなびだるま)! その破壊力、今日も魅せてくれるのか!? 対するは、未だになんの妖怪を宿しているのかわからない! けれど決闘は、完全試合(パーフェクトゲーム)オンリー! 付いた二つ名は『両極端の剣巫女』水無月紫陽花(みなづきあじさい)! これは、注目の一戦だ! さぁ、Ready……Go!〉
「悪いな、女相手でも容赦しねぇぜ……『紅蓮拳』!」
赤く燃える拳をまとった達磨を前に、私はため息をついていた。
{ひひっ、どうせ腕っ節も破壊力も俺のが上なんだ、この試合……負けはない!}
なぜなら、私は……。
「喰らいやがれえええええ!!」
{右ストレート、これで決まるだろ}
スッ……右足を前に擦り出し、達磨の左脇に身を入れる。
「なっ!?」
{バカな……なら、体を回転させて裏け……}
「そんな体からじゃ、まともな裏拳は放てませんよ」
「え……?」
足を踏み変え、小さく回転。
裏拳が来るタイミングで股を開き、重心を一気に下げる!
「そんな馬鹿な話がっ!?」
「終わりですね……『華車・水月』!」
全身を使った回転を載せた、木刀による斬撃。
それは、相手に心の声すら許さず、沈黙させた。

〈決ぇっ着ぅ!今回は『剣巫女』の完全試合だあああぁぁぁ! まるで相手の行動が読めているかのよう! 華麗に躱し、華麗に切り捨てたあああぁぁぁ!〉

私は、ため息をつきつつ控え室に戻った。


「おうおう、『剣巫女』のご帰還だ」
控え室に戻ってきた彼女に、俺は声をかけた。
「……要件は?」
「聞かなくてもわかるんじゃないのか?」
{聞かなくてもわかるんじゃないのか?}
「……!?」
おーおー、狼狽えちゃって。
「ま、それを確認したかっただけだから、あんまし警戒しなさんな」
{誰かにばらしたりはしねぇからよ}
さて、要件は終わったし帰るか。宿題も終わってねぇしな。
「ま、待ちなさい! どうして分かったの!?」
その言葉に俺は一瞬足を止め、言ってやった。
「あんな動きを初見でやってのけたんだ。五感の強化か、心でも読まん限り難しいだろうが」
「なっ…………」
「んじゃな」


「おい、昨日の決闘見たか? かなりスタイリッシュだったよな!」
「ああ、なんかもう写真部の方では決着の瞬間とかが一枚で売られてるらしいぜ! 買いにいかねえとな」
次の日、授業合間の廊下は大騒ぎだった。
ここ、国立降臨士養成学園では、昼の授業時間と、夕方の決闘時間の2つのコマがある。
授業時間は学力試験と社会常識を学ぶためであり、決闘時間は降臨士としての戦闘力を育成するためである。
降臨士……国家公務員の役職名であり、また自身を依り代として、古今東西の妖怪を降ろしてその能力を使う者のことである。
妖怪は多種多様……私は、『サトリ』を降ろすことができる。
だから、私は他人の心がわかってしまう。こんな力、枷にしかならないとはわかっていても使わなければこの時勢でやってはいけないから仕方ないのだが。
(けれど、まさか気づかれるとは思ってなかった……何者なんだろ……?)
今は放課後。決闘時間までは一時間ほどある。
一度決闘すると、一週間は抽選からはじかれるため見るか自分の時間にあてるかは自由ではある、が……。
「ちょっと、あいつでも探してみるか……?」
(いや、何を考えているの私!? いや確かに気になるけどさ……)
そう、これからの予定を決めかねていると、同学年(タイの色が同じ)の男子が一人近寄ってきた。
「なぁ、『両極端の剣巫女』さんよ、ちょっと顔貸してくれない?」
{お前のことで話があるんだ。能力のこと知られたくなかったら黙ってついてこいよ}
「……わかった、わ……」

後者の裏側、下卑た笑みを浮かべている男たち。その中の一人、さっき私を呼び出した男が声をかけてきた。
「さぁて、ズルをしてた巫女さんにどういったオシオキをしてやろうかね……」
そいつの言葉は無視し、私は声を聞くことで伏兵を探したが……。
(周りに隠れてるのも含めて、聞こえる声は30人ほど……木刀は持ってるけどさすがにこの人数は……それに、一人近づいてくる……?)
「おや、きちんと来てくれたんですね、紫陽花さん。歓迎しますよ」
胸に光るバッジを付けたその男は、
「あんた……神無グループの……」
「神無出雲と申します、以後お見知り置きを……」
「主席入学者で最大派閥のリーダーのあなたが、どうしてわたしなんかを……?」
「いやぁ、オシオキというのは建前でしてね、あなたにご提案をしにきたんですよ」
相手の言葉と心の声と、2つの情報を読み取って真実を悟ろうと私は耳を澄ました。
(心の声に嘘はない。なら、なにを提案してくる……?)
「いや、あなたの降ろす妖怪の強力さに惹かれましてね、私の婚約者となっていただけないか、と」
……………………は?
時間が止まった。私の思考が、ではあるが。
……婚約……?
「神無グループの次期総裁ともなると、伴侶となる者にも相応の才が求められているんですよ。特に神無グループは、降臨士のおかげでここまで発展していますしね。あなたの才は、我がグループが更に発展するために必要なんです!」
「お断りです」
こんなの、考えるまでもない。そもそも無視すればよかったのに、なんでついてきたんだろう。
「何がご不満なんですか?お金ですか?地位ですか?」
これがただのポーズなら、まだ良かった。
何より許せないのは、それを……自分に従うことを当然と思っているところ!
「なにもかも気に入らないけど……一番はあんたのその傲慢さよ!」
「そうか、では妻は諦めて……召使にでもなってもらおうか!」
出雲が手を挙げる。
同時に、雄叫びが上がった。
「みんな、リーダーの願いを叶えろ! いくぞ!」
(お願い……力を貸して!)
私は、サトリを本格的に降ろし、そこにいる数十人全員の思考を読む!
真正面からの刺突は、すこし身体をずらせば当たらない。
そのままバックステップで横からの射撃をかわしつつ、後方に柄による殴打を放つ。その反動を利用して前方の敵に裏拳を放つ。
けど、こんな闘い方じゃぁ一人づつ、しかも私自身の体力というリミットが存在する。
でも、サトリは直接的な攻撃能力は無いに等しい。私の修めた武術でカバーしても、限界が……!
ガンッ!
「はっ、俺は塗坊だ。んな木刀効くかよ!」
……えっ?
パキンッ。
乾いた音を立て、木刀が折れた。
「そんなっ、樫の木刀がっ!?」
「終わりだ、女ぁ!」
避けることは、できる。けど、避けたところでどうする?
攻撃は? 拳と脚があるにはある。だがリーチが、そしてなにより破壊力が木刀にはるかに劣る。
30人……しかも一人は伝説級。
私は無理、と判断し、結果、避けることを止めた。
意味のないことだから、心を読むのも止めた。

だから、気がつけなかった。一人、他と違う声を発していたことに。

「くたばれええええ!」
最後の瞬間、私は目を閉じた。だって、見ていても何も変わらないのだから……。

だから、気がつけなかった。影がひとつ、前に割り込んだことに。

「まったく、なーにしてんだかな、俺も、あんたも」
「んな、なんだはなせテメッ!?」
「え……?」

意識が飛ばない、それを不思議に思った私の目に写った光景は、土色の拳を、氷に包まれた掌が止めているものだった。

「あ、あなた、なんで……?」
「ま、なんか巫女さんの噂が流れてきたのと、嫌な感じがしたのと半々かな。しっかしまぁ32人……これじゃ結構キツイか?」
「は、女助けて騎士気取りか、いいご身分じゃねえの!」
氷の男はそれには答えず、ただ手の周りに白い風を生み出した。
「『ホワイトツイスター』……吹き飛べ下郎」
吹雪のつむじ風が、塗坊の男を吹きとばそうと渦を巻く。
だが、飛ばない!
「俺を飛ばせるか! 俺はぬり……」
「なら、飛ばなくていい。
散 れ」
ゾクッ……
周囲に満ちた威圧感に、私も塗坊も、声を出せなかった。
「終焉を抱いて永久(とこしえ)に眠れ……」
塗坊の頭上に、白い風が渦を巻く。
最初、小指の先ほどの大きさだった氷は、刹那の間に大きくなり巨大な氷塊と化す!
「え……ちょ、やめ……」
「てめぇらは、泣き叫ぶ女(ひと)がそういってやめるっつうのか!? 『インブレイスエンド』!」
風によって重力に抗っていたその氷塊が、ダウンバーストを受け急速に落下、押しつぶす!
その光景は、男たちを黙らせるのに十分であり、キレさせるのに十二分なインパクトを持っていた。
「「「……舐めてんじゃねぇぞ糞野郎!」」」
一斉に、残る男たちが距離を詰めてくる。
「なんで私を……それに、この人数どうするのよ……」
へたり込む私に、彼はこう告げた。
「ま、どうせ全力出すんならな」
「え?」

「{誰かを守るために全力を出したかったんだよ}」

それは、力を使っていない私の耳に確かに届いた。
なんで? それは、多分……彼の背中が、とても頼もしかったから、か……?
彼は、座り込む私の前を離れ、そして5メートルくらいでとまった。
私は、見てることしかできなかった。


(さて、なんか助けちまったがこりゃマズイな確かに)
なんせ、俺の妖怪は強さ的にはそこまで高くないからだ。
(ま、感付かれたらそんときゃそんときか)
自らの周りに、吹雪を呼ぶ。
「悪いな、さすがにまともに相手取れないんで……」
吹雪は俺の体を隠し、刹那に散る。
「私の全力で、お相手させてもらいますね……」
その吹雪を、凍りついたかまいたちに変え、真後ろを除く全方位に撃つ!
何人かまともに食らっていたが、その目は私から離れない。
「え……? あなた、いったい……?」
そう、だって今の私は、
「こちらの姿では初めまして……あなたが今まで見ていたのは白兎というものです。私は、雪霞といいます、以後お見知り置きを……」
雪女、なのだから。
「こ、この野郎……変な幻覚見せやがって!」
「無礼ですよ」
殴りかかって来た男を、雹弾で弾き飛ばす。
「面倒ですので、一掃させて頂きますね」
髪の毛は、首筋までだったのが腰まで伸びている。
その髪が逆立つほど強い風を起こす!
「『颶風雪嵐』……吹き飛んでいただけます?」
その冷気は身体を鈍らせ、その雪は関節を固め、その風は吹き散らす!
「そしてあなたが親玉ですね?」
氷で作られた弓矢、その鏃が向く先は出雲だった。
「おや、元が男だとは思えない美しさですね、お嬢さん」
九本の尾を前に出し、身を守っていた出雲が姿を表した。
「しかし、姿形が変わる……しかも、その白い振袖姿というと、あなたがもしや『絶氷の白神子』ですかね?」
私はその瞬間、弓弦を引き絞り狙いをつけた。
「まさか、あなたが知っているとは、ね。どこから聞きました?まあ、答え云々の前に狙う理由が一つ増えたわけですが」
対する出雲は悠然と立っている。
「私くらいの立場となると、色々と情報が集まってくるんですよ。しかしこれは問題ですねぇ……。あの『雪姫騒乱』の首謀者がこんなとこにのうのうと通ってたとはね。これは……退学物じゃあないですかねぇ……?」
「ちょ、いきなり何を言って……」
「辛うじて死者が出なかったものの、あんな歴史的大事件の首謀者が学生やっている、それ自体許しがたいことだと思いませんか?」
スッ……と後ろに下がられる。
「くっ、逃がしません! 『雹閃』!」
「『鬼火』……悪いね、それではごきげんよう」
私は、ため息をつくと、憑依を解除した。
「さて、さすがに色々と説明したいんでちょい付き合ってもらえる?」
手を差し出すと、少し戸惑いながらも握ってくれた。
「そうね、きっちり、聞かせてもらいましょうか……?」


私たちは、学外の喫茶店に来た。
「さて、まずは……そうね、あの人物変換から聞かせてもらいましょうか?」
私は紅茶、彼はコーヒーを頼んで、長期戦の構えをした。
「つってもそんな複雑な話じゃあないんだがな。なんか憑依震度が高いみたいで、能力と同時に容姿も継承しちまうんだよ。普通に力借りるんじゃそうはならんのだけど、ある程度以上力つかおうとするとああなるんだわ。んで、どうせ言うから先に言っとくが、俺の二つ名は『白袖の雪姫』とか『絶氷の白巫女』みたいに女性系になっちまってるんだ」
にわかには信じがたい、が嘘はない。
「じゃあ次。『雪姫騒乱』の真実を。あれ、どれだけ情報集めても街が3日3晩吹雪に包まれて凍ったが、死者はいなかった、ってくらいなのよ……」
「ま、そりゃそうだな。だって、情報の中で最大のものが、犯人は白い振袖着てたってことだけだからな」
ズズッ……とコーヒーを飲みながらそう答える彼。
「じゃあ、もしかしてそれ以上は……」
{すまんが呼んでくれ。つってもこれも深くはないんだが。事故で両親失ってね、暴走しただけなんだわ、これが}
絶句、するしかなかった。
確かに、それは単純な理由だろう。それで街一つが機能を失ってはたまったもんじゃない。けど、『雪姫騒乱』は10年前の出来事だ。
わずか7つの子を責める気にはなれない。
親の愛情を受けきらずに、立たれてしまっているのだから。
「じゃあ最後……なんで私を助けたの?」
これが、一番知りたかった。
だって、っこの世界でわざわざ少数に与するメリットは限りなく低い。
なのに、彼はあろうことかこう答えた。
「{助けたいと、思ったからだ}」
「そ、そう……か……」
思考停止。
それを解いたのは、一通のメール。
「あーらら、こいつぁキツイね」
「って、なんなのこの内容!?」
それは、白兎の正体と、退学しろというものだった。
「ま、さすがにあいつの権限でも問答無用っつうわけにはいかなかったみたいだけどな」
「だからって、決闘しろとか、そんな話が……」
「ま、見てろ。勝つからよ」
「え……?」
「ちっと準備することできたから帰るわ。これ代金な。じゃな!」
「え、ちょっと待って……って、これ……」
置かれていた代金は、全額であった。


〈さぁいきなり始まりますは、なんと前年度主席入学者、『九火』の神無出雲! 対するは退学のかかった『雪姫騒乱』の当事者、『絶氷の白巫女』如月白兎! どちらが栄光を手にするか……Ready Go!〉

俺はすぐに雪霞を下ろす。
「キミには消えてもらう! いけっ、『狐火』!」
無言で雹弾を撃ち相殺。
「『絶氷刃』……斬る」
応援は絶望的、ならばもはやオーディエンスは気にしない。全力で潰すのみ!
氷で太刀を作り出し、斬りかかる。
だがそれは、尻尾の一本に弾かれた!
「!? ……硬いですね!」
「雪女ごときが……この私に勝てるとでも!?」
そして、九尾すべてに火が灯る。
「燃えろ……塵も残さずな」
「ならば、『氷盾聖域』……通しません!」
「そんな氷、溶かしてしまえば!」
尾の一本がかすり、吹き飛ばされる。
「あっはっは! なぜ闘う? なぜ抗う? 無駄と知りながら、なぜ!」
そんなの……
「諦めろ! どうせお前の負けは決定してるんだ!」
なん……だって……?
「なぜならこの会場には、狙撃手が五人配置されてるからねぇ……万が一にも負けるわけには行かなかったからね、ただの保険さ」
瞬間、炎で視界が閉ざされる。
同時に、身体を5つの灼熱が通り過ぎる。
「キャッ……」
「く、ははっ、ははははは! 弱い、弱すぎる! それが歴史に残る大罪人の力かよ、あくびがでるわ!」



10分後。
俺は、満身創痍だった。
当然だ、反撃を許されなかったのだから。
「さて、そろそろ止めといこうか!」
「不覚っ!? 間に合わ……!」
そのときだった。
通る声が、響いたのは。
「白兎おおおおお! 狙撃手全員片付けたわ! だから、だから……やっちゃいなさい!」
「ばかな、なんで!?」
あ? 身体が……うご…
「ちっ、サトリというのはやっかいだな……まあいい、今から殺せば……!」
まだ、動く。動いて……くれる。
刹那の差で、俺/私は覚悟を決めた。
「ここで、死ぬわけには……!」
尾三本の打撃、これをギリギリでクリア。
「なっ……!」
火の追撃、これは周囲の気温をマイナスまで下げることで消火。
「バカな……!?」
そして邪魔な尾は、氷の鎖でがんじがらめにする。
「ありえない……!!??」
「ようやく、道ができましたね」
「いや、やめてくれ、それはずるだよ、だからいけないよ!? 氷が火に勝てるわけない、そんなのありえない、だから嘘だ!」
ああ、うるさいな、そんなの、属性不利はただ不利なだけ。超える方法なんざいくらでも……!
「お黙りいただけますか?」
これで口も塞いだ。
「決めさせてもらいますね、白兎も限界なので」
冷気を右腕に集中。それは甲剣となり、ランスと相成った。
右肘の部分には、冷気で圧縮した空気を封入。
「いっけえええ! 雪霞あああああ!」
「はああああ! 『雹閃・氷見桜』!」
腰の回転と圧縮空気の解放により、先端部は音速を超え、

まるで桜のようなヴェイパー・コーンを生み出した。

先端は潰してあるもののその衝撃は凄まじく、出雲は吹き飛び……ぴくりとも動かなかった。

〈決着! 途中は押されていた白兎選手、怒涛の反撃で打ち勝った! この試合、勝者は如月ぃ、白兎ぉ! って、え?〉

「御曹司のためにも死んでもらおう!」
スーツの青年が一人、疾駆する。
(やべ、さすがに身体が……)
「覚悟おおおおおおおおおおおおおおおおげふっ!?」
「真剣勝負に……」
その横っ面を木刀で弾き飛ばしたのは……紫陽花。
「手出しは無用! 『蜂華・通燕衝』!」
全力の突きを受け、飛んでいった先は……出雲。二人は激突、そしてまたぴくりとも動かなかった。
「あとで、あの喫茶店きてくれる……かしら」
白兎に戻った俺は、言った。
「それなら、すぐにでも」

後始末は、てんやわんやだったので割愛。
とりあえず俺は退学を免れ、責任が取れる年齢ではなかったのと情状酌量を持って罪に問われないことになった。
ただ、その結果ネットでも広まってしまった『絶氷の白巫女』という二つ名は消せそうになかったが。

喫茶店。窓際の隅の席に彼女はいた。
彼女は少し顔を赤らめ、そしてこういった。

「あの、私とタッグを組んでもらえますか……?」
それにどう答えたのかは言わないでおこう。
恥ずかしいからな。
けれど数カ月後、新たな二つ名ができたのでそれだけは教えておこう。

『剣氷の双巫女』。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


街の子供達の続き

 萌芽の「街の子供達」の続きです。
 そっち読まないと全然わかんないと思います。
 面倒ですいません。







ORPNING


 あーはいもしもしー。
 シショー?
 うんうん、こっちは順調だよー
 なんて言うかな、もうサイコー!
 多分これあたしのテンショクって奴だね
 もう楽しくてしかたないよ
 殺す相手に成り切って自殺のシナリオを考えて、さもそのシナリオ通り自殺したように現場を作るの
 え?
 やーだなー心配しすぎなんだよシショーは
 大丈夫大丈夫、私の殺人はパーペキパーペキ
だってあのB地区の食パンみたいな顔した女も、C地区のちょー偉そうだったあの女も見つかってすらいないんでしょ?
 え?
 任役?
 ふーん
 へー
 で?
 大丈夫だって、大丈夫
 フヒヒヒッ
 うん、じゃあもうちょっとでこいつも終わるから
 うん、またねー、うん、バイビー

 さて、カイチョーさんごめんねーまたせちゃって
 なにか言い残す事ないかな?
 ニッヒヒヒ
 まだそんなこと言っちゃってる
 バカだなー
 お馬鹿さんでちゅねー
 メードのミヤゲに良いこと教えてあげちゃうね
 シンコーっていうのは心の支えであり、一人一人の心の中にある物なんだよ
 カイチョーさんのやってた事はかび臭いお説教と夢をシンジャに与えてただけでそんなものはシュウキョーじゃないんだよ
 支えを自分で作るよう手助けすることなく、ただいろいろチンケな物あげるだけだなんてシンコーじゃなくてただのケイヤクだね
 だーかーら、カイチョーさんが死んじゃっても私達だけでぜーんぜん問題ないんだよね
 ケイヤクの対価を払いつづけさえすればいいんだもん
 Do you understand?
 フヒヒヒッこんな講義をサラッとできちゃうだなんてあたしって天才ね

 じゃあカイチョーさん、バイビー





ONE


 闇の中で私は立ち尽くしていた。
 手元のランプからも漏れる固形燃料の頼り無い灯りが、私のすぐ横の水路を流る水を照らし出す。私は闇の奥へと目を凝らし、他の光を必死に追い求めていた。
「ちょっと、これは流石にマズイな」
 私の阿呆のような呟きは、積み上げられて幾年と経たずに脆く崩れ始めた黒土のレンガの壁に数回跳ね返っただけで、虚しく闇の中へと消えていった。
 迷ったぞ、これは本当にマズイんじゃねぇか? どうする、地上にどうやって出るんだ?
 思考が静かに焦燥という無意味な物に侵されていく、それはまるで腐肉にたかる雲霞のようで……
「高橋さん」
 不意に背後から声がかけられる。振り返ると彼が立っていた。
「お、助かったぜ」
「高橋さん、お願いです、私から、離れないで」
「あーわりぃちょっとね、いやマジ焦った。助かったぜ」
 揺らめく細い灯りに照らされる彼は、まさしく亡霊のようだった。上半身の皮膚を覆い隠すよう幾重に巻かれた薄汚い包帯、ボロ布のような服、包帯から除く目は赤く濁り、唇が無く歯が剥き出しになっている口、僅かに覗く膿み爛れた皮膚、「同じ人間?」そんな差別的な感想を初見の相手に必ず抱かせる。彼は救民の長「雲」から貸し出された人間、今回の不死追いの捜査に同伴させてやって欲しいと向こうから頼まれたのだ。
「高橋さん、どうか、したんですか?」
 彼は酷く聞き取り辛い声で、途切れ途切れに言葉を並べる。
「いやなにアレだよアレ、アレが気になってな」
 そう言って私は横の水路を指差す。まるで生き物の血液のようにドクドクと流れる水の底に、それは沈んでいた。
「よく、見えない、何か、あるのか?」
「見えねーのかよ、そこだそこ、あー、いいやそれで適当に引き上げてみろ」
 彼は背負っていた槍を構え、私の指差す水底へ探るように入れられた。
 槍が何かに突き刺さる、重たげにそれが引き上げられる。

 死体だ

 劣化が激しい、ブヨブヨのグチャグチャだ。
「結構新しいんじゃねーかこれ」
 流石に驚いたのか、彼は私の問いかけぬ何も答えられず、ただただその燻んだ瞳を伏せるだけだった。
「おい、包帯無口」
 私は彼に呼びかける。
「あ、あぁ」
「これ、誰か判別できるか?」
「無理」
「まーそうだよな。身ぐるみ全部剥がされてるし、ここまでグズグズになっちまったらな」
 しっかしまぁこうなんというかねぇ、私はそんな呟きを発しつつこっそり彼を観察する。
 コイツ……いや、多分……
 私がいろいろと推理とも空想とも付かない茫漠とした思巡をしていると、包帯無口は死体をそっと担ぎ始めた。
「あ? お前それ持って帰るのか?」
 彼は動揺したように幾度か瞬くだけで、何も答えない。
「持って帰ってどーすんだよ、どうしようもないだろ。捨ててけよ」
 彼は私から目を逸らし、随分長い間の後、言葉を零した。
「良く、わからない。でも、ここに、置いては、いけない」
 彼は未だ迷っているようであったが、その言葉の端に、私には理解できない類いの強い感情が見えた気がした。



 手持ち無沙汰
 そんな言葉がよく似合う。
 俺はC地区の寂れた病室の汚れた鉄パイプにただ座っている、何をするわけでもなく、何をすればいいのかもわからず。
 目の前には二つのベッドがある。片方は誰も使用していない壊れた……高橋が壊したベッド、そしてもう片方のベッドでは神崎が絵を書いている。
 不思議な空間だ。小さな窓から差し込む淡い日の光、彼女の走らす鉛筆の音、首に痛々しく残る締め痕、それらが俺にとってのこの空間の全てだった。
 彼女が書いているの仮面の絵だった、それは不死追いが彼女と会う時に着けていた物だとか。くしゃくしゃのわら半紙に書かれていくその仮面は、鉛筆の頼り無い鉛色だけで描かれたと思えないほど濃密に描かれている。奇妙なデザインだ、鼻が異様に鋭く長く、口からは大きく鋭い歯が幾本も覗いているが、そんな凶暴な要素を多く持っているにもかかわらずどこか優しげな印象を感じる。
 性別男、年齢推定二○代、身長およそ一八○、温厚そうな人柄、妙に話を聞かせてくれとせがむ、「正義をさがしてる」という謎の目的、決して自分の意見は述べない、そして「誰かを殺してあげましょう」それが俺の持つ不死追いの情報の全て。
 先日、更新された賞金首一覧にて、ついに彼の呼称が決定された。モグリの任役、そして不死追い改め「落とし子」と。

 「落とし子」、この男は一体何なんだ?

「その……あの女の人は来ないのですか?」
 神崎の青白い陶器のような唇が、その静寂を控えめに乱した。
「え? あぁ、高橋さんの事ですか? 彼女はここ最近『救民』の人と一緒にずっと地下水路を調べています」
 それはこの三日間で初めての会話だった。
 彼女の顔は髪に隠れ、その声は掠れて聞き取り辛かったが、それでも彼女がとても緊張している事は察っせれた。
「……大変そうですね」
「でしょうね」
 神崎の証言によると、不死追いを呼び出すには地下水路に「手紙」を流す必要があり、実際に神崎の元にも手紙を読んだと言って現れたそうだ。
 不死追いは地下水路を拠点にしている、高橋はそう確信し、ここ三日目間地下水路を踏査をしているが収穫は無いようだ。
 俺は正直地下水路を活動拠点にしているという話を信じられない。c地区の地下水路はドラッグの密売人にとって格好の隠れ場であり、救民の管理は相当に徹底されていた。こんな怪しげな仮面を被った男がのうのうと動き回れる筈がなかった。
「神崎さんは高橋さんに会いたいんですか?」
「……」
彼女は複雑そうな表情を浮かべている。
 人を殺し、その罪を裁かれることなくこれまでと同じ日常を過ごさせられている。そんな彼女の心境は少し、本当に少しだが、わかる気がした。
 彼女はゆっくりと目を細め、おそらく無意識なのだろう、首の痕に手を当て口を噤んだ。
「今日はもう帰りますね」
「……さようなら」
「さよなら」



 俺は病室から廊下へ出て一息をつく、途端に体の内側からどっと疲労が吹き出す。
 疲れた、本当に、どうしようも無く。ただ仕事量がやたらめったら増えたというだけではない、精神的にキリキリと針金で締め付けられているような……
 目の前のひび割れた窓ガラスに映る自分と目が合う。

 なんて顔してんだ

 ガラスの中の半透明な自分は、あの時からまるで成長してる様子がなく、再び逃げ出そうとしてるように見えた。
「ちょっと、アンタたしか……」
 不意に声がかけらる。声の方を見ると、眼帯の看護師が立っていた。
「あ、こんにちは。その節はどうも」
 俺は慌てて白昼夢を断ち切り、無理矢理に笑顔を作った。
「何してんの?」
「えっと……友人の見舞いです」
「友人?」
 看護師が今しがた俺の出てきた病室の、乱雑に書かれた番号を見る。
「ここって袴田が居た病室じゃない」
「えぇ、まぁ」
 彼女から容赦の無い強い疑いの視線が向けられる。
 どうしよう、事情が事情だし説明し辛い
「任役さん、そういうのやめてくれない? こういう風に嗅ぎ回られるのが嫌だったから私は協力してあげたのよ」
「いや、でもあの件はもう解決しまして、これはその……」
「そうだったわねぇ、そういえば偶然かもしれないけど袴田さん自殺したのよね、偶然だと思うけど私があなたに情報をあげた直後に死体が見つかったんだっけ?」
「えっと、その、守秘義務っていうヤツでこれ以上は……」
「あっそう、素敵なお仕事ね」
 彼女の目に鈍色の重々しい敵意が現れた。
「任役さん、そっちがそういう態度ならこっちも考えがあるわ。これは明らかな契約違反よ、商会に連絡させてもらうわね」
「待って、待ってください。解りました話します。ただ非常に入り組んだ案件なので簡単に説明しきれる話では……」
「解ったわ、私も忙しいし。明日暇?」
「午後は暇です」
「じゃあ明日の一時半に会いましょう。ちゃんと説明してよ ね、袴田さんの件」
「……はぁ」



 事務所に戻ると高橋がソファーの上で寝ていた。シャワーを浴び終え、そのまま寝転がったようで凄い格好をしている。
「服を着てください」
「うるせー」
 俺は思わず彼女の体をまじまじと見てしまう。それはどう見ても普通の女性の体だった、別段筋肉質にも見えない。言われてみると多少の筋肉は見えるがとても強そうには……
「ジロジロ見てんじゃねー」
 彼女はうだるげに俺を非難するが、その言葉は無意味に拡散し、床の誇りの積み重なったようなカーペットの上に散らばるだけだった。
「嫌なら服を着てください」
「こっちは臭い水路を一日中歩き廻ってたんだぞ、ちょっとは気を使えバカ」
 俺は諦観にも似た反論を喉の奥へと押し込み、そこら辺にとっ散らかってる彼女の着替えを集めて渡す。彼女はようやくもそもそと服を着始める、てか髭だけは着けてたのかよ
「……それで高橋さん、進展はありましたか?」
「直接的な物は無かった」
「というと?」
「死体があった、水死体、比較的最近殺されたっぽい。ブクブクのボロボロだったけど」
 いろいろ手際よく殺されててな、どーせ手がかりは何も出てこない。そう高橋はつまらなそうに言い捨てる。
「で、間接的な物は?」
「前に言ったよな『不死追い宛に流されてる手紙の数が多い』って、それに今回の死体。どうも多すぎんだよな」
「多すぎる?」
「落とし子のヤツが不死追いを始めたのはつい最近なんだろ、それまではただの都市伝説だった訳だ。それにしちゃあなんつーか、いろいろあり過ぎる」
「確かに、私も高橋さんが水路で毎日二十枚ほど不死追い宛の手紙を見つけて来るのは、少し引っかかってました」
「そうそう、ようは根付き過ぎてんだよな、ただの一介の都市伝説の分際が。おそらく煽ってる奴がいる」
「誰ですか、その煽ってる奴って」
「さぁな、一応雲が寄越したあの包帯無口に洗わせてみてる」
「大丈夫ですかね、彼はただの地下水路の巡査なんでしょ?」
「いやそれは嘘だな、本職は殺し屋とみた。骨格から徹底的に体を作り変えてんだよアイツ」
「救民の殺し屋? アウトキャストのことですか?」
「ちげーよ、あんな向こう見ずな精神だけが取り柄な雑兵とは根本的に違う。もっと洗練された殺し屋だ、相当重要な位置の人間のはず」
「そんな人間をどうして雲は私達に?」
「それだけ今回の一件はヤバイってことだろ。なぁお前、いつまでも神崎なんかに構ってないでこっちを手伝え、アガサへの転院なんてどうでもいいだろ」
 アガサ記念病院、救民の長である雲が入院しているc地区最大の病院だ。
 施設自体がもはや救民の本部のようになっている。
「落とし子はまだ神崎さんを監視している可能性があります、だからいきなり不自然な理由で転院なんてしたら怪しまれます、ここは転院に相応しい理由『騙されてることに気づいてない任役に同情されて通い詰められ面倒になった。だから縁切り寺的な役割も持つアガサに逃げた』というシナリオが必要です」
「転院自体する必要が無いって言ってんだよ。いままで落とし子が過去の依頼主を口封じした事があったか? もうほっとけよあんな奴」
「駄目ですよ、彼女はまだ罪を裁かれていない。アガサの聖堂で裁いてもらわなくては」
 商会の審議室での審議は原則公開制だ、あそこで裁けば俺達の動きが不死追いに気づかれる。
 だがアガサの聖堂での裁判は非公開が基本、それにあそこの機密性は確かだから不死追いに感づかれることはまず無いはずだ。
「めんどくせぇ、めんどくせーよお前ら。裁きとか罪とか法とか倫理とか意味分かんねーよ」
 生き難くないのか? そうまでしないといけないなんざ、高橋はウンザリとした様子で俺に問う。
「そうでもしないと生きられないんですよ、自分は」
 罪とか、法とか、そういった正義が無ければ殺人なんて鬻げない。でも俺のこの考えは、きっと彼女には到底理解されず、ただ虚しさを双方に与えるだけの、尖ったガラスの欠片のような物のだろう。
「どいつもこいつもバカばかりで嫌になる」
 そう言うと高橋はふて寝を始める。
「明後日です、明後日には転院が完了します。それまではどうかお願いします」
今回はいろいろ損な役割を彼女に押し付けてしまってるのかもしれない、そう思うと少し申し訳なく思った。



 俺は自宅のアパートの階段を慎重に登る。
時刻は十一時過ぎ、ボロ階段を軋ませて寝てるであろう他の住人を起こしてしまいたくないが、B地区の建物とは思えないほどガタが来ていて俺は全力で足を忍ばせ上ってるというのに、その階段は自分がを楽団か何かと勘違してるらしく盛大に多様な音を奏でていた。
 もっと良いアパートに引っ越せなくもないが、正直自分は住居にそこまで関心を持てない。高橋のようなA地区の馬鹿でかい豪邸を買う輩の気が知れない、しかも高橋はなぜかあの事務所に寝泊まりしている。彼女の自宅では専属のメイドが一人寂しく気まぐれな主人の帰宅を待っているのだ。
 音を立てずに上ることをいっそ放棄しようかと悩み始めた時、 自分部屋の異変に気づいた。
 あれ? 電気が付いてる?
 俺は自室の前まで行き、少し緊張しながら鍵を開け、中に入る。
「おかえり」
 中から声をかけられ、俺は固まる。
「誰だお前」
 見知らぬ男が俺の四畳半で焼きそばを食っていた。
「失礼、あがらして貰ってる。怪しい者じゃない」
 嘘付け!
 俺は護身用のナイフに手をかける。
「よせよせ、高橋の知り合いだ。君は徳本の所で高橋と一緒に働いてるんだろ?」
「警邏の人間か?」
「あぁ」
 そういって男は黒に赤字の刻まれた薄い板を見せる。特二のプレート、実物は初めてみた。改めて男を見る、妙な格好だ、黒一色のコートに赤眼鏡、身長は相当ありそう。
「特務課が自分になんの用ですか、事務所を通してください」
 彼は黄ばんだ畳の上でその体躯を小さく屈め、ちゃぶ台の上でわざとらしく焼きそばをつつきながら俺に笑みを向けていた。
「いや、このプレートを見せといて言うのも何なのだが、今日ここに来たのは特務課としてではなく、高橋の古い友人『斉藤和弘』としてただの個人的な要件で訪問に来たのだ」
「個人的な要件?」
「君と友達になりたくてね」
 立ち話もなんだろ、早くあがりたまえ。そう言うと男は自嘲気味に笑った。
 敵意と害意は取り敢えず無さそうだ。俺はとりあえず中に上がりこみ、斉藤を名乗る男と向かい合うように座る。
「話をしよう、この街についてだ」
 俺が座るの見ると斉藤は宣言をする。
「街について?」
「そう、この街について。この街は不安定だ、砂上の楼閣その物といっても差し支えはない程に。十三年前国からブラックメサへ売り渡されたその時から、いや、ひょっとしたらそれ以前から今に至るまで安寧とは無縁の世界だったのかもしれん。経済的基盤の脆弱性、独立的運営方針の孤立化、カリキュラ厶そのものへの倫理的懸案、国営時代の悪質な治験とその負の遺産、壁の破綻、そして商会の台頭と利権を巡る潰し合い、救民の出現。平和、美しい言葉『平和』そんな物は一度足りともこの街に似合ったことはないのだよ」
 斎藤は得意げで、唄うように言葉を繋げていく。
「まるで『商会』も『救民』もいらないとでも言いたげですね」
「そんな意図はないさ。少なくとも商会の存在意義くらいは我々でも理解できる」
 口元は笑っているがその眼は赤いサングラスで隠され、表情を読み取られることを頑なに拒んでいた。
「救民は?」
「……随分とつまらない質問だな」
「つまらないのは貴方です」
「『その思念の数はいかに多きかな。我これを数えんとすれどもその数は沙よりも多し。』これが君の問いに対する我々の答えだな」
 彼は俺から目を逸らし、焼きそばに注意を戻す、嫌な人だ。高橋と似てる、人を見下し、バカにする事が楽しくてしかたのない人間。
「どういう意味ですか」
「皆まで言わせるな」
「救民の人々は犠牲になるべき人間と?」
「犠牲ではないさ、救民の大半が生存という報酬を得るに値しない人々というだけだ」
「だから殺すんですか?」
「ただでは殺さんよ、ちゃんとツケは払って貰う。不適合者なりにね」
 不適合者だと?
「貴方は、一体何様のつもりですか」
「『主は与え、主は奪う』我々警邏は街の要人であり街の意志でもある、それだけだ」
 コイツ、自分を神だとでも……
「本気で言ってるんですか? 貴方も救民の奴らも、皆同じ人間でしょうが」
「同じではないさ、生存権を勝ち得たか否かという点ではな。君、いい加減こんな下らない問答は止さないかね? この街を動かすには多大な犠牲が必要だという事ぐらい理解できない訳でもあるまい」
 そうだろ? と重ねられる。俺は静かに斎藤と向き合う。古い電球の黄ばんだ明かりを受け、彼の卑屈な笑みは生々しく栄え、赤いレンズの奥は黒く冷たく静まり返っていた。生死、善悪、明暗、それらを見続け、それらを見過ぎて、その境が分からなくなった人間の顔だった。
「詭弁ですそれは。例えどんなに理屈を捏ねたって、この世に『誰かが誰かを殺して良い理由』なんて存在しない。死にたくないんだ誰だって、だから生かしてあげようと人は努力してあげないといけない」
 斎藤は軽く息をつき、笑みをゆっくりと掻き消す。
「……なかなかに良い台詞だな。ところでそれは彼女の台詞かね?」
 彼女の台詞
 その一言に、心が、金属片が薄く削れらたような冷たい悲鳴を上げる。
「彼女……」
「水島美咲、たしかそんな名前だったか」
 俺は射竦められた。
「あ……貴方には」
 貴方には関係ない
 俺はそこまで口を動かせなかった。
 脂汗が滴り落ちるのが分かる、背中にジリジリとした悪寒を感じる。
 ーー聞こえてる? ありがとね、本当に、本当にありがとう
 ーー人は殺してはいけない。そんな事もわからないの?
 ーーねぇ、そんな顔しないで
「君も、今でも夢に見るのかい?」
 心がギリギリと悲鳴を上げる、逃げろ逃げろと騒ぎ立て、意味もなく体内を焼き焦がそうとする。
 ーー見て、綺麗でしょ。うん、そう可愛いよね。 ねぇ分かる? これって奪って良い物に見える? これって壊して良い物に見える? ほら見て、この子笑ったよ。
 記憶がまざまざと蘇る、あの時の風景、あの時の風、あの時笑っていた彼女、そして……
「分かるよ、初めて殺した相手というのはどうしてなかなか印象に残るものだ」
「……貴方には……関係ない」
 なんとか言葉を絞り出した。
「可哀そうに、君も『私と同じ獣だったのならば、罪悪感なんて物はついぞ感じなかったでしょうね』」
 彼は俺の態度に慢心したのか、再び顔に笑みを戻し、焼きそばの肉を麺から分ける作業に戻る。
「結構ですよ、自分は人間でいたいですからね」
 俺の素早い反論に、彼は少し驚いた表情を見せた。
「だったら君は何故商会なんかにしがみついてる、牙の抜けた畜生の分際で」
「貴方達には解りませんよ、懐柔するか噛み殺すかでしか他人と関れないような貴方達には」
 動揺するな、相手に弱みを見せるな。
 依然として心はドクドクと激しく脈打っていたが、俺はそれを全身の筋肉で必死に押し隠していた。斉藤は押し殺したような奇妙な笑い声を発する。
「すっかり脱線してしまったな、話を本筋に戻そう。この街に必要な物は平和だ。そしてひょっとしたら、それはまもなく訪れるのかもしれない。商会は警邏と表面上とはいえ手を結び、救民は商会の両首脳が初めて会談を実現させた」
「貴方達には不都合な話でしょうね」
「そうでもないさ。知ってるか? 虎は最初に子へ『獲物へとどめを刺す』事を教えるらしい、それを教わらなかった子は獲物へ同情してしまいとどめを刺せぬのだと聞く。生き物とはすべからくそういうものだ、生まれついての殺し屋なんて存在せず、常に良心の呵責に苛まれている。それは当然人間も、つまり我々も例外ではない。救民との交渉チャンネルが確立されつつあるというのは我々にとっての吉兆でもあるのだ、彼らと話し合えれば妥協点も探り易かろう」
「妥協点?」
「精神衛生と利益の均衡だ、噛み砕いて言えば無駄な殺しが減るという話、新しい救民の長『雲』は、ちとキレ者過ぎるが、どうしてなかなか話のできる男でな。まぁこんなことはどうでもいい。つまり我々の言いたい事はだな、『平和』を面白く思わない連中もいるという事だ。刃物と血と憎しみを糧に稼ぐ者、ぶっちゃけて言えば君たち任役だ。そういう訳で、来たるべき平和の危機に備え君のように『平和を望む、我々の味方』であろうと思われる有力な任役と、現場レベルでパイプを作っておこうと思ってね」
「有力な任役? 自分が? よしてください、私はただの牙の抜けた畜生ですよ」
「だが高橋のパートナーだ」
 俺は黙る。
「まぁとにかく、名刺を渡しておく。何かあれば気軽に呼んでくれ、利用してくれても構わんぞ」
 そう言うと斉藤は俺に名刺を渡し、立ち上がり帰り支度を始める。
「そうそう、最後に一つ警告をさせてくれ。落とし子にはこれ以上関わらない方がいい、抜けれなくなるぞ」
 斎藤は、実になんでもない事のように、何気なさげに呟いた。
「今日ここに来た一番の目的は、それを言うためですか」
 不敵に笑み。
「さっきの焼きそば、お前の冷蔵庫の残りで作ったんだが……」
「知ってます、それが何ですか急に」
「肉がマズい。最近食用キマイラの肉質が落ちてるらしいが何故だか知ってるか?」
俺は肩をすくめる。
「どうも最近奴等に喰わせて処理してる死体の数が減ったらしい」
「はい?」
「気をつけろ、不味いベーコンになんてなりたくないだろ?」





TWO


 壁が見える。雄大に広がる青空を無理やり引き裂いたかのように、歪な地平線を作り出す人工物。うざったい程の存在感を常に誇示するそれは、あまりにも見慣れすぎていて、私を含めたその行列に並ぶ人々にとってそれは漠然とした視線の対象に過ぎなかった。
「食いなれてないと、腹、壊す、やめた方が、良い」
「うるせー」
 私は包帯無口を連れて、毎週末行われてるC地区の炊き出しの列に並んでいた。ここは最も壁よりに広がるエリア、「貧民街」と言われているそーだ。まぁ名前ほど寂れてる訳ではなく、C地区にしてはそれなりに賑わってはいた。道の両脇でがくすんだインディゴブルーのテントで無理やり作られた軒先で、簡単な日用品が奇妙な値段で売られていたり、製作者の色彩感覚を疑うような奇抜な色合いのお守りが分厚いカーテンよろしく大量に吊るされていたり。個人的にその景色はなかなかに愉快だった。
 この行列の終点、正面の広場では炊き出しが行われていて、結構な数の人が集まっている。私はそれとなく列にならぶ人々を観察あいてみたが、言うほど生活に困窮している人には見えない。というか……
「コイツら殆どアウトキャストか?」
「ちょっと、高橋さん」
 包帯無口はかなり慌てた口調で私を静止する、周囲の何人かからかなり警戒の視線を感じる。
「定例会みたいな物か。雲って奴はやり手だな、一代でこれだけのシステムを作り上げるなんざ。なるほど警邏が対処できなかったわけだ、こんだけ規模がデカくなればあとは雪だるま式って感じか、そんで今はむしろデカくなりすぎて困ってるのか」
「全員が、全員、アウトキャストでは、ない。でも、救民以外が、いるのは、不自然」
「あっそ」
 列が進み、炊き出しが見えてくる。
 巨大な寸胴が幾つもの並び、中で白いクリーム状の物がグツグツと煮えている。片腕のあんちゃんがざかざかと葉野菜を中に入れながら、渾身の力を込めて掻き回している。
「で、調査結果はどうだったよ」
 配膳のカウンターにつく。乾麺が少量入った茶碗が渡され、次にその上から例のシチューのような物を入れられる。
「微妙。怪しい団体、『天碧会』」
 となりの包帯無口も、私と同じように謎の食い物を受け取る。
「聞いた事ねぇな、そこが不死追いの噂を流してるのか?」
「儀式の一つ、紙を地下に流す、願い事、叶う」
「なるほど、その団体の本部はどこだ? さっさと踏み込んでいろいろ聞くぞ」
 私はカウンターを抜け、適当な地べたに座り込む。
「落とし子が、気づく、君達の動きに」
「あーそうか」
 私達はまだ落とし子を正確に掴みきれていない、だから向こうが少しその気で逃げれば恐らくすぐに見失うだろう。それ故静かに、ゆっくりと、確実に追い詰めないといけない……だったか、めんどくせーなオイ。
 苛立たちを、割り箸で乾麺をぐちゃぐちゃに掻き回すことで紛らわす。
「聞いた、雲に、天碧会。設立、ずっと昔から、儀式も、ずっと昔から。最近、会員増えた、増えた理由、噂」
「噂?」
「天碧会、使える、呪い、魔術。強力な悪魔、『断罪の、道化師』」
 味が薄い、ただの栄養補給しかできない食い物か。予想通りすぎてつまんねー
「つまり『総研』絡みか」
「総研? なんだ、それ」
「知らないならいい、で誰なんだそんな荒唐無稽でバカな噂を広めてるのは」
「病院」
「は?」
「病院から、広まってる」



「そんなことがあったのね」
 片眼の看護師は納得をしてくれた。俺は病院の向かいに建っているうどん屋で昼食を食いながら、彼女に先の事件のあらましを説明し終えたところだった。当然話したのは真相でなく、神崎が当初俺達に話した作り話の方だ。
「で、あんたはなんで神崎の所に通ってるの?」
「いや、それはその……」
「惚れてるの?」
 彼女はその大きな片目を爛々と輝かせ、実に楽しげに尋ねる。
 惚れてる……良いな、そういう事にしておくか。
「まぁ、はい」
「あんたさぁ……まぁたしかにあの子美人の部類だと思うけど」
 お前がそれを言うとただの嫌味になるぞ
 多分彼女は自分が相当に美人だという事を自覚してないのだろう。
「あの子、この間転院届だしてたわよ」
「えぇ!?」
 俺は驚く振りをする。
「ウザがられてるのよ、ざまぁないわ」
 彼女はくしゃりと笑いながら自分の髪に触れる。
「そんな……」
 落ち込む演技。人を騙すのは決して得意じゃな、気づかれるのではと冷や汗が止まらない。
「でもよかった、転院の理由はそれか」
 彼女がボソリと呟いた。
 よかった? 少し引っかかる。
「ねぇ、あの子他に何か変な事言ってなかった?」
「変な事?」
「例えばだけど……そうねぇ不死追いとか、悪魔とか」
 悪魔?
 俺は一瞬答えに迷う。
「してません、それが何なのですか?」
 嘘を重ねることにした
「最近妙な噂があってね」
 看護師に俺を怪しむ様子はない。
「どんな噂ですか」
「前に話した不死追いの話と大体一緒よ。でも最近特によく耳にするのよ」
「その話を神崎さんがしていたらなんなのですか」
「別に何でもないわ、ちょっと気になっただけ」
「何か知ってるんですか? 不死追いについて」
 ため息、そして無言。看護師は俺の質問に答えることなく、タバコを取り出す。
「あの……まだ自分食ってるんですけど」
「だから?」
 タバコに火をつけ、彼女はぼんやり俺の顔を眺める。瞳にゆっくりと煌々した火がちらつき始める。
「私はね、あの病院は生きている人がそうそう気軽に立ち入っていい場所じゃないと思うのよね」
 タバコの煙が鼻を突く、嫌な臭いだ。
「病院は生きてる人間が行くとこですよ、死体処理施設ではありません」
「何そのセリフ、バカじゃない?」
 鈍すぎ、だから嫌われるのよ。彼女はそう続ける。
「神崎さんは死体だとでも? それが仮にも医療の現場に身を置く人間のセリフですか?」
「ただ死んでないというだけの消極的な生、それがどれ程死と等しいかも分からない人間が偉そうに。彼女は間もなく死ぬ人間なのよ、それであの病院は『死と静かに向かい合う場所』それぐらいに思っておいた方が丁度いい場所なのよ。あんたのその安い薄っぺらな同情で邪魔しないで。彼女には安らかに死ぬ支度をさせてあげなさい」
「死ぬ支度? それは不死追いなんかにすがる事をいうんですか?」
 彼女はその整った眉を吊り上げる、徐々に彼女が裏返り始めたのが分かった。ドロドロとして焼けつくような、暗い森の腐葉土のように時間と感情をかけて産まれた内面。
 小さく吐き出された煙の向こうに、憎悪と嫌悪という刃を、冷静に振り抜く女性の顔が見えた。
「知ったような口を聞かないでよ。あのね……不死追いを呼び出して何が悪いのよ、それがあの子達の最期の希望なのよ」
「そんな物は希望なんかじゃない、ただの幻想です。もっと希望は他にあるはずです、そんな歪んだ妄執ではなく」
「くだらない。ねぇ、あんたのそのくだらない理想をあの子達に押し付けないでくれる?」
「押し付けますよ、同じ人間なのだから」
「同じじゃないわ。あの子達は死人、あんたとは違うの、確固たる隔たりがあるの」
「ありません、そんなのはただの思い込みです」
 彼女は突然堰を切ったように笑い出す、甲高い空虚な笑い声。
「笑わせないでよ、馬鹿じゃないのあんた。思い込んでるのはあんたの方よ、あんたはわかるの? 産まれて間もなくからあそこに入院し続け、外の世界もろくに知らず、ただ死を待つだけのあの子達の気持ちが」
 それは彼女の倫理、そしてそれが彼女の哲学。斎藤のそれと似た、境界線を失っていしまった人間の視点だった。
「ねぇ任役さん、知ってる? 街の外の住人は街の中の住人を『鬼』って呼んでるのよ。殺しあい、クスリを喰らって日々を過ごす私達を『人間じゃない、道徳のない化物』と蔑んでそう呼んでるの、今のあなたは街の外の住人のそれと同じよ」
「そうです、あなたの言う通りです」
 俺は静かに深呼吸をする。俺の言葉はどれ程の意味を持つのだろうか、俺は言葉にどれ程の意味を持たせられるのだろうか、そう自問しながら言葉を続けた。
「だけどこの街の住人もみな心の奥底では殺し合いもクスリもない世界を望んでいる。あの病院に入院している人々だって本心では不死追いのいない世界を望んでいるはずです。もちろんあなたも」
 違いますか?

 看護師はゆっくりとタバコをもみ消し、ため息をつく。
「……それでも、すがるしかないのよ」
「えぇ、だから自分は不死追いが嫌いなんです」



「おぉ、『雪』ちゃん久しぶり、元気にしてた?」
 店の中に入るなりバカそうな髪型をした店員がカウンターの奥から歓声を上げた。
「あれ? 雪ちゃんそっちの髭の美人さんは誰だい? ひょっとして新しい彼女かい」
 包帯無口が力強く首を横に振る。へぇ、雪って呼ばれてるのかコイツ。
「書類」
 彼はは店員のノリに付き合わず言葉少なく要求を述べる。
「はいはい、できてるよ。一応言っておくけどいつも通り持ち出し厳禁ね。それじゃお仕事がんばってね。あぁそうそう『弦』が寂しがってたよ、浮気はダメだぞ」
 用意されていたやたら分厚い書類を店主から受け取ると、適当な席に座っていた私のところに持ってくる。
「これが、目録。病院、ヘルパーの」
「はいはい、まずは神崎、それからえーっと……」
 私は相方が友人からもらって来たという病院の死者リストに記載されていた、死因未記載の人間をかたっぱしから思い出す。
「先月あの病院で死んだデッドマンの……諸星だったっけ?」
 包帯無口はバラバラと書類をめくり名前を探してる。
「結構救民以外の名前もあるんだな」
「皆、ボランティア、助かります」
へぇー
「あった、同一人物。神崎と、諸星の、ヘルパー」
「マジで?」
「次、どうぞ」
「えーっと倉岡、倉岡元重。雨宮病院」
「同じ。ヘルパー、柏木美由紀、女、年齢、19、ボランティアだ」
「そいつが不死追いなのか?」
「微妙」
「ヘルパーってどんな仕事なんだ?」
「患者の、相談、乗る、薬、確認する、酷い扱い、受けてないか、調べる。世間話、したりも。病院からは、完全に、独立した、団体」
「神崎の証言を考慮すると、コイツが不死追いって線は薄そうだが、天碧会やら不死追いの噂の源泉だったり不死追いの呼び水になってる可能性は高そうだな」
「『園』! 見たい、ヘルパー、来歴書」
 園と呼ばれたあのバカそうな店員は困ったような顔をする。
「ちょっとそれはキツイね、流石に個人情報はねぇ、雲からちゃんと許可書貰ってきてくれない?」
「緊急、後で、許可書、持ってくる、必ず。今、見せて、柏木美由紀の、来歴書」
「やれやれ、雪ちゃんにお願いされちゃあ仕方ないね」
男は店の奥でなにかをガサガサとあさりはじめる。
「……患者は地下水路に普通行けない、地下水路に手紙を流したければだれか人づてがいる。病人それもc地区の貧民のさらにデッドマンがそんな事を頼める人間なんてヘルパーぐらいだ。地下水路の手紙から情報を受け取ってるように装って、実はヘルパーから情報を得ていた。解ってみれば、大したことねぇカラクリだな」
 包帯無口は頷く。
「あれっ!?」
店の奥からマヌケな声がする。
「柏木美由紀の申し込み用紙あったけど、こんな物が挟まってた」
 戻ってきた店員の手には一枚のシートと、小汚い画用紙があった。
 シートの方はただの柏木美由紀の来歴書、だが画用紙には真っ赤な……
「I will fight you with DEADMAN」
 包帯無口がたどたどしく、画用紙の上に乱雑に書かれた血飛沫のような文字を読んでいく。
「読めんのか?」
「一応。でも、この街の言葉では、ない」
「意味は?」
「デッドマンと、供に、お前と、戦う」
「挑戦状? 笑わせる」
「園、これは、何?」
「来歴書に挟まってた、ちょっと謎すぎるよ! だって来歴書って結構しっかり管理してたぜ!?」
 私は柏木の来歴書を見る。
「住所が怪しいな、デタラメだと思うが」
「気になる。アウトキャスト、何人か、送る」
「落とし子に気づかれないか?」
 つっても、もう気づかれてるかもな。いや、こんなコケ脅し、回りくどいし効果も微妙だし何より読めねぇ。別に私たちを対称にした訳ではなく、適当に仕掛けた可能性が濃厚か……
「様子、見させるだけ。優秀な部下、送る。園、電話、借りる」
 そう言い切ると、彼は奥の部屋に入っていく。
 柏木美由紀、彼女の身柄を押さえられれば不死追いに繋がるなにかを得られるかも知れないが……怪しい、挑戦状といい本当の住所な訳がない。これも罠か?
「へいへーい、髭の美人さん」
 うぜぇ
「ねぇ、天碧会について面白い情報持ってるんだけど、買わない?」
 店員がニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべてる。私は銀貨数枚を投げつける。
「おぉ、こんなに、流石特務だ太っ腹!」
「それ、今回の口止め料も込みだぞ」
「そんな。雪ちゃんとは血よりも濃くて長い付き合いさ、売ったりなんてしないしない」
 そう言って銀貨を何枚かを私に返す。
「あそこ、死体を買い漁ってますぜ、なんでも魔術の儀式に使うとか」
「死体? そんな物どこから?」
「病院さ。c地区のはアガサ以外どこも経営難だからね、ただ同然で工場に売るより天碧会に売るほうが儲かるらしい」
「マズいだろ、それ」
「マズいだろうけど誰も何も言わないさ。病院の裏帳簿なんて摘発する奴は誰もいない、百害あって一理なし、大勢を不幸にするだけ、見ないふりが一番」
 あのバカ相方が聞いたらブチ切れそうな話だなオイ
「どうよ、面白い情報だったでしょ?」
 魔術師……まさか本物? 街以外の言葉を使えるようだし考慮が必要か、また斎藤と話す必要が出てきたな。



「今日は遅かったんですね」
 日はすっかり暮れ、照明の落ちた灰色の病室。俺が入ると神崎はすぐにそう言った。
「えぇ、少し用事が」
 月明かりが仄かに彼女を照らす。眼は伏せられ、青白く血管の浮く肌は僅かながら赤みが刺してるように見えた。
「すみません、本当は忙しいんですよね」
 より儚くなった、静かに頭を下げた彼女からそんな印象を受ける。
「忙しくないと言えば嘘になります、でもこの面会は必要なものです」
 死ぬのか、この人は。そんな悲しげな思考がまるで現実感を帯びる事なく浮かび上がる。
「……貴方は優しい人なんですね」
 不意に彼女から、予想だにしなかった言葉を掛けられる。
「優しいなんて……そんなんじゃありません。自分は貴女に適切に罰を与えようとしているんです。それは貴女の為でなく社会の為、そして何よりも自分の為です」
 俺は面食らい、慌てて思考を現実に戻して言い訳をした。
「でもそれは、今でなくてもいいですよね。事件が全て一段落してからでも遅くはないはずです」
「それまでに貴女が死んでしまわないという保証はありませんから」
 俺の言葉を聞くと、彼女はニコリと微笑む。演技ではない、心の内が思わず零れたような笑みだ。
「嘘ですよね、本当は私に気を使ってくれてるんですよね。最初は自意識過剰だとおもってましたけど今は自信をもって言えます」
 彼女は目を上げ、俺を見る。
 あの時と同じだ。いままで弱々しいだけと思っていた瞳に光が映っていた、だけどそれはあの時と違い青々と生きたような、それでいて恥じるような……
「いや、自分は、その、そういう……」
「罪を知っていてそれを裁かれない辛さ、それから私を救おうとしている。違わないですよね」
 頭の中で、鉄の鎖がぶつかる様な冷たい金属音がなった。
 彼女は俺から目を逸らそうとしない。俺は目を伏せる事しかできなかった。
「そうです、ご名答。いらぬお節介でしたよね。すいません」
「いえ、全然そんな……でも何故私なんかにそこまで……」
「貴女だからこそですよ、あなたみたいな人こそ救わないといけない」
「私は人殺しです」
「だから何ですか。自分の罪を知り、それと向き合おうとしてる人を救わずに誰を救うんですか」
 言っていて恥ずかしい。俺は赤くなり始めた耳を隠すようにこめかみを馬鹿みたいに掻く。
「……本当に優しい人なんだ」
「そんな人間じゃないですよ、自分は」
 決して、そんな人間じゃない。
「ひょっとして貴方にもあるんですか?裁かれない罪が」
 沈黙
「すみません、出過ぎた事を言いました」
 彼女が慌てて謝罪する。
 だが俺はそれを遮る。
「ありますよ、自分にも罪は。多分貴女のそれよりもっと穢らわしい物です」
 罪……いや、それは呪いと呼ぶほうが相応しいのかもしれない。
 何言ってんだ、俺は。



「で、確かにその住所には柏木美由紀って人が住んでんだけど、これがまた新聞受けに新聞満載、家の中に人の気配無し、ここ数週間の目撃情報無し。多分いつぞやの袴田と同じ状態っぽいな」
「まだ確認はできてないんですね」
「まぁな。近隣の住人から悪臭の苦情が出てることにして踏み込もうかと思ったけど、どんな罠があるかわかんねーからな」
「死体は放置、ですか」
「だな、我慢しろ。そんで偽柏木美由紀は予定だと明明後日に久我山病院のある患者の巡察だそうだ。そこで押さえるぞ」
「その偽柏木って袴田の振りをして袴田の銀行を空にした奴ですかね」
「だろうな。さしづめ落とし子の助手ってとこか」
「偽の不死追い、偽のヘルパー、偽の被害者、偽の依頼、偽の病気、偽の片思い、今回は偽物ばかりですね」
「本物は全部死んでるからな」
 高橋はケタケタと笑う
「そういえば明日神崎の転院だったな」
「そうです、午後から移送が始まるそうです」
「明日は見舞いどーすんだ?」
「一応行きますけど」
「私もいくぜ」
「なんでですか?」
「暇だからだよ。安心しろ、また首締め始めたりしねぇから」
 なんだ急に、なにか考えがあるのか?
「分かりました……あぁそうだ、先日高橋さんの友人を名乗る人に会いました」
「斉藤か」
「はい、自分と友人になりたいとか」
「いつもの手か。まぁ適当に利用してやれ、アイツ結構便利だぞ」
「噂はいろいろ聞いてます、魔術師なんですよね」
「そうだ、今回の仕事に役割はなさそうだけどな」
 相手は偽物らしいし、と俺には意味の分からない呟きを高橋は最後につけ加えた。





THREE


 はぁ?
 ちょっとまって意味わかんない?
 え?
 いやいやいや、簡単にはどかないよ、あたしここ気に入ってるんだから
 久しぶりなの、誰かにこんな必要とされるのは
 誰かを幸せにするってこんなに素敵なことだったなんて、まるでちっちゃいころ憧れてた絵本のキャラクターになったみたい
 はぁ?
 あーはいはい。うるさいうるさい
 コンキョは?
 ショーコは?
 キャッカンテキジジツは?
 どかなーい、絶対どきませーん
 うるさいわねー、来たって殺せばいいんでしょ
 私には殺せないからなんかちょうだい、簡単に殺せるカッコイイ奴
 いやーどかないどかないどかない、いやいやいやいーーやーーーーーーーーーーーーー!!!!!



「指輪、届きました」
 そう言うと神崎は、ベッドの下に隠すように置かれてあった木箱を取り出し、俺達に見せた。
「誰にも見られてねーよな?」
 高橋は興味深気に箱を眺めながら尋ねる。
「えぇ、受け渡しには工夫をしたので」
 箱が開かれる。中には木の根をモチーフにしたデザインの指輪が一つ収められていた。
「アガサにつくまで着けないでくださいね、どこから落とし子の耳に入るか分からないので」
「はい」
 その指輪は救民が特別保護対象に配布する指輪だ。この指輪を嵌めてる者に危害を加えれば救民が黙っていない、そういう標識。落とし子の情報提供を約束した彼女へ救民が気を利かして贈ったのだ。なかなか洒落たデザインをしている為普通に欲しがる人間も多い。
「だせぇデザイン」
 高橋がちゃちゃを入れる。
 お前の髭の方が百倍だせぇ
 さり気なく神崎の様子を見る。特にいつもと変わらないやや緊張した面持ちだ。
「人殺し、お前に聞きたい事がある」
 高橋がいきなりむちゃくちゃな話の振り方をする。
「おい高橋、少しは……」
「いいんです。何でしょうか? 聞きたい事とは」
「柏木美由紀って解るか? お前の所に来ていたヘルパーだ」
 神崎は首を傾げる。
「私のヘルパーは『砂』という呼び名の救民の女性でした、その人の本名が柏木美由紀だったのかは知りません」
 救民?
「ひょっとしてそいつ顔隠してたか?」
「はい、目が悪いらしくいつも包帯で顔の上半分を覆っていました」
 なるほど、救民って事にすれば顔を隠しててもそこまで怪しまれない。
「そいつはなんか妙な話をしなかったか? 天碧会とか不死追いとか」
「いえ……とくには、普通のヘルパーさんでしたけど。彼女がどうかしたんですか?」
「彼女が不死追いの助手だったのではないか、そう自分達は考えてます」
「え?」
「オイ人殺し、そのヘルパーから不死追いの噂を聞いたんじゃねーなら、一体誰からお前は不死追いの噂を聞いたんだよ」
「えっと、友人です、病院の。普通の人です」
「普通かどうかを判断するのはてめーじゃねぇ、教えろそいつ名前を」
「おい、高橋!」
 俺は声を荒げて注意する。
「……質問は以上だ」
 高橋は少し苛立った様子でそう宣言をした。恐らく高橋は偽柏木にあまり期待していない。 確かに事が容易に運び過ぎてる気がするし、何より挑戦状のような物も気掛かりだ。偽柏木は罠、そう判断し神崎から罠の裏をかけるような情報が欲しかったのだろう。
「外で待ってる」
 そう言って高橋は病室から出ようとする。が、ドアノブに手を掛けた所で彼女は立ち止まった。
「そういえば、この前お前の事を『何もできない奴』って言ったよな。あれは言い過ぎだった、すまない」
 高橋はこちらに背を向けたまま一方的にそう言い放つと部屋を出ていった。


「……私が言うのもなんなのですが」
 神崎が沈黙を破る
「優しすぎですあなた達、優しいを通り越して甘いくらいです」
 彼女は両手で毛布をくるくると弄びながら笑っていた。俺も苦笑いをする。
「でも素敵です貴方達、本当に。……あの、何か私に手伝える事ありませんか? アガサに行った後でも。どんなつまらない事や、面倒な事でも構いません。私はあなた達の役に立ちたい、あなた達みたいな良い人に仕えたい」
 俺は思わず顔を引き攣らす。
 慣れてないんだよ、他人にこんな事言われるのは、恥ずかしい
「よしてくださいってば。甘いという自覚は有りますが、良い人ではないんです」
 神崎は軽く頷くと、真剣な表情になり、俺と向かい合うように軋むベットに座り直す。
「その、えっと、立ち入った質問をしてもいいですか」
「……いいですけど、答えられないかもしれません」
 答えらえないんじゃない、きっと自分は答えないのだろう。
「あなたの罪を教えてくれませんか。私には信じられないんです、あなたみたいな人に罪だなんて「聞いてどうするんですか」
 俺は即答した。
「それは……」

 静かに首を振る。

「……ごめんなさい。私、あのっ、その「アガサの病院食、旨いって噂をよく聞くんですよね」
 無理矢理話題を変える。
「一度食べてみたかったんです、アガサに移ったら送ってくれませんか?」
 できる限りの笑顔を顔に貼り付け彼女に言った。



 病室を出ると高橋がぼんやりと廊下の窓から空を眺めていた。
「自分、いろいろ高橋さんのこと誤解してました」
「うるせー」
「惚れました、って言ったらどうします?」
「お前みたいな肝っ玉の小さい奴はお断りだ」
「何を食べたらそんなに肝が座るんですか」
「何喰ったらそんなに肝が萎縮すんだよ」
 帰るぞ、こんな辛気臭ぇーとこ嫌いだ。
 俺は足早に動き出した高橋の後に続く。
「ずっと後悔してたんですか?」
「うるせーっ!」
 ニヤニヤが止まらない。
「ちょっと、あんた!」
 いきなり後ろから声をかけられる。振り向くと片眼の看護師が立っていた。
 あ、これはマズイ
「なにしてるの? またストーカーまがいの見舞い? それも彼女を引き連れて?」
「あ、いや」
「彼女じゃないわよね、仕事仲間でしょ。ストーカーまがいお見舞いじゃないわよね、仕事でしょ。何考えてるの、嘘をつくのはいい加減にして!」
「誰だてめぇ? タバコ臭ぇ」
 高橋が話をややこしくする。看護師は眉を痙攣させ、青筋をくっきりと立てながら俺たちを睨む。
「二度と! 協力しない! 絶対に!」
 そう怒鳴りつけると肩を怒らせ去っていく。
「誰だあれオイ?」
 俺はため息をつくしかなかった。



 僕は湿ったハシゴをのぼり、自分の住居に入る。
 廊下を何人かの子供達がキャッキャと嬉しそうに走り抜けていく、その間を緩慢な歩調ですり抜ける。
「今日は早いですね、兄さん」
 廊下を出て、リビングに入ると丁度昼飯を食べていた妹に声をかけられてしまった。
「寝る」
 僕はただただ眠くて、一刻も早く疲れた足を休ませたかった。
「駄目です、少し話たいことがあります。座ってください」
 駄目だ、これは完全にキレてる
 僕はため息をつくと妹と向かい合うように座る。
「最近兄さんが商会の人間とつるんでるという噂を聞きました、それも任役、しかも三式の人と」
「事実。仕事、雲の、指令」
「雲の指令だろうが関係ありません。任役なんかと仕事するだなんて私は心配です、どうして兄さんはそういつもいつも厄介な仕事ばかりするんですか」
「厄介では、ない。今、救民と、商会、停戦、平和だ」
「こんな伽藍堂の平和どうせすぐに崩れるにきまってます。商会の人間と関わって酷い目に遭わなかった人なんていません。『燻』さんのことを忘れたんですか」
「全ての、任役が、皆、悪い人、ではない」
「やめてくださいそんなこと言うのは、みんないつもそう言う、そう言って殺される。今の兄さんは燻さんそっくりです」
「君、知らない。彼らは、違う」
「違いません。いいですか、どんなに心を通わせた気になっても商会は商会、私達は私達なんです。なぜなら彼らはやがて壁を越える、だけど私達は越えれない。『この街で産まれ、育ち、そして還る』のです、この違いは兄さんが思ってるよりもずっとずっと、ずっとずっとずっと!!!!大きいのです」
 例え商会の爪弾きの徳本だろうと、意味不明の高橋だろうと、水島事件の彼であっても、皆私達とは違う「外の世界で生きていく人間」なんです。
 そこまで一気に喋ると、急に妹は急に鬱ぎ込む。眼は虚ろい、表情は弛緩し、きみの悪い呼吸音が静かに漏れる。
「薬、飲んだ?」
「朝は飲みました」
「ちゃんと、飲め」
「……兄さん、私は兄さんに雲の仕事をするなって言いたいわけじゃないの。不安なんです、雲の危ない考えに偏っていく兄さんが」
「平和、必要。雲、正しい」
「正しいけど愚かです、どうしてそれが判ってくれないんですか」





FOUR


「相手はたぶん組織って事ですよね」
 俺は事務所のダンボールの山の中を掻き分け、自分のトランクを引きずりだしながら高橋さんに尋ねる。
「だろうな、少なくとも単独犯では絶対にねぇ。どんだけデカイのが出てくるか見物だ」
 トランクを開ける。変な熱気と煩い塩化ビニルの匂いが鼻をつく。中から刃渡り12センチの大振りのナイフとホルスターを取り出す。ホルスターをベルトに通し、ナイフを収める
ガチャリと小気味よい音が鳴った。
 久し振りだ、こんな入念に武装するのは
「戦闘にはなりませんよね」
 これから俺たちは、ただ久我山の病院に巡察に来てる怪しいヘルパー柏木美由紀を取り押さえるだけだ。
「ビビッてんのか? 情けねぇ」
「えぇ、ビビってますよ」
「早く慣れろ、いずれは殺し合いになるんだ」
「でも今日は誰も殺さなくて済むはずですよね」
 頼りないパートナーだ、そう高橋はぼやく。
 俺はナイフを素早く引き抜いてみる。異常なし、定期的に手入れをしておいて良かった。
「お、いいね。お前もナイフか」
「高橋さんも?」
「まぁね」
 そういって彼女は自分のナイフを見せる。金や宝石で派手に装飾された物だ、もとは儀式用か? とても人を殺せそうには見えないちゃちな造りだ。
「本気ですか? それ」
「いいだろ」
 良くねぇ
 高橋は満足げに悪趣味なナイフを、これまた悪趣味な鞘に収め、上着のポケットにバタフライナイフをねじ込み始める。
 本当にこいつが元警邏の特二で、商会の三式なのか?
「お前さ、殺さない殺さない言うけど、マジで殺るか殺られるかの状況に陥ったらどうすんだ?」
「場合に寄ります、できる限り殺したくはありません。でもどうしても避けられないなら」
「へー、意外だなオイ」
「意外?」
「お前みたいな甘ちゃんは、意地で不殺を気取って相手に殺される印象があったけど、お前は結構柔軟なんだな。殺しはアウトじゃないのか」
「アウトですよ、どんな理由でも。でも世の中誰かがアウトをしなくてはならない、任役とはそういうのを引き受ける仕事だと思っています」
「なんだか損な仕事だなオイ」
「だから給料がでるんですよ」
「なるほど。で、アウトした人間はどーなんだ?」
「どうもなりません」
「は?」
「どうもならないんです、強いて言うならどうもならない事を知ってしまう」
 人を一人殺そうが、十人殺そうが、世界はろくに変わらない
 それを知ってしまう。
「それはとても強い呪いです」
 鈍い金属音を立て合い、絡みつく、鎖の様な……
「私達は呪われてるのか?」
「えぇ、強く深く呪われてます」
「解く方法はあんのか?」
「無いです、解けない事が救いなのですから」
 面倒くせぇー話だ
 ですね
 その時、突然事務所のドアが荒々しくノックされる。
 なんだ?
 高橋がドアに向かう。
 また事前連絡の無い依頼か?
 高橋が戻ってくる、予想外に早い。
「お客さんですか?」
「ちげぇ」
 やけに声が低い。
 怒ってる?
 戻ってきた高橋の手には何かが握られていた。
「誰もいなかった、そんでこんなもんが置かれてた」
「なんですか?それ」
 小さい……お椀? 中に少し赤みの刺したシチューのような物が入ってる。
「食い物だよ、この間包帯無口とc地区の貧民窟に行った時食った。炊き出しで配ってたヤツだ、アガサの病院食のあまりとかなんとか」
「はい?」
 高橋はカップをテーブルの上に置き、箸を持ってくると中を掻き回し始める。中身は麺類のようだ。
 なんだ? 一体。
「クソが」
 高橋はそう呟くとカップの中から何かを引きずり出す。
 小さくて細長い何か。
 肉?
「なんですか? それは」
 高橋は箸でつまんでいたそれを俺の方へ放おる。
 べちゃりと音を立て俺の目の前に落ちる。拾い上げてみる。

指だ

切断された指
人間の
薬指

 え?

 その指には木の根をモチーフにしたデザインの指輪が着けられていた。

「救民に電話しろ、今すぐに」



FIVE


「丁寧な御歓迎どうもありがとうクソ野郎」
 高橋は雲と向き合うなり罵声を放つ。
 向き合うと言ってもビニール越しだ。
 雲は病を患っており他の病気への耐性が弱まっているらしく、いつもこのビニールの巨大なテントの中で一人のとてつもないガタイをした付き人に護られて鎮座している。肌が黒く変色し皮膚が所々腐り落ちたその雲の外見は、ビニール越しでも伝わる程の迫力があった。
 ここはアガサ記念病院の地下一階再奥の病室、通称「救民の玉座」。それは冷たい剥き出しの石壁に覆われ、不安定に点滅するライトと、その光を受け霞んだ虹色に反射するビニールのテントが置かれてるだけの、悲しげな空間であった。
「神崎をアガサに輸送していた車が襲われたのは二日前なんだろ、なんで今まで私達に報告がなかった、舐めてんのかテメェ。犯人にこんな舐め腐ったマネされるまで隠し通すつもりだったのか!!!」
 高橋はポケットから腐りかけた神崎の指を取り出し雲に投げつける。それは丁度雲の鼻先のビニールにべたりと張り付く。
「ちゃんとした理由を説明しろよ。少しでも巫山戯たこと抜かしてみろ、てめぇらの首を切り落としてババァに送りつけんぞ!」
 高橋は一切の躊躇なく罵声を吐き続けた。雲は静かにフードを脱ぎ、その所々骨の浮き出た顔を見せ、口を開く。
「同伴していた我々の仲間も襲われた、四人が死に、内一人はアウトキャストだった」
「だから何だよ下痢野郎」
「襲撃の目撃者がいる、『襲撃を行ったのは任役』そう証言した」
 高橋が舌打ちをする。
「『後藤』の事務所の任役だったそうだ」
「……バカ共が」
「現場周辺がどんな状態だったかわかるか? 任役による我々の虐殺だ、我々は動揺してる、一部の者は武器を手に興奮している。そこに同じ任役である血走った君達が行ってしまったら大変な事になっていた。非常に失礼な行為だとわかっていたが君たちには事が鎮まるまで一旦情報を堰き止める他無かった」
 高橋が壁を思い切り殴りつける。
「クソッ!」
「高橋さん……」
 立て続けに何発も石壁を殴り始める。彼女は尋常じゃない興奮をしている、俺はどうすればよいか解らなくすっかり動揺してしまう。
「行くぞ」
 唐突に高橋は壁殴りをやめ、そう宣言して部屋を出ていこうとする。
「行くってどこへですか」
「決まってるだろ、後藤の事務所だ。全員血祭りにあげて舐め腐った依頼主の名前を吐かせる」
「やめてください、それは倫理違反です。審議室じゃすみません」
「だったら何だよ、任役なんざ辞めてやる」
「落ち着いてください、これはあなただけの問題じゃ無いんですよ、ここであなたが後藤を襲ったら商会と救民との間に決定的な亀裂が生じます」
「だったら何だって言うんだよ。散々正義の味方ぶっといていざとなったら自己保身か、死ねクソ野郎」
「激情に身を任せて、取り返しの付かないバカをしようとしてるあなたはクソ野郎じゃないんですか」
 高橋が俺の胸ぐらを掴む。彼女の拳からは痛々しいほどの血が吹き出ていた。
「考えなくちゃいけないことがあるはずです、何故神崎は口封じをされたのか、何故落とし子は自分達に指を送りつけたのか、いつから落とし子は自分達に気づいていたのか」
 俺は怯まず、必死に彼女を説得する。
「そんな悠長な事してられっかよ」
「確実に罠ですよ、後藤の事務所は」
「上等だ」
 高橋と俺は睨み合う。
 その時、突然ガサガサと騒がしい音がなる。
 見るとビニールのテントの中で雲が両手をつき深々と頭を下げていた 。
「お願いします高橋さん、勝手とは承知ですがどうか堪えてください」

救民の長が頭を下げている、こんな小娘一人に……

 高橋は軽く呼吸を整えると俺を離す。
「二○分だ、二○分やる。二○分経っても落とし子がの居場所がわからなければ後藤の事務所に行く」



「現場の状況を説明しよう、雪! 入れ」
 後ろの扉が開き、包帯で肌の大部分を覆った男が入ってくる。
 ファイルが俺と高橋に配られる。
「事件が起きたのは二日前。1634時、c地区三号三叉路で特別保護対象『神崎仁美』を輸送中の車が破壊されてるのが発見される」
 輸送車の中には死体が四体、神崎仁美の死体は無かった。
 現場から逃亡する三人の姿が目撃されている。
「麻生祐一」「栗田花」「渡邉明彦」いずれも後藤事務所の任役、照会済み。
 気になる点は二つ。
 一つ目、神崎仁美の姿が確認されていない点。
 二つ目、車を牽いていた輸送用キマイラが行方不明である点。
 逃亡した三人組が神崎及びキマイラを拉致してる様子はなかったようだ。
「三人の任役の仕事は護衛を殺すことだけだったという事ですか?」
「恐らくそうだろう。犯人は任役とは完全に別行動であったと考えるべきだと思う、任役が仕事を終えたあとに犯人は神崎とキマイラをさらった」
「そのキマイラはなんなんだ? 普通に鎖を千切って逃げてるわけじゃねーのか?」
「アウトキャストを総動員して探しているが未だに見つからないのだ、犯人が何処かに連れ去ったと見るべきだと思う」
「種類はなんですか?」
「ごく標準的な輸送用キマイラ、体調約三メートル、体重三○○キロ、生後三二ヶ月、トゥーフィンガー、雄、ベースは人と牛」
 そんな物、一体何の為に?
「……謎は全部で五つ、いつから落とし子は私達に気づいていた? どうやって気づいた? 指を送りつけた目的は? 神崎を拉致した理由は? キマイラの意味は? 制限時間は残り十分だぜ」
 高橋が宣言する。
「一番無難なシナリオは自分達の捜査が確信に迫りすぎた事によって、焦った落とし子が神崎を襲い自分達を脅迫をした。ですよね?」
 俺は取り敢えず一つの推論を上げる。
「それだと何故神崎が二日前に襲われたのか説明できねぇ、なんで護衛付きの輸送車を襲うなんて面倒な事をしたんだ。それより前にあの病室に乗り込んだ方が百倍楽だぜ」
 俺は考える。
 二日前でなければならなかった理由。
 任役を雇うというのは、今までの落とし子の行動パターンから大きく外れてる。
 相当に追い詰められてたのか?
 何に追い詰められていた?
 高橋も俺もここ三日間は一切捜査をせずに、ヘルパーを押さえられるその日を待って息を潜めていた。落とし子をそんな行動に走らせるきっかけなんて無かったはずだ。
「二日前まで、指輪、届いて、なかった、それ、理由では?」
 包帯男がおもむろに口を開く
「どういう事ですか?」
「落とし子、目的、『任役に、特別保護対象、殺させる』、商会と、我々の、平和的関係、崩すため。それ以外、すべて、その陰謀を、覆い隠す、ハッタリ」
「そいつはでけぇ話だな、まぁありえない話じゃねぇか、確かにあの時の神崎は特別保護対象の中で例外的に殺し易かった。だが私達に指を送りつけた理由はなんだ」
「思いだせ、さっき、お前、何、しようとした?」
 元特務課であり名捨て人からの依頼を受けていた任役の高橋が、商会からの依頼を受けていた任役を殺した挙句依頼人の名を聞き出すという倫理違反をしてしまっていたら? 事態は混迷という次元では済まなくなっていただろう。
「うるせー、あと七分」
「……それだと落とし子がモグリの任役や不死追いを名乗っていた頃からの殺人は、すべてその為の布石だったということになりますね」
「周りくど過ぎ、ありえねぇー」
 確かに少し考え辛い。
 今回の一件はそこまで特別な事件ではないように思える。もし入念に計画されていたのなら任役を雇うだなんて一瞬で足のつく様な事をするか? もっと場当たり的な雰囲気がある気がする。……最初に考えを戻そう。
 なぜ二日前、二日前になにがあった?
 その何かが落とし子を動かした、考えろ、考えろ。とくに怪しいのは神崎の見舞いに行ったこと、高橋と一緒に行った最後の見舞いだ。
「残り三分だ、諦めろ。謎が解けても落とし子の居場所まではどうせ掴めないだろ」
「後藤、事務所、襲っても、掴めない」
「うるせー、そしたら天碧会の自称魔術師をぶちのめしに行くだけだ」
「……天碧会」
 どうした?
 高橋が俺を見る。
 天碧会?
 死体、強力、魔術。

 悪魔!

 そうか、あいつだ!
 あいつが、あの時!

「タイムリミットだ、行くぜ」
「待ってください高橋さん……解りました」
「解った?」
「病院です。病院と天碧会には繋がりがあるんですよね」
「死体を売ってるんだったか? それがなんだよオイ? あーそうか、病院と不死追いも繋がってるってか」
「そうです、病院が落とし子に教えたんです自分達の行動を」
「その病院って神崎の入院していた病院の事か?」
「はい」
「なんであの病院が私達の動きを知ってんだよ、テメーがちゃんと姑息な演技してたじゃねーか。下手でバレたのか?」
「演技はうまく行っていたんです、二日前の最後の見舞いまでは、そこでヘマをした」
 そこまで言うと高橋の目付きが変わる。
 そう、あれだ、あの瞬間気づかれた。漠然と曖昧に、だけど追い詰めようと忍ぶこちらの意志は十分に気づかれてしまった。それが落とし子に伝わり、奴は神崎は囚え全てを吐かせた。
「行くぞ、大暴れだ。包帯無口! てめぇも来い!!!」


 病院の裏口を出てすぐの薄汚い裏路地。
 俺はそこまで「そいつ」を引きずり出すと勢いよく壁に叩きつけ、首を掴む。
「答えろ! 神崎は生きてるのか」
 俺は噛み付くように怒鳴る。
「随分ここまでたどり着くのが遅かったわね」
 そいつは楽しそうに笑いながら答える
「答えろ!」
 俺は再びそいつの体を壁に叩きつける。
「あんな女の心配? 不死追いに会いたいって言うから会わせてあげて、おまけに願いを叶えて貰ったっていうのに、ちょっと自分が不利な状況に陥ったらすぐに寝返ったあのアバズレの心配?」
 ひょっとしてあんた惚れてたっていうのは嘘じゃなかったりするのかしら? そう言ってその女は下品に笑った。
「ねぇ任役さん。あんなアバズレ死んで当然じゃない、ねぇ離してよ、私が何したの? 私は『殺人の依頼』なんてしてないし、あんた達に嘘をついたりもしてないわ。私はただ親切にアバズレの希望通り『あの人』に依頼を「いいからさっさと答えろ! 神崎はどこにいる!!」
 俺は彼女の言葉を遮るように怒鳴りつける。
「なんであのアバズレにはあんなに甘くて私にはそんなに冷たいの? 人殺しで裏切り者で病気な彼女よりも私のほうがよっぽど綺麗じゃーー
 俺は彼女の顔を殴りつける。
「答えろ」
 彼女は口から血を流しながらシニカルに笑う、そしてその片目をギョロリと動かし俺を見る。
 嫌な目だ、大っ嫌いな目だ、善悪も生死も何も見えてない、斎藤の目で、高橋の目で、そして昔の俺の……
「答えるのはあんたの方よ。あんたにとっての正義ってなに? 汚いアバズレを救う為に無実の看護師を殴って、善意の苦労人を殺して、不幸な子供達を追い詰めることなの?」
「あなた達はただのゲスだ」
「ゲスだって、アッハハハハ。私が? ゲス? 人殺しのあんたに言われたくないね。ねぇあんた今まで何人に心から『ありがとう』って言われた? 何人救った? 私とあの人が何人から感謝されてきたと思う? 私がゲスならあんたは何になるの?」
「その話は前に終わらせたはずです。誰も不死追いなんか望んじゃいない」
「そうよ望んじゃいないわ、でも言ったでしょ、必要なのよ不死追いは! たしかにあの子達に与えるべき物はもっと清い希望なのかもしれないわ、でもそんな物無いのよこの街には、そんな素敵な物はね! だったらどうする? この世への呪詛を延々と吐きながら死んでいくあの子達の最期をただ黙って見てなさいって? ねぇ、例え殺人が願い事だとしてもこんな公平性の無い世界では誰もあの子達を責めれないはずよ! あんたもいい加減善人振るのはよしたら? 私知ってるわよ、あんた水島殺しに加担してたんでしょ。ねぇ何人殺したの? 精神的な障害を負って二式を没収されたんでしょ? 一体何人殺そうとしたの? 教えてよ。あんたなんで私をゲス呼ばわりしてるの? あんたに他人を推し量る権利なんて無いのよこの殺人鬼!!!」
 拳が肉を打つ音。
「黙れよ」
 俺はもう一度拳を振り上げていた。
「答えろ、神崎は何処に居るんだ」
 彼女は血と欠けた歯の混じったツバを吐き捨てる。
「だから答えるのはあんたの方よ、あんたにとっての正義って何?」
 俺は静かに息を吸う。
 呪い、その鎖が金属音を上げ、ギシリと体に深く食い込むのを感じる。

「もう誰にも、人殺しなんてさせ無いことです」
 その為に俺は生きている、俺は力を使う

「その為に例え大勢を不幸にしてもいいの? 例え大勢を殺しても?」
「ええ、その為なら自分は一切の躊躇もしません」
 それが俺の正義だ、それが俺の呪いだ
 彼女はくしゃくしゃに顔を歪めて笑った。
「病院の裏にある墓地に行きなさい、そこにあんたの会いたがってる人がいるわ」



 墓、これほどまで存在意義を失ってもまだ存在し続ける物を俺は他に知らない。どこまでも果てしなく直方体の石の柱が等間隔に連なっている。それはまるで石の草原だ。
 ハカマイリなどという風習はもう残っていない、普段は誰も立ち入ることのないエリア。なぜ昔の人はこんなエリアを作っていたのだろうか。このエリアは大昔の文化の中で一体どのような意味をもっていたのだろうか。その質問に答えられる人間はもうこの街にはいない。
 俺達は静かに門をくぐり墓地に入る。ひんやりと湿った空気が鼻をくすぐる。墓地の中央には謎の黒い肉の塊のような物が見える。その上に鮮やかな着物を着た女性がこちらに背を向け座っていた。赤を基調とし、美しい白色の花が描かれたその着物は複雑な作りをしていて、相当に上等な物と見て取れた。髪は長く、そして完全な白髪だ。
「本当に来ちゃった、残念残念」
 近づく俺達に向けて、着物の女は甘ったるい声を放ってきた。
 高橋は余裕の笑みを浮かべながら尋ねる。
「なんて呼ばれたいか言ってみな、袴田早紀か? 柏木美由紀か? 砂か? それとも断罪の道化師?」
「そーだなー、いまは『キボー無き子供達の為に涙を流す女』かな?」
 そう言うと着物の女は首を回し顔をこちらに向ける。幽霊のように青白く生気を感じさせない肌と、毒々しいほどに過剰に紅の塗られた唇
 気味が悪い、そんな稚拙な表現がこの上なく相応しい顔だ。
「お前、いや、お前等、何だ。一体、何者?」
「あたしの名前は教えられないけど、組織の名前はいいかな?」
 あたし達は「ソシ」
 そう言うと彼女は立ち上がりこちらを見下ろす。
「私が斬り込む、援護頼んだぞ」
 高橋が一歩前に出る、着物の彼女が指を鳴らす。すると彼女の周囲の墓石の影から三人の武器を持った白装束の人々が現れる。
「なんだてめぇら、引っ込んでろよ素人が。殺されてーのかオイ?」
 天碧会か? それとも……
「あたしもそう言ったんだけどね、聞かないのよ『この短い命、あなたに捧げます』って」
 だから貰っちゃった、気味の悪い女は得意げで無邪気に微笑みながら言った。
「病人、か」
「そうそう、あたしがネガイを叶えてあげた人達の一部」
「お前ら、一体どこまで……」
 俺はナイフを抜く。
 白装束達が一斉に武器を構える。
「去れ、飽食者共。我々からなにも奪うな、我々は既に天より奪い尽くされた」
 白装束の誰かの声が、冷たく、空虚に響き渡る。
「うるせーよ、病人は大人しくベッドで寝てろ」
 高橋がバタフライナイフをガチャガチャと展開する。
「愚か、清貧の心、忘れたか」
 包帯男が槍を構える。
「引いてください、貴方達を害したくない」
 俺も戦闘体制を取る。
「あーあ結局こうなっちゃうかー、まぁいいや。安心して任役の皆さん、ただのカカシ3つで貴方達をゲイゲキできるなんて思ってないから。さてさて答え合わせの時間だよ、皆さんはちゃんとwithを和訳できたかな?」
 着物の彼女は、そう言うと足元の黒い肉の塊を踏みつける
「Stand Up!『VIOLATOR』!」
 黒い肉塊がくぐもった唸り声を上げ、それはゆっくりと起き上がる。
 あれがキマイラ?
 例の輸送用のトゥーフィンガー?
 だが様子が明らかにおかしい。大きすぎだ、全長が4メートル近くあり、全身の筋肉が異様に膨らんでいる。輸送用キマイラが本来しないはずの2本足での直立をしていた。目は黄色く濁り、口からは大量の涎が滴り堕ちていた。両手には長くムチのような鎖が打ち込まれ、顔には鋭く長い角の付いた鋼鉄の兜が装備されている。

 あれは……

 だがその時の俺の目にはそれら全てが入っていなかった
 俺の視線は兜の角の先に突き刺さったそれに釘付けになっていた

 あれは……神崎?

神崎

 彼女の身体には無数の穴が開けられ
 血が大量に流れ出ていた
 胸の中心からは貫通した角が・・・

死んでる

 神崎は目を見開いたまま死んでいた

死体

 血が降り注ぐ

 キマイラは咆哮をあげ、辺りに彼女の血を撒き散らしている。

血液感染

致死率の高い病





兵器

装備



毒の鎧

 神崎の死体を兵器として?

神崎を

人間を

そんな

そんな事

人間のする事じゃない

こいつら人間じゃない

 高橋の俺を制止する声も、包帯男の俺への呼びかけも、何も聞こえなかった

 気がつくと俺はナイフを握りしめ、走り出していた

「やめろぉぉおおおおおおおっっ!!!!」

 そしてキマイラが右腕を振りかぶるのすらも目に入らなかった。



「バカ野郎!!!」
 キマイラの殴打に直撃し、盛大に吹き飛び墓石に叩きつけられ動かなくなったバカに向けて、私は怒鳴る。
 全く反応がない。
 マズい、死んでてもおかしくねぇ
「弱っ、なにあれー。ドグシャァって感じだった超面白ーい」
 口紅女がキャッキャッと笑う。
 あのキマイラ、無茶苦茶にクスリを打ってパンプアップしてやがる。
 だがあの異様なデカさは何だ。
「死体、幾つ、喰わせた?」
「さぁーねー、無理矢理押し込んだなー。おかげで良い感じにフィジカルが付いておまけに血の味も覚えてくれちゃった」
「巫山戯んなよクソが」
 私はナイフを逆手に持ち替える。
「包帯無口、あの死体が神崎だ、お前は絶対に近寄るな。キマイラは私がぶっ殺す、てめぇはあのバカを安全な所に」
「了解」
「あれ、逃げないのー?」
 口紅女が私を挑発する。
「あぁ? 黙れよクソ女」
 久々に切り替えねぇとな
「人間風情が、図に乗ってんじゃねぇぞ!!」



 私は新しいタバコを取り出す。
 片腕が排気口のパイプに括りつけられて使えないため、なかなか上手く火が付けられない。
こんなことしなくても、逃げやしないっていうのに。
 ホントなんであたしにはこんなに冷たいのよ
 ようやくタバコを咥え吸い始める。
 人生最後の一服かもね、淡々とそんな事を考えながら煙をたっぷりと味わい、ゆっくりと吐き出す。
「やぁ、大丈夫かい? 怪我してるみたいだね」
 不意に優しげな声がかけられる、顔を上げると、そこには仮面の男が居た。
「あんた……私を殺しにきたの?」
「違うよ、君にお礼をしに来たんだ。君にはいろいろ親切にしてもらったからね。君の助けが無ければ『あの子』は久我山で捕まっていた」
 願い事を言ってごらん、叶えてあげますよ
 仮面に付けられた水晶の、無垢に透き通った瞳が私を映し出す。そこに映る私の顔は歪み、笑っていた。
「私を殺して、もう……疲れた」
「意外だな、君がそれを願うだなんて」
 仮面の男は腰にさした武器を抜く、刃が大きく湾曲した禍々しい剣。
「何度やっても慣れない物ですね、人殺しは。相手が友人ならなおのこと」
 男は刃を振り上げる。私は自虐的な笑みをつい浮かべる。
「ねぇ、もうひとつお願いがあるの。不死追いとしてのあんたにじゃなくて、私を友人と思ってくれるあんたに」
「いいよ、言ってごらん」
「この世界を変えて、正しい世界に。あんたには見えてるんでしょ、この世界の何が正しくて何が正しくないのか」
 仮面の男は、その仮面の下で静かに微笑んだ。
「えぇ」
 刃が振り下ろされる。
「安心してください、あなたの願いは叶いますよ」



 鎖が振り回される
 私は体勢を低くし躱す
 壮絶な破壊音とともに私の背後の墓石が砕け散る
 思った通り、鎖のブン回しは威力と間合いだけで速さがない
 キマイラは咆哮をあげ、鎖の塊を投げつける
 私は墓石を盾にしてそれを躱す
 あたらなけりゃどうという事はねぇんだよ!
 白装束の一人が私の後ろから手斧で斬りかかってくる
 気づいてんだよクズめ
 私は僅かに体を傾け攻撃を躱し、振り返りながらナイフで立て斬りを打ち込む
 白装束は手斧でそれを受けようとするが出が速すぎる
 柄を握っていた右手の指を狙い通りナイフが斬り飛ばす
 背後で風を切る音、鎖!
 私はとっさに横に飛ぶ
 指を斬られ動揺していた白装束は悲鳴をあげることすらなくキマイラの鎖に叩き潰される
 クソっ!
 咆哮
 私は体制を立て直すとキマイラの方へ突っ込む
 右腕の鎖で横なぎが来る
 体勢をさらに低く、地を這うようにして攻撃を潜り抜け、一気に間合いを詰める
 キマイラが左腕を振り上げる
 殴打、うおっ! 速ぇッッッ!
 私は反射的に後ろに飛ぶ
 キマイラの拳が鼻先を掠めた
 危ねぇ、むちゃくちゃ速い
 鎖は元々当てる必要なんて無いのか
 鎖で相手の勢いを殺し、殴打を当てる
 殴打を受ければ近づいて殴り返せそうだが、それだと降り注ぐ神崎の血がキツイ
 確実に無傷で接敵しなくちゃいけねぇ
 包帯無口の方を見る
 白装束を殴り倒しながらバカを担いで墓の出口へ向かってる
 残り1人の白装束が少し離れた墓石の上からこちらの隙を伺っている
 息を整える
 さっきの一瞬であまり自信は無いが兜の構造を把握できた
 後頭部に金属製の止め金
 あれさえ破壊できれば
 キマイラが再び鎖を振る
 縦の振り下ろし
 私は体をひねり、紙一重でそれを躱すと地面に叩きつけられた鎖を掴み取る。
 キマイラは私の掴んだ鎖を私ごと振り回そうと力を入れるが、鎖が凄まじい音を立て緊張するだけで私は一切動かない
 キマイラが一瞬怯んだような表情を浮かべたのを見ると、私は鎖を離し走り出す
 急に鎖を離されたキマイラは勢い余り体勢を崩してる
 キマイラはなんとか右腕の殴打を打ち込むが、私はそれをすり抜けるように躱し後ろに回り込む
 背中に飛びつき、兜の止め金にナイフを叩き込む
 鈍い音とともに止め金が壊れたのを確認すると、私は飛び降りる
 キマイラは滅茶苦茶に拳を振り回すがそんな物あたらねぇ
 私はすぐに殴打の射程の外に抜ける
 兜と死体がキマイラの頭部から外れゆっくりと落下する
 白装束が横から突っ込んでくる
 今更おせぇよ!
 私はナタでの攻撃をナイフで受けると膝を蹴り壊す
 白装束は絶叫とともにその場に倒れ込む
 私はキマイラと向き合う
 もう神崎の死体は外れた、殴打を受けて頭蓋骨をかち割ってやる。
 その時突然後ろから羽交い締めにされる
 白装束!? まだ隠れてやがった
 キマイラが鎖を振リ上げる
 クソっ!! 避けれねぇ!!!
 私は白装束の襟を掴み、無理やり振り回し盾にする
 轟音と共に鎖が叩き込まれる
 全身に凄まじい衝撃が走る
 私は吹き飛ばされ、背中から墓石に叩きつけられる
 あたりに木っ端微塵になった白装束の死体が散る
 激痛が体に走る、肺がひしゃげる、息ができてねぇ
 視界が錯乱し立ち上がることすら出来ない
 キマイラが鎖を振り上げる
 マズい! マズい!!
 直撃なんざ耐えられるわけがない
 死ぬ?

 突然キマイラが悲鳴を上げ体勢を崩す
 鎖の軌道がそれ、私には当たらずすぐ横の墓石を叩き壊す
 包帯無口が後ろからキマイラの足に槍を突き刺したのだ
 キマイラは咆哮をあげ、上半身をひねり右ストレートを叩き込む
 包帯無口は躱せず、もろにくらいぶっ飛ぶ
 ざけんなオイ!
 私はなんとか立ち上がる
 足元がフラつく
 キマイラは倒れ込てる包帯無口を左手で掴み、持ち上げると握り潰そうとする
 包帯無口が悲鳴をあげる
 私はようやく体幹を取り戻し、走り出す
 ざけんなオイ
 ざけんなオイ!! 間に合わねぇ!!!
 包帯無口は右手に持っていた槍を持ち上げキマイラの顔に突きつける
 甲高い金属音とともに槍の刃先が勢いよく発射され、キマイラの眼球に突き刺さる
 キマイラは絶叫とともに膝をつく
 手の力が緩み包帯無口が解放され、落ちる
 いけるっ!
 私はキマイラの左腕の肘めがけ飛びかかり、ナイフを叩き込む
 ナイフの刃は骨に半分ほど噛んだところで折れる
 私は咄嗟に右足で蹴りを肘に叩き込む
 キマイラの左腕がもげる落ちる
 私は地面に着地した
刃の折れたバタフライナイフを捨て、キマイラを見る
 キマイラは喚き散らしながら切断された左腕を抑え、じりじりと後ずさりをする
 もう一本の金色のナイフを抜く
「こいよ豚野郎、痛覚なんてねぇんだろ」
 ビビリ腐ってんじゃねーよ!!!!
 キマイラは最後の咆哮をあげ、突っ込んでくる
 右のストレート
 私は完全に見切り、下がった頭部に飛びかかると脳天にナイフをたたき込む
 頭蓋骨を突き破り、脳髄をえぐる
 キマイラは糸の切れた人形のようにその場に崩れた。



 痛い
 僕は関節の外れた肩を無理やり嵌める。
 目の前には巨大なキマイラの死体が横たわっている。
 信じられない、あの女性はほとんどたった一人でこの化け物を始末した。たとえアウトキャスト一部隊使っても抑え切れなかったであろうあの化け物を。
「おぉ、良かった良かった。無事だったかオイ」
 その女は化け物の脳髄ごとナイフを引きずり出しながら僕に声をかける。
 これが彼女の実力。
「強い、ですね」
「てめぇもな、助かったぜ。命の恩人だ」
 そう言いながら彼女は壊れて落下したキマイラの兜の方へ向かい、死体を外し始める。
「なぜ、そんなに、強い?」
「私? さぁね。私も知らん」
 彼女は丁寧に死体を引き抜き、それを優しくそっと抱きかかえる。
「そんなことよりお前合格だ。今日から私達の仲間にしてやる」
「え?」
「文句ねぇだろ、いつまでも御客さん扱いは不便だからな」
 僕は突然の話にたじろぐ。
「なんだ? なんか問題でもあんのかよ」
「僕は、救民だ」
「『僕』だって、なにそれ似合わねぇクソ笑える」
 彼女は楽しそうにケタケタと笑う。
「君達とは、違う。協力は、できる。でも、仲間、無理」
「違う? 救民だから?」
 僕は頷く。
「丁度いいじゃねーか。お前は救民、私は警邏、徳本が商会、そんであのバカが……」
 彼女は少し考え込む。
「正義の味方だ」
 僕は思わず笑ってしまう。
 彼女も得意気に笑う。
「名前教えろ、お前らのあだ名は呼びにくい」
「菊地です、菊地、久志」
 他人に名前を教えるだなんて初めての事だった。だけど僕は自然にそれをすることができた。
「もう知ってるだろうが私は高橋、よろしくな」


 薄暗い地下水道を、手元のランプの僅かな明かりを頼りに歩く。
「黴くさいよー、嫌だよー、臭いなかなか落ちないよーきっと」
 お気に入りの赤桜の着物だ、台無しにしたくない。だから一刻も早くアジトに帰りたくって目印を必死にたどる。
 新しいアジトの場所はまだにちゃんと覚えていない、いい加減覚えろとスゲー怒られる、この目印も早く消したいらしい。
 目の前の曲がり角からいきなり仮面の男が現れた。
「ぎゃあッ! あ、ビックリした。なんだシショーか」
 シショーは私の行く手を遮るように立つ。
「ワンマンプレイの挙句にこの失敗。私はちゃんと警告したはずだよ」
「聞いてないよあんなに強いなんて。ESをチシリョー打ったキマイラのパンチをひょいひょいかわしちゃうなんて人間じゃないじゃん」
「おかしいな、言ったはずだったけど『高橋は成功例』だと、模造刀にどんな細工をしても真剣には勝てないでしょう」
「あれ? シショーちょっと怒ってる?」
「あのキマイラは幾らでも使い道があったからね」
「でもでもだって、あの病院ちょー気に入ってたんだもん」
「君には後でちゃんと罰を与えるから、楽しみにしていてほしい」
 そんなー
 私は涙声で抗議する。
「泣き落としなんて無駄ですよ。さぁ帰ろう、みんな待ってるんだよ」
 シショーはあたしの手を握るとスタスタと歩き出す。
「ねーシショー」
「何か?」
「アイツら殺しちゃわないの? なんか生かしておくとめんどくさそー」
「次も敵とは限らないだろ、敵は少ないほうがいいんだよ」
「ふーん」
 前から救民の地下水路の巡査が現れる。
 シショーは軽く会釈をする。
 あたしは手をブンブンと振る。
 巡査はランプをチカチカと点滅させ返事をする。
「そうだね、味方は多いほうが楽しいねー」





SIX


 廊下が何だか騒がしい。
 来たか
 ドアが乱暴に開かれる。
「全治三ヶ月とか情けねぇーなオイ」
 高橋は病室に入るなり、ベットに横たわる俺を嘲笑った。
「申し訳ないです」
 高橋、菊地、それに珍しく引きこもりの徳本まで来ていた。
 ここはB地区のとある病院、肋骨と右腕をへし折られてしまった俺は、ここで退屈で平坦な日々を過ごす事を強要されていた。
 時間だけは膨大に溢れかえっていて、それはただただ自分を責める時間となっていた。
「こんにちは菊地さん、お久しぶりです徳本さん」
 菊地はただ頷く。
「最後に顔合わせたのいつやったっけ?」
 背の小さい徳本がちょこちょこと俺の寝ているベッドによじ登る。
「安心せぇよー、ちゃんと給金はだすからゆっくり療養するんやでー」
「徳本さん、背縮んでません?」
「そっちが成長し過ぎなんや、ウチまだ成長期迎えて無いんやでー」
 そう言ってぺちぺちと俺の頭を叩く。
「ほら降りろクソガキ、いちゃいちゃすんのはやる事すんでからにしろ」
 高橋が徳本を無理矢理抱え込んでベットから下ろす、そして勝手に部屋のカーテンを開け、強い朝日を部屋に呼び込む。
「さて、近況報告兼神崎の一件のまとめだ。何処から話そうか」
 お前が寝腐ってたこの一週間いろいろあったからな
 高橋はそう言うとベッドの端に乱雑に腰掛ける。
 俺は光に驚く眼球を手で守りながら俯く。
 神崎の事件での自分の醜態、思い返すと何もかもが情けなかった。ただただ迷惑をかけたという自責だけが沸々と沸き上がり続ける。
「まずあの事件の結末から話すか。口紅女には逃げられた、ムカつくぜ。四人の白装束の内二人は戦闘中に死亡、あと二人は捕まえたけど何も吐かずに自決しやがった。片目の看護師は首を切り落とされてた、凶器は切断面から見るに東の工場で使われてる死体解体用の曲剣らしい」
「殺されてしまったんですか、彼女」
「あぁちゃんと保護しとくべきだったぜ。そんで次にキマイラの死体なんだが、どんなクスリを使っていたのか気になってな、警邏の『総研』に分析を依頼したら……えーっとなんつったけ?」
「丙種、危険、指定、薬物」
「そうそれ、丙種危険指定薬物ってのが検出されたとかで無理矢理没収されちまった」
 あー安心しろ、血液サンプルやら臓器の一部は事前に抜いてとっておいてあったから
「事務所の冷蔵庫の中、マジグロやでー、もう使いたくないわあれ」
「それと天碧会の本部にアウトキャストが乗り込んだがもぬけの殻だった、ちなみに天碧会の会長の『篠崎龍一』は自宅で首を吊っていた。あーそれと本物の柏木美由紀もやっぱり首を吊ってた」
「一体幾つ死体が出てくるんですか……」
「まだだ」
 そう言うと高橋は得意げな笑みを浮かべ、三枚の薄いカードをベッドの上に投げた、俺はそれを手に取る。
 任役の身分証明書。
 二式の物だ、失効しているのか中央に穴が開けられてある。
 それぞれの名前を確認する。
「麻生祐一」「栗田花」「渡邉明彦」
 これって後藤の事務所の……
「救民の苦情を正式に受け取った商会がそいつらに凶状を出した、一人五○万で後藤と全員セットかつ生け捕りなら三○○万、美味い仕事だったぜ。今頃あの下痢野郎の所に送られてリンチにされてんじゃねーの」
「雲、言ってた、彼ら、殺さない」
「マジで? 本当平和主義だなお前ぇーら」
「待ってください、え? 凶状? 商会が? 任役に?」
「そうやで、『宮藤』の独断で押し切って出したんや。後藤の書類を受理したのは『高柳』やからめちゃめちゃ揉めとるで」
 高橋はケタケタと楽しそうに笑った。

「さて、近況報告はこんな物かな。それじゃあここいらで本題に入るぜ。私達の今後について」
 このまま「ソシ」の奴等を追うか引くかだ
「正直ここで手を引くのが得策だと思うぜ。奴等を追う賞金稼ぎは結構増えてきたし、また特務課が動き始めたらしい。任役のライバルの数こそ少ないがかなり強力な駒が動き出してる様子だ、敵も一筋縄で行きそうにねぇし。壁の外、魔術師、総研、キマイラ、なんだか物騒な物がぞろぞろ巻き込まれてる。一応今回の一件でキマイラの死体が警邏曰く『危険物回収報酬』ってことで二○○万に化けた、さらに商会から賞金が三○○万、そんで救民も特別手当つって一○○万ポンとくれたし損はしてねぇ、どうする?」
「決まってるじゃないですか、自分は続けますよ」
 高橋はニヤリと笑う。
「それが聞きたかった」
 さて、おらてめぇら帰るぞ

 あぁそうそう、あの病院は一時閉鎖したらしーぞ、経営が完全に腐ってたからな。





ENDING


 彼らが出て行くと再び病室が俺一人の空間になった。
 俺はため息をつくと、誇り臭い毛布にくるまる。
 いろいろな事が頭を巡る。
 商会、事務所、キマイラ、クスリ、天碧会、病院、片目の看護師、仮面、ソシ、気味の悪い女、薬物、凶状、首吊り、死体、高柳、罪、水島、落とし子
 そしてなによりも神崎の事。

 ごめんなさい
 俺、何もできなかった
 貴女を助けられなかった
 俺が……もう少しでも……
 辛かっただろう
 痛かっただろう
 苦しかっただろう
 ごめんなさい
 ごめんなさい


 その後俺は奇妙な夢を見た。俺はなぜか神崎で、目を腫らして泣いている子供の姿をした俺を慰めていた。高橋が笑ってる、徳本も、菊地もいる、水島まで……
 いままで俺が関わってきた全ての人々が優しく微笑みながらその光景を眺めていた。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


 子どもの頃、夜になると地面に耳を当てることがあった。コンクリートの表面は太陽が照っているうちにはとても熱くて、真冬の一時くらいしか直接触ることはできない。しかし、夜になれば、皮膚の中でも皮膜の薄くて敏感な部分で触れても、さほど害はないことは誰が教えてくれたのだろう。私は周りに誰もいないことを確認すると、我が家の傍の公道に寝そべって、ざらざらした場所に耳を直接当てていた。その状態のまま、しばらく経つと、自分の心音はまったくうるさくなくなって、代わりに遥か下の方でごおごおと何かとんでもなく大きなものが動いている音が聴こえてくるのだった。
 私は音の正体を知っていたのだろうか。周囲の大人は相手にしてくれなかった。ねえ、聴こえるよ。私はいつもそうするように道に寝そべって言ったが、ただ汚れるからそんなことはするなと怒られただけだった。そして、そのうち、何故だか自分も音のことは気にしてはいけないような気がして、地面に顔を近づけることもなくなってしまった。
 高校を卒業してから少しの間、小さな繊維工場に勤めていた。そこで、神経を病んだ。地元に戻ってきたのは、決まった職を失って、自分の稼ぎが頼みにならなくなったからだ。何年か離れていたうちに、姉夫婦には子どもがふたり生まれて、生家に私が入る余地はなくなっていた。子ども時代を過ごした四畳半は五歳の男の子と三歳の女の子の子ども部屋になっていて、しかたなく、駅の近くの小さなアパートに暮らすことにした。
 親からいくばくかは生活費を頂いていたから、引っ越してからほどなくしてはじめた派遣会社の登録社員としての給料と足せば、慎ましく暮らす分には問題がなかった。生活が少しだけ、安定すると、身の回りに新しいことは特になくなって、その中で甥と姪だけが顔を合わす度に身体の大きさを伸ばしていた。
「おじちゃまは、いつも何をしているの?」
 そんなことを聞かれたのは、姪が小学校に上がった年のことだったと思う。私は休みの日の常で、小さな自分の部屋の中を綺麗に片付けると、昼過ぎに生家をたずねていた。昼食はたいてい、姉か母が作ってくれて、私はそれを待つ間子どもたちの相手をしていた。しかし、不意に目の前で無邪気に笑っていたはずの女の子が、神妙な、子どもらしからぬ顔をしたので少し怖くなった。
「何もしてないって、ママが怒ってた」
 一人前に他人を嘲るような風にして、姪は言う。私は自分の知らないこの家の日常を見たような気がして、少しがっかりした。
「何もしてないわけはないよ」
 そう答えると、姪は勝手に納得したように、そうだよねと返事をした。「息をしているし」
 私は何も言えなかった。言いたいことは多くあったが、姪にぶつけることは何もなかったから、鼻からはただ、はあはあと息が漏れただけだ。そうしていると、姪は面白がって、ほら息をしてると言うのだった。
 自分も何かしないと、と思ったのはその日の姪の言動だけがきっかけでもないのだろう。しかし、私はまだ二十代半ばで、そう言われて反発を覚えるくらいには燻っていた。仕事もパートタイムの雇用に等しかったから、将来は見えそうになかった。かと言って、勉強ができるわけでもない。
 夜になると不思議な音が聴こえるようになったのはそんな最中のことだった。
 日中、スイミングスクールの受付作業や通販会社の苦情対応の仕事をしているときに、常にこの先どうすればいいのか考えている自分がいた。それは、仕事が終わって手が空くと尚更だった。もしかしたら、その煩悶が形を変えて私を襲うようになったのかもしれない。はじめに音が聴こえてきた夏の夜も、直前までは将来のことを少なからず考えていた。
 ごおごお、というその音は遥か遠くから、しかし確実に聴こえてきた。私は飛び起きると、突然訪れた音の源を探したが、それは辿ってみれば足下から聴こえているようなのだった。うるさいというわけではない。しかし、響きは鳴り止まずにいつまでも続いている。慌てて、自分の部屋を飛び出して外に出てみると、やはり同じような音量で鳴り響いていた。
 私は、偶然隣の部屋の男が買い物から帰ってきたのを見つけた。呑気に鼻歌を歌っていたが、私に気が付くとかしこまったようにぴたりと止めてしまった。
「こんばんは」
 彼は言った。私も一応、挨拶を返す。それから、
「何か、鳴ってますけど、どうもうるさいですね」と切り出した。
 だが、彼はきょとんとした顔つきで、はあと息を漏らしたのみだった。「……鳴っているって何が?」
「え? 今も聴こえてるこの音が、です」
 男はいぶかしむような顔をして、通りの方は少し騒がしいかもしれませんけど、と呟くような声で言った。その間にもごおごおという大きな音は鳴っている。私は、もしかしたら自分にしか聴こえていないのかもしれないと思い直して、「変なことを聞いてすいません」と詫びた。
 その時間帯の大通りの方はいつも車の通りが多いから、騒がしい。だが、そういう音と私が今聴いているこの音は明らかに違う。私は音源を探そうとふらふらと歩き出した。足下の方から聴こえていたから、てっきり坂の下まで下れば何か見つかるかもしれないと思ったのだが、坂の下の国道に出ても、やはり音は足下から聴こえていた。
 何か、工事でもしているのかもしれない。夜の国道沿いの小さな歩道にひとり立ち尽くして、そう思い直したところで、自分が慌てて飛び出した所為で酷い格好をしていることに気が付く。今来た道をできるだけ他人に合わないようにと思いながら引き返して、部屋に戻ると、そのまま眠ってしまった。

    ○

 子どもの頃のことを思い出したのは、地下からはじめて音が聴こえた日から、しばらくしてからだ。
 その年末に私は高校時代の旧友の紹介で、近所の製薬会社の事務職に就くことができた。それを機に、親からの経済援助は一旦断ったものの、職場は今までよりも近くなったので、定期的に生家に顔を出す生活は変わらなかった。
 音はすぐに止むだろうという私の予想を裏切って、いつまでも鳴り響いていた。昼は幽かに、夜ははっきりと足下から聴こえてきて、止まることがなかった。私は少し耳障りに思って、工事をしている団体に苦情でも言おうと思ったが、探してみてもその時期、自宅の近辺の地下で工事をしているという事実は見つからなかった。考えてみれば、工事現場特有の硬いものを削るような荒々しい音と、地下から鳴る音はあまりに異なっている。しかし、それならば何の音なのか、検討もつかないで毎日を過ごしているうちに、なんだか常にうるさい状態に慣れてしまった。
 出張で少し遠くの都市に出ることになったのは、事務の職をはじめて一年くらい経ってからだ。そして、子どもの頃のことは帰り道にふと思い出した。私はその日、使うはずだった帰りの電車が人身事故で停まってしまったので、しかたなく遠回りをして他の路線で帰ることにしていた。各駅停車で一駅一駅ゆっくりと自分の乗った車両が進むうち、ふと気付くと自分がかつて住んでいた町に差し掛かっていた。
 高校を卒業してから、就職をした繊維工場は家から遠く離れていたので、大学に進学した多くの友人と同じタイミングで私もひとり暮らしをはじめた。実際には三、四年ほどそこに住んでいたわけだが、当時の私の生活はごく単調で、時間の感覚が曖昧だ。ただ覚えているのは、夕方の休憩時間になって工場の中から出てみると、一気に暗くなった空が目の前に広がって、舌打ちをしていたことくらいだった。私の知らない時間がまた流れてしまった。そんなことを考えて悔しくなったのかもしれない。
 電車の窓からその頃の私に関する細かな場所が見えないか、よく目を凝らしてみたものの、もうすぐ工場が見えるというときになって急に車両は地下に潜ってしまった。外が暗くなった所為で急に窓に映し出された自分の顔を見ながら、私はふと久しぶりに地下から聴こえる音のことを思い出したのだった。車輪が回るのに合わせて、ものとものがぶつかる音ががたがたと騒がしく響いていたが、よく耳を澄ませば、その中にごおごおという例の音が混じっていた。私ははっとした。住処から遥かに遠い、こんな場所でも音が聴こえているということに気付いてしまったからだ。そして、同時に自分が大人になるずっと前にこの音を聴いていたということを思い出してしまったからだ。
 思わず、手にしていた鞄を落としてしまった。中に重要な書類が入っていることを思い出して、慌ててすくい上げようとする。が、勢い余って身体ごとバランスを崩してしまった。途端に、後ろから手が伸びてきて私のスーツの肩を掴んだ。振り向くと、大柄な男が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
 助けてもらったのだと気付くと、少し恥ずかしくなる。軽く礼を言うと、私は改めて鞄を拾い直した。それから、一度深呼吸をした。
 頭の中では何か、とてもすっきりと配線がつながったような気分でいた。子どもの頃、軒先で聴いていたあの音と、大人に鳴ってから不意に聴こえるようになった音が重なる。何故、そのタイミングでそれに気付いてしまったのかは分からなかった。しかし、自分は重大な事実に気付いてしまったのだという気がした。
 そこから家の最寄り駅に着くまでの時間は少しじれったかった。改札を抜けると、家とは反対の出口を抜け、駅前のロータリーの一角にあるインターネットカフェに入った。通された個室のパソコンを立ち上げると、私は思いつくままに地下から聴こえてくる音の正体を探りはじめた。
 生家のある場所は私が小学生の頃に区画整理が行われた関係で、ガスや水道の配管が多少複雑に入り巡っているようだった。だが、だからと言ってあんな音は出ないだろうし、離れた土地を走る電車内で聴こえたことの説明はできない。
 また、地殻変動が起こった際に聴こえる音についても調べることができた。地下十数キロまで潜れば、動く地殻の発する音を聴くことができるようだった。しかし、地上から、器具も使わないで同じように聴くことはできるのだろうか。大学すら進学していない私に詳しいことは分からないが、これも現実的ではないように思ってしまう。
 私の住んでいる土地では地下を走る電車も自動車もないから、結局のところ原因らしい原因は分からずに終わった。パソコンの電源を落として、店を出たとき、私はもう一度目を閉じてみた。午後六時半の駅を埋め尽くす喧噪、居酒屋の客引き、子どもの声。聴こえてくる音の種類から言えば、通りを走る車の音や正体の分からない音楽よりも、人間が発する音の方が遥かに多かった。そして、その中にやはり、ごおごおと地下からの音は混じっているのだった。
 思わず、私は両方の手のひらで耳を塞いだ。力を込めると、すべての音量が半分くらいになる。
 だが、予想に反して、例の音だけはまったく変わらず、耳に入ってきていた。
 うるさいな、と久しぶりに思った。もしかしたら、思ったのみではなく、口に出していたかもしれない。不意に、近くに立っていた緑色のコートの女性が振り向いた。大きな瞼を見開いて、まっすぐにこっちを向いてくる。私は二、三時間ほど前に電車の中で助けられたとき、覚えたのと同じような羞恥を覚えて、歩き出した。
 しばらく歩いて、商店街の入り口に差し掛かったとき、ふと振り向くと、さっきのひとが遠くに立っていることが確認できた。誰だか思い出せるような、思い出せないような変な違和感がある。前に会ったことがあったっけ。考えても答えの出ないまま、また歩くうちにだんだん、頭の中のそのひとの顔は朧げになっていった。

    ○

 姉夫婦の旅行に付き合わされたのは、甥と姪の面倒をみるためだった。旅行と言っても、一泊二日だけだが、行き先の避暑地の近くには巨大なアウトレットモールがあって、姉にとってはそこで服を買うのが目的のようだった。小学五年生になった甥と二つ年下の姪は、ファッションにはまだ興味がないから、一日中買い物に付き合うと疲れてしまう。生憎、姉の夫はその日、大学時代の友人に会う用事ができてしまったため、代わりに私が姉夫婦の旅行に同行して、甥と姪の相手をすることになった。
 そういう事情だから、初日に甥と姪と近くの小さな町の遊園地を回ると、夜は彼らを両親に引き渡して、終電で地元に帰ってきた。姉夫婦はどこかのコテージの一間を借りて、そこに泊まるのだと言っていた。一応、私は次の日も会社に有給の申請をしていたものの、姉がいるとは言え、ひとつの家族の団らんに割り入るのも気がひけたから、退散することにした。しかし、帰りたかった理由はそれだけではなかった。
 翌日は一日中、雨が降った。診察室から出ると、窓の外ではまだ黒い雲が立ちこめていた。私は、遥か遠くの姉たちのところにも同じように雲が立ちこめているのだろうか、と思った。落ちてきた雨水は何かに当たると、弾けて音を立てる。それが、壁を伝って、室内にいても聴こえていた。そしてその中においても、うなるような音が絶え間なく響いていた。
 音は、確かに聴こえているのだ。どんな場所に行っても、地下で何かが動いている。ただ、私にしかそのことは分からない。
 耳鼻科には定期的に通っていた。耳鳴りがする、と言うと聴力検査で異常のないことを確かめられた後、たいてい粉薬を処方された。だが、それを飲んだところで音は鳴り止まなかった。
 精神科にも行った。一度、精神安定剤を断ってしまってからは、もう何年も何となく足が遠のいていたものの、もしかしたらそのことがよくなかったのかもしれないと思ったのだ。カウンセリングを受けてから、心を落ち着かせるための薬を処方してもらった。私は就寝前、その錠剤を飲み下すために水を一杯コップに汲んで、それからまったく口を付けないまま、流しに捨てた。耳元で聴こえる大きな音は、薬を飲んだ程度で聴こえなくなるはずがない、という確信が何故だか私の中にあることに気付いたからだ。ただ闇雲に気持ちを抑え付けられる感覚を味わうのは嫌だった。
 姉夫婦の旅行先でも、やはり音は聴こえていた。私は家の近所にある総合病院の耳鼻科でそのことを言うと、トリノシンの粉末の処方箋を書いてもらって、薬局で受けとった。横殴りの雨は傘を差していても中に入ってきて、薬局を出てから図書館に移動するまでの間に服がびっしょりと濡れてしまった。自動ドアをくぐると、暖房が効いていて少し安心する。
 昼過ぎまで、集中して地球科学関連の専門書に目を通していた。高校では生物を選択したから、習わなかった分野だ。中学生の頃の理科の中身もあまり覚えていない。だから、今になって最低限の知識を身につけようと思っても、容易ではなかった。仕事の合間を縫って、図書館の本や参考書を読んだ。半年ほどかかって、一般の理系大学生が知っているのと同じくらいの内容は頭に入った。
 しかし、学べば学ぶほど、ある程度の深さの地殻やその下のプレートの動きが地上にいる我々に音として直接伝わるはずもないことが分かってしまう。地下十数キロのところで、人の叫び声が聞こえるという眉唾ものの報告にも目を通した。平日の仕事帰りにインターネットカフェで検索した情報の真偽を、休日に図書館の専門書で確認する。たいていは専門知識を通して見れば、それらが民衆を驚かす単なるはったりであることは見抜くことができる。だが、いくら探しても私が求めるような知識は見つからなかった。
 表紙に「地学」という二文字だけが書かれた厳めしいその本の中身に没頭していた私は、声をかけられたとき、気付かなかった。
「ねえ」
 肩を叩かれて、ようやく顔を上げる。遠くの壁掛け時計が示す時刻は既に午後になっていて、傍にはいつの間にいたのか、髪を肩の辺りで切りそろえた女のひとが立っていた。声をかけても気付かなかったものだから、と謝ってくる。
「これ、落ちてました」
 茶色のコートの袖から飛び出た白い手は私の携帯電話を握っていた。恐らく、本を選んでから閲覧席まで動く間にポケットから落ちたのだろう。私は軽く頭を下げると、受け取った。ボタンを押して起動してみたが、何の異常もなさそうだった。
「どうも」
 傍のひとに声をかける。すると、彼女はもう一度口を開いて、不思議なことを言った。
「いつも、机の上に出しているのに、今日は出していないようだったから。……向こうの棚のところに落ちてましたよ」
 はあ、と呆気にとられる。言葉の意味を少し考えてから、思わずまじまじと相手の顔を見つめてしまった。どこかで見たことのあるような気もするが、思い出せない。少し厚めの唇の上には何か塗っているようだったものの、全体的に見れば、決して化粧の濃い方ではなかった。目元がはっきりして見えるのは、単に睫が長いからだろう。年はまだ若いようだ。
 私の中のいぶかしむようなところを見透かしたのか、彼女は少し微笑んだ。
「私も、いつもここの机の席に座ることにしているんです。何度も正面に座ったことがあるんだけど」
 そう言われれば、その通りのような気もする。しかし、今ひとつ思い出すことができなかった。
「……そうですか。集中すると周りが見えなくなるみたいで」
 言葉を選んで返した。すると、彼女は少し芝居がかったように人差し指を立てて突き出した。
「それに、この図書館以外でも会ったことがあるんですよ」
 彼女の言葉に、今一度頭の中を探ってみるものの、やはり思い当たりそうもなかった。基本的に私には異性の知り合いが少ない。高校時代に関わった何人かの女友達を除けば、繊維工場にいた頃も、地元に帰ってきてからもほとんど知り合いと呼べる女性の数は増えていなかった。勿論、目の前の彼女を、今の職場の周辺で見かけたことはない。
「失礼ですが、人違いではないでしょうか?」
 私がたずねると、彼女はぼつりと一言、うるさいな、と漏らした。顔は微笑んだままだから、少しぎょっとする。が、不意に私の頭を、昨年のちょうど今と同じ頃の記憶がかすめた。思わず、あっと声を出してしまう。私は確かにその言葉を口に出したのかもしれない。記憶の中でどろどろに溶けていた像が目の前のひとの顔の形に固まった。
「……コートの色が変わっていたから、気付かなかった」
 一年以上前、私は駅前のインターネットカフェを出たところで彼女に会った。決して声を交わしたわけではない。正真正銘の赤の他人のはずだった。ただ、彼女は大きく見開いた目で私のことを見つめていた。そのことが何故だか、印象に残っていた。
「思い出してくれないと思ったけど、意外とすれちがった程度でも覚えているものかな」
 彼女は殊更に笑みを浮かべて、そんなことを言った。

    ○

 休みの日曜日に図書館に行くと、彼女は確かに私がいつも使う机で何かの本を読んでいる。私が「地学」に目を通し終わる頃には、会えば必ず少し話をする仲になっていた。と言っても、場所が図書館だから、挨拶程度の内容には違いない。だが、そのうちにアドレスを交換すると、もっと色々と他愛ない話もメールを通してできるようになった。
 来週の日曜日はちょっと、図書館以外で話してみませんか。それがメールによるものだったのか直接彼女の口から出たものだったのかは覚えていない。ともかく、そう誘われたのは図書館ではじめて彼女に気付いたあの雨の日から半年以上経ってからだった。その頃にはコートを着る季節はもう終わって、まだ暑いとまでは行かないものの、薄い長袖の服で充分生活できた。
 待ち合わせた場所は、駅の改札の前だった。職場の同僚に見立ててもらったジャケットを羽織って、約束の十分前に辿り着いたとき、私は既に待っている彼女の姿を見つけた。目が合って、お互い少し微笑む。早いですね、と言うと、私も今来たところですと返された。
 連れ立って、一番近い喫茶店に入った。通っているインターネットカフェの隣の店だ。そのことを伝えると、
「家にパソコンはないんでしたっけ?」
 彼女はたずねた。注文してから、すぐに運ばれてきたコーヒーを一口すすって、私は頷いた。
「家に余計なものを置きたくないんです」
「なるほど。でも、何が余計で何が余計じゃないかなんて、分かる?」
 意地悪をするような目をして、そんなことを彼女は言った。少し戸惑ってから、たぶんと私は答えた。
「そういえば、はじめて会った場所は、すぐそこでしたね」
 話を変えようと思って咄嗟にそう言う。しかし、突然口から飛び出したにしては、それは今まであまり触れてこなかったことだった。彼女はそうですね、と言って微笑んだが、その奥にある感情を見出すことは叶わなかった。
「……あのとき、何がうるさかったんですか?」
 たずねられると、途端にごおごおという音が耳障りに聴こえてきた。私は窓の外に目をやった。あの日、私が立っていた場所を見る。彼女はどこから出てきたんだっけ。
「地面から聴こえてくる音です」
 私の言ったことを冗談にでも受け取ったのかもしれない。彼女は面白いことを聞いたというような笑みを作ると、そう、と呟いた。図書館で自分が彼女の顔を思い出したときと、それが同じ表情だということに私は気付いた。
「だから、地面のことについて勉強しているの?」
 どこまで信じているのか分からないが、彼女はそう聞いた。「何をあんなに追い求めているのか、今日はちょっと聞いてみたいと思ったんです」
 私はまた一口、カップの中の黒い液体をすすった。窓の外はよく晴れていて、日曜日にしては静かだった。太陽がきつく照らしているから、歩道のアスファルトに今、耳を付けたなら火傷してしまうかもしれない。だが、そんなことをせずともはっきりと地面から聴こえる音を私は耳にしていた。
「……ずっと前から僕にだけ聴こえていたんだ」
 一度、話し出してしまえば止まらなかった。彼女は私の目を見つめて、時折相槌を打った。私は自分が子どもの頃に聴いていたのと同じ音が、再び聴こえ出す前のことについても細かく話をした。自分が神経症だと診断されたことや、今も薬を服用していることは普段ならば、あまり言いたくはない事実だったが、彼女に対しては言っても良いような気がした。
「どんな音が聴こえるの?」
「うーん。なかなか説明しにくいんだけど、何か大きなものがごおごおと動いているような感じなんだ」
 彼女は納得しているようなそうでないような複雑な表情をした。所詮、自分の感覚でしかないし、それを事細かに伝えるだけの語彙があるわけでもない。分からないと思うけれど、と言い足すと私は話を続けた。
 現在に辿り着くまでには二時間くらいかかってしまった。しかし、結局のところ、私は自分だけが聴こえる音のことと、調べれば調べるほどそんなものは聴こえるはずのないことが分かってしまう苦悩を吐露していたに過ぎないのかもしれない。
 私が話し終えると、それまでひたすら真剣な目をして相槌を打っていた彼女は、少しだけ自分の話もした。普段は隣町の私立大学で職員として働いていることや、住居が図書館の近くにあること、それから年齢は私と同い年であることなど、ほとんどの事柄は既に日常的なやりとりの中で知っていることばかりだった。もしかしたら、彼女なりに私と対等になろうとしてくれているのかもしれない、とふと思った。
「私の話はこのくらい」
 そう言って、彼女は話を終わらせた。そして、すっかり冷めてしまった自分のカップの中身を飲み干した。それで、と彼女は言う。「あなたの希望は音の正体を見つけることなの?」
 そんなことは長い話をせずともすぐに分かることだった。だが、その通りだと口にしてから、何かその言葉に納得してしまう自分がいることに私は驚いた。音は確かに聴こえる。ずっと響いている。だが、いつからその正体をつきとめることに固執していたのだろう。
「それなら、大学の教授にでもなって、研究することね」と彼女は言った。

    ○

 高校を卒業した後、私が大学に進学しなかったのは、学びたいと思えることが何もなかったからだ。高校生の頃の私は妙に自分の選択に自信を持っていて、ただ漫然と学生の身分で過ごすだけの未来を良いとは思わなかった。それで、高校二年の進路相談の頃には早くも就職を希望していたのだが、結果的に良い判断だったのか悪い判断だったのか、大人になった今でも分からない。ともかく、当時の私には興味のないことを学ぶことほど苦痛なことはなかったし、その上での選択が余計に興味のないことだらけの日常を呼ぶものだという予想もしていなかった。そして勿論、自分が随分経ってから、大学受験をする日が来るなんて微塵も考えていなかっただろう。
 喫茶店で彼女と話した翌週から、私は平日の仕事帰りにインターネットカフェに行く習慣を辞めて、その代わり英語や数学の勉強をするようになった。休日には図書館に行って、彼女の前でその一週間に学んだことの復習をする。新しく学んだことや思い出したことはたいてい話したくなったし、閉館時間が終わった後、彼女は私の話に熱心に耳を傾けてくれた。あっという間に季節はまた冬に差し掛かって、私の誕生日を通り過ぎようとしていた。
 その日、私たちは図書館ではなくて、近くの繁華街の小さなバーにいた。そして、彼女は私にどこかで見たことのあるブランドの印の入ったマフラーを誕生日プレゼントとして差し出した。
「ありがとう」
 私が言うと、彼女は微笑んだ。店を出たとき、時刻はもう随分遅くなっていて、彼女の家まで送ることにした。なだらかな坂道を上りながら、私たちは他愛ない話を続けた。久しぶりに飲んだアルコールの所為か、あまり地下からの音が耳障りにならなかった。それどころか、周りが静かであるとさえ感じてしまうようだった。その中で、彼女の声がよく聴こえた。私は何故だか、急にもどかしい気分になって、囁くように交際を申し込んだ。傍にいた彼女はもう一度、微笑んだ。
「図書館に通ったかいがあった」
 嘯くように、そんなことを言った。
 はじめての大学受験は、結果としては成功した。入学試験の日の少し前から、溜めていた有給休暇をすべて使って本番に臨んだ。隣町の彼女が働いている大学は学力の面から言えば、それほど入ることの難しいところではなかったが、私と彼女は張り出された合否発表をひどく緊張した顔で見つめた。そして、その一時間ほど後になってから、安堵の表情のまま、自分たちの少し前の姿を振り返って笑い合った。
 音は、うるさく思うときとあまり気にならないときがあった。嬉しい気分のときに急に耳障りになって、気分が悪くなることもあったから、決して私の感情に関係していることでもないのだろう。二十代が終わる頃から、何年か経つまでの間に私は仕事を辞め、部屋を引き払って彼女と一緒に住むことにした。平日は大学に通って、空いた時間には再びはじめた派遣会社の登録社員の仕事をこなした。
 専攻していた分野は地質についてだった。教室で一回り年下のひとたちに混じって、地球の環境について学ぶ。授業の後に、自分が聴こえる音について教師に質問しに行くこともあった。たいていは、おかしなことを言っているという扱いを受けたものの、中には興味深いというふうにしっかりと話を聞いてくれる者もいた。
「現時点では、器具がなければ地下深くのことは分からない。でも、そんな場所のことなんて、本当は誰が見たわけでもないんだ。君の体験が正しいか正しくないのかは、これからの研究次第なのかもしれない」
 地質調査を長く専門としている老教授は、遠くを見つめるような目をしてそう言った。ふと私は、彼が話す間にも聴こえている、何か大きなものの動く絶え間ない音の正体を知りたいと心の底から思った。それは、耳障りなものを取り除きたいという、今までの至極生理的な動機とは別の地平にあるものだった。
 地質の調査には半ば肉体労働の面もあったから、大学に在籍する四年の間に私は随分日に焼けて、体格も少し良くなった。そしてそのことを彼女にからかわれることがあった。
「大学教授になる前に、スーパーマンになれるんじゃない」
 彼女は後ろから私の背中を見て、冗談を言う。私はガッツポーズをとってみせた。そんなことが何度かあって、平穏と呼べる生活を過ごしているうちにも、やはり時間はあっと言う間に流れていった。しばらく経ってから思い出せば、子どもの頃と成人するまでの時間的な距離がほんのわずかなものに思えるように、私が彼女と交際をはじめてから、結婚をするまでは一瞬の出来事に思えた。
 大学では良い成績が来ていたから、二年目からは奨学金を返さなくても良いことになった。そのことは、私たちにとって大きな事実だった。と言うのも、製薬会社の事務の仕事を辞めた頃から、私は再び生家からの経済支援を受けていたのだが、甥も姪も少し離れた、中学と高校がエスカレーター式になった私立学校に入学した影響で、それが打ち切られることになったのだ。私本人の金銭状況が芳しくない一方で、彼女もあまり稼ぎの良いほうではなかったから、生活は逼迫していた。
「一緒にいることさえできれば、私はそれでいいと思ってる」
 彼女は口癖のように私に囁いたが、心では何を思っているのかつかめないところがあった。何より、だんだんと丸く膨らみはじめた腹部のことが気掛かりだった。事実が発覚したとき、ふたりで話し合って一旦は自分たちの子どもを生むことに決めた。しかし、現実的に出産とそれに伴う結婚の費用のことを考えれば、私の学費を払っている余裕はふたりにはない。むしろ、学費の分が消えたとしても家計は危うかった。
 派遣社員の他に、深夜にはアルバイトもはじめた。しかし、疲れた顔をして私が家に帰ったときに彼女が見せる、他人を慈しむような、それでいて自らのことを悲しむような複雑な表情を見ることは少し辛く感じた。そういうときはたいてい例の音をうるさく思ってしまう。授業に出て研究をして、派遣社員としてあらゆる事務処理をこなして、ファミリーレストランでは店内を歩き回って。ようやく辿り着いた眠りの中で、私はごおごおという音に心を揺らされながら、地質調査に使う掘削機のドリルのことを考えていた。ボーリング作業で使われるドリルは土を削って、深く深く進んでいくが、硬い岩盤に当たると砕けてしまうことがある。そうなれば、先の作業にはより強いドリルが使われるが、それまでのものはもう使えないので廃棄されてしまう。大学で実際に調査をしたときに見た、そういう光景が頭の中に残っていた。
 私の生活も同じように、どこかで駄目になってしまうまで延々と続くのだろうか。ぼんやりとそんなことを思っていた。頭の中で、ドリルは回っている。地面の中の音はずっと聴こえている。それらは決して交わらず、ただ邪魔なだけだった。やがて、何も考えられなくなる。ふわりと身体ごと浮かぶような不思議な感覚が私を捉えはじめて、慌てて私は目を覚ました。
 辛うじて首を傾けて、遠くの壁掛けの時計を見ると、時刻はもうすぐ明け方の頃で隣には彼女が横たわっていた。私は身体中が汗で覆われていることを不快に思って、起き上がろうと試みたが、足も腕もまったく動きはしなかった。ただ、頭が酷く痛かった。そして、あれだけうるさかった地下からの音が、まったく聴こえなくなっていることに気付いた。

    ○

「何も聴こえない」
 ベッドの上にいた私は、見舞いに来た彼女にそう告白した。六人部屋の病室はどこも淡い色で囲まれていて、現実感がなかった。その中で、彼女の着ている黒いカーディガンが妙に暗い色をしているような気がした。なにもってどういうこと。彼女はたずねた。私は手を動かそうとしたが、点滴につながれていて不自由だったためにしかたなく顎を動かした。自然に視線が降りる。彼女も私の見ている先を辿る。総合病院の二階の病室の白い床。
「地面から、ずっとずっと聴こえていた音が、まったく聴こえなくなった」
 彼女は顔を上げて、そう言う私の方を見つめた。「前に言っていた、地下から聴こえている音のこと?」
 私は頷いた。しかし、彼女が本当にそう言ったのかは分からない。向こうで聞こえる患者同士の話し声も、看護士が食事を運んでくる音も、ぼんやりとしていてとりとめがなかった。それというのも、ずっと聴こえていたはずの音が急になくなってしまった所為で音と音の間を埋めるものがないようなのだった。彼女の声も例外ではなくて、全ての音は妙な静寂の中に漉されてぼんやりと聴こえてきた。
「それは良いことなのかしら、それとも悪いこと?」
 判断しかねるというふうに彼女は言ったが、私はただ首を振ってみせたのみだった。なんだか気分が悪い。過労でどこかの血管が切れてしまったのだ。体調が悪いのは当たり前だったが、胸の中が妙に嫌な気持ちで一杯なのはその所為ばかりとも言えないようだった。大学の授業は事務の方に連絡して、公欠がとれるか聞いておいたからだいじょうぶ、と彼女は言った。私は回らない頭を無理矢理動かして、授業のことを考えた。だが、地面からあれだけうるさく聴こえていた、耳障りな音が突然聴こえなくなった今、地質に対する関心はまったく湧かなかった。
「どうでもいいんだ」
 そう呟くと、私は窓の外に目をやった。耳鼻科のある三階とは高さこそ違うが、診察室を出る度に見ていた景色とカーテンの隙間から見えている景色は同じだった。隣の建物とその上に広がっている空の青い色。そういえば、彼女と図書館ではじめて会った日にもこの景色を見ていた。もっとも、あの日は雨雲が立ちこめていたが。
「こんなに頑張らせてごめんなさい。お腹の中の子が生まれたら、私もまた頑張って働くから」
 彼女は申し訳なさそうな顔をした。私はまた首を振ると、「いや、」と否定した。「大学は辞める。それで、ちゃんとした仕事を探すよ」
「……どうして」
「音が聴こえない以上、もう教授になる理由もないんだ。幻を追い求めるわけにはいかない」
 一言一言、噛み締めるように話した。口に出してしまうと、それは単なる思いつきではなくて、もう随分前から考えていたことのように思えた。同時に、私の選択はこんなにも脆いものだったのだ、と分かって悲しくなる。そんな心中を知ってか、彼女は怒るような表情をした。約束したじゃない、と言う。
「うん、した。音の正体を見つけるって」
 でもなかったんだ、そんなものはと言う声は消え入りそうだった。しかし、そのとき、私の言葉を掻き消すような強い語気で彼女は「ある」と言った。
「本当にそれが地下から聴こえている音なのか、私は知らない。でも、絶対に、あなたが聴いていた音は実在する音なの」
 一息にそう捲し立てると、彼女は居住まいを正した。急に大きな声を発した所為で、周囲にいた患者や付き添いの親族が驚いたように私たちの方を見ているのが見えた。一方で彼女の声は音が聴こえなくなった分の隙間を埋めるようにすんなりと私の中に入ってきた。どういうこと、と私はたずねる。
「私、あなたに隠していたことがある」
 今度は囁くような声だった。「二十六歳の冬、私とあなたははじめて遭遇した」
 私は図書館で知り合う一年前、冬の日にたった一回だけすれ違ったことを思い出した。肯定するように顎を少し動かして、瞬きをしてみせる。
「でもね、本当の出会いはもっとずっと前のことだったの」
「……ずっと前?」
 おうむ返しに私が言う。彼女は頷くと、遠くを見つめるような目をして、語りはじめた。

    ○

 小さな町だったから、小学生の頃は誰かが誰かのことを好きになれば、すぐに学校中に広がった。三組のあの子は上の学年の男の子のことが好きらしいとか、この前、誰かと誰かが公園で一緒にいるところを見たとか、そんな噂を耳にする度に私はなんだか、うんざりした気分になった。
 三年生になってしばらくして、初潮を迎えた。クラスでは一番早かった。自分で誰かに相談したのか、母が他の家庭に喋ってしまったのか、はっきりとしたことは分からない。けれども、気付いたときには周りの女の子が私のことを得体の知れない者として見ている雰囲気があって、誰がどこまで知っているのかたずねても誰も何も答えてくれなかったから、いらいらした。帰り道は一番幅を利かせていた集団にくっついて歩く。一つ上の学年の男子と付き合っていた女の子が、楽しそうに最近知った学校のスキャンダルを話していた。それはたいてい、心の奥底から下らないと思ってしまうものばかりで、そんなことに対していちいち大袈裟に反応する周りの子たちのことが不思議だった。でも、私もわざと同じような反応を繕っていた。
 家に帰ってしまえば、すぐに塾に行く時間になってしまう。テレビに映る子どもの学力低下問題を深刻に受け止めた母は、勉強をはじめるのが早ければ早いほど、子どもの成長の助けになると思っているようだった。だから、小学生になるよりもずっと前から私は駅の近くの学習塾に通っていて、そのことを疑問に思ったことはなかった、はずなのに学校の友達の会話が面白くなくなってきた頃からだんだん不満を覚えるようになった。
 この町は狭いから嫌い。道を歩いていれば、すぐに誰かと会ってしまう。塾の勉強は同じことの繰り返しだから、面倒臭い。まだ、中学校受験までには何年もあるのだから、全力で遊びたい。けれども、遊んでいて楽しい相手もいない。
 道に落ちている空き缶を蹴飛ばしながら、塾までの道を歩いた。我が家の前の小さな道を進んで、突き当たりを右に曲がって、橋を渡って、公園の横を通り過ぎて商店街に入る。その先を真っ直ぐ歩けば、駅の方に出ることができた。それなのに、魔が差したとしか言えないけれど、その日私はいつも通らない道を行こうと思ったのだった。橋を渡った後、商店街には入らずに違う小道の方へ向かってしまったのだ。
 どこにいたって、自分がいる場所のおおよその位置くらいは分かると思っていたのに、気付いたときには知らない住宅街に出ていた。私は自分が途方に暮れるべきか考えてみたものの、どう内省しても、そんなふうには思えなかった。寧ろ、喜びすら感じていた。しばらく歩いてみたものの、知り合いには会わない。スキップをするように私はどんどん迷っていき、そのうちに陽が暮れた。
 遠くで車の走る音が聴こえていたから、きっと大通りがあるのだろうと思っていた。そちらの方に出れば、最後にはきっと帰れる。塾に行かなかったことは怒られれば済むけれど、またここらへんに行けるように地名を覚えていよう。そう考えているうちに、辛うじて舗装されている小さな道の上で男の子が倒れているのを発見してしまった。
 私は恐る恐るその子のことを覗き込んで、あの、と声をかけた。すると、倒れていたはずのその子は途端にこちらの方を向いて、ねめつけた。
「静かに」と男の子は言った。その顔ははじめて見るもので、恐らくは同じ学校ではないのだろうと思った。
 何をしているの、と私はたずねた。男の子は寝そべったまま、耳を地面に当てるようにしていた。
「昼間は熱くて、直接触れないからね。日が沈んできてからじゃないとこうすることができないんだ」
 真剣な声でそう言われて、思わず空を見る。確かに陽はもうほとんど沈んでしまって、その辺りは街灯と周囲の家々が放つ灯りがなければ真っ暗だった。そんな中で、彼のことはよく見えた。肌が白かったからかもしれない。
「そうすると、何ができるの?」
 私が言うと、彼は「音が聴こえる」と返した。
「こっちにおいで」
 そんなことを言いながら、手招きする。私は通塾用鞄を肩から降ろすと、Tシャツが汚れるのも構わずに彼の横に寝そべった。恋愛なんて興味がないと思っていたのに、少しどきどきした。彼は落ち着いた声で何をしているのか教えてくれた。
「アスファルトのずっと下では歯車が回っているんだ」
「……はぐるま?」
「そう。それが上手く噛み合って回り続けているから、地球は回っているんだ」
 私は、地球が太陽の周りを回っているということを塾で習ったのを思い出して、彼に言った。「……でも、はぐるまのことは習わなかった」
 彼はにんまりとした。
「それはそうだよ、僕がはじめて気付いたんだから」
 私は馬鹿らしくなった。けれども一方で、そう信じて疑わない彼のことを少し羨ましく思った。そのくらいには小学三年生の私は大人で、同い年の彼は幼かった。
 ところが、さあ耳を澄まして聴いてごらんと促されてアスファルトに耳を付けると、急に大きな音が聴こえてくるのだった。私は思わず、息を呑んだ。すると、音は少し乱れて、正体が明らかになった。心臓の音がうるさかっただけなのだ。私はそれを伝えようとした。が、隣の彼はまた、静かにと囁くような声で言った。大人しく従っていると、だんだん呼吸も落ち着いてきて、心臓の音が気にならなくなる。遠くの通りの喧噪がはっきりと聴こえてくる。そして、得体の知れない新しい音が姿を現す。
 その音は確かに、何かが噛み合って動くような音だった。
「聴こえた?」
 彼は言った。でも、一度馬鹿らしく思った手前、私は素直に認めることができなかったから、首を振った。彼は少しがっかりしたように、残念だと呟いた。
「また、おいでよ。他の日だったなら、聴こえるかも」
 彼がそう言ったから、私はその道に何度も通うようになった。塾を休みたい気分のときに、そこで彼と地面に耳を付ける。ついでに、傍にあった彼の家で飲み物をもらった。母は急に塾をサボタージュするようになった娘に怒鳴ったけれど、私はべつに怖いと思わなかった。そんなことよりも、彼に会える方が嬉しかった。彼が「今日はどうだった」と言うのに対して、私はいつも首を横に振ってみせた。本当はいつだって聴こえていた。でも、否定すると彼は意地を張ってまた呼んでくれるのだ。
 初恋の終わりは唐突だった。母が、私をもっと勉強させるために都会の方へ引っ越すと決めたのだ。転校することは嫌じゃなかった。クラスメイトが餞別の品としてくれる、シールや文房具はべつに必要としていなかったし、彼女たちから離れることに涙は出なかった。それよりも、例の彼と会えなくなることの方が寂しかった。
 最後に会った日、私はできるだけ平静なふうを装って、「引っ越すことになったの」と伝えた。彼は身動きせずに地面に耳を付けたまま、やはり、「静かに」と呟いた。私は頷くと、自分もワンピース姿のまま寝そべって、アスファルトに耳を当てた。
 地球は、岩石やそれがどろどろと熱によって溶けたものが詰まってできた星らしい。学校の先生に聞いたことだ。でも、実際にはそんなことは世界中のみんなの勘違いで、素直に地面に耳を当ててみれば、本当のことが分かってくるのかもしれないと私は思った。ごおごおと大きなものの動く音がする。これが歯車なのだとしたら、きっとひとつの国と同じくらいの大きさのものが回っているのだろう。
「また、引っ越した先でもこうやって音を聴くといいよ」
 いつの間に彼は私の手を握っていて、近くで約束だよと囁いた。私は深く頷いた。
 けれども、約束は守ることができなかった。電車を乗り継いで、母と新しい町に引っ越した。父は仕事の関係でしばらくの間、前の家に住んでいたものの、私が再び訪れることのないうちに新しい住居にやってきてしまった。学校は前よりも遠くなったし、聞かれたくないことに首をつっこんでくる知り合いもいない。新しい小学校ではできるだけ、男子のことを話題にしない女の子たちと一緒にいた。引っ越した先でも塾には入ったから、放課後に遊ぶことは少なかった。その代わり、ひとりでいると実感する時間は多くなったように思う。
 新しい我が家はマンションの五階で、バルコニーの地面に耳をつけてみても、何も聴こえはしなかった。そこで、誰にも見つからずに彼との約束を守れる場所を探してみたけれど、都会はどこも汚れているような気がして、素直に寝そべることができなかった。そして、結局、一度マンションの裏のゴミ置き場の地面に寝そべっているところを母に見つかってひどく怒られてからは、もう音を聴くのは諦めたのだった。何より、考えてみれば、私はしっかりとあの、ごおごおという音を覚えていて、忘れていなかった。いや、忘れそうになる度にどんな音だっけと思い返すようにしていたのだ。
 また、あの男の子と会いたいと思っていた。何ヶ月か繰り返し、会っていたのに、名前すら聞かなかったことを後悔していた。道の傍にあった彼の家には表札がかかっていたような気もする。でも、そこに何が書いてあったのかはまったく思い出すことができなかった。大きくなったら、絶対に会いに行こう。そう思い込んで過ごした。どうやって、電車を乗り継いでいくのか、調べてノートにまとめたこともある。ふと、あの音のことを思い出す度に彼の手の感触や声が蘇った。
 中学三年生のときに男の子に告白された。野球部のキャプテンだった。中学校と高校はエスカレーター式だから、卒業と同時に別れることもなくて、軽い気持ちのまま三年間も付き合った。背が高くて、育ちの良いことがすぐに分かるような男の子だった。色々な場所に連れて行ってくれたし、プレゼントもくれた。ただ、ふと私が呟いた、「地面に耳を付けると、歯車の音がするんだよ」という言葉を嘲笑った。それで、別れることにした。
 大学受験の少し前、私は久しぶりに昔住んでいた場所を訪れた。前の住居はどこかの家族に貸していたけれど、父の失業を機にそれを完全に売り払うことになったのだ。母が挨拶しに行くのに私は付き添った。
「帰る時間までには戻ってくるから、ちょっとひとりで行きたいところに行っていい?」
 私が言うと、母は納得したような顔をして頷いた。小学校は改築して新しくなったみたいよ、と教えてくれたが、私が行く場所は勿論、小学校ではない。小さな道を進んで、突き当たりを右に曲がって、橋を渡った。そしてその先を商店街には入らずに他の道に入っていった。
 引っ越してから随分経つから、はじめは道に迷ったのかと思った。しばらく歩いて、周りを歩いてみたものの以前とは全く違う景色が広がっていた。私と彼が寝そべっていたあの小道は、既になくなっていて、代わりに新しい家が立っていた。傍にあった彼の家の場所は今は空き地になっていた。
「すいません、十年ぶりくらいにここに来たんですけど、何かあったんですか?」
 私は近くを通りかかった老人にたずねた。そのひとは、きょとんとした顔をしたが、やがて分かったというふうに頷いた。「区画整理があったんだよ。ここらの家は道の場所が変わったから、みんな新しくなったんだ」
 お陰で自分の家も立て替えることになったことを言うと、私がお礼を言うのを聞かないで歩いて行ってしまった。

    ○

 そこから先は大体話してある通りよ、と彼女は言った。私は布団に身体を預けたまま、静かに話を聞いていた。「大学を卒業した後、私は家を出ようと思ったの。それで、どうせ遠くに行くなら、ここに戻ってこようと思った。就職先は意外と簡単に見つかった」
「それが、今の職場?」
 たずねると、彼女は首を振った。「はじめは違うキャンパスで働いてた。何年かそこで勤務すれば、この町のキャンパスに配属が変わることは最初から聞いていたんだけど、私の場合は働きはじめて三年経ってからだった」
 お腹がだいぶ膨らんで、ずっと同じ姿勢でいるのが辛いらしく、椅子に座ったり立ったりを繰り返しながら話し続ける。私が場所を変わろうか、と提案すると、冗談だと受け取ったらしく彼女は少し笑った。
「それで、新しい生活がはじまってからしばらくして、偶然、あなたに会った」
「うるさいな、と言っていた」
「そう。もう大人になっているのに、不思議ね。私、喫茶店を使っていたの。店を出たとき、隣のインターネットカフェの入り口で佇んでいるひとを見つけた。両手で耳を覆っていて、スーツ姿だったけれど、一瞬で誰だか分かったわ。もしかしたら、まだあの音が聴こえているのかもしれないとも思った。でも、確信が持てなかったの」
 その後、彼女はまた同じ場所に男が来ないかどうか、仕事が終わると入り口の近くで張っていることにした。一週間ほどそんなことを続けているうちに、何度か男の姿を見つけることができた。男はいつも何か考え込んでいるようで、話しかけることはできなかった。そしてある日、店から出るといつもとは違う方向に向かうことに気が付いた。男の背中を尾行すると、やがて自分が住むマンションの近くの、市営図書館に入った。それから、地理の本を何冊か借りて、彼は出て行った。
「カウンターで聞いた。さっき出て行ったひとはいつも来るんですかって」
 彼女は言う。私が何故その日図書館に出向いたのか覚えていない。早急に調べたいことがあったのかもしれない。ともかく、彼女はそれ以来休日になると図書館にいることにしたらしい。
 私の頭の中は、音のことで一杯だったのだ。周りに誰がいて、何を考えているのか想像もしていなかった。しかし、はじめて彼女の顔を見たときに覚えたあの違和感の正体をようやく掴めたような気がした。
 小学生の頃、確かに一時期私は誰かと一緒に音を聴いていた。忘れていたが、ようやく思い出した。
「音は、まだ覚えてる?」
 そう聞くと、彼女は顔を遠い目をしたまま、まだ覚えてるとひとりごとを言うように言った。「歯車が、回る音。大きな、絶え間ない音が、目を閉じて耳をふさいでみれば今も聴こえてくる」
 私はもう一度窓の外を見た。だんだん陽が傾いてきて、見渡す限りのものは橙色に染まっていた。太陽が沈んでしまえば、アスファルトの熱もだんだんと抜けて、直接肌をつけることもできるようになるのだろう。そうなれば、また音を聴くことができるだろうか。
「でも、本当に歯車なのかしらね。私、ずっと気になってる」
 彼女の囁くような声を聞きながら私は静かに目を瞑った。聴こえなくなってしまった音を自分も思い出してみる。記憶を振り返る上ではそれは耳障りなんかではなくなっていた。あなたが発見してくれないと、分からない。彼女はそんなことを言った。

    ○

 なだらかな坂道を私と彼女は歩いていた。この場所で私が交際を申し込んでから、何十年か経った。ひとり息子の一家は他の県に住んでいるから、滅多に顔を合わさない。家には私と彼女のふたりきりで住んでいたが、一ヶ月後に退任したら、私たちもそちらに引っ越そうと考えていた。最近、一足早く仕事を辞めた彼女は少し暇を持て余していたらしく、私が大学を出ると、迎えに来てくれるようになった。そのついでにかつて自分が働いていた職場に顔を出しに行くのだ。
「ここらも、変わらないわね」
 坂を上り切ったとき、ふと立ち止まると振り向いて彼女は言った。私も後ろを向くと夕暮れの中に町の景色が広がっていた。自分が卒業してすぐに改築された小学校は、それから随分経って取り壊す計画が立った。商店街も寂れてしまって、店の数は少ない。だが、それでも全体として町の姿は変わらないように思った。
「結局、分からなかったな」
 私が呟くと、彼女は微笑んだ。「色々分かったじゃない」と言う。
 地殻の動きと人間の身体の動きの関係を研究しているうちに、最後には教授にこそなれなかったものの、准教授になった。首都で大きな地震が起きたこともあって、たまに講演をするくらいには有名になった。しかし、音のことはほとんど分からなかった。
 それでもいいか、と思う。そのついでに色々なことができたのは本当のことだ。
「きっとどこかで歯車は回っているんだろう。地球を丸ごと動かすような大きな歯車が」
 彼女は「そういうことにしておきましょう」と言って頷く。それから、また先を歩き出した。だが、私はふと疑問に思ったことがあった。
「それにしても、なんで大人になってからあの音はまた聴こえるようになったんだろうな」
 後ろから声をかけた。すると、彼女はまた立ち止まって、呆れたような顔をしたまま振り返った。
「あなたと私が出会うためですよ」
 私は、彼女が再びこの町に戻ってきた頃の自分のことと、ふたりが巡り会ったことについて思いを馳せた。


第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


線香花火

 自分の住む小さな村では、毎年夏の終わりに祭りが行われている。川沿いにある広場に村の人たちがいくつか屋台を出して、村の人々が集まって交流をするのが目的の祭りだ。
 今までであれば、近所で一番年上の自分が食べ物をねだる騒がしいこども達を連れていたのだが、今年は最大の悩みの種である女の子といる。誰かに見られていないか心配なところだ。この小さな村には自分の友達は誰もいないため心配することではないのだが、今のこの光景を友達が草むらの中からのぞいているのではないかと思ってしまう。
 彼女と家の前で一緒になってから広場へ向かう道を歩いているのだが、付かず離れず微妙な距離を保ったまま進んでいるのが気まずい感じだった。黙って歩いているうちに目的地の近くまで来てしまった。
 少し歩けば川の近くまで出ることができ、右に曲がって林の中に入ってすぐのところに広場がある。広場の中は田舎とは思えないような、都会に一歩も引かない活気があった。
 今までは静かなところで少し気まずい感じがあったのだが、この活気に満ちた場所では話しかけていくことができそうだ。まずは勇気を出して一言発するところから。
「なんか、今年は盛り上がってるね」
 彼女はその言葉を聴いて少し驚いた様子だった。突然話しかけたからだろうか。
「うん」
 彼女はすぐにもとの無表情に近い状態に戻って歩き始めた。向かうのは盛り上がっている中心部ではなく、普通の世間話などをしている人の多い静かな隅のほうだった。
 彼女はほどほどに静かになっているあたりで立ち止まった。どちらかというと盛り上がっているほうに行けば何となく話しかけやすくなると思っていたので、隅のほうに行ってしまうのはあまり良くないのではないかと思う。何となく中心部のほうへ向かうようにするにはどうすれば良いか。
「もうご飯食べたか」
「……ううん。まだ」
 彼女は首を横に振りながら言った。それならば簡単だ。
「そうか、俺もだ。じゃあ何か食べるか。とりあえず屋台のほうに行こう」

 彼女とはこの狭い村で幼いときから友達のように仲良くしている。それは先週まで10年以上続いていたものだった。
 それが先週、親同士の取り決めによって婚約することになり、これから付き合うことになったのだ。いまどき親同士の取り決めで婚約ということはあるのだろうか。今思い出してみれば、たしかに何か含みのあるような話をされたことはあったがそこまでのことに気づくことはできなかった。
 婚約について最初に言われたとき、彼女とその両親も一緒にいた。最初は下手な嘘だと思ったものだが、雰囲気の厳かさで本当なのだと悟った。その日はすぐ彼女側が家に帰ったのだが、あのときから今日までにも何回か顔を合わせている。しかし、どうしても意識がそのことに行ってしまい今までどおりに振舞えない。歩くときの距離感などは、かえって広がってしまっていると思う。
「何にする」
「んー……私はあれにする」
 彼女は近所の熱いオヤジが毎年やっているお好み焼き屋の方へふらふらっと歩いていった。それについていく。
 近くに行くとお好み焼きを焼くいい音が聞こえてくる。特にソースをかけて、少し鉄板のほうに落ちたときの音がたまらない。それに元気のいいオヤジの声。こういうのを見るたびに、ここは本当に良い田舎だと思う。
 札に書いてあるお好み焼きの値段は二百円となっている。かなりしっかりしていて量もあるのに、この値段で平気なのかと思う。原材料だけで二百円分はありそうだ。さらにガス代などを考えると赤字なのではないか。向こうから言わせればそんなこと大きなお世話だ。
「いらっしゃい! ……もう聞いとるで」
「ひとつください」
「あ、もうひとつ追加で」
 彼女に追加で自分も頼むことにする。特別食べたいというものは無いため、どうせなら同じのにしておくのがいいかもしれないと思った。
「あいよ!」
 オヤジは作っておいたのではなく、できたてを二つ準備してくれた。自分は小銭入れからさっと200円を出して、オヤジに渡した。
「ん、『ひとつ』二百円やで」
「えっ」
「おまえ、ついてんだろ」
 そう言ってオヤジは彼女に分からないよう、手提げを弄っているときに股間のあたりを叩いた。
 ……あぁ、そういうことか。
 彼女は持っていた手提げから財布を出して今にも開けようとしていたため、それを片手を使って無言で制した。
「あっ、いや、でも……」
 そんな彼女は無視して、持っていた二百円をしまって、代わりに五百円玉を出してオヤジに手渡した。

 店から少し離れて回りを見渡すと、広場の隅のあたりに丁度よい感じに座れそうな丸太がいくつかあった。とりあえずそこに座って食べることにする。
「…………」
 座ってみれば完璧に向かい合ってしまっていた。目の前にいるのは何とも緊張するもので、ほとんど会話の無いままお好み焼きを食べ終わってしまった。結局変わっていない気がしたが、変わったことにして気持ちを切り替えた。
 彼女はゆっくり食べていたので皿の上にお好み焼きがまだ残っていた。その食べているのを見ていても良かったのだが、2回も目が合ってしまったときにはやめて、それからはただ祭りの様子を眺めていた。
 あるとき、走り回っていた子供のうちの一人が近付いてきた。
「ねぇお兄ちゃん。この辺で花火やっていいかな」
 突然の声に少し驚いてしまう。声をかけてきたのは自分よりも小さい小学生くらいの身長の子供たち。小さい村だから、ほとんどの人を知っている。実際にみんな小学生だ。
「あぁ、いいよ」
 こどもたちはライターと蝋燭を取り出してと花火で遊び始めた。時々盛り上がりすぎて人のいるほうへ行ってしまった時は止めたりしながら、いつの間にかお好み焼きを食べ終わっていた彼女ときれいな花火の様子を眺めていた。
 花火をしている中で半端な数の花火があったのか、花火をしているこどもの一人が手に何種類かの花火を握ってやってきた。
「これあげる」
 子供たちがくれたのは線香花火や不思議な形をした花火だった。
 花火といえば打ち上げ花火、火花が飛び出るようなもの、あとは線香花火のようなものしか分からないため、実際に自分で火をつけて遊ぶような小さい花火はバリエーションが多いのだと感心した。
「うん、ありがとう」
 自分が言おうと思っていたことを言ったのは彼女だった。自分には見せることのない優しい笑顔がそこにはあった。普段はほとんど無表情に近い彼女の新しい一面が見えて嬉しいものだ。
「じゃあ、使わせてもらおうか」
 こどもたちの使っている蝋燭の火を使わせてもらって花火をすることにする。火をつけて何も無いほうに向ければ祭りの夜を一層彩る音と光の舞踏が始まる。
 夏の夜にすることといえばこれか肝試ししかないと思う。後者は本当に怖かったり面倒だったりするので実際にするのは花火しかないだろう。彼女は今までの少し気まずい感じが嘘であったかのように純粋に花火を楽しんでいた。こどもたちの笑い声に混じって彼女の笑い声も聞こえてくる。自分は特別なことは何もしていないが彼女が楽しそうで幸せを感じるひとときだ。そして、楽しいときはすぐ過ぎ去るものであるのは誰でも分かることであり、気がつけばもう花火は後ひとつになっていた。
「線香花火ってシンプルだけどきれいだね」
 美しい花を咲かせすぐに散ってしまう一輪の花。もしかしたらこういう時は盛大な打ち上げ花火よりも、彼女とこのようなものを一緒に楽しむ方がいいと思う。
「でも、すぐに散ってしまうなんて、ちょっと寂しいかな」
 彼女と少し目が合う。先ほどは少し目が合ってしまっただけで気まずくなってしまっていたのに、今は不思議と見つめあう時間ができてしまう。
 今なら何か少し前に進めるかもしれない。そう思うと勝手に動いていた。
「っ……」
 彼女は最初はかなり驚いた様子をしていた。しかし、それも一瞬の間だけであり、すぐに差し出した手を優しく握り返してくれた。
 広場の隅のほうで静かに線香花火をしている男女は、他人から見れば奇妙に思われるかもしれない。
 意識のほとんどは手に持っていかれていたが、照れながらも花火を見て嬉しそうにしている彼女の顔はしっかり見ていた。それをみて自然と笑みがこぼれてしまうのだ。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


私の主人

私はハク。猫のようなもの。
 私はいま古い神社の縁側の下にいる。今日のような良く晴れた夏の昼間は涼しいところですごすに限るのだ。
 縁側の上には雄高という男の子が座っていて、私のところからは雄高の足だけが見える。
「あー……宿題かったるい」
 そんな気だるそうな声が聞こえてきて、見えていた足が引っ込んだ。ほどなくして寝息が聞こえてくる。特別何かやることがあるわけでもないので、私も少しのあいだ眠ることにした。

 私は自分のほうに近づいてくる足音に気がついて眼を覚ました。その足音は神社への階段の方から聞こえてきて、ここに向かって上ってきているようだ。
 足音以外にも不思議なを力を感じた。それで私は誰が来たのか確信した。
 階段を上って見えてきたのは予想通り、私の主人である稲子という女の子だった。
 私は主人のほうに向かって走り出した。階段を上りきったところで座って待ち構える。主人が来たところで私が鳴き声を上げると、主人は屈んで私の頭や背中をなでた。
「あれ、ハク。ここにいたの」
 主人はそう言って微笑むと神社の建物のほうへ向かった。私は後ろについていく。
 主人は雄高の寝ているところまで行くと、背中を何回かやさしく叩いた。私は縁側に乗ってその様子を見ていた。私もたまには主人に労ってほしいものだ。
「雄高、かえるよー」
 主人が呼びかけると雄高はようやく目を覚まし、情けなくあくびをして上半身を起こした。眠気でうつろになっている眼をこすりながら稲子の方を向いた。
「うー……、稲子か」
「早く立って、靴はいて。ごはんだよ」
 主人は雄高の手を引っ張って立ち上がらせようとした。しかし、主人が引っ張るのに対して雄高は起き上がろうとしなかったため、引かれた方向に転がってしまった。
「ほら、ちゃんとして」
 雄高は主人に叩かれて、よっこらせと老いたような情けない声を出して立ち上がる。主人がそろえた靴に足を入れて、そのまま固まった。
 私は気になって雄高のほうへ近付いた。私はすぐ足元で鳴き声を上げたが無視され、私のほうではなく主人のほうを向いた。
「ねえ稲子、家までのせ……」
「やだ」
 そう言って主人は階段に向かって歩き出した。主人の返答が早すぎたのか、一方で雄高は少し呆けていたため、どうしようかと思っていたところ、雄高が何かに縛られていたのから開放されたかのように急に動き出して主人を駆け足で追い始めた。私は少し驚いたが、後ろから走って追いかけていく。
 階段の中ほどで雄高は主人に追いつき、隣に並んで歩き始めた。私はその後ろについて下りていく。特に会話の無いまま一番下まで下りて立ち止まった。
 階段を下りてすぐ左側の一軒家が主人と雄高が住む家だ。稲子が入り口の扉を開けて中へ入っていった。

 日が昇ってまださほど時間が経っていない頃、私は雄高が家から飛び出して階段を上っていくのを見た。私は特にやることも無かったため、ついて行ってみることにした。
 雄高は軽く息を上げながら、駆け上るように階段を登っていく。一番上につくと一回深呼吸してから神社に向かった。
 昨日は縁側の下で寝ていただけで中には入っていなかったが、今日は雄高が正面の入り口を開けて中へ入っていったので一緒に入った。一緒に入ったところで私がいることに気付いて、少し驚いているような表情をした。
「なんだハク、ついてきたのか」
 私は抱き上げられて、頭や背中をなでられた。そして、何も無かったかのようにすぐ下ろされた。
 ところどころ壊れかけている古い神社、しかし、中は掃除されていて古さが趣深さを醸し出している。祭壇だけは比較的新しいもので作られているようで、きれいな木材や磨かれた宝具などが置かれている。
 雄高はそれらの物に意識を向けることはなく、隅のほうに積んであるいくつかの冊子を拾い上げた。
 雄高は安堵したように大きく息を吐いて、周りを見渡した。何か気になるものを見つけたのか、祭壇のほうに歩いていく。雄高は祭壇のところに落ちていた虫の死骸を拾って、近くにあった戸をあけて外に投げ捨てた。そして、虫を取るとき祭壇の上に置いておいた冊子を取り上げたとき、雄高は何か事が起こっていることに気がついたようだ。祭壇のものを動かしたり、引き出しなどを開けてみたり、狭いところを覗いたりしていた。その慌てようは、この世の終わりかと思ってしまうほどで、その並々ならぬ様子に危機感が募ってくる。
 その様子を見て私も気がついた。祭壇の一番中央にいつも安置されている御神体がなくなっていることに。雄高は神社を飛び出して、階段を駆け下りていった。私もそれを追った。

 私は雄高に続いて家の中に入って、そのまま雄高の部屋に向かう。部屋に入って私は机の上に陣取った。まさに普通の男の子の部屋といった空間の中にひとつだけ浮いている大きな籠があった。その籠の中にはふかふかの毛布が敷かれ、五十センチほどの狐、わたしの主人が眠っていた。
「稲子おきて、稲子」
 雄高は主人を抱え上げて揺らすようにして目覚めさせた。ようさく目が覚めた主人は雄高の手から抜け落ちるようにして地面に降り、後ろ足のみで立ち上がった。その姿から体が光り始め瞬く間に形が変わり、主人は気がついたときには既にシンプルなワンピースを着た女の子になっていた。
 私の主人は稲に関わる狐の妖怪だ。私はその使いのようなもの。といっても、私も主人もこの土地に来る前のことは何も覚えていないため、その他の事については分からない。妖怪としての能力も変化する以外のものはほとんど見たことが無い。
「稲子、耳と尻尾が消えてないよ」
「え、本当か。失敗なんて初めてかも、無理に起こすから。しくしく……」
 雄高の言ったとおり主人の頭の上のほうには先の少しとがった三角形にちかい形をした耳がついている。先の方には黒っぽい毛が生えていて、だんだん薄くなっていき、付け根あたりでは茶色い髪の毛と同じ色になっている。膝くらいまでのスカートの後ろ部分が不自然に盛り上がって、髪と同じ茶色でふさふさの毛並みの尻尾がその中から伸びている。
 主人は壁にかけてあったキャペリン帽子を取って頭にかぶった。これで耳は隠せているが、まだ尻尾が残っているのはどうするつもりだろうか。
 主人は物入れの中から数少ない主人の服が入っている箱を取り出してきて、長くてふわふわとしているスカートを上からはいて尻尾を隠した。これで腰の辺りの不自然な盛り上がりもごまかせている。
「というより、別に人間の格好じゃなくてもいいよね」
「昔はわかんないけど、最近はこの格好ばかりだからこの方がいい。寝るときはあの方がいいけど」
「ふーん……。てか、そうじゃない。祭壇の御神体が無くなったんだよ」
「へぇ、そうなの」
 私の主人は軽くうなずくだけであまり話は聞いておらず、耳や尻尾がちゃんと隠せているかどうが触ったり体を捻って見てみたりしている。
 例の無くなった御神体となっている宝玉は主人の拠所になっているから、それが無くなってしまうのは一大事だと私は思う。何しろ遠くなってしまうと妖怪としての力が使えなくなってしまう。
 それにしても、なぜ主人があまりそのことを気にしていないのかが気になる。普段は雄高に触らないで祭壇の上に置いておいてくれとまで言っているのに、無くなったとなれば何かしらの動きがあってもいいかと思うのだ。
 しかし、私だけでは何もできないので、成り行きを見守っていき、力になれるときだけ主人を助ければいいのだ。
「……って、本当か。まずいね、それは」
「そうだよ。とりあえず神社に」
 そのやりとりをきくと、実は主人が何を言われたかしっかり分かっていなかっただけらしい。何か思うところがあったのか、神社に行く流れで促すようにして雄高を部屋の外に追い出してしまった。
「ちょっとまってて」
 主人は扉を閉めてしまい、私もその中に残される。
「なぜか分からないけど、不思議と使い方だけは覚えているものなのよね」
 主人は着ていた服を脱いで私を胸の高さまで抱え上げた。人間としてはまさにこどもの体形だが無駄がなく美しい。これは変化で作られたものだから、無駄なく作るのは当然とも言えてしまう。
 変化ならばどのようにもできるはずなのだが、主人いわく中高生ほどの身長でこどもの体形が一番動きやすいとの事らしい。
「ちょっと我慢してね」
 そう聞こえたとき、急に体中が熱く、息苦しくなった。それが主人に強く抱きしめられていると気付くのに時間はかからなかった。
 抱えられていると、少しずつ息苦しさがなくなり体が浮かんでいくような感じになる。そのまま一瞬意識が途切れた。
 気がついたとき、私は主人の手の中にいた。

 私は主人と共に部屋の外に出た。雄高は廊下にはおらず、トイレの明かりも消えていたため、リビングの方へ行ってみると椅子に座って麦茶を飲んでいた。
 それは結構な事だと多少あわてていたのにのんきなものだと思ったが、水分補給であるし仕方ないものだということにする。
「大丈夫か、行くよ」
「ちょっとまって、今いく」
 主人が言うと雄高は出していたお茶をテーブルの上においてあった水筒に入れた。そして、玄関にかけてある家の鍵を取って外に走り出た。
 私は主人に連れられ外に出た。そこまで暑くなくても、せみの鳴き声がかなり大きくなっていて鬱陶しい。まずは右に曲がってすぐ階段を上り、神社のほうへ向かった。
 神社の中に入り祭壇を見てみると、確かに御神体の宝玉がなくなっていた。その他のものは何も変わっておらず、きれいに整理されている。
「いつからないの」
「朝に宿題を取りに来たときにはなかった」
 主人はその言葉を聞いて、私を祭壇のほうへ向けて輪を描くように回した。私の動いた軌跡に光の粒が残り、宝玉が置いてあった祭壇から一番近い戸口の辺りに疎らに広がっていった。
「たぶん、他所から来た妖怪の仕業か。あの玉には結構な量の私の力が宿っているからね。でも気配は大したことないから何とかなりそう」
 そう言って戸口のほうをにらんだ。すでに光の粒があった跡は光を失ってなくなっている。
「ねえねえ、稲子いがいにも妖怪ってそんなにいるもんなの」
 隣にいた雄高が聞いた。雄高は主人以外の妖怪を知らないのかもしれないと思った。考えてみれば、この土地には主人以外の妖怪の気配はないし、何回か出会ったことはあるが大体は大人しくて無害な妖怪で、雄高がいるときは見たことがない。
 主人は雄高の言葉を聞いて少し意外そうな顔をした。おそらく私と同じことを思っているのだろう。
「結構いるよ。大体は人間から離れて生活しているから、普通の人は一生知らないことが多いけど」
「ふーん。それって悪い妖怪なの」
「んー。人間と同じで完全に悪い、善いっていうのはないかな。そのとき次第だったりするよ。大体の妖怪は悪いこともいいこともする」
「へぇ、稲子以外の妖怪は初めてだなぁ。ちょっと楽しみかも」
「油断はするなよ。それより、この辺りの山の道って分かるかな。残念ながら、わたしは飛べないんだよね。相手の妖怪もたぶん飛べないようなのだと思うから歩いていって問題ないと思う」
「分かるよ、お任せ」
 私たちは外に出てまず神社の裏の道を進んでいった。木のまばらな明るい散歩道から、木が増えて胸の高さ辺りまで藪の生い茂る暗い森になるのに大した距離は無かった。主人は宝玉の方向が感覚である程度は分かるため、それと雄高の道案内で森の中を進んでいく。雄高は森の中の道がどこで分岐して、どの道がどのように曲がって伸びていくかほとんど分かっているらしい。折れ曲がって違うほうに進んでしまったと思っても、いずれ望んでいたほうへ進んでいく。
 山がだんだんと近づきつつあった頃、足が止まった。目の前には明るく開けた場所が広がっていた。広く平らな場所だが木が生えておらず、胸の高さほどあった藪も無くなり、十センチほどの短い草と多種多様な花が咲き乱れる美しい花畑があった。
「秘密の場所なんだ。来るとは思わなかったけど」
「そうなの、きれいなところね。この辺で何か、洞窟とか動物がいそうな場所、知らないかな」
「えっとね……。たしか向こうの端のほうに良く分からないけど穴があった」
 指差された先には確かに不自然なこぶができていた。雄高が先導してそれに向かっていく。
 私は主人が髪の毛の一部を逆立てて殺気立っているのを感じ取っていた。私には分からないが例の妖怪がそこに隠れているのかもしれない。十メートル程のところまで近づいたところで雄高が言っていた穴が見えてきて、主人は雄高を止めた。そこにいるように言って、主人だけが近づいていった。
「このしびれる感覚。覚えている限り初めてのはずだけど、懐かしい感じがするわ」

 私は責を外され、主人の手から前方に投げられた。要を軸に骨を広げ、主人の書いた多数の術式が書いてあるほうの扇面を前に向けた。びっしり書かれている数々のうちのひとつの式が動き出し、私の周りを回転する小さな白い光の玉が何百と出現した。この術式は私でも主人の力の一部を利用できるようにかかれたものらしい。主人いわく、特に意識はしていなかったが気がついたときにはたくさんの術式が書けていたそうで、感覚的にどうすればいいかわかるようだ。
 主人が一歩近付いたとき、一瞬だけ穴の中に光が見えた。私は光の玉を反射的に操り、多くの光の玉を主人と雄高を守るように展開させた。主人は姿勢を低くして両手を地面に叩きつけるようについた。反射的に動きをとった直後に穴の中から土の様な核を持つ火の玉のようなものが飛び散るように無数に現れた。その多くは何も無いところに落ちたり、木に当たるなどして小さな爆発を起こし、枝を落とし土を舞い上げた。私や主人、雄高の近くに来たものは私の術式の火の玉が進路をふさぐように移動し、触れた瞬間に火の玉が現れたときと同じ術式が現れて、吸収するように消える。それはあまりにも多く、爆発や数々の術式によって一瞬だけ視界が奪われる。
 視界が戻ったとき、穴のあったところは主人の出現させた凶悪なとげを無数に持つ植物で埋め尽くされていた。主人の出した植物を回避するために外に飛び出てその姿を曝した妖怪は猪のような姿をしていた。
「ハク、雄高をそとに」
 主人のその言葉を聞いたとき、私はすでに主人につかまれ、雄高のいるほうに投げられていた。私はとっさに主人にもらった術のひとつを発動させて、数メートルある巨大な純白の羽を出現させて雄高を乗せた。そのまま滑るようにして私たちが入ってきた広場の入り口辺りまで移動する。何が起きているのか理解が追いついていない様子の雄高をそこに置いて私は主人のほうへ戻った。
 投げられてから数秒しか立っていないため不思議ではないが、私が戻ったとき主人と妖怪はまだにらみ合っていた。妖怪が後ろに飛んで下がったとき、主人も同時に動き出して再び地面に手をついて植物を妖怪の飛んでいった先に出現させた。妖怪はそれに気がついて、頭のほうを下げるようにして植物のほうを向いて大きな火の玉を吐いた。火の玉は現れた植物をすべて焼き尽くして地面を灰色に染めた。
「植物系は効かないね。ハク、後ろの守りは任せるわ」
 主人は戻ってきた私をつかんで一回閉じてから強く握りしめた。主人の力によって私を柄とする一メートル程度の光の刀が出現した。私は光の玉を再び出現させて、邪魔でないように後ろに展開させた。すでに迫り来ていた妖怪の大量の火の玉を妖怪に向けて突っ切り掻い潜るように避けていく。回避しきれない火の玉は刀を振り回すことはなく、引き付けてから中心に刀をまっすぐ当てるようにして綺麗に切って消滅させていく。
 一瞬のうちに近付き、高く構えたままからまっすぐに突き出す。切るよりも速い一撃を妖怪はギリギリのところで跳んでかわし、至近距離から大玉の火の玉を吐き出した。主人はそれを刀を体のほうへ少し引くだけで刃を火の玉の中央にぴったり当てて真二つに切る。それと同時に後ろに跳ねて距離をとった。
 炎を使う妖怪に対しては、植物は燃やされて終わりのように私には思えたが、主人は植物での攻撃をもう一度行った。一回目の攻撃は妖怪の後ろから細い植物ですばやく攻撃する。当然のように全て焼き尽くされたが、一瞬妖怪の意識は後ろに向けられていた。主人はその隙をついて二回目の攻撃を始めて、瞬間に全速力で突撃した。2回目の攻撃は主人のいるほうを除いた全方向から囲い込むような攻撃。妖怪は二回目の攻撃を処理しようとしたとき主人の存在に感づいて、主人の捨て身の攻撃を処理して植物に捕まるか植物を焼き尽くして主人にやられるかを一瞬迷ったように見えた。それが勝負のついた瞬間。主人の渾身の一撃をかわし、植物の攻撃をうまく避けて捕まりもしなかったが、その凶悪なとげを
受けて傷を負った。
「わたしの勝ちね」
 植物から一歩離れて、傷を受けた妖怪をみていた主人はニヤリと笑って私から出ていた刀の刃を消した。妖怪は傷を受けた瞬間から動きが鈍くなり、あっという間に動かなくなった。
「あの植物には私の力を込めた特別な毒が塗ってあるのよ。よくも大切な植物をさんざん燃やしてくれたわね。毒で死にたくなけれ言うことを聞きなさい。まだ喋れるわ」
「はい……」
「わたしの片割れを返して。それだけね」
 観念した妖怪は宝玉を口の中から吐き出した。主人は光を反射して七色に輝く玉を拾い上げて、私に擦り付けるようにして埋め込んだ。私の中にとてつもなく大きな力の塊が入り込んできた。それはまさに無限にあるようで、使っても使ってもなくなる気がしないほどの量だった。
 私は広場の端のほうに放置していた雄高を迎えにいった。
「何かよくわからなかったけど凄いね」
 私は興奮気味の雄高を羽にのせて連れていこうとしたところ、先程は地を這うような動きしかできなかった羽は宝玉の力が加わったのか空高く舞い上がってしまった。ついに制御が利かなくなってしまった羽はゆらゆらと揺れながら落ちていった。
「ハク、頼むよー」
 私は言葉を発することはできないため、扇を上下に振ってお辞儀をするようにして雄高に謝った。端から見るとただ風を送っているだけに見えてしまうのが少し嫌ではあった。
「……これで毒は消えるわ。さて、あなたどこから来たの。この辺りに妖怪はわたししかいないはずなんだけど」
「自分は元々武蔵の国と呼ばれていたところから来ました。かつて人里近くの小さな山の様々な生き物を統べていましたが、人間の手によって動物はいなくなり、妖力の源である森も失って彷徨っていました。そのとき、この地にものすごい妖力の塊を見つけたので来ました。明らかに自然に存在しているものでないのは分かりましたが、そのときは生きるのに精一杯で、その妖力を制御して見張る者もなにもなかったので使わせてもらいました。いきなり攻撃したのは、いままで様々な妖怪に様々な土地から追い払われてきたので、つい反射的に……。すいません」
「他の妖怪の気配がなかったから、そのまま放置していたのが良くなかったね。……さて、わたしの力を使った使用料は高いよ」
 主人はニヤリと笑った。そのまま逃がしてあげる気は全くないらしい。
「……あの、非常に勝手な、お願いなのですが。しばらくここに居させてくれませんか」
「えっ……そう来ますの」
「行く当てがなくて……どうかお願いします」
「……雄高、どうする」

 我が家には妖怪が二人居る。狐の妖怪、稲子と猪の妖怪、亥久だ。稲子の本当の名前は稲狐というらしく、女の子と自分で言っていて、両親がこどもの時から居るそうだ。亥久が言うには妖怪に性別はないようなもので、稲子が勝手に人間に当てはめているだけらしい。亥久は数日前に我が家にやってきた。弱ってこの地に逃げてきたところで稲子の力を勝手に使い、稲子に怒られたのだ。
 妖怪ではないらしいが稲子の使いのハクも忘れてはいけない。稲子の力を借りて様々なことができるらしい。普段は猫の姿をしていてよく一緒に遊んでいる。
 今日は先日荒らしてしまった広場をきれいにする為に出かける。妖怪の力を使うらしいので自分が行く必要はないかもしれないが、愛着のある自分の庭なので手伝いたい。
「稲子、いつまで寝てるの。そろそろ行くよ」
「……はぁ、俺は暢気に寝てるこいつに負けたのか。私も年老いたな」
 いつの間にか横に亥久が来ていて驚いた。亥久はまさに近所の厳ついオヤジといった格好をしている。人間の格好をするのならば、それが山の生き物たちを統べるために威厳もあって一番良いらしい。
 稲子を抱えあげて揺するとようやく目を覚ました。すぐに人間の姿に変化したのだが、そこからまた呆然と立っていた。
「……男は出てって。女の子は大変なのよ」
 今日の稲子は寝起きが良くないのか、不機嫌そうな顔をしていた。亥久と一緒に部屋を追い出されて廊下で待たされていた。
「あそこ、僕の部屋なんだけど……」
「……困ったお嬢さんだ」
 稲子が出てくるまでの時間、亥久とリビングで麦茶を飲んでいた。
 例の場所まではハクの出した羽に乗って一気に移動した。今までは力が足りなかったようで高くは飛べなかったのだが、宝玉をハクに埋め込んで管理している関係でハクの力が一気に増大して飛べるようになったらしい。蝉の喧騒から逃れて、鳥と並び優雅に空を舞った。
 広場にはひっくり返された土の塊や灰、凶悪なとげを数多く持つ稲子の出した植物が残っていた。まずは亥久の炎でとげの生えた植物をすべて焼き払った。土の塊などは亥久が踏み潰して平らにしていき、灰と化したものは稲子が力を使って一箇所に集めた。
 荒れた土地は瞬く間にきれいに整地された。しかし、まだ失われた植物は元に戻っていなかった。家に貯めてあるものを持ってきた、この近辺によく生えている植物の種を出して、ある程度は場所ごとに種類をまとめて埋めていった。中にはここにしか生えていなかった花もあったので、それを戻すことはできないのが非常に残念だった。
「稲子、終わったよ」
「はいはーい」
 稲子は扇子の姿になっているハクを手にとって太陽のほうに向けた。何回か扇子の先端を回すように動かすと、扇子のその先に太陽並みの強い光を放つ白い玉のような何かが現れた。
「豊穣神とはいかないけど、稲狐をなめるなよ」
 稲子は扇子を先ほど種を植えた辺りに向けて振り下ろした。あまりの眩しさに、ほとんど見ることはできなかったが、玉の光は地面に強烈に当てられ、光の持つ力によって種は急速に成長して花を咲かせた。
 光が消えたとき、そこには元通りにかなり近いような多種多様な草花が生きる花畑が広がっていた。
「すげー。本当にこんなことできるんだ」
 あまりの光景に目を疑い、つい声が出てしまった。それほどに成長の具合が著しく、普通ではありえないほど美しかった。
「素晴らしいね。ただの居眠り狐だと思ってたけど見直したよ」
「うるさい。寝たいんだからいいの」
 そして稲子は僕の手をつかんで、家のあるほうに向かって走り出した。
「さぁ、家に帰るよ。そこの猪は置いていくわ」
 羽に乗って帰るほうが楽なはずなのに、森の中を稲子に手を引かれて駆け抜けていった。

あとがき
こんな感じの書くのは初めてなのでなかなかうまく行きませんでした。勘弁してください。



第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


空音

 美歩が出て行ってから一年が経つ。その間に私の彼氏だけが帰ってきてお願い、あの女に騙されたんだよ、頼むよって私の足元で鼻水を垂らして泣いたけれど、私は容赦なく彼を蹴り出した。元々美歩のお下がりのくせに、美歩の悪口を言い続けるその口は歪んで青ざめ、みにくい。かつて美歩がその唇に唾液にまみれたキスをしたことを想像し、私は黙って煙草に火を点けた。
 このマルボロライトメンソールも美歩が置いていったものだ。
 ジッポは自分で買った。昼休み、駅前の昔ながらの煙草屋で刻印を頼むと、青黒い顔の店主はお姉さん似合わないね、と遠慮なく言って笑った。彼の顔の右半分に現れる、神経質な痙攣を私は仕事用の地味な銀縁越しに見つめていた。事務の制服は灰色とピンクの悪趣味なチェックで、私の太り気味の身体をことさら強調し、きっと彼はピンクの襟についた朱印の染みを笑ったのだろう。午後の業務が終わるまでに、店主は美しい筆記体で刻印を終わらせていてくれた。
 申し訳程度のベランダで、眼前に迫るブロック塀の皹を見つめながら煙をくゆらせていると、今夜も美歩からの電話が入る。
「もしもし」
「うわ、ちえ、また家にいんの、あんたどんだけ暇なの」
「あんたも電話してきて暇じゃない」
「暇じゃねえし、ねえ聞いて、美歩深夜のCMに出てるの」
 美歩の声はいつも騒音の向こうに聞こえる。美歩が爆音と怒声の中にいるというより、私たちの距離の間に横たわる、数え切れない街の喧噪が電話線を震わせているように感じる。
「美歩、今どこにいるの」
「バイト中。スナックスナック。てかね、こないだスカウトされた事務所すぐ契約もらえて、社長が美歩気に入ったからすぐCM出させてくれて、すごくない? すごくない?」
「すごいね」
「反応薄すぎなんだけど」
「どのチャンネルで見られるの? 私も見たい」
「あーなんか、ローカル局だからよくわかんない」
「○○とか、××ネットだったらうちも入るけど」
「わかんないんだってば。でね、今度は恵比寿の社員寮に入れてくれるらしいの」
「すごいね」
「だからクールすぎでしょ、あんたに言ってもしょうがなかったわ」
「すごいね、美歩」
「あーまじ萎えたわ、バイバイ」
 通信は唐突に絶ち切られる。耳を麻痺させていた喧噪を奪われ、しんとした夏の終わりの真夜中に、虫の声だけがふいに音を広げて湿度の高い部屋を浸す。私は窓を引いて、美歩の部屋に入る。
 煙草。彼氏。ブラジャー。CD。携帯のストラップ。エナメルリムーバー。コンビニブランドのリップグロス。コンドーム。ジャージ。髪留め。コンタクトの空箱。督促状。嘘。
 美歩が私の家に置いていった、忘れていった、捨てていったもの。
 それらを集めて、私は一つの部屋をつくっている。
 六畳二間のアパートは黴臭く、西日に照らし出される畳の下で、真菌はきっと息を潜めて育っている。その上にヒョウ柄のカーペットを被せ、息づく気配を感じながら、そのうちの一つの部屋に、私は美歩の小さな王国を建てている。
 エアコンのない、締め切った部屋の大気は、夜の生気をもってあおあおと呼吸している。ニッセンで買った、美歩が高校生の時に使っていたドレッサーがあり、ラックとテーブルとミニソファはけばけばしいピンクで統一されている。美歩が置いていった品々は、それぞれあるべきところにしまわれ、美歩自身には一度もそうして収納してもらったことがない。だいたい美歩が置いていったものはファミチキの油まみれの袋だったり、何年も前のリップグロスだったり、きっともう腐っているそれらでも、私はそのままゴミ箱と化粧ポーチの中に収納している。
 私はヒョウ柄のカーペットの上に大の字になり、もうほとんど灰になった煙草をカーペットに押しつける。小さな音をたてて化学繊維は焦げて黒く固まった。忌々しい顔の染みのように、ぽつぽつと点在する焦げ目を数えていた。
 美歩がテレビに出るならば、と考える。女優にでもなるというのならば、それにふさわしい服を導入しなければならないと私は考える。今までのような縫製の悪いギャルブランドではいけない、もう少し質の良いものを。今月のカード額と給料日を算段して、メンソールで呆けた口の内側の粘膜を噛んだ。美歩が残していったものの他、美歩が語る様のままの生活を想像して、私はあらゆる品を少しずつ買い集めてはこの部屋に運び込んでいた。美顔ローラー。スムージーをつくるためのミキサー。観葉植物。秋っぽい彼女の煙草はそろそろピアニシモあたりに変わっているだろう。駆け出しの新人女優。恵比寿の部屋をここに再現するなど愚かしさの極みでもある。
 美歩は昔からそういう嘘をいくらでもつくりだした。
 吸って吐いて食べて寝るように、美歩は嘘を吐き、騙り、欺し、そうして裏切った。幼稚園に上がる前から、同じ色のランドセルを背負っていた時から。絵の上手ないじめられっ子が描いた絵を盗んで自分が描いたと言い張った。先生に叱られたら盗んだのは私だとけろりとして言った。ディズニーランドにみんなで行くと約束して私だけ忘れられた。万引きの手伝いをさせられた。中学一人気者の先輩と付きあっていると浮かれて吹聴し、遊ばれただけだと指摘すると泣きながら何度もぶたれた。根性焼きを何回もしたけれど、日サロで焼いたからわからなくなったのだと言った。高校を辞めたのは友達をレイプした体育教師を殴ったからということだが、そんな教師はどこにもいなかった。
 昨年末思いついたように、女優になると言い出して、私に男を押しつけて消えた後、魔法のようにもう一度彼を攫ってどこかに消えた。今回の虚言には、美歩はなかなか飽きずにいるようだ。
 そうしてそれでも、美歩は二三日に一度は必ず、私に電話をかけてくる。頷いて聞いても不満足そうなまま、美歩は一度も「またね」と言うことはない。それでも電話は必ずかかってくる。
 美歩との電話の後、必ず私は美歩の部屋でこうして横になり、組み立てられていく彼女の世界を見ている。私がつくる彼女の世界。そこには彼女の甘い、美しい恋愛の記憶があり、多くの男と友人達からのプレゼントがあり、そこでは彼女は真実の主である。
 甲高い、耳障りな、美歩の声音が左右の耳の間で繰り返し反響する。黴と夜と、使われない家具のニスの臭いに、意識は幾重にも塗りつぶされて、美歩のむらのある茶髪のような色に沈んでいく。

 デスクに座って書類を整理していると、受付をこんこんと叩く音がする。顔を上げる前にはいと声を上げて、立ち上がった所で私は立ち止まる。金髪の男は芝居がかった仕草で手を振ったあと、脇に抱えた封筒をひらひらと示して見せた。
「千恵実ちゃん、眼鏡だったっけ」
「仕事の時は前からそうです」
「似合うよ、仕事できる感じがして」
 眼鏡の下から見上げると、男はちっとも笑ってはいなかった。
「ただの事務員ですから」
「千恵実ちゃんがいてくれてよかったよ、俺みたいな職の奴が来ると嫌がるおっさん多いからさ」
 私は黙って求められた書類を作成している。
 龍彦は一度視線を落とし、それから笑顔を見せる。
「美歩はどうしてるか知ってる?」
 それから夕方には、私は龍彦と向かい合い、駅ビルのパスタ屋でサラダを食べている。龍彦は食事を頼まず、ミルクで濁ったコーヒーを挟んで私の食べる様子を無遠慮に眺めている。五十年代のジャズが今風の軽さにアレンジされて、もう何回も同じ曲が流れているように感じる。
「千恵実ちゃんさ、美歩に金貸したりしてないの」
「三万円くらい」
「あいつに貸しちゃだめだよ、ただの泥棒なんだから。また来たら、俺んとこ来いって言ってよ。ちゃんと拇印捺させるからさ」
 龍彦はまた無理に作ったように笑う。この男の笑い方が苦手だった。情けなく縒れて、寂しいだけなのに平気で彼は、搾り出すようにそれをさらけ出すのだった。子供の頃からそうだった。引っ掻き合う美歩と弟を宥めている時も同じ顔をしていて、二人は当然少しも静まらなかった。
「あなたの所で借りたら、ひどい目に遭わされるんじゃないんですか」
 視線は最後に残ったレタスに向けたままだったが、龍彦が細い眉を上げたのがわかった。椅子に座り直し、脚を組んで彼は口元を手で覆った。珍しく声を上げて笑っているようだったが、低い笑い声は私まで届いてこなかった。隣のテーブルの大学生らしきカップルが驚いて視線を寄越し、私と龍彦をまじまじと見比べては何かを囁き合う。安いスーツを着た地味な女とあからさまに崩れた風体の男は、それ以外の何に見えるというのだろう。
 龍彦は私に向き直り、年甲斐もなく伸ばされた金髪の前髪を掻き上げた。
「千恵実ちゃんてさ」龍彦は指先で机を叩いた。爪と指輪が同時にぶつかって二重のノックになる。「千恵実ちゃんてほんとはっきり言うよね。そんなまさか、いくら俺でも実の兄だからさ。その前にちゃんと真面目に払わせるって。ていうか千恵実ちゃん、あいつが絶対返さないって思ってるの、ひどいんじゃない」
「泥棒って言ったのはあなたですよ」
 真顔に戻った彼に私は密かに、少しだけ安堵している。
 私の眼の前に湯気を立てるトマトパスタが置かれ、立ちのぼるオリーブオイルの香りに私は頭がくらくらしそうになる。私はパスタを啜り、騒がしい店内で私たちの座る角だけが沈黙している。止まっている。私は咀嚼し続ける。
 龍彦が首を傾げ、私を覗きこむ。
「千恵実ちゃん、俺と付きあってよ」
 私は、顔を上げず、龍彦も答えを求めてなどいない。

 指先で畳の溝をなぞっている。箪笥と机しかない自分の部屋の真ん中に横たわり、灰皿を側に寄せるのも面倒くさく、このままこの藺草が燃えて静かな炎が、うす暗い部屋の真ん中に立ち上がって私の肌を舐めればいいと思う。水疱が泡立ち、赤く腫れ上がり、音もなく燃えればいいと思う。
 私の肌はぬるく、不健康に生白い。肉は余り、脂肪をため込んで垂れ下がっている。私は美歩の肌を思い描く。自ら紫外線を浴び続け、冬も戻らず浅黒い肌は、しかし私よりずっと張りがあって、汗の混ざった甘い匂いがしていた。美歩が本当に芸能事務所にスカウトされたならば。想像する。夜ごと、美歩の肌がその社長の贅肉と脂の上で滑る様を。それともスナックの元締めの、青龍を背に背負った小指のない男の下で蠢く様を。
 あるいは私が。
 遠くで悲鳴とクラクションが細く響いた。
 私が作った美歩の部屋。美歩の嘘が堆積された虚構の王国。美歩の憧れる実現し得ないもう一つの暮らし。
 想像する、その部屋で、数え切れない焦げ目のついたカーペットの上で、私は龍彦と交わる。いずれ私の腹は腫瘍を抱えるように膨れ、幾月かして産まれ落ちるけものを私は美歩と名付けるだろう。龍彦はその子供に、あの湿った笑顔を向けるのだろうか。
 奇形の妄想は宵に沈む。
 美歩の嘘は私の夢なのだろうか。
 何度も傷つけられたはずなのに、私は美歩の側にいた。美歩の電話を取り続けている。私はふいに息を止める。この四日、美歩からの電話がない。
 なぜ美歩は私に電話をかけ続けるのだろうかと考える。昔の男でもなく共に遊び回った中学の同級生でもなく、この私に。彼女が虐げてきた存在に。金と一晩の宿を借りるだけなら解る。泊まっていっても私の隠している美歩の部屋、もう一間の方には目もくれず、「全部押し入れなんてずいぶん贅沢してんじゃん」と口を歪めるだけの美歩。私は彼女に絶対に、あの部屋を見せはしない。
 音も防げない薄壁の向こうにしまいこんだ美歩の王国は、私の産んだ幻想なのだろうか。あれこそが、私の産み落とした美歩なのだろうか。どこにもいない夢を私は育て、そうして置いていくのだろうか。
 天井が回転する。鳴らない携帯電話を握った手の方が震えている。私は夜の底にあり、この味気ない町の片隅で、燦然と輝く美歩の部屋を思う。それは嘘に塗れ、異臭を放ち、金色に輝く華の夜だ。色のない私の世界に一点光る、闇の力だ。私は美歩に部屋を隠し、美歩は私を利用し、互いが互いを裏切って積み重なる、裏表の金の偶像だ。
 その時インターホンが鳴り、ドアノブを騒音を立てて回すものがある。私は虚を突かれ、立ち上がって玄関へと向かう。
 開けるドアの隙間から網膜を射るビームライトが差し込み、背の高い影の向こうに、タクシーの行灯の鈍い光が辛うじて認められる。
 美歩からは、強烈な柑橘系の香水の香りがした。彼女は大きな口を開き、私の腹を突くかのように手を差し出した。
「ちょっと困ってるんだけど。とりあえずタクシー代払ってくれない?」
 私の目はライトの光にやられているが、香水に隠れたメンソールと美歩の体臭は香った。蒸し暑い夜の大気に紛れ、彼女の身体の熱が感じられた。私は目を擦った。
 美歩は強く美しい。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(1) |


明滅

 原作
岩尾葵 「見えない」



 私はドアを僅かに開け、部屋の中を覗く。部屋にはベッドが一つ、その中で彼女……そうですね、とりあえず今は彼女をAと呼ぶことにします……Aは眠っていた。私は静かに、一切の音を立てないように注意深く部屋に入る。
「……☓☓?」
 寝てるはずだったAはいきなり私の名を呼んだ、結果として私は部屋に体の半身だけ入ったなんとも不恰好な格好で固まることになる。Aは顔をそっと傾けそんな私の方を見た。
 見た、そういう表現は彼女には不適切なはずだが、Aのその反応は私の姿が見えているとしか思えなかった。
「☓☓でしょ、何してるの」
 私は観念する。
「驚かせた? ゴメンいきなり……」
「どうしたの? 急に来るなんて」
 私は右手に持った紙袋が音を立てないように、そっと部屋の中へ全身を入れる。
「いや、まぁたまたま近くに寄ったから……」
 Aは静かに私の瞳を覗く。


「酷い顔、☓☓、人殺しの顔してる」


 盲た彼女の瞳は完全に白濁し、まるで真珠のようだった。






 祈り
 私は祈りという言葉が好きです。
 祈りの対象は誰だっていい、祈る内容も何だっていい。
 祈りで世界が変わったり、何かを助ける事ななんてできません。祈る事なんて所詮祈り手の自己満足に過ぎないのかもしれません。
 でも今もどこかで誰かが大切な人の為に、大切な人を思って、静かに安らかな気持ちで祈りを唱えているのだと想像すると、そういうのも悪くないと思います。
 祈りで世界は変わらないし、何の助けにもならない、だからこそ、そんなささやかな物だからこそ人々は祈りを捧げるのだと思うのです。
 ある時は遠くの思い人に向けて
 ある時は彼岸の家族に向けて
 ある時は過去の自分に向けて
 ある時は故郷の人々に向けて
 私が祈りという言葉を最初に意識して聞いたのは多分「宇宙忍者スペースタイタン」といアニメでしょうか。主人公の宿敵ゼブラ伯爵が主人公に爆殺される時、いつも捨て台詞のように「ロックテイル」とかいう神様への祈りを捧げる。残念ながらゼブラ伯爵は不死身な為、ロックテイル神や彼の上司はいつもゼブラ伯爵を助けようとせず、結局捨て駒として爆殺されてしまう。
 そういう訳で、私にとって祈りというのは「まず叶うことの無いもの」という先入観がしっかりと根付いていました。

「ーーで、私は脚本家になりたい。宇宙忍者スペースタイタンの」
 平成二十年の夏休みのある日の学校の教室で、うだるような暑さの下、実際にうだっているAに向けて私はそう宣言しました。
「……勘弁してよ」
 彼女は呆れて返す言葉もない様子でした。
「☓☓、そんな理由で私をわざわざ呼び出したの?」
「うん。Aってたしか文芸部だったよね」
「元、元文芸部」
 あとで聞いた話ですが、Aは他の部員の作品をボロカスに批判しまくって、結果針のむしろになって辞めていたそうです。
「手伝ってほしい、私の書いた小説の感想が欲しいんだ」
「文芸部入ればいいじゃない、そーいうの書いてる人いっぱい居るよ」
「私にそんな事できるわけないよ、Aもわかってるでしょ?」
 私は典型的なコミュ障でした、生まれてこの方団体行動というのには苦い思い出しかありませんでした。
 私は他人の感情を推し量るという事が酷く苦手なのです、医者にはアスペルガー症候群と言われました。
「まぁ確かに追い出されるのは目に見えてるけど……」
 Aはため息と共にそう呟きました。
 A、彼女は数少ない私の友人の一人です。小学校以来の友人にして小学校時代唯一の友人。
 自分は生涯に渡って友人という者を作れないだろうと一早く察せれた小学校時代の私にとって、彼女の存在はまさに地獄に仏でして、無理に彼女と同じ高レベルの中高一貫校を受験したり、一時期厨二病をこじらせた彼女の暗黒面に永遠付き合ったりと全力でAの友人というポジションに食い下がり続けて至る現在。
「お願い、どうかお願い。私の周りの人間で小説とかをしっかり読んでる人間はAだけなんだ、あとセンター模試の国語の点数凄いし」
「いや、そう言われても……」
 彼女は酷く面倒臭そうに私を見ましたが、それでも私は必死に頼み続ました。たしか土下座までしたと思う。結果Aは私の執念に根負けし、差し出された原稿用紙を渋々受け取ってしまいました。
 何故私はこの時、こんなに小説書こうとしたのか、そして何故彼女にそんなにも読んでもらおうとしたのか、多分その前日に見たスペースタイタンの内容があまりにも衝撃的で昂ぶっていたからでしょう。それが、そんな物が全ての始まり何だと思うと、泣きたいような笑いたいような複雑な感情が湧き上がりました。






 ☓☓、人殺しの顔をしてる
 平成二十六年の夏、私はAから突如突きつけられたその言葉を、なかなか嚥下できずにいた。
 ここは隣町の大学病院のある病室。逃げ出したい、今すぐここから。そんな欲求と私はそこで闘っていた。
「……顔なんて見えてないでしょ」
 私はどうにか返しを絞り出す。
「否定はしないんだ」
 Aはズレた事を言う。
「A、まさか治ったの?」
 マヌケな質問です。治ったわけがない、そんな事は彼女の真珠の目を見れば明らかだった。
 彼女は私の愚問にゆっくりと首を横に振って答えると、思わせぶりな、それでいて弱々しい笑みを浮かべる。
「でもね、いろいろ見えるもんだよ、こんな目でも」
「……私の顔とか?」
「それだけじゃないよ、☓☓の事はたいてい分かるよ」
 思わず紙袋を持つ右手に力が入る。
「もちろん、☓☓がこれからやろうとしてる事も」






 なんでAは私と友達でいてくれるの?
 小学校六年生の時、私は彼女に尋ねました。何故こんな質問をしたのかは覚えていません。何故こんな物騒な質問を、あんな無意識的に発せれたのか……
「似てるからかな」
 Aは私には全く理解できない類いの回答をしました。
「似てる?」
「私のお姉ちゃんに、性格が特にね」
「仲いいの? お姉さんと」
「いや、なんにも話してくれない」
 そう答えた時のAの表情はどんなだったのか、私は見ていませんでした。
「……私と仲良くしたって、お姉さんと仲良くなれるわけじゃないよ」
 私はAにそんな心無い一言を浴びせました。
 後で聞いた話では、その一年前にAの姉は死んでいたそうです。
 自殺だったとか。
 私は愚かだ、Aがどんな気持ちだったか、どんな思いだったか、それを一切汲み取りもせずに、「私を見立てにしていた、私を私として見ていてくれてなかった」という稚拙な癇癪の元、最低な暴言をぶつけてしまった。Aのささやかな、そして痛切な祈りを汚してしまったのです。
「そうだね。なんか悪い事言ったわ、ごめん☓☓」
 Aは苦笑しながらそう返しました。Aはきっと私には想像もできないほど傷ついたでしょう、それでも彼女は私を許容したのです。
 この一件は私のなかに大きな負い目として残りました。だから私はこの件の償いができるその時まで、Aのどんな行為にも怒ってはいけないと心に決めました。Aはあれ程の深い傷をつけられても怒らなかったのだから。
 どんな事をされても
 どんな事をさせられても
 どんな事を言われても

「全然面白くないよ、小学生の作文レベルだコレ」
 Aはそう言うと、原稿用紙の束を私に突っ返しました。
「……ごめん」
 私は凹みました、相当に、かなり。
「まずそもそも話がスペースタイタンじゃん」
「やっぱりそう思う? 自分でもちょっと影響を受けたかなって思う所はあったんだけど」
「ちょっとどころじゃないわよ、影響とかそういうレベルじゃなくてまんまスペースタイタンになっちゃってるよ。あんたどんだけスペースタイタンが好きなのよ」
 私がAに差し出したのは勧善懲悪モノのアクション小説でした。タイトルは「ワイルドカッター」。カッターを武器とする主人公が急速な環境汚染によって発生した突然変異なオニイソメ怪物達と戦うストーリーです。その週のスペースタイタンで、ゼブラ伯爵は四畳半の自宅にタイタンを招き「人類寄生虫論」をもってタイタンを論破しようとするが、結局言い負かされ、結局武力行使にでて、珍しく爆殺でなく縦に真っ二つ死ぬという意味不明なストーリーに感化されて書いた作品でした。
 ワイルドカッター! 敵は真っ二つ!!!
「他にも色々ダメ。まず話のテーマ、『信じることの大切さ』なんだろうけどちょっと稚拙すぎ、別に複雑なテーマにしなくてもいいけどもっと深く掘り下げないとダメ、中三にもなってこんなの書いて恥ずかしくないの? 次にヒロイン、コレただの『都合の良い女』にしか見えない、気持ち悪いよ、あんたは村上春樹かっつーの。次にギャグ、絶望的につまんないし無駄に多い、こんなどうしようもない知性の欠片も感じないギャグ並べないで、ギャグくらいちゃんと練って書きなさいよ、ろくに練らないでフィーリングで面白いギャグが書けると思ってる? あんたは松本人志かっつーの。次にーー。次にーー。」
 彼女のダメ出しは暫く続きました、どれも正確で、辛辣で、私はどんどん居た堪れなくなっていきました。
「……ごめん、ちょっと言い過ぎたかも」
 十分ほど熱く語った後、唐突にAはそう謝罪しました。
「いや、そんな事ないよ。Aがそういうのも無理のない作品だったから」
「そう自己卑下しないで……って私が言えるセリフじゃないわね。とにかく、面白いところも若干あったから、もう少し書いてみたら? 持ってきてくれればまた読むよ」
「え、面白いところ?」
「一番面白いなと思ったのは、キャラクターの事がかなり細かく書かれてるところかな。煩わしい説明文とか、わざとらしいセリフじゃなくて、細かくて何気ない行動とか出来事とか情景描写をしっかり書いてて、なんかキャラクターが立体的に見えてくる」
 散々批判されていたので、そんな褒め言葉を言われるだなんて思って無かったので、私はかなり舞い上がったと思います。でも今にして思えばこれは所謂「飴と鞭」で、Aに上手く載せられてたのかなと考えてしまいます。
「でも次は別の物を書いてみたらどうなの? アクションから離れて家族ものとか、恋愛とか、☓☓の場合全く別の物じゃないとタイタンづくしになってつまらないと思うよ」
「無理」
「即答しないで、そこはせめて努力するとか言おうよ」
 私はとても困りました。私は人生経験に乏しいのです、だから恋愛ものを書くにしても、家族ものを書くにしても、私の日常は山も谷もない無味乾燥とした更地のようなものでしたから、書いてみたいという話が全くと言っていいほど思いつきません。
「じゃあさ☓☓、毎日一つお題を出すから、それについて書いてきてよ。一つで足りないなら三つでも四つでも、☓☓の書きやすい数でいい。それで書く練習をしてみてよ」
 困り果てていた私にAが助け舟を出してくれました。それでも少々自信がありませんでしたが、何もないよりはましか、と考え。
「じゃあ、それでお願い」
 と返事をしました。Aはどや顔でよしよしと頷きました。
「じゃあ早速、今日のお題はーー」







「私は人殺しなんてしない」
 思わず声が震えてしまった。Aは黙って私を見続ける。
「☓☓誓える? してないし、これからもしないって」
 彼女は試すような笑みを私に見せる。
「誓えるよ」
 私は即答した。
「……酷いね☓☓、私の眼をこんなにして、更に嘘までつくんだ」
 Aはそれまでとは打って変わって冷たい口調になって、刃のような言葉で私の心をえぐった。
 私の眼をこんなにして
 その言葉が脳内でグルグルと駆け巡る。
 私の眼をこんなにして、私の眼をこんなにして、私の眼をこんなにして、胸が重い、苦しい、黒く鈍く重い罪の感情が次々と噴出してくる。私の眼をこんなにして、私の眼をこんなにして、動悸が激しくなる。
「アッハハハ、嘘だよ☓☓。傷ついた?」
 Aは元の口調で私をからかった。
「私は……私は……」
「でもね、多分今の☓☓ぐらい私も傷ついたんだからね、☓☓に嘘つかれて。なにが『誓えるよ』だよバーカ」
 私はただ口ごもるだけで何も言い返せない。
 何時もそうだ、Aは強い。勘が鋭くて、思い切りが良くて、頭がいい。口ゲンカをすれば何時も私は言い負かされて口籠ってばかりだった。
 ごめん、ごめんねA
 そんな言葉が思わず口を付きそうになるが、私は無理やり飲み込む。
「バカはAの方だ」
「はい?」
 言い負かされちゃいけない、今日だけは、絶対に。
「嘘を信じればよかったのに、嘘を嘘だと知ってどうするのA」
 言葉一つ一つに力を込め、昂らせた感情を吐き出すように私は言う。
「A、私は人を殺すよ。これから沢山、沢山」
 言い負かされてはいけない、たとえAに嫌われても、憎まれても、呪われても。

 全てはAを救うために






 随分と変わってしまった。
 子供のころよく遊んでいた公園を久々に見た時、ふとそう感じたことがあります。でも実は公園自体はそんなに変わってなくて、それを見る私の視点が変わっただけだと気づくのには、そう時間はかかりませんでした。
 視点、物理的な視点だけではなくて。心の視点、私の心の立ち位置。
「世界は大して変わっていない、変わったのは私」
 その時頭によぎったそんな言葉、私はそれを結構気に入りました。
 この言葉はいろんな事の心理をついているのではないかと、手前味噌ながらそう思います。
 昔の自分と今の自分は違う
 昔の自分だったら絶対やらないことができる
 昔の自分とは違う思想を持っている
 みんなしばしそう思う時がありますが、実はそれは自分の核に対する自分の外周的な物が少しズレただけで。一見正反対の位置にいるようでも、実は自分の核を中心にした同円周上の地つなぎ的な位置に過ぎないのではないでしょうか。

 そんな風な考えをもっていたから、スペースタイタンの脚本を書きたかったはずの自分が「ファイル」「髪の毛」「電気コード」という三つのお題で作品を書いている状況を、私はすんなり受け入れる事ができました。
 日々Aから与えられるお題の内容は、その日のAの気分によってなんの脈絡も無い物で結びつけるのが難しいものばかりでした。ある日はトンボ、サンバ、時計の秒針。またある日ボールペン、留守番電話、壇ノ浦の戦い。そしてある日はチュニック、桃、シャンプー。これらのお題に、一日で必ず起承転結をつけて小説を書き、Aに提出し続けられたのはまさに若き発想力の賜物でしょう。今の私にそんな芸当ができるかどうかはわかりません。少し練習してあの時の感覚を思い出せば出来ないこともないかもしれませんが、今はもうそれをしたところで自分に意味があるとは思えなくって筆を進めることができないので、そうして楽しく物語に頭を悩ませていた頃と比較すると、自分も擦れてしまったなぁ、などと自嘲して見せるのでした。
 毎日一本小説を書く、それは結構なかなか大変な作業でありまして、私は学校から帰ると一日中机に向かっている子供になりました。毎日「明日こそAを驚かしてやろう」とか「明日こそAが楽しんでくれるような話を書こう」そんな事ばかり考えてシャーペンを動かすようになりました。手を動かしていたため漢字は必然的に書けるようになり、読解力もかなり向上し期末のテストでも国語はほぼ満点を取りました。先生には「☓☓は良く勉強してるね」などと褒められました。だけどそんなことより、私に課題を与え、私の話を唯一読んでくれている読者に如何に面白い、如何に楽しい、如何に美しい物語を届けるかのほうが、余程重要だったのです。
 そうしてAとお題小説を続けているうちに、私たちは高校生になりました。通っていた中高一貫校を私達はそのままエスカレーターし、相変わらずお題小説を続けていました。ですが高校の二年生になって暫くして、ある出来事がありました。
 私はいつものようにお題小説を書いていました。その時のテーマは「豚」「ガラスの小瓶」「自由帳」で、養豚業を営む老夫妻が子供の自由帳に書いてあった瓶のデッサンを見て、自分たちの出会いもガラスの小瓶から始まったのよね、と呟く所から回想に入る少しノスタルジックな恋愛物語でした。
 私はこの話を最初いつものように調子よく書いていたのですが、その日何度目かの手詰まりを感じ、反省のための再読してみると、ふと酷く残忍で暴力的な光景が頭に浮かび上がってきたのです。

 胸を撃ち抜かれた妻、狼狽する夫、まだ銃口から硝煙の曇る猟銃を構えた男が叫ぶ「見てるかフレド、よく見ろフレド! これが憎しみだ! これが憎悪だ!! お前にもわかるだろ、それともまだ綺麗事をほざくか!? 見えるだろお前にも、俺の見た、俺の見続けている地獄が!」フレドと呼ばれた夫は、腰の拳銃を引き抜き猟銃の男に向ける。フレドは泣いていた。
 猟銃の男の名はゴードン、フレドとは幼少期を同じ施設で過ごしていた。ある日その施設に強盗が入り、二人の慕っていた寮母が犠牲になった。フレドはその事件を乗り越え普通の大人へと育ったが、ゴードンは歪んでしまい犯罪者を惨殺する事に執着するようになってしまう。ゴードンは自分と同じ境遇でありながら「人殺しは良くない」という正論を翳しただ平穏に生きようとするフレドを許せなかった。ある日癌によって自分の余命が僅かと知ったゴードンは自分の後釜にフレドを添えるべく、フレドの最愛の妻を殺して、さらにフレドに自分を殺させ、犯罪の酷さと犯罪を阻止するために行う殺人の正当さに気づかせようとする。
「思い出したかフレド! あの悲しみを! あの絶望を! 味わえ! 噛み締めろ! そして覚悟を決めろ、この悲しみを減らすんだ!! これは罰だ、マリーの死を忘れ、悲しみから目を逸らし、自分が平穏でさえあればそれでいいなどという自堕落な思想に陥った罰だ!!」
 フレドの視界が涙で霞む。
 妻と過ごした日々が、妻の笑顔が脳裏にちらつく。妻との何気ない会話、愛しい女性。
 それらは全て失われてしまった、それらは全て壊されてしまった。彼女は壊された、一方的に、この悪鬼の手で。
 憎しみが膨らみ、悶え、噴出す。
 そして銃声が静かに響き渡った


 私は書き終えた原稿用紙の束を見つめ微動だにしないまま、その陰鬱な物語を眺めていました。自分の当初の構想とは全く異なる物語。私はただただ戸惑いました、こんな話今まで私が書いてきた作品と全然違うし、こういう暗い話はあまり好みでなかったので書く事は勿論読むことも意識的に避けてきてたのです。ただ不意に頭の中に物語が焼けつくように浮かび上がり、手が勝手に書き進めていました。私の中から急に湧き出た力の塊のような物が、無理やり私に書かせたような。私は当時その力が何であるかは分かりませんでした。ただそれが非常に強い力であるということは、なんとなく察していたような気がします。
 次の日私はこの作品をAの元へ持って行きました。一度は最初の構想で書き直そうかと思いましたが、ついつい惰性で怠けてしまい、そのままAに渡してしまいました。後に私はこの事を一生後悔する事になります、多分ここが引き返せた最後のチャンスだったのですから。

「☓☓、これ途中で話変えたでしょ?」
 読み終わるやいなやAは言った。
「うん、どうだった?」
「つまらなくはないよ。孤児院に強盗が入るっていう無茶な展開に無理矢理理由をつけようとダラダラ駄文を書いてるところ以外はね」
 私は思わず苦笑してしまいました。
「他にもゴードンの思想が納得いかない所がある、ちょっとこの辺の論理がおかしいと思う。次にーー。次にーー。」
 いつものように駄目だしを並べていこうとするAでしたが、なんだか雰囲気が少し違いました。
「A、なんか今日は歯切れが悪いね」
「……かもね」
「どうかしたの?」
「うーん。こういう暗いのはあまり好みじゃないっていうのもあるんだけどね、なんか疲れちゃった」
「『疲れちゃった』? どういう事?」
「そのまんまだよ。結構面白かったし別にそこまで読むに耐えない惨たらしい話ってわけじゃないんだけど、なんかね」
 そう言いながら彼女は目頭に指を当てていました。Aの疲れちゃったという感想に私は頭を悩ませましたが、そんな事は一先ず置いておこうとばかりにAは新しく次のお題を私に言い渡しました。「ポンカン」「液体ノリ」「講演」。
 学校に帰ってから机に向かい、早速書き始めようとしましたが、書き出す前にふと昨日の事が頭によぎり、今日は主たる登場人物を出さずに物だけで書いてみようという制約をつけてみました。主要人物がいなければ、あんな訳のわからない暗い物語が突如浮かんで当初のイメージを塗りつぶしてしまうなんて事は無いだろう、そう考えたのです。
 しかしポンカンが液体ノリを集めマルチ商法の講演を行ってる場面を書いていた時、不意にそれまでとは何の脈絡もなく、赤茶けたむき出しの大地がどこまでも広がる不毛な大地で、そこで育つはずもないのにポンカンの種を撒く一体のアンドロイドの様子が浮かんできたのです。私は執筆の手を止め、それまで書いていた話を読み返して初めの話に戻そうとしましたが、やはり何度見ても、途中からそのアンドロイドの映像が浮かんできてしまい、当初の話を思い描く事ができなくなってしまいました。

 生命の気配さえ見受けられない死の大地、そこで何千年もの間ポンカン畑を作ろうとするアンドロイドがいた。最後に人とあったのは? 最後に生き物を見たのは? そういった思考は全て停止していて、ただただ畝を耕し、ただの小石を種と思い込んで撒いていた。彼の畑のすぐ脇には巨大な穴があった、とても大きく深い穴、時たまその穴の奥底から人々の歌声が聴こえた。「いつか畑が完成したら、穴の底の街の人々が私を迎えに来てくれる」そう漠然と考えてアンドロイドは日々畑を耕していた。
 穴のそこから聴こえる歌声。女性のような、男性のような、大人数で歌っているような、一人で歌っているような、いつも同じ歌のような、違う歌のような。アンドロイドはその故も名も知らぬ歌を好んでいました。
 ある日そのアンドロイドは、ちょっとした不注意のせいで穴に落ちてしまう。穴の底にはアンドロイドの想像していたような世界は無く、地上と同じただ荒涼とした世界が広がっていた。そこでようやくアンドロイドは気づいた、穴の底に街なんて物は無く、歌だと思っていたそれは穴を抜ける風の音に過ぎなかったと。
 人なんてものはもう何処にもいなかったのだ。人だけでない、ありとあらゆる生物はとうの昔に死滅していた。
 やがてアンドロイドは動かなくなった。

「……また?」
「うん。また途中で変えちゃった」
 Aはため息をつく。
「まぁつまらない訳でも、文章が拙い訳でもないんだけどね」
 彼女は読み終えた私のお題小説をパラパラとめくってました。
「本当に?」
「今までのに比べたらって話。話が滅茶苦茶面白い訳でも、文章が超上手いわけでもないよ」
 Aは前回同様少し疲れた様子で目をこすりながら言いました。
「A、疲れた?」
「うん、なんかね。なんでだろう……」
「読むと疲れるの?」
「どうだろう、単に最近忙しいせいかも。てか☓☓の方こそ忙しくないの?」
「何が?」
「受験勉強。もう高二の冬だよ?」
「あー、うん大丈夫。多分大丈夫」
 全然大丈夫じゃありませんでした。
「……丁度いいか。本日を持って一旦お題小説を中止します」
「え?」
「☓☓が勉強しないから、私がちょっと忙しいから、これは決定事項。☓☓、前私と同じ大学に行きたいとか言ってたけどこのままだと受けることさえできないよ」
「んと、でも、受験勉強は高三になってから……」
「☓☓ってバカじゃん、だからそれじゃあ間に合わないよ」
 実際間に合いませんでした。

 こうして私はAに半ば強引にお題小説を打ち切られてしまいました。
 あまりにも勝手に決められたので酷く腹がたちましたが、それと同時に私自身の事を私以上に心配してくれる彼女の事をとてもありがたく思いました。ですが私は馬鹿だったので、折角の彼女の配慮を無視して結局勉強をやる振りをして小説を書いていました。私はすっかり書き物中毒になっていて、思いつくアイディアを物語にせずにはいられませんでした。そして参考書を机の端に追いやっていくつもいくつも小説を書いて行くうちに、段々と不思議なその力をある程度コントロールできるようになっていきました。






「変わったね☓☓、なんか別人みたい」
 Aは悲しそうに呟く。
「私は変わってなんかいない」
「変わった人ほどそう言うよね。昔の☓☓ならそんな怖い事言えたわけ無いじゃん」
「言えたよ」
 私はAとしっかりと向かい合い、言葉を続ける。
「Aを助ける為なら言えたよ。Aは私にとって世界で一番大切な人だから。Aを救う為なら私は……」
 その言葉はそこで突然のAの笑い声で遮られた。私は面食らう。
「アッハハハ。ねぇ☓☓、それって愛の告白?」
「茶化さないで!!」
「ハハハ。ごめんね☓☓、私が間違ってたよ、確かに☓☓は変わってないね。あの時のまんまだ」






 私は物の価値を見極めるということが下手です。
 この欠点は私にとって最凶最悪の欠点だと思っています。当然アスペルガー症候群よりも。一応目の前の物の価値はそれなりに理解できます、だけどそれがどうしてそれだけの価値を持っているか察することができないのです。
 この欠点のせいで本当に沢山失敗してきました。その最たる例が後の「Aの友人でいる事」の価値が「Aが生きているという」という前提の元に成り立っているという至極単純な事に気づけなかった事だと思っていました。

 そんな具合でしたので、高校三年の春休みに私は店内にある様々な形のメガネのフレームが置かれたディスプレイをみて、その電灯の淡い光に照らされた鮮やかな輝きに目を奪われ「一つ伊達眼鏡でも買おうかな」などと思っていたのです。でもそれらは宝石のように美しく並べられているからこその価値、美しさであり。そのなかの一つを選んで購入してしまうとその価値からは切り離されてしまい、魅力が途端に消えてしまうのです。百万の夜景よりも美しかったフレームは、家に帰って付けてみるとただの安っぽいプラスチックの塊になってしまうという当然の事に気づけていませんでした。
「☓☓も買うの? メガネ」
 横でフレームを選んでいたAが言いました。
「うん、伊達でも買おうかなーって」
「似合わないからやめときなよ」
 その日はいきなりAに買い物に付き合ってほしいと頼まれ、慣れぬオシャレなメガネ屋に来ていました。
 Aの方から頼み事をされるというのは結構珍しいことでした。
「そうだね。……ところでAってそんなに目が悪かったっけ?」
「うん、結構前から少しづつ見えなくなっていったって感じ。もう三列目より後ろだと黒板の字は見えないよ」
「そうなんだ、なんか意外」
「じゃなきゃ一緒に眼鏡買いに行こうなんて言わないよ、この間の健康診断の視力検査でも、結構見えなくってさ。今0.3くらいしか無いらしい」
「え? そんなに?」
 バスケ部で終始走り回っているAがそれだけ視力を落としていることは、とても意外でした。Aの目が悪くなるような理由なんて、私には何も心当たりが無かったのです。
「目が悪いと困るんだよねーいろいろ」
「今までお疲れ様。というか0.3でバスケしてたのね」
「出来ないこともなかったよ。メンバーはゼッケンしてるからわかるし、別に小さい文字を読む機会もなかったしね」
 話しながらAはやけに可愛げなフレームを手に取り、鏡の前で掛けたり、フレームの強度を確かめるように少したわませたりしていました。
「レンズは決まった?」
「うん、長く使いそうだから一番丈夫なやつにした」
 やたら高かったよ、予算足りるかな? とフレームを見たまま言いました。迷ってるAの傍らで、宝石のように光るフレームを私も眺めました。
「デザインとかは? 何色がいいとか決めてるの?」
「んー、それがまだない。初めての眼鏡だからあんまり目立たないのがいいかな? とも思ってるんだけど、ちょっと大穴狙ってカワイイのもありかなとは思ってる」
 まぁお金しだいだね、とAは持っていたメガネの値札をかなり顔を近づけて見ました。そして一瞬大きく目を見開いてから、フレームを丁寧にたたみ、そっとそれをもとあった場所に戻しました。
「これはない。金額的に、ない」
 見ると確かにかなり高額でした。私の予想の約1.5倍の値段です。どうやらどこかのブランド物のようでした。
「そういえば☓☓は部活とかしてなかったけど、ずっと勉強?」
「うん、そんな感じ」
「嘘だね。小説を書いてたでしょ」
 あっさりバレてしまいました。
「……いや、その何かさ、書かないと逆に集中できなくなっちゃって」
 Aは呆れたようにため息をつきました。
「勉強してよ☓☓。私嫌だよ、☓☓の大学受験失敗のキッカケが私とか」
「あ、いや、でもそれはAの責任じゃ……」
「あれからどれくらい書いたの?」
「け、結構かな」
「バカ」
「でも、もうそろそろ本当に書くのやめようかなって思ってたんだよ」
「いまさら? 理由はなに? 途中で勝手に暗い話に変わっちゃうのが嫌になったとか?」
「ううん、あれはもう大丈夫。結構コントロールできるようになったんだ。やめる理由は別でその……」
「なに?」
「Aに感想を貰えなくなったっていうのが大きいんだ」
 Aの感想は私の執筆という行為において大きな役割を占めていたということにようやくこの頃私は気づけました。私にとって「執筆」という行為の最大の喜びは「Aからの感想」もとい「Aとの会話」だったのです。
「ふーん、嬉しいこと言ってくれるじゃん」
「えへへ」
 何故か私は少し照れ臭くなりました。
「ところで、どう? こんなの」
 そう言ってこちらに顔を向けたAはオレンジの半緑眼鏡をかけていました。顔の周りがすっきり見えて色も肌に馴染み、明るい印象でした。
「あ……うん、いいね、顔色がよく見える」
「☓☓がそう言うなら、これにしよう。フレームは上半分しかないけど」
「まぁ、その代わり軽くていいんじゃない。こういうのは硬さの代わりに柔らかくして衝撃を吸収してるらしいよ」
「なるほど、確かに言われてみれば他のよりちょっと軽いような」
 左右の人差し指と親指で眼鏡を摘んで、上下させながら重さを確かめています。納得したように二、三頷くと、Aは値段を見て受付の方へと向かい、会計を済ませて戻ってきました。
「じゃあさ、今度読ませてよ、今まで書いたヤツ」
 出し抜けにAに言われて私は一瞬何の事か分からず少し間が空いてしまいました。が、すぐに先ほどの小説の話だとわかりました。
「え? なんで?」
「嫌?」
「いや、ぜんぜん、ぜんぜんぜんぜん嫌じゃないよ。でもなんで?」
「んー、私なんだかんだで結構好きだったんだよね、☓☓のお題小説」
 その時私は驚きのあまり手に持っていたメガネを落としそうになってしまいました。Aが私の小説を結構好きだなんて、あまつさえ読みたがってくてるだなんて全くの想定外でAのその言葉は長い事書き続けてきた私にとって、この上なく嬉しい言葉だったのです。
「本当に? じゃあまた私の小説を読んでくれるの?」
 思わず勢い込んでAに尋ねました。
「読ませてよ。ただし条件が一つ、受験が終了するまで今日以降一切執筆活動を行わないこと。私が読むのはあくまでも☓☓が書いた今ままでの作品だけだからね」
 その言葉で、お題小説が終わってからネタの消化の為だけに作られ続けていた読者不在の小説達が、一斉に「やったぁ」と声を上げて喜ぶのが聞こえてきました。
「わかった、わたし頑張るよ。勉強すごい頑張る、死んじゃうじゃないのかなって心配されるぐらい勉強する」
「いやいや、そこまでしなくても」
「とにかく頑張るよ、また読んでくれるって言うなら」
 私の周囲の気温が1〜2度あがってしまうのではないかと思うほどの熱気で、Aに必死で作者としての気持ちを伝えました。Aは、もう、大袈裟なんだから、と言ってクスクス笑っていましたが、たった一人の読者を失っていた作者がまたそれを取り戻すのがどれだけ嬉しいことか、その書いてる側の人間にしかわからないだろう気持ち、何万字でも表現しがたいこの感動をAに伝えるため私は一生懸命でした。
 私はAの会計を待つ間、受験が終わったら今度はAのために長編小説をにでも挑戦してみようか、と思いました。Aと私のこの日々を元にした、今のこの充足感を絡めた、懐かしくいけれども大人になっても通じる、温かいヒューマンドラマを紡ごう。枚数はどのくらいになるかわからないけれど、今まで作ったことのないような複雑な構成と、書きたい限りの描写を思いつくだけ詰め込んで、子供が大きなおもちゃ箱を覗き込む時のような胸踊る気持ちをAに届けよう。
 私は呆れるAと供にスキップでお店を出ます。
 ウィンドウのそばのメガネのフレーム達が、日の光を浴びてきらきらと輝いているように見えました。



 ここは、思い出したくない記憶です。
 私はなにも気づけていませんでした

 私は、バカだ






「懐かしいなぁ☓☓。丁度一年前だったよね」
 ひとしきり笑い終えたあと、Aは言いました。
「私がここに初めて来たのが?」
「そうそう、あの時もたしかそんな風に原稿を入れた紙袋をもってたよね」
 紙袋を持つ右手に力が入る。
「なんで、なんでわかるの? 私が……」
「中身まではわかってないよ、不幸なお話だろうとは思ってるけど」
 私は自分の心臓がギュッと縮むのを感じる。彼女には隠せない、何も、全てを把握された上で説得しないといけない。そんな最悪のシナリオが脳裏にちらつく。
「『時のプリズム』だよね、一年前のあの時に☓☓が持っていた原稿のタイトル。あれは面白かったなぁ、暖かくて綺麗ですごくいい話だった」
「ボロクソに言ったじゃん」
「それは私なりの愛だよ。純粋すぎて優すぎて上手く生きていけない女の子をやきもきしながら支えようとする主人公が良かった」
 恥ずかしい、急にそんな事を言われたので私は何も言葉を返せなくなる。
「ねぇ教えて☓☓、今日のその原稿はどんな話? 私の話? それとも貴方の話?」






「大切な人を助ける為に、その大切な人を傷つけられるか?」
 私がそれまでの人生で直面してきた問題で二番目に難しい問題でした。
 大切な人を悲しませ、苦しませ、絶望させてでもその人を救おうとするか?
 その大切な人は救われた事に絶対感謝なんてせず、私を憎み、救われた自分を呪い、生涯自分の深い業と向き合うことになってしまっても?
 私はこの問に答えを出せず、それどころかその問にしっかりと向き会おうともせずに、その大切な人と対峙してしまいました。

 そして人生で一番難しかった問題は「正三角形を九つの部屋に区切って、その中にPとQという部屋があり、Pを出発した人が毎秒隣り合った別の部屋に必ず移動するとして、n秒後にQの部屋にいる確率をもとめよ」という問題でした。
 私はこの問題のせいで志望校に落ち、Aと一緒に大学生活をおくるという夢を断たれ、暗く悲しく惨めで遣る瀬無い浪人生活が幕を開けてしまったのです。
 浪人中はAとは自分からは連絡を取りませんでした、いや、取れなかったというべきでしょうか。Aにいろいろ申し訳なさ過ぎて合わせる顔なんてありませんでした。Aからも流石に私を見限ったのか、すぐに連絡はこなくなりました。
 呆れた話ですが、その後私は浪人生活の最中だというのに小説をせっせと書くようになっていました。ネットに小説をちょくちょく投稿しては、意外と沢山好評価を貰えて調子に乗ってたりしました。アホですね。
 時々、私の小説を気に入ってくれた人達の感想の中に「☓☓さんの作品はなんか読むと疲れる時がある」とか「たまにすごく目が疲れる」といった雰囲気の言葉が書かれていまして、それはAにもしばしば言われていた事なので少し気になったりしました。
 さて、こんなどうしようもない私の浪人生活の話は終わりにして。話を一気に一年進めさせてください。翌年、私は無事にAの大学に合格することができました。
 合格発表を見たその日にさっそくAに伝えようとしました、でもAとケータイで連絡が取れず「こりゃ相当嫌われたな」と思いましたが、次の日浪人生活中に書いた長編小説「時のプリズム」をもって期待に胸を膨らませAの自宅を訪ねました。その「時のプリズム」はある出版社のコンテストで大賞を受賞できた作品でした、だから一刻も早くAに読んでもらいたかったのです。

「あなたが☓☓さん?」
 Aのやたら大きな自宅の呼び鈴を鳴らすと、予想外にもAの母が出てきました。
「はい。Aさんには高校時代に大変お世話になりました。よろしければ彼女にこの原稿を渡して頂けませんか?」
 Aの母親は原稿を受け取りますと、私の顔を見て少し悩んでいるような様子を見せました。
 この人、酷く疲れてる。
 私はAの母にそんな印象を抱きました。
「あの……Aさんは今日は学校ですか?」
「あの子は今、入院してます」
「え?」
 Aの母は真剣な目で私を見ていました。
「ねぇ、良かったらこの原稿、あの子に直接届けて上げてくれない? こんな事頼んでごめんなさいね。でもきっとA、すごく喜ぶと思うから」
 その後のことは私はあまり覚えていません。
 Aが入院している、その事実に酷く動揺し、混乱していたせいでしょうか? 私はすぐにAの母から彼女が入院している隣町の大学病院を教えてもらい、向かったのですが、その病院までの道中の記憶はすべて歪み、水の中に入ったかのように全てが不確かでした。ただ一つだけ確かな感覚が、漠然とした恐れが、強い恐怖の塊がその水底に沈んでいるようで……多分私の心の奥底、私の力の仕舞われている私が決して覗くことのできない暗い苗床ではもうすべて解っていて、それを私はーー
 気がつくと私はAの病室の前にいました。
 私はドアを掴みます、ですが手が震えて開けることができませんでした。
 「大丈夫、大丈夫だよきっと。何も無い、何も無いから、何も怖がらなくても。ただAは少し体調を崩しただけだから」
 自分にそう言い聞かせて、私はドアを開けました。

 部屋の中では光を失ったAが待っていました。



11


「☓☓、部屋に入るなり泣き出すんだもん。本当にびっくりしたよ」
 Aは何でも無い事のように楽しげに言った。
「……どうして、どうしてもっと前に教えてくれなかったの」
 Aはその半年以上前から入院していました、そして彼女はただ視力を失っただけではありません。目を中心として、緩やかに全てが死につつありました。
「決まってるじゃん、こうなるからだよ。母さんも勝手だよなー、あれほど☓☓には伝えちゃダメって言ったのに」
「勝手なのはAだよッ! 何も言わずに、このまま……そんな、そんなのないよ! 私の気持ちを考えてよ!」
 これ程大きな病院でも、Aの体の異常の治療法はおろか、原因さえも突き止められていませんでした。
 Aはもう……
「☓☓こそ、私の気持ちを考えてないでしょ」
 Aは努めて冷静に、私に言葉のナイフを突き立てた。
「ねぇ☓☓。私が数百数千っていう人を犠牲にして、それで助かって呵呵大笑する人間に見える? 私はゼブラ伯爵かっつーの」
「だから……だから死ぬの?」
「死ぬつもりは無い」
「でも助かろうとしない」
「☓☓、ねぇ少し頭を冷やしてよ。そんな助かりかた馬鹿げてる」
「馬鹿げてなんていない」
 Aは呆れたようにため息をついた。



十二


 「物の価値というのは、それを失った時に初めてわかる」
 とても悲しい格言です。その物を失うまで、その物を真に理解することができないなんて……この格言は決して常に真ではないと私は信じようとしていましたが、それはただの強がりなのかもと気づいてもいました。



「久しぶり『ゼブラ伯爵』、珍しいね君の方から話しかけてくるなんて」

 失ってまでしないと理解できない「物の価値」なんて理解したくもない。そんな甘えた考えをしていたから私はAの他に友達なんて一人もつくれなくて、この切羽詰まった状況で頼れるがハンドルネームで呼び合うパソコンの向こう側の住人一人だけだったのです。

「久しぶりです『ハイシャオ』さん」
 私は静かにキーボードを叩き、ハイシャオという人物にむけて文字を送っていく。
「メール読んだよ。おめでとう、デビューするんだね。どれがデビュー作品になるんだい?」
「ありがとうございます、デビュー作はまだ担当の人と相談してるところです」

 私は彼、ハイシャオの事についてあまり詳しく知りません。知っていることは二つ、妙に私のネット上の作品を気に入っていて良い感想を掲示板に書いてくれること、そしてもう一つ……

「それと、質問の方だけど。なかなか面白いことを尋ねるじゃないか『呪いの解き方』なんて。僕ァもっぱら縛るのが専門だから期待はしないでくれよ」
「お願いします」

 彼はとても怖ろしい小説を書くという事。
 
「まずは呪いの種類を教えてくれ、まぁ有り体に言えば『一般的な呪い』か『言葉としての呪い』か」
「すいません、よく解りません」
「呪いとは、口と兄を書く。口は言葉を示し、兄は人を……正確には祈りを捧げる人を示す。呪いとは元は祝詞でもあり、祝と呪には明確な差異が設けられていなかった。呪いと書いて『まじない』とも読むのがその名残だ。神に捧げる為の言葉、神に捧げられた言霊、それが呪い、それが言葉としての呪いだ」
「多分、それだと『一般的な呪い』の方だと」
「なんだそっちか、くだらんな、そういう浅くて稚拙なのは僕ァ専門外でね。新作の為だかなんだか知らないが、そんな幼稚な物の解き方なんぞその辺のアニメやラノベから摂取すればいい」

 浅くて……稚拙な……
 マウスを持つ手にギリギリと力が篭りました。

 盲たAを見た時、私はすぐにその原因に思い当たりました。あの大きな病院が全力で検査してもわからなかった「その原因」に憶えがあったのです。
 私は病院を逃げるように出て、息を切らして家に帰り、自室のパソコンを立ち上げてすぐにある人々へメールを送り始めました、「ネットに上げてあった私の作品を愛読してくれた人々」へ「最近視力が低下していませんか?」と。
 すぐに返信が来ました、その多くが「確かに低下しているかも」という内容でした。さらに「今病院に通っている、今度手術をする」そんな人までいたのです。
 これは偶然なんかじゃない、これは……
 私はさらにメールを送りいろいろ尋ねました、連絡の取れない人はフェイスブックやツイッターを割り出して調べました。
「私の書いた小説を読んだ人は徐々に視力を失い、やがて……」
 そんな結論に至るには、そう時間はかかりませんでした。
 私は酷く動揺しました、訳がわかりませんでした。どうしてこんな、なんで……なんで……
 私は目を赤く腫らしながらパソコンに向かい合い続けました。
 どうして……
 調べる内にどんどん詳細が解っていきます。私の小説を読んだ人全てが視力を失うわけでない、私が力を使って書いた小説つまり、暗く救いのないバッドエンドな小説を読んでしまった人に発生していました。
 それはまるで呪いでした。
 私はAを呪ってしまったのでした、彼女の運命をも蝕んでいたのです。


「お願いですハイシャオさん、助けてください」
 私は必死に食い下がりました。
「珍しいね、君にしては随分と必死だな。だけど繰り返し言うようだが、それは僕の専門分野じゃないんだよね。海では強い鮫も、陸に上げればただのフカヒレスープだ」
「では陸を専門分野としてる人を紹介して頂けませんか?」
「いないよそんな人は。いても九割ペテン師のこり一割はキ印だなぁきっと」
「ペテン師でもキ印でも構いません」
「……随分と追い詰められてるようだねゼブラ伯爵、少し落ち着こうか、慌てる乞食はなんとやらだぞ。君の言う呪いをもう少し詳しく教えてくれたまえ」
 私は少し考え、慎重に言葉を選び、打ち込んで行く。
「単純な呪いです、その呪いにかかった人は弱っていき、おそらく最終的には死んでしまいます」
「呪いの掛け方は?」
「とても簡単な方法です、文字を使った物」
「今この状況で、僕にかけられる?」
「多分、かけられます」
 というか、多分既にこの人にはかかっている。
「ふぅん、それはなんとも『呪い』と言うより『兵器』と言ったほうが僕ァしっくりくるね」
「兵器?」
「強いて言うなら生物兵器かな。だとすれば『解き方』なんて簡単さ」
「どうすればいいんですか?」
「パンデミックさ。pandemicまたは pandemia、汎発流行、もしくは世界流行と言えばわかるかな?」
 パンデミック
 私は返信を忘れ、文字に食い入る。
「その兵器で死者を世界規模でだしな、そうすれば人類みなさん必死で『解き方』の模索に協力してくださる。憎悪を剥き出しにする連中もいるだろうが」
 兵器、死者、世界規模
 自分の動悸が激しくなっていくなるのがわかりました。
「数万、数千万、数億という単位でその『呪い』の死者がでるころには、さすがに東大やらMITやらケンブリッジやらミスカトニックの天才さん方が『解き方』を見つけ出してくれるだろうね。どうだい面白い案だろう?」
 トクントクンと心臓が早鐘を打ち続ける。
 パンデミック、大量殺戮、数億
 その時、出版社の私の担当からメールが来ました。それは私のデビュー作にする物を本格的に選び始めましょうという内容でした。

 A……私は……ずっと……

「もしもし☓☓です。いえ、はい。いえ、その、書き下ろさせてください、デビュー作は今から書きます、お願いです。良い作品を書きます、必ず。え? あ、はい、タイトルですか?」
 タイトルは……「明滅」です。



13


「遅効性だからっていい事に、そういう作品でデビューして、そういう作品を乱発して、私みたいな患者を増やしまくって、治療法を研究させようって? どこが馬鹿げてないのよ、どーせあのハイシャオとかいう訳の分からない中国人に入れ知恵されたんでしょ?」
 Aはもうウンザリという様子で、私の方から顔を逸らして言った。
「馬鹿げてなんていない、Aが気に病む必要なんてない、いくらでも殺せばいい、こんな国の人間」
 私は語気に力を込める。
 Aは呆れたように大きなため息をつき「もう聞きたくない」そんな感情を私に突きつける。
 行くぞッ、腹に力を込めろ!
「A、この国の人間は歪んでいる、生まれた時から歪み、いまや自分がどれほど歪んでいるか見えていない、自分の足元に広がる世界が、経済発展を大きく遂げ繁栄の果実を貪るこの国現状を正しく認識しようとしない。兵器も持たず、資源も持たないこの国が何をしているのか、どんな国守ってもらってるのか。この国の保護者となっている国は、薄汚い軍産複合体に喰い荒らされ、殺人を生業としその利潤を持って世界を牛耳ようとする国だ。大昔は他国を攻め、それが誹りを受けるようになれば力を持って他国を傀儡にし石油資源を独占せんとし、それがうまく行かぬとなれば貧しき国に武器を流し僅かな宝石資源の奪い合いを助長させ。私達が貪り食らうこの安全と経済発展は、一体何を持って支払われているのか。第三世界の少年兵達の血の上に浮かぶ汚い遊覧船、それがこの国だ。この国の民はそういった現実を知ろうとせず、知ったとしても何をする事なく、ただ無意味に聞き流し忘却の彼方へしまい込む。ただ戦争状態じゃない、そんな消極的な平和をなりふり構わず追い求め、その代償を遠くへ遠くへと押し付ける。殺せばいい、こんな歪んだ国の民は、偉そうな口で生命の尊厳だのとのたまい、その一方で少年達に銃で殺し合わせ財をなす。まるで寄生虫だ、人類にへばりつき醜く肥えた寄生虫それが私が殺そうとしている者たちだ」
 私は一気にまくし立てるように言い切った。
 Aはただ静かに私を見ている、無表情で、無感情に、それでもちりちりとした彼女の衝動は伝わってきた。
「☓☓、それは論旨のすり替えだよ」



十4


「これで本当に良いのだろうか?」
 書きあがった「明滅」の原稿用紙の束を前にして、私はそんな事を呟いた。
 恥ずかしい話ですが、私はこの期に及んでまだ決心がついてなかったのです。いや、決心というよりも、私がやろうとしていることがなんなのか、それは正しいことなのか、それは本当に私の願いを叶えるのか、それは本当に……
 私には何も分からなかった。
 震える手でそっと原稿を握り締め、Aの事を考えました、あの病室で弱弱しく横たわるAの事を。
 ……何もわからない。
 私は原稿を適当な紙袋に入れると、ふらふらと家を出て、彼女の居る病院へと向かいました。
 なぜ彼女の元へ行ったのか、何故そんな事を……
 そんなことをすれば、悲しい結果になる何てことは分かっていたのに。
 そして彼女は、私を見るなり「人殺しの顔」だと言ったのだ。

「どうでもいいよ、国の事なんて、そんな大業なもの持ち出して自分の論理の欠点を隠そうとしたって無駄無駄、そんなので騙されるとか私は小学生かっつーの」
「欠点……」
「何をどう言ったって結局は私を助けたいんでしょ? 正義とか悪とか寄生虫とかカッコつけてるけど結局はそれが一番の理由でしょ?」
 私は何も返せません。
「大切な人を救いたい、それが結局の理由でしょ?」
 うわ、自分で言ってて恥ずかしい、こんな事言わせないでよ☓☓
 Aは少しふざけながら、事無げにすらすらと論をつづけました。
「ねぇ☓☓分かってる? ☓☓のやることって、結局誰かを殺すんだよ? 殺すってことがどういう事か分かってる? 誰かにとっての大切な人を奪うってことだよ。☓☓にとっての私みたいな、誰かの世界で一番大切な人を奪うんだよ?」
 私は思わず目を背けた、背けずにはいられなかった。
「☓☓も分かってるよね」
「……」
 言葉が出ない。口の中はからからに乾いて、胸の中にカッと熱い何かがはじけたような……
「☓☓、私も☓☓の事が好きだよ。☓☓は私にとっての一番大切な人、不器用でひねくれてて考え足らずで、それでやさしい」
 胸の中ではじけたその熱いものが、血液に乗って、体を駆けめぐり始めました。
「A……」
「☓☓の言ったとおり、☓☓は変わってないよ。小学校で初めて会ったときからさっきの馬鹿みたいな演説したときまで、根っこのところはずーっと私の大好きな☓☓だったよ」
 
 だからお願い、最期まで私に☓☓を好きでいさせて

 目が燃えるように熱くなり、涙がぼろぼろと溢れ出す。私は倒れこむようにAに抱きついた。
「……嫌だ……嫌だよぉ……死なないでよぉ……」
 私は何度もしゃくりあげながら、ずっと子供のように喚きました。



後日談


 雨の音が微かに聞こえる。
 窓の向こうには茫漠と広がった黒い雲が見え、それが静かに雨を降らせていました。
 火葬場で灰になったAの一部も、ああいう雲になったりするのだろうか?
 葬式から帰宅した私は、自室でそんなことをぼんやりと考えていました。
 不意にケータイが鳴りはじめました。
 あぁ、担当さんからだ
「もしもし、あ、はい、どうも、いえ、いえ、いや、はい、はい」
 書き下ろすと約束した新作の催促でした、当然です約束の期限はとうに過ぎたのに一報も送ってなかったのですから。
「あの、すいません、大変恐縮なんですがその……」
 担当さんの出来る限り言葉に刺を持たせない様に、それでいて危機感を感じさせようとするハッパを遮り、私は話し始める。
「……デビューやめます、小説家にはなりません。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 そう言いながら、机の上に乱雑に置かれた「明滅」の原稿を手に取って眺めました。
 電話の向こうから返事は聞こえてきません、担当さんは相当に面食らっているようでした。しばらくすると、途切れ途切れに動揺した言葉が聞こえだしました。
「はい、はい、そうです……いえ、そういう訳ではなくてですね、理由……そうですね……」
 私は原稿の束を持ち、ゆっくりと立ち上がる。
「えっと、理由はですね……スペースタイタンって見たことあります? それの第88話『狙われた都市』」
 当然返事なんて「は?」という一言しか聞こえてきません。
「その話でですね、ゼブラ伯爵は『人類寄生虫論』をもってタイタンを喝破しようとすんのですけどね、結局タイタンに見事なまでに論破されてしまうんですよ、で、最後には……

 私は部屋の済に置いてあったシュレッダーに、その原稿を放り込んだ。

……真っ二つにされるんですよね」
 ワイルドカッター、敵は真っ二つ


 私は粉切れのチップ状になっていく「明滅」を見て、なんとなく「この作品は『祈り』になったんだ」そう感じました。
 祈りになった、我ながら不思議な表現です。でもこの作品はもともと呪いだったわけで、ハイシャオさんの言う通り呪いと祝いにそう差が無いのだとしたら、きっと、私の勝手な解釈ですが、きっと祈りと呪いにもそう差が無いのではと思うのです。
 祈り
 誰の事を祈ってるの?
 A? それとも私?
 誰へ向けての祈り?

 もし、もしもこの祈りに受け取り手がいたとしたら、その人は呪いにかかってしまうのでしょうか? この祈りを読んだ人はどうなるのでしょうか?
 呪いを掛けられるのは、私の暗い作品だけです。この明滅は私の自伝で、私はこれを書き上げ暫くの後自殺するつもりでした、それでこの明滅を完全に暗い救いのない作品にするつもりだったのです。
 ですが私はもう自殺はできません、Aに「最期まで私の好きな☓☓でいる」と約束してしまったので。
 明滅は私の人生を書いた作品がバッドエンドになるかならないか、それはつまり私の人生がバットエンドになるかならないか、そんなの今の私にはわからないのです。





 もしこの祈りを読んだ人が、もしも貴方が盲てしまったら、多分きっと私は私らしく不様に野良犬の様な最期を遂げたのでしょう、ざまぁないです。
 ……でも、でもひょっとして、貴方が盲ることがなかったら、それはつまり……

 ここから先を話すことは止しましょう。
 これは所詮は祈り。祈りなんてものは、どうせ叶わない物なのですから

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


ハッピーエンドの魔法

 わたしの知ってる物語のヒロインたちはみんな、困難を乗り越えて最後は幸せに暮らしていた。そんなかっこいいヒロインたちに憧れて、わたしもどんな困難が来ようが、絶対に乗り越えてみせると幼少時代から思っていた。


「つ・ば・き~! 一緒に帰ろうぜ~」
 わたしを呼ぶ声がする。振り向かなくても、特徴的なアルトボイスで誰だかわかった。女子の平均身長を大きく上回る背に、茶髪のショートカット。小麦色に焼けた肌は、彼女の活発な性格を表しているかのようだ。そんな見るからに運動部といった見た目のこの娘の名前は、桐生翼(きりゅう・つばさ)ちゃん。整った顔立ちをしていて、好意を寄せられることもしばしば。そこだけ聞けば、羨ましいと思うひとも多いかもしれないけど、翼ちゃんは迷惑そう。なにせ、好意を寄せてくる相手が全員女の子だから。まさか、私立の女子中で下駄箱や机の中からチョコレートなんて見られるとは思わなかったなあ。
「椿、聞いてるか?」
 そう言って翼ちゃんは心配そうにわたしの顔を覗きこむ。
「あっ、ごめんごめん。ちゃんと聞いてるよ」
「本当かあ? お前頭いいくせにどこか抜けてるからなあ」
「聞いてたってば。一緒に帰ろうって話でしょ。別に大丈夫だよでも……」
「……病院、か」
 翼ちゃんの声のトーンが少し下がる。あらぬ心配をかけちゃったかな。
「まあ、日課だからね~。ここ行かないと『一日が終わった!』って気がしないからさ」
 普段より明るさ倍増くらいで話した。翼ちゃん、変なところで気にしいだからなあ。
「お前も、無理すんなよ。なんかあったら、あたしを頼ってくれて構わないからな」
「おお、かっこいい~。そりゃあ、女の子にモテますわ」
「こっちが真面目に話してるのに、茶化すなよ!」
 ちょっと翼ちゃん顔が赤い。照れちゃって、かわいいなあ。
「あはは、ごめんごめん」
 翼ちゃんはため息をつく。
「……ったく。あんまり抱え込みすぎないようにな」
「わかってるよ。いざってときは頼りにするから、さ」
「……なら、いいんだけど」
 翼ちゃんがうつむく。くすぐられてもいないのに、どこかくすぐったい。
「はい! 辛気臭い話終わり! もっと楽しいお話しよ、翼ちゃん」
「ああ、そうだな!」
 翼ちゃん、やっといつもどおりの明るさに戻ってくれた。
「楽しいお話しよ、とか言ったってことはなんか面白い話でもあるんだろうな?」
「ううん。ないよ」
「ないのかよ!」
 わたしたちはこんなふうに馬鹿みたいなことを話してるくらいがちょうどいいんだ。


「でね、昨日優子がコケたんだよ」
「またコケたのか、アイツ……」
「あっ。じゃあ、わたし、こっちだから」
 わたしは翼ちゃん家と真逆の方向を指さす。
「おう。じゃあな。知らない人に声かけられてもホイホイ付いてくんじゃねえぞ~」
「ふふ、いつも言うよね、それ」
「お前なら付いて行きかねないからな」
 翼ちゃんはにこりと笑う。
「ひどいなあ。そこはちゃんとわきまえてるし~」
 抜けてるとはよく言われるけど、そこまでじゃない。心外だな。
「悪い悪い。そう怒んなって」
「あはは、大丈夫。心配してくれてるんでしょ」
「まあ、な」
 そっぽを向いて翼ちゃんは頭をかく。わかりやすい反応だなあ。
「それじゃ、またね」
「ああ、また明日」
 翼ちゃんに別れを告げて、わたしは病院へと向かった。


「お母さん、今日はね、体育でバスケットボールをやったんだ。それでね、ボールキャッチしようとしたんだけど、うまくキャッチできなくて、顔にあたっちゃったんだ。そしたら、鼻血がすごい出てね、そのまま保健室行き。やっぱり運動は苦手だなあ。お母さんは運動得意だったんだっけ。じゃあ、わたしみたいな経験はなかったろうな~。そういえば、そろそろうちの学校、文化祭でさ、文化祭の出し物決めてるんだけど、やっぱりなかなか決まらなくてね、今日も話し合いで終わっちゃったよ。お母さんはまだ来たことなかったよね。うちは中高一貫だから文化祭のスケールもすごいんだよ。もう圧巻ってやつでさ、今年は来られるといいね、文化祭……」
「……」
 返答はない。元から期待していない。
 お母さんの体からは、たくさんのチューブが伸びていて、まるで人造人間みたい。顔色は真っ青、手足はやせ細って、本当に生きてるのか不安になるくらい。それでも生きてる。手をにぎると温もりがわたしの肌を伝って心まで届く。お母さんは生きてるんだって実感させてくれる。
 お母さんがこんな風になってしまったのは、三年前――わたしが五年生の頃のこと。買い物に出かけたお母さんは横断歩道で車にはねられた。そのとき一命は取り留めたものの、植物状態になってしまった。それからずっとお母さんはこのままだ。納得いかないのはそれよりも、轢いた人間の方。そいつは目撃者がいないのをいいことに、お母さんを残して逃げた。だから、犯人はまだ捕まってない。その犯人が轢いたあとすぐに救急車を呼んでいたら、お母さんはこんな風になっていなかったかもしれないのに。そう思うと、憎い。ひき逃げ犯が憎い。憎い憎い憎い憎い憎……。
「椿ちゃん、どうしたの?」
 声をかけられ、はっと我にかえった。
「看護師さん……」
「いつもなら帰る頃だと思って覗いてみたんだけど……」
「あっ! ホントだ。わたし、帰りますね」
 そう言ってわたしはニコリと笑ってみせる。看護師さんに対しての大丈夫ですよアピール。
「気をつけてね」
 看護師さんも微笑み返してくれた。うまく伝わってくれたみたい。
そのまま病院の外に出ると、どこからか鼻歌が聞こえてくる。あたりを見回すと、その発信源はすぐに見つかった。
 西洋のお人形さんみたいな小さな女の子。小学生くらいかな。夕日に照らされた長い金髪がきらきらと光ってものすごく綺麗。でも、もう秋とは言ってもまだまだ暑いのに、長袖のゴスロリ調の服を着てる。肌はゴスロリの服と相まって、びっくりするくらい白い。その辺にちょこんと座っていたら、本当に人形と見間違えそう。
 その女の子はわたしを発見するなり、満面の笑みで微笑んでくれた。可愛い。手を振って笑い返すと、その子も手を振ってくれた。思わず抱きしめたくなるのを我慢して、わたしは晩ごはんの買い物に行った。


「できた!」
 いろいろあって遅くなっちゃったから、お父さんが帰ってくる前に晩ご飯作り終わるか心配だったけど、なんとか間に合った。
 お母さんが入院から、主に晩ごはんはわたしが作るようになった。朝ごはんはお父さん。そのほかの家事も、完全に分業制。お父さんは働いてるから、わたしの方が家事の分担が多い。お父さんにあんまり迷惑かけられないしね。
 玄関口からガチャリという音の後に、ただいまという声が聞こえる。お父さんが帰ってきたみたいだ。わたしはすぐさま玄関に向かう。
「おかえりなさい、お父さん。ごはんできてるよ」
「ああ、そうか……」
 なんだか、お父さんの表情が暗い。何かあったのかな。わたしは疑問に思いつつ、食卓へ座る。続いて、着替え終わったお父さんも食卓に座った。席についたものの、お父さんは食べようとしない。
「……早く、食べよ?」
「ああ、そうだな」
 やっぱり何かおかしい。何かわたしに隠しごとでもしてるのかな。
「お父さん、わたしに何か隠してない?」
 お父さんはため息をつく。そして、まっすぐわたしを見つめた。
「落ち着いて聞いてほしい」
 お父さんのただならぬ雰囲気に、わたしは声が出せずに、こくりと頷きを返すことしかできなかった。
「お母さんの人口呼吸器を外そうと思うんだ」
 細長い槍のようなものがズブリとわたしに刺さったような錯覚がする。
「これはな、おばあちゃんやおじいちゃんとも話し合った結果なんだ。椿のためでもある。どうか、素直に受け止めてほしい」
 嘘。嘘だ、嘘だ。お母さんが死ぬ? おかしい。そんなの絶対おかしい。
「椿に相談しなくて、申し訳ないとも思ってるんだ」
「……申し訳ないと思ってるなら、何か言ってくれても良かったのに! お父さんはお母さんが好きじゃなくなったの? もうお母さんはどうでもいいの? それにわたしのためって何? わたしのためって言うなら、お母さんを殺さないでよ!」
 そのままわたしは二階へと駆け上がって、自分の部屋へ閉じこもり、ベッドに潜り込んだ。
 わたしだってわかってるんだ。わたしが私立の中学に通ってるから、家計が厳しいんだ。お父さんが今から近所の公立中学に通わせたら、わたしがかわいそうだからって、決めたことなんだ。それに、あの私立中学はお母さんの母校でもある。わたしがお母さんと同じ中学に受かったときお母さんすごい喜んでた。それをお父さんは覚えてるんだ。だから、わたしに学校を辞めさせたくないんだ。頭では分かってる。だけど、ダメだった。受け入れられなかった。お母さんを死なせたくなんかない。どうすればいいんだろう。


 朝起きると、もう朝ごはんが用意してあった。お父さんはいつも、わたしが起きる頃にはもう家を出ている。だから、朝ごはんのラップの上に『昨日はごめん』と書かれた付箋が残してあった。ごめんだなんて、謝らなきゃいけないのはわたしの方なのに。結局、昨日の夜はあれから一切お父さんと口を利かなかった。なんてことをしていまったんだろう、わたし。悪いのは全部わたしなのに……。
 ダメダメ。このままじゃ、学校まで引きずって翼ちゃんに心配かけちゃう。気持ち切り替えて行かないと。明るく明るく。
「よし!」
 一つ気合をいれて、わたしは朝ごはんのパンを頬張った。


「おはよう、翼ちゃん!」
「おう、おはよ!」
 翼ちゃんは朝から腕まくりをして下敷きで胸元を仰いでいた。今日はそこまで暑い気温じゃないのになあ。
「ああ、今日朝練があってさ」
 わたしの訝しげな目線を察してか、翼ちゃんは答える。なるほど、朝練か。確かに暑いわけだ。
「そっかあ、翼ちゃん、県の選手に選ばれたからねえ」
「まあ、一応な。あたしなんかまだまだだよ」
 翼ちゃんはすごく足が速い。さっきも出たとおり、県の代表になるほど速い。それだけじゃなく、運動神経がいいのか、体育では大活躍だ。そりゃあ、女の子にモテるわけだよね、うん。
「謙虚な翼ちゃんかっこいい~」
「その『かっこいい~』っていうのやめろよ。あたしだって一応、女子だし……」
「なになに? 翼ちゃん、可愛いって言ってほしいの? いくらでも言ってあげるよ~。可愛い可愛い翼ちゃん」
「うう……。もういい!」
 あらら拗ねちゃったみたい。まあ、拗ねてるところも可愛いんだけど。
「ごめんごめん。あまりにも翼ちゃんが可愛くてさあ」
「もうやめろよ!」
「あはは、ごめん」
 とりあえず、翼ちゃんには何かあったことを悟られてないみたいで良かった。翼ちゃんを不安にさせたくないしね。


「……でね、翼ちゃんがすごい可愛くてさあ。今度お母さんに会わせてあげたいな」
 本当に、会わせてあげられたらいいのに。お母さんが目をさましてくれさえすれば、こんなにみんな辛い思いはしなくて済むのに。どれだけ願おうとも、お母さんはうんともすんとも言わない。
 チラリと時計を見ると、もう帰る時間。
「そろそろ帰るね、お母さん。またあしたも来るから!」
 そういって病室を出た。
 この日課もあと数日で終わってしまう。もうお母さんに会えなくなってしまう。どうしたらいいの。どうしたら、ハッピーエンドになるの。
 そんなことを考えてるうちに、病院の外まで来てしまっていた。早く買い物しに行かないと。お父さんには昨日のお詫びとして、大好きな唐揚げ作ってあげよう。ちゃんと、謝らないと。昨日は全面的にわたしが悪かったし……。
「ちょっと、貴女」
 どこからか声が聞こえてきた。誰だろう。周りを見回してもそれらしい声の主はいないし……。
「聞こえているかしら? ここよ、ここ」
 下から声が聞こえる? 恐る恐る下をむくと、そこには、昨日のお人形さんみたいな女の子がいた。
 昨日も一人だったけど……。知らないわたしに声をかけてきたってことは、緊急事態か何かかな。
「どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
「馬鹿にしないで頂戴。そんなんじゃないわ」
 やけに偉そうだし、喋り方きついな……。見た目はこんなに可愛いのに。
「じゃあ、わたしに何か用?」
 その子はその問を鼻で笑い飛ばす。
「貴女、魔法使いになってみない?」
 ああ、なるほど。そういうことか。
「魔法使いごっこね! お姉さんは何役をすればいいのかな?」
「そうじゃないわよ、チンチクリン!」
 自分よりチンチクリンな子供にチンチクリンって言われた……。
「言葉の意味どおり、魔法使い、いや、貴女の場合魔法少女というべきかしら、そうね、魔法少女になる気はない?」
 何言ってるのこの子。
「ちょっとお姉さんと病院行く? すぐそこにあるよ?」
 その子は大きくため息を吐いて言った。
「母親を救いたいとは思わない?」
「お母さんを救えるの!?」
 あれ、それにしてもなんでこの子わたしのお母さんのこと知ってるんだろう。いや、今はそんなことはどうでもいい。お母さんを救う方法が先だ。
「分かった! なる! 早くお母さんを治して!」
 もう、なりふり構っていられなかった。
「切り替え速いわねえ……。まあ良いわ。貴女が魔法少女になってくれれば、私も願ったり叶ったりだし」
 その子は一瞬怪しげに笑ったように見えた。わたし、実はすごい危ないものに乗っかっちゃったんじゃ……。
「まあ、魔法少女になるといっても、特別なことは何もいらないわ。この本さえあれば」
 そういって、その子はどこからともなく文庫本を取り出す。
「この本の中にある呪文さえ唱えれば、貴女は魔法を使える」
「そんな簡単なことなの?」
「昔は様々な準備が必要だったけれど、今は魔法も進歩していてね。魔法の仕組みさえわかれば使えるようになるの」
「それじゃあ、何でわたし?」
「魔法使いも人数が減ってきていてねえ。スカウトしても、本当に魔法を必要としている貴女みたいな人しかやってくれなくてね」
 なるほどねえ、魔法使いさんも大変なんだなあ。だけど、わたしにはそんなの関係ない。お母さんを救えればそれでいい。
「わかったから早くお母さんを治して」
「良いでしょう。じゃあ、行くわよ」


「この本のこの部分を読めば良いのよ」
「うん」
 大きく深呼吸をする。本来読めないはずの字が何故か読める。これも、魔法の仕組みとやらを理解したからなのか。口をついて出るのは聞いたこともない言葉。わたし自身、なぜこんな発音をできるのかわからない。
 呪文を言い終わると同時に、本が光りだす。本から出た光はそのままお母さんのもとへ飛んでいった。
「なにこれ……」
「これが魔法よ」
 次第に光が消えていき、何事もなかったかのように辺りが静まり返る。
「本当に治ったの?」
「効果が出るのは数日後よ。それまで待ちなさい」
 お母さんの肌の色はまだ真っ青。何も変わったところはない。本当に大丈夫なのかな。
「今日のところはもう帰りましょう。父親に夕飯を作ってあげないとでしょう」
「そうだ。忘れてた。じゃあ、わたし帰る!」
 わたしは女の子を置いていき、買い物へと走った。


「なんだか、今日の椿はやけに上機嫌だな。何かいいことでもあったか?」
「ふふ、内緒!」
 そりゃあ、いいことはあったさ。お母さんが元に戻るっていうね。でも、わたしが魔法で治しただなんてこと言えないし。これは、翼ちゃんにも秘密かな。
「なんだよ、それ~。教えろよ~」
「別に、大したことじゃないよ」
 いや、大したことなんだけどね。
「大したことないならいいじゃんかよお」
「秘密ったら秘密」
「まあ、いいけどさ~」
 翼ちゃんは頭の後ろで指を組み、そっぽを向く。もう、翼ちゃんはすぐそういう態度をとるんだから。
「本当に翼ちゃんが知っても得しないことだって」
「……まあ、いいことならそれでいいんだけど」
 いつものように翼ちゃんとの会話を楽しんでいたその時。
「椿さん、あっちで先生が呼んでるよ」
 クラスメイトの中山さんが声をかけてきた。教室のドアの方を見ると、確かにそこには先生の姿が。わたしはもっと翼ちゃんとおしゃべりしていたかったんだけど。
 渋々先生の元に向かったところで言われたのは衝撃の一言。
「椿さん、お母様が意識を取り戻したらしいわよ」


 午後の授業は途中で早退した。お父さんに連れられて向かった先はもちろん病院。
 ようやくお母さんとちゃんとお話ができる。この数年間わたしが望んでいたことが叶う。それはもう本当に嬉しくて、わたしはお父さんの運転する車の中でずっとニヤニヤしていた。
 病院に着くとすぐに、お母さんの病室へ向かう。いつもはすぐ終わる廊下も、今日だけは少し長く感じた。もうさっきからドキドキしっぱなしだ。お母さんに会ったら何を話そう。お母さんが退院したらどこに行こう。頭がそんなことでいっぱいになる。
 そのうちに、病室へたどり着いた。一つ深呼吸をして、ドアに手をかける。そして、わたしは思い切ってドアを開いた。
「お母さん!」
 そこには、確かにやせ細って、顔色は悪いけど、しっかりと自分の力で起き上がっているお母さんがいた。
「お母さんお母さんお母さん!」
 わたしはお母さんに抱きついた。なんだか嬉しくて、涙が出てきちゃった。
「どうしたのよ、椿。あなた、そんな甘えぼさんだったかしら」
 久しぶりに聞くお母さんの声はすごく透き通っていた。懐かしい。お母さんの声も、笑顔も、全部。わたしを安心させてくれる。
 だけど、とりあえず甘えるのはおしまい。ちょっと行かなきゃいけないところがある。それに、お父さんと二人っきりにしてあげたいしね。
「ちょっと、外に行ってくるね」
 そう告げて病院の外に出ると、やっぱりいた。わたしを助けてくれた、女の子。
「あら、どうしたの? 何かご用かしら」
 相変わらず鼻につく喋り方するなあ。
「ちょっと、お礼を言いにね。この間は言いそびれちゃったから」
「そんなこと、別に良いのに。私は私で別の目的があったのだから、お互いさまでしょう」
 別の目的っていうのは魔法使いを増やすってやつかな。
「それでも、だよ。改めて、ありがとう」
「今時珍しいはね、礼儀正しい子どもなんて」
「そういう君は今時の子らしく生意気だよね」
「やっぱり、さっきの言葉撤回しようかしら……」
 怒って頬を膨らませるあたりが子供っぽくて可愛いのになあ。何でこんな生意気な子になったんだろう。
「そういえばさ、いつまでここにいるの?」
 魔法使いになってくれる人を探すのなら、できるだけいろんなところに行って、いろんな人にあったほうが効率がいいはず。だったら、もうこの街からいなくなっちゃうんじゃないか。
「しばらくいるわ。まだやり残したことがあるの」
 そう言うと、またその子は怪しげな笑みを浮かべた。この表情のときのこの子はなんだか、怖い。蛇に睨まれたカエルの気分がよく分かるというか……。
「じゃあ、私はそろそろ行くわ。……貴女とは、必ずまた会うことになるでしょうね」
 意味深な言葉を残して、女の子はどこかへ行ってしまった。


 清々しい、朝。用意された朝ごはんを食べつつ、テレビのニュースを見る。
 あれからお母さんの容態は良好で、リハビリも順調。もうすぐ退院できるようになるとか。そしたら、お母さんのご飯がまた食べられる。お母さんとお出かけできる。楽しみ。すごく楽しみ。
「……○×市にて、失踪事件です」
 テレビから、わたしが住んでる市の名前がいきなり出てくるからびっくりしちゃった。でも、殺人事件で犯人が逃走中とかだったら怖いけど、失踪事件とかなら物騒だなあで終わりって感じ。きっと学校に行ったら、この話でもちきりなんだろうなあ。


「おい、聞いたか椿! 失踪事件だってよ!」
 まさか学校に着いてそうそうにその話になるとは思わなかったよ、翼ちゃん……。
「おはよう、翼ちゃん」
「おおう、おはよう」
 まずはあいさつからしようね。
「でさ、朝のニュース見たか?」
「見たよ、もちろん」
「失踪事件って、危なくないか?」
「危ないねえ」
「もしかして、あんまり興味ない?」
「わたしは直接関与してないしね」
「明日は我が身って言葉知ってるか?」
「だって、失踪事件でしょ。ただ単にその人がどっか行っちゃっただけじゃないの?」
 そこまで騒ぎ立てるようなことじゃないと思うけど。
「それがさあ、失踪した人ってのは全く失踪する理由がなかったらしいんだよ。だから、一部では臓器売買のために誘拐されたって噂も……」
「そんなの噂だって。別にそこまで気にすることかな?」
「まあ、そう言われたらそうなんだけどさ。一応、帰り道とか気をつけろよ。噂とは可能性はゼロじゃないんだ」
「全く、翼ちゃんは心配だなあ。翼ちゃんこそ、気をつけてよ」
 わたしはいざとなったら魔法があるから、それで撃退すればいいし。翼ちゃんの方が心配。
「まあ、お互いに気をつけろってことかな」
「そうだね」
 このときのわたしはこの事件を重く受け止めていなかった。


 あれから、数週間。お母さんは家に戻ってきて嬉しい。だけど、失踪事件は連続失踪事件へとその名前を変えていた。わたしの近所に住んでいる人や、わたしの学校の人からも失踪者が出た。
 ――まだやり残したことがあるの。
 そう言った女の子の顔が忘れられない。この事件とあの子は何か関与してるんじゃないか。そう思ってわたしは、ここ数日放課後と深夜はあの子を探し回っている。もしあの子が犯人なら、止められるのは同じ魔法使いのわたしだけ。あの子が犯人じゃなくても、あの子に協力してもらえば、犯人がわかるかもしれない。でも、なかなか見つからない。
「椿! 一緒に帰ろうぜ!」
「あ、ごめん。わたし、今日も行く所があって」
 途端に、さっきまで笑顔だった翼ちゃんの顔が真剣な顔になる。
「椿、何か隠し事してんだろ」
「いや、そんなことないって」
 結構、バレちゃうものだね。
「授業はまじめに受けてるお前が、ここ数日居眠りしてるし、眼の下にはクマできてるし、やっぱ何かあんだろ! 答えてくれよ、あたしはお前の力になりたいんだよ」
 翼ちゃんの気持ちはよく分かる。わたしだって逆の立場なら、こうしてた。でも、こればっかりは巻き込めない。翼ちゃんを、巻き込めない。
「ふふ、心配しすぎだって。最近ハマってる本があってさ、それ読んでて寝てないだけだよ。もう、翼ちゃんわたしのことが好きだからって心配しすぎ!」
 いつも以上に、おちゃらけて。わたしの真意を察されないように。
「好きって……そんなんじゃ……別に……」
「あはは、顔が赤いよ、翼ちゃん」
「だから、お前は茶化すなって! まあ、何もないならいいんだよ」
 翼ちゃんはやっぱり可愛いなあ。こんな可愛い翼ちゃんを巻き込まないためにも、わたしが頑張らなきゃね。
「じゃあ、わたし帰るね。ばいばい」
「ああ、またな」
 翼ちゃんを置いて、かけ出した。


 最近では日もだいぶ短くなって、暗くなるのが早くなってきた。わたしが家に帰るころには、外は真っ暗。
「ただいま~」
 ……あれ、返答が来ない。もう一回。
「ただいま~」
 ……やっぱり、返ってこない。いつもならお母さんがいるはずなんだけどな。買い物でも行ってるのかな。
 まあ、いいや。最近疲れてるし、ちょっとソファに横になろうっと。


 いつの間にか寝ていたみたいだ。時刻は午後十時をまわったところ。なんでお母さんは起こしてくれなかったんだろう。わたしに気を遣ったのかな。
 そのとき電話の着信音が鳴った。お父さんは最近仕事が忙しくてまだ帰ってないだろうし、お母さんもここにはいないみたいだし、わたしがでないとかな。
「もしもし」
「もしもし、針山椿さんのお宅でしょうか」
「はい、そうですけど……」
「あの、私、川北翼の母ですが」
 翼ちゃんのお母さんか。そういえば、一度も喋ったことなかったなあ。でも、その翼ちゃんのお母さんがなんの用だろう。
「そちらに、翼はおじゃましてないでしょうか」
「いえ、いませんけど……」
「そうですか、針山さんのところは行ってくると家をでたまま帰ってきてないですよねえ……」
 まずい。全身から冷や汗が吹き出す。早く、探しに行かないと。
「わたしも他を当たってみますね、それでは」
 受話器を置く。そのままわたしは家を飛び出した。


 とりあえず、翼ちゃんの家からわたしの家までのルートを辿る。
 どこにいるんだろう、翼ちゃん。早く、見つけないと。きっとわたしのせいだ。翼ちゃんを巻き込まないとするばかり、翼ちゃんを逆に心配させてしまったんだ。隠し事は隠し通せていなかったんだ。それで、翼ちゃんはうちを訪ねることにしたんだ。
 どうしようどうしようどうしよう。わたしのせいで、翼ちゃんは……
 そのとき、通りがかった公園で、翼ちゃんの顔が見えた。良かった、無事だった。
「翼ちゃ……」
 ぐちゃり、ぐちゃり。よく見ると、翼ちゃんの左足があるべき場所には夜の闇が広がっている。翼ちゃんの左腕の部分には、耳まで裂けた大きな口を持つ化け物の大きな口があった。翼ちゃんの目は虚ろになっている。
「つ、ば……、き。くる……な」
 怒りがふつふつと沸き起こる。
「わたしの翼ちゃんから離れろ、化け物おおおおおお!」
 本を取り出し、呪文を唱える。すると、化け物は吹き飛んでいった。
「翼ちゃん、しっかりして!」
 わたしはまた、呪文を唱えた。回復の呪文。翼ちゃんの体の傷が癒えていく。
「やはり、また会ったわね」
 現れたのは女の子。やっぱり、こいつが犯人だったんだ。
「よくもわたしの翼ちゃんをこんな目に遭わせてくれたね」
「やったのはわたしじゃなくて、これよ」
 女の子はバケモノを指さした。
「何言ってるの! その化け物に命令させたのはあなたでしょ!」
「違うわ、これが勝手にやったことよ。それにしても……実の娘から化け物呼ばわりとは、これも可哀想ね」
 何を言ってるの、この子は。実の娘?
「まだわからない? これは貴女の母親よ」
 女の子はにやりと笑う。嘘だ、絶対に。違う。あんなの絶対にお母さんじゃない。
「貴女が母親にかけた魔法はね、確かに貴女の母親を植物状態から開放するものだったわ。でもね、代償が必要なの。また植物状態に戻らないようにするためには、他の人間の生命力を摂取しなければいけないのよ」
 嘘だ。そんなの信じない。絶対に。
「だから、貴女の母親が戻ってから、失踪事件は起き始めたの」
「あんたの目的はなんなの? わたしをこんな目に遭わせて、何がしたいの?」
「……実験かしら。今まで植物状態の人間が元の人間に戻った時に、代償として何が必要かなんて誰も調べてなかったし。あ、因みに、貴女を選んだ理由は特にないわ。近親者に植物状態の人間がいるなら誰でも良かったのよ。近親者でないと、あの魔法の成功率が下がってしまうから」
 そんな理由でわたしはこんな目に遭ってるの。お母さんを化け物にされ、友達を瀕死にされて。それが、特に理由もなく?
「許さない。許さない許さない!」
 もう一度呪文を唱える。それと同時に、女の子は炎に包まれる。
そのまま燃えカスにでもなってしまえばいいんだ。燃え盛る炎はわたしのその想いに呼応したかのように、さらに勢いを増した。あっけなく、女の子は灰になった。
「はは、生意気な口叩いてた割には呆気ないじゃないか!」
「私を見くびってもらっては困るわ」
 どこからともなく、女の子が現れた。さっき、確実に燃やし尽くしたはずなのに。一体どうして……。
「そう簡単に本当の姿は見せないわ。あくまでこれは私の人形。変わり身なのよ」
 じゃあ、何度殺しても意味が無いってこと? 本体を叩かなきゃダメってこと?
「そろそろ、私は帰ろうかしら」
「待て! 逃げるな!」
「逃げる? ふふ、違うわよ。この街にいる意味が無くなったの。もう、データは十分手に入れたし。せいぜい、母親と仲良くすることね」
 そう言って、女の子は姿を消した。言葉の通り、すうっと消えてしまった。お母さんや翼ちゃん、この街の人をひどい目に遭わせた元凶を取り逃がした。いつか絶対に殺してやる。しかし、その前にやることがある。この化け物をお母さんに戻すことだ。
 前方から突然、化け物が襲い掛かってくる。今度はわたしを標的にしたらしい。
「お母さん! わたしが分からないの? 目を覚まして!」
 攻撃を避けつつ、お母さんに呼びかける。でも、大した効果はなさそうだ。どうしたら、お母さんに戻ってくれるんだろう。
 化け物と距離をとる。あちらに飛び道具はないし、運動能力も人間並み。いくら運動のできないわたしでも、魔法の補助で十分避けきれるスピードだ。
 よく見ると、そこかしこにお母さんの名残が見て取れた。ヘアピンや、洋服、指輪など、どれもお母さんのものと一緒だ。この化け物は本当にわたしのお母さんなんだと、現実を叩きつけられた気分。だからこそ、一瞬判断が鈍った。距離を詰められているのはわかっていても、足が動かなかった。いつの間にか、化け物に両手足を押さえつけられていた。
化け物の大口が目前に迫る。だけど、わたしは何もできない。魔法を使えばなんとかなるかもしれない。でも、この化け物はお母さんなんだ。攻撃できない。攻撃したら、お母さんが死んじゃう。どうすれば……。
化け物のよだれが、ぴちゃぴちゃとわたしの顔に垂れる。……おかしい。さっきから、化け物は口を開けたままわたしを食べずにいる。それに気づいた時のこと。
「椿、お母さんを殺して。こんなことしてまで、生きたくないわ」
 その一言を言い終わるまでの一瞬の間だけ、元のお母さんに戻った。多分、今この化け物がわたしを食べずにいるのは、化け物の中にいるお母さんが必死に止めてくれているんだ。でも、それでも、お母さんを殺すなんてわたしにはできっこない。何かお母さんを生きたまま救う方法があるはず。早く探さないと、お母さんが止めてくれるこの間に。……でも、そんな方法、あるの? あったらもう試してる。何も思い当たらないから、こうして苦しんでるんだ。わたしはどうしたら……。
「早く!」
 また一瞬、お母さんに戻る。そして、その言葉を聞くと同時に、わたしは唱えていた。化け物――お母さんを殺す魔法の呪文を。


  ―――


「見て、翼ちゃん。空がすっごく綺麗だよ」
あれから、数週間。お母さんの葬式も一段落ついたころ。わたしはあいも変わらず、病院に通っていた。違うのは、理由が翼ちゃんのお見舞いのためってこと。
翼ちゃんは左足を失った。こればっかりは、魔法でもどうにもならない。翼ちゃんはもう走れない。もちろん、県の代表も取り消し。今は、まだ怪我が完治していないから、入院している。
「あの雲、なんだか日本みたいな形してない? ほら、あれ!」
 翼ちゃんの車椅子を押して、わたしは病院の屋上に来ている。翼ちゃんの気分転換になればと思って。
「これだけ晴れてると、もう秋も半ばなのに気持ちいいね」
「……」
 無言で返されるのには慣れてる。お母さんの時から、ずっとそうだったから。
翼ちゃんの目は虚ろで、きっと空なんか見えてない。わたしにも、あまり話しかけてくれない。それも仕方ないことだけど。
「なあ、椿」
 珍しく、翼ちゃんの方から話しかけてくれた。
「うん、なになに」
 こんなこと滅多にないから、わたしはいつもよりも元気に聞き返す。
「あたしの命を救ったのは、お前なんだよな」
「……うん」
 翼ちゃんは、わたしが不思議な力を持ってるって知ってる。それに、わたしが翼ちゃんを治したことも。
「何で、救ったんだ?」
「え? どういう……」
「あたしは走るのが好きだった。走るのだけが生きがいだった。でも、もうこんなんじゃ走れない。そんなの、生きてる意味ねえよ。あのとき、いっそお前があたしを救ってなかったら、こんな想いもしなかったはずなんだよ。……なあ椿、何であたしを助けた! 見殺しにしてくれて良かったのに!」
「そんな……」
「じゃあ、今殺してくれよ。早く! さあ、早く! お前の不思議な力とやらでさあ!」
「……できないよ、そんなこと」
 一度、大切な人を殺してるわたしだ。もう、あんなことしたくない。あんな思いしたくない。
「……もう、病院に来ないでくれ。お前といると、辛い」
 そう言い残して、翼ちゃんは一人で病室に行こうとする。
「翼ちゃん、一人じゃ……」
「うるさい! お前なんかの力は……いらない」
 手助けするにもできず、わたしは翼ちゃんがエレベーターに乗るのを、眺めていることしかできなかった。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。わたしはただ、物語のヒロインのように、ハッピーエンドで終わるように頑張ってきたのに。どこからおかしくなってしまったんだろう。どこで道を間違えてしまったんだろう。
 いや、全部わかりきったことだ。すべて、わたしがあの女の子と出会ってからおかしくなったんだ。絶対に許さない。あの女を。絶対に見つけだして、なぶり殺してやる。それも、わたしと同じ苦しみを味あわせたあとで。
 もう、わたしのこの物語はハッピーエンドなんかでは終わらない。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


日常の感情

 季節は春。松本鉄平は高校一年生になった。春の高校一年生と聞いて、何を連想するだろうか? 新しい環境、人物への期待や不安? 残念ながら、彼が抱いているのはそんな感情ではない。なぜかって? その理由は、鉄平が中高一貫校に通う高校一年生だからだ。同じ学校に通ってもう三年が経つのだ。クラス替えはあったけれど、中学校から高校に変わったほどの変化はない。そんなわけで、彼はあまり新鮮でない気持ちを抱いて学校へ向かっている。



 鉄平は電車に乗って通学している。家の最寄り駅から電車に乗って、数駅で学校にたどり着く。電車の窓の外には、見慣れた景色が広がっている。大手のコンビニ、予備校の看板、チェーン展開のファミレス……。ありきたりの街の光景が彼の目に映る。数日前、いや一、二年前と変わらない風景がそこにあった。

「次は……駅。お出口は左側です。……線ご利用の方はお乗り換えです。」

 電車のアナウンスが流れる。鉄平は若干眠気を感じながら、開いたドアを通った。



 駅から約五分歩くと学校に到着する。ただ、登校する途中には上り坂がある。登校時間ギリギリに駅に到着すると、汗と苦労が凄まじいことになる。登校する時は苦労して坂を上り、下校する時は楽に坂を下る。鉄平はゆっくりと坂を上っていった。坂の上にある学校の校門をくぐり、周囲に木々が生えているグラウンドの脇を歩く。教室まではもうすぐだ。





 授業が始まった。見慣れた先生が教科書の例題を解説していく。授業の内容は高校の数学だけれども、教える先生は中学生の時に習ったことがある先生だ。数式が黒板に次々と書き加えられていく。鉄平はノートに板書を写して、窓の外を見ながら、ぼんやりと考え事をしていた。窓の外の景色には、グラウンドで生徒がバレーボールをしている様子が見える。体育の授業なのだろう。体操着のジャージから判断するに、中学一年生なのだろう。鉄平は、中学一年生の時の自分や今の自分について少し考えた。中学の三年間がもう過ぎ去って、高校生になって数日が経ってしまった。中高の六年間もあっという間に過ぎてしまうだろう。六年間を短いと感じるのなら、大学の四年間はもっと早く過ぎ去ってしまうのではないか。考え事をしていると、いつのまにか時間が経ち、数学の授業が終了した。チャイムの音がやけに大きく彼の耳に響いた。

 

 現代文の授業の時間になった。現代文の授業では、何人ものクラスメートが雑談を楽しんでいる。特に教室の後方から、にぎやかな話し声が聞こえる。先生が厳しく注意をしないからだ。あるいは、現代文は日本語だから勉強しなくても問題ないと思っているからかもしれない。ただ、鉄平は雑談に加わらず、数学の授業と同じように、ノートをとっていた。消極的で、周囲に心を開くことが苦手なのだ。話をすることが不得意で、何を話せばいいかわからなくなってしまうのだ。雑談に興じるクラスメートを見て、自分もあんな風になりたいと思うことがある。自由に、楽しそうに話せるように。けれども、自分が積極的になれることはおそらくないのだろう。十五年間生きていると、なんとなく分かってきた。



 昼休みになると、鉄平は弁当の包みを開いた。教室を見渡すと、あちこちに人の集まりができていた。新年度が始まったばかりだからなのか、中学三年の時に同じクラスだった者同士がグループをつくっているところが多い。カップルで昼食をとっているのも見られる。鉄平は消極的なので、あまり人と話さない。特に女子とあまり話さない。男子校に通っていたとしても、学校生活にたいした変化はなかったと思う。弁当を食べていると、河田がパンとミルクティーを持って、話しかけてきた。

「弁当いいなー。うらやましい。」

「そうか? 毎日似たような中身だぞ。」

ご飯を口に運びながら答える。

「いやいや、今米食べたい気分なんだ。」

河田が購買部で買ったパンの包装ビニールを破きながら答える。

「ご飯少しあげるよ。」

そんな風に雑談をしていると、チャイムが鳴って昼休みの終わりを告げた。





 午後の授業が終わると、鉄平はグラウンドへ向かった。彼は硬式テニス部に所属している。中学一年の春から入部している。中学からテニスを始めた理由に、苦手な運動を克服するためということもあった。ただ、運動はあまり得意にはならなかった。また、テニス歴三年ということになるけれど、そんなに上手ではなかった。

 グラウンドのそばにある更衣室でウェアに着替える。グラウンドに着くと、部長が練習開始のコールをした。準備体操を終えると、コートでの練習が始まった。コートで向かい合ってラリーを始める。ラリーの順番を待つ部員たちはグラウンドの端に並ぶ。グラウンドの周囲にある木々の横に並ぶ。鉄平もグラウンドの端に立って、ラリーを眺めていた。彼はラリーを見るのが好きだ。人が打ったボールに一つとして同じボールはない。速いボール、緩い軌道のボール、回転がかかったボール……。同じ人が打っても、二度と同じボールを放つことはない。多様なボールを見ていると飽きない。ラリーをしている部員が三回ミスをしたら、次の部員に交代していく。鉄平が打つ番になった。

 鉄平はサーブをすると、すぐに体勢を整えた。三球目をフォアハンドでボールを打つ。相手がボールをバックサイドに返す。  鉄平のバックハンドの返球はコートのラインを越えて、アウトになった。

「松本、お前、バックハンドミスるよな。いつもミスってばかり。」

 川上が何気なく言った。さっきラリーをしていた相手だ。その瞬間、鉄平は怒りを感じた。けれども、怒りを外見には表さなかった。

「そうだな……。練習しとくよ。」

 鉄平はそう答えただけだった。グラウンドの端に行って、木に寄りかかった。そして、部員たちのラリーを眺めながら考え込んでいた。



 鉄平は自分のなかに狂気があることを知った。ちょっとしたからかいに対して自分が怒り、憎むことを知った。何気なく言葉を発した相手を敵視したのだ。その狂気は下賤なもので、相手への攻撃を引き起こしうるものだった。

 鉄平は自分に絶望したのだろうか。彼には高い能力があまりなかった。人と交流する社会的能力も、スポーツに重要な運動能力も低かった。自分に何か高い能力があるという期待をしていたのだ。心の能力が高いと期待していたのではないだろうか。自分に狂気があることを知って、自分に失望したのだろうか。いや、その狂気を抱えて生きていこう。狂気をコントロールし、時に狂気に翻弄されて生きてゆくのだ。



 再び鉄平が打つ番になった。彼はレシーブの構えをして、相手が放ったボールの行方を見据えた。夕日のオレンジ色の光がボールとコートを照らしていた。強い風が吹いて、オレンジ色のボールとグラウンドの周りにある木々を揺らした。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


神は祈りに応えます。

 海のどこかに大きくも小さくも無い、自然の豊かな島があります。そんな島にある日、一艘の船が流れつきました。
 船には生まれ故郷を追われた人たちが乗っていました。彼らは信仰を認められずに迫害を受け、ついには海へと逃げ出さなくてはならなくなったのでした。
 神は人のすることに手は出さないと、数千年前に決めましたが、彼らの信仰はいと高き所へ在るこの神にも届く物でしたから、少しだけ、彼らに手を向けてやろうと思いました。
 まずは、彼らを安住の地であるこの島へ導きました。この島には人はいないので、彼らの祈りを妨げるものは何もありません。

 彼らは島での安寧に感謝して祈りました。神は満足します。

 森には動物がいました。当然、猛獣もいます。彼らのうち何人かは猛獣に喰い殺されてしまいました。彼らは猛獣がいなくなるように神に願いました。幼い息子を失った母の悲痛な祈りを神は聞き届け、猛獣を消し去りました。

 彼らは身の安全に感謝して祈りました。神は満足します。

 島には果樹が繁り、端の方には少ないながらも麦の自生する場所もありました。彼らは土を耕し、麦を増やそうと努力していました。
 夏季になると、この島は雨がよく降ります。彼らの故郷はどちらかというと寒く、雨もあまり降りませんでした。神はそのことを思い出すと、雨を止めました。しかし今度は渇きが彼らを弱めました。麦も枯れてゆきます。彼らは雨よ降れと天を仰ぎます。喉の渇きで声も出ない彼らの叫びを神は聞き取り、再び雨が降るようにしました。

 彼らは雨に濡れながら感謝をささげました。神は満足します。

 雨による湿度と、夏季の暑さは蚊を発生させます。それは病を運びました。彼らの多くが病に倒れ帰らぬ人となりました。何人かがこれは試練だ、我々の信仰が足りなかったのだと云い、彼らはより厳しい宗教生活を送るようになりました。

 彼らはより信仰の熱信を深めました。神は満足します。

 彼らが島に来て十年以上が経ちました。島に来た頃の子どもは大人になり、また何人もの子供が増えていました。
 しかし島の緑は少なくなっていました。肉を喰らう猛獣を消したことで草食獣が増え、草木を減らしていったのでした。
 彼らを指導する立場にあった何人かは森の共有地を独占しようとしました。何人かは草食獣に脅かされる畑の番を請け負うことで対価に収穫の配分を増やすようにと主張しました。
 ごく一部は、生活が厳しいのは試練だ、我々はまだ信仰が足りなかったのだ、規律を厳しくせよ、と求めました。大部分は厳しすぎると反対しました。
 こうして彼らは意見をたがえ、神に祈ることも忘れて争いあいました。そうしていよいよ争いがどうしようもなくなった時に、彼らの皆が、「神に敵対する不信心者に罰を」と祈りました。
 呆れた神はそれでも皆の祈りにこたえることにしました。平等に罰を与えることにしたのです。雨はまた降らなくなり、病が広がり、再び肉食獣が現れて彼らを襲いました。
 彼らは絶望に嘆き、悲しみ、憔悴して、神に救いを求めてすがりましたが、神はもうこたえようとは思いませんでした。そうしてすぐに島は無人島へと戻りました。
 人の声が途絶えた後、静かになった島からは別の声が聞こえてきました。それは果樹が、麦が、草食獣が、肉食獣があげた安堵の声でした。

 彼らは島の安寧に感謝して祈りました。神は満足します。

 これで良いのです。
 神は何もしなくて良かったのです。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


タイムマシン

 僕は縁側に出て、過ぎ去る電車をあおぐ団扇越しに眺めていた。特に意味はない。えてして夏休みの最後などとはそういうものだろう、という見解の上での縁側だ。どうせ周りには田畑ばかりが広がっていて、どこかへ行くためにわざわざ駅まで自転車を駆らせる気力も、遊びに誘う相手もいない。いや、実際にはいるのだけれど、ここ一か月ちょっと、つまり夏休みの間はまったく連絡が付かいままである。
 一本の青いラインを線路に残して、電車がまた過ぎていく。
 蝉の鳴き声も、景色を歪める陽炎も、ときどき顔のそばをすり抜ける風も、飽きるほど感じていた。それが改めて夏を感じさせてくれた。そばに置いておいたコップを取り上げると、結露した水滴で底の円が古びた木に形を残した。
本当ならこんなに退屈にはならなかったはずだ。もう乾き始めている水滴の円形の向こうに放ってある携帯電話をちらと見て、思わずため息が漏れる。水を一杯あおって冷えた息を宙に吹きかける。
 一本の青いラインを線路に残して、先ほどとは反対の方向に電車が走る。
 過ぎ行った後、携帯電話がバイブレーションで、待ちかねていた着信を僕に知らせていた。
「これ見てほしいの」
 待ち望んでいた声だった。
「全然連絡してなかったから、あれだけど。でも、見てほしいの」
 興奮気味に声は上ずっていて、こちらから何とも言う前に早々に切ってしまった。余響に残された僕の思考は、なんにせよ自転車に乗らなければいけなかったようで、数分後にはあぜ道を駆けていた。
 蝉の鳴き声は、道の先に群がる陽炎は、僕の景色に映っていなかった。
 とにかく風が心地よかった。
 

 彼女のラボは、学校が提供してくれている学校付属の研究室のことなのだが、常に用途のわからない部品が多く転がっている。夏休み中没頭していたおかげで、今は足場が見当たらないほどになっていた。
 冷房が効いていて、部屋はかなり冷えていた。外の暑さから完全に隔離されていた。
「こっちこっち」
 積まれていた部品の山をかき分けて覗いた手が僕を招いていた。なるべく、なるべく踏みつけないように僕は進む。
「ほらっ」
 手を広げて彼女は目の前のマシン、楕円形のカプセルのような装置を、満面の笑顔で紹介する。
「タイムマシンよ」
「これが?」
 言われてみてもパッとしないその機械を、僕は訝しんだのだけれど、疑問も疑惑も彼女が笑顔でいるうちに消えてしまった。いつもそうだ。僕は彼女の発明品の詳細をわからないけれど、彼女の笑った顔でどれだけすごいものなのかわかってしまう。疑う必要も同時になくなる。
「そっか」
 特に意味はないのだけれど、僕はその機械を観察するように周回する。回る僕の背中を追うように、面白がって彼女は付いて歩く。
「世界初だろうね」
「たぶん」
「もう試したの?」
「うん、ハムスターから犬まで。それで全部成功」
「じゃあ、完成してるんだ」
「まだよ」
 そう言って腕にしがみついてきた彼女は上目づかいに僕を見る。冷房の中、久しく感じられた人肌の暖かさが気持いい。
「人で試さないと。実用出来るっていうのは、人でも安全だっていう実証が必要なの」
「なるほど。それで僕か」
「ひ、ひとりでじゃないよ」
 慌てて目を丸くして彼女は否定して、精一杯しがみついた僕の腕に力を入れる。
「あのね、私たちが、最初の被験者になるの」
彼女は重そうに閉じていたタイムマシンの扉を開いて、中からデジタル時計のような機械を取り出す。
「どこに行くの」
「夏休みの前まで」
 機械をのぞいたときの顔で、改めて僕の目を見る。
「もう一回夏休みをするのよ。八月一日から、もう一か月」
 ほとんど物置場としか利用価値のない机には、彼女の読みそうにもない旅行雑誌が、うっすら埃をかぶって積み上げられていた。その部分だけ、小さな時間の差が見えていた。
「だって、何もできなかったんだもの」
 やっと聞こえる小さな声で彼女はこぼす。
「前々からああしたいこうしたいってずっと思ってたし、第一あたしだって最初はこんなにのめり込んじゃうなんて思わなかったし、ずっとずっと気付かなかったっていうのはたしかにそうだけど……でもあたしだって――」
 彼女の自制していた感情が溢れつつある。何でも抱え込んでしまうから、自分の性格の不条理を知っているから、止め処なく流れてしまう。
「ねえ」
 僕はそっと小さい身体を寄せる。
「そんなに悪いことじゃないよ」
「どうして」
 ちょうど彼女を僕の胸に埋めていて、身体に響いて声が伝わる。
「そういうものなんだから」
 しばらくの沈黙があった。落ち着いたのか、僕の言葉を考えているのか。どちらにしろ、彼女だからきっとわかっているはずだ。
「うん」
 胸に響いて言葉が通じる。
「わかった」
顔を上げて僕を見る。性格そのままの瞳が僕を捉えていた。笑っていた。
「じゃあ、明日は?」
 当然、と言わんばかりの、得意げな表情になる。
 やっぱり変わらないな、と僕は思う。
「九月一日」
 そういえば、始業式だった。

第二十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


| TOP |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。