さらし文学賞
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閉じた世界

 雨が、屋上に降っていた。

 空は、青かった。

 

 僕は屋上の

庭園様式になっている

真ん中で寝そべって、

傘もささずに

 寝そべって、降り注ぐ雨を全身に感じていた。

 

 ザァ

 

 ザア

 

 空から落ちるこの雨は、

クルクルと舞い落ちて

僕のいるここに降る。

 

 空に浮かぶ太陽は、

サンサンと照り輝いて

    この世界の青さを語る。

 

 この庭は僕の庭。

 

 なら、この雨は?

 

 

 

 僕の雨?

 

 誰かが言った。

雨が降っているときは、空が泣いているのだと。

 

 誰も言わなかった。

空が泣いているときは、僕が悲しんでいるのだと。

 

 

 

 雨が

降っている。

 

 ザア

 

ザァ ザァ と。

 

 粒の大きな

涙のような。

 

 雨が。

 

僕は天を仰ぐ。

 

 

 雨の滴が

太陽に

煌めいた。

 

 

 ザァ  ザァア

 

 

===========

 

 屋上庭園のスプリンクラーが音を立てて動作を終了した。僕は濡れた髪をぬぐって、服に吸い込んだ水分を絞る。興醒めした寒気を撫で捨てて立ち上がって、フェンスによじ登って地上を眺める。トカゲみたいに。

バカと煙は高いところが好きらしい。だったら僕は煙の方になりたいね。なんて。思うよな僕はやっぱりバカなんだ。

世界は青かった。夏の空は真っ青だ。ビックリするぐらい。ビックリしすぎたような青。空模様が、それを見る人の心を映す鏡なら、きっと僕の心も青いんだ。なんつって。

日差しも夏真っ盛り。暑い暑い。熱い。そんな太陽光線を浴びせられて、服が勢いよく乾いていく。気のせいだけど。だけどそれぐらいに夏の太陽パないっす。ジリジリと照りつける感じ。肌が蝕まれていく感じ。悪くないよね。

プルルルル

と、携帯電話が鳴った。呼んでいるのは悪友の賢二だった。

 オーオー。わかったすぐ行くよ。って、答えて切ったはいいけどズブ濡れだよね。ちょっと全身乾燥してから行かなくちゃ。着替えて髪の毛乾かして。

 まあ、だいたい、そんな感じでいいだろう。

 

閉じた世界を、後にした。

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団地の屋上にて

 中学生の頃の話だ。僕は自分の住んでいた団地の屋上に上がる事が好きだった。何でって言うと、屋根裏に憧れる少年の心理だ。どこか秘密基地のような隠れ家を求める。僕自身、少年と呼ばれるにふさわしい年齢。
 屋上へと上がる階段には、いつも張り紙をつけた、古びた椅子が置かれていた。黄ばんだ紙に薄くなったインクで「立ち入り禁止」と書かれている。そもそも団地は戦後しばらくして後の高度経済成長時代に大量に建設されたもので、当時のアメリカの生活様式を模倣したものになっていた。僕が住んでいたところは、県が管理している団地で、一定の条件を満たした県民が安い賃金で借りることができた。借りたい人が殺到するせいで、古い部屋が何らかの理由で空いたときは抽選になる。僕の父母もこの抽選で空部屋を手に入れた。それゆえに僕が育った頃にはもうとっくに真っ白だった外壁には細かな亀裂がはしり,黒ずんだ染みがぽつりぽつりと浮かんでいる。屋上も錆がひろがり,老朽化が進んでいて,安全性が保てなくなったため,立ち入り禁止にされていた。
 僕はいつもそんなことなどおかまいなしに椅子をまたいで屋上に上がった。そこには僕の夢があった。屋根裏で歌う少女の紡ぐような物語が広がっているのではないかという。そしてある日,屋上に上がるとそこには一人の少女がいたのである。
 屋上は貯水槽や何のために使うかわからないような梯子が置いてあり、開けていた。事故防止のために金属製の柵が設けられていたが、月日の果てに風雨にさらされ、腐食が進んでいた。その安全ではない柵に自らの体重を預けて、空を眺めている少女がいた。いつ柵が壊れてもおかしくない、その保証はしっかりとされている、その危険性など恐れもせず、悠然たる様子でよりかかっている。黒い髪は肩までストレートに伸びていて、綺麗に先がハサミで整えられており、簡素な白いワンピースを身につけている。手足は驚くほどに白く、その細さは非力な僕の力でも簡単に折ることができそうなほどだった。色鮮やかな真っ赤な靴を履いていて、そのコントラストは僕には少しまぶしかった。そう、本当に彼女は白かったのだ。まるで外に出て光を浴びたことがないのかのように。
 僕は彼女の声を知らなかった。でもそれを聴きたいと思った。人形のように整った顔立ちと容貌から、さぞかしこの子の声が華麗なものだろうと考えたのだ。そして、その声は,僕のこれまで知らなかったような,ずっと素適なものを与えてくれるだろうと。そんな漠然としたイメージが頭の中に自然と浮かんだ。それは恋とも憧れとも呼べるものだったのかもしれない。ただ、あの頃の僕はそうしたものを明確な形で考えられるほど大人ではなかった。
 人形ぽさを感じさせるのは目もだった。宙を見る視線は虚ろで、ただ光を刺激として感覚器に受容させるだけの存在の目。生気のかけらも意思も感じられない。その目は何を見ているのだろう。いや見てきたのだろう。
 しばらくしてから、彼女はおもむろに僕の方を見る。身体をほんの少し動かすだけで、柵がぎしぎしと揺れる。剥げた錆が粉になって宙にほこりみたいに舞う。彼女の視線は痛いほど突き刺さる。感情のこもらない視線は僕の隅々にまで及び,服を透視し、全てを満遍なく見通す。あまり気分は良くない。値踏みをするような目線ではない。体ひとつひとつのパーツをチェックして、何かを確認するためのものだ。
「あなた、ここで何をしてるの?」
 彼女が初めて言った言葉は確かこんな感じだったと思う。その声は予想通りの可憐なものだった。そして案の定、僕の精神に一種の化学反応を引き起こすことになった。透き通ったソプラノの声で、小鳥がやさしくさえずっているイメージを想起させた。口調は見た目よりも幼い感じで、それも驚きではあった。見た目は僕と同い年くらいだったからだ。
「君こそ、こんなところで何してるのさ」
「あたし? あたしは外を見ているの」
 質問に質問に返した僕に対し、特に気を悪くすることなく、彼女は答えた。目には少し温かみが宿っている。どうやらさっきの態度というか雰囲気は人間を警戒していたらしい。
「外はいいよ。あそこには森があって、通りにはお母さんと子どもがのんびりと歩いている。本当に楽しそう」
「なら、外に行けばいいんじゃない?」
少し会話らしい会話をしていたが、この僕の応答の後、彼女の顔には少し影がさした。
「外には行けない。あたしはここにいるしかない。ここで眺めることしかできない。あたしは籠の中に閉じ込められているの」
 その日は会話はこれで終わりだった。彼女は屋上から階段を下りて、自分の部屋に帰ってしまったからである。帰り際にまたねと言い残して。それだけであの頃の僕は満足してしまった。全く中学のころというのは実に単純なものだ。彼女がいったいどんな暮らしをし、どんな境遇であるか一切気にも留めなかった。
 それからしばらく僕は彼女に屋上で出会った。出会うたびに片言のような会話をして、彼女の方から帰ってしまう。いつも彼女は老朽化した柵によりかかっていた。僕もそのことを特に危険だといわなかったし、慣れてしまっていた。そんなことを繰り返しているうちに、突然ぴたっと彼女が現れなくなった。会わなくなってはじめて、名前もどの部屋に住んでいるのかも知らなかったことに気付いた。不思議なことに彼女とは同じ団地に住んでいるのに一度も会わないのである。屋上でしか会ったことがない。なんだか幽霊だったんじゃないかとも考えたりしているうちに、忙しくなり、彼女の事もついには忘れてしまった。ともかく、彼女こそが初恋の相手であり、恋を知ったのはそのときだった。
 
 それを十何年も経った今、どうして思い出したのか。と言うと、眼前に彼女が立っているからだ。僕が年をとったのと同じくらい、彼女も年月の経過によって円熟した大人の女性になっていた。あの頃は人形のような可憐な感じだったが、今は妖艶な魅力をもつ美しさで形容しなければならないだろう。
 僕は再び屋上で彼女に会った。もともと高校を卒業して家を出るときに、団地からもあの屋上からも離れていた。この団地の持主である父母の内、父は三年前に、母は先月三週間前に亡くなっていた。簡素な葬儀が終わり、相続関係の事務的な処理を済ませた後、生まれ育った団地の部屋は僕のものになった。と言っても運営は県だから、しばらくしたらまた新しい居住者が選ばれるため、近いうちに出て行かなければならないわけだが。住む場所は当然他にあるわけだが、すぐに引き払う気はしなかった。仕事を放り出して、しばらく僕はこの部屋で残された父母の品々と共に過ごした。そしてふとこの屋上の事を思い出して、気まぐれに昇ってみると、彼女と遭遇したのだった。
大人になって、中学生の頃とだいぶ異なってしまった自分だが、彼女を見た瞬間、時間は巻き戻され、僕も彼女も中学生の頃に戻った心地がした。
「君は何をしているの?」
 彼女はあの頃と同じ問いをした。だが、彼女はあの頃と違ってまっすぐ僕の目を見つめてくる。
「外をここで見るためさ」
「どんなものが見える?」
会話はたどたどしく、中学生の頃のままだ。普段使うような堅苦しい言葉遣いは捨てて、生身の言葉を口から押し出す。
「森が見える。あの通りにはおばあさんが車椅子で、その子どもらしき青年に押してもらってる。外は変わらず平和だ」
「外は変わらない。いつも通り」
「そう、外は変わらない。いつも通り」
微笑みながら噛み締めるように僕の言葉を繰り返す彼女。その顔は自然とほぐれていた。
僕も久しぶりに笑った。

 朝、目が覚ますと、閉ざされたカーテンから漏れ出す光がその日の天気を示していた。ベッドには僕以外誰もいない。今は。若干のシーツの乱れと皺で、ここにもう一人いたとかろうじてわかる。僕は起き上がると大きく伸びをして、昨夜のことを考えた。僕と彼女はあの頃遣り残したことを果たしたのだ。豆腐のような感触の彼女の肌を思い出した。それは少し触れば簡単に崩れてしまいそうなほど儚いもので、不思議な心地だった。まるで実存と虚無の間をゆらゆらと漂うような感覚。その間中、彼女は一言も発さなかった。
 彼女は部屋の中にはいなかった。僕はいつもの通り、また屋上に上がってみた。すると彼女はそこにもいなかった。だが、屋上にはどことなく違和感があった。僕はすぐに気付いた。いつも彼女がよりかかる、あの安全柵が壊れて、一部がなくなっていたのだ。慌てて駆け寄って、下を眺めると直下のコンクリートに彼女はいた。柵の一部と一緒になって、無惨に、その美しさは原型をとどめていなかった。真っ赤な花を散らしていた。
 彼女が落ちたのを確認した瞬間、僕は雨が降り出していることに気付いた。周りが明るいのに降る雨。天気雨というんだっけ、と思い出しながら、無性に悲しくなった。彼女は外にやっと出れた。でもそれは命を投げ出さなくてはならないほどのことだったのだったのだ。雨は全てを洗い流していった。
 彼女を監禁していた実の親が捕まったのはそれから間もなくの事だった。

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リモコンが見つからない

 俺は、ハッキリしねぇ天気は嫌ぇだ、と男は言った。
 男はこの界隈では有名な豆腐屋だ。
 豆腐屋の朝は早い。朝一番の天気予報よりも早く、起き抜けに空気を感じ、自分の目で空を見て、その日の天気を占うのが男の日課なのだという。
「晴れが一番と俺は思うけどよ。別によ、雨が嫌ぇってわけでもねえのよ。降るなら黒雲もくもく蓄えて、ざあざあ降りゃあいい。暑ぃ日なんざそのまま濡れ鼠になって踊っちまいてえくれぇよ」
 男の言葉に、彼の妻がいかにも面白そうにクスリと笑い、こほんと咳を一ついれる。売り物の豆腐に負けず白く、気立ても良い妻は男の自慢だ。
 男はそんな妻の反応に満足したのか、もともと良かった機嫌と調子を上げながら続けた。
「反対によ、お天道さんが出てんのに、雲がかかるような天気は嫌ぇだな。そういう日は、空見なくてもな、起きた時にわかんのよ。朝起きて髭に触っと、最初は張りがあんのに、どっかしなびてやがるんだ」
 男は自慢の髭を撫でて言う。今日は張りがあるようだ。
「雨なら雨で気合入れてやっかと思うんだけどよ、どうにも気が抜けちまうんだわ、半端な天気ってぇのはよ」
 そう言って、空に何かをかざすような仕草をする。
「こうよ、晴れなら晴れ、曇りなら曇り、雨なら雨って変えられるリモコンは無ぇもんかね」
 それ最近の貴方の口癖ね、可愛らしいと妻が笑い、男がそうかとがははと笑う。お日さまみたいに温かな空間だった。

 それから数日。
 いつも通り早い時間に男が目を覚ますと、雨のにおいがした。
 なんでい、今日は気合入れなくちゃなんねいな、と寝ぼけ眼で髭に触れると、僅かながら、しかし確かに張りを感じた。
 男はがばっと体を起こし、慌てて外へと体を踊らせる。
 空には太陽が無かった。雲がなかった。しかし雨は降っていた。夜明け前の天気雨だ。
 男が祈るような気持ちで東を見れば、太陽は山の端から上ろうとしていた。
「太陽、上るな! 雨、止め! いっそ時間、止まりやがれ! なんでもいいから、半端な天気になってくれるな!」
 男が額をこすりつけて祈っても、天気を操るリモコンも、時間を操るリモコンも無いのが現実だった。祈りむなしく、空に太陽が上りはじめても雨は降り続けた。
 愕然とする男に、家から出てきた白い影が告げる。
「お父さん、今までお世話になりました」
 母に似て白く美しい娘は、器用に三つ指をついて言った。
「天気に恵まれた今日、私はお嫁に参ります」
 男は我を取り戻し、気丈に振る舞う。
「おう、行け行け。土産にうちの油揚げ持っていけ」
「うん、お父さんの油揚げは最高だものね」
 この界隈で、彼の油揚げが好物でないものなどいなかった。
「おうよ。懐かしくなったらすぐ帰ってきていいんだぞ。後は泣かされた時な。その時はあの野郎毛一本も残さねぇ」
 ふん、と鼻息荒い男を、娘に続いて出てきた妻がなだめる。
「大丈夫よ、貴方。良い方だと、知っているでしょう?」
「むぅ、だ、だかよぉ。猫被りかもしれねぇだろうよ」
 妻はいかにも面白い話を聞いた、とクスリと笑い、こほんと咳をした。私たちが猫なんてかぶるはずないでしょう、と。
 それもそうだな、と男が笑うのを見て、妻は娘に告げる。
「さ、お前も夫婦漫才をいつまでも見てないでお行き。せっかくの嫁入り時を逃がしちまうよ?」
 わかりましたお母さん、と娘は深々と頭を下げ、油揚げを携えて去っていく。男と妻の視界にある間、一度も振り返ることは無かった。
娘が去って、二息ほど後、妻は男を顧みて言った。
「本当に可愛らしい方。さみしいのなら、さみしいとおっしゃればいいのに。リモコンの話も、そうでしょう? はっきりと晴れていれば、雲を蓄えて雨が降れば、嫁入りは来ませんでしたものね」
 次の『狐の嫁入り』に娘が嫁に行くことが決まって以来、天気を自在にできたらいいのにと心密かに思っていた男は、見栄を張り、てやんでぃ、と見得を切る。
「半端な天気が嫌ぇだっつうのに、嘘は無ぇやい」
 妻は男が否定しないことに気付いているが、何も言わない。ただ男を優しく見つめていた。
「ちくしょうめ、風まで吹いてきやがったのか。顔が濡れやがる」
 男が顔を伏せてコンとないた。
自慢の髭と毛並みが濡れていく。
 涙雨を止めるリモコンは、見つからない。

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「青い」「歩く」「うらやましい」


 僕の空は曇り空。気付いた時にはそうだった。
 僕の海は曇り海。気付いた時にはそうだった。

 五歳の時、初めて飛行機に乗った。窓から眺めた空も海も相変わらず曇っていたけど、それでも僕はこの乗り物が大好きになった。
 パイロット。なんてカッコイイ名前だろうと思った。僕はパイロットになりたい。強く思った。

◆ ◆ ◆

 新学期の初日、教室に見たことのない子がいた。この学校には十人で一クラスしか生徒がいないのだから、十一人目の彼女は新しい子に違いない。
「斎藤優希ちゃん、六年生だ。あまり授業には出られないけれど、みんな仲良くしてくれ」
 担任の竹ちゃん先生が紹介してくれた。
優希ちゃんは小柄だった。六年生と紹介されたが、見た目はもっと幼かった。腕や脚は細くて棒のようだ。顔色は酷く白く、目と髪の黒さを一層引き立てていた。
優希ちゃんは車いすに座ったまま、軽く頭を下げた。口を開けたけれど、言葉はよく聞き取れなかった。
 上手くしゃべれなくとも、特に奇妙には思われない。隆弘は耳がほとんど聞こえないし、加奈子ちゃんは右手足が動かない。このクラスの皆がいわゆるハンデってものを抱えている。
 その日はすぐに帰れたから優希ちゃんと話す時間は無かった。

◆ ◆ ◆

 優希ちゃんは、竹ちゃん先生の言ったように、あまり学校に来なかった。二、三日に一回来れるかどうかだ。
 めったに来ないせいか、彼女はあまりクラスになじまなかった。このクラスはずっと変わってないのだから、みんな新入りになかなか話しかけなかった。一番新参の隆弘だって、このクラスに来たのは三年前だった。
 でも、僕は昨日、優希ちゃんがみんなに気付かれないようにこっそり泣いているのに気付いてしまった。
 だから、なんだかかわいそうで、僕は昼休みと放課後に優希ちゃんと遊ぶようになった。

 ある日の放課後のこと。
「ねぇ、いっくん」
 優希ちゃんに呼ばれたから、僕は彼女の口元に耳を近づけた。彼女はしゃべるのが得意ではなかったし、声も小さかったから、出来るだけ近くで声を聞くようになった。いっくんとは、僕のニックネーム。洋一だから、いっくん。なんだか情けなく感じたけれど、よっくんよりはマシかも。
「いっくんのすきなものってなぁに?」
「好きなもの? んと、飛行機と、青」
「あお?」
 優希ちゃんは首を傾げた。
「うん。色の青。ブルー」
「なんですきなの?」
「わからないから、かな」
 僕は『青』を知らない。まだ赤ちゃんだった時の事故で頭をぶつけて以来、僕は青系の色が分からない。何でも、第三色覚異常とかいう珍しいケースらしい。僕の見る空は晴れていても雲ひとつなくても灰色に見えるし、どんなに澄んだ海も、ネズミと同じ色でしかない。ラムネもソーダアイスも色のせいで嫌いだ。
「僕は灰色と青が同じに見えちゃうから、青を見てみたいんだ」
 優希ちゃんは、少し考えた後に言った。
「わたしも青、すきだよ。小さいころからずうっとまどの外の空しか見てなかったから。歩けないし、いえのまどからみえるのがわたしのぜんぶだった。学校にくるときは車にのるから、すこしだけほかのものも見えるけどね」
「青ってきれいなんだろ?」
 僕が尋ねると、優希ちゃんは笑みを浮かべて頷いた。といっても、ぱっと見では彼女の表情はほとんど変わってない。一緒に遊ぶようになって少しずつ表情の変化が分かるようになってきた。優希ちゃんの笑顔はとっても可愛くて、この顔を見られないクラスの皆は絶対損をしている。
「ほんとに、きれいだよ。こころがね、すうっておちつくの」
 そう言う優希ちゃんに、僕も笑顔を返す。
「優希ちゃんがうらやましいな。青の良さをよく知ってるんだね」
「あのね、わたしもいっくんがうらやましいよ? わたしはね、いっくんみたいに歩いてみたいの。本でね、せかいはひろいんだってあったからね、いろんなところにいってみたいんだ」
 優希ちゃんの顔が少し暗くなった。僕は優希ちゃんの手をとって、励まそうとした。
「じゃあ、明日一緒に公園に行こう! 優希ちゃんは僕がおんぶしてあげるから」
 優希ちゃんは首を横に振った。
「むりだよ。お外にでるとつかれちゃうからって言われてるし、見つかったらおこられちゃうよ」
 僕は優希ちゃんの手を強く握った。
「大丈夫。学校から近いからそんなに疲れないし、優希ちゃんだって公園、行ってみたいでしょ」
 優希ちゃんはおろおろしていたけれど、オーケーしてくれた。
「いっくん、あのね、おんぶよりだっこがいい」
 優希ちゃんが提案してきた。そのくらい、朝飯前だ。
「あのね、あたまとひざの下にうでをいれて、だっこして」
 僕はためしにやってみた。
「こう?」
「うん。えへへ、明日もこれでよろしくね」
 優希ちゃんは笑って、僕の頬にキスした。!
 僕はあやうく優希ちゃんを落っことしてしまうところだった。
「じゃ、明日」
 恥ずかしくなったから僕はそこで帰った、というか逃げた。

◆ ◆ ◆

 結局、僕らの計画は竹ちゃん先生にばれて、怒られてしまった。でも、優希ちゃんのお母さんはあまり怒ってなくて、むしろ嬉しそうだった。
「優希にも、良いお友達ができたのね。最近は体の調子もいいみたいだし、日曜日にでも公園に行きましょうか。私と、優希と、洋一君の三人で」
 その時の優希ちゃんの笑顔は出会ってから一番のまぶしさだった。

 日曜日はとっても良い天気だった。三人で大きな木の下でお弁当を食べた。優希ちゃんのお母さんのつくったお弁当は、とってもおいしかった。
 二人で寝転がって、空を眺めた。相変わらず僕の空は灰色だった。
「きれいだね、いっくん」
「今日の空はきれいな青?」
 僕は聞いてみる。
「うん、とってもきれい」
 優希ちゃんの楽しそうな声を聞いていると、僕も心がすうっとした。優希ちゃんは青色は心がすうっとする色と言った。僕は見たことのない色を理解できたようでうれしかった。
「こんな青色が見れる優希ちゃんはやっぱりうらやましいよ」
「こんなたのしいところに来れるいっくんがうらやましいな」
 二人で笑った。
「でも、うらやむだけじゃない。僕は青色を見れるようになって、パイロットになるんだ」
 パイロットになるには目を治さなきゃいけないとお医者さんに言われた。治療には角膜の移植が必要で、ドナーを探している最中だ。
「わたしも、いつかかならずじぶんの足で歩くんだ。うらやましいどうし、がんばろうね」
 指切りげんまん、ウソ付いたら針千本飲~ます、指切った!
「ねえ優希ちゃん、ハリセンボンってお魚なんだって。この間図鑑で見たんだ」
「あ、わたしもしってるよ。とげとげがいっぱいついてるんだよね」
「え~知ってたんだ」
「わたし、六年生だよ? いっくんよりも年上のおねえさんなんだから」

 そのあとは、学校での約束通りに優希ちゃんをだっこしてあげた。あの時は何ともなかったのに、今はとっても恥ずかしい。
 僕の顔は真っ赤だったに違いない。それに、優希ちゃんの顔も、なんだか赤かった。

◆ ◆ ◆

 次の日、優希ちゃんは学校を休んだ。竹ちゃん先生は風邪だと言っていた。僕はお見舞いに行くことにした。
 放課後、僕は飴をたくさん持って優希ちゃんの家に向かった。
 優希ちゃんに飴を渡して、少し話をしてから帰った。
 それだけだったけれど、楽しかった。

 次の日、僕も風邪をひいた。
 以外に熱が高く、長く続いて、僕は四日もうなされた。
 熱が引いたのは金曜日。僕は念のために休んで、月曜日から学校に行くことにした。

 僕が学校に戻ってきても、優希ちゃんはいなかった。優希ちゃんの家に行ったが、誰もいなかった。僕は竹ちゃん先生に電話をかけて、優希ちゃんが肺炎で入院していることを聞いた。
 急いで病院に行ったら、優希ちゃんのお母さんがいた。一緒に病室に行った。
 病室のベッドの上に優希ちゃんはいた。口には人工呼吸器がつけられている。テレビであれをつけている人はほとんどが重病人だ。
 僕は慌てて優希ちゃんの手をとって話しかけた。
「優希ちゃん、大丈夫?」
 優希ちゃんは苦しげな顔で寝ていて、話しかけても返事は無かった。
「おばさん、優希ちゃん大丈夫だよね?」
 優希ちゃんのお母さんは頷いたが、その表情は暗かった。
「肺炎自体は軽いものだけれど、優希は体が弱いから悪化するかもしれないわ。予断を許さない状態よ」

 それから僕は毎日放課後に面会に行った。優希ちゃんは少しずつ快方に向かっているようで、入院してから一週間後には散歩に出られるまでになった。
 今日も、僕たちは中庭に散歩に出ていた。車いすを押すのは大変だったが、優希ちゃんの前で弱音を吐くわけにはいかなかった。
 この日はどんよりとしていて、青空は雲の隙間から僅かに見える程度だった。
 優希ちゃんは朝から暗い表情をしていた。話しかけると笑顔で応えてくれるのだが、すぐにまた落ち込んだようになる。
「優希ちゃん、どうしたの? 僕何か優希ちゃんが嫌なことしちゃった?」
 優希ちゃんは慌てて否定して、でもすぐに俯いてしまった。少しの間そうしていたけれど、おもむろに話しだした。
「あのね、わたし、もうぜったい歩けないんだってお医者さまに言われたの」
 優希ちゃんの声は震えていた。俯いているから分からないけれど、泣いているに違いない。
「わたしのびょうきは少しずつ筋肉がよわっていくびょうきで、これからどんなにがんばっても歩くことはできないって」
 僕はどう励ましたらいいのか必死で考えたけれど、何も浮かばなかった。でも、中途半端に励ます方が優希ちゃんにとって辛いかもしれない。そう思ったから僕は何も言わないことにした。
「いっくんは、いいよね。手術すればなおるんでしょう? いっくんがうらやましい」
 優希ちゃんはそういって小さく笑ったが、その笑みには全く可愛さが感じられなかった。僕は少し怒った顔をしていたかもしれない。その言い方は、嫌だ。
「……ごめん。いっくん、ごめん」
「ううん、いいよ」
 僕は何も言わずに、優希ちゃんの頭をなでてあげた。優希ちゃんは気持ちよさそうに目を細めて、笑ってくれた。
 その時、急に優希ちゃんがむせこんだ。苦しそうに胸を抑える。
「ッ、ゴホ。……ん、もうだいじょうぶ」
 優希ちゃんがつらそうだったから、この日は病室に戻った。
 帰り際に、優希ちゃんがこっちをじっと見つめていることに気付いた。
「どうしたの?」
「いっくん、あのね、わたし……ううん、やっぱりいいや。またね」
 優希ちゃんの表情は笑っているような泣いているような、何かを決意したような諦めたような、不思議な表情だった。何か胸騒ぎを感じたけれど、僕は何も言えずに帰った。

◆ ◆ ◆

 最後に優希ちゃんの所へお見舞いに行ってから、一週間が経った。僕は、自身の目の検査のために入院した。優希ちゃんの病院とは違うところだったから、逢えないのはさびしい。
 僕の眼は少しずつ症状が悪くなっていっているらしい。僕自身は気付いていないが、このままだと少しずつ見えない色が増えていくらしい。
 網膜の移植に関しては、僕よりも大変な状況にある人が優先されちゃうから、移植まではまだ時間がかかるらしい。

 入院して十一日目、テレビを見ていると急に画像が乱れた。テレビを軽くたたいたけれど、全くなおらない。一度電源を切ってつけてみるが、変わらない。そこまでしてから、僕は自分自身の目がおかしいんだ、ということに気付いた。
 窓の外を見る。相変わらず空は暗い。しかし、それだけではなかった。木々の色が薄く、灰色がかって見える。
 ナースコールでお医者さんを呼んだ。お医者さんは僕の目がどうなったかを聞いた後、目をあまり使わないようにと言った。移植しか治療手段がないのは分かってるんだけど、テレビもゲームも禁止ってのがきつい。
 ぼやいていても仕方がないから、僕は寝ることにした。

 四日後、網膜の移植が決定した。予想外の早さだった。まだ何カ月、いや何年かかるかと思っていたのに。お母さんはそれを僕に告げる際、微妙な表情をしていた。泣いているのは嬉しさと言うより悲しさのように感じた。

 手術には十二時間かかった。らしい。僕自身は寝てて意識がないわけだし、手術後すぐ目覚めるわけでもない。僕が起きた時は麻酔薬を飲んでから一日と二時間経っていた。
 それから一週間後、僕は退院した。その日の空を僕は絶対に忘れない。
 広がる雲ひとつない空。初めて見た青い色。心がすうっとして、わくわくドキドキして、たまらなくなった。大声で叫びだしたくなって、叫んだ。
 とりあえず目が完治した僕はもう養護学校に通う必要はなかったけれど、僕は転校する気は無かった。
 朝一番、誰よりも早く学校に来て、優希ちゃんがいなかったのは残念だった。誰よりも早く来たのだから当然だったけど。
 僕は学校をさぼって優希ちゃんに会いに行くことにした。急いで教室を飛び出した。

 先生が教室に入ってきた。手には花瓶に入ったユリの花。先生はそれを、机に置いた。机には「斎藤優希」のシールが貼ってあった。

◆ ◆ ◆

 優希ちゃんの病室には誰もいなかった。僕は優希ちゃんの家に行った。
 優希ちゃんの家の扉の前には「忌中」と貼ってあった。文字の意味はよく知らなかったけれど、どんなときに貼られるかは知っていた。お祖母ちゃんが死んだ時、家にこれが貼られていた。
 僕は家に駆け込んだ。失礼だ、なんて考えていられなかった。
 優希ちゃんのお母さんは僕に気付くと、優しく抱きしめてくれた。
「あの子の分まで、生きて、世界中を見てまわってね」
 そこまで言うと、優希ちゃんのお母さんは泣き崩れた。
 僕も大泣きした。何時間泣いたか分からないけど、朝早く来たのに、僕が帰るころにはもう空は赤くなっていた。
 その日、晩御飯も食べずに寝た。お母さんは何も言わなかった。お母さんはもう知っていたのかもしれない。

 その日の夜、夢に優希ちゃんが出てきた。
 僕は優希ちゃんと一緒に病院の中庭で空を眺めていた。僕は自販機で飲み物を買ってきて、優希ちゃんに渡した。優希ちゃんはそれを受け取って飲み干すと、お礼ね、と言って、僕の前で踊ってくれた。上手かどうかはよくわからなかったけど、くるくるまわる優希ちゃんはとても輝いてみえて、僕の心はとってもすうっとした。
「優希ちゃんが、うらやましいな。僕なんかと違っていつも楽しそうで」
 優希ちゃんは僕の報に向き直って、口にキスした。僕は顔を真っ赤にして慌てた。
「わたしはいっくんがうらやましいよ。その足で、世界中を見て回れるんだから。どこまでも続く青空を追っていけるんだから」
 優希ちゃんは空を指した。僕はその指を追って空を見上げた。とても澄んだ空。太陽がまぶしくて、僕は思わず目を閉じた。
 そのまま、僕の視界は真っ暗になった。優希ちゃんの声だけが聞こえる。
「いっくん。わたしのかわりに世界中を見てまわってね。そのためにわたしがいっくんの色になってあげるから」

 目が覚めた。色々とあり得ない夢だった。優希ちゃんは自分の足で立って動き回っていた。
 最後に優希ちゃんが言った言葉を思い出す。
「わたしがいっくんの色になってあげるから」
 僕は、一つのことに思い至った。夢が根拠なんて馬鹿げているけれど。部屋から出てお母さんのところへ。
「ねぇ、お母さん。僕の眼のドナーって、誰?」
 お母さんは一瞬はっとした表情になった。それだけで僕は気付いた。
「ああ、優希ちゃんだったんだ。僕の目になってくれたのは」

◆ ◆ ◆

 青くどこまでも澄んだ空。心がすうっとする、良い天気だ。今日もいいフライトになりそうだ。
「機長、計器類のチェックがまだ済んでませんよ」
 副機長が催促してくる。少し口うるさいが、明るくて良い娘だ。
「はいはい、今行くよ」
 吸いかけの煙草を放り、足で潰す。拾い上げて携帯灰皿に入れる。
「今日も頼むよ、優希ちゃん」
 

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このよにふれることはなし

 葵さんが青くなってしまった。ブラインドの隙間からしつこく入り込む光は、暮れなずんでいく空の橙。葵さんはその中で、ひどく不釣り合いな顔色をしていた。
 葵さん、葵さん。
 呼びかけるけれど、葵さんはかすかな寝息を立て、目の下に濃くかげを落として眠っている。葵さんの肌は、青い。ひたり、と、眠る葵さんの頬に手を当てると、吸い付く。ぴたぴたと、葵さんの頬をなでる。温かくて、手に吸い付いて、ひとの肌だ。けれど、青い。青いのだ、その肌が。
 熱いほどの体温を伝えてくる葵さんの青い肌をなぞって、手を葵さんの首へ。首筋をたどって肩へ。鎖骨をなでさすり、気が済んだら胸へ。ゆっくり鳴る心臓に耳を澄ませながら腹へ。へそを一回り、いたずら心を出して、その下を愛おしく。
 くすくす、とのどの奥の声に葵さんがみじろぎする。葵さんは鼻を鳴らして、その熱い手が頭に回される。くしゃくしゃと髪を巻き込んで、なでられる。また葵さんは静かな寝息に戻って、ううん、と声を上げた。
 葵さん。
 大人しく葵さんの首に顔を擦り付ける。
 葵さん、お腹が冷えますよ。風邪をひきますよ。
 ひゅるひゅるとエアコンが唸る。

 葵さん。
 随分と長い間目をつぶっていたような気がする。けれど、まだ細長く切り取られた黄金(きん)の光が差し込んでくる。きらきらと、差し込んで壁に長い線を描いている。まだ葵さんは青いまま、寝息を立てて眠っている。ときおり葵さんの鼻がううんと鳴る。
 すっかり青くなってそれがなじんでしまったようにすら思える葵さんの肌は、冷やされて表面が乾いて、当てるてのひらもなんだかかさかさとしてしまったようで、ぺたりと吸い付かない。ただ、すべすべとしている。
 ゆっくりと、葵さんの首元のへこみから、鎖骨に沿って指を滑らせる。鎖骨のおしまいが肩に吸い込まれると、肩の骨の出っ張りに指を這わせて肩を包み込む。肩と鎖骨の間のへこみに指を落ち着ける。腕を伸ばして葵さんの肩を抱き、反対側の肩に額を押し付ける。
 視界は暗い。耳のすぐ近くで、葵さんの首筋の血管が鳴っている。そのままじっと体を押し付けていると、だんだんぬくもりが伝わってくる。
 ひたひた、とてのひらで肌の滑らかさを確かめる。てのひらは温まって、葵さんの滑らかな、その青い肌に吸い付く。
 身体が半分、葵さんの上に乗っていて、葵さんが重かったらいけないとそっと身じろぎをすると、身体の下にしていた肌がぎちぎちとソファの皮から剥がれる音を立てた。いやだ、と思う。こんなにべたべたとしていて。皮膚は不快を訴える。
 葵さん。葵さん。
 ぎゅっと、身体を伸ばして葵さんに覆いかぶさるように、葵さんの首に手を回して葵さんに抱き付く。温かい、葵さんの身体。ぴたぴたと吸い付く肌。青い、温かい、すべすべとした葵さんの肌。
 ひどく、安心した。
 ごそごそ好きに動き回ったせいか葵さんは半分目を覚まして、くすりとのどを鳴らして抱き締めてくれる。髪の上からいとおしげに、ぎゅっと力をこめて。
 葵さんの抱き締める力が強くて、身動きが取れなくなる。ますます、葵さんの首筋に顔が押し付けられる。ゆっくりとまたたくと、まつげが葵さんの首筋に触れるのが分かる。青い、どくどくと血管が震えている、いとおしい肌。
 噛み付きたい、と思う。葵さんの、そののどに。その青い、首筋に。

 くちびるを押し付ける。ぴたりと、くちびると葵さんの肌が触れ合った。薄く開けた唇の間から、舌を出して触れた。しっとりと、吸い付く。ぴちゃり、粘着質な音がする。熱い吐息が頬に返ってくる。
 そのまま、歯を立てた。軟い肌が、舌に触れた。
 いた。
 葵さんが声をあげる。胸に当てたてのひらの下で、葵さんの心臓が鳴っている。胸を開いて、心臓を取り出したいと思った。きっと、心臓はまだ赤いだろうから。
 脈打つ心臓を、取り出してこの手で持ちたい。きっと血に濡れていて、湿っていて、ゆっくりと鼓動を打っていて、赤いのだ、きっと。
 心臓が取り出された後の葵さんの胸は、開いた胸に肋骨が剥き出しのままで、悲しくなってしまうだろう。
 だから心臓を取り出した後は、何食わぬ顔で胸をとじよう。心臓はかばんに入れて持ち出そう。
 そんなことを考えている。口の中には、葵さんの滑らかな青い肌が含まれている。弾力のある、温かい葵さんの肌。口の中で、唾液に濡れていく。舌が肌の上をなぞる。強く噛むと歯型が肌に残ってしまうから、あごに力は入れない。やわやわと肌の感触を確かめる。
 滑らかな、すべすべとした肌に、痕を残してはならない。そんなことは、我慢ならない。
 いたい。
 葵さんがかすかに声を上げる。私はあごを開いた。

 しかし飽きずに、おずおずとやわやわと、葵さんののどに噛み付く。強く噛まないように気を付けながら、目を開けたまま、心臓を取り出すにはどうしたらいいのだろうと考えている。
 まずは、胸の中央を縦に切り開く。組み合わさった手のような肋骨を、胸椎を切り離して開く。そうしたら、心臓が取り出せるだろうか。
 葵さんの心臓が、手の上に乗った。赤く、赤く、脈打っている。早くかばんに入れてしまおう。早く家に帰って冷蔵庫に入れてしまわなければならない。
 ああ、その前に開けたままの葵さんの胸をとじなければ。とじなければ、葵さんが自分の心臓がないのに気付いてしまう。
 気付かれてはいけない。葵さんの開いた胸をとじなければならない。やはりそれよりも、心臓をかばんに入れてしまうのが先だ。葵さんが目覚めてしまうから。指の間からぱたりぱたりと血が滴る。部屋の白い壁が、ぼんやりと光を発している。
 一瞬空っぽになった頭は、べしゃりと葵さんの心臓が床に落ちる音を聞いた。裸足の足が赤く染まる。もぞりと、葵さんの心臓が動いた。もぞり、もぞりとその身を起こし、葵さんの心臓は不器用に歩き始めた。
 ぺたぺたと、心臓は歩いていく、その後に血の跡を引きずりながら。心臓は歩いて、部屋を出て行く。見えなくなった。
 葵さん、葵さん。
 ぬるぬると血で濡れた葵さんの青い肌は、手を当てるとにちゃりと糸を引いて、もうひたひたと吸い付かない。何度呼んでも、葵さんは目を覚まさない。
 葵さんののどが鳴り、葵さんはぐっすりと、眠り込んでいる。

 葵さんの心臓の後を追って歩いていきたい。けれども、歩き出すことはできなかった。眠っているはずの葵さんの腕が背中の後ろから伸びてきて、がっしりと抱き締められた。
 力が後ろにかかり、足元の血溜まりに素足を滑らせて、葵さんの身体の上に倒れ込んだ。
 ぎりぎりと葵さんの腕に抱きすくめられる。身体中の骨が悲鳴をあげている。しかし葵さんの腕の力は緩まず、しかし相変わらず葵さんは穏やかな寝息を立てている。
 とじられていない葵さんの胸の中に腕がもぐり込んでいく。ぬるぬるとして、燃えるように熱い。葵さんの肌は青い。葵さんの血が赤い。めまいがする。
 歩いていきたいのに歩いていけない。身動きができない。葵さんの心臓は歩いていってしまった。その後を追って、歩いていきたいのに、歩けない。
 心臓をなくして、なにやらよく分からないものが残って詰められている葵さんの胸の中で、もぐり込んだ腕がもがく。焼けてしまいそうだ。
 腕を引き抜こうともがくと、ぬるぬると葵さんの肌が血で滑る。不快だ。吸い付くような滑らかさはもうない。ひどく、不快だ。
 葵さんの頭が首筋に押し付けられた。葵さんの名前を呼ぶこともままならない。のどが圧迫されて絶息する。おそらく白いであろう葵さんの歯が、ざらりと首をなぞった。
 そして、葵さんが突き刺さった。

 まるで引き剥がされるように夢から放り出された。息を吸うと、乾いた肺が広がってひび割れるように痛い。目は、鮮烈な青だけを捉えている。滑らかな葵さんの胸は、とじている。ただ、その肌は青い色をしている。
 壁に映る光線の色は、暮れきる空の紫がもう随分と混じっている。光の投げかけられる部屋の壁は、ごく普通の白だった。
 まだ葵さんはかすかな寝息を立てて眠っている。半身を起こし、葵さんの肩をそっと揺さぶった。
 葵さん。葵さん、起きて下さい。お腹を冷やしちゃいますよ。
 声に、葵さんはゆるゆると目を開ける。そして、目を細めてささやき声で言った。しかし、その声はかすれていてよく聞こえない。
 ぼんやりと、仰向けのままの葵さんののどだけを見ていた。そののどを噛んだら、また葵さんは痛がるだろうか。
 葵さん。
 葵さんは起き上がり、頭をくしゃくしゃとなでて、耳の辺りにくちびるを寄せた。そして一枚一枚服を身に付けていく。動けない。ただ、葵さんの名前を呼んだ。
 葵さん。
 頬にそっと手を触れる、服をまとった葵さんは、部屋の壁に取り付けられた明かりのスイッチを入れた。
 眩しさから逃れるように、手が服を取りそれを頭からかぶった。身づくろいが終わった頃には、眩しさも金縛りも消えていた。葵さんがネクタイを締めているその手元を見ながら、くしゃくしゃになった髪を梳かそうと、ブラシを取り出そうとしてかばんを開いた。

 そこには、真っ青な心臓が入っていた。
 もぞもぞと歩き出そうとしている。早く、心臓の欠けた胸に戻してとじないと。知らずに胸に当てた手は、心臓の鼓動を見つけられない。

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シカククワレル

 立ち止まる事になったのは別に自動販売機が喋ったからではない。
『こんばんは』
 大学の帰りであった。憂鬱な英語を乗り越えた放課後、外にも出ず陽を浴びる事の無い週休二日を予想し電車に送られ、地元の無人駅を出て数秒、いつにも増して腕を大幅に振りながら右側歩行を行っていた私はサンダルの裏面に摩擦をかけた。むき出しの指先が軽く空気を押して動きを止める。そのまま首を直角の軌道でも描くかのように右に向ければ、見えたのは人ならざる物であった、こう言えば大抵の物の紹介に対処出来る。
 というより他に言いようがない。時間帯のため光を発していて、ポストカラーに彩られているが、それは自動販売機以外の何物でもないのだから。
 日本が世界に誇る群を抜いた設置数。飲料、食品、タバコから最近では下着やらコスチュームやら、マリファナ(医療用)なんかも品目に含まれている便利用品、容易な等価交換の物例が目に入って来た、いや入れた、いや入れていない、入れたのは映像だけだ、まぶたとまぶたを引っぺがされてもこんな重量の直方体、挿入はごめんだ。加えて私は眼鏡派なのだ。
 横に向けた裸眼はそれでも離せない。どこにでもある形状なのにだ。視界の下にある開け広がった取り出し口を、発音の源だろうかと俄かに考え、すぐに、いやそれは無い、と訂正した。
普段から利用する道ではあったがこれは初体験と言え、一部の感覚を奪われるには充分な要素かもしれない。今でなければ。
『またご利用下さいませ~』
 女性らしい声に同性として思うところや感じるところは特になく、喋る機械というならファービーの方が恐怖は勝れど幾分の愛らしさを持っているであろう。しかし振り向いてしまった事、軽んじているはずのものにしてやられ少しでも興味を抱いてしまった事は恥辱だ。普段人とあまり話さず呼びかけに対しての慣習もしくは耐性が無かったことに失望し、主に頬肉の温度が上がっていく。穴があったら入りたいどころか、定冠詞がついた闇でも引き連れて共に埋葬されたい。しかし穴の中墓守りでも無い体は数千の肉塊となったまま回復もせず沈むだろう。
『こんばんは』
 などとまで考えてはみたが。
「……二回目以降は驚きません」
沈みからはい上がり、首を九十度左に曲げ、視線を戻すのだ。ちなみに、今のは他でもない自分のセリフだ。
 そのまま真っ直ぐ家に帰るため、移動手段を取りに駐輪場に向かえればよかった。
何の必要があっただろうか、サンダルはまた動きを止めた。
 ふと空を見上げる、夕陽に黄昏る、満天の空に想いを寄せる、美しい詩なんかを考える(言葉への変換は不可解ゆえに不可能)。
 これら以外に人間が道端で急に立ち止まる理由があるだろうか。これが意外に、幾らでもある。
 足が猛烈に痛い時、誰かに突然呼ばれた時。
 あとは、考え事に集中したい時。等々。
「……どこで、どのタイミングで」
 地元の無人駅を出た時には陽は暮れかけていた。ネオンのほぼ無い田舎だが代わりとも言えない街灯が準備運動として点滅を行っている。そんな中私は立ち止っている。そして折角前に向けていた視線を、もっと手軽で手短なものに移し変える。
 利き手の平、人も想像も殺した事の無い、右手。あっ、スターになれる線見つけた。ああ、友人に書かれたものだった。
凝視する、普段ならその手中に存在する、手頃な重り、それが無いゆえに肩が軽々しかった、理由を探そうとしばし黙考し、
「…………カバン、忘れてきた」
 結論が出た頃にはサンダルはまた摩擦を生じる。回れ―右っ。

『どれになさいますか』との声(音?)を途中で受け、ほんの一瞬また開け広がった取り出し口に視線を奪われはしたものの、私は早足で元来た道を行く。
 体は軽い、足は進む、けれど腹部は消化しきれていないものがあるかのように、体を圧迫し重みを与える。
 それでも進む理由は、鞄の中身を思っての事だ。
 別に教科書、ノートは新しく買えばいい、財布もスタンガンも携帯電話も新聞紙もホウ酸団子も取られて困りはしない。ただ、英和辞典、あれを持っていかれては困る。恥ずかしい落書きがあるのだ、二千ページにまで及んだ。見られたらそれこそ恥辱に埋葬を望まずにはいられなくなる。脇の下見られる以上の、ペナルティのワッキーという存在くらいの恥辱。
順当な手段を取ることにした。通り道を遡ればヒントというか、思い出すというか。遡った先で教訓をもう一つ。
 分からない事があれば担当者にお聞き下さい。
なのでまず、無人駅にいる駅員さんに聞いては見たのだが。
「見てない」
 次の到着まで約三十分、前までの乗客も外に出ていたため、シンとした中に五十代男性の細い声は良く響いた。
「監視カメラが付いている訳でもないしさ。それに無人駅だからねぇ、忘れ物とか落し物の対処は甘甘なんだよねぇ、一応でも見つかって、誰かが届け出る可能性も無くはないからさ、失くした物と連絡先は知らせてくれる?」
 そう言って仏像のような丸く固そうな顔を逸らすと駅員さんはガラスの隙間からしおりサイズの用紙を滑らしてきた。どうしろとか返す前にはもう、駅員さんの中では仕事終了らしく、私はすでにアウトオブ眼中だった。
 無人といってもこの駅では終日管理者がいないという訳でなく、改札は無くても窓口もあれば駐在する駅員も居るには居る。無人と呼ばれるにふさわしい、仕事のしなさではあるが。
 現に今だって職場に関係の無い十八インチテレビ(横幅いっぱい)での映像に意識をシフトしてしまっている。私は何か、それで受け入れた覚えはない、それでも動いている物は気になるので思わず窓口の向こうに視線を向ける。
 国民的青猫の時間はもう過ぎていた。下半身露出五歳児は今日も健康的だ(上尾先生、くみちょう先生、四郎さんも今日は出ていないが……)。モーレツオトナ帝国の時は感動をありがとう
 少なくとも、あれを見て強迫じみたような思いに駆られはすると思う。あの子が頑張っているのだから自分も、と、相手と自分の力量の限界の違いも弁えない、失敬な思考回路だ。
「いや、いいです」
 とはいえ、駅まで大画面でアニメを見に来た訳でも、感傷に浸りたいのでも、観賞に浸りたいのでも、ましてや語り合いに来た訳でも無かった私は窓口から離れようとする。
可能性があり、高まるとはいえ情報が流出する時代に個人情報はやたらと発したくはない。第一無人駅に引き籠っていては見渡せる範囲など肉食動物より狭いのではないか。ならばここはやはり、自分で駅の気になるところを回ればいい。幸い定期はまだ切れていないし、鞄の中にも入れてはいない。
「え、いいの?」
 目も合わせないやけに母音の多い言葉に思った。
「いいえ」
 仕返しに母音だけで答えてやった。
 何か言う事がある訳でもないがしばらく駅員さんを眺めていた。時々笑っている顔は、誰の目にも映らないとでも信じているように崩れ切っていた。
 よくもまぁ人前で。いい大人が職場で。
 また大画面に目を移すが、その時はもう昔見た映画版にしか見えなくなっていた。全てのシーンを寸分違わず覚えてる、はずだった。しかし主人公だけは、駅員さんであった。
 万博にいるコンパニオンの前でパンツを突き出しサインしてと頼む駅員さんとか、どアップになった画面に脂汗と血中糖度の高い鼻血を垂らしながら呼吸を乱し走っている駅員さんとか。
 おねえ言葉は……これが案外慣れた口調の駅員さんとか。
 妄想が膨らみ、それは憤慨と混じり言葉に出そうかとも考えた。だが言わないのはあの感動を壊したくないからだ。
話す事はもう何も無い、差し出された用紙にも手をつけず窓口から遠ざかる。三歩程移動し、ホーム前の出入口で止まった。改札は無くても、定期をかざす機械は存在する。
やはり自分で回るに超した事は無い。
 そして私は利き腕をポケットに突っ込み、
「……う、ん?」
 見事に空虚と、底の行き止まりの素材を触れる事になる。
 Uターン、窓口に注目、運良く駅員さんは再び振り向いた。
「スイマセン、紛失届けを下さい」
 失くした物、鞄、残り一カ月分の定期券。そして電話番号も書いておいた。ポケットにしまおうとして「返してね」とボールペンは取り上げられた。ノックボタンとなっているシロを、念入りに拭いていた。なんだよ、マスコットのファンかよ。

 ウーワギィ、ウーワギィ、ウワギィー、ウワギィー。
 ギーユゥ、ギーイユゥ、ギィイユウ、ギイユゥ、ギイイユ。
 ジイイイイイイイイイイィィィィィィィィィィ――――。
「……夏だなぁ」
どこか木の上で震えるツクツクボウシの鳴き声を聞きながら溜息をつく。用紙への記入は容易に済んだ、過剰な程体力を消費した覚えは今日は無い。
 それでも足が重い。腹部に含んでいたものが両足に流れ込んでいるかのようだ。これは本格的にここが墓地で強大なる闇が木の根元に埋まっている事を考えねばならない。先程も使った引用だが、一体何人に通じるだろうか。引きつける層に若干の迷いがある(詳しくはスニーカー文庫をお読みください)。
『またご利用くださいませ~』
 取り出し口をチラ見して、過ぎ去っていく。蝉の声ほどではないはずなのに、避けれるものなら避けて通りたい。
さて、喪失感が広まる体でも私はどこに向かうのだろう。これも、順当な手段と言えた。
そうだ、何も自分の足をそこまで信用する事は無いんだ、
最初に私が向かおうとした場所、そこにはあしがある。
ここまで来て今更かもしれないけれど、自転車は取りに行こうと思い至った。
 駅から出て、いくつかの店を通り越し、信号の付いたT字路を右に曲がる。その後右に見えたのは銀光りするフォルムの溜まり場。三つある入り口の内一番奥から中へと――
「…………」
 ――そう、フラグめいている。
 めいている、だけであろう?
 いや、それが無いとは言わないよ? 言わないさ、まだそうなっていると決まってなどいないのだから。ここにはバイクも混じって百台近くは置いてあり、ましてや今朝は入り口から遠い一番奥の所に止めた、鍵だけでなく前後にチェーンも巻いておいた、いや、特に何も怖れてはいないのだけど。怖れるものなら他にもあるだろう? 私にとって何よりも怖い事、爪を二十枚剥がされる事より、剃刀を口の中で転がり回す事より、へそから毒サソリを入れられるより、臓器を喰らう蟻を尻の穴から入れられるより怖い事、そう、コンタクトレンズを付ける事より怖れる事はないさ、あんな半円を、しかも二つもいれなくてはならないなんて、視力が悪くなったらどうするんだ! だから私は頼らない、手首落とされようと、体のパーツを百にばらされ十×十に並べられても、歯並びの為に襲われても、あれ以外に怖れるものは無い、何の心配も無いさ、さてと。
 駐輪場内に入って確かめる。当然のこと自転車なんて見えなくなっていたさ。はっ、はははは……ふぅっ。なんか目が痛い。

 自力で見つけられそうな話でも五、六個はありそうだが、似たような話がアニメであった。寺所有の墓地で肝試しをしている最中、他の仲間が一人、また一人と姿を消していく、という内容だ(うわ……これだけだとほんとかぶってるの山ほどありそう……)。ただあの話、結局勘違いで全員自分から帰ってきたはず(これまた一件落着の王道だ)。だから本質的に違い過ぎる。
 なくなったまま帰ってこない、ましてやあれらは意識を持たない、人ならざる物だから。
「……なんか、暗い」
 そんな気は今までしなかったが、割と時間が経っているようだ。夕陽も沈み、月が覗いても、まだ街灯は準備運動を続けている。今は、どんな光量も同じに見えそうだが。
手持ちは失っていくばかりなのに先程駅に向かった時とはえらく感じる体重が異なる、頭は上がらず、両腕は垂れさがり、引きずるようでしか足を動かせない。手持ちは何も無いと言うのに、だ。失ってでしか手に入らないもの、喪失感とは神経系に潜む分銅なのかもしれない。
足にワンワンでも繋いでいるようだ、それも両足共に。鋭利な牙に筋を砕かれないよう急いでも、自分より重いものを引きずる事に速度は伴わない。それでも、お約束とは守られるもののようだ。あそこで誰もが予想していた通り自転車まで無くなっていたように、こりずに私はまた通ってきているのだ。
しばらくして、サンダルは動きを止めた。私は立ち止まる。
顔を上げてみた、別に、何も零れそうではないのだけれど。
ふと空を見上げるのも、夕陽に黄昏るのも、満天の空に想いを寄せるのも、それを行う為に立ち止まる訳ではないと知った。どうにもならない事態、行き着く場も無い落ち込んだ心の行く先を届かないものに代替させるのだ。立ち止まるまで、足さえ動かしたくない程疲れてしまって、何も出来ないから詩を考えるのだ。
『いつもありがとうございます』
 それでも、立ち止まってしまったのは、別に喋っているからではない。
『どれになさいますか』
 私の近くにあるもの、無人駅、駐輪場。
 もっと近く、手を伸ばせば届くものがある。どこにでもある。
 サンダルは、今日何度目かの空気を押し出す。首を左に九十度曲げ、そのまま体も一緒に九十度動かす。左向けー左っ。
 取り出し口は、開け広げられていた。
 脳の位置関係で、記憶と直結な五感とは嗅覚らしい。
 無味無臭の物体を目に入れ、入れないで、映像を映し、嫌でも思い出される。
 恥辱も、怨恨も、嫉妬も、腹立ちも、苛立ちも、粟立ちも。
 嫌悪も。
『紙幣をお入れください』
 間合いを詰めると、周りの空気は温かかった。
『紙幣』
「うるさい、ゆうちょか」
 そのまま、振り上げた右足をたたきつける。
 市立船橋サッカー部並みのローキックは、見事にめりこんだ。
「――――――――――――――――――ッ!」
 あ。サンダルだった。
 ちなみに忠告、私の右足、左足も、オートメイルではない。
「ったああ! か、か、かっ、かど……かど、うううった……」
 誰が聞いているだろうか、誰も聞いていない方がいい。それでも分かち合いたくて思い付いたことそのままを吐き出した。立ち止まるなどもっての外、コンクリートの道路に倒れ、右足を押さえながら痛みと戦う為に、右に左に転げ回る。
「あ、あああいいっ……う。うぐ……だ……れ……か」
 死にそう、とまで言いかけて、私は、それを見た。
『――し――――――へい、をををををおおおいいれ』
 やけに目がちかちかした。明滅を繰り返しているのだ。電源が繫がり、切れては、また繫がり、自身の影を生み出しては消している。影がやけに揺らめくと思ったら無理も無い、本体が揺れているのだから、何か、別の力を与えられたせいで支点が揺れたのだろう、手(足)応えはあったがここまでか。同時に閉じていく取り出し口を見て私は痛みの隅に考える。
 自動販売機ってそもそも、取り出し口って閉じてあるものではないのか?
 明滅が終わり、ゆっくりと電源が切れていく中、取り出し口も、完全に閉じたのだった。
「……ほう」
 溜息によって、そうも思えた。
 自動販売機が再び発光する。私の目の前で、直視できない光が出現した。でも、細めた目でもそれは分かった。
 開かれた取り出し口。
 支点を完全に失くし、覆い被さるように重力に身を任せる。
 何か聞こえそうででも、耳に入ってくるのは自分の息を呑む音で、蝉の音よりもそれは、喉から鼓膜を奮わせた。
 近付いていく直方体、目を、閉じてしまった。

 ガゴン!


 足音はすぐ近くからやってきた、もう時間が過ぎて、暇になったのかもしれない。
「あれまぁ、どうしたの?」
 添い寝、とでも言っておけば状況の説明をしなくて済んだかもしれない。けど、少なくとも今の私にそんな余裕は無く、なんとしても、この状態から抜け出したかったのだ。
「……なんでも、ないです」
 仏像顔の半裸幼児好きに見せる程、私の泣き顔は安くない。
 倒れた自動販売機の横、右足を押さえた私を見下ろすのは、先程の駅員さん以外にいない、不幸中の幸いか。無人駅万歳。いや、本当の無人駅なら誰にも見られる事は無かったか。
「そうさねぇ」
 何やら妙に歯に物が詰まったような言い方だ。目線を動かすと、どうやら食事中だったらしい。右手に箸、左手にはサトウのごはん、湯気が出ているってことは、電子レンジまであるのか、生活しているのか。
「あれ、なんで倒れてんの?」
 そうか、トイレは近くの公共のものを使えばいいから――などと考えていたがそうだ、普通はそちらに注目するべきであろう。普段立っているものが寝転がっているのだから。
 けど危なかった。固いパンに中身だけ柔らかいサンドイッチが出来るところだった。上下でパンが異なるサンドイッチってどんな……そうだ。
「あの、機械ってしゃべらないですよね?」
「なにそれ、赤ハロ?」
 まああれも赤いし、喋るし、やたらと連呼するけど聞きたかったのは……いや、ハイテクノロジーの現在、それほど珍しくは無いか。別に犬や猫が喋った訳でもないし。ゴキブリに『生きる事ほど難しい事は無い』と言われた訳でもないし。
 立ち上がる時に驚いたことと言えば、案外重力に負けて多量の雫が落ちた事、また体が軽くなったこと。涙がストレスと共に不純物を流したのかもしれない。あ、右足は痛いかそりゃ。
 しかし見下ろすと分かるが物の見事に倒れている、よっぽどあの蹴りが……でも。
 あの瞬間、どうしても私は喰われそうになった、という感じがしてならないのだ。もし倒れてかぶさってこられたら、喪失感すら失うところだった。
「あ」という私、「お」という駅員さん。
 二人が見下ろす中、自動販売機に、ヒビが入った、横の部分で、割と大きく、自然と出来たにしてはぱっくりと綺麗な割れ口だった。
 そこから転がって来たあるものが、私の爪先に当たり、止まる。
「おお、もらっちゃえ、もらっちゃえ」
 なんて無責任な大人なんだ。しかしありがたくもらっておく。ちょうど水分を取り戻したかったところだ。
 あたりはもう夜色で、街灯の下まで痛い足を動かし、立ち止まる。失ってきた今日と言う日に、初めて手に入れた物を見る。
『味噌汁・とうふとわかめ』
「飲料缶でも無いし、粉末だし」
「いらないならくれない?」
「いるからお湯くれない?」
 ついでにエムステでも見て、帰らせてもらおう。タモリも広い意味で好きだ、そう、私は眼鏡派なのだから。

                       《おわり》

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