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さらし文学賞
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眠れぬ夜


 おやすみなさい。ぼくは寝る。布団に横たわる。寝室はお兄ちゃんとお姉ちゃんとおんなじで、お母さんがおやすみなさいを言って出て行ってから、ぼくは目をつむって寝ようとする。寝ようとするけど、夏の、特に今日なんかはとってもジメジメしててドロドロしてる夜だから、全然寝れない。お母さんが窓を網戸にして開けてくれたけど、風なんて入ってこないし、居間にある扇風機を持ってきてほしいのに、うちには一台しかなくて、それをお母さんとお父さんが使ってしまっているからぼくたちは使えない。だから、昨日もおとといもそうだけど、寝ようと思う気がなくなってしまって困る。だけど、お兄ちゃんなんかはDSとか持ってて、布団の中でずっとやってたりする。掛布団全体から薄く光が漏れているので、ここにお母さんがきたならすぐに没収されてしまうだろう。ぼくはまだ小さいと言われて買ってもらえなかった。お兄ちゃんばっかり買ってもらってずるい、とは思うけど、どれだけ喚いても買ってもらえないことがわかったからもうぼくは無理に買ってもらおうとは思わないことにした。自分でお金を貯めればいいんだ。お兄ちゃんの次にはお姉ちゃんがいろいろ買ってもらっていた。お姉ちゃんはお父さんの書斎から勝手に電気スタンドを持ってきて、漫画をずーっと読んでいる。なんで飽きたりしないんだろう。ぼくには不思議だけど、お姉ちゃんは夜もずーっと漫画を読んでるから、お姉ちゃんも寝ることに困ってない。お兄ちゃんも困ってない。困ってるのはぼくだけだ。寝れない。寝れない。寝れない。窮屈な感じがとっても苦しい。
 ときどき窓の向こう側から声が聞こえてくる。だいたいは談笑。はっはっは。談笑。ほほほ。談笑。聞こえるのは声がぼくより低くて野太い大人の男の声。と、おばさんの声。たぶんお隣の前田さんだ。朝登校するとき、ふたりでランニングから帰ってくるときにちょうど会って、いつもいつも挨拶したら笑顔で挨拶し返してくれる。とってもいい人だ。ときどき、食べ物をうちに持ってきてくれるのだ。うちからも、どこかに旅行へ行ったら、だいたいお土産を前田さんのうちに届けるようになっていた。届ける役割はだいたいぼくと、お兄ちゃんかお姉ちゃんのどちらかだった。こういうときばっか、ぼくに仕事を押し付けられるけれど、前田さんは好きだから全然いやじゃない。届けに行くとお菓子をくれたりして、やっぱりいい人だ。何を話してるんだろう。部屋まで届く声はだいたいちょっと張っている大きな声だけだから、会話の中身はまったく聞こえない。そんなに楽しいことなのかな。どんなお話なのかな。ぼくも交じってみたいな。前田さんのうちに入ったことは数回ほどしかないけれど、装飾がとってもきれいで、うちのようにレイアウトに頓着ないお母さんがなにもしないようなのとは全然違って、もう全然違って、壁の高いところにはシカみたいなシカじゃない動物の頭とか、目つきの怖いタカが飾ってあったりして、本当にびっくりした。一番のお気に入りだよって見せてくれた大きなクマは、怖くてあんまり好きじゃないけど、そのあとに前田さんがやさしくしてくれたからやっぱりいい人だ。でも、お兄ちゃんもお姉ちゃんもそんなに好きじゃないみたい。お土産を届けるのをいやがったりする。どうしてだかよくわからない。
 さっと、窓から風が吹いて入ってきた。そよ風でも、今はとっても気持ちいい。でも、またすぐに暑さに苦しくなる。寝返りを打って、背中とお腹を入れ替えてうつ伏せになる。少し楽になるけど、またすぐ苦しくなるから、同じようにまた寝返りを打って、またすぐ苦しくなる繰り返し。そうしているうちにまた、風が吹いて入ってきた。すっと、ちょうどうつ伏せになっていたぼくの背中をひんやり冷やしてくれた。と、一緒に遠くから笛の音が聞こえてきた。《ピュー》なんだろう。ぼくが習っているリコーダーなんかよりもっと高い、澄んだ、清らかな、静かな、キレイな音が、ほんの小さく聞こえる。音が心地よくて、ぼくの心臓がふわっと持ち上がった。途切れると、またしばらくしてから笛の音が窓から入ってきた。《ピュー》ふわふわと、浮いたような感じになって、寝れる前みたいな、とっても寝たくなってきたみたいな、このまま、ゆっくり、寝れるのかな。
 目をつむる。何も見えないけど、笛の音は聞こえる。
 このまま寝ちゃえ。
 でも、やっぱり苦しくて、うつ伏せの状態から体を捻って横になろうと寝返りを打った、と思ったのに、何か柱みたいなのに当たってもとのうつ伏せの状態に戻された。寝室に置いてあるのはタンスとか本棚とかだけど、その当たったものはふさっとしてて、毛むくじゃらで、おおう、前田さんのうちでみたあの大きくてものものしいクマの脚なんだと、とっさに思った。
 やばい。食べられる。
 寝たふりをしなければ、食べられる。
 あんまり音を立てずに、静かにしてなければいけない。ジュラシックパークを見たから、動いたら食べられてしまうというのは知ってる。だから、動いちゃいけないんだ。動いたら食べられる。息を止めた。でも、すぐに息苦しくなって息を思い切り吐きそうになるけど、そうすると大きな音が出る。だから、ゆっくりゆっくり、丁寧に呼吸する。少なくとも、寝ているように見えるはずだ。
 クマはぼくのそばにずっと立っていた。動く様子はない。顔を近づけて臭いをかぐこともない。もしかしたら、人間なのかもしれない。泥棒なのかもしれない。強盗なのかもしれない。でも、じゃあ、ぼくをずっと見下ろして、何をしようとしているんだろう。いや、ぼくを見ているんじゃないのかもしれない。そうだ。この寝室にはお兄ちゃんもお姉ちゃんもいて、ふたりとも明かりで居場所がわかるじゃないか。ふたりが危ない。でも、ぼくが動いたってどうしようもない。なにもできない。ぼくは寝たふりをする。のそり。ドン。クマがぼくをまたいで、一歩、ぼくの頭の方向で漫画を読んでいるお姉ちゃんのほうへ近づいたようだった。でも、お姉ちゃんの悲鳴も、逃げる動作も、ページを捲る音しかしないから、きっとまだ漫画に夢中で気が付いてないんだ。のそり。ドン。クマがまた一歩動いた。ぼくは寝相が悪い体でもそもそと動いて、反対に向いていた頭をふたりと、クマのいるほうへ向ける。向けてから、薄目を開けてみる。あんまりはっきりとは見えないけど、スタンドのはっきりした光と、布団から漏れる薄い光で、お姉ちゃんとお兄ちゃんのいる場所はだいたいわかる。その手前に、大きな大きなクマがいることも影でわかる。やっぱり、前田さんのうちでみたクマくらいの大きさだった。
 クマはスタンドではっきりした明かりのほうへまた一歩進んだ。そうして、ぼくのときのようにお姉ちゃんの横に立って、漫画に夢中なお姉ちゃんを見下ろしていた。ぼくのときでもそうだったけど、そばで立って何をしているのか。ただ横たわるお姉ちゃんの姿を観察しているようにしか見えない。
 食べるのかな。食べないのかな。ぼくが思っているうちに、クマはゆっくり動いて、お姉ちゃんの身体をまたぐようにしてスタンドの前に立ち、大きくて太い腕をお姉ちゃんの頭があるだろう場所に沈める。ぐぬ。くぐもった声が聞こえる。お姉ちゃんの掛け布団が一度踊るように跳ねて、遮られたスタンドの光が揺らめいて、全てが静かに元通り収まった。のそり。クマが身体を傾かせると、スタンドの明かりが落ちる。消したのだろう。寝室の光量が急激に減って、静けさが一段と増したように思える。
 クマはそれが自然であるが如く、次の標的である掛け布団の薄い光へ一歩進む。微弱で希薄な光が、その動く影を肥大化させて寝室の天井から壁の至る所にまでのさばらせる。のそり。実体が動く。クマはお兄ちゃんの横まで移動し、でも今度は観察することなく、またぐことなく、盛りあがった布団へ覆いかぶさる。ぐぐぐぬ。掛け布団がお姉ちゃんのときよりも高く跳ねあがって、それも何度か跳ねあがってから、薄い光は急に消える。静かになる。そうして、やっと窓から差し込む月明かりの青白い光に気が付いて今日が満月なんだと知る。
 《ピュー》遠くから笛の音が、窓へ流れ入ってくる。風のようでもあるが、風は吹いてこない。応じるようにクマはお兄ちゃんの布団から起き上がり、ドスドスと、月明かりの中を窓に向かって歩いて行く。
 出て行くのだろうか。ぼくは薄目をもう少し開けて、その様態を確認しようと顔を上げる。と、クマはぼくの目の前で動きを止めた。
 ばれた。
 目を閉じる。
 息が荒くなる。だめだ。荒くなってしまったら、音が漏れて寝たふりがばれてしまう。必死に息を整えようとして、すー、吸って、はー、吐いて、ゆっくりゆっくりと、寝ているときというのは自律神経に頼って呼吸するわけだがその自然体である呼吸法を意図的に再現するのはむしろ自律神経を自らによってコントロールするということであり丁寧に呼吸をすべきであるのだがコツは息を吐く時間を長くすることで睡眠時と同様の自律神経による人間の生来持ち合わせた呼吸法を得る。毎分十八回程度の呼吸を毎分四、五回程度まで抑えるのが睡眠時であって、つまり一度の呼吸に十五秒程度もかけるのだが子供はそれよりも若干早いインターバルで呼吸を繰り返す。すー、吸って、はー、吐いて、ゆっくりゆっくりと、息を多くは漏らさず、さりとて不自然なほど殺すこともなく、ただただ目立たぬようにそこへ寝ている様子を演じる。客観的な寝姿というものはビデオでも撮ってない限り自分で確認できるものではない。それ故に、如何に可笑しな体勢で寝ているのかも知らない。わからない。知る術はない。
 ドスドスと、目をつむったぼくに足音が聞こえ始め、窓から出ていった気配を捉えた。
 それでも、つむった目を開けるわけにはいかなかった。目を開けたとき、目の前にクマの顔があったらどうするのだ。もしかしたら、出て行ったふりをしただけで、ぼくが寝ているかどうかを確かめるためにこの寝室へ止まっているのかもしれない。目を開けたら食われてしまうじゃないか。目を開けちゃいけないんだ。
 静かで何も聞こえない。何が起こっているのかもわからない。
 音と言えば、虫の鳴き声だけだ。さっきは気付かなかったけど、外ではたくさんの虫が鳴いている。ずーっと鳴いてるから、虫が鳴いていることに気付かなかった。そんなことはよくあることだと思う。ぼくもずーっとこのままでいれば、ずーっと寝ていることになるんだろう。寝ているふりはきっと、本当に寝ていることと変わらなくなるんだろう。ぼくは今も夢の中にいる。次に目を開けたときはきっと朝になっていて、そのときにはスタンドの明かりも、DSの光も、青白い月明かりも、全部呑んでしまうような太陽がのぼっているんだ。ぼくの夢も太陽の真っ赤な光に呑まれて、何にもなくなってしまうんだ。そうして、ぼくの世界は音だけで支配される。必要なものだけでいい。不必要なものは切り捨ててしまえばいい。
 だけど、苦しくて寝返りを打ちたくなる。目を開けてみたくなる。薄目を開けてみることも考える。どうなってるんだろう。お兄ちゃんとお姉ちゃんはどうしたんだろう。クマはどこにいるんだろう。目を開けようかな。開けても大丈夫かな。見てもいいのかな。いいよね。
 のそり。目の前で動く気配がした。
 びく、と身体が震えた。震えたあと、震えたことが悟られていないか、どうか。心臓にドクドクと血が流れている音が聞こえないか、どうか。体勢が変わっていることを悟られていないか、どうか。痛いほど血が頭に流れて、いやな可能性に全身をガチガチに縛られた。やばい
やばいやばいやばいどうしよう。何かしないと。逃げないと。どうにかしないと。でも。どうすれば。
 ぼくが不安で縛られている間に、クマだろう何かがドスドスと窓のほうへ歩いて行く気配がした。そして、今度は窓を開ける音がして、閉じられる音がして、音は虫の鳴き声しか聞こえなくなった。さっきと同じだ。
 もう大丈夫だろう。出て行っただろう。でも、大丈夫だと思っているからこそ、開けることは危ない気がする。だって、現にさっき危なかったじゃないか。大丈夫だと思っていたから、危なかったじゃないか。
 そういえば。
 いつの間にか、前田さんのうちのほうから、もう談笑は聞こえなくなっていた。笑い声は消えていた。さっきまでここにいたクマは、きっと前田さんのうちの元いた場所に戻ったのだろう。ということは、少なくともクマは前田さんのうちへ入ったはずだ。もしかして。前田さんは。クマに。あのおじさんも。あのおばさんも。クマに。
 寝返りを打つふりをして、顔だけ壁のほうに向ける。ぼくは寝ているんだ。寝ている以上、目は開けない。夢から覚めない。寝ているんだ。寝ているんだ。そうだ。虫の音も聞こえない。何も聞こえないんだ。風も感じない。ぼくは寝ている。暑苦しくても、布団を剥いでも、ぼくは寝ている。朝が来るまで。明日学校に行くまで。いつもの太陽がのぼるまで。
 ギィと、寝室のドアが開く軋んだ音が聞こえる。誰かがまた、この寝室に入ってきた。心臓がまた跳ねる。誰だ。別のクマか。いや。お母さんかもしれない。でも、まだクマがここにいたら。お母さんは。でも、やっぱりぼくはどうにもできない。目をつむる。つむったまま、寝たふりをする。「あーあ、布団剥いでるじゃない」あ。お母さんの声だ。起き上がってみると、顔がはっきり見えないけれど、青白い月明かりにうっすらお母さんの姿が浮かんでいた。まわりを見回してみるけど、クマなんてどこにもいないし、お姉ちゃんもお兄ちゃんも、明かりを消して布団にもぐってしまっている。「暑くて寝付けないのね」お母さんがかがんで優しく微笑みながらぼくの顔をのぞく。「大丈夫かしら。眠れるの」どうだろう。ぼくは今まで寝ていたのに、起きてしまったのだから、もう一度寝るのは大変だ。「じゃあ、お母さんのとこで眠る」うん。お母さんの部屋にはお父さんもいて、その部屋だけ冷房がある。お母さんたちは夜はタイマーをかけて冷房を効かせているから、きっとよく寝れるだろう。「おいで」お母さんはぼくに手を差し伸べる。その手を取って立たされ、手を引かれて寝室から離れる。寝室を出る前に振り返るけど、お姉ちゃんもお兄ちゃんも、ぴくりとも動かずに布団にこもっている。窓に取り付けられた網戸の向こう側、ちょうど見えるお隣の前田さんちの居間の明かりは消えていて、そこで何かが動く気配など寸ともしない。ただ静かな夏の夜だった。寝苦しくないから、きっと今度こそ朝まで寝れる。

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第二十三回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


壁の奥の例外の例(ためし)




 智子は、齢十歳である。光が丘小学校四年生、最近の学校は最悪であった。いつもつるんでいる明味ちゃんが脚を骨折して二カ月入院してしまったからだ。智子は近所の図書館に入り浸って、「ゾウの時間 ネズミの時間」とか「シロの天文台日記」とか「シートン動物記」を読み漁るタイプの女の子であったから、当然のごとく学校での交流の幅が広いとは言えなかった。給食は班で食べるからいいようなものの、休み時間が実に不便である。もう少しで夏休みになる。七月に入ってしまえば学校はほとんど給食を食べずに帰れる。それまでの辛抱だと思いつつも、なんだかなぁな日々は続いていた。
 そういうわけで学校が終われば速効帰りたかった。幸いなことに、少しばかり近道をすることができる回り路がある。変に日当たりがよくて、白いコンクリ壁がまぶしい下り坂だ。一軒家が並び立っていて、人通りも少ない。……坂道が行き止まった後、フェンスを越えて荒れた空き地を横断という野蛮なハードルが待ってはいるが、正規の通学路を行くよりも20分ぐらい早く帰れる。帰り道で話す子がいない日々が続いているため、智子は連日せっせと帰宅路ショートカットに勤しんでいた。
 「シキョーケン」とかいう謎の行事で早く帰宅できる水曜日のことだった。智子は路地に入る前に悩んだ。今日もこの道、使おうかどうしようか……。けれど、後方からバカ男子軍団が追いかけっこだかなんだかをしながら超大声で走り抜けていったので、気分最悪となり、隠れるように坂道に反れた。
 路地は行き止まりとなり、いよいよフェンスを越えようとすると、真っ白なコンクリの壁の裏から、女の子の声がした。
「ともこちゃんっていうんでしょ?」
 智子は心底驚いた。いきなり名前を呼ばれたからだ。じっと立ち止まって、黙っていた。女の子はなおも呼び掛けてきた。
「ともこちゃんだよね? 知ってるんだ。いつもこの道そうやって通ってるよね」
「なんで知ってるの?」
「名札に書いてあるから」
 そんなとこまで見てるなんて嫌だなあと思いながらも、納得した。女の子は話しかけてくる。かぼそい声だ。変に高い気がする。
「わたし『ひばり』っていうの」
「ひばり……」
「ともこちゃんと同い年なんだよ」
「ひばりっていう子、知らない」
「だって、わたし学校に行ってないもの……病気で通えないんだ」
 智子は感心した。本の中にそういう女の子がたまに出てくるけど、本当にそんな人っているのか。一気に同情心が湧いた。智子は壁の前に座りこみ、話を聞くことにした。
「なんの病気なの?」
「白血病っていうの……英語では、レウコテアっていうんだよ」
「へぇ……」
 白血病が具体的にどういった病気かはわからないが、なんとなく重い病気だということは知っていた。ひばりは小さく、ぽつぽつと続けた。
「辛いんだあ……お外に出られないのよ。ともこちゃんが毎日ここを通って行くの、素敵だなぁって思って見てた」
 『お外に出られないのよ』って、変な言葉づかいだなぁと思いつつも、智子は「うんうん」とうなずいた。
「いいなぁ。あんなに元気にフェンスにのぼれるんだね」
「ああ……」
「脚とか、細いね。かっこいい」
 智子からすると、フェンスをよじのぼっている時は結構に必死である。気恥ずかしかった。伸ばした髪がふわふわして邪魔であるため、髪ゴムを忘れたりすると悲惨だ。誰も見てないし、いいかと思って輪ゴムでくくっている。たまに靴下が切れるときすらある。スカートを結んでのぼったこともあった……。これからはがさつなことはしないようにしようと思った。
「ひばりちゃんは、のぼれない……んだよね?」
「前はのぼれたんだ。でももうできなくなっちゃった……」
「そうかぁ」
 それ以外答えようがない。智子はこっちから質問してみた。
「ずっと家の中にいるのってつらそうだね」
「そう辛くもないよ。仕方がないし……ご本読んでる」
 『ご本』って普通言わなくない? と思ったが、智子は話を続けた。
「どんな本読んでるの?」
「赤毛のアンとか……」
 赤毛のアンって読んだことないんだよな、と智子は思った。すっごい長いし、そのわりに面白くないし。ひばりが尋ねる。
「赤毛のアンとか、好きじゃないの? 女の子なのに」
「えーっと……あんまり読まない」
「じゃあ何を読むの?」
「今読んでるのは、『ウォーターシップダウンのうさぎたち』だよ」
「うさぎって可愛いよね」
 『ウォーターシップダウンのうさぎたち』はサバイバルの話なので、どのうさぎも可愛くない。けれど、ひばりちゃんはそれこそ赤毛のアンとかに出てきそうな身体の弱いおしとやかな女の子かもしれないから、うさぎとかも可愛くて好きなのかもしれない。。
「うさぎ飼ったら? 家の中で飼えるよ」
「だめだよ。アレルギーだもん」
「大変だね。なんか出来ることあったら言ってね」
 ……こいつと話しててもつまんないな。智子はやおら立ち上がった。ひばりは急に早口になった。
「あ、出来ることあるよ」
「え……」
 図々しさを感じて、智子は固まった。ひばりはあいかわらずぽつぽつと言った。
「智子ちゃんとお友達になりたいんだ。ひばりと友達になってくれる?」
「……うん……」
 『友達になっていい?』とか聞いてくる女の子は、たいてい三カ月もすれば仲良くなくなってしまうものだ。智子は乗り気でない返事をした。

 はじめは乗り気でなかった智子だが、やっぱりひばりは可哀そうだなとか、白血病の女の子とかちょっと興味あるしとか、そういうことを考えて、それ以降迷いもせずに毎日帰り路をショートカットをした。寄り道現場をめざとく見つけたクラスメイトの男子が口うるさく責め立ててくるという事件も発生したが、ひばりのことを話すと驚きつつ逃げ帰って行った。夏が本格的に始まるすこし前、まだ明るさが爽やかさを含むころ、智子は毎日コンクリの壁のそばにしゃがんで、ひばりと話をした。たいていは楽しくなかった。
 ひばりの話はほとんどが不平不満だった。お母さんがいじわる。お父さんが冷たい。妹が大嫌い。別世界だなあと思いつつも、好奇心で付き合い続けた。智子もきょうだい、それも弟がいるが、頭がよくて顔がよいため、今後のことを思ってアメや手作りお菓子で餌付けしている。お父さんはがさつだけどやさしいし、お母さんは厳しいけどいろんなことを知っているから、全員嫌いなんかじゃない。そのことを話すとひばりはしきりに羨ましがりそうなので、相槌だけをうつことが多かった。しゃがんでいると膝のうらやこめかみに汗が流れて気持ち悪くなってくる。帰り時だ。立ち上がってのびをすると、ひばりがあわてて話を変えた。
「智子ちゃんって好きな男の子とかいるの?」
「えー、いるわけない」
「なんで? かわいいのに」
「男子とかいやだもん」
 ひばりは突然黙ってしまった。電話がガチャッと切れたみたいだった。ひばりちゃんには男子とかレンアイとかもうらやましいのかもしれない。言い訳しようかと考えていると、ひばりが続けた。
「じゃあ女の子のほうが好きなの? 女の子が好きな人なの?」
「どういう意味?」
「なんでもない」
 ひばりはその後三分間も何も言わなかったので、智子はさっさとフェンスをあがった。



 ある日、ひばりとの話がめずらしく盛り上がってしまったときがあった。学校の体育の話だ。今、友達が入院していて二人組の時間にあぶれてしまうことを打ち明けると、ひばりは真剣に聞いてくれた。
「そういうことってあるんだろうね。私は学校いけないから分からないけど……」
「ごめん、自慢ちゃったかもしれない」
「智子ちゃん、毎日さみしいだろうなあ。私が学校行けたら、智子ちゃんと組みたいなあ」
 その言葉は、絶賛一人ぼっち人生を送っている現在の智子にとっては嬉しいものだった。壁ににじり寄る。
「ひばりちゃん、本当にもうお家出られないの?」
「今度、出られるかもしれないんだ」
「まじで! よかったね!」
 智子は壁に向かって拍手した。ひばりはいつもよりもさらにひそやかに言った。
「明日さぁ……夏祭りなんだってね」
「うん、よく知ってるね」
「明日ね、家に誰もいないんだ……お医者さんも状態がよくなってきてるって言ってるし、だからお祭り見てみたいんだ」
「そっかぁ。ひばりちゃんのこと見てみたいから、あたしも行こうかなあ」
「本当? じゃあ……夕方六時にここに来てくれる?」
「うん、六時だね。よかったー、行かれないかと思ってた」
「……待ってるからね」
 いつもよりも、ひばりの言葉が入念な気がした。智子はうれしくて飛び跳ねるようにフェンスをのぼった。今年は明実ちゃんもいないし、さすがに浴衣着られないと思ってたけど、ひばりちゃんがいるなら一人じゃないから恥ずかしくない。弟といくのはさすがにつまらなそうだ。退屈だった夏休みまでの一週間がバラ色に輝きだした。

 翌日夕方、智子は浴衣をきて一人で駅前商店街の夏祭りにいた。まだ五時半ごろだ。すごく明るい。知り合いも何人かいたけれど、智子は誰とも合流せず、あらかじめルートを確認していた。ひばりは身体が弱いし、あんまり人通りが多いとまずいかもしれない。
 金魚すくいぐらいはさせてあげられるかなあと思いつつぼーっと立っていると、以前寄り道を咎めてきた男子が一人で通りがかった。智子も浴衣を着て一人だったから、無視するつもりだったのだが、なぜか男子のほうから話しかけてきた。
「あのさ……お前って白埼っていう家んところ寄り道いってるよね?」
「ああ……でもこないだ話したじゃん。白血病の女の子がいて、ひばりちゃんっていうんだけど、かわいそうだから」
「それ嘘だよ」
「えー」
 この男子はわりと身体が大きく、勉強とかも出来る様子がない子だった。あまり文句を言わず、おおらかなので皆からは好かれている。好きとかはないが、ものすごく嫌いでもない。だから話を聞く気になった。
「どういうこと?」
「だってあの家、女の子供いるけど大学生だもん」
「えーっ……じゃあひばりちゃんがうそついてるのかな」
「俺、あの家の近所に住んでんだけど、その女の大学生が家に帰るの毎日夜だよ」
「ひばりちゃんのお姉ちゃんとかなんじゃないかな」
「違うと思う」
 男子は冷たい声で言った。智子は困って、事情を説明した。
「今日、ひばりちゃんとお祭りで遊ぶ予定なんだ……」
「まじかよ。白血病って重い病気なのに」
「六時ごろ迎えに行かなきゃいけないんだ」
「……」
 男子はお人好しそうな顔を渋くした。智子は提案してみた。
「あのさぁ……高山くんっていうんだっけ? あの家の路地の前で一回集合しない?」
「やだよ」
「だって……ひばりちゃん男の子とか興味あるみたいだし、会ってあげてよ。回り道して集合すればいいじゃん」
「ひばりとか、そんな奴いないんだよ」
「えーっ、毎日話してたんだけど……」
 たしか高山くんと言った男子は急に深刻な顔になった。そして命令してきた。
「あの坂の手前まで先行くから、お前後で来いよ。二人で一緒に遊んだとか言いふらしたら殺す」
「殺したらあんたは牢屋入るけどね」
 高山くんとかいう男子はむかついたらしく、駅前ストリートを猛然と走り去った。五分待って、智子はわざわざゆっくりあの路地に向かう。あんなやつでも男子だから、ひばりちゃんには嬉しいかもしれない。家族とかについて嘘ついてたのはいい気がしないけど……。
 坂道に反れる曲がり角で、高山くんは携帯ゲームをしつつ待っていた。
「おせーよ」
「浴衣だから時間かかっちゃって」
「浴衣目立つだろ。さっさと行けよ」
 いらだちながら、坂を下りる。高山くんは後からゆっくりついてきている。フェンス前に突き当たると、智子は壁に呼びかけた。
「ひばりちゃん、智子だよ、来たよ!」
「待ってたよ……ともこちゃん。浴衣着てるんだね」
「うん、毎年着てるんだ」
「いいなあ。かわいいね……」
 いつもどおりのぽつぽつした高い声だった。智子はよかれと思って高山くんに向かって手を振った。
「ほら、ひばりちゃんいるじゃん! 高山くんはやく来てよ!」
 高山くんはその瞬間だーっと下り降りてきた。そして壁をドンと蹴る。智子は驚いた。
「ちょっと、ひばりちゃん身体弱いんだから、やめてよ!」
 高山くんは智子のことを心底あきれた顔で見ると、壁に向かってひどいことを叫んだ。
「ヘンタイヤロウ! ロリコン! 警察にツーホーすんぞ!」
 言い捨てた後、高山くんはすばやく坂を駆けあがって、角を曲がって行ってしまった。智子はあっけにとられていた。ひばりが何かを言うのを待ったが、いつかの時のように壁は不気味なほど静かだ。智子はそろそろと壁から離れて、ビー玉をゴムではじいたように坂から逃げ出した。

 その後の三日間、智子は近道を使わなかった。夏休みに入ってしまったし、プールとか田舎に帰るとかでいろいろと楽しいことが目白押しだった。八月に入ると友達の明実ちゃんがめでたく退院して、記念に手紙を渡しにいった。坂の行き止まりにある壁のことなんか忘れ去っていた。お盆が過ぎて、そろそろ宿題の重圧が頭に入ってくるころ、登校日があった。この日はみんなが日に焼けていたり、久しぶりに会う人がいたりしてうきうきする。智子も勇んで登校した。
 高山くんが席の一番後ろに座っていた。頬杖をついている。日にずいぶん焼けている。智子はもちろん無視して前のほうの自分の席に行こうとした。けれど呼びとめられた。
「あのさ」
「なに?」
「あの家の横の野原なんだけど」
「うん」
 智子はクラス中を見まわしながらそれとなく立ち止まった。高山くんも関係ない方向を向いている。互いに噂とかされたら困るからだ。
「放火されたみたい」
「ホーカ?」
「誰かが火、つけたってこと」
 『放火』が意味を結んだ瞬間、なんだか気持ち悪い感覚がお腹の底からこみあげてきた。高山くんは馬鹿にしたように智子を見た。
「お前さ、ボイスチェンジャーって知ってる?」
「……」
「もう二度と行かないほうがいいよ」
 ボイスチェンジャーという言葉は聞いたことがあった。声を別人に変える装置だ。けれど、本当のことを考えたくはない。智子は返事もせずに高山くんの席の横を足早に通り過ぎた。

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動く人影


 八月のある日、私、あさみと、いつも一緒にいるゆいっち(ゆい)となっちゃん(夏希)は、肝試しをするために高校に来ていた。
「ね、ねえ…。本当にやるの?」
 私は、そう問いかけたのだが、
「なーにぃ?怖いの?」
「ゆいっち~、だ、だって…」
「もうここまで来ちゃったんだからさ、やるっきゃないでしょ?」
「…そうそう…。…ここで帰るのはただのヘタレ…」
「うう~、なっちゃんまで~」
 どのみち、真っ暗な道を一人で帰るのは無理な話だ。
(はぁ…怖いな…)
「じゃ、ルールね」
 昇降口より入り、確認のために通ったルートで対角にある音楽室に行く。
 そこに先ほど置いたコインを取って帰ってくる。
 明かりは、ろうそく一本。一応、火が消えてしまったときのためにチャッカマンも持っておく。
「じゃあじゃあ、あたし行って来るね~」
 ゆいっちが、一番に名乗り出た。
 止める理由もないので、なっちゃんと二人昇降口で待つ。
「…あさみ…、震えてるね…」
「だ、だって、本当になんか出てきそうで怖いよ…」
「…そうじゃなきゃ、肝試しじゃない…」
「う、そうだけどさ…」
 そうこうしているうちに、ゆいっちが帰ってきた。
「はいよ、これが課題のコイン!」
「…確認…。じゃあ、次は私が行くね…?」
「あ、うん、わかった」
「き、気を付けてね?」
「…うん…」
 そして、なっちゃんも出発した。
「ね?大丈夫だって」
「そういう問題じゃないって…」
 他人が大丈夫でも、自分は違うことも多い。
 今がまさにそのときだ、と私は思っていた。
 と、なっちゃんも帰ってきた。
「…はい、つぎはあさみ…」
「いってらっしゃ~い」
 二人に手を振られながら私は校舎の中に入った。

「えっと、まずは………、ん?あれ、なん……」
 ろうそくの火で、人影が浮かび上がった!
「きゃあああぁぁぁぁあ!?」
 思わず悲鳴を上げ、しゃがみ込む。
 そのまま待つこと1分。
 何も、起こらない。
「…あれ?」
 見ると………制服を着たマネキンだった。
 ふぅ、とため息を漏らし、呟く。
「絶対、笑ってるんだろうなぁ…」
 あんなみっともない悲鳴、上げるんじゃなかったなぁ、と思うも、今更だろう。
 廊下を歩いていると…急に、窓がガタガタッとなった!
「きゃあああああぁぁぁ!?」
 再び、しゃがみ込む。
 が、今度はすぐ気が付いた。
「なんだ…風、か…」
 窓の外、桜の木の枝がすごい勢いで揺れている。
「ポ、ポルターガイストかと思った…」
 ほっ、と息を吐く。
「うう~、また絶対笑われた~!」
 悔しい。
 あの二人は悲鳴など一回も出していなかったのに、私だけですでに二回。
 もう、いやだな…。
 でも、途中で帰ったりしたら何を言われるか…。
「い、行くしかないよね…。うう…」
 歩みを進める。
 なんとか、音楽室へ到着し、コインを手に入れられた。
 帰り道も、なんとか、無事に行けた。
 異変は、昇降口で起きた。
 明かりが、ない。
 待機用にランタンを持ってきていたのに…。
 消してしまったろうそくに火をつけようとしたら、辺りが明るくなった。
「あ、よかっ………え?」
 その光は、緑。
 恐る恐る、視線をめぐらすと………、
「ひ、ひとっ…!?」
 緑色の、光…いや、火の玉。
 人魂が、二つ中を漂っていた。
「あ、あ、あ………」
 カタン、カタン、と音がする。
「え…?」
 ギ、ギ、ギと音が鳴るように、首を回すと、
「ひっ………」
 マネキンが、手を振っている。
 ガバッ!
「きゃあああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「うわっと!?」
 ………え?
「いやー、まさかここまでびっくりするとはね~」
「…ゆいっち…?」
 今、後ろから抱きついてきたのは、ゆいっち。
 だとすると…?
「なっちゃん…?」
 すぅ、と人魂が消え、下駄箱の陰からなっちゃんが出てきた。
「…正解…」
「…あっ」
 腰が抜けてしまった。
「いや~、あさみがあんまり怖がってるからさ、どうせならってね」
「え~、酷いよ二人とも~」
 ちょっと、涙ぐむ。
「…ふふ…、大成功…」
「だって…行く途中、マネキンが人に見えてびっくりしたんだもん…。それが動くしさ…」
 その瞬間、空気が凍った。
「え?な、なに言ってるの?マネキンが動いたなんて…そんな冗談」
「…非科学的…」
 カシャン。
 ピタリ、と私たちの動きが止まる。
 カシャン。
 そろり、と一点を見た。
 それは、あろうことか話しかけてきた!
『ねえ…、遊びましょう…?』
 悲鳴は、出なかった。
 ただ私たちは走って逃げ、なんとか家にたどり着いたことは覚えている。
 そして肝試しは金輪際やらないと誓った。
 一応、あとで話だけは探しておいた。
 曰く…
 あのマネキンが着ていた制服は、とある虐められていた女子高生のものだった。
 虐めを苦にして自殺した彼女の制服を、当時の先生方が忘れないように、とマネキンに着せたものみたい。
 けど、ずいぶん前のことなので、もうだれも覚えておらず、それで夜中動きまわり、友人を求めている、という怪談ができたそうだ………。

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虫よけスプレー


 夏。
 夏といったら肝試し。ということで、肝試しをしよう、ということになった。というより、僕が言い出した。
「肝試し行こうぜ。」
 僕は友達に呼びかけた。すると、ケンが答えた。
「いいけど。どこでやるの。」
「林の近くに廃墟があるじゃん。そこでやろうよ。」
 僕は言った。
 するとユウトが、
「でも、そこって去年死体が見つかったっていう場所でしょ。しかも肝試しに行った小学生の。絶対何かいるって。」
 と、怯えた表情で言った。
 するとお調子者のマサキが、
「お前ビビッてんのかよ。俺は行くぜ。それでお化けをとっ捕まえてぶん殴ってやるよ。」
 と、豪語した。
「僕は遠慮するよ。」
 ユウトは言った。しかし、またマサキが調子に乗って、
「四人中三人が行くって言ってるんだから、多数決で行くに決まってるだろ。」
 と、理不尽なことを言った。
「でも……」
 すると、いつでも優しいケンは、
「大丈夫。お化けが出たら、倒してやるから。」
 と、言った。
「おいおい、お化けを倒すのは俺だよ。」
 と、マサキが言った。
 僕はユウトに、
「お化けなんていないと思うよ。皆雰囲気を楽しみたいだけだと思うよ。」
 と、言った。
 ユウトは頷いて、
「うん。じゃあ、行ってみるよ。でも本当にお化けが出たら助けてよ。」
 と、言った。
「おう。まかせとけ。」
 と、マサキが言って腕をまくった。
 なんだか可笑しくて皆笑った。

 肝試しには今週の土曜日の夜に行くことに決まった。その日の準備を早速始めながら、ユウトが言っていた、小学生の死体が発見されたときの報道を思い出していた。
 彼らは、僕らと同じように四人でその廃墟へ行ったらしかった。そして、その中でお化けが出てきたらしい。それで怖くなって逃げてきたら、三人になっていて、次の日の朝、そこに行ったら、いなくなった子の死体があったという話だ。
 僕は、本当はお化けなんて信じていなかった。いるわけないと思っていた。この前ユウトに言ったように、雰囲気を味わいたいだけだった。海水浴や虫捕りもいいけど、やっぱりあのスリルがいいんだよ。僕は行く前から一人で興奮していた。

 ついにその日になった。母親が、虫よけスプレーをしていきなさい、と言ったが、していかなかった。早く行きたかったからだ。その廃墟までは皆で歩いて行った。計画を立てた火曜日の昼休みから、この日のことを想像してどれほど興奮しただろうか。どうやら皆も相当興奮しているようだった。
 そうしているうちに廃墟に着いた。外は電燈のおかげで懐中電灯を点けなくとも十分だったが、廃墟の中に入ると真っ暗で、お互いの顔も見ることができなかった。僕らは懐中電灯を点け、中へと入っていった。

「おらぁ、出てこい、お化け。」
 マサキが叫んだ。中は静かだったので、遠くまで響いた。一歩一歩ゆっくりと進んでいく。
 一番前をケンが、次にマサキが、その次にユウトが、最後に僕が並んだ。道幅はそんなに狭くないのに、何故か自然と一列になっていた。
 さっきからマサキばかり一人で喋っている。ユウトと僕とで、マサキは、本当は怖がっているのではないか、とヒソヒソと話した。
 ケンは全然喋らないけど、心の中で燃えるタイプなので、おそらく内心は興奮しているのだろう。
 ユウトは、少し怯えているけれど、それ以上に興奮しているのが伝わってくる。
 どうやら皆この雰囲気を満喫しているようだった。
 
 しかし、時間が経つにつれ、皆の興奮は冷めていった。
「なんだよ。結局お化けなんていないんじゃねーの。もうすぐ二階も終わりだぜ。」
 マサキが言った。
「そうだな。やっぱり、お化けなんて嘘だったな。」
 ケンが言った。
 ユウトももう興奮していなかった。それどころか、恐怖さえも無くなっているようだった。
「でもまだ三階があるじゃん。最上階だから何かあるかもしれないよ。」
 僕は言った。
「そうだな。とりあえず最後まで行くか。」
 ケンが言った。
 僕らは階段を上った。

「結局三階も何もなかったな。」
 ケンが言った。
「あーあ。つまんねーの。なぁ、ユウト。」
 と、マサキが後ろに振り向いて言った。
「お化け倒せなかったね。」
 と、ユウトが冗談半分で言った。
 すると突然、
「お、お化け! 」
 と、マサキが叫んだ。
 皆振り返った。
 何か不気味なものが彼らの方へと迫ってきていた。

 皆は落ち着きを失って、出口へと一斉に走り出した。一番後ろにいたユウトは、他の皆の背中を追いかけていたが、途中で転んでしまった。顔を上げると、不気味なお化けがすぐ近くまで迫ってきていた。
 ユウトは怖くなって泣きながら、お化けを追い払おうとして、近くにあった棒のようなものでお化けを突いた。それはお化けに刺さり、お化けは動きを止めた。そのうちに、ユウトは出口へと走った。
 その廃墟の出口から少し離れたところに、ケンとマサキがいた。三人は怯えながら、月の明るい夜道を急いで帰った。

 翌朝。割れた窓から朝日が差し込む。頭に棒の刺さった小学生の死体には、夏だからか、すでに蠅が何匹か群がっていた。

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虫崩れは仰ぎ見る

 足の踏み場も無い。所狭しに敷き詰められたそれらから逃げるように視線を上へと移す。今日も太陽は白光を輝かせうだるような暑さを放っている。
 働き先の商店での俺の仕事はいつも掃除だった。店の中には入らず店回りをただただ掃き続ける。単純作業故にくる疲労と暇に加え、梅雨も過ぎた今の時期は熱に体の自由も奪われるため、動きが遅くなる。
 更に夏故の厄介事がある。毎日床には羽虫がたかる。体が黒一色の羽虫は特に店の裏に多く姿を表わす。既に息の根は止まっているため、毛ほどもない足を上に、飛び立たない羽を下にして倒れている。それが蚊柱を落とした後のように店裏や店回りに落ちている。俺はそれを掃き続けている。浮かぶ汗を拭いつつ、一日を費やし山を作っていく。
 時たま訪れる客には適当に相手をする。目の前の車道を車が通り、過ぎていく時の風で集めた羽虫が再び散らばる。真上の熱戦を浴びながら、遅々とした動作だが俺の腕は止まらない。
 俺の一日は大体そうして、終わっていく。

 うだるような暑さが続く。吹き出す汗を拭いながらも仕事に打ち込む姿は真面目というより惨めだと思う。
 元の店の規模が弱小なため、常連客しか訪れない日々が続いていた。外から見ても繁盛とは無縁な様相で、白塗りの壁も所々剥がれ、中の木材は黴に侵されている。そのため俺のような働き手がいつまでも必要とされるのだろうか。
 相も変わらず熱日の掃除はそれなりの労働だった。羽虫が、いつからか店の前まで数を増やしていた。足元に黒さが更に際立つようになったが、動き出す姿は見えず後は掃けばよくなっている。数に対して俺への配給に付加されることは無い。
 その日は比喩ではなく黒い山が出来てしまった。盛り上がったそれを見ても達成感はわずかですぐに塵取りへと移した。
 中身を全て処分し、店の前に戻ってきたところで店内を見ると面倒なことが起きているようだった。仕事が遅いのか店員が同じ客に何分もかけて相手をしている。まだ一週間足らずとはいえ、もう使い物にならなくなったか。客の怒声が両耳を刺激する、こんな日に自分から血を湧き立たせるなんてどうかしている。もっとも既にどうにかはなっているのだろう、どいつもこいつも。
 怒声に対ししばし謝罪していた店員、やがて自分の体のそれに気付くと、決壊寸前までに顔を歪ませ笑い声をあげた。怒声を掻き消す程の声で、不規則に悪態も吐き、夏場の蝉のようにやかましく。中の店員の足元に見える虫をこの位置からでも見間違えはしない。しかし俺の仕事はあちら側に用意されない。
 近々、店員がまた新しくなりそうだ。

 やがて、それが起こるのに時間も労力もかからない。
 曇りの気配もなく、風も吹かない日だった。全開の太陽光によって湧き出る汗が滴となって滑り落ち、背筋に冷たい感触が通る。それも一時の冷涼に過ぎず、体は熱を持ち続ける。
 来る度にそして俺の仕事は増やされる。嬉しくは無い悲鳴だ。昨日の店員はもう悲鳴をあげることはないだろう。店回りは最早元々の足元の色も黒であったか不確かな有様だ。点々と元の色は申し訳程度に点を打つだけで、見慣れた羽虫が広がっている。夏場であるのに腐臭は香らない。死体であるのか疑問だがそれでもやる事は一つだった。
 ぎぎぎと、噛み合わない歯車のように蝉の音が響く。猛暑に襲われながら自分の掃く様を見る。掃かれるものの形を。
 一度掃きを振るえば実に呆気無く虫の体が床を這いずる。何度も動かせば低空に飛ばされ落下されるものもある。先が刺さり柔らかな腹に穴が開く。そうしてまで元の形を保つものは少ない。足が千切れ腹部が刺され、そして翅も砕かれる。それらが塵諸共山の一部と化す。数個体が分別なく道具によって合わせられる。代わりに見えた床は俺の目には明るく映る。
 現象だ。
 太陽が熱を放つように、雨が降るように、人間が動くように、羽虫が増える。俺はそれを掃除する。ただそういった出来事だ。
 掃き終わった頃には昨日の更に数倍の黒山ができていた。それと足先がむず痒い。靴下の一部が不自然に盛り上がっている。
 その日はやけに羽虫が靴周りに張りつき、靴底が擦り減っていた。

 羽虫はそして侵攻を止めない。
 夏は衰えを知らず、一年ぶりに巡った季節が運ぶ熱線は立眩みを起こすには十分だ。そこまで考えて支える足がすでに変わっていったことを想い出す。想い出して、それまでだ。過ぎていき消えていった形は二度と組み合わさらない。
 膝と呼べる箇所は両方とも見えなくなっていた。その頃にはもう時間をかけていくら早く腕を動かしても、完全に明るい床などどこにもなく、掃いた後にはまた数匹の羽虫がその身を現していた。
 それでも徹底的にやり続けた。特に、自分の足元、いつからこうなったかも想い出せなくなるほどに。膝だった箇所から零れ出る羽虫を重点的に掃きながら。それを行ってきたのも、これから処分するのも、俺なのだから。

 どこまでも増殖し続ける、翅を持つはずのそれらは空を漂う事も無く熱された床に伏される。熱さなど感じるのだろうか。
 熱気が周りの景色を揺らがせる中、不調な体を動かすのに痛みを感じないことは救いだった。ぼうっとした幻がすぐ近くにある中で、これはどうにもならないことだと一片の容赦なく現実として突きつけてくる。
 黒い山を幾ら作ったところで終わりは見えず、ぼろぼろと羽虫の落下は収まらない。床を掃くため前屈みにならざるを得ないのだが、そうすると胸辺りが瓦解するように羽虫を大量に吐き出す。あの店員のように声を上げる気にはなれない。
 自分が源泉と理解しながらも仕事を続けたが、夕方に入ると食い漁ったように背中まで貫通していた。腕が通るほど隙間ができた体だが、風が吹かないため暑さに変わりはなかった。

 腰が崩れ両手から羽虫が零れていくようになり、道具を握ることが適わなくなっても働いている以上休まずに店には行く。
 体の断面を動かし虫とともに移動する。開けっ放しの扉から道具を取り出す。柄の部分を顎と右肩で挟みながら掃いてみたが、正確な位置が取り難く力も入りにくいため何度も落としてしまう。四度目に落とした時には咥えて掃いてみたが、離れた箇所が掃かれるだけで自分の周りは増える一方だ。
 見た目より激しい運動、溜まる疲労に幻惑を見た。俯瞰的な立場から店回りを見ている俺がいる。当然、蔓延る羽虫が足を地につけ翅を上にしている。そのどれかの足の一本が、振動した。それは伝染し他の足、最後に翅を動かした。やがてそれらの個体全てが同じように動きだし、羽ばたいていく。透明と呼ぶには黒ずみが目立ち、黒一色にしてはあまりに薄い翅を忙しなく動かして。徐々に近付いていくそれらの大きさは俺と毛ほども違わない。同個体であるはずの俺はしかし飛び方を知らず、そのまま地へと叩きつけられる。その手前で目を覚ます。
 夏の気の揺らぎが、まだ崩れていないはずの脳味噌を溶かそうとしているかのようだった。ぐずりととろけ、何も考えずに済む、今はまだ叶わない。
 覚醒したら呼吸を忘れていた事に気付き口を開けてしまい、ぼとり、うっかり落としてしまった。こうなったらもう気に掛ける必要は無い。
 俺は口を限界まで開け、それらを放出する。体液で濡れた黒い塊が飛び出る。黒い床の上、新たな黒山ができる。少しでも楽になり、それでも咳をこぼせば、その度に歯が変化した羽虫が床に落ちる。それでも口内には残っている。
 まだ、まだだ。口の中の苦みも痒みも消えない。まだいる、まだいる、これでもまだいるのだろうか。

 黒く蔓延る羽虫の群れがある。とうとうそれよりも低くなってしまった俺がいる。
 頭の三分の一程になった体はもう黒い海に埋もれていた。やがて俺と周りに境目が無くなるのも目に見えている。
 動くたびに俺と羽虫がこすれまるで生きているような音を立てる。
 しゃわしゃわ、しゃわしゃわとそれは躍動のような音だった。耳穴が消えたはずでも音を感知したのは、脳味噌に直接羽虫が混じり始めたからだろうか。
 下半分が変化している眼球は、まだ俺の意識によって回転する。黒一面を隔てた先に久しぶりに自分の店を見た。あの常連はまだ来ている。店員はどれほど自分を保てるであろうか。
 数日前までの店員は最後まで抵抗していた。暑さとその身に起こる変化に嫌悪を抱いた。例え太陽は変わらず輝き、変化を変える事は出来なくても。俺には今もそんな気はない。
 仕事をし続けたから、休みが欲しくなってしまった。
 しゃわしゃわ、しゃわしゃわと、それは俺の動きとは別のところで鳴り始める。しゃわしゃわと、周りの黒い一面はやがて壁となり俺を囲むようになっていた。熱気も加わり揺らぐ様は一つの巨大な黒い胃袋が獲物を消化しようとするようだった。
 そして眼球は固まったように動かなくなり、下から視界が黒に埋め尽くされる。最後に、焼き付けたい光があった。だから視界にかすかでも俺は上を見る。
 羽虫ではない何かに遮られ、俺の目は光を取り逃した。
 太陽は遥か、届かない。

 天を仰げば、俺達に向けられた幾本もの細槍。
 空から竹箒が降りてきて、ようやく熱が引いていく。

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少女


 少女は陽だまりの中にいた。樹木に囲まれた庭の、ちょうど真ん中に陽だまりは出来ていた。その中で少女は、じっと黙って長いこと座っていた。
 そよ風が吹いた。潺湲と流れるように吹いた。ささやかに流れる風は、庭の草花を撫で、あたりへ祝福の光を運ぶように吹き抜けていった。通った風の跡を残すように、草花は揺れた。揺れた草花は、微笑むように音をたてた。
 蝶が飛んできた。蜂が飛んできた。テントウ虫も、こがね虫も、ありとあらゆる虫が集まってきた。蟻も、バッタも、カマキリも、ありとあらゆる虫たちが、どこからともなく、彼女の足元に集まってきた。集まってきた虫たちは輪になった。輪になって踊った。普段捕食関係の上に生きているような虫たちも、そのようなことに構わず、隣の虫と踊り始めた。踊り始めた虫たちを、少女はただ見ていた。傍らで、虫たちは踊っていた。
 風が吹いた。強めの風が吹いた。少女は白いワンピースを着ていた。白いワンピースの少女は、じっと虫たちを見ていた。虫たちは一向に周りを気にすることなく、ただ踊っていた。強めの風が吹くと、座っていた少女のワンピースは風を孕んだ。溜まった風が出ていく瞬間、少女の白いワンピースの中が露わになった。少女は無抵抗だった。無抵抗の少女のワンピースの中は虫たちだけが見ていた。虫たちは踊っていた。隣の虫に食べられてもおかしくはないのに、どの虫も飽きることなく踊っていた。白いワンピースの中のことについて、虫たちは何も言わなかった。反応しなかった。ただ踊っていた。踊り続けていた。
 また風が吹いた。それは、ある人には踊るように見えたようだった。風は踊った。踊る風につられるように、庭の草木は踊った。その痩身の命を割くようにして、またそれは情熱的なまでに踊り始めた。美しい花は、その美しい花びらを風に預けた。美しい花びらを失った花は、美しくはなかった。美しくない花が踊り続けている中、風は扇情的なまでに、その美しい花の美しい花びらを弄んだ。弄ばれた花びらは、次第にその鮮やかで艶やかな色を失い、傷だらけになった。傷だらけでなお舞う花びらは、すでに無機質な景観に同化し、さながら全てを失った人間のように世を嘲笑って、荒天にその身を消す。
 いつのまにやら庭の草木は風に巻き上げられ、空中で手をつなぐように大きな輪をつくる。虫たちも空中で輪になり、確立した居場所が出来たと、無表情で舞っている。当然、少女も舞う。幾月も経って風化した身体は細過ぎて、軽過ぎて、花びらのように宙へ舞う。無抵抗のまま舞う。腕が飛び、脚が捥げ、頭が胴から離れ、華奢な身体は、自然へ帰るように風の中に消えていく。
 つまりは、舞っているのは白いワンピースだけであり、その中にはもう何もない。

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メール仕掛けの食卓


「黒沢が……殺されただって!」
「そんな! つい昨日の晩、電話したばかりなのに……嘘だわ! 一体どうして?」
「犯人は捕まったのか? どうなんだよ、刑事さん!」
 刑事に突然喫茶店に連れて来られた上、突拍子もなく友人の死を告げられた青木と桃井は、やはり動揺しているようだった。そしてその動揺は中学時代のクラスメイトの死に対するものというより、自らの身に危機を感じた時のそれに近いということを、刑事の勘が見逃さなかった。
「残念だが、犯人はまだ特定できていない。ただ……」
「……なんだよ?」
 昨晩未明、一人暮らしの大学生が惨殺される事件が起きた。犯行現場は被害者の自宅近くの、廃墟ビルの一室。被害状況からして、おそらく精神異常者による猟奇殺人の線が濃厚とされている。
 しかし、私にはこの事件がそんなに単純なものであるとは思えなかった。きっと何か、恐ろしい秘密が隠されている……そんな気がしてならない。なぜなら……
「事件の直前、被害者の携帯電話に、明らかに不自然なメールが届いていたんだ」

        /

「久しぶりだな。元気してたかよ?」
「珍しいじゃない、あんたから電話なんて。一体何の用?」
 中学を卒業して以来、約四年ぶりに桃井に連絡を取ったのは、不安を紛らわすために誰かと喋っていたかったからだろう。別に誰でもよかったのだけれど、たまには中学時代の悪友と昔話をするのも悪くない。
「ずっと気になってたんだよ。罰が当たって死んじまったんじゃねぇかなって」
「あたしが死んでたら、あんただってとっくに死んでるわよ」
「確かにそうだな。……青木とは連絡取ってるのか?」
「いいえ、あの事件以来なんだか気まずくって。あんたもそうなんでしょ?」
 その通りだ。あの事件があって以来、なんとなくギクシャクしてしまい、卒業してからは連絡を取っていない。青木だけでなく、桃井と四年間連絡を取らなかったのも、そのせいかもしれない。
「ところで、まさかそんなこと言うために電話してきたんじゃないでしょうね?」
「あぁ、本当はちょっと相談があってな……実は最近、誰かに監視されている気がするんだ」
「誰かって誰よ? 心当たりはないの?」
「分からないから困ってるんだよ。でもここ数日明らかに、家の周りで妙な気配を感じたり、怪しい人影がうろちょろしてるような気がするんだ」
「ふうん。まぁこれに懲りたら、二度と人に恨まれるようなことはしないことね」
「お前が言うなよ! ……まぁいいや、ありがとな」
 電話を切ると、すでに時刻は夜の十二時を回っていた。かなり話し込んでしまったらしい。しかし、おかげでずいぶんと気は楽になっていた。きっと、深く考えすぎだったんだろう。
 
 そろそろ寝ようかと思っていた時だった。静まりかえった部屋に、場違いなほど明るい音色が響く。メールの受信音だ。不意を突かれて一瞬びくりとする。
「誰だよ、こんな時間に……」
 何も考えずにケータイを、開いてしまった。それが、恐ろしい事件の幕開けになるとは思いもよらずに……
「え……? なんで……こいつから?」
 画面に映し出されたのは、あってはいけない名前だった。絶対にメールなどしてくるはずのない、あいつの名前……。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。次に本文に目を通す。そこには奇妙なことが書いてあった。
(~美味しいシチューの作り方~ まずは、具材をぶつ切りにします)
「どういう意味だ? …………ぐぁっ!」
 メールに気を取られすぎて、背後に迫る気配に気付けなかった。突然、後頭部に強い衝撃を感じ、膝から崩れ落ちる。何者かに殴られたらしい。頭を押さえながら振り返ると、部屋の窓が開いている。立ち上がろうとしたらもう一度殴打され、再び床に倒れる。
 このままではまずい。分かっているのに、体に力が入らない。俺の必死の抵抗をあざ笑うかのように、視界は徐々に重くなる瞼により閉ざされていった。

「うっ……ここは、一体?」
 気が付くと、錆びれた地下室のような場所にいた。手足は手錠で繋がれ、大の字状態で立たされている。そしてなぜか周りには、鍋がいくつも転がっている。
 とにかくこれはまずい状況だと気付き、助けを求めて声を上げた。
「だ、誰か、助けてくれ!」
 叫んだ直後だった。突然、静寂を切り裂くようなけたたましい金属音が唸りを上げる。そしてその音は、動くことのできない俺に少しずつ迫ってくる。慌てて周りを見渡すと、物陰から何者かが現れた。真っ黒な服を着て、その手に持っているものは……チェーンソーだ。
「く……来るな!」
 そいつは構わずに歩みを進め、俺の前で立ち止まった。甲高い音を上げながら高速で回転する鉄の塊を前に、息をのむ。
「ま、待て……なんでこんなこと……」
 しかし話し合いを望む俺をよそに、黒服は静かに告げた。
「今から……具材をぶつ切りにします」
 次の瞬間、黒服の振りかざしたチェーンソーが、俺の右足首を削り取った。
「ぎゃぁぁぁあ!」
 何が起こったのか理解する前に叫んでいた。突然の苦痛に顔を歪めていると、今度は左足首が床に転がるのが見える。間髪入れず、右ふくらはぎに激痛が走る。
「た……助けて、くださ……ぐぁぁぁあ!」
 左ふくらはぎ、右膝、左膝……。呆気ないほど容易く切断され、斬られる度に意識は遠のく。
 思考が途切れる寸前、最後に見たものは、黒服の顔だった。狂気に満ちた、残酷な笑顔だった。それは俺達があの日奪ってしまった、あいつの笑顔に似ている気がした。

        /

「白川京子」
 名前を出した瞬間、青木と桃井の顔から血の気が引くくのが分かった。構わずに続ける。
「老舗料亭のオーナー夫妻のもとに生まれるが、小学三年生の時に両親は事故で他界。以後七歳年上の兄とともに二人で生活。中学校入学後は、学業で優秀な成績を残していたが、三年生の時に学校の屋上から転落して死亡。遺書などは無かったため警察は事件の可能性を疑ったが、当時彼女はクラス内でいじめを受けていたため、それを苦にした自殺と断定された。……君たちの、元クラスメイトだ」
「なんで急に……そいつの名前を?」
 青木の声は掠れて、動揺を隠しきれない。
「黒沢君は死の二時間前、亡くなったはずの彼女からメールを受信している。メールにはこう書いてあった。(~美味しいシチューの作り方~ まずは、具材をぶつ切りにします。)と。そして黒沢さんの死体が発見された時、現場にはシチューのような液体が入った鍋が無数にあった。その鍋の中を調べると、人の肉体の一部とみられる大量の肉片が入っていた」
「ま……まさかそれって……」
「そう……検査の結果、それが黒沢さんの肉体の一部であると判明した」
 しばらく沈黙が流れた。二人の顔が急激に強張る。
「まさか……その女のお化けが黒沢を殺して、シチューにしちまったとか言うつもりじゃないだろうな?」
「霊などという非科学的なものは、私は信じない。どんな事件だって、論理的に考えて全て解決してみせるさ」
「ところで……このことをどうして私達に?」
「他の同級生の子達何人かにも話を聞いたんだが、黒沢君と白川京子の名前を挙げた途端、皆口をそろえて君達二人の名前を出したよ。一体、君達はどういう関係だったんだ?」
「…………」
 急に黙り込む二人。何とも分かりやすい。やはり、何かを隠している。事件解決のためにも、何とか聞き出さなくては。
「教えてくれないか? そうすることが君達の命を守ることに繋がるかもしれないんだ」
「それは、その……」
「知らねえよ。なぁ? 桃井」
「しかし……」
「知らねぇつってんだろ! 行こうぜ桃井。」
「お、おいっ! ……全く、もし不審なメールが来たらすぐに知らせるんだぞ! いいな!」
 やはり、簡単には聞き出せそうにない。こうなれば自分で調べるしかないだろう。手掛かりを得るために、ひとまず喫茶店を後にする。

       /

 喫茶店からの帰り道、私は焦っていた。さっきのあの刑事の話……。このままでは、真相がばれるのも時間の問題かもしれない。それはとてもまずいことだ。でもそれ以上に今は、得体のしれない相手に命を狙われているかもしれないことの方が怖い……。
「やっぱり、あの刑事に全てを話すしかないわね……」
 そう考え、ケータイに触れた時だった。ケータイが震え、メールの受信音が耳に届く。まさか……
 恐る恐る画面を開くと、目に飛び込んできたのは、恐れていた「白川京子」の文字。心臓が跳ね上がる。そして本文には、こう書いてあった。
(~美味しいミートスパゲティの作り方~ まずは、麺を沸騰したお湯で茹でます)
 背筋が凍りつく。早くあの刑事にこのことを伝えなければ、私はミートスパゲティにされてしまう……。
 そこですぐに連絡をすればよかったのかもしれない。しかしその時、メールに添付ファイルがあることに気付いてしまった。見たら絶対に後悔する。分かっていたのに、私の体は私の意思をあっさりと無視し、気付いた時には指をボタンの上に置いていた。
「きゃあっ!」
 思わずケータイを放り投げ、尻餅をつく。
 添付ファイルは画像だった。薄暗い場所に、白っぽい液体が中を満たした鍋が点在している。よく見るとその中には、人の手や足の指ような物が浮いている。
 それがぶつ切りにされた黒沢だということは、すぐにわかった。なぜならその無数の鍋が転がっている部屋の隅に、あったからだ。目をひん剥いたまま硬直した、黒沢の生首が。

 その場から逃げようと立ち上がった時には、すでに遅かった。何か硬い物で後ろから殴りつけられたと思ったら、次の瞬間には身動きができないほど狭く、真っ暗な場所にいた。おそらくドラム缶か何かだろう。しかも裸で、肩の位置まで水に浸かっている。
 気を失っている間に運ばれ、ここに入れられたらしい。外に出ようとしたが、上には蓋がされていて、びくともしない。完全に閉じ込められているようだった。
「ここから出して! お願いだから!」
 何度も何度も、必死に助けを求めた。だが、全く応答はない。誰もいないのだろうか。
 叫び疲れ、助けを呼ぶ声が途切れた時、こちらに近づいてくる足音があることに気付いた。慌てて耳を澄ます。しばらくすると足音は止み、代わりに別の何かが音を立て始めた。物が燃える音のようだ。そして、缶の外から何者かの声が静かに響く。
「今から……麺を沸騰したお湯で茹でます」
「お願いだからここから出して! 悪かったから!」
 それからは外部の声は聞こえなくなったが、必死に懇願を続けた。茹でると言われてから何も変化がないのは不思議だったが、気にしている場合ではなかった。
 しかし、すぐに異変に気が付くことになる。足の裏がやたらと熱いのだ。そこでやっと悟った。燃やされているのだ。この容器ごと、私の体を……。
「助けて! もうわかったから! 謝るから!」
 応答はない。その間にも容器はどんどん熱され、私の体も熱を帯びてゆく。すでに足の裏は、皮がほとんど剥がれてボロボロになっている。
「もうやめて! お願いだからここから出して!」
 やはり返事はない。暑いだけでなく、密閉されているため息も苦しい。何とか外に出ようと蓋を引っ掻いているうちに、指の爪は全て剥がれて、手は血まみれになっていた。
「助けてください……助けてください……助けてぇ…………」
 もはや頭がぼうっとして、何も考えられない。助けを求める気力さえなかった。
 薄れゆく意識の中で思い出していたのは、なぜかあの日のことだった。放課後の学校の屋上。逃げ惑う白川京子の姿……。包丁を持って追いかける、青木と黒沢、そして私……。その時、白川が突然視界から消える。それを合図に、わずかに残っていた私の意識も消え去った。

       /

 再びあの刑事から、昨日の喫茶店に呼び出された。正直面倒だが、行かないわけにはいかない。何か聞かれたとしても、また白を切り通せばいい。ケータイをポケットにねじ込み、出かける準備をする。
 喫茶店に着くと、すでに刑事は待っていた。桃井はいないので、今日は俺一人のようだ。
「今度は何の用すか?」
「実は、桃井さんが行方不明になった」
「えっ……?」
 全く予想外の展開だった。警戒心が一気に高まる。
「彼女のことは現在捜索中だが、最悪の事態も覚悟しておいた方がいいだろう」
「そんな……」
「それから、君達の関係も少し調べさせてもらった。……白川京子のことをいじめていたのは、君達だったんだな」
「それは……」
「別に責めている訳じゃないんだ。いじめなんてこう言っちゃなんだが、中学生ぐらいではよくある話だ。しかし、問題はそこじゃない。ここからは私の推測にすぎないが……白川京子は、君達が殺したんじゃないのか?」
「なっ……」
 まさかの質問に、何も言い返すことができない。黙っていると、刑事は追い打ちをかけてきた。
「私はこう考えている。白川京子が亡くなった日、君達は彼女を学校の屋上に呼び出しいじめていた。その時に、不注意で彼女を屋上から転落させてしまった。違うか?」
「……覚えてない」
「いい加減にしろ! これは君の命に関わることなんだ! ちゃんと答えて……」
「覚えてねぇもんは覚えてねぇんだよ! 俺は何も悪くねぇ!」
 我慢の限界だった。とにかく、この場から逃れたい。席を立ち、そのまま出口に向かう。
「おい待て! 今一人になるのは危険だ!」
 店を出て振り返ると、刑事は代金を払わされている。間抜けな刑事を横目に、無我夢中で走り出した。



 刑事の奴は追ってこない。どうやらうまく撒くことができたようだ。手を膝につき、肩で息をしていると、ケータイが鳴った。どうせ刑事からのメールだろうと何の気なしに画面を開き、ケータイを落としかけた。……白川京子からのメールだ。
 かなり躊躇したが、そのままにしていても仕方がない。意を決し、添付ファイルを開いてみる。
 添付されていたのはなんとも不気味な画像だった。真っ白な床の上に、真っ赤に膨れ上がった人間の体が横たわっている。桃井の死体だった。全身の皮膚はほとんど剥がれ、体中にスパゲティの麺のようなものが絡みついている。よく見ると、全身に褐色の液体が付着していた。ミートソースにも見えるが、皮膚が剥がれたところから染み出した血液が固まったもののようでもある。見ているだけで吐き気を催した。それでもなんとか自分を奮い立たせて、本文にも目を通してみる。
(~美味しい串焼きの作り方~ まずは、食材を串に突き刺して焼きます)
 どうやら、木材か何かを突っ込んで焼くつもりらしい。考えただけ足が震え、立っていることさえしんどい。しかし、今回はこれで終わりではなかった。下へスクロールすると、まだ文が続いていたのだ。
(今すぐ、お前の家の隣にある公園に一人で来い。さもなければ、お前の犯した罪は白日の下に晒される。刑事にこのことを知らせても同じだ。)
 正直、どうするべきか悩んだ。不審なメールがあれば連絡しろと言った、刑事の顔が頭に浮かぶ。連絡を入れるべきなのだろうか……。しかし、やはり俺はあの出来事が親や友人に知られることの方が怖い。もし知られたら、俺の人生は終わりだ。
 刑事には言わないで公園に行こう。もし犯人が現れたら、土下座でも何でもして謝ればいい。決心を固め、今にもすくみそうな足で一歩一歩、自宅への道をゆっくり歩みだした。

       /

 昔京子から貰ったお守りを手に、あの男を待っている。京子の未来を、夢を奪った、憎きあの男を。奴を殺せば、復讐も終焉の時を迎える。待っていてくれ、京子。
 しばらくすると、あの男がのこのことやってきた。刑事がついてくる事態も想定していたが、周りにそれらしい気配はない。それに、奴のあの尋常じゃない怯え方からも、一人である可能性が高い。殺されるのが分かっていて一人で来るとは、そこまで己の名誉が大事なのだろうか。どこまでも腐った奴だ。
「ちゃ……ちゃんと一人で来たぞ! どこにいるんだ!」
 金属バットを持ち、隠れていた物陰から出る。すると奴は、俺が言葉を発する前に両手をつき、額を地面にこすり付け始めた。
「ごめんなさい! 悪気はなかったんです! ちょっとふざけて追いかけたりしていたら、なんか足を滑らしたみたいで……」
「京子が勝手に足を滑らして落ちたと言いたいのか? 自分達がしたことを棚に上げて、よくそんなことが言えるな!」
「すいません……本当に反省してるんです……」
「……京子がいじめられていたのは、俺も知っていたんだ。でも京子は、絶対にいじめなんかには負けないと言った。だから、自殺なんかするはずがなかった。……京子にはな、夢があったんだ!それなのに……」
「許してください! 反省してますから! 何でもしますからぁ!」
「…………もういい」
 話しても無駄だ。こいつは人間のクズだ。本来ならこれまでの二人のように不意打ちして始末する予定だったのに、わざわざ呼び出したりしたのは、すでに十分な改心をしていて、或いは京子に対する謝罪の言葉を聞けるのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。それなのにこの男は、この期に及んでも口を開けば自己保身だ。こんな奴に……こんな奴に京子は!
 無意識のうちに、バットを高く持ち上げていた。そして、目の前で土下座をしている男の頭に向けて振り下ろそうとした時、後ろから鋭い声が飛んできた。
「もうやめろ!」

       /

 何とか間に合った。青木が家に帰ったのではないかと思い、とりあえず彼の自宅近くでうろついていたところ、ちょうどこの現場に遭遇した。まさに、間一髪だった。
 犯人は、二十代後半程の痩身の男だった。真っ黒な服を着て、キャップを目深に被っている。彼は止めに入られたことで観念したのか、腕を力なく下げ、苦虫を噛み潰したような顔で立ち尽くしている。
「白川祐介さん……ですか?」
「……やっぱり、ばれちゃいましたか」
「京子さんの遺品の携帯電話がまだ解約されてなかったと知って、そうじゃないかと思ったんです。携帯電話は、お兄さんの元にあるようだったので」
「そうですか……残念です。あと少しだったのに」
「彼をどうするつもりだったんですか?」
「口から鉄柱でも突き刺して、火の中に投げ入れてやろうと思ってました」
 祐介の言葉を聞き、情けない悲鳴を上げる青木を無視し、彼に歩み寄る。そして世の中の不条理に心を痛めながら、ゆっくりと手錠をはめた。
「白川祐介、現行犯逮捕」



 白川祐介の逮捕から二週間が経った。桃井の遺体は発見され、多くの事実も明らかになった。
 青木も少しは反省したのか、白川京子の死の真相を全て語った。彼と桃井、黒沢の三人は、中学三年生に進級後間もなく、京子に対するいじめを始めた。きっかけは、美人な上に成績もよく、クラスの人気者だった彼女を、ぶっ壊してやりたいと思ったからだという。彼女の私物を隠したり悪口を言ったりという普通の嫌がらせは、次第に「料理人になり実家の料亭を継ぐ」という彼女の夢を冒涜するような内容に変わっていった。例えば、「そんなに料理が楽しいなら俺達にもやらせろよ」と、彼女を冷蔵庫に閉じ込めたり、トイレに入っている彼女に上から小麦粉を被せたり……。事件の日もいつもと同じように、包丁を持って怯える彼女を追いかけ回していたらしい。その時に彼女が足を滑らせ転落した、というのが死の真相のようだ。
 祐介は妹の自殺が信じられず、独自に調査を続けた結果真相に辿り着き、何ヵ月もかけて復讐の準備をしていたようだった。京子のケータイからメールを送ったのは、ちょうどケータイの中に三人のアドレスが入っていたから。料理工程になぞらえて殺害したのは、料理が好きだった彼女への弔いと、三人に妹が感じた恐怖を味わわせてやりたかったかららしい。
 終わってみれば、霊だのなんだのというものは全く関係のない事件だった。やはり世の中には非科学的なものなど、ないのだ。
 そんなことを考えていると、不意にケータイの着信音が鳴った。同僚からの電話だ。
「もしもし! 白川祐介の件だが……」
「どうかしたのか?」
「落ち着いて聞いてくれ。ほんの数分前まで、俺は白川の取り調べを行っていたんだが、取り調べの途中、目の前にいたはずの白川が突然、手品のようにパッと消えてしまったんだ」
「お前、何言ってんだ?」
「本当なんだ! こちらも何が何だか分からず大混乱で……しかも、おかしいことはそれだけじゃないんだ」
「……何があったんだ?」
 妙な胸騒ぎがする。
「実は白川が消えた後、彼が座っていた場所にケータイが落ちていた。中には受信メールが一件あって、本文の他に画像が添付されていた。本文には、(~美味しいとろろの作り方~ まずは、山芋をすりおろします)と書いてあった。そして、添付画像には、鉄柱のようなものが刺さった、真っ黒に焦げた物体が写っていたんだ。黒い物体が何なのかはまだ分かっていないが……正直、俺にはこれが人のようにしか見えない。なぁ、これってまさか……」
 会話の途中で、急に電話が切れた。何度かけ直そうとしても繋がらない。
 突然、メールの受信音が鳴った。同僚かと思ったのだが、ケータイの画面に映るのは、全く覚えがないアドレスだ。
 まさか、このアドレスは……いや、そんなことはあり得ない。犯人は白川祐介で間違いない。霊などというものが、この世にいるはずがないのだ。なのに、この胸騒ぎはなんだ? 指が震えて、ボタンを押すことさえままならない。その時だった。ケータイが痺れを切らしたかのように、勝手に動き始めたのだ。
 動画が再生されている。映っているのは薄暗い部屋のような場所だ。非常に閑散とした場所で、広い部屋の中央に山のようなものが見える以外、何も見当たらない。映像は部屋の中を一通り映した後、しばらくすると徐々に中央に向かい、その山のようなものをアップで映し出した。
 これは、一体なんだろうか? 赤っぽい色をした、ペースト状のもののようだが、今までに見たこともないものだ。しかも、所々に白い粒のようなものも混ざり、なぜかてっぺんにはお守りが乗っている。
 訳も分からずにしばらく見つめていたのだが……見えてしまった。
 うず高く積まれたペーストの山の中腹あたり。山の真後ろから片目だけ出してこちらを窺う、真っ青な顔の少女を。
 少女はその大きな目をぎょろぎょろと動かし、何かを探しているようだったが、画面の外にいる私と目が合うと、目元をふっと緩ませた。
「うわあぁぁっ!」
 思わずケータイを地面に落とす。全身が一気に総毛立ち、腰は抜けて立っていることもままならない。
 傍らに落ちているケータイに目をやると、画面はすでに変わり、先程とは別のものを示している。何か文章が書いてあるようだ。
 恐る恐る覗き込もうとした時だった。前方から「ふふふっ」という小さな笑い声が聞こえ、慌てて顔を上げる。
 その瞬間、私は凍りついていた。目にしたものは、正面の電柱の陰からこちらを窺う、真っ青な顔。整った顔立ちの少女が、包丁を片手に舌なめずりをしている。彼女の目と、再び視線が合う。
 目を逸らしたのが間違いだった。視線を戻した時には、彼女は私の目の前に立ち、狂気に満ちた残酷な笑顔で見下ろしていた。
「ぎゃあぁぁ! たっ、助け……ひゃあ!」
 もはや正気を失い、言葉にならない声を発している私に、彼女は弾んだ声でこう言った。
「さぁ、美味しい料理を作りましょう」

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御面講


 いつもより早く、まだ暮れ泥む夕陽の射す中に用意された夕食に、娘は首を小さく傾げた。舌足らずに「どうして」と言うから「今夜はお祭りだから」と応えたものの、幼い娘にはお祭りというものが理解できていない様子だった。村の皆が綺麗なお着物を着てね、と説明をしようとも思ったけれど、どうせ着物も夜店も御囃子も何も知らないのだ、私は微笑みながら「すぐにわかるよ」とだけ言った。
 まだ箸も上手く使えない娘がたどたどしく素麺を食べている間に、宵山の準備に向かう夫を玄関まで見送った。普段は線も細く穏やかな性格の為に優男に見える人が、法被に鉢巻き、股引に足袋と祭り装束をまとって、日に焼けた腕や脚を露わにすると、ああやはり男性なのだなと思わせてくれる。
「行ってくるよ。あの子をよろしく」
 言葉みじかに、彼は玄関に飾ってあった兎の面を被った。細い竹籤を編み上げた骨に薄い紙を何枚を張り重ねて作った、可愛いというより古臭さを感じさせる面だ。逞しい男性の身体の上に乗っても、決して滑稽にも見えない。私たちの村の祭りでは、参加者全員が何かしら手製の面をかける決まりがあるのだ。
 出て行こうとする夫の、面の結びが曲がっていた。呼び止めて結び直してあげると、彼は恥ずかしそうに笑った。やはりどのように着飾ってみても、間の抜けた人の好い男性だった。結び目をちょっと触って確かめて、「ありがとう」と彼は今度こそ出て行った。
 長々と延びる影さえ見えなくなるまで見送るのが良妻かなと笑って、彼の面の結びも十分認められる間に玄関戸を閉めて食卓へと戻った。慣れない箸の扱いに苛立った娘が、箸を棒のように握って麺をぐるぐると絡めて食べていた。あちこちにつゆが飛び、彼女の顔もべたべたに汚れていた。「まったくもう」と拭ってやると、能天気にニヘラと笑って見せた。これは父親似だなと思った。おかしくて私が笑みを溢したのを見て、屈託のない笑みをかえすのもそっくりだった。
 遅々とした食事を時には手伝ってやりながら終えさせると、風呂に入れて髪を梳いて、浴衣を着せてやった。卸したての浴衣は、緑に囲まれた池の中をゆったりと泳ぐ金魚が鮮やかに彩られている。「綺麗だね」と私が言うと、「ほんとう、きれいきれい」と楽しそうに繰り返した。「きれい」は娘が最近覚えた言葉だった。祖父の池の緋鯉を見ても縁側に吊るした風鈴を見ても、目新しいものは全部「きれい」だった。
「綺麗だね」
 私は襟や裾を直してやって最後にもう一度そう繰り返した。
 それから私も用意をした。しかし、私が浴衣を着る僅かな間に娘が寝転がって裾をぐちゃぐちゃにしてしまっているのを見て、私が先に着替えるべきだったなと後悔した。参加者全員が面をかける村の祭りでは、面を汚すからと化粧をしない。せいぜい白粉をふる事はあっても、決して紅をひくことはしない。眉を書きもしない。だからこそ直ぐに支度は済むものと思ったのが間違いだった。
 ふたたび襟や裾を直してやって、ようやく私たちは宵山に出かける準備を終えた。家の灯りを落として、玄関に向かう。玄関には私の分と娘の分と、二つの兎の面があった。「これをかぶろうね」と面を手渡すと「きれいだね」と笑った。「そうね」と笑って、私はまず自分の面をかけた。それから娘の分をかけてやった。「暑かったら言うのよ、とってあげるから」そう言いながら、しっかりと紐を結ぶ。綺麗な蝶結びが出来た。
 そして私と娘は手をつなぎ、宵山に出かけた。

 いかにも田舎という言葉を体現しているような私の村では、この祭りは正月や盆、収穫の宴と並び、大きな催しだ。村の外れの山の上に建てられた神社から、神様を神輿にお乗せして、村の中心の広場にお連れして村人の健康を祈願する祭りなのだが、その御迎えと感謝とお見送りにと三日に渡って盛大な宴を開くのだ。村の家々が幾つもの夜店を設け、楽士となって祭囃子を奏で、舞台に上がって踊りを見せた。野良仕事を引退した爺様方の中には、来年の祭りを目標に生きていくと嘯くものもいた。
 参加者が面をかけるのは、禊ぎ祓えと祈願を行う本祭をのぞいた、祭りというより宴というべき部分だ。神輿を担ぎ出す時は担ぎ手はもちろん、宮司まで面をかけている。
 これは宴が好きな神様が、面をかけた人々に紛れて馬鹿騒ぎをする為だと言われている。嘘か真か、家ごとにかける面の種類は統一されているのだが、時々見た事もない種類の面をかけている奴を見るという人もいた。それは時には宵山に繰り出して射的場の景品を全て取っていったり、時には舞台に上がって見事な舞を演じたり、時には神輿の音頭をとったりしていたそうだ。神様がそれほど宴好きなら、村民はどうか言うまでもない。
 この村は田舎だが、バスを使えば一時間もかけずに都市に行ける。そこには大学まであった。私はずっとこの村にいて、毎年この祭りに参加してきた。多くの思い出がある。
 今私がしているのと同じように、母に連れられて参加した。母は厳しい人だったが、その日ばかりは特別だった。ねだったものを買ってくれ、何度も「良い子ね」と頭を撫でてくれた。疲れ果てた私をおぶって帰ってくれた。幼い頃は一年でも特別な夜だった。
 女児から娘と呼べる歳になると、母の手を離し、友人たちと共に繰り出した。その頃に、この祭のもう一つの面を知った。
 この祭りは、古くは嬥歌、つまり村の若い男女が性的解放のため、ひいてはつがいを誘う遊びをかねていた。面をかけるのは、一見して誰と誰が連れだっていたのか判らぬようにするためと、あるいは露見した場合にもその夜限りは言及しないという暗黙の約束のためだった。ただし、そのような不貞な遊びに限らず、男女が将来の誓いをなす場合も考慮して、かける面の象る獣が家を表し、細かい模様が既婚か未婚か、父長との続柄は何かを表して、個人が判別出来るようになっている。その模様は同族くらいにしか判別できないが、意中の相手や父長同士の議によって決定した許嫁には予め伝えられている。男はそれを頼りに女を探し、人知れず喧騒の中から連れ出して、歌を送ったのだという。
 神様云々という話は後付けなのか、それとも正真の起源なのかは今ではわからない。祖母が娘だった頃、若い娘の間では、きっと昔、お忍びの地方の豪族や王の隠語だったのだろうと実しやかに噂されたそうだ。
 母の手から放れた私の手を、いつしか別の人が握って、友人たちからも放れて、そして私は歌を送られた。彼は昔から古風な人だった。おかしくて私はついつい、子供が相手の言葉を真似るように彼へと歌を返した。時代錯誤だと私たちは笑った。
 それから私は兎の面をかけて、同じく兎の面をかけた人と手をつなぎ、夜の祭りに繰り出すようになった。いつも彼は思い出の歌を口ずさみ、笑った。
 彼が義父に代わって夜店に駆り出されるようになると、私は女房として後の宴の料理を作る妻たちの集いに参加した。裏にまわっても面をつけたままという事にちょっと笑ってしまったのを覚えている。女装した神様が握り飯を作っていたという噂話も忘れる事が出来ない。
 娘が生まれて、今夜に到るまでは家に残って子守りをしていた。この頃は子守りの幸せを感じる反面、祭りに行けない寂しさも大きく感じていた。
 多くの思い出があるが、最も印象的だった、忘れるにも忘れられない夜は、初めて宵山に繰り出した夜だ。あの夜の、初めて味わったラムネの甘みと、得体の知れない悪夢のような恐怖はいまでも、胸の内のどこかに、一緒に渦巻いて黒く粘ついた鉄漿の澱のようになって溜まっている。


 幼い時分、まだようやく右を右と左を左と言えるようになった頃の事だ。私は母に連れられて宵山に出かけた。その時の私は兎の面ではなく、実家の犬の面をかけていた。普段は夕を過ぎれば灯りも人の気もすっかり消えてしまって寂しい大路が、赤提灯を連ねた夜店が立ち並び、彩り豊かに着飾った人々が溢れかえり、目にも耳にもうるさいほどに賑わっていた。確か、迸る熱気にうんざりし、せっかく綺麗に着させてもらった浴衣の袂をばさばさと振って「はしたないからお止め」と叱られたのもその日だった。その年はいつにない酷暑だった。
 今思えば熱気に浮かされていたのかも知れない。それとも単純に経験のない夜更かしに寝ぼけていたとも考えられる。雑踏に踏みいって間もなく、私は熱気と共にごうごうと渦巻く音と光の奔流にさらわれて、意識も足取りもふわふわと不確かな状態に陥っていた。あれはちょうど風邪をひいた時に熱に浮かされて夢の中をさまよっているような感覚だったと覚えている。とにかく現実感を失っていたのだ。
 ただ白痴のように、手をぎゅっと母に握られて、色とりどりの雑踏の間を引き回されていた。あの頃はまだ母の手も大きくて、ぐいぐいと引かれるともう逆らえなかった。今こそあれは大人の腰ほどもない私が迷子にならぬよう、しっかり手結ぼうとした優しさだったとわかるが、幼児にはどうしようもない、暴力のようなものにしか感ぜられないものだった。夢現な、幼い私は突如良くない妄想におそわれた。
 今、私の手を握る母。その面差しは紙貼りの陳腐な犬の面に塞がれている。どうしてそれが母だと分かるのだろう。この繋いだ手か、否、この手は家を出た時、まだそれが母だと確信している時に繋がれたものではない。この手はいつ繋がれたのか。どうしてこの手は私をこんなにも強く握って、この音と光と熱の渦の中を引き回すのか。果たして、その犬の面の下には――。
 まったくどこからやってきたのか、それこそ闇の中から襲ってきたとしか思えない、夢魔とも言うべき妄想だった。だが、悪夢の恐ろしきは、明らかに異常な因果に気がつけず、ただその刹那の感情と思考が絶対的な真実としか思えないところにある。私はそのおかしな恐怖にすっかり支配されてしまっていた。
 面の下は母か鬼か。雑踏を抜けて着く先は家か山か。果たして、黒森の中の塗炭の闇に鬼に見えて、私はむしゃむしゃと頭から食われてしまうのだろうか。
 色とりどりの浴衣を纏った、獣を象った面をかけた下から笑い声を漏らす人々の合間を縫うように進む。四方から鮮烈な光が差し込む反面、そこかしこに底の覗けぬ沼のような暗がりがある。すっかり逆上せあがって胡乱となった意識には、今やすべてが夢鬼の饗庭だった。
 そして、私と母は急に人垣から飛び出して、視界の開けた場所に出た。夜店と夜店の合間にあって、濃い闇が溜まった場所だった。いよいよ私の恐怖は高まった。
「少しお待ちな」
 母が再び人垣の中に消えていくのを呆然と見送るしかなかった。
 目の前には獣を象るをかけた夢鬼どもの蠢く人垣、背には星明かりさえもない夜の山森。
 私は息を殺し、じっと浴衣の裾を握っていた。唇を噛み、泣き声が漏れるのを必死に堪えていた。目尻に涙が溜まって風景が滲み、彩り豊かな光球の群れと化して、益々夢のごとく見えた。あるいは妖鬼の手によって私は蚤に変じられ、万華鏡の中に閉じこめられて弄ばれているようでもあった。
 その時、私は人垣の中に妙な人影があるのを見つけてしまった。皆が紙張りの獣面をかけているのに、彼だけは木から彫り出した立派な翁面をかけていたのだ。能に使われる立派な翁面だ。ただそれが、幼い私には老人の面には見えなくて、何か恐ろしいもののように見えたのだった。
 きっとあれが鬼の親玉だ。母に扮した手下が私を捕らえたと伝えて、食べに来たのだと、私はますます恐怖し、漏れそうになる泣き声を必死に堪えた。大丈夫、だって私もお面をかぶっているのだから、きっと私だとわかるわけがない。そう言い聞かせた。
 翁面は傍らに若い女性を連れていた。いや、その女性も面をかけていたから若いかどうか本来はわからないのだが、何となくそうわかったのだった。体つきがほっそりとしていたからか浴衣の柄が明るく賑やかだったからか、今でもわからないが、それでもあれは若い女性だったと思う。
 女性は私や母と同じ犬の面をかけていた。しかし、母ではなかった。
 翁面と女性は人垣の中を手をつなぎ、周りとあわせてゆっくりと歩いていた。流れに任せてゆっくりと私の方に近づいてくる。でもまだ、きっと私には気がついていない。彼と彼女は互いだけしか見ていなかった。
 このまま通り過ぎて。
 しかし、私の願いと裏腹に、私の前を通り過ぎようとする正にその時、翁面がくっとこちらを向いたのだ。大ぶりの面の眼窩と口の中に、僅かに顔が見えた。その目は確かに私を捉えていた。
 そう認めた瞬間に、首筋を何か冷たいものが触れた。
「ひっ」
 ついに恐怖が声となった。総毛立ち、自然と肩と背に力がこもって、ちょうど仔猫が威嚇するような形を、体が勝手にとった。
 くすくすと笑った声は母のものだった。振り返れば、母がよく冷えて水滴を滴らせるラムネ瓶を持って立っていた。
「ごめんねぇ、驚かせちゃって」
 蓋をぐっと押し込み、栓の役目の硝子玉を落とすと母はそれを優しく私に持たせてくれた。その水色の硝子瓶は幼い私の手には大きく余った。
「お飲み」と言われて、初めて私は正気を取り戻した。金縛りが解けて、得体の知れない恐怖から逃れ得た。
 人垣の中にあの翁面の男と犬面の女性を探したが、後ろ姿では誰がそうだったか見つけられるわけがなかった。
「どうしたの、飲まないの」
 母はかけた面をちょっとずらして、もう一本、自分の為に買ってきたラムネの栓を開けた。「おいしいわよ」とちょっと口に含み、笑った。
 私も母に倣って面をずらし、おっかなびっくり、瓶を少し傾けて仄かに甘い香りのする液体をちょっと舐めた。けれど、それでも十分にラムネの甘さを感じる事はできた。私は水飲み鳥のように何度も、瓶を少し傾けては、ラムネ水の水面をちょっと舐めた。その度に、喉から胸までいっぱいに詰まった熱気を少しずつ冷やしてくれて、気づいた頃には先ほどまでの浮かされる感覚もどこかにいってしまっていた。
 私は母の袖を引いて、あの人影のあった方を指さした。あそこに変な人がいたのだと訴えた。見た事もない動物の、白い眉毛とひげの生えた面をかぶった人だったと必死に説明した。
「それは神様よ。お爺ちゃんのお面をかぶった人はね、神様なの」
 母は口角をちょっと上げてそう言った。
 隣に犬のお面をかぶった人がいたよ、犬のお面をかぶった人は私の家族だよね、誰なのかな。そう聞くと母は口角を上げたまま、ちょっと眉を寄せた。
「それはきっと大伯母さんよ。お父さんのお母さんのお姉さん。ちょっと難しいかな」
 大伯母さんは神様と仲がいいの。母は少し首を傾げた。
「そうね。お母さんとお父さんも仲がいいでしょう。大伯母さんと神様も一緒。大伯母さんは神様と結婚したの」
 へえ、じゃあ私もあの子と結婚する。無邪気に将来の夫となる幼馴染の名前を口にすると、母はにこりと優しい笑みを浮かべ、私の頭を撫でた。「そうね。そうなるといいわね」そして犬の面をかけ直した。
 私がたっぷりと、手にした瓶が温くなるくらいの時間をかけてラムネ水を飲み干すと、母は私の口をそっと拭って犬の面をかけ直させた。それからふたたび私の手をとって人垣の中へと戻っていった。
 やはり人垣の中は、光と音と熱気が渦巻いていた。すぐに疲れを覚えて母の顔を見遣ったが、先ほどまで夢鬼に拐かされる妄想にふたたび脅かされて、私はそれから家に帰るまですっかり黙ってしまった。母も私を気遣ってか、何も言わなかった。


 あれが噂の神様だったのかもしれない。
 だが私はそれを誰にも確かめなかった。それを口にする事に言い様のない恐怖を感じるからだ。大伯母という言葉を理解した後も、家族に大伯母がどのような人だったか訊ねなかった。母に、なぜあの若い女性が大伯母なのかも訊ねなかった。
 訪ねる必要はなかった。
 それから翁面をかけた、神様を見ることもなかった。
 今日までは。


 私がそうだったように、娘は初めての祭りに熱に浮かされたようになっていた。私は人垣の隙間を探した。そこはラムネを売る店の向かいにある、なぜか開けた空間だった。
「ちょっと待っていてね」
 かつて母がそうしたように私は娘を待たせてラムネを買いに人垣にわけいった。
 その時に、実に二十年以上の時を経てふたたび私はあの翁面の男性を見た。あの時と変わらず、人垣の中心を人の流れなど意に介さぬように真っ直ぐに歩いている。そして獣ではなく人の翁の面をかけている。
 神様は私の方を一瞥してから、あの時と同じに、娘の方を見遣った。娘は私と同じように背を丸めて体を小さくし、息を殺すようにして神様をじっと見つめている。
 ただあの時と違って、神様の隣には誰もいなかった。
 私はラムネ瓶を一本買って、そして人垣の中へ入った。

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心肺停止


 記憶が確然たるものならば、高校入学時の彼女を僕はこう認識していた筈だ。
 雛芥子佳鈴は無茶苦茶我の強い一匹狼だ、と。
 独立独歩。
 直情径行。
 傍若無人。
 千万人と雖も吾往かん。
 断じて行えば鬼神も之を避く。
 協調性という言葉から遙か僻遠の地に位置するのが佳鈴であると僕は信じて疑わなかったし、実際問題、その認識の正邪曲直を彼女の知人に細評してもらえば花丸満点が返ってくること間違いなかった。
 良く言えば孤高の女傑。
 悪く言えばコミュニケーション障害者。
 しかし、協調性が皆無なら放っておけばいいものの、大変厄介なことに佳鈴は大層な麗人だった。周囲の男共は常夜灯に吸い寄せられるゴミ虫の如く集い、佳鈴をまるで女神の如く崇めた。が、一匹狼を貫く佳鈴にとって信者など至極邪魔な存在で、彼女の取った手段は恒常的に不興顔を周囲に振りまき、殊更に七里結界を全方位に張り巡らすことで収拾を謀った。因みに、僕もその集団を形成するゴミ虫だったことを付言しておく。だが、ただのゴミ虫ではない。僕は佳鈴の、世間一般で言われる『幼なじみ』という役職に就任していた。だから、佳鈴の面白恥ずかしい幼少の記憶を幾らか語れるだけのアドバンテージがあったし、嬉し恥ずかしの青春も全くの皆無というわけではなかった。僕はゴミ虫の中でも比較的優位な位置にいたゴミ虫だった。
 佳鈴が抱懐している感情を別として、少なくとも僕は友達以上恋人未満の間柄として彼女と接していた。しかし、それだけだ。それ以上の関係には決して成れなかった。
 入学して幾月が経過したある日の出来事。女子生徒の間で学年一と評されるイケメンが佳鈴に告白した。が、見事に玉砕した。しかも、その断り方がえげつない。
『アンタに興味が無い』
 情景が浮かんだ。苦虫を噛み潰したような顰めっ面で言い放ったに違いない。取り付く島も見当たらないところが、落とされた場所が太平洋のど真ん中だったのではどうしようもない。その時ばかりはたとえ恋敵であろうと不憫さが募った。手を合わせて合掌。

 でも、まあ、契機は多分、これだったのだろう。
 やらないより、やった方が後悔は少ない、と誰かが言っていた。
 だから、僕は告白した。
 佳鈴を狙っている男子なんて星の数ほどいるのだ。
 いつかはその時が訪れるかもしれない。
 ならば、その前に玉砕しよう。
 学年一のイケメンが玉砕したのだ。
 そう思うと、気持ちが楽だった。

 確か、夏休みを直前に控えていた日のことだった。
 放課後の教室で待っている、との旨を告げてその教室。
 佳鈴が姿を見せて──告白。
 思いの丈をぶつけて──玉砕しよう。
 そう意気込んできたのに、彼女は二つ返事で首を縦に振った。
 まるで、僕がやって来るのを望んでいたようだった。

 どんな脅迫を使った、と彼女を取り巻く男共から集中砲火を受けた。金で買ったか、とも言われた。僕は唯々顔を綻ばせるだけだった。何とでも言えばいい。幸せの絶頂で、どんな暴言暴力も全てがプラスに還元されるのだ。
 恋愛、最高──の、筈だった。
 しかし、こう言っては身も蓋も無い話だが、冷静に事を熟慮してみれば実に不可解だった。彼女と釣り合う要素が僕の何処にあるのだろうか。頭が良いわけでもなく、背が高いわけでもなく、運動が出来るわけもなく、顔だって至って普通だ。

 後に知ることになった。佳鈴が僕を受け入れた理由を。
 恐らく、タイミングが良かったのだ。
 恐らく、人としての問題ではないのだ。
 容姿でも頭脳でも性格でもなく、佳鈴に必要だったのは信頼における人物。
 この時、佳鈴の一番親しい人物は両親も女友達も何もかもを差し置いて、この僕だったのだ。
 それだけのこと。

『心配症』

 僕の幼なじみにして恋人は難症にして奇症を患っていた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『忘れ物をしたかもしれない。ちょっと見てくる』

『あれ? 家の鍵閉めた? もしかしたら開けっ放しかも。ちょっと見てくる』

『指を切った。嫌だ、ここから黴菌が入って死ぬかもしれない。ねえ、あれやってよ。傷口を口に含むやつ。みーくんの唾液ならすぐにでも完治しそうな気がするの』

『みーくんはいつまでもあたしの彼氏。……だよね? 浮気なんかしないよね? ……そこまで言うのなら誠意を見せてもらおうかな? 最低でもハグとキス。それ以上なら……それはとても嬉しいなって』

『い・や・だ。あたし、みーくんの側にいる。だって、この腕を離したらそのまま何処かに行ってしまいそうで怖いの。だから先生、席替えはみーくんの隣を所望します』

『知らない人が作ったご飯が食べられない。あたしを狙った誰かが密かに毒物を仕込むかもしれない。ファーストフードもコンビニの弁当も、お母さんの手料理も無理。ん? お母さんの手料理を最後に食べたのって……いつだっけ? どうでもいいや。でもね、みーくんの作った料理なら食べられる。今日の晩ご飯は麻婆豆腐がいいな』

『みーくんみーくん! 焦げた! フライパンにお肉入れてそのまま放置していたら焦げた! 忙しいみーくんのために明日のお弁当を作っていたの! でも、こんなまっくろくろすけ食べたら癌に──って食べちゃだめ! みーくんが癌になって死んだらあたし、この先どうやって生きていけばいいの? やだよ、もう一人は嫌……』

『あれもこれもそれもどれも心配事だらけ。みーくん。心配事は全部みーくんが解決してくれるんだよね? 信じていいよね?』

『ねえ、みーくん。死後の世界ってどんな世界? なんだか怖くない? あたし、心配で心配で眠れないよ。だからね、腕枕してほしいなって』

『……………………………………………………………………』

『……………………………………………………………………』

『あのね、よく考えてみたらあたし達って有限の動物なの。そう、寿命。終わりが必ず来るの。でもね、寿命はあらゆる生命に等しくやって来るものだけれど、等しい時間にやってくるとは限らないわけ。要するに、天寿を全うするタイミングはみーくんと一緒じゃないの。女の人の方が長寿なのは自明の理。つまりだよ。長生きしても結局はあたしが取り残されるわけで、そもそも、長い人生を歩んだところで、みーくんとはどこかで袂が分かれるかもしれない。あたしにはその気が無いけど、みーくんはどうだろうね。まあ、みーくんが立派な社会人になれば片時も一緒にいるなんてこと不可能だし、最悪の仮定として、あたしかみーくんが不意の事故で死ぬかもしれない。今のご時世、何が起きても不思議じゃないから。でもね、あたし、ずっとみーくんの側にいないと無理。一時間だって離れることが出来ない。みーくんがいなくなったらと思うと心配で心配で心配で……。最近、こればっかり考えていたの。でね、漸く答えが出たの。オホン、つまりね、不確定未来を歩むより、もう終わりにしてもいいと思うの。人生を。ね、つまりこういうこと』

 ──一緒に死ねば心配事なんて無くなるとは思わない?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ──長い夢だった。すごく懐かしい夢だった。

 暑くて目が覚めた。
 意識が朦朧とする中、僕は何となく視線を宙に迷わせた。
 それなりに大きな部屋だった。
 天井にぶら下がった電球の光が宙を舞う埃の姿を露わにする。それ以外に光はなかった。外部と繋がるのは正面に見える扉くらいなのだろう。陽光も月光も入り込む余地がない。
 部屋に籠もった熱気。どっと吹き出る汗の粒。額に浮かんだ汗を拭おうとして、体が部屋のど真ん中にある大黒柱に縛られていることに気がつく。どうやら僕は囚われの身となっているようだった。
 ──冷静に。まずは落ち着こう。
 瞼を閉じて、深呼吸。部屋に染み込む蝉時雨に耳を傾ける。
 ──うん、落ち着いた。
 部屋の隅々を見渡す。が、僕の存知している場所ではなかった。
 随分と古めかしい木造建築だった。何処かの掘っ建て小屋なのだろうか。部屋の片隅には蜘蛛の巣が所狭しと張っているし、黴臭い感じが何とも言えない。棚や床に物が乱雑していることからここは物置ではないか、と推測できた。ただ一つ、奇妙な点を挙げるとしたならば、床に等間隔に置かれた小さな置物。これだけはもう少し近くで見ないことには判断できなかった。
 立て付けの悪い扉の開閉。姿を見せる佳鈴。
 白のワンピースに身を包んだ佳鈴は両手で何かを抱えていた。
「みーくん、おはよう」
 僕は挨拶抜きで問い掛ける。
「何の冗談だ」
「冗談じゃないよ」
 直ぐさま返事が返ってきた。
 佳鈴は頬を膨らませて、
「あたしは本気。みーくんを殺してあたしも死ぬ」
「……」
 酷く真面目な顔つきで言ってのけた。場所が場所なら抱腹絶倒ものだが、そういう場ではないことくらい僕の足りない頭でも理解できた。
 すっかり不機嫌となった佳鈴に縋るように、
「此処は何処なんだ? そもそも何で僕はここにいるんだ?」
 純粋な質問だった。経緯を逐一思い出そうと努力するのだけれど、どうにも思い出せない。ぽっかりと、其処だけが抜け落ちたかのように空白の時間が出来ているのだ。
 ところが、佳鈴は更に不機嫌となった。
「ねえ、みーくん。もう現世にいる時間も少ないんだよ。もっと有意義な事に時間を使おうよ。」
 諦めよう。どうやら僕は生きては帰れないらしい。ならば他のことにエネルギーを使おう。例えば僕はどうやって殺されるのか。
 佳鈴の抱えていた物を凝視してみると、床のそれと近似していた。
「その抱えている物は何だ?」
 不機嫌な顔つきは継続したままで、
「七輪だよ。聞いたことない? 練炭自殺って。準備するのに時間が掛かるから、片手間に教えてあげるね。使うのは練炭と七輪。本当はね、練炭を使うときには練炭コンロを使わないといけないの。練炭コンロを使わないと酸素が十分に供給されないから不完全燃焼を起こして一酸化炭素が発生しちゃうの。一酸化炭素は酸素の約二百五十倍以上の親和性で赤血球のヘモグロビンと結合するの。つまりね、一酸化炭素がヘモグロビンを独り占めにしているから酸素を運搬できないの。うふふ、一酸化炭素ってあたしみたい。みーくんも知っているでしょ? みーくん、生物だけは得意だからね。でね、練炭自殺の最大の利点は楽に死ねることなんだよ。一酸化炭素の大気中濃度は百ppm程度で中毒、千五百ppm程度で死亡。この部屋にこれだけの七輪を置けば一酸化炭素はあっという間に致死量に達する。睡眠薬を飲めば寝ている合間にあの世にいけるのだけれど、それじゃあ、みーくんと最期の会話が出来ないでしょ。大丈夫、一酸化炭素で息苦しくは感じないの。狭い部屋で練炭自殺をすると一酸化炭素より二酸化炭素の方が早く充満しちゃうけど、このくらいの広さなら大丈夫。頭がポワポワしてきたら後は瞳を閉じるだけ」
 ぞっとした。汗の種類が一瞬にして変化した。
「考え直してくれないのか」
 佳鈴は不敵に笑った。
「無理かな。この世界には心配事が多すぎるの。知っているでしょ? あたしの性格」
「……そうだったな」
 雛芥子佳鈴は無茶苦茶我の強い一匹狼だ。
 独立独歩。
 直情径行。
 傍若無人。
 千万人と雖も吾往かん。
 断じて行えば鬼神も之を避く。
 元々は他人の意見に耳を貸さない奴なのだ。
 佳鈴は僕に寄り添い瞼をそっと閉じた。
 意識が薄れていく。
 これが俗に言うポワポワした状態なのだろうか。
「みーくんがいて、その隣にあたしがいる。二人仲良く死ねる。これで心配事は何一つ無くなったね」
 僕はあの世でも佳鈴と一緒なのだろうか。心配だ。

第二十三回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


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