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さらし文学賞
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白灰

 空から灰が降ってきた。
 砂よりも細かい灰が天から零れているのである。
 白い。
 その白い灰が木々に降りかかり、地に滑りては小さな山を作っている。
 その山を踏み砕き男は頂上を目指していた。
 男は一人であった。
 背に一抱えもする甕を背負っている。
 今朝方男は異変に気付いた。何やら空がえらく白い。単なる曇天であるわけでもなく、ただ、透けるように無であった。
 見上げていると顔に何かが降りかかる。
 それがこの灰であった。
 男は窓を閉め考えた。彼には女房も子もいない。両者とも数年前に死んでいた。彼は数分目を閉じて、やがて甕を背負って家を出た。戸を開けて外を見ると、灰が流れ込んできた。踏み出した足は少し沈んだ。風に吹かれて戸が啼いたが、男が歩き進めれば、やがてその音も聞こえなくなる。彼はそのまま道を進んだ。途中で鳥が落ちていた。青い鳥にも白は降り積む。
 それを彼は拾い上げ、甕に入れては再び歩いた。
 もう灰は幾ばかりか積もっていた。なんとか埋もれぬようにと彼は歩いた。黒い髪は白くなり、彼の眼もまた混濁した。掬えば余るほどの灰があったが、決して舞い上がりはしなかった。膨らんだ地にも窪んだ地にも、どのような地にも降り積もり、ただ平坦な世界ができていた。
 時折足を取られて倒れこみ、枝々に傷つきながらも彼は歩いた。そうしてやっと彼はてっぺんに来た。
 思わず彼は低くうなった。眼下はすでに平たくなっていた。家も山も川も海も今はなにも関係ない。男は黙って甕を降ろし、おもむろに蓋を取り去った。
 甕には灰が詰まっていた。道中の鳥も姿はない。ずしりと沈むその甕を、彼は抱えて崖からこぼした。
 灰が風に流れ舞う。
 さらさらと。
 さらさらと。
 男はゆるゆると甕を傾けた。そして甕が軽くなったとき、あるものが男の指に引っかかった。
 男はすべてをこぼしきり、その異物を確かめた。
 それは細君の服のきれだった。妻の愛した藍色が指に絡んでで冴えていた。
 男にはもう何も見えなかった。彼はそれを抱きしめて、そっと接吻して白と果てた。


 男は最後の一人であった。
 灰は今日も積もり降る。

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第二十二回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


無知覚分子と天体観測

 空から女の子が落ちてきた。
 ビルの屋上で夜空を眺めていたわたしの上に、落ちる、といい表すにはあまりにゆっくりと降下してきたそれはあたりまえのように美しく、なにものも身に纏ってはいなかった。
 両手を投げ出して寝ころぶわたしの胸に飛び込むようにして、彼女はわたしの唇に自身の同じものを重ねようとした。わたしはとっさに避けて、口の中を傷つけてしまう。かすかな血の味が口のなかに広がった。
「ああ、ごめんよ」
 そうして彼女は、わたしに口をきいた。
「痛かったかい」
 唇の裏辺りがひりひりとしみてきて、ここが夢の中ではないのだと理解させられた。
「あなた、だれ」
 恐怖も震えもなかったけれど、言葉を発するのはそれが精一杯だった。
「私は天使だよ」
 裸の少女はそう、涼やかにささめいた。
「いきなり何をしたの」
 わたしは口元を押さえた。天使と名乗った彼女はうっすらと笑みを浮かべて、わたしの首に細い腕を絡ませる。口付けだよ、とにべもなく言った。
「口付けね。そんなもの……」
「意味ならあるよ。私の遺伝子の一部はすでに、ここにある」
 天使はその白い指先を、わたしの唇に添えた。

  *  *  *

 
動物的な生殖についての知識を得たのはずっと前のことだ。なぜ性差というものが有り得、恋愛感情が発生するのか、一定の知識は持ち合わせていた。夢のような甘い口づけでも子孫は残せない。そんなことはとっくの昔に知っている。
 いつまでも駄々をこねるわけにはいかないのだ。白馬の王子様は現れない。口づけは究極には至らない。甘美な終焉になりえない。わたしたちは遺伝子をつたえてきた。そしてこれからも、それは受けつがれていかなければならないのだ。
 だからこそかんに障る。
「ね、今夜行こう、星を観にさ、」
 いまわたしの周りをさながら反復横飛びのように行ったりきたりしながら話しかけてくるこの男が、だ。さっきから無視しているのに、どうしてこうもしつこいのか。
 男女二人で星を観に行くって?
 笑止。
 そんなつまらないものにつきあう義理などない。
 たとえ、この男の最終的な目的が生殖にあったとして、わたしにも選択の余地というものがあるだろう。いやいや、むしろ生殖に伴う快楽ばかりに夢中で、いざ受精と相成ったら嫌がる手合いである可能性の方が遙かに高いではないか。
 無視無視。
「ねえ、ね、ねぇってば」
 ああもう、うるさいなあ。
「二組の京子ちゃんも行くって言ってるしさ、ケントも勇も乗り気なんだよ。ね、美弥子さんもおいでよ」
 あれ? 二人で行くんじゃなかったっけ。わたしの聞き間違いだったかしら。
「みんな行くなら、行くわ。わたしてっきり……」
 いやいや。わたしはそこで口をつぐんだ。こちらのエラーをわざわざ報告することはない。
「よかった。場所は廃ビルの屋上だから、日が暮れる頃待ち合わせね」
 男は、紙切れに書かれた簡単な地図を寄越すと、さっさとどこかへ行ってしまった。わたしは中断されていた帰り支度をすませて帰途につくことにした。季節は夏。日はまだまだ長いのだ。

 なるほどなるほど。あの男、作図能力は充分評価の対象となりえる。わたしは、さして迷うことなく古ぼけたビルにたどり着くことができた。
 あたりを見回したがわたししかいないようだ。まあ、今やっと夕焼けが西の空を染め始めた頃だからな。夜はこれからこれから。のんびり待つとしよう。
 
 さて、わたしはその後30分ほど待っていたわけだが、誰一人として姿をみせない。
 このあたりはどうも寂れゆく過程にあるらしく、ぽつりぽつりと配置された電灯以外に明かりはなく、民家もほとんど存在しない。年頃の女の子なんかは、寂しかったり不安だったりするんだろうな。
 ああ、わたしもそうか。
 まあいい、とにかく誰かこないのか。大人数で星を観るんだろう? 集団で時間にルーズとはやっかいだな。
 おやおや、やっと主催者のご到着か。
「ごめん、待ったかな」
 その妙になれなれしい言い回しは是非やめてほしいものだな。
「いや、ついさっき着いたばかりよ」
 ……デートか!
 いけないいけないなんてセルフつっこみをしてしまったんだそもそも暗い中待ってたんだから文句ぐらい言ってもよかったのにもう!
「実は、言いにくいことなんだけど、今日くるって行ってたみんな、急に用事ができたらしいんだよ」
 な。な?
 何だって、とは言わないからなわたしはしかしどういうことだおいそんないっぺんに急用が発生するわけないだろていうかホントに男女二人で天体観測とか聞いてないぞわたしは――
「悪い!」
 突然男は、顔の前で手を合わすと、謝罪のジェスチャーをした。
「……今回は中止ってことでいいかな」
「ああ、いや、でも」
 サンクコストは回収できないから意志決定には関係ないなんて言ってるのは経済学者くらいのものだからな。何しろ女の子が暗い中一人で待ってたんだからな、もったいないからな。
「せっかくだから、観ていかない?」
 わたしはそう問いかけた。語尾を上げれば何でも「問い」だ。つまり、決定するのは、向こう側。責任を負うのも向こう側。
「うーん、ケントが持ってきてくれるはずだった望遠鏡もないしなあ」
 煮えきらないわね草食系。
「あんまり女の子に恥かかせないでほしいな」
 ……言ってやったぞ。こいつは最後の切り札だ。これで何ともない男がいるわけないじゃない。
「ああ、うん、ごめん。待ちぼうけさせたことは謝るよ。本当に悪いと思ってる」
 そういうことじゃねえよ!
「行きましょう」
 わたしは彼の手を引いて、廃ビルの敷地内へ入っていく。立ち入り禁止? そんなもの関係無いわよ。
「え、ちょっ、待ってよ」
「悪いと思ってるんでしょ?」
 ぐいぐい引っ張って、非常階段を一気に屋上までかけあがる。
「ねえ、星なんか観て、あなたたちはどうするつもりだったの」
 六階分の階段は、一度に上るには手強い。息を荒くしながら、わたしは彼に問うていた。
「それって楽しいの? 何でわたしを誘ったの」
 どうしてわたしはこんなところで全速力なんだっけ?
「楽しくなかったらどうしてこんなまねするのさ、君は」
 彼は言い返すけれど、わたしは楽しんでなんかない。ただ意地になっているのだ。埋没費用を掘り返しているのだ。
 本当に星をみたいの? あなたたちは、わたしたちは、それ以外の目的で動いているのではないの? 生殖に付随するノイズに惑わされているだけでしょう。そうじゃなければわたしはなにを必死に避けてきたの。
 どうしてあなたは帰ろうとしたの。
 どうしてみんな急用なんてできたの。
「ついたわ」
 だっれもいない、ふたりっきりの、よるの、おくじょうよ。
「ねえ、今夜の星は、きれいなの?」
 彼は座り込んでしまった。意外と体力無いのね。
 
 *   *    *

「私の遺伝子の一部はすでに、ここにある」
 そう言って天使と名乗る彼女は、わたしの唇に触れた。
「どういう意味よ」
 そのままの意味だよ、と天使は笑う。
「私は寄生虫に巣くわれているような状況にあってね。今のキスで君にも感染させたってわけさ」
 へらへらしたまま彼女はとんでもない事実を私に告げた。
「なんてことを……」
「健康には特に害はないんだよ。ま、吸血鬼にかまれたと思えばいい。君も今日から吸血鬼。よろしく」
「あなた自分は天使って言ったじゃない」
「天使だよ。そして吸血鬼でもある。けど、もっとわかりやすく言えば、ある特定の分子構造を伝える為の存在だね。いいかい、生存競争は種全体で行われるか。否。では個体間では。これも否だ。何せ個体は死ぬのだよ? 『遺伝子』とは『遺』し、『伝』える物なんだからね、当然だ」
 私たちは、遺伝子の仮宿なのさ。彼女はそう言った。
「だからさ、個体が生殖について悩む必要なんかないんだ。遺伝子のせいで、君だってずいぶん恥ずかしい思いをしたろ。こんなところに男女二人きりなんてさ」
 彼女が目をやった先には彼が仰向けになっている。さっきまでのわたしのように両手を広げて。時間ごと静止したみたいに、ピクリとも動かないけれど。 
「でももう、大丈夫! ひとまず私のおかげで吸血鬼になった君は有性生殖からは解放されました。おめでとう! でもね、代わりに生き物にキスしたくなる衝動が『遺伝子』によって生み出されるんだ。私の送り込んだ『遺伝子』ってのは地球上の生物の持ついわゆる遺伝子とは根本的に違って、個体の管制を後から奪うことができるんだよ」
 彼女は、きっと心地のいい笑顔で、わたしにそう言った。
「もう君は、男性に対して何の性欲もわかないよ。ただ、『キスしたい』っていう乙女みたいな感情を抱いて生きるんだ。そうだね、私は天使で、吸血鬼で、王子様なんだ」
 すっ、と彼女は顔を寄せ、耳打ちする。
「じゃあさ、続きをしようか、キスの。彼の寝てる隣で。大丈夫、今度は上手くやるからさ、痛くしないよ」
 彼女の創った傷が、かすかにうずきはじめる。




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空から、雪が降ってきた。
いや、埃だ。綿埃。しかも、正確には空ではない。穴から埃が降って来た。
私の頭上には、ずっと昔から大きな黒い穴があいていた。直径一メートルほどで、真っ黒で何も見えない。ただ平坦で、しかし奥深い黒い穴があった。
穴はいつもあった。小さい頃から、今も。部屋にいる時も、街を歩く時も、教室で授業を受けている時も、穴はついてきた。走っても走っても、私の頭上を離れない。たまに穴を見つめるけど、表情も変えないままただそこにある。
たまに、穴の中から人が出てくる。男が一人。肩から上だけぬっと出てくる。黒目、鼻の穴、口は真っ黒で、その穴と同じように黒い。白目はない。七三分けの髪に、深い緑色のセーターを着ている。下は分からない、出てこないから。顔色は悪く、生気はない。へたくそな絵のように立体感のない、平面的な顔の男。年は分からない。それほど老けてはいないが、疲れた顔をしている。
男は話す。私にいろいろな話をする。たまに、何の言葉か分からない、というか言葉にすらならない音を発するけど、私は無視する。分かるところだけ返すようにしている。
穴は私にしか見えないようだ。男も見えないし、男の声も聞こえない。でも、落ちてきた物は見える。だから、皆怖がる。
それで、そう、埃が降ってきた。穴からは、よく物が落ちてくる。今日は埃だったけど、普通の物も落ちてくる。エンピツ、みかん、野球のボール、コオロギ、革靴、唐揚げ、砂。何でも落ちてくる。見たこともない生き物も落ちてくる。いつかお金が降ってこないか期待しているけれど、そう都合よくいかない。お金が降ってきたら、どこか旅に行こう、そうしよう。
「おーい、暴れんな」
呼びかけても、返事はない。埃はよく落ちてくる。
今は登校中で、私が歩くと穴もついてくる。正門が見えた。頭とマフラーに落ちた埃を払う。だんだんおなか痛くなってきた。

「だから暴れんな」
教室でも、埃まみれになりながら呼びかける。さっきより埃は増えている。掃除めんどくさいじゃん。
今は授業中で、教室はチョークが黒板を打つ音、シャープペンのさらさらいう音がみちている。誰も話さない。人は黙ってノートに向かっている。先生も黙って黒板を白く埋めていく。
誰も私を見ない。人は私を怖がっている。人には穴が見えないらしい。ちなみに私はクラスメイトを「人」と呼ぶ。人は私のことを見て見ぬふりをする。
「もう、埃やめてよー」
上を向いて言ったら、口に綿埃が入った。ぶうぇー。
「山口さん、し、しずかにしてください」
 先生は黒板を埋める作業をやめて、こちらに向き直って私に言う。できるだけ目を合わせないようにしている。私は手を挙げて、
「先生、埃がひどいので注意します」
正当な主張。先生はうつむいて、また作業に戻った。人はノートを黒く埋めている。
「さっきより悪化してんじゃねーか」
埃は止まらない。

次の時間には、男が出てきた。先生は変わったけど、人たちは変わっていない。先生は黒板を白く、人はノートを黒くする仕事に忙しい。
「ごめーん」
男が出てきた。男は穴から上半身を出しているので、宙づりになっているように見える。私も上を向いて返事をした。
「ごめーん、じゃない。めっちゃ汚れたし」
「ちょっと探し物してて」
男の顔は相変わらず死人のようで、土気色をしている。声にも表情はない。
この会話は人には聞こえていない。だから、私は教室で天井を見上げて独り言を言っているようにしかみえない。しかも、空から何か降ってくる。そりゃ怖がる。またおなか痛くなってきた。
「探す物なんかあるのかい」
「あるさ」
「どうせくだらん物だろうに」
「くだらん言うな」
すると男はピロピロピロピロと音を発しながら穴へ戻っていった。小学生の頃持っていた防犯ブザーの音にそっくりだった。
もう誰も私を注意しない。いつものことだから。男が帰ると、またおなかが痛くなってきた。
「先生、おなかが痛いので保健室に向かいます」
まっすぐ手を挙げてはっきりと言った。先生は一瞬手を止め、またすぐ文字の羅列を書き始めた。きっと承認の合図。私は荷物をまとめて、帰宅の準備をした。保健室なんて、行かないよー。

学校は好きじゃない。皆ノートと黒板しか見ていない。私を見ない。お互いを見ない。誰も話さない。気持ち悪いの。いやだもん。帰る。

でも、学校に行かないわけにはいかなくて、結局次の日も来る。同じ通学路。歩いて十五分。黒い穴と一緒に。今日は何も降ってこない。
「おーい」
男はいつも返事をするわけではないから、私は一人。黒い穴の周りには冬の高い空が見える。私はこれまで一度だって上空一面の青空を見たことがなかった。

おなか痛い。
男も出てこないし、何も降ってこない。ふざけんな。埃以外に何かあるだろ。お金お金。そのお金で知らない国に行く。私の事を知ってる人がいない所に行く。なんとなく希望を求めて。でも言葉が通じないや、どうしよう。通訳つけたら、多分予算が足りない。
そんなこと考えていたら、午後になった。
教室は相変わらずで、男も出てこなかった。
「ねえ、ひまー」
穴に向かって呼びかけても、返事はない。
「なんだよー、相手にしろよー。つまらん」
ついでに、ばーかって小声で言った。すると、小さな声が聞こえた。小さすぎて何と言っているか聞きとれない。あ…、あ…。それだけ聞こえる。しかも上からじゃない。横。私の左隣。
座っている人。眼鏡をかけた、小柄な男の人。クラスメイト。私は初めて顔を見た。もう半年以上この席に座っているのに、隣の席の人を見たのは初めてだ。誰だ。人たちの一人に過ぎない人。
「あ、あの……」
人は私の目を見たり、うつむいたりもじもじしていた。よく分からん。仕方ないから、人をじっと見る。
「あの、さ……。静かにした方が。じゅ、授業中だし」
どうやら注意したかったようだ。
「それは、すみません。黙ります」
先生以に注意されたのは初めてだった。皆私を怖がって話しかけなかったから。この人は怯えながら私に話しかけた。もう一度その人の目をじっと見るけど、反らされた。顔を真っ赤にして、ノートを埋める仕事に戻った。
風が吹いた気がした。私は人をじっと見ていて、時間が止まっていた。
「おおおおお、おおお」
次は上から声がして、我に返った。穴から男が出てきて、何か言っている。
「おおお、おおおっお、おおおおっ、おお」
またよく分からない音の羅列。最近、通じない言葉が多くなってきた。
「いきなりなんだよ。変な声出さないで」
「おおおっおお、おおお」
だんだん穴に消えていった。声は聞こえなくなった。また、部屋は静かになった。

今日の通学路は短く感じた。ずっと考え事をしていた。目に浮かぶのは、隣の男の人の黒い目。一瞬合った目。久しぶりすぎる感覚に戸惑っている私がいて、その私を不思議に思う私もいた。
教室に入ると、朝から人たちは机に向かっていた。まだ授業まで時間はあるのに、席はすべて埋まっている。
席につくと、隣の人も必死に数学の問題を解いていた。一瞬だけ視線をこちらに向けて、またあわててノートに戻した。
久しぶりに、誰かに話しかけようと思った。小さい頃から、私は皆に怖がられていたから、誰でも話しかけると逃げていった。いつもひとり。最近は誰にも迷惑をかけないよう、ひとりでいた。でもつまらないから、穴の男とはなすようになる。
あれ、どっちが先だっけ。私がひとりになったのが先? それとも穴が出来て男がやってきたのが先? いつから穴があったのか、もう思い出せない。
今日はおなかも痛くないし、調子がいい。男も現れない。左の人に話しかけてみる。
「昨日は失礼しました」
お辞儀すると、左の人はびっくりしてシャープペンを落とした。
「あわっ、は、はい、すいませんでした昨日は」
人は目を合わせてくれない。やっぱり私はだめなんだな。うわー。
久しぶりの切なさを味わいながら、教科書を机に入れた。どうして声なんかかけたんだろう。調子のんな、私。
「あの、気にしないでください、別に」
左の人からレスポンス。今度は私がびっくり。
「ずっと気になっていたもんで、はい。山口さん、昨日埃まみれだったから」
「それは私のせいではないです。これのせい」
私は人差し指で上を示した。彼は「はははは」とひきつった笑顔で笑うしかなかった。
 あ、またやっちゃった。周りの人に穴は見えていないのに。完全に引かれたよ、これ。反省。
でも彼は強者だった。
「山口さんって、面白いですね……。あ、別に変とかそういう意味じゃなくて、まあ、確かにちょっと変わってる所はあるけど、でも、それも個性っていうか、ほら、ここにいるような人とは全然違うよねって話で、僕は全然悪いと思わないし、他の人はどう思ってるか分からないけど、僕は面白いと思うし、山口さ」
「よくしゃべりますね」
沈黙。またやっちまった。
彼は変な人だな、と思った。私と積極的に関わろうとするのは、そうとう変わり者だと思う。私が言うのもなんだが。彼の目を見ると、彼も私の目を見た。他の人の目に、今私が映っていると思うと不思議な気分になった。
「私の目を見て、怖くないんですか」
気になって聞いた。彼は相変わらず顔を真っ赤にしていて、困った様子だ。でも、ゆっくり答えた。
「怖くなんてないですよ、全然」
予想外の返事。
「あなたはきっと変です。おかしいです。私が言うのだから間違いない」
そう、変な人。彼はまた仕方なく笑って、すみません、と言った。
ふと上を見上げると、穴がすこし小さくなっている気がした。今日は何も降ってこないし、音も聞こえない。
「上の人、出てきません。どうしたのでしょう」
「いや、どうしたって言われても……」
もう穴の男は現れないのだろうか。また穴が小さくなった。
「でも、あなたが話してくれるなら、いらないかもしれない」
私は彼の目をまっすぐ見て言った。こんなに簡単に人を信じていいのだろうか。私には分からないけど、久しぶりのこの感覚にもうすこしだけ流されていたい。
彼はもっと顔を真っ赤にして、シャープペンを置いた。
「はっ、はい。もう少し話しますか」
私はうなずいて、すると授業のチャイムが鳴った。
もう空からは何も降ってこない。もう穴はほとんど見えなくなっていた。

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上へ行く

 空からぱんつが降ってきた。正確に言えば、ショーツとかパンティとか、つまりは女性用下着のことである。俺がちょうどエレベーターから降りてきたところで、頭の上に落ちてきたのだ。頭に乗っかったぱんつはほんのり暖かかった。うは。やった。これは幸先いいや。白い生地に小さな赤いリボンの刺繍が施されている。うん、なかなか可愛いじゃんか。その可愛い感じがこの真っ白なぱんつを希望に見せる。いいね。希望だって。そんなものがまだここにあったんだ。というか、まだ俺に希望なんてものが見出せるんだ。俺すげー。気付くと自分ながら異常に気分が高揚していた。テンションが高いのはいつものことだけど。うははははは。まあせっかく落ちてたんだからしかたないそのままポケットにしまっておくのとか放っておいとくとかしたって面白くないから、うん、せっかくだから被ってしまおう。思い切って被ってしまうと、案外いい感じに収まった。明らかに俺の頭には小さいが、そこんとこゴムの締りが気持ちいい。おう。これはまた、別の次元の扉を開いちまったぜベイビー。
 エレベーターとかいう立派な名前に負けた木箱から降りた先の世界は大して下の世界と変わらない。何もない地面が彼方まで広がっているだけ。ほうほう。所詮そんなものか。汗と血と涙と苦痛にまみれた俺の苦しみの結末はこの通り、やはり不毛な世界なのである。下の不毛な世界と変わりないように見えるのは、この世界も下の世界となんら変わりないからであるのに違いない。俺のような人間が目指さねばならない唯一の道が上の世界へ行くことなのだから、まあつまり俺は目指すとこ一歩をまたゴールに向かって踏み出したわけである。っても、ゴールなんてあんのかよ。とか、ツッコミたくなる。
 ぱんつを被ったまま看板の指示通りに道なき道を歩いて行くと、数百キロメートル先に(と看板に書いてある)アラビアンな宮殿が蜃気楼っぽく歪んで見えるが、それが蜃気楼で歪んでいるのではないことくらいは知っている。ここから引き返して適当にブラついて遊ぶのも手だろうが、ブラついたって何か発見がある世界じゃないし、それに最終的に慢性飢餓状態に陥って何も出来なくなることくらい容易に想像がつく。俺は下の世界から這い上がれぬあのウスラトンカチとは違うしあのヘッポコピーなんかとも違う。よし。甘んじて労苦を噛みしめようじゃないか。それこそが我が人生、とかって。うははははは。なんでやねん。
 鼻歌を口ずさみながら道なき道を数百キロメートル歩くと宮殿の入り口である巨大な門に辿り着く。装飾こそは綺麗だが、綺麗なものにこそ毒も棘もある。ほら。綺麗なものって、つまりは綺麗じゃないものが求めるものだし。あ。だからここは綺麗なのか。と思って俺天才と思うが、天才である必要はないことを知っているし尚更哲学的な考えこそがここでの綺麗なことに含まれてしまうのだからつまり俺は綺麗ではない。俺は汚い。知ってる。うははははは。なんでやねん。うははははは。
「おい貴様」
 下にいたときと同じような顔の獄卒が門番の恰好で、巨大な鉄棒を持って宮殿の前に立っていた。俺をひと目見るや鬼の形相で大声を張り上げる。奴らの地声は異常に大きい。
「下から来た奴か」獄卒は俺が被っているものを見て言う。「なんだそれは」
「へえ、ぱんつでさ」俺が笑って答えても獄卒はあるのかないのか分らない表情を変えない。
「そんなことはわかっている。何故被っているのだ」
「実はですねえ」特に理由があるわけではないが、俺は天才であるからして、正直なことが言えない。生まれながらにして罪な存在なのだ。「ぱんつを被ると頭がよくなるんですわ」
「ほう」
「まずこめかみにある太陽穴と頷厭、耳朶上の浮白と角孫、そして後頭部の脳戸と玉枕と強間が刺激され、それはもう頭がぼおっとするほどに気持ちがいいのです」
「どれ、俺にも貸してみろ」
 獄卒が俺の頭からぱんつをひん剥いて自ら被ると、ちょうどぱんつの足を出す部分から飾り程度に生えている角が見えてしまい、俺は笑いを堪えるのが辛くなる。とはいえ、辛いのは得意なので俺は黙っていられる。仕事はきっちりするが知恵の足りない獄卒は本当に莫迦だからあまり面白みがないが暇つぶしにはなる。気分も感情も思慮も遠慮も持ち合わせぬ獄卒は得意そうな顔さえしないで相も変わらず鬼の形相のままぱんつを被っている。
「で、鬼子さん。俺はここに入るのですかい」俺が目の前の綺麗な宮殿を指差すと、獄卒は頷く。
「ああ、だがまだ開門の時間ではない。待っていろ」
「さいですか。どのくらいかですかね」
「明日には開く」
「ほほう。そんなら、ここで待たせてもらいますわ」
 そうして宮殿の素晴らしい彫刻にもたれかかって俺は座って天を仰ぐ。不毛なこの世界に太陽なんてものはないのだが、それならばどうして視界が存在するのかわからない。ただ不毛な大地に不毛な天に不毛な気持ちと不毛な身体を以って不毛な未来へ猪突猛進するしかない。俺はそれを何年も繰り返してきたわけだが挫折はしなかった。と思うとやはり俺天才と思える。うははははは。明日開くということはあと三年ほど待つということだ。大したことじゃない。一日程度飲み食いしなくても酷い飢えにはならないし、っていうか、そもそもここ一か月は何も食べてない。それに加えてもう寝るのを止めたのだから、寝不足の変なテンションも相俟って俺は今とても気分がハイなのだ。誰にも俺を止められない。俺も俺を止められない。うははははは。
「貴様が言うほどの効果は得られそうにないな」
 俺が座るや否や鬼の形相で獄卒は俺に被っていたぱんつを頭から外した。獄卒の頭には環状にゴムの跡が残っており、また俺は吹き出しそうになる。
「そうでしょうとも。それは頭のいいお方には通用しないのです」
「ほう」驚きもせず鬼の形相で獄卒は俺を見る。
「ええ、頭が頑丈で硬くて大きくて歪な貴方様には通用しないのです」
 獄卒は少し何かを考えるような仕草を鬼の形相でするが何がお前にわかるってんだばーかと俺は微笑みながら悪態をつく。結局獄卒は俺にぱんつを投げる。俺は顔面で受け取って、ゴムの伸びたぱんつをもはや被れないことを残念に思いつつポケットに仕舞う。
 それから随分経った。もともと食べていないことも含め、急激に飢えと渇きに襲われた。俺は死にもせず飢餓に悶え苦しみのたうちまわって過ごすがテンションは変わらずにいる。いつか下の世界で教わったように自分の腕を刺して出た血を飲んだり剥いだ肉を食べたりするのだが、自分で自分を削るのは当然神経を分断するのだから苦しみは飢えから身体的なものへと移行するだけである。辛いのは得意なので、まあ別段どうということでもないし、俺としては飢えよりは痛いほうがいい。落ちていた石を割って尖らせて自分の左上腕(肩から肘までの部分)の内側に突き立てる。思い切りに欠けるが、次第に肉を割いて行ったほうが傷が深くならないで何度も利用出来るからそうすることにしている。徐々に腕に突き立てた石に力を入れていき、それに伴って徐々に突き立てた肌の一点が沈んでいく。適当な力の時に石をすっと引くと、ぷちと肌が裂けて傷口が開く。俺は当然人間のあらゆる器官の位置を把握しているので出血の加減くらい容易にコントロール出来る。故に大量の出血をさせてみると、だばだばと腕から出血し始める。もったいないから俺はすぐ自らの左腕に吸い付いて、出てくる血という血を飲んで飲んで飲んで飲んで飲み尽くすと、若干の貧血を体感して寒気に身が震える。が、出血は止まらないので放置しておく。渇きが癒えると、次に飢えが抑えられなくなってくる。だばだばと未だ出血の止まらぬ傷口にまた石を突き立て、今度は尖端を押し込んで抉り肉をめりめりと剥いでいく。慣れてしまえばかさぶたを剥いでいくプラス激痛みたいな感じだ。左腕のとうに黒ずんでしまっている腕に中身のピンクな筋組織とか赤みを帯びている白い骨だとかが表出すると、俺はそこからまず周りの脂肪を吸うように食って、表皮を上手く残して皮膚を食って、筋組織を引っこ抜いて食って、骨にまとわりついた肉を食う。食う。食う。食う。ああ。旨い。いや、こんな状況でなければお世辞にも旨いなんて言えないんだろうけど。やっぱり自分の肉くらいは旨いと言いたい。うん。旨いっ。が痛いっ。うははははは。激激激痛痛痛いっ。が旨いっ。うははははは。上腕だけ食べきってしまうとだらんと垂れた左腕は骨のみで前腕(肘から先のほう)をかろうじて繋ぎ止めている。この世界で腐敗が存在するのかどうか知らないけど、もったいないから念のために食べておく。もはや痛みも何も感じなくなってしまった前腕は、今では左腕ではなくなった付け根の部分がじんじんと痛むを楽しみながらだが、美味しく食べられるだろう。そして美味しく食べられると思っていると、その味は酷く不味かった。とはいえ全て食べきった。俺は不味いものを食べるのも得意であるので、大した苦にはならない。俺には得意なことが多いのだ。
 それから随分経った。気付かぬ間に陥った昏睡から目が覚めると、俺は生きていた。いや、生きてはいない。というか、この世界でもやはり死ねない。ずっと昔医者をやっていたころを生きていた、と言うなら、やはりここは地獄で俺は死んでしまった、と言えるに違いないが確証はない。何せほとんど記憶が曖昧になってしまっているのだ。知識は残っているが、膨大な時間が記憶をだんだん消去していく。やはりここは地獄に違いない。場所がどうであれ、こういう状況を地獄と言うのだ。左腕も、その後貪り食った右腕右脚左脚ありとあらゆる身体のパーツは一応もとに戻っていた。動かせる。俺は立ち上がった。
 獄卒は相も変わらず宮殿の前に立っていた。俺の俺を食う姿を見ていたのだろうか、見ていたとしても獄卒は何も感じないに違いない。鬼の形相で立っているだけである。残念だ。そこのところの面白味を彼らは感じないのだ。
「ちょいと鬼子さん。開門まであとどのくらいですかね」
 俺が尋ねると、獄卒は真っ暗な天を仰ぐ。「もう開く」
 彼らの「もう」は俺のしばらくであるが故、宮殿の素晴らしい彫刻にもたれかかって俺は座って天を仰ぐ。ちょうど同じことをした覚えも既視感もあるのだが、そんなことは死を知らずに何兆年も生きていれば当然のこと、生きるということはルーチンワークに他ならない。
 しばらく経つと、微動だにしなかった獄卒が動いて巨大な門を押す。その巨躯にしたって不釣り合いなほど巨大な門だったのだが、押して開いていく様を見ていると俺でも開けられるのではないだろうかという考えに至るがそれでは簡単に逃げられてしまうじゃないかつまりこれは内から開けるのには難しいのだ。中から俺みたいな奴らが出てくるのかと思いきやそうでもなかった。中は深い闇に覆われていた。暗闇地獄か。しかし、それなら俺の得意分野である。だから、きっと違う地獄になっているのだろう。苦痛とはそうでなくてはならない。
「行け」獄卒は顎で闇を指し示す。
俺は黙って従いその先を歩いていくが、興奮が冷めたわけではない。しかし、別段期待しているわけでもない。
 俺が入ってから門が閉められ、闇ばかりが広がった。閉められてから気付いたが、ここは息苦しくて暑い。何も目印や案内はないが、真っ直ぐだと思うほうへ真っ直ぐ歩く。暗くて何も見えないのだが、俺の頭の中では煌びやかな彫像や装飾に囲まれた大理石の廊下を歩いていた。その真っ直ぐ伸びているはずの廊下の途中で、突然何かに顔面をぶつけた。ぶつけてから少し時間を空けてぶつけた顔面がひりひりと痛んだ。それから暑いは熱いに変わり、視界がぱっと開けると、眼前にあった壁は鉄板で、じゅうじゅうと蒸気を発して熱を発していた。
「貴様の犯した百八の罪の内、殺生、窃盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人、父母殺害を贖う機会を与える」さっき会った獄卒とは違う獄卒が背後に立っており、鬼の形相で大声を張り上げる。「これより貴様には死よりも重い罰を課すことになる」
「下の世界と被ってる罪状あるじゃないですかあ。重複はアリなんですかあ」
 俺が尋ねても、この世界のルールに関することについて獄卒は教えてくれない。だからこれは俺に対する俺からの皮肉にしか過ぎない。悪行に何をしたかは覚えがないが、きっと俺がしたことなのだから俺は贖うしかないのだろう。
 俺は後ろから蹴飛ばされて、鉄板に押し付けられる。顔が目が鼻が唇が頬が額が身体が腕が脚が皮膚が全部じゅうじゅうと音を立てて焼かれ、爛れて行くのを感じつつ、その感覚は全て激痛に支配される。鉄板に押し当てられている口からは声さえも出せず唇は爛れ何にも考えが及ばなくなる。熱い熱い熱い痛い痛い。しかし、これほどまでにずっと痛めつけられていると、どの痛みもさほど差異はないのだと思えてくる。斬られようが突かれようが刺されようが折られようが引き千切られようが、苦痛はやはり苦痛でしかない。
 やっと鉄板から解放されるが、身体中の痛みは止まない。身体中が焼かれ爛れ焦げて、一挙一動に身体を針で貫かれたような激痛が伴い、のたうち回ろうとすればそれだけ痛みが増す。爛れてしまって瞼がくっ付いたためか、視界を失ってしまった。何も見えない。それだけ恐怖が増す。恐怖は身体的な痛みを和らげる分、精神的な苦痛に変換される。俺は恐怖は得意だし、精神的苦痛も得意だから今までやってこれた。耐えられなかった下の奴らは皆また最初からやり直しを食らってループするのだ。俺は一度もまだ耐えられなかったことがないからこの世界へ上がってこれたが、もしかしたら地獄をたらい回しにされているのかもしれない。
「ここから七十兆年ほど灼熱地獄だ。楽しんでくるといい」獄卒は俺の頭を引っ掴んで耳元で大声で言う。唯一残っている感覚なのだから、もう少し丁寧に扱って欲しいものだ。
これからまた下の世界と同じように長い長い贖罪の時間を過ごすようだが、時間が過ぎれば終わりも来る。そう、永遠ではないのだ。経験則というのは世界ごとに変わるのだが、やはりどこか統一されたものとして存在する。今まで通りならばまた何度も息絶え、また何度も蘇えって苦痛ばかりを味わうことになる。それもやはり終わりがあるのだ。俺は終わらせるのが得意だ。今までに恋を終わらせ愛を終わらせ感情を終わらせ道徳を終わらせ平和を終わらせ人間の命を終わらせ自分の命も終わらせた。そして、終わらせることは悪行である。ほうほう。ということは、だ。俺がこうやって世界をひとつひとつ終わらせて上がっていくことは悪行なのだ。つまり、ずっと昔医者をやっていた頃の悪行を裁いているらしいこの世界でも裁けない悪行を、俺は只今しているということだ。やっほい。やはり俺は天才だ。俺に出来ない悪行はないのだ。俺は悪行を網羅するし、俺が俺こそが悪行なのだ。うははははは。俺こそが本物の悪行であり、悪行は俺を差し引けば見苦しい悪あがきにしかならないのだ。俺はこの先もこの世界を上がっていくし、悪行を終わらせる気はない。うははははは。そうだ。俺はぱんつを持っているじゃないか。ポケットを探ると焼けずに済んでいる部分にまだぱんつはあった。「鬼子さん。見てくださいよ。これを被ると頭がよくなるばかりじゃなくて筋肉量が増えるのですよ。懸釐と懸顱と曲鬢と頭竅陰、それに承霊と天衝が刺激されるので、筋肉量が増えるのです。これは本当ですよ。被っていると次第に頭がぼおっとしてくるのです。これがサインなのです。きっと今以上の力が出せるようになるのです」口が爛れて塞がってしまったのでもう何も言えないが俺は懸命に良さを伝えようとしてぱんつを差し出しもごもごと口を動かすが、獄卒は鬼の形相で俺を睨んだままであり、結局俺はぱんつを握りしめたまま放り投げられた。放り投げられた先、地面に叩き付けられると、その地面は異常に熱くなっていた。うほほほほほ。熱い熱い熱い。足裏が爛れて地面に粘着しようとするのがわかる。俺はぱたぱたと踊るようにして移動するが、何も見えないせいもあってかどこにも逃げる場所などない。時折足元の石みたいなのに蹴躓いて熱い地面へ再び全身ダイブする。そもそも逃げる場所なんぞこの世界にはないのだった。俺は踊りながらこの踊りを「あっちっち舞」と称し、技の開発に勤しむことに決めた。この決定は俺の経験から言って三兆年くらい続くと思う。たぶん。というか、ぱんつはどこいった。握っていたはずのぱんつは手の内になくなっていた。ぱんつぱんつぱんつ。もう着ていた服は焼けてなくなって下の世界にいたときのように裸になってしまったようだから、きっとぱんつも焼けてなくなってしまったのだろう。ああ。俺の希望の星。否、俺自身が希望なのだ。それが本質なのだ。うははははは。ああ。儚いぱんつだった。だがぱんつのように一瞬で終わるのではなく、これからこの「あっちっち舞」は時間をかけてゆっくりと華麗になっていくだろう。時間は森羅万象を変化させる最強の媒質である。おそらく時間によって変化しないものはないはずだ。しかし、俺は変わらない。何故なら俺は天才だからである。うははははは。悪行そのものである俺が悪行という本質を失うことは絶対にないのだ。うははははは。ところで、今気付いたのは、この世界の悪行を裁く世界が俺にはまだあるのかどうかわからないということだ。


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平穏な曇り空

 白い雪が降ってきた。足元はふわふわとやわらかい。かわりに、堅固な土が地に沈んだ。
 寒い家の温かい台所には、砂糖と塩が並んでいる。同じ大きさで、同じ赤のふたがついたケースに入ってこちらを見ている。
 母が、買ってきた調味料をケースに移していた。さらさらと流し込まれた粒は、小さな山を作っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「それ何?」
「砂糖」
母が満足げにリビングへ戻ってから、僕はケースに貼られたシールをそっとはがした。
買ってきた砂糖が本当に砂糖かどうか分からないのに、勝手に名前を付けてよいものだろうか。 
買ってきた塩が本当に塩かどうか分からないのに、勝手に名前を付けてよいものだろうか。
もしかしたら、砂糖は塩かもしれない。
もしかしたら、塩が砂糖かもしれない。

翌朝、僕は学校に逃げた。
「なぜしょっぱくない」
「なぜ甘いの」
好みの違う両親は、いつもと違う味の卵焼きに激怒した。お互いにお互いの矛先を向けあった。父は自分が正しいと思い、母も自分が正しいと思っている。
本当はどちらも間違っているのかもしれない。
父と母は離婚した。それぞれの考えは筋を通しているけれど、家族はもう壊れてしまった。

登校中、通学路でネコが死んでいた。
車道を歩いたネコが悪いのか、轢いた車が悪いのか。
動かぬネコは車を責めるか、自分を悔やむか。
かわいそうと呟く僕も、かつて車でネコを轢いた。

僕はセーターの袖をいじる癖がある。結び目がほどけ、ぷつぷつとほつれるのは見ていて楽しい。白い毛糸はただただ下に垂れる。どんどん短く袖が消え、ついに肩までむき出しになった。
へくしゅん。

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蜜柑畑の真ん中で

晴れ渡る空から、小さな小さな恋敵が降ってきた。

校舎の近くにあるベンチに座っていた私はそれをキャッチすると、まじまじと見つめた。キャッチしたというからにはもちろん人ではない。普通の女子高生である私には降ってきた人を無傷でキャッチすることなどできないし、人間の恋敵をキャッチしてやるような心の広さもない。手の中にあるのは太陽の光を浴びて輝く果実、そう、蜜柑だった。
私はため息を落とすと、上を向いて校舎の二階にある窓から顔をのぞかせている幼馴染に向かって叫んだ。
「何すんのよ」
「蜜柑を投げただけだが? 」
それだけ飄々というと、幼馴染は窓の近くから消えた。きっと私のいるところにやってくるのだろう。そう思ってしばらく待っていると案の定、彼は姿を現した。普段の運動不足がたたってかあの距離なのに息が乱れている。
私は肩を竦めると、先ほどこの幼馴染が投げてきた蜜柑を手の中でくるくると回した。
「で?これは? 」
「ああ。それは三ヶ日蜜柑だ。いつもの蜜柑だと飽きるかと思って、取り寄せた。感謝したまえ立花凛よ」
「飽きるも何も、そんなに味変わらないわよ。それにこの時期は大概ハウスミカンじゃない」
確かにここ、愛媛で食べる蜜柑といえば大概地元でとれた蜜柑だ。収穫量が和歌山に負けたとはいえ蜜柑の味が落ちているわけでもないし、わざわざ別の地方の蜜柑を取り寄せて食べる変人はこの男くらいだろう。私の言葉に、この男は呆れたような表情を浮かべた。
「アホか。全然味が違うだろうが」
「それはあんたみたいな蜜柑馬鹿ぐらいよ」
そう言って私は蜜柑をお手玉のように放る。
そう、この男は根っからの蜜柑マニアだった。いつからだったのか、幼馴染の私にも定かではない。ただ、小学校にあがる前からそうだったのは覚えている。名前が小さい竜と書いて「こたつ」と読むのもあり、小さい頃は冬になると友人に「こたつが蜜柑オタクかよー、家に帰って炬燵にダイブしたくなるじゃねえかー」などとからかわれていたものだ。いったい何が彼を惹きつけるのか。私だって蜜柑は大好きだ。食べようと思えばいくつでも食べることができる。けれど、蜜柑を食べる対象としてだけではなく、マニア的視点で見ることはできない。なぜこんな男が幼馴染なのか、私は何回も自分に問いかけてみたけれど、結局答えは出ないままだ。
そして。
「良いじゃないか!蜜柑は良いものだぞ! 」
そう言って目をきらきらと輝かせているこの幼馴染に、恋に落ちてしまった理由もやはり、何年たっても見つからないままだった。
ありがと、とだけ返して蜜柑を剥けば甘酸っぱい香りが広がる。これが恋の香りなのかと、普段の私らしからぬことを思いながら蜜柑を食べた。とても甘くてけれど少し酸っぱい蜜柑に、私はそっと目を伏せた。



蜜柑の白い花が咲き誇る中で、私は一人で立っていた。どこを見ても誰もいない。あるのはただ蜜柑の木と、咲き誇る蜜柑の花ばかり。きょろきょろとしていた私だったが、人恋しさに勝つことができず、ついにはしゃくりあげ、その場にしゃがみ込んで泣き始めた。ここには誰もいないのだ、蜜柑の木と蜜柑の花しかないのだと。大好きな蜜柑の香りすら、寂しさを急き立てた。そんな時に、ふと何か音が聞こえた。私は涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて音のしたほうを見た。
『見つけた』
そこには一人の少年がいた。彼はいつもと変わらない、少しぎこちない笑みを浮かべて私に歩み寄ってくると、そっと手を差し出した。
『帰ろう』
それだけ言った少年。それまで感じていた寂しさが急にどこかへ吹き飛んでしまった私は、涙でひどいことになっているであろう顔で笑って、彼の手を取った。



遠くで、無機質な音が聞こえる。意識が浮き上がっていくにつれてその音はだんだんと大きくなっていった。
この音は目覚まし時計の音かと認識した私は、枕元にあった目覚まし時計を乱暴に叩いた。途端に止まる電子音。私は布団の上からのろのろと起き上がると、乱れた髪の毛を掻き毟った。
「……夢、か」
それにしても、随分と懐かしい夢を見たものだ。あれはいつのことだったか。確か小学校に上がる前だ。少し遠くにある蜜柑畑に勝手に行ったは良いものの、帰り道はおろか蜜柑畑から出ることが出来なくなってしまい、蜜柑畑の真ん中で泣き始めてしまった私を、偶然近くにいたあの少年……それは他でもない、あの蜜柑マニアだった……が見つけ、家まで連れて帰ってくれたのだ。思い出すと羞恥と懐かしさが入り混じったような感覚に陥り、私は枕をたたいた。
「あー……、どうしよ、これ」
こんな夢を見ては、今日彼の顔をきちんと見ることが出来るのか分からない。そして、なぜこんなことを感じてしまうのかも、やはり分からないままだった。



乱れた髪の毛を櫛とともに戦うことで制圧し、胃袋の中にじゃこ天やらなんやらをご飯と一緒に押し込み、家を出る。自転車を走らせれば、春の風に乗って蜜柑の香りが漂ってきた。嗅ぎ慣れた匂いにそっと目を細める。そして浮かぶ、幼馴染の顔。
蜜柑は好きだ。けれど、嫌いだ。彼の興味と好奇心とを全て私から奪って行ってしまった、小さな恋敵。言うなれば友人が自分と同じ人を好きになってしまったと言うところだろうか。
風でなびく髪をそっと押さえながら、私は通い慣れた高校への坂道を下って行った。



教室に入れば、友人がこちらを見て手を振ってきた。私は彼女に手を振り返し、そしてはて、と首を傾げた。彼女の隣には隣のクラスの男子生徒が立っていたのである。去年同じクラスだった男子だったので顔は分かったのだが、友人とその男子生徒が仲が良かったとは特に記憶していなかった。友人は唇を尖らせながら言った。
「凛、遅いよ」
「ごめんごめん」
そう返してから隣の男子生徒を見る。彼はせわしなくあたりを見回していたが、やがて私のほうを見ると「あいつは?」と私に尋ねた。
「あいつ?」
「ほら、立花の幼馴染のあいつだよ」
幼馴染、と言ってああ小竜のことかと思った。一緒じゃないわよ、そもそもあいつと一緒に学校に来てないしとだけ返せば、男子生徒は明らかに安堵したような表情を浮かべた。私は先ほどとは別の方向に首を傾げた。
「何?あいつに用があるんじゃないの?」
「いや、違うんだ」
「?」
意味が分からない。と、そんな私たちを見ていた友人がちょっと私向こう行くね、とだけ言って席を外してしまった。あわてて引き留めようとするが、彼女はするすると廊下に出て行ってしまった。私はあっけにとられた表情で彼女を見送るしかなかったが、彼の「立花」という声にはっと我に返って彼のほうを見た。
「あ、どうしたんだろうねえ」
「あ。いや。あいつに頼んで、お前を呼んでもらったの俺だから」
「え?じゃあ用があるのはあんた?」
私の問いに、男子生徒は首を縦に振った。一体どうしたのだろう、話しかけられる心当たりもない。きょとんとしているである私に、どこか緊張している面持ちの彼はしずかに、けれどはっきりとした声で告げた。
「立花、俺と――」



彼がいつ、自分の教室に帰ったのか、私は覚えていない。覚えているのは返事が出来なかった私に返事はまた今度で良いから、とだけ言っていたことだけだ。茫然と立ちすくんでいた私は、チャイムの音で半ば機械的に体を動かし席に着いた。授業の内容が耳に入ってくるはずもなく、私はただぼんやりと、彼の言葉を脳内でただひたすら繰り返していた。
今日の最後の授業である数学が終わり、頭の禿げた先生が教室から出ていく、ホームルームが終わったと、廻りの動きをぼんやりと見ていて判断した私は、ふらふらと立ち上がった。
と、今朝あの男子生徒と話をしていた女の友人が、私に話しかけてくる。
「凛、なんて返したの?」
「え」
「え?じゃないわよ。だってあいつ……」
「……ごめん、明日」
「え?ちょ、凛!」
待ちなさいよという彼女の言葉を無視して、私は教室を出た。そのまま自転車置き場に行き、使い古した自転車にまたがる。いきは下り坂だから楽なのだけれど、帰りは逆に上り坂でいつも辛いと思いながら坂道を駆け上がっている。けれど、今の私はその坂道すら気にならない。彼の言葉はそれだけ、私の頭を、心を揺さぶっていた。
ふっと、蜜柑の香りが漂ってきた。
吐き気を覚えた。



「小竜!」
「ああ、凛じゃないか。どうしたんだ? 」
急に尋ねて行った私を、彼の母親はあっさりと受け入れ、彼の部屋に行くように告げた。私は見知った家の見知った階段を駆け上がり、迷うことなく彼の部屋にたどり着き、彼の部屋のっドアを勢いよく開けた。彼は丁度机で蜜柑に関する本を読んでいた。今すぐその本を破り捨てたい衝動に駆られたが、何とか抑えた。小竜は息を切らしながら自分を睨んでくる私を見て、首を傾げた。
「一体どうした。君らしくもない」
「うるさい!誰のせいよ! 」
「誰のせいだと言うんだ? 」
「……あんた、あいつになんて言ったの」
あいつ?と首を傾げる小竜に、私は早口で男子生徒の名前を言った。彼はああ、と呟いて本を置くと、私の方を向いた。
「で?君は彼からの告白を受けたのかい? 」
「質問してるのはこっちでしょ!? 」
彼の態度に苛立った私は声を荒げる。小竜はそんな私に肩を竦めると、椅子の上で足を組みながら言葉を続けた。
「彼は私に『立花凛と付き合っているのか? 』と尋ねてきた。勿論それが事実ではないと凛ならばよく知っているな、私もよく知っている。だから自信を持って『違う』と返事をした。そうしたら彼は『自分が立花凛に告白しても良いか』と尋ねてきた。何故私に聞くのか分からなかったが、まあ人が告白するのを妨げる権利は私にはないからな、良いんじゃないか、と返したよ」
「……それだけじゃないでしょ」
自分の声が情けないくらい震えているのが分かった。小竜はひょいと眉をあげると、ああそうか、と言った。
「あとこうも言ったな。『今の私には、蜜柑のことで手一杯なのだ』と」
次の瞬間、私は彼に大股で歩み寄ると彼の頭を勢いよく叩いた。目を白黒させながら私を見上げてくる小竜。私は肩で息をしながら、彼に言った。
「……どうせ、あんたはそう。蜜柑のことばっかりで」
「? 当たり前だろう。だって蜜柑は……」
「あんたは幼馴染よりも蜜柑の方が数倍大切ってことでしょ!? 」
涙が滲んだ。情けない顔を見られたくなくて、私はくるりと踵を返して彼の部屋を飛び出した。



自転車に飛び乗り、ふらふらと行くあてもなく走らせる。涙で前が滲んで上手く見えなかった。つん、と蜜柑の香りが漂い、私は自転車を止めた。見れば近くに蜜柑畑。白い花が咲いている。私は特に考えることもせず、ふらりと蜜柑畑の中に入り込んだ。辺りには人はいない。ただ、蜜柑の花が風に揺れているだけだ。白い花をむしり取りたい、そう思い……そして、そんな私に絶望する。自転車からおりると、ぼんやりと蜜柑畑を見つめながら、私はぽつりと呟いた。
「……アホみたい」
よくよく考えてみれば当たり前だったのに。小竜が蜜柑のことしか見ていないのも、私を単なる幼馴染としか思っていないことも、とっくの昔から知っていたはずなのに。それなのに、まだあいつの特別であることを心のどこかで期待していて、それが粉々に砕かれて否定された。そして、その恨みを蜜柑にぶつけようとしている。
嫌な女だ、と思った。どうしようもない女だと思った。けれどどうすることも出来なくて、私はふらり、と蜜柑の木に歩み寄った。そっと目を伏せれば、思い出すのは幼い頃。蜜柑畑の中で一人ぼっちになり、泣きわめいていたあの時のことだ。あの時、手を差し伸べてくれたのは他でもない、小竜だった。輝くばかりの笑顔で帰ろうと言ってくれたのは小竜だった。
自分ばかり彼を求めていた。それに気が付いていたはずなのに、気が付いていなかった。
「……ごめんなさい」
目尻から涙がこぼれた。ごめんなさいごめんなさい、とただひたすら繰り返した。
その時。不意に頭に何かが当たった。驚いて目を開けば、地面に蜜柑が転がっていた。私は涙を拭いながら首を傾げた。蜜柑畑はまだ花の状態だ。つまり、この蜜柑は木から落ちて来たものではない。蜜柑を拾い上げれば、私の耳に何やら荒い息遣いが届いた。驚いてそちらを見れば、そこには小竜が立っていた。
「……な、何よ」
「それは私の台詞だ。何故急に飛び出す」
「私の台詞、って……!だって」
蜜柑が自分よりも大切で、そんな人に恋をして、先走って、そんな状況であのまま小竜の部屋にいることなんて出来ない。 
私は俯いてぎゅっとスカートの裾を握りしめる。
と、小竜がため息を落とすのを聞いた。呆れられた、そう思いぎゅっと唇を噛む。泣かないでいるのに精いっぱいだった。
と、その時。何かがふわり、と私の頭を撫でた。驚いて顔をあげれば、小竜が私の頭を撫でていた。一体どうしたのだろう、そう思いながら私は小竜を見つめる。彼は小さく肩を竦めた。
「凛、君は何年私の幼馴染をしているんだ」
「え」
「君は知っているだろう、私が蜜柑の研究に熱心であることは。そのためなら何でも投げ出す覚悟があることは」
「……知ってるわよ」
「ならば、何故私が蜜柑の研究に熱心であるかも、知っているのではないか」
彼の言葉に、私は首を振った。彼は知らないのかと呆れたように言うと、両手をがっと広げた。そして、満面の笑みを浮かべながら言った。

「君が蜜柑畑の真ん中で笑っていたからではないか」

瞬間、辺りを強い風が吹き抜けた。白い花が風に散り、青空に舞い上がる。彼の言葉に、私はへ、と間抜けな声を出すしかなかった。彼は人差し指を突き立てずいと私に顔を寄せながら、ながら、忘れたのかい、と尋ねる。
「忘れた、って」
「全く、一度病院に行ったらどうだ。君は五歳のころ、蜜柑畑の真ん中で涙が出るほど笑っていたじゃないか。私を見たときの満面の笑み、今でも覚えているぞ!あれは君が蜜柑が好きだからだろう? 」
「え、ちょっと」
「私は君の笑顔がこの世で一番好きだからな、蜜柑畑の真ん中であんな満面な笑みを浮かべていたんだから、蜜柑を極めればもっと笑ってくれると思ったのだ。君が笑わないのは私の極め方が足りないからだと思えば熱は過熱する一方。君を笑わせられない私が君の色恋沙汰に口を挟むのなんて愚かすぎる!だから蜜柑で手一杯と言ったのさ!まあ、彼……君に告白して行った男子生徒だが、彼は私以上に蜜柑に関しては無知だから、無理だとも思ったが、そう言うのも酷だから言わずに見送ってやったがな」
「……」
「それよりどうだ! 」
それだけ一息に言うと、彼は手に持っていたノートを私に見せてきた。中にはびっしりと蜜柑について書かれている。彼は男にしては筋肉のついていない貧相な胸を張りながら、素晴らしいだろ、と誇らしげに言った。
「これとこれを交配すれば、甘みがもっと強い蜜柑が出来るはずだ。収穫量も増えるだろうと計算では出ている。今度、知り合いに頼んで作ってもらうつもりだ。……どうした、凛」
「――何よ、それ……」
鼻の奥がつんとした。次いで、頬を暖かい何かが伝う。慌ててそれをごしごしと擦れば、小竜はノートを閉じて私の顔を覗き込んできた。
「ど、どうした。私の無知具合に情けなくなったのか!」
「ち、がうわよ」
ぐずぐずと鼻を鳴らす私に、小竜は訳が分からないんだがと呟いていた。そして、結局良い方法が見つからなかったのだろう、私の頭をまたわしわしと撫でてきた。大好きな暖かさに、自然と心がほぐれていく。
「……あんたね、本当に私が蜜柑畑の真ん中で笑っていた理由、蜜柑が大好きだからだと思う?」
「何、嫌いなのか」
「好きよ。食べ物として。でもねえ……」
春の風が吹き抜ける。乱れる髪の毛を押さえながら、私はそっと彼を見上げた。
変人で、私の笑顔をエネルギーに十年以上も蜜柑の研究を続けてきた、突拍子もない、鈍感で、廻りの見えない、空気の読めない男。
それでもあの時、私を見つけてくれたのは彼だった。私に手を差し伸べてくれたのは彼だった。私が恋に落ちたのは、彼だった。自然と、頬が綻ぶ。
そんな私を見て、ほら、と彼は言った。
「やはり君の笑顔は良い」
不愉快でしかなかった蜜柑の香りが漂う。嗅ぎ慣れたその匂いに、私はゆっくりと瞳を閉じた。

もう、蜜柑の香りに吐き気はしなかった。

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For me,for you


 僕が人生を不条理だと思ったのはずっと好きだったクラスメイトが学校の屋上から落ちてくるのを目の前で見てしまった時だ。本当に僕の眼前すれすれを彼女は通り過ぎ、僕がそのことを知覚する前にゴスっ、バキっと音を立ててこの世からバイバイした。僕の視界に残っていたのは彼女のほっとするような笑顔だけ。
 その瞬間に僕に生きてる価値はもうなくなってしまったような気がした。自分が好きだと思った人間を守れないでどうして生きている価値があるのか。そんなものはないに決まっている。高校三年生でそんなことを悟るのは早いかもしれないが、人生というものは早すぎて早いことはない、と古典の山下が言っていたのがなんとなしに頭に残っていた。まぁ、他人より早いから、と言っても特段困ることはない、と思う。
 そんなわけで生きている価値がない、ということはつまり死んだほうが社会の役に立つのだが、流石に僕がここで死んだら通っている高校の評判は地まで落ちるだろうし、一応両親を悲しませることになる。わざわざカウンセリングなんてものもしてくれた人の尊厳も傷つけるような気もする。だからとりあえず他人に迷惑をかけないで死ねるまでは生きることにした、死んだように。そこにいてもいなくても変わらないように。隠れて生きよ、なんて言った哲学者に習って(まぁ、きっと意味は全然違うけど)。
 だから、それから七年たった今、困っている。
 僕よりも頭二つ分くらい小さいこの少女に。僕に見下ろされながらも全くその視線の鋭さが衰えないその少女に。僕はこう言われたのだ。
「私の生きる意味になりなさい」



「ねぇ、七宮君」
 放課後、図書室だった。夕焼けが差し込み、室内を優しく橙に染めている。夜という暗闇へと向かう世界の色だ。そんな室内と同じ色に染まった神谷桜は僕に声をかけてきた。彼女に声をかけられることは初めてだったかもしれない。そんな僕は内心ドキドキしながらなるべく素っ気なく「どうしたの」と返した。
「神様って、いると思う?」
 何故彼女はそんなことを、しかも僕に聞いてきたのか、と思った。
「どうして?」
 こんなことを聞くのは自分は会話下手ですと自己紹介しているようなものなのはわかっていた。好意を寄せる相手に対してこのような返事をしてしまうのは思春期だからか、こういう性格だからなのかわからない。けれど神谷桜はそんなことを意に介さずに返事をしてくれた。



「どうして? 何故僕なんだ?」
 そう聞いてしまって僕は七年経っても成長していないことに気づく。あれは思春期のせいじゃなくて性格のせいだったんだろう、と嘆息する。目の前の少女は即答した。
「あなたがそこにいたから。理由なんて、ない」
「本当に?」
「嘘なんかついても仕方ないでしょう?」
「そりゃそうだ」
「返事は?」
「……その前に僕の話を聞いてくれる? 突然現れた君が何者か、なんて聞かない。返事だってきちんとする。だから、その前に」
「……すぐ終わるかしら?」
「わからない。どれくらいかかるかわからない。すぐ終わるかもしれないけど、一日中話しても終わらないかもしれない。でも話さないときっと君の望みに応えることはできないから」
「……わかったわ。好きなだけ、話しなさい」
「ありがとう」
 ゆっくりと息をつきながら、上を見る。そうして、緊張をほぐしていく。僕と少女を深夜の暗闇の中に映し出す街灯の灯りが眩しい。ふと立ち寄った公園でこんなことを、名前も知らない少女に話すとは思ってもいなかった。牧師でも、恋人でも、カウンセラーでも、なんでもない、この少女に。悔恨の記憶を。


「聞いてみたかったから。ただ、それだけ」
「そっか、神様、ねぇ……」
 正直、聞いてみたかったから、なんて理由で素直に答えられるものか、とも思いはしたが、せっかくの会話のチャンスを逃す理由もない。だからと言ってそこから会話を広げることのできるスキルもないし、神谷桜が望んでいる答えをズバリと言い当てる自信もなかった僕は正直に思ったことを言うことにした。
「あー、わりと神話とかが好きで、結構読むんだけど。ギリシャ神話とかさ。で、そこに出てくる神様ってわりと人間臭いんだよね。ゼウスとかなんちゃらとか。うん、まぁ、そういうわけで思うんだけど、俺は神様なんていないんじゃないかな、って思うんだよね。神様って昔の人が言ってるだけでただの人間なんじゃないかな、って思うんだよ。ほら、人間って死ぬと神格化するって言うじゃん? あれがもんのすごいことになってるだけで。別に神様なんかじゃなくて。星座なんてのも作り話で。信仰なんて人間の虚構と妄想の肥大化と思い込みとかその他諸々で創りだされているだけで……って言ったらさる筋から怒られそうだけどね。とにかく、神様、なんてものはいないと思うな、俺は」
 最後は少しだけ格好をつけて俺は、と主張してしまった。少し押し付けがましくなってしまっただろうか、と少しだけ後悔した。暫くの間神谷桜も僕も何も喋らなかった。彼女は何かを考えている様子だったし、僕は彼女が口を開くのを待っていた。その間にも少しずつ日は暮れていった。そうしてだいぶ時間がたって日がほとんど暮れかかってオレンジ色に染まっていた図書室が黒くなりかけた時、神谷桜は言葉を発する。
「そしたら」
 彼女はそこで発した言葉を切る。まるで覚悟を決めるかのように。そうして、続ける。
「神様がいないなら、人を救ってくれるのは人だけってことかな」
 彼女は続ける。せきを切った言葉はとどまるところを知らない。
「神様みたいな存在が悪いやつをやっつけて人を救ってくれるなんてことはないのかな。ひどく思い悩んでいる状況に突然降ってくる奇跡とかはないのかな。どんなひどい状況でも誰かが救ってくれるのを待ってくれるしかないのかな。見て見ぬふりばかりしている人間が。時間が解決してくれるのも待っているしかないのかな。周りの人間が救ってくれるのを待っているしかないのかな。ねぇ、どう思う。七宮くん。教えて。誰かいつか助けてくれるのかな。私のことを助けてくれるのかな、ねぇ、ねぇ、ねぇ、教えて? ねぇ、ねぇ」
 そういう彼女は明らかに異常だった。僕ではない何かにしがみつくように、けれどしっかりと僕の右手を握りこむ。ほんの少しの温かみを感じる。けれど握る力が強すぎて爪が肉に食い込む。鋭い痛みが走った。
「か、神谷さん落ち着いて」
「ねぇ、答えて、教えて? ねぇ、ねぇ、ねぇ、逃げないでよ。教えてくれないの、私を放り出して逃げるの? 私のこと好きなんじゃないの? 中学校の頃に桜田くんが教えてくれたよ、私のこと小学校から好きだって。教えてよ、ねぇ、逃げないでよ逃げないでよ、ひどいよ、ひどいよ」
 僕は彼女の様子に及び腰になるが、彼女はそんな僕を逃さまいと更に僕を強くつかむ。更に爪が食い込み、彼女の手の温かみとは違う暖かさが僕の手を伝う。それは僕から中から流れ出た暖かさ、つまり血が流れていて。神谷桜もそのことに気づいたらしく、なにかにとりつかれていたようなさっきまでの彼女は身を潜め、どこから取り出したのか僕の傷口にハンカチを当てている。
「ご、ごめんね、ごめんね、ほんとごめん、急に周りが見えなくなっちゃって」
「い、いや大丈夫だからそんなに謝らなくてもいいよ」
 僕の手から流れる血液は神谷桜の白いハンカチを赤く染めていく。気付けば図書室の中はすっかり暗くなっており、目の前にいる神谷がどんな顔をしているかどうかさえ見えない。聞こえるのはお互いの呼吸音。ただただ沈黙が僕と神谷の間に横たわっている。お互いに何をすべきか、何をしないべきかさえもわからない。それでも、時間がたっても、時間がたっても僕から流れ出る血液は止まらない。ほんの少しの切り傷でしかないようなのに。この場所に僕を縛り付けるかのように、ゆっくりと、少しづつ、でも確実に流れ続ける。このまま永遠にこの沈黙が続くのか、そう思っていた所で校内放送の音楽が流れてきた。帰宅部の僕が滅多に聞くことのないそれは最終下校時刻を告げるもので、その放送が流れると共にどちらともなく立ち上がった。
「七宮くん、本当にごめんね」
 校舎から出て、校門の所で神谷桜はそう言った。その切なそうな顔は僕が知っている彼女で、少しだけ安心した。
「ほんとに、気にしなくても大丈夫だから。それより、神谷さんがなにか悩みがあるなら絶対相談に乗るから。僕はヒーローでも神様でもなんでもないけどきっと力になるから」
「ふふ、ありがとね。七宮くん。そんなこと言ってくれるだけでうれしいよ。でもなんでもないから。また明日、ね」
「……そっか。でも本当に、なにか話す気になったら、話して。絶対に」
「そんなに私のことなんて気にしなくていいのに」
 彼女はふふふ、と笑って僕に背中を向けた。
「じゃあ、ね。また明日。本当にありがとう」
「うん、また明日。気をつけてね」
 そうして僕は神谷桜と別れる。また明日。そう言って。彼女の儚い、吹けば飛ぶような、愛らしい笑顔をもう一度見れると信じて。
 次の日。確かに僕は彼女と再会する。
 屋上から落ちてきた彼女と。

「僕は彼女を救うことが出来なかったんだ……!」
 僕は少女に全てを話してしまった。本当にすべてを。そうする理由も言われもないのに。何故だかそれが必然なような気がして。
「僕は何故彼女が、神谷さんが死んだのかわからない。もしかしたら自殺じゃなかったのかもしれない。誰かに殺されたのかもしれない。でも、僕にはどうしてもそうは思えない」
 そこで自分が泣いていることに気づいた。今の今まで気づかなかったけど、僕は泣いている。
「彼女は、きっと自分で死を選んだんだ。理由は今でもわからないけど。イジメられていたのかもしれない。今の僕みたいに生きる理由がなくなったのかもしれない。両親が不仲だったのかもしれない。僕なんかが想像も及ばないような環境だったのかもしれない。でも、それでも。僕は彼女を守れなかった。何も出来なかった。彼女を好きだと思っていたのに。僕は彼女の何も知らなかったんだ! あの時、神様はいるって言っていたら、彼女は生きていたかもしれない。もし、僕が追いかけていれば彼女は生きていたかもしれない。もし、彼女のもっと深く踏み込んでいれば彼女は生きていたかもしれない。でも僕はそれをしなかった。いや、できなかったんだ。僕は、僕は、僕は。僕は本当に彼女を見ていただけだったんだ。何も知らない、それなのに僕は彼女のことを好きだと言い張っていたんだ。それは本当の愛なのか? わからない、わからないんだ。でも、彼女が死んだとわかったときの僕の喪失感は本物で。それはきっと彼女のことを大切に思っていたからで。じゃあそんな、好きな人を守れない僕になんて生きる意味はないんだよ。だから、だから、きっと僕は君の生きる意味になれるなんて思えない。生きる意味がない僕に、大切な人も守れない僕に、救えない僕に、誰かの生きる意味なんてなれるなんて思えないんだ。だから、ごめん。君の願いには応えることはできない。ごめん」
 僕は、名前も知らない少女に頭を下げる。深く、深く。神谷桜にも謝るように。
「ふーん……」
 少女はつぶやき、僕を見下ろした状態で後ろ手を組んでいるようだった。僕はそのまま動かない。彼女も動かない。どうしたものか、そろそろ頭を上げてみようか、と思った瞬間左腕に強い衝撃を受けて倒れこむ。少女が華麗に右足で蹴りを決めたとわかったのは、僕がなんとかそちらの方を向いてからだった。
「ばっっっっっっっかじゃないのあんた! 本当に、バカよ、大バカ!」
 少女はようやく立て直しかけた体勢をもう一度崩すためか、僕のネクタイを掴んで引き寄せる。その力は腑抜けの僕を揺り動かすには十分な強さだった。少女の顔が目の前にある。
「あのね、あんたみたいな人間が人を救えると思ってるの? 自惚れるな! もしもしもしもしって電話じゃないのよ? あんたじゃあそのもしを行動することができていたら彼女は絶対に助かっていたの? そのことは証明できるの? あなたが彼女の救いに慣れたかなんて誰にわかるの? そんなの他人にしかわからないじゃない。人の気持ちなんてわかるわけないのよ! それにあんたがぐちぐちぐちぐち、もしできていたら、ってことをヘタレのあんたが万が一、いや、億が一、できていたとしても彼女が死ぬのは既定事項だったかもしれないし、もししていたら余計ひどい死に方をしたかもしれないんじゃないの。それにあんたの見た彼女の最期の顔は笑っていたんでしょ? それは幸せだったんじゃないの? 死ぬことを決めていたその子が最後にあなたの話を聞いて幸せに逝ったのかもしれないでしょ、あんたがしたことによって彼女が死んだのかも、なんて考えたら終わりなんてないわよ! 遺書はあったの? 彼女の遺志は、思いは、確認したの? してないでしょ? なら全部自分の都合のいいように捉えていいのよ。苦しむのはいつも残された人間なんだから。他人の事なんて気にせずに逝った女のことなんか、生きているという決断をしたあんたが悩まされることなんてない。
 だから。あんたは。悪くない。何も悪いことなんかしていない」
 彼女はそう言い切り、僕を引っ張っていたネクタイから手を話し僕をまっすぐ立たせる。彼女は僕のことを見上げているのに、気分はまるで見下ろされているみたいで、なんだか情けなかった。
「それでも、僕は……」
 でも、やっぱり、僕はそう思っても口に出してしまう。彼女が死んだことは事実で、僕の目の前に落ちてきたことも事実で、また明日といったのも事実で。
「僕は、そんなに簡単に割り切れない……無理なんだよ……」
 僕はそう言ってその場に膝をつく。涙が止まらなくて、止まらなくて。気付けばすでに空は白んでいて、自分の涙がむき出しの地面に染みを作っていく。情けない。ほんとうに情けない。情けなくて涙が止まらない。
「顔を、上げなさい。なんでもいいから。泣いていてもいいから」
 少女は僕にそう言う。僕がそのままでいると彼女は「いいから早く!」そう叫んだ。僕はその語気に負けて涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を彼女に向けてあげる。ちょうど太陽が彼女の後ろから昇っているようで眩しかった。少女の表情はわからない。
「あんた、ほんとうに情けないわね」
 それは自分で一番わかっている。
「本当に、情けないわ。でも、私もあなたを選んだ責任がある。あなたのそんな過去は知らなかったから。誰でも良かったのに、わざわざあなたを選んでしまったから。だから、最初で最後の優しさをあなたにあげる。救いの手を差し伸べてあげる。あなたがそれを受け取るかどうかは自由だけど。それでも差し伸べてあげるから。よく、聞きなさい」
 少女はそこで一瞬溜めを作った。やっぱり表情はわからないけど、僕に笑いかけているような気がしてそのまま目が離せなくなる。
「あなたは私の生きる理由になりなさい。そのかわり私があなたの生きる理由になってあげるから」
 そう言って少女は僕に右手を差し出した。少女の言う、救いの手。本当に小さな手。
 僕は、叫びたくて、泣き出したくて、走り出したくて、けれどそのどれもしなかった。
 ただ、ゆっくりと少女の小さな手を自分の右手で包み込む。
 僕以外の暖かさが、そこにはあった。

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落下ボッチ

 空からリア充が落ちてきた。
 階段近くの廊下を歩いている時だった。途中まで読書をしながら歩いていたけれど、左上の方から男子達の活発で楽しそうな騒ぎが聞こえてきて、私はふっとそっちを向いた。予想通り階段の踊り場には四人くらいの男子達が見えた。けど私はそれまでの彼らの楽しそうに騒いでいる様子は見ていない。
 輪の中の男子の内の一人が階段の一番上、足を踏み外して空中に投げ出される。明るい髪色に背丈も平均より大分上のようだった。着地点はおそらく、ああ、ぶつかるな。
 そのまま重い衝撃に体が崩れると思った。結果痛みは無く、しりもちだけで済んでしまったけど。
 足を踏み外した直後、まるで猿のようなフットワークで彼は空中でくるりと体勢を立て直したのだ。ピンと伸びた大きな体に私は呑気にも見とれてしまう。やがて階下との距離が近付き、一度私の左肩にポンと手を乗せ、放して、また少し体を回して、着地した時は見事に直立していた。
肩に手を乗せられた際、高校生男子にあるまじき軽さで衝撃は少なかった。けれど、突然だったからか不思議と力が抜けて、私は廊下にへたりこんでいた。俯き気味でよく見えなかったが、そんな私を彼は見ていた気がする。
 慌てて階段を駆け下りて彼に近付く他の男子、しかしそれは彼を心配してではなく、「やべぇって」そのまま連行されるように彼らは階段の向こうに消えていく。駆け上る足音にチャイムが重なり授業開始の合図が校舎に伝わる。教室に戻ったのかな、この上は四階、って事は一年生か。周りの生徒達が徐々にその場から離れていく中、私は一人立ち上がり、まだ読み途中の文庫本を拾って教室へと戻る。授業には二十秒遅刻した。
 そんな休み時間、誰の気にも止まらない衝突事故。でも。
「どうもさっきはすんませんしたっ、けどおかげで助かりました。このとーり無事ッス、ども、ありがとうございますッス!」
 教室の前の扉、半身を教室に入れて私に謝罪し笑いかける彼を見て、読んでいたハードカバー本が手から滑り落ちる。
 その日の昼休み、ご飯の後に短編小説でもなどと思っていた私は予期せぬ形で再び彼と出会う。
 私の名前を彼が知った日の十二時二十三分頃の出来事。学園生活で一番クラスからの視線が痛かった思い出。
 
 遠矢恵太君と言えば噂の一年生だ。
 陸上部短距離走の期待の新人。新体操部ではなかった。うちの陸上部は地区大会の上位に名前が出る程のレベルなのに、彼は既にレギュラー入りしているらしい。外見はいかにもなスポーツマンという訳ではなく、軽い印象を受ける。制服の着方も基準より崩しているし髪もブラウンって言うのか少し明るめ。派手だなぁなんて、思うのは私くらいかな。インドアで帰宅部の私とは絶対接点なんてありえないと思っていた。空から落ちてくるなんて想像もどうやったら浮かんだというのだろう。
 けれど出会ってしまったのは現実であり、それ以来彼は、
「せんぱーい」
 って感じに、校舎内で私を見掛ける度に笑顔で声を掛けてくるようになった。何か用があるのかと言われればそんな事も無く感謝も済んだなら後は何があるのだろう、とも思っていたら。
「何してたんスか?」
「その様子だと足とか大丈夫そうッスね!」
「四階まで上るのっていい目覚ましになるッスよね?」
 話をしたがった。それまで無関係であった二年生女子に彼が求めてきたのは言葉の交流であった。
毎度突然くるものだから「……いや」とか「そう……」などとしか返せずにいると、「そうなんスか」や「え! じゃあ――」などとすかさずカットインをしてきて一問一答形式で終わらせてくれず継続した会話を保とうとする。何というか、やり辛い。
彼の意図は知れないけど、人より本と向き合ってばかりの生活を歩んできた私が何を返せるというのだろうか。去年なんて家以外で声を出したのなんて、体育の点呼の時くらいだ。その時も返事がかすれ、危うく欠席扱いされるとこだった。
そんな私と何とかして話をしようとする遠矢君には悪いけどそんな私との会話はたどたどしいものにしかならず、笑顔も徐々に強張らせてしまう。普段はこんな事無いんだろうな。
他の友達に呼ばれるか予鈴が鳴るまで話し続けて最後は「では、また!」で去っていく彼。言葉通り、会う度に彼は私に話しかけてくる。何度も歩き読書を中断され、そこは落ち込む。
 そしてよっぽど不思議だったのか、普段日常会話すら交わさないクラスの子達にも大分聞かれた。「どうやって知り合ったの?」なんて。一部の女子たちは顔をリンゴ色に染めながら。
 空から落ちてきた、なんてどうやって説明すればいいのだろうか。模範解答は誰も教えてくれそうにない。それでも正直に「……空から」とようやく私が言う頃には、皆他の事に注意を戻している。大抵違う友達と、昨日のドラマの感想を交わしている。言葉を投げて、返されて、受けて、また投げて。小気味よいリズムでそれの繰り返し。一つため息をついて私は取り出した一冊のしおりを挟んでいたページを開く。
今のはあれに似ている。長い割に場面変化の乏しい文章より、移りの早い流れが綺麗な文章の方が読んでいて好ましく、そちらばかりを読みたくなるのに似ている。
 楽しい方がいいのに。そういうもののはずだよね、普通。

 今日も遠矢君は私を見かけ「河瀬せんぱーい」と声をかけてくる。もう慣れたはずなのに私の体は一瞬固まってしまう。
彼の名誉のために言うけど、話し相手がいないなんてことはない。最初の直感通りと言うべきか、人間関係でまるで困った様子は見られず、あの時の男子もそうだし、上の学年や女子達ともわいわいと仲良さそうにしているのを見かけるし、クラスの噂でも聞く。にも関わらず私を見ると名前を呼んでくる。
「せんぱーい、奇遇ッスね」
 しかし学校内ならともかく、今は下校途中だったからいつもより過度に不意を突かれた気分になる。こちらとしては用事もあるし「……どうも」と軽く会釈して立ち去ろうとする。が。
「え、奇遇ッスね! オレんちもそっちなんすよ、今日は部活も早帰りでヒマだから、途中までいっしょに帰りますか!」
 足を止め、戦慄を覚えたものの、どの道進むしかないようだ。
 交差点近くの歩道橋を目印に私は進む。彼も後ろにつけながら。途中まで向こうが止めど無く言葉を連射してきて、私が半分も対応し切れなかった事は言うまでもない。
 そうして目的地であるブックオフの自動ドアをともにくぐり、
「マンガって最近見てないッスねぇ。本自体見ないんスけど」
 ともに立ち読みする。って。
「……これは流石に」おかしい。彼に聞こえない程度に呟く。
私には目的があったから店を訪れた。遠矢君も何かあるかと思ったら、さっきから見るばかりで「へえ」などと口にはしているが手に取る様子も見られない。となると自意識過剰だけど、単に私についてきただけだ。どうしてそこまで。考えたって分かりはしない。すると、
「マンガも趣味なんスか?」
 また投げかけてきて、私は今度は全部受け止めていた。
 話せば、満足するのだろうか。
「……クラスの子の、好きなマンガ、だから」
 休み時間、読書も終わると私は机に突っ伏して仮眠を取っている。完全に意識を沈めず聴覚だけ作用するようにしてクラスの子達の話を聞いている。最近そして運動部に所属している男子たちに人気な作品がこれだった。
「あ……スンマセンスンマセン! 色恋沙汰なら無理は――」
「……ん? 何が?」
「え、あ、いや続けて大丈夫ッス」
「えと……その人の、好きなものを……知りたいから、その」
 まとまらない。いつも考えている事なのに、口に出した瞬間に初めて、思いの外形を保てない事を知る。
 クラスメイトと呼べる程周りの子とのつながりは少ない。話す事も無いし時間をともに過ごしてもいない。それでも私と彼ら彼女らにつながりが見出せるなら、これが一番だから。
 なんだ、私も食いついている。彼の事を言えない。
「だから、そんな感じ……で」どんな感じだというんだ。
「そういう人付き合いの方法もあるんスね」
 と、聞き間違いだろうか。彼の反応は、いつものものと違って、騒がしさもなければ戸惑いもなく、軽い印象も持てない。
「どかどかと、容赦遠慮なく相手の領域に踏み込むような奴もいますよ。言葉のナイフなんて甘いもんじゃなくそれこそマシンガンで一方的に蹂躙するみたいに」
 下を向いていたらしく私が首を傾けると、そこには、
「でも先輩は相手の主観を何も傷つける事はしていない。自分より優先すべきところに相手を置いている。だからいつも、一方的にとも思えるほどこっちの話を聞いてくれるんスね」
 大きく頷く遠矢君。その動作にひどく、安心してしまう。
 伝わった。そう捉えてもいいのかな。
 そして彼は私の手に持っていたものと同じものに目を通す。
「幽霊モノッスか? この真ん中の子供は何なんでしょう? うわぁやる気ねぇ。ってかこっちの子ちっさ! ハードルとかもはやハイジャンのバーになるんじゃないッスかねぇ」
また普段の遠矢君だ。何だったんだ。どうしよう。何かしたい。何を言うべきか。一問一答って事でも無いけど。
「何で、陸上部なの?」
 彼の顔を見て尋ねる。すると彼は目を輝かせ、白い歯を見せ実に快活そうに笑って答える。
「万が一のために必要なのって速さじゃないッスか?」
 こうしてますます彼が分からなくなった。興味は湧いた。

 遠矢君はその後も話しかけてきてくれる。
「クラスで今、何が流行ってるんスか?」
「……少年マンガならスポーツかな」
「スポーツッスか! 熱いッスね! どんなのがあります?」
「……野球とか、どう?」
「是非詳しく!」
 私が工夫を掴んだのもあるけど、大部分は遠矢君のおかげだ。彼は人の話を組むのが上手い。彼の人間関係が充実している理由は格好や業績でなかったようだ。話に出たマンガや本は一週間以内に読んできて感想を放ってくる。だから私も読まざるを得ないし、考えをまとめて伝える必要がある。話す速度は変わらないけど、彼の笑顔は弛緩されたものになった。
 そうした中ある金曜日、彼がお菓子やカラフルに包装された小箱を二の腕まで使って抱えていたところを通りがかり、私は四分の一程運ぶのを手伝う事になった。本当は半分持てれば良かった。腕の長い人ってうらやましい。
「誕生日なんスよ。オレの。本当は明日ッスけど」
 歩きながら隣でポツリと言われた。当然、初耳だった
「……それは、おめでとう」
「どもッス」
「ゴメン。知らなかったから何も」
「いやいやどんだけオレ欲深く思われてんすか!」
「でも、せっかくだし」
「あーそれなら」
 こうして、明日の遠矢君の誕生会に私は招待された。プレゼントを何にしようか、話しながら考えていたけれど。
「じゃあここで」
 たどり着いたのはあの日の階段。普段はここで別れるけど。
「……上まで」
「ホントあの時は、転ばせてしまい、申し訳無いッス」
 遠矢君は大きな体を曲げて、私に頭を下げた。拍子にお菓子が何個か零れ落ちる。思わず一歩たじろいでしまう。何故このタイミングなんだ。
「でもあの時はケガとか無くて良かったっすよ。だからってオレらがやった事が悪い事なのに変わりは無いッスけど」
「……本、読んでた私も不用心だったから」
 正直タイミングはギリギリで関連無いかもしれないが、向こう側にこれ以上気を使わせないためにも口に出す。
「でも実際、先輩がいなかったら俺フツーに転んでたッスよ」
 彼はそれでも顔を上げず話を続ける。
「何つーか自分を客観視すんのがどうもヘタクソで。だからダチとか自分を見てくれる人が欲しいんスよね。相手を見れば、自分が相手に見られている事とかが分かるでしょう?」
 廊下では数人が流れ行くけど彼の言葉を流す事は出来ない。
 遠矢君は、そういう人付き合いか。
 向上心が非常に強い子だと思った。一番向き合うのが難しい自分を知ろうとしている。それはでも気遣いがあるから。あくまで他人のために自分を律し、能力を高めようと尽力できる。
素晴らしい。
「ケイター」
 言葉に出そうか迷っていたら、彼の友人が駆け寄ってきた。
「もうすぐ授業始まるぜ」
「だな。ちょうど良かった。コレ、代わりに運んでくれよ」
「クロネコかっての。って、あ、この前はホント」
 よく見たらあの時踊り場にいた一人らしく、罪悪感があるのかすぐに私の手からプレゼントをもぎ取って階段を駆け上る。
「あ、待てって! じゃ先輩、また!」
 彼もそれに続いて上へと急ぐ。見えなくなっても私は立ち止まったまま、彼らが駆ける音を聞く。
 上と下、階段一階分、物理的な距離。実際はどうだろう。
 見えない男子学生の喧騒が徐々に薄まり、予鈴が響き出す。私も教室へ急ぐ。三階廊下に一人分の足音を鳴らして。

 ふとした時に思い出してみても小学生の時は休み時間の使い方に読書なんてまるで考えず、その時は割と遊ぶ事も多かった友人と過ごす事にしか使っていなかった。
 けど中学に上がると朝と昼掃除の後に読書タイムというのが義務付けられた。そこで読書の魅力に気づいたんだと思う。文字を追うごとに見えるようで見えない世界が広がる、普段の自分とは考え付かない世界に連れて行ってくれる小説達は今でも感謝している。
 ただあまりに夢中になり過ぎて重要な話し合いに参加するのを忘れる事もしばしば。最初の内は友人が教えてくれたけどそれも次第に数が少なくなる。私自身友人グループにいるより活字を追う事を楽しんでいた。その時の私は考えてなかった。
趣味は自由だと大人は言うけど、学生が何を基準とするか。そして読書趣味というのが周りからどのような目で映り、それだけで雰囲気がどう決定づけられるかに気付いていたら。
けれど気付いた頃には中学校を卒業してしまい、高校という新しい環境でも自分の立ち位置を変える事が出来ずにいる。
実際問題今に至っても、毎日話すクラスメイトは0だ。

 指定された日時である土曜日の夕方、プレゼントを持って私は遠矢君の家へと向かう。向かうもけど慣れない服装のためか非情に歩きづらい。お母さんに勧められたワンピースはドレスみたいに長く脱色後みたいに白が強い。少しフリフリを付け過ぎでは無いかとも思ったけど、特別な行事だしたまには良いとした。これを見て彼がどんな顔をするかにも興味がある。
 歩道橋を目印にしながら歩いていると、彼の名字が書かれた表札がかけられた家を見つける。屋根の色など教えられた特徴も満たしているから間違いないだろう。
 中に入ると彼のお母さんはすんなりと私を案内する。彼の部屋は二階らしい。
 階段をゆっくり上がりながら考える、扉を開けてまず何を言えばいいのか。プレゼントを渡すタイミングってどうなんだろう、最初か最後か、それとも盛り上がった頃を見計らってか。
 などと考えていたら、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。
 学校で確かに聞く声。けどちょっと待って欲しい。彼じゃない。何人か女子の声も交じっている。けど、その中にあるこれはそうだ、あの日ふざけていた彼の友人の声だ。
 立ち止まる。露出した両腕に鳥肌が浮かんでくる。プレゼントを滑り落とさないよう強く握り、思考はとめどなく流れる。
勘違いしていた。他の子の事など分からなかったし誕生会なんてうちは毎年家族でやっていたから。でも彼の思考を考えればすぐにわかるのに、浮かれていた? そんな。
「先輩、おそかったっすね」
 ひっ、と軽く悲鳴を上げる。これは間違えない。いつの間にか後ろにいた遠矢君が声をかけてきた。実に軽く、無頓着に。
 そして何を思ったか、私の背中を押し出した。あの日より強く、抵抗できない。
待ってよ。上に進む体。止まって。聞いていない。聞いていないよ。声も出せないから。似合うッスね。やめてって。
ふいに力が無くなり止まった時には、目の前に扉があった。引き戸のようだ。向こうから響く声に頭内が揺さぶられる。
彼が後ろから扉を開けんとする、腕の長い人が、恨めしい。
「みんな、この人がオレの恩人」
 手を上げた彼の体は大きく、すり抜けるのは容易だった。

 夜風が冷たいのは露出のせいか。速度のせいか。全く止まらず駆け進む。裾が汚れる。何度も転びそうになる。気にしない。
 腕も茶苦茶に振るう。やけに軽い。プレゼントは。落としたか。気にしない。私のものでは元々無い。
 馬鹿だ。ドジだ。出て行ってどうする。今後彼と会う時は。なら会わなければいい。本さえ読めれば。気にしない。
 気にしない気にしない気にしない。ウソだ。
 気にしていた。
 彼が私を呼ぶ事に、彼が付いて来てくれる事に、彼が会話をしてくれる事に、嫌がっていたのに、気になってしまった。
 嬉しくて。特別になれた気がして。
 けどわかった。それが彼の基準だった。
 話したいから話すし、多くの人と遊びたいから多くと関わろうとするし、失敗した事は反省し行動に示そうとする。
 別に私だけって事ではない。
 緩んだ笑顔など何が特別だ。
 それに彼が言ったようなお優しい人間じゃあ私はない。
 昔友人を手放したのは自分の怠惰が原因だ。何も言わないから分からなかった。彼女達は何も間違っていない。
 それでもまた求め、そこで考え付いた。読書で手放した関係を読書で取り戻そうとした。自分にとって楽で好きな方法で。
 それ以上何もしようとしていない。
クラスでは寝たフリか読書ばかりで、誰も近寄らせない。誰にも近づかない。何のための読書だと言うんだ。
それでも一人いた。そのために頑張ったけど、まるで無残だ。
 恥ずかしい。離れたい。もうムリ。近寄れない。
 嗄れていく喉。どれくらい進んだか。知る由も無い。後ろは振り返れない。さっきから聞こえる音。足音。呼び続けている声。聞き覚えのあるもの。示している言葉。私の苗字。
 嫌だ違う。そうであって欲しい。裾が何度も翻る。
 大きくなる音。近づく距離。彼の部活。噂。ここか。
 目の前に大きなものが見つかり、そこにすがる。固く軽い音を鳴らして上へと進む。どうやらあの歩道橋のようだ。そのまま前へ。待って。これって待ち伏せされていたらどうしよう。
 直線運動と上下運動にかかる時間の違い。プラス私と彼の速さの違い。
 気付いた頃には下りの階段が見え出す。どうしよう。悩んで悩んでギリギリになって戻ろうと決断をして止まろうとして、止まれなかった。
 ぐるんと、頭の位置が崩される錯覚。
星が見えない程街は明るかった。力が速さに変わっていく。下は見えないけど固さは予想できる。ああ、ぶつかるな。
 体操部経験、陸上部経験共に皆無な私は無音で落ちていき、やがて大きな音とともに到達した。

 ガシィッ!

 ……衝撃が伝わる、脳が弾む、意識は、なぜかある。
 タイルの固さも冷たさも痛みも感じず、堅いは堅いけど、安堵を感じるものが私を支えている。
「こういう時のための陸上部ッスから」
 何時の間にか閉じていた目を、開けたくなかったけど、でも開けないと何も判断できないだろうから。
「可愛い恰好もいいッスけど転んだら危ないでしょう。でも」
 開くとそこには夜空より近い。明るい髪が垂れている。
「これで、お互い様ッスよ、先輩」
 落下した私を受け止めた彼の笑顔は、いつもと変わらなく見えた。腕の長い人の腕の中は、あたたかいな。

 診断で異常が無く思えたがやはり精密検査をしたら、それでも遠矢君の体にまるで異常なし。空中で回転出来たり落下した人間を受け止めたり、陸上部というのは鉄人養成所なのだろう。
 それでも心配と申し訳なさから、校門から三階と四階をつなぐ階段まで彼の荷物を一週間運ぶ事にした。だから今も二人で校舎内を歩いているのだが。
「先輩、せんぱーい、どうしたって言うんスかー?」
「……」
 会話などない。現在無会話強化月間中なのだ。そんな事を言ったら元も子も無いので頬を膨らませ顔を赤くするくらいにとどめる。私は、リンゴ顔なんだろうな。
 助けてくれた恩はある。けど彼の方だって考えたら反省点はあったはず。階段で途中で後ろから押すなんてそれこそ転んだらどうするんだ。
 そして問い詰めたところ、あの日誕生会と称して彼は彼の友達と私との交流会を目論んでいたそうだ。何ということだ。
自分が主役であるにも関わらず、そんな事気にせず素直に祝われるべきだ。彼の友達にも失礼な事だろう。
「……君って、ただのおせっかいなのかもね」
「お。やっとしゃべってくれましたね!」
 しまった。失念した。ここは逃げるしかない。
「なんスかおせっかいってー」
「……今のは、気のせい」
「奇遇ッスね。オレの気がまた先輩の声を感じましたよ?」
「うるさい」
「ウルサイって! 先輩がグレた!」
 どういう事っすかー! などと騒ぐ彼とともに歩いていく。
「……」
 聞いてはいないけど予想はつく。クラスでの私の様子をどこからか知って、それで彼はそういった目論みを思いついたんだろう。ひょっとしたら、自分が話してばかりいるから他の人と話せていない、などと思っていたのかもしれない。
 そういう事を普通にやってくれる。特別に思う訳でも気を遣う訳でも無く何て事ないように。素晴らしい。言わないけど。
「はあ、じゃあ、また」
 やがてあの場所にたどり着いてしまうと、しょぼくれた顔でのっそりと遠矢君は階段を上る。あんなに猫背になってよっぽどショックなのだろうか。
 それでいい。だって私が向かっていかなきゃ意味がないから。
 予鈴が鳴る、始まりの音が響く。
 踊場で徐々に見えなくなる彼を見て、私は体の向きを変えた。
 後ろから押されているみたいに、階段を駆け上る。
 まだ、上の階までは上れないかもしれないけれど、今なら、あそこまでなら彼に近付ける気がする。
 あの時見えた彼の背中に、今度は私が手を伸ばすんだ。

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