さらし文学賞
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雨女

 俺には好きな人がいる。
相手は細身の色白美人だ。彼女がわずかに首を傾げて、見下ろす姿に一目惚れした。
俺はいつも彼女を見上げるだけだったが、それでも十分幸せだった。
彼女が幸せだったなら。

今日もザーザーと容赦のない雨が降っている。
この雨は彼女が降らせているものだ。彼女が悲しむと、涙の代わりに雨が降る。
彼女は雨女だった。
俺のまわりには彼女を妖怪や化け物だと嫌がる者もいるが、俺はそうは思わない。彼女の雨は温かい。こんな優しいものを降らせる人が悪いものであるはずがない。

いつも彼女を泣かせているのはアイツだった。
毎日のように彼女を悲しませておきながら、平然としている最低な奴。今日も口笛なんて吹いてやがる。ぶん殴ってやりたいが、俺は見ていることしか出来なかった。
あんな奴と付き合っては彼女のためにならないと思うのに、彼女は黙ってアイツに従っている。
彼女はアイツが好きなんだろうか。いけ好かない。
 
アイツはよく俺にもちょっかいを出してきた。
睨み付ける俺を気にも留めず、馴れ馴れしく頭を撫でてくる。撫でると言っても首が引っ込むくらい乱暴で、叩くと表現しても過言ではない。
ああ、今日も来た。
やめろ。こっち見んな。手を伸ばすな。
マジでやめ、ああっ

びゅる。

懸命にアイツを睨み、こらえる俺をよそに、頭を撫でられた俺の鼻から勢いよく鼻水が飛び出した。
無残にも垂れていくそれを絶望的な気持ちで見つめる。
いつもこうなのだ。アイツに頭を撫でられると、どうしてか鼻水が飛び出してくる。前はこんなことはなかったのに、恥かしい事この上ない。
さらに凶悪なことに、アイツは俺の心を踏みにじるように、それを彼女が見ている前でやりやがるのだ。俺の痴態を見ても顔色一つ変えない彼女の慈悲が逆に痛い。
アイツは俺の哀れな姿を満足げに見つめながら、さらに二、三度頭を撫でてきた。そのたび律儀に飛び出す俺の鼻水。
これ以上ない辱めだ。
俺のアイツへの殺気は尋常じゃない。
タンスの角にでも小指ぶつけて死ね畜生。

    *      *

あれからそれなりに時がたった。気が付けば俺は随分と薄汚れて、空気が少し肌寒くなった。
今日もアイツは口笛を吹きながら彼女を虐めている。
相変わらず最低だ。
だが最近、アイツの出現率が下がってきていた。彼女は嫌かも知れないが良い事だ。そのままいなくなればいい。
もう一つ変わったことと言えば、俺の鼻水が出にくくなったことだ。これまた実に喜ばしい。
たまに飛び出してしまうこともあったが、今では皆無に等しい。あれで散々死にたくなるような思いをしたが、これで以前のように赤恥をかかされることもないだろう。
俺は彼女の前で恥をかかなくなったのもそうだが、アイツの思い通りにならないことが一つでもできていい気分だった。

 ひとしきり口笛を吹き終えたアイツは、性懲りもなく俺の頭に手を伸ばしてきた。
何度アイツが撫でたところで、俺の鼻からはスカスカと実に通りよく空気が抜けるだけだ。
ざまあみろ。何でもお前の思い通りになると思うなよ。
どれだけ撫でても鼻水が出ないと知ると、アイツは急に俺の頭を引っ掴んできた。

何すんだ。脅したって鼻水は出ないからな。
 ちょ、持ち上げるな。首が伸び――
おい、何処に連れて行く気だ!

    *      *
 
シャワー室から出てきた男は空になったシャンプーのボトルをその辺に放置して、洗面台の下から段ボール箱を引きずり出した。
熱気で洗面台の鏡が白く曇っている。なおざりに拭いただけの体が冷えて、思わず盛大なくしゃみが出た。
夏と違ってこうして湯冷めしやすいから、冬はあまり風呂に入る気がしない。
箱のふたを開けると、中にはシャンプー類のボトルや詰め替えパックが詰まっていた。
実家を出るとき、母親が寄越してきた物だ。
最初はありがたく思っていたが、メーカーがバラバラの上、リンスばかり入っていて、単にいらない物を押し付けられただけだと最近気付いた。これらは箱いっぱいあるのに、洗剤は一つもくれなかったのがいい証拠だ。
箱を漁ると、空になったボトルと同じ種類の詰め替えパックが出てきた。これ幸いとそれをボトルに突っ込んで、風呂場に戻る。
扉を開けると、温かい湿気が身体を包み込んだ。
シャワーは扉から外にお湯が出ないよう、首を横に向けただけで出しっ放しだ。温度調節が面倒なので、使っている間止めたりはしない。
白い首を元に戻して頭から浴びると、降り注ぐ雨の温かさが身体にしみた。
口から自然と細いメロディがこぼれ出る。昔見た洋画を真似ていたら癖になってしまったものだが、咎める人もいないので気にしない。
いそいそとボトルの中を詰め替える。
しっかりと首を絞めてヘッドを押すと、スカスカと何度か空気が抜けた後、びゅるっと中身が飛び出した。


                      おしまい

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蛙、野晒し

 気持ち悪い、と日高(ひだか)は思った。
 髪からシャツから靴まで全て黒いため、夏の暑さと日射しに当てられたか、それもあるだろう。
 睡眠不足で体力が落ちている、否めない。
 ふと見たアスファルトに、干涸らびた蛙の遺骸があった、確かに痛烈だった。
 だが、何より気持ち悪いのは、そんな日にわざわざ出歩く自分自身に他ならない、気が、す、る。

どさり。

「ようやっと起きたか、行き倒れ」
 日高が目覚めたのは見慣れた部屋だった。もっとも、日高の記憶よりも大分散らかっていたが。また掃除しないと、と日高はぼんやりとした、少し重い頭で考える。
「自分がどうなってたかわかるか?」
 質問の意味自体を判じかねて日高が答えないでいると、質問者は眉をひそめて質問を変える。
「ここはどこ、お前は誰。わかるか?」
「ここはお前の部屋。オレは土居(どい)日高」
「おれは誰だ?」
「木戸(きど)白金(しろがね)」
「おれたちの関係は?」
「ノーコメント」
 その言葉に満足そうに頷いた白金は、頭はしっかりしてるみたいだな、冷やした甲斐があったと呟いた。頭の重みの正体は、濡れタオルだったらしい。
「日高、お前な、道でばったり倒れてたぞ。多分日射病。おれが迎えに行かなかったらどうなってたやら」
 こんなクソ暑い日に外に出るなら帽子被って水持って、あ、朝飯も忘れるなよ、と全部見透かしてるようなことを言いながらスポーツドリンクのペットボトルを渡す白金に、その中身を飲みながら日高は問う。
「なんでそんな日に、お前は外に出たの? 引きこもりがちなくせに」
「余計なお世話だ。なんでかっつうと、立火から電話あったから。夏にも負けない熱ぅい夜をお前の部屋で一緒に過ごしたはずが、朝起きたら家のどこにもいないから、こっち来てないか、ってな。けど、お前はここにいない。で、こりゃもしかしたらヤバイかなと出てみりゃ案の定だ。運んでやったおれの優しさに涙に咽ぶがいい。あ、立火には知らせといたから安心しろ。腹の底から笑ってたぞあいつ」
 月野(つきの)立火(りっか)は日高と白金の共通の知人というか幼馴染みでありそれだけで済まない深い関係であり、かなり開けっ広げな性格は長所かつ短所。この場合はどちらか。
「ちなみに、熱い夜って聞いて、何思った?」
「なんにも。お前だって、おれが立火と熱い夜を過ごしたって何も思わないだろ」
「まあね」
 流石に何も思わなくはないが、実際にそんなことがあるのも知っている。だから少なくとも、驚きはしない。相手が他の誰かなら驚くが。
 いつからだったろう。世に言う爛れた関係に三人が陥ったのは。昔はただの仲良し三人組だったはずなのだが。
「いや、昔から足りなかったっけ」
「ん? なんか言ったか?」
「うわごとだよ。気にしないで」
 おいおい大丈夫かよ、と態度の割には本気で心配をしてくれる木戸白金。今もまだ自分の部屋で待っているだろう月野立火。二人にいいように弄ばれ、愛し愛される自分、土居日高。三人揃うと一週間ねと言って笑ったのは確か幼い日の立火。当時の彼女は理解していただろうか、自分たちには「水」が足りないという単純にして厳然たる事実を。最近の立火はそれに気付いているらしく、水っぽいことしましょ、と白金や日高を誘うのだ。二人はそれを拒まなかったが、不思議なことをした。立火と過ごした次の日は、互いの家に訪れて、何をするでもなく過ごすのだ。それは立火も知るところなので、今回の日高失踪事件未遂は未遂で済んだのだが。
「ところでよ、日高。なんでお前、立火が起きる前に来たんだ? 朝の挨拶くらいしてやりゃいいじゃん」
「寝てる立火には言ったよ」
「気付くわけねえっつうの」
 バカかお前は、と言いながらそこまで怒っていない白金。日高からペットボトルを取り上げると、そのまま口をつけてごくごくと飲み下す。
「ま、帰ってやれよ。立火は意外と寂しがりだから絶対待ってるぞ」
 ペットボトルから口を離して一言。そしてもう言うことは無いとばかりに口をつけてペットボトルを立てて飲みきろうとする。
「なあ、白金。水っぽいことしないか?」
 ぶはっ、と白金の口と鼻から色々と吹き出た。ごほごほと咳き込む。
「なんだよ、そんなに動揺するなよ。軽い冗談じゃないか」
 冗談じゃない。渇いていた。餓えていた。ともすれば骸を晒してしまいそうな、危うさ、不安定さ。池の畔の蛙のように、砂漠の旅人のように、そして立火がそうするように。相手(みず)相手(みず)を求めたのは、至極当然だった。
「そんな死んだ蛙みたいな顔して、よくもまあ冗談言うなあ、お前は」
 近くに投げかけてあったタオルで顔を拭いながら、白金はもう行けよと言った。
「ああ、飲み物ダメにして悪かったな」
 黒い靴を履く日高の後ろから、白金は声をかける。
「おい、次は夜に来いよ」
「日射病にならないようにって? じゃ、水もしっかり持ってくることにするよ」
「いや、水はいい」
「は?」
 振り返る日高に、白金が投げた空のペットボトルが命中。
「とっとと行け、タコ!」
 顔に当たったペットボトルを拾い上げて、日高は帰宅することにした。
 立火に何と言おうかと考えながら歩くと、またも蛙の遺骸を発見。
 同じ蛙かどうか日高にわかりはしないが、思うことはひとつ。

「水が足りないのは、本当に気持ち悪いな」

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ぬれて ひかれて

 無数の雨滴によってブラインドされた渋谷センター街の裏路地を、きみは荒い息をつきながら、さまよっている。
 七月半ばを迎えた夕刻、傘も持たないきみは雨ざらしの濡鼠だ。水分を多分に含んだ制服は鉛のように重く、スカートは冷たい流れを滴らせながらきみの足を絡めとっている。
 それでもきみは足を休めない。ただ、しきりにきょろきょろと周囲を見渡し、眉尻を下がらせた頼りない表情のまま、歩んでゆく。
 見つからない。見つからない。誰一人、見つからない。
「おい。お前なにをやっているんだ。風邪をひくぞ」
 突然肩を掴まれたきみは、後ろを振り返り「先生」とつぶやいた。先生と呼ばれた男が差し出す傘のおかげで、降りかかる冷たい滴からきみはようやく開放される。
「ずぶ濡れじゃないか。なにをしていたんだ。…………眉毛なくなっているぞ」
 その言葉で、ぼんやりとした視線で空を見上げ荒い息を繰り返していたきみの瞳に、ようやく意思の光が宿った。はっと二・三度瞬きをすると、とたんに眉のない顔にあふれんばかりの笑顔を浮かべ「センセー。センセー」と歌うように口にする。
「ねーセンセー。聞いてくださいよ。チョコなくなっちゃたんで買いに来たんですけど、誰も売り子さんがいないんですよ。雨天閉店なんて、やる気なさすぎですよねー」
 男は感情のない表情のまま、まぶたを下ろした。そしてしばらく間を空けると、「グラム三千円のチョコレートか?」と深いため息をついた。
「ですです。ハシシュハシシュ」
 陽気に飛び跳ねるきみに向かい再び深く一息つくと、踵を返し、男は言った。
「家まで送ってやる。まっすぐ帰るぞ」
 腕を掴んだりはしない。怒鳴りつけたりもしない。男はいつものように、黙ってきみがついてくるのを待っている。傘からあぶれないぎりぎりの距離を保ち、もう、きみを振り返ることもない。
 きみは、いつものように不安げな顔をする。立ち去る勇気を奮うため、男の腕に手を伸ばす。
 男の体にしがみつく。男の服にきみのたたえた冷たい水が、じわりじわりと浸透してゆく。まだ幼いきみと男は、駅に向かい、歩み出す。

 時折、きみは自問する。
 きみはこれからどこに向かってゆくのかい?
 無骨な連結器につながれ惹かれ、どんなレールを歩んでゆくつもりなのかい?
 …………と。
 けれど、都会の雨滴に溶け落ちてしまい、答えは今日も、出てこない。

 きみは、男と一つの傘の下、水底の街を後にする。

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食事の時間

 飯をたらふく食って、靴を脱ぎベッドで横になる。これ以上の開放感と満足感があろうか。そんな至福の表情で彼は呟いた。
「あぁ食った食った」
 今日はもう、寝るだけだ。長かった一日に終わりを告げるように、目を閉じて息をつく。
「ちょっと」
 一気に襲ってくる眠気に、彼は身を委ねた。疲れた身体に当たる安物のシーツのごわつく固ささえ、今は気にならない。
「ねえってば」
 意識の、遠くの方から、声が聞こえる気がする。
「アギ!」
 俺を呼ぶ声――夢?
「わかった、勝手に食べちゃうからね!」
「あー……うるせえんだよ、てめぇは本当に! いいじゃねえか、ちょっとぐらい現実から逃避したって!」
 彼は飛び起きると、ベッドに向けて怒声を浴びせた。いや、正確にはベッドの上に広がる、彼のマントに向けて。
「嘘! ホントに寝ようとしてたクセに!」
 マントはするすると立ち上ると、腰に手を当てて怒る、真っ黒い女性の姿をとった。
「だったら何だってんだ、出来損ないの呪術のくせに俺にくっつきやがって! さっさと他のヤツに憑いてろよ! 浄化すんぞ!」
「……浄化なんてできなかったクセに」
「何か言ったか?」
 唇を尖らせ呟いた言葉を耳ざとく聞きつけ、アギは彼女をぎろりと睨みつけた。その視線に、彼女は怯みながらもぐっとこらえて、彼の傍に寄った。
「イヤよ。アタシはアギが好きなの。アギとじゃなきゃ一緒にいたくない」
 触れることすら叶わない彼の頬に、彼女は手を伸ばす。漆黒の指が冷たく肌の上を滑って、霧雨のようなその感触に、アギは頭から毛布をかぶった。
「生憎、化け物は趣味の範囲外だ。いいからとっとと食って寝ろ」
「アタシは……」
バケモノじゃない――自分とアギの姿を見比べて、彼女は言葉を飲み込んだ。
「……じゃあ食べるから、口開けて」
代わりに彼女はしょんぼりとそう言って形を崩すと、アギが心底嫌そうに開いた口の中へ吸い込まれていった。
「う……」
全身に凍み入る異物感に、アギは顔をしかめた。きしきしと冷たいその塊は、けれど次第に血液のように全身を流れて、喉の奥に涼やかな心地よさが広がっていく。睡眠欲も手伝ってか、意識が薄れるようなぼやけるような居心地のいい曖昧さの中を漂っていると、突如、流れがぬるりとゲル状になる感触。
「!!!」
肺に走る激痛に、アギは目を見開き体をこわばらせた。毛細血管が破裂するような錯覚に、必死で息を吸おうとしても、空気はただからからに渇いた口の中を行き来して、ようやく吸い込んだと思った瞬間、全身の痛みは全て、快感へと変化した。
「うあ、あ、あぁ……っ」
ぞくりと鳥肌の立つ体ごと性感帯になってしまったようで、彼の中を蠢く彼女に抗えず反応する自分が嫌で、アギは毛布に潜り込んだ。
「や、ぁう、」
頬は紅潮し目は潤んで、独り喘ぐ彼の身体から、さっきまでの落ちこみはどこへやら、くすくすと彼女の笑い声が響いた。
「! てめぇ、笑うな……! んん、あっ」
怒りも恥ずかしさも快楽の波にかき消され、ただ少女のように声を上げる彼に、かわいいと、確かにそう言って、彼女は一層激しく動いた。そして、
「や……う、ぁっ、んっ……あああぁっっ!!」
遂に絶頂に達してしまった彼の口から、ずるりと、一段と色濃くなった闇が抜け出た。
「ごちそうさま。ありがとう、アギ」
彼女は再び人を象ると、息の荒い彼の唇に触れもしないキスをした。じっとりと湿った濃霧の冷たさが、火照った肌に気持ちいい。
「るせぇ、早く寝ろ」
ぐったりと横たわったアギは、疲れ切った声で言って目を閉じた。
「照れなくてもいいのにー」
ふふふと笑う気分屋の彼女に背を向けて、アギはさっさと眠りにかかった。彼女はそんな彼の顔の前に回り込んで、じっと彼を見つめた。たなびく長い髪が彼の顔に落ちて、気配を悟ったアギはまた彼女を睨んだ。
「何にやけてんだ、寝ろよ」
「ねえアギ、」
彼女は彼の言葉を無視して話しかけた。
「アギはどうして、アタシと一緒にいてくれるの?」
――こんなやな思いまでして。
 それを聞いた彼は、大きくため息をついた。
「またその話かよ。言ったろ、俺はお前の力を利用したいだけだってな」
「ホントに?」
 生まれたばかりのころの記憶はおぼろげだけれど、アギを殺すための呪術が失敗して造られてしまった彼女を、彼が好き好んで連れているわけがない。彼の言葉は、理由としては至極まっとうなものだったけれど、彼女には気になることがあった。
「今朝、占い師の人が言ってたじゃない。アギはアタシなんかよりずっと高次の、精霊だって使えるって」
「……俺は占い師と精霊だけは信用しねえことにしてるんだ。後、呪術師もな」
「えー? ホントにー?」
 彼女はぷうっと頬を膨らませると、アギの眼を覗き込んだ。
「何か文句あんのかよ?」
けれどそう言って、彼は面倒くさげに彼女から目をそらしてしまった。
「もちろん! アギもアタシのことが好きじゃなきゃやだもん! ね、ね、アタシのこと、好き?」
「結局それか! いっつもいっつも! てめぇみてえなのは願い下げだっつってんだろ! このバカ野郎!」
ぐいと顔を寄せる彼女を手で払い、彼は怒鳴りつけた。彼女はそろそろ疲れてきたのか、渋々アギの隣にわだかまった。
「好きだから一緒にいるんだって、言って欲しかっただけなのに」
理不尽な不満を呟いたかと思うと、おやすみの一言の後、彼女はもう寝息を立てていた。
「……はぁ」
台風一過。まさにそんな心持ちで、彼は息をついた。立ち上がり、明かりを消して、彼女の隣に横になる。
「何が、好き、だ。お前の方こそ、俺を利用してるだけのくせに」
それでも、そんな相手のために命を削る覚悟だって出来ているから。
「あー、明日は何食うかな……」
独り言を残して、彼は眠りに落ちた。

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ソドムになりたい。

 呟きが泡となってぷかりと空気に浮かび、そのままふよふよと水槽の中の水泡のように浮かび上がっていくのを見たような気がした。
 ひんやりとした部屋で、冷たいシーツが熱に塗り替えられる直前の空気は、緊張と期待を孕んで停滞している。覆いかぶさる細い身体、見上げた顔はまだ幼さが残る大きな瞳と薄紅の頬が印象的で、ほんのすこしだけ胸が痛んだ。吸い込まれそうな蒼い蒼い蒼い、空よりも海に近い色をした澄んだ瞳は、熱に潤んで今にも溶け出してしまいそうだと思う。
 硬い指先が肌をなぞって、時折戸惑うように引っ込み、またおずおずと触れてくる。惑う瞳に、声を殺してしまったことを後悔した。喉に必死で押し込めた喘ぎを解放すれば、それもまたあの水泡のように見えるのだろうか。
 最中(さなか)は、空気が足りない。吸っても吸っても満たされないのは、まるで溺れる魚のようだ、と、思う。
「潤(じゅん)、さん」
 声がまだいとけないことに、かわいそうに、という思いが、浮かんで、消えた。
(かわいそうな、)
(かわいい、)
(璃蓉(りょう))
 好きだよ、と、掠れた声で告げられた言葉は、また空気という水の中にぷかりと浮かんだ。こぽこぽと音がするような気がして、耳をすませて目を閉じた。
 水の音。
 違う、心臓の、音だ。
身体が重い気がするのは、粘性を得た空気が纏わりついてくるからだ。閉じた目許に温かく柔らかくぬるりとしたものが触れて、涙を模して濡らせて離れた。重たい腕を上げて背に回し、ゆっくりと力を込めて抱きしめると、滑らかな肌と硬い身体のうつくしい璃蓉は、おとなしく此方の意に沿った。
水の音に包まれて、息が出来ない。
きらきらと光を弾く髪が、閉じた瞼をも貫き通して見える光を伴って、ふわふわとした柔らかさで肩と首とを擽る。ぺたりとくっついた腹部と腹部、胸元と胸元、ほんの少しの隙間も厭って同化しようと足掻く身体はまだ二つ。胸元に挟まれた冷たい異物がまた、現実を突きつけて二つを二つのままにする。
今にもひたひたと同化せんとする皮膚を邪魔する璃蓉の信仰は、十字を描くと知っていた。
「潤さん、」
 焦れた子供の熱が、危うさを孕んで此方を急かす。ねぇ。誘う様で求める声は砂漠の旅人めいて短く途切れ、ひゅ、と、喉が鳴るのを聞いた。
「……ん、」
 頷きで了承、途端に起き上がり離れる身体を少し寂しく思う前に、拙い唇が唇を求めた。は、と、呼吸も疎かになる口付けに、息が、と、思う。
(息が、出来ない)
(――やっと、息が、出来た)
 幼く下手くそな口付けでは快楽には少し遠い筈なのに、事実性感めいたものは何処にも無いのに、たしかに気持ちが良いと思ってしまうのは如何してだろう。璃蓉なら「愛があるからでしょ」と、きっぱりはっきり、何の躊躇いもなく言い切ってしまいそうで少し怖い。

愛なんて、少し、怖い。
 

 はじめて璃蓉を見たとき、天使だ、と、思ったことを今でも鮮明に覚えている。小さくて可愛らしくて金色のふわふわの髪をして、小さな掌に不釣合いに大きなロザリオを握り締めて目を閉じて、ケイケンな姿で(漢字よりも片仮名の似合う幼さで)、光の差し込む教会で一人、だなんて随分と出来すぎていた。
 教会なんてものに望んでいくわけもなくて、そこは道に迷った末に辿り着いた綺麗な建物だった。ステンドグラスから差し込む様々な色の光の洪水の中にいた、天使。迷子が夢見心地になるには十分なシチュエーションでこちらを向いた天使は、嘘みたいな蒼い瞳を二度瞼の中に隠して、いきなり泣き出した。
 すごい声だった。思わず耳を塞いでから、目の前に居るのが天使なんかではなくてどうやら年下らしいニンゲンだ、ということに気付いた。
 そしてお揃いで迷子だった。此方の胸元に縋って泣き続ける天使のような子供につられて目許に涙が滲んで、結局泣き声のコーラスになって、気付いた恐らくは教会の人が慌ててやってきて、それからはよく覚えていないけれどどうやら交番に連れて行かれて事なきを得た、らしい。この辺りは後に聞いた話。
 そんな幼い頃の邂逅は二度目の時には忘れていた。後輩として入ってきた璃蓉が思い切り大声を上げて、あのときのおひめさま、と、叫ぶまでは。

 は、ぁ、と、熱い吐息と共にぽたりと顔に落ちてくる汗で輪郭を知る。ここは水の中じゃない。あ、あ、あ、と、断続的に上がる声は掠れて低くて、自分の口から零れているのか、聞こえてくるのかよくわからない。軋む音は身体の中からするような気がする。終焉は近いようで遠いだろうか。頭の中がぐちゃぐちゃでよくわからない。
 単純な快楽は全てを塗り潰すのに最も適している。余計なことを考えないのではなく考えられない。
「潤さ、ん」
 きもちいい?
 見上げた顔は表情だけで全てを曝け出していて、思い切り胸元を抉られる。いとしい。いとしい。いとしい。それだけで全てが満たされる。溺れてしまう。息が、出来ない。
 背に回していた腕を汗で濡れて重たくなっている髪に移動させて指先を絡めて引き寄せて、乞う口付けでもうすぐ世界は終わる。吐息と吐息の間で濡れた音がして溺れる、と思う。この世界で唯一の空気は口付けによって与えられる。そうやって水の中で酸素をやりとりして生きていくんだ、ふたりで。だからふたつのままなのだろう。
「潤、さん」
 好き。
 囁かれる言葉に滲んだ涙をどう捕らえただろうか。蒼い瞳に飲み込まれていく。
(ねぇ璃蓉、)
(ソドムは、)

(――、)

(だから、璃蓉は、)
(ソドムに、なれはしないよ)
 溺れているだけだと教えてあげられない。目を覚ませてあげられない。私(ソドム)に魅せられているだけで愛なんて何処にもない。そして快感と享楽の街(ソドム)と共に焼き尽くされてしまうのだ。永遠なんて何処にもない。一つになんてなれない。

 もうすぐ世界は終わる。


* * *


 「ソドム」に「なりたい」は可笑しいんじゃない、って、冷静に突っ込んでくるかと思ったんだけどな。それどもソドムなんて知らないか。知らないよね。見つめた先の顔は相変わらずものすごく綺麗でなんだか無性に泣きたくなった。
潤さんの顔はいつもひんやりとしている気がする。紅く染まらない頬も黒目がちの綺麗な目も、真っ直ぐな黒い髪も全部全部全部、まるで氷のようだと思う。
 だから溶かしたいと思うのだ。どろどろになってぐちゃぐちゃになって、そうすれば熱くて仕様のない此方とのバランスが取れるのだろう、きっと。
「潤さん」
 好き、と、囁くたびに何処かが痛そうな顔をする。言葉は返ってこない。口付けは返答の代わりと言うよりは誤魔化しかもしれない。息を奪う。溺れてしまえばいい。溶けてしまえばいい。そして思い知ればいい。
 ちゃり、と音がして首から下げた鎖が擦れる。揺れる十字がキラキラと目を刺す。邪魔だな、と思って手をかけると、ぼんやりとしていた黒い瞳が光を追って、半開きだった濡れた(濡らした)唇がゆっくりと動いた。
 かちり。
 白い歯が、金色に噛み付いて音を立てる。
 痛みを堪えるように寄せられた眉と、じんわりと溶け出していきそうな墨色の瞳と、白い頬と、それから。

(……あ、)

 終わりは唐突で、一瞬ぱあっと視界と思考が弾けた。


 はじめて潤さんに会った日のことを忘れたことはない。迷子になって、怖くてしょうがなくて、辿り着いた教会で神様に助けてくださいってお祈りしたあの日のことだ。お祈りを聞き届けてくれた神様が使わせてくれたおひめさま、が、潤さんだった。黒いさらさらの髪と零れ落ちそうな綺麗な真っ黒な瞳をして、降り注ぐ優しい雨のようなきらきらした光を背負って立っていたあの人の姿を絶対に忘れないと思う。その後あったらしい色々なことは、綺麗すっぱり記憶から抜け落ちているけれども。
 二度目にあったときのあの人はもうおひめさま、という感じでは全然なかったけれども見間違えることなどあるはずもなかった。零れ出た叫びは無意識で、全然全く気付かなかったらしいあの人を思い切り驚かせてしまったけれど、それで思い出してもらえたのだから良かったと思う。あのときの天使、なんて、随分と似たもの同士の台詞に周りが大爆笑していたけれど、多分お互いにとってはそれどころではなかったよね。

 ねぇ。運命だなんて思っちゃったりしなかった?

 ねぇ潤さん。すごくすごく気持ちいいよ。触れ合ったところから何もかもが溶けていってしまいそうな気がする。何も考えなくて良いような気がする。
 でもね、でもねぇ潤さん。
 それだけじゃないよ。それだけじゃないんだ。


「俺、潤さんと、溶かされ、たい」


 世界は終わる。一瞬で焼き尽くされるのはきっと、空気に溶けるのによく似ている。潤さんと一緒ならそれでも良いよ。潤さんと一緒ならそれがいいよ。これって愛でしょう。これって愛だからね。まだ潤さんが嫌がるから言えないけど、もう少ししたら伝えても良い? だってもう溢れそうだよ。だってもう零れそうだよ。だってもう、溺れそうだよ。
――いとしい。いとしい。いとしい。

「璃、蓉」

 溜息のように潤さんが呟いた、口からぷかりと浮かんだ空気を、俺は口付けで飲み込んだ。

……ほら、息が出来るよ。

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重大発表

 とある大学で。学長から重大な発表があると、謎の掲示がされていたのは連休の直前だった。
「気になるよね? 気になるよね、気になるよね、気になるよね!」
 六月(みなつき)は呪いでもかかったかのように繰り返す。後ろを向いて話せばいいのに、何故か体はそのままに首を左右に振り回して後ろにいる僕を何度も振り返るので、彼女のポニーテールがせわしなく揺れる。
「まぁ、気にならなくはないよ」
 これは本当。まぁ、本当って言っても、目の前の彼女が夏ならではの薄着でいることより気になるわけでもない。真っ白いランニングから覗く腋、黒いスパッツからすらりと伸びる生脚、短めのソックスは靴の中にほぼ収まっていてまるで裸足にスニーカー。後姿でも感じる。夏って、いいね。
「気にしようよ、もっと気にしようよ! 普段一切出てこないレアキャラだよ、学長。わたしなんて名前どころか顔すら覚えてないよ、学長! 高校の校長先生はあだ名まで覚えてるのに!」
「いや、たぶん顔は覚えてると思うよ。ミナは相当仲良くしてるし」
「えぇっ、嘘だぁっ!」
 体ごと振り返る六月。肩甲骨あたりまで延びているやや茶髪っぽいポニーテールが派手に揺れ、きらりと汗が光る。ついでに服が汗で張り付いて色々透けそう。発育が良くないからって、ちと無防備すぎないか。夏場でも二枚は着なさい嫁入り前の娘。眼福だけど。
「本当だよ、ミナ。ミナが毎朝話しかけてる、花や木や土と戯れている好々爺が学長だから」
 六月はしばし腕を組み――ああ、悲しいかなそれでも寄る物が無い――ううん、と考えていたが、閃いた! というように手を打つと断言した。
「嘘だ!」
「少しは信じようね。あの麦わら帽子とタオルを常に装備してて、夏場の最近はサンダルで足元を固めているあのご老人が学長だと」
「だって、アレは用務員のおじさんだよ。前にわたしが『用務員さん?』って聞いたらそうだよ、って言ったもん」
「ちなみに学長の名前は楊(よう)無印(むいん)。中国系の血が入ってるらしいよ」
 むう、と言ってまた考え込むので、僕は六月を放置してとっとと帰ることにした。暑いし。
「あ、待ってよ、ジュン兄ちゃん!」
 二卵性双生児の妹は、連休中もしばしば気になるを連発し、僕らは大して休んだ気がしなかった。

「時の流れは残酷だよ、お兄ちゃん」
「残酷だね。なんか連休が全く無かった錯覚を受けるよ」
 なんだかひぐらしかアブラゼミかクマゼミかあたりが鳴いていた記憶はあるのだけれど、主に室内で。
「ひーちゃんもアーくんもクーたんも死んじゃったもんね」
「蝉は寿命が一週間だからね」
 本当は外に嫁探しに行きたかっただろうに、おそるべし台風。全国的にひきこもりを強制発注して去っていった。
「なにはともあれ、今日が例の発表だよ。そして、お兄ちゃんの嘘が暴かれる日」
「連休中もまだ疑ってたんだね、ミナ。3日もあったのに」
 当たり前でしょー、とポニーを揺らしながら悪戯っぽく、しかしマジな顔で言う六月。
「ま、もうすぐ本当だってわかるよ。やっとこさ時間だし」
 学生全員を入れるためにわざわざでかい体育館を借りて行われる重大発表。その最前列には僕と六月の姿。まさか始発で行くことになるとは思ってなかった。どれだけ熱心だ、六月。5時間待ちってアイドルのライブでもそうそう無いと思うんだ。おかげで尻が痛い。まぁ、それは隣に座る六月も同じようで、尻肉の厚さを考慮してスパッツはやめなさい、と言ってやりたかった。今日は赤いそれはとても似合ってて割とまろやかどころかストレートにエロスを呼び覚ましたのであえて黙っていたが。
「あ、用務員のおじさんが壇上に!」
「だから、アレが学長だって」
 いつもと変わらぬ麦わら帽子を被り、タオルを首から肩にかけ、つなぎを着込み、足元はサンダル。靴下を履いているのはまさか正装のつもりか?
「えー、本日は重大発表のためにわざわざ集まってもらってすみません。出席率が9割を超えているのはひとえに皆さんの真面目さの顕れですね」
 こないと色々まずいです、と大きく赤字で書かれていれば、普通は来ると思う。会場のほとんどの人間がそう思っているだろう。
「マジメだって。えへへ、照れるね」
 隣の幸せに頭を掻いている子は放って置いてあげよう。アホな子は可愛いのだよ。あと、水色シャツから見える腋がキレイだし。
「実は重大発表は2つありました。『じゅうだい』なのに2つしか無いのかと思った諸君。後で学長室へ出頭するように」
 はて、学長室ってどこだっけ?
「さて、過去形にしたのは、諸君。1つは偶然にも台風が解決してくれたのです。今日の大いなる晴れをもたらした台風は、我々の溜め池にも十分なものをくれたのです!」
 溜め池があったのか、ウチの大学は!
「ゆえに、今週から予定していた男子トイレの使用禁止令は無くなりました。良かったですね、紳士諸君」
 学長権限で無駄に設置しまくってるスプリンクラーを止めろと思ったのは僕だけですか? トイレを真っ先に使用禁止って何か間違ってませんか?
「さて、しかしながら、もうひとつの重大発表は行われます。静粛に聴いてください」
 今までの不真面目モードから一転、威厳と威圧を声から感じさせる学長。ややざわついていた学生はシンと静まり返り、僕の隣では六月がごくりと唾を飲んだ。
「聡い諸君なら、あるいは気づいた者がいるかもしれません。私が普段と少しだけ違うことに」
 真面目モードという大きな違いは、多分違うのだろう。ならば、先ほど気になったアレか?
「そう、私は何故かサンダルなのに靴下を履いています」
 それが、なんだというのか。学長は一度顔を伏せると、告げた。
「足に伝染る病気持ってて、多分学生諸君にも伝染しちゃった。てへ」

 全国的に台風一過の今日、とある体育館で血の雨が降ったとか降らなかったとか。

「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだい、妹」
「わたし、できちゃったみたい」
「そうか。道理で僕も、最近足がかゆいはずだ」
 HAHAHAと欧米的に二人で笑って、どんよりと沈んだ。天気は青空、気分はブルー、それが僕ら、六月兄妹(ろくがつきょうだい)!

 にしても、かゆっ。

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流線型のあま糸

 梅雨は苦手だ。ハンパじゃなく苦手だ。別に、雨が降っちゃいけないってわけじゃない。洗濯物が乾かないのは痛いけれど、水不足は困るから。でも、私にとっては深刻な問題なわけで。
「あ――――も――――まとまんない!!」
 頭をぐしゃっとやって、鏡をにらむ。放り投げた櫛が、ごとんと床に落ちた。鏡には、ウエービーな髪をかかえて涙目になった私が映っている。……泣けてくるよ、もう。
 生まれつきくせっ毛を授かった私は、長いこと彼(或いは彼女)とつきあってきた。これからも、ハゲなければ長いお付き合いになるんだろう。つきあいの長い相手と良い関係を構築するのは大事なことで、それは髪にも当てはまる。ちょっと前までは縮毛矯正とかストパーが流行っていて、ウエービーはちょっぴり肩身の狭い思いをしていた。美容院に行けば、必ずと言っていいほど、まっすぐ系のメニューを勧められた。しかし、時代は変わった。今やエビちゃんヘアーが大流行で、ファッション誌を見れば誰が誰だかわからないくらいに、こぞって髪を巻いている。美容院では、初めてそのカール可愛いですねと言われた。思わず耳を疑ったほどだ。これ、天然物なんですよ。だから、現状ではそれほど髪が機嫌を損ねる状況ではないはずだった。でも。
「くるっくる……」
 湿気を含んでふくれた髪は、ヘアスプレーごときでは歯が立たなかった。この季節はくせっ毛人にとっては鬼門。私もその例外ではない。強風の日を除けば、普段は何とか収まってくれているふわふわも、言うことを聞かなくなる。
いや、でも神様。今日くらい晴れにするとか湿気をどうにかするとか、お願いしますよ。
今日は、友達の結婚式なんだから。
 ジューンブライド真っ盛りな時期は、日本では梅雨の時期とかぶる。台風よりはまだましだけど、それでも慣れない洒落たカッコに雨は辛いものがある。日本にはジューンブライドってあわないんじゃなかろうか、と友達の幸せをよそに思ってしまう。でも、私は自分のお国のものではなくても受け入れてしまう日本が好きだ。とりあえず宗教理由で、武力行使ありの国内紛争は滅多におこらないだろうから。美しい国かどうかは別の話。
「……しょうがないか」
 その広い心で、くるくるをも受け入れようじゃない。ハーフアップを予定していた髪をきゅっとまとめ、きっちりピンで固定した。いつだったか、雑誌を立ち読みしていた時に覚えた、華やかなシチュエーション用の夜会巻き。うろ覚えの記憶を必死にかき集め、何とか形に仕上げる。ふわふわな髪が、予想外に綺麗に広がった。
「……ぅわぁ」
 予想外の出来に、思わず鏡で左右を確認する。何が良い方に転ぶかわからないものだ。



 外はしっとり雨が降っていた。細かな雨粒が、さらさらとワンピースを濡らしていく。空気は湿気でぺっとりしているけれど、さらさらという雨音は風情があって、思わず嬉しくなった。駅まで自転車で疾走するわけにもいかず、私はなかなか時間通りにこないバスを待つ。バス停のそばの赤いベンチは、屋根のおかげであまり濡れていなかった。雨風にさらされて年季の入ってきたそれに、服が濡れないよう注意しながらゆっくりと座った。ぎしりときしむのを覚悟していたけれど、見た目によらずまだまだ現役なようで、きし、と軽い音を立てただけで椅子は踏ん張った。
ふと、今日結婚する友達の顔が浮かぶ。雨の日、電車を待ちながらホームでおしゃべりに花を咲かせていたっけ。その時の話題の相手とは、その時はすごくうまくいっていたように思えていたのにいつの間にかすれ違っていて、いつの間にか他の人と結婚することになっていた。沈んでいたときにたまたま話をした、会社の他部署の人だとかで、それまで顔もよく知らなかったらしい。話ながら、「いつ、どう縁があるか、わからないものだね」と、からから笑っていた。その彼女と私だって、たまたまバイトで知り合った仲だった。こんなに仲良くなると思っていなかったし、長いつきあいになるとは思っていなかった。長い時間を一緒に過ごした小学校や中学校の友達よりもやけにウマが合う。だからか、彼女の幸せは、嬉しかったけれど他の人より寂しくなかった。今流行の希薄な人間関係だったんだろうか、と今更ながら思ってしまう。どうなんだろう。そんなに濃いとか薄いとかあったろうか。
バスの時間まで、あと十分。誰も通らない通りを、一人ぼんやりと待っていると、がさりと上から音がした。
「!」
 見上げた先には、身長くらいの高さの枝にちょこんと乗って、葉の陰から頭だけ出してこちらをのぞいている猫がいた。
しましまの猫は、さらさら濡れながらこちらをじっと見つめている。つられて私もじっとその目を見つめた。意外にもしまねこは目をそらさない。身じろぎもせず、こちらを見ている。
「ま――――」
 しまねこの目を凝視しながら、私は呼びかけた。
「ま――」
 小さく、しまねこは応えた。応えたと思ったのは、私だけかもしれないけれど。面白くなって、もう一度声をかけた、
「ま――――」
 しまねこは、そのちっちゃな口を再び開いた。
「ま――」
 こっちにおいで、とか強く念じると、たいてい失敗してしまう。強すぎる思いって、相手が尻込みしてしまうんだろう。いつも失敗してるくせに、なかなかその教訓を生かせない。だから、できるだけ心を空っぽにして鳴いてみた。
「ま――――」
「ま――」
 小さく鳴いて、しまねこはするすると木を降りていった。滑らないか心配だったけれど、そんな心配をよそに、しまねこは地面に降りると、こちらを振り返った。私は再び、その目を見つめた。しばらく、そのまま見つめ合う。何を考えているんだろう。わからないから、むしろ心地いい。ふんぎりがつくから。人の気持ちだと、読み過ぎて頭がぐるぐるしてしまう。と、しまねこはぴくっと体を震わせる。そして、てってってっ、とこっちへ寄ってきた。
「あら」
 餌も持たずに猫に寄ってこられたのは初めてで、私はどぎまぎした。しまねこはそのままてってってっと足下までくると、ベンチに飛び乗る。
(もしかして、お膝に乗ってくれるのですか……!!)
 あり得ない期待を込めて、私はワンピースの上にタオルを敷く。ハンドバックをしまねことは反対側にどけると、しまねこはゆっくり膝に足を乗せてきた。不安定な足の上を、上手くバランスを取って丸くなる。どきどきしながら、そっと、私はそのふわふわしたしまっ毛を撫でる。しまねこは嫌がらずに撫でさせてくれた。ほっこり、暖かい。すると、もそ、としまねこが動いた。私は慌てて手を離す。行っちゃうのかな、という思いが頭をよぎった。しかし。しまねこは、もそもそしながら前進し、頭をジャケットの中につっこんだ。
「……寒かったの?」
 ぺったり張り付く湿気。それでも、空気は少しひんやりとしていた。もそ、としまねこは頭をつっこんだ位置で落ち着く。おなかのあたりまでほっこりしだした。これはいい。そっとその背を再び撫でる。しまねこは逃げるそぶりを見せなかった。しまねこのぬくもりが、時間をゆったり進ませる。ふわふわ、ふわふわ。流れてく。
幸せになって欲しいと思うんだ。
私は再び今日の主役に思いを馳せる。共存というのはたがいにちがう個と個がぶつかりながら均衡を保っていかなきゃならない、最高に難しいものだと思うけれど。そんな難解な流れだから、いつも解けなくてもがいてる。以心伝心って、小学生の頃から書けるけど、実際はそうはいかない。同じ方向に心が向いていれば出来るかもしれないけれど、いつもそうとは限らない。私は髪ともうまく波長を合わせられないし、周りともうまくいってるなんて胸を張れない。それでもヘアスプレーで少しの間もっててくれてたり、少しの間撫でさせてくれているしまねこみたいに、たまたま絡み合って向きがあって、私の心を酌んでくれたときには、迷わずありがとうを言いたいんだけど、なかなか言えてないなぁ。難しい。
雨だまりと吹き飛ばす音が大きくなってくる。大きく水を分けて、バスがやってきた。
「来ちゃったね」
 ふわふわをひと撫でして、私はゆっくりしまねこを膝から降ろす。しまねこは私を見上げている。
一瞬だけ、私はあなたのぬくもりだった。私はあなたを無意識に招きたかった。絡んだ糸にのった意図。「またね」なんて言って、また結んでくれるかしら。
「バイバイ」
 ゆるりと手を振り、私を見上げたままのしまねこをおいてバスに乗る。振り返ったとき、椅子の横にまだしまねこがいて、でもこちらに背を向けて何か眺めているのを見て、私は安心と寂しさが一緒になった息を吐いた。そして思い出す。
「また、ありがとうって言うの、忘れちゃった」

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空梅雨・暖冬・干乾びた

 泥と藻が良い感じに混じった懐しき故郷の池の向こう側に、ママンが佇んでこちらをじっと見つめている。幼き頃に死に別れたママン、嗚呼僕はこんなにも大きくなりましたとじゃばじゃば池の中に分け入りかけた僕を、どうやら後ろから呼んでいる声が聞こえる。
 なんて気が利かない奴だ空気読めよお前と振り向いた瞬間、口の裂けてひき潰されたような横長でその上いぼいぼの、まっことぶおとこの顔がアップになる。
「うわぁぁぁ!」
 僕は悲鳴をあげ、その勢いでそいつにアッパーカットをお見舞いしてしまう。
 聞き苦しい悲鳴があがり、その濁声がやっと旧友のウシガエルのうしくんのものだと気付く。
「なんなんだうしくん! 今のクリティカルなアッパーカットは謝るが、もとはと言えば僕の幸せな夢を邪魔した君が悪い!」
 だぶだぶとした顎を押さえつつ、うしくんは愛の鞭ですねぃなどと訳の分からないことを呟いたあと、はっと気付いたように濁声を張り上げる。
「それどころじゃありません、兄ぃ! 大変なんですよ!」
 何がだママン以上に大切なものなどあるものかと僕が思っていると、妙にのどが渇いていることに気付く。ここでやっと僕は異常を肌で感じる。
 文字通り、僕の自慢のぬめり肌は渇ききり、ひび割れるような始末だったのだ。

「ぎゃあぁぁぁ!」
 本日二回目の悲鳴を僕はあげる。その瞬間、渇いたのどにびりっと痛みが走り、うげほうごほと内蔵が全部ひっくり返りそうな咳をしながら僕はのた打ち回った。のどが切れて血が出ていないかと必死に確かめる僕をなおざりに労りつつ、うしくんは情けない声で言った。
「起きたらすっかり干上がってたんですよぅ。兄ぃ、わしらどうも寝過ごしたようで」
 危ない危ない、これ以上寝過ごしたら御陀仏になるところだった訳だ。多分夢のあの池を渡り切るまで夢を見ていたら、僕は日干しガエルになっていたに違いない。
 嗚呼、お慕い申し上げる我がママン――おたまじゃくし時代が終わり、ママンと会うのを心待ちに水から上がった僕が見た、道路脇でからからになった押しガエル。それがママンの成れの果てであると知ったときの戦慄。よみがえる悲哀。僕は涙ぐんだ。
「兄ぃ、しっかり!」
 僕の涙を勘違いした風のうしくんが、美しい過去の回想をぶち壊す。しかし現在のこの状況からして回想に浸っている暇はなさそうなので、寛大にも不問に処そう。
「しかし解せないなあ。寝過ごしたとは言え、あんなにあった水はどこへ行ってしまったんだ? 寝過ごすにも程があろうに」
 いくら多少の誤差はあれども、本当に冬眠の時期を間違う訳が無い。カエルごときの本能と侮ってはいけないのだ。ゲコゲコ。
 しかし現状は無常にも、見渡す限りからっからだ。水溜りのひとつも見当たらない。これでは土を掘ったところで墓穴を掘ることと同義になってしまう。かと言って、この環境の中歩き回るのは単なる自殺行為である。
 しかし、ここでぼやぼやしていても死ぬのは同じだ。見上げる空にはひとかけらの雲も無い。
「どうするんですかぃ、兄ぃ……」
 うしくんが実に情けなさそうな声で問いかけてくる。
「どうするもこうするも、水が無きゃ僕たちは死ぬしかないんだから、水を探すしかないだろう。さあ、行くぞうしくん!」
 肌はひりひりするし、のどは刺すように痛むし、さんざんだったがせめて威勢は良く僕は歩き出した。その後ろに、うしくんが待って下さいよぅなどとよたよたと付いて来る。

 ……と頑張ったところで、所詮水の無い両生類の頑張りなんて、高が知れている。
 時間の経過と共に空の天辺を目指す太陽が、じりじりと容赦なく干乾びた大地に降り注ぐ。ますます地面から水分は奪われていき、砂交じりの熱風さえ吹きすさぶ始末だ。からからになった皮膚に纏わり付いた砂がぱりぱりするのが途轍もなく不快。
 現状の全体から見れば、それさえ些細なことだ。もう渇いて渇いて仕方が無い。呼吸も満足に出来ない。くらくらと視界が揺れる。意識が遠のく。僕とうしくんの命は風前の灯だった。
「あ、兄ぃ……」
 がらがらにひび割れた声でうしくんが僕を呼ぶ。振り返ると、ぜえぜえ言いつつ、ずるずるとその太鼓腹を引き摺りながらも必死に前進していたうしくんが、べったりと地面にのびている。
「もうわしはだめです……置いて行って下さい……」
 殊勝なことを言う。が、そもそも僕の方がぶっ倒れたいほど限界だ。弱々しく震える声で、それでもうしくんを叱咤する。
「何格好良いこと言ってるんだよ! 今そんなこと言ったって全然格好良くないよ! ほら立って、干物になりたいのか!?」
 その身体を揺さぶろうと手をかけると、その皮膚は不気味なほどかさかさだった。
「僕のアマガエルとしての威信にかけて雨乞いするからさ! 手伝ってくれよ!」
 しかし、もううしくんの声は消え入るようで、何を言ってるか聞こえない。
「うしくん! うしくん!」
 うしくんの大きな目は、ぐったりと閉じられている。もう、身動きもしない。
もう、渇きすぎて、涙も出ない。
「――死ぬのは、うしくんなんだかかえるくんなんだかはっきりしてからにしろー!」

 僕がひび割れたみっともない声を張り上げたのと同時に、遠くの方からなにやら地響きがする。顔を上げると、僕らがやって来た方向から鈍く光る高い壁がどんどんどんどん迫ってくるのが見えた。その壁は広すぎて、どこにも逃げ場所がない。
 一生懸命うしくんの腕を引っ張って、少しでもその壁から逃れようとするが、ぴくりともその巨体は動かない。だから太りすぎだと口すっぱく言ってきたのに!
 僕が虚しく足掻いているうちに、その壁は僕たちとの距離をあっという間に縮めていく。僕は、目を瞑った。
 耳が潰れるほどに音は大きくなっていき、そして懐かしいうねりが僕らを飲み込んだ――。



 ――今年の堰の開きは遅かったなあ……。すっかり渇いちまった。
 ――去年の雨の振りが悪くて、上流では水不足だったんだとよ。
 ――全く、上流の奴ら、我が物顔に水を使いやがって……。俺ら下流の民のことを考えて欲しいよなあ。
 ――俺らだって、水がなけりゃ生きていけないのになあ。
 ――なあ。あんな、水の無い川を見ていると涙が出てくるもんなあ。あちこちに干乾びた魚やカエルが転がっててさあ。この世の終わりかと思うぜ。
 ――俺たちもそうなるかと思うとぞっとしないよな。
 ――なあ……。


 結論。水は、大切に。

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サイレンの魔女

 ロンドンは今日も霧深い。
 
 ロンドン橋の上から見下ろすテムズ川も重たい霧に包まれ、眼下の川面がぎりぎり見えるくらいで、その先は白の面色に支配されている。
 そんな霧の中に二人の人間が立っていた。
 数分の間沈黙だけがその場を支配していたが、唐突にコートを羽織った男が口を開いた。
「謎かけをしよう」
「また探偵様の気まぐれが始まったな」
 探偵の横に立っていた作家は眉をあからさまに顰めた。コートの探偵が構わず言葉を続けようとするのを慌てて遮って、作家は言った。
「おいおい、謎を解くのがベイカー街の名探偵の仕事だろう。私の仕事ではない」
「私は己自身の内から湧き出てくる探究心に忠実であり、それ故にこの仕事をしているだけだ。今は、君がこの謎にどのような答えを出すか、ということが一番知りたいことだな」
 ――何てわがままな。
 作家は舌打ちするが、確かにこの男が冷静にして沈着、優れた判断力を持つ天才だということは彼を知る者全員が理解するところだが、とてつもなくわがままな男であることも周知の事実だ。
 この男に普段から振り回されている友人の人のよさを考えると同情の念も湧きそうなものだが、近頃作家は探偵の友人である例の医師は、どうも被虐欲の気があるのではないかと疑っている。
「……君、全く関係のないことを考えているな」
 ともあれ名探偵は作家の目が泳いでいることを見逃さなかった。作家は慌てて意識を探偵に戻して言った。
「あぁ悪い。で、謎とはどういうものだ」
「既に君も知っているとは思うが、三日前、一人の女がこの橋から川に飛び込んだ」
「歌姫か」
 そのくらいは作家も知っている。ロンドン中でも今一番のニュースだ。
 三日前、とある名高い貴族の寵愛を受けていた歌姫が逃げ出した。それ以前までに歌姫に異変は見られず、あまりに突然の出来事だった。逃げ回った末に辿り着いたのがこの橋の上であり、そのまま歌姫は迷わず川に飛び込んだのだ。
「三日経ったが、彼女の死体は発見されていない」
「ほう」
「また、その時舟が通ったという記録もなく、おそらく助かってはいないはずだ」
「死体が浮き上がってこない要素というのはいくつかあるがな」
「その通りだ。私も、その歌姫が死んだことを疑う気はない。ただ」
 探偵は猛禽を思わせる目を川に向けて、言った。ちょうど、舟が橋の下を通るところだった。水面に飛沫がはね、霧の中に何とも不気味な音を響かせる。
「飛び込む前に、彼女は追ってきた主に向かって言ったそうだよ」
 
『さようなら愛する人、私は私の場所に帰ります』
 
「……なるほど、それが『謎』か」
 今まで仏頂面を守ってきた作家の表情が微かに歪んだ。笑顔と思えば笑顔のように見えたかもしれない、そんな奇妙な表情だった。
「その通り。私はこの事件に興味などないが、君がこの彼女の言葉にどう理屈をつけるのか気になってね」
「それほど暇なのか? 探偵様は私の話がお嫌いではなかったか」
「非現実に過ぎるからな。だが、時には君の物語が恋しくなる時もある」
「貴方らしからぬ言葉だ」
 ――冷徹すぎるほどに冷徹に、「現実」を見つめている探偵様には。
 そう思った言葉は口には出さなかった。己でも賢明だと思う。だが、それを言ってしまったら、非現実の物語を己の筆に託して書き続ける作家と、「現実」を求める名探偵は永遠に交わらなかったことになる。
 人と人との縁というのは、わからないものだ。
 作家は思いながら、探偵と同じように、眼下を流れる川を見る。
 探偵の謎に、何かしらの答えをつけなければならない。それは、別に真実である必要はない……ただ、作家が思うままの答えを、探偵は求めていた。
 しばし、二人は無言だった。川の流れる微かな音だけが、霧の中から響いていた。
 どのくらいの時間が経っただろうか、明かりを映してゆらゆら揺れる川面を見つめていた作家が言った。
「歌姫は、サイレンだったのだ」
「サイレン?」
「セイレン、シーレーン、シレーヌ、ジレーネ……ギリシア神話における海神の娘だ。元々は妖鳥だが、近頃は水妖故に人魚やニンフとも同一視されるようだな。どれにせよ女の姿をして、船に乗る人間を惑わせる」
 探偵は微かに首を傾げたようだった。作家の言っていることがまだ掴めていないのかもしれない。作家は構わず言葉を続ける。
「そう、サイレンは歌で人の心を操る。貴族様が心を奪われたように」
「つまり、歌姫は人間ではなかったと?」
「人間に憧れはしたのだろうがな。そうでなければ、海を離れる必要もない。不自由極まりない人間という存在になる必要もない」
 本来サイレンには、空を自由に舞う羽も、海を自由に泳ぐ尾もあるのだから。
「アンデルセンの描く人魚姫の世界だ。泣かせる話じゃないか」
 探偵はアンデルセンの童話には興味がなかったと見え、不可解そうな表情を浮かべていたが、やがて大げさに息をついた。
「それが君の答えか」
「自分で聞いておいて、不満そうだな、探偵様」
「あまりに非現実に過ぎる。興が冷めたよ」
 言って、探偵は作家に背を向ける。作家も大げさな溜息を返して、苦笑いする。
「それを求めて聞いたのだろう」
「それはそうだが……あぁ、まだ一つ、答えを聞いていない」
 声の響きからすると、探偵は作家の方に振り向いたようだった。作家はすぐに探偵が言いたいことを察した。確かに作家は探偵の問いに一つだけ答えていない。
「彼女が川に飛び込む直前の言葉をどう考える?」
 目の通らない霧に何かを見出すように、作家は虚空に目を彷徨わせる。
「さあ、それは歌姫にしかわからないが」
 作家はくくっと笑って、偉大なる探偵を振り返ることもなく、言った。
「きっと……突然、故郷の海が、恋しくなったのだろう」
「そういうものか」
「そういうものだ」
 霧に包まれた澱んだ川も、光溢れる海原に繋がっている。作家は言葉にこそしなかったが、広い海に生まれたサイレンにとって、晴れない霧に包まれたロンドンという町は息苦しすぎたに違いない。
 愛している者に永遠の別れを告げてでも、生まれた場所に帰りたくなった……愛する者に殉ずることを選んだ人魚姫とは異なる結末だが、そういうこともあるのだろうと作家は思う。
「君の言うことは、どうにもよくわからないな」
「わからなくて結構。私が貴方を理解できないのと同じだ」
「なるほど。それは一理ある」
 初めて作家の言葉を認めた探偵は満足げに帽子を被りなおすと、別れの挨拶もせずその場から立ち去ろうとする。作家も何も言わず川をじっと見つめていたが、つと視線を探偵が去り行く方に向けて呼びかけた。
「探偵様」
 既に探偵の姿は重たい霧に隠されて見えなかったけれど。
「そろそろ貴方も物語に戻ったらどうだ」
「大きなお世話だ」
 架空の探偵の返事は霧の中から聞こえた。作家はもう一度くくっと笑うと、一人きりでテムズの川面を見つめる。
 霧の奥、川の下流から聞こえてくるサイレンの歌に耳を傾けながら。
 
 ロンドンは今日も霧深い。

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食事の時間

 F氏は、うずうずしながら料理が来るのを待っていた。ずらりと並んだぴかぴかの食器の、一番外側に置かれたフォークとナイフを握り締め、何か空恐ろしいような顔つきでじっと目の前の真っ白な皿を眺めて。
 ほどなく、金釦の付いた黒いチョッキをきっちりと着込んだウエイターが、銀色のお盆に何かを載せて運んできた。
「本日のコースメニュー、『別府地獄温泉めぐり』の前菜、〝かまど地獄彩りサラダ〟になります」
 皿の上に置かれた、こちらも真っ白な器に盛り付けられているのは、ちぎって盛り付けられた白い煙・青い煙・緑の煙、そこにたっぷりとかけられた乳白色のソース。矢も盾もたまらず、F氏は新鮮な煙にフォークを突き立てた。白い煙はさくさくとした歯応えで如何にも煙らしい、ふんわりと甘い味、青い煙はさっぱりとした酸味とほど良いぬめりで、「これは美味い、期待以上だ」とF氏は喜んだが、緑の煙の苦さには辟易してクリーム状のソースをたっぷりつけて無理矢理飲み込んだ。
「〝白池地獄の冷製スープ〟でございます」
 先ほどのウエイターがスープ皿を、テーブルに用意された他の皿の上に載せた。まだサラダを食べ終わらないうちにスープが来たことにF氏は腹を立てたが、周りの客は平然としていたので、一人だけ田舎者だと思われないようすまし顔のまま、先に一口スープをすすった。さらさらの青白いスープに白い煙を浮かべたスープはしっかりした出汁の味がして、下ごしらえも巧くあっさりしているが生臭さはなく、塩加減もちょうど良かった。もう一口だけ、もう少しだけとスプーンを口に運び、気付けば皿の中は舐めたようにきれいになってしまった。
「いかんいかん、順番があべこべだったな」
 自分の食べ方に自信がないのか、F氏は周りを気にしながら慌ててサラダを片付けようとしたが、間違えて緑の煙を口にしてしまい咳き込んだ。
「くそ、この煙め!」
 F氏はやはり辺りを見渡し、自分に向けられた視線がないことを確認すると、小さく毒づいた。
「こちら主菜の〝竜巻地獄ソテー 鬼山地獄包み〟になります」
 いつの間に後ろに立っていたのか、ウエイターはF氏がサラダを食べ終わるとほぼ同時に器を皿ごと取り上げ、代わりに厚い大皿を慎重に配置した。皿の上には銀色の半月型の蓋がしてあって、ウエイターは手品を披露するかのような華麗な手付きでそれを持ち上げた。どうにも細長いボートの玩具に似た形をした薄茶色の煙の塊を見、ウエイターの顔を見て、F氏はうむと頷いた。正直さっきのサラダでの失態を見咎められたのではないかとはらはらしていたが、そんな様子もなく「こちらのナイフとフォークでお召し上がり下さい」と指し示してウエイターは奥に引っ込んだので、F氏は内心胸をなでおろした。
「よし、今度は失敗しないように食べよう」
 F氏はそう固く決意すると、料理を食べにかかった。茶色い煙はぱりぱりの衣になっていて、中の水はしっとりとした白い肌でもちもちとした食感もさることながら、たっぷりと旨みを含んだ身は後を引いた。F氏は夢中になって口と手を動かし温かい水をほおばっていたが、無意識のうちにテーブルに肘を突いていたことに気付いて、はっとして手を下ろした。ガチャンと食器がぶつかり合う音が響いて、店内の客の視線が全て自分に向いたような気がして、F氏は恥ずかしさのあまり顔を上げることも出来ず、急いで料理をたいらげた。「ああ、ウエイターがやってくる。店を出て行かされるだろうか」そう思い、F氏はじっとりと背中から汗が噴き出してくるほど不安になった。
「もう一品主菜でございます、〝石鬼坊主地獄の丸焼き 血の池地獄ソース〟になります」
 けれど、やはり淡々と皿を入れ替え、銀の蓋を開けるとウエイターは去っていった。危機を脱したF氏は清々しい心持ちで、ほかほかと湯気の上がる水に手を付けた。鈍い灰色の水は見た目と裏腹にすんなりとナイフが通り、真っ赤なソースがどろりと濃厚に絡んだそれは地獄と呼ぶに相応しい主菜のように、F氏は感じた。慎重にフォークを扱い、料理を口に運ぶ。が、口に含んだ瞬間、F氏は目を白黒させた。「辛い!」心の中で盛大にそう叫ぶと、F氏は膝にかけたナフキンを使いこっそり料理を皿の上に戻した。
「このソースがいかんな」
 辛いものの苦手なF氏は顔をしかめて呟くと、ひりひりする口の周りを拭いて、どうにかソースをどかしにかかった。ほんの少しだけソースの残った水は、とろけるような柔らかさと濃厚な味で上質のワインに似た香りがあって、ほんのりと感じる辛味が非常に良く合った。「よしよし、これならいいぞ。随分美味くなったじゃないか」と満足顔で食べ終えたF氏の前に、今度は平たいグラスに入った青い水が出された。
「デザートは〝海地獄マリンゼリー〟になります」
 F氏は間違えないようデザートスプーンを手に取り、水をすくった。すっとした薄荷のような爽やかさと、ぱちぱちと強い炭酸に冷たい甘さが加わって、どっしりした水を食べた後の胃に優しく広がっていく。F氏はフルコースの余韻に浸りながらデザートを食べ終え、よっこらせと立ち上がった。

 会計を済ませてホテルのエレベーターに乗ったF氏は、何か無性に物足りない気がして、落ち着かない気持ちで車に乗った。取り敢えずはと、凝り固まった首を回してネクタイを緩めたが、まだ何か物足りない。
「ああそうか」
けれどすぐに原因に気付いて、F氏はそのまま近くのスーパーマーケットに車を止めた。店から出てきたF氏は助手席に買ってきた荷物を置くと、『カスピ海スナック』を取り出し袋を開けた。F氏は、薄く切られ揚げられた青緑の水をばりぼりと行儀悪くむさぼって、満足そうに言った。
「この下品な味! やはりこの方が落ち着くなあ」

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二つの穴が

 温めますかと聞かれたので、何の気なしにお願いしますと答えた。起きがけで、ぼうっとしていたこともあるだろう。千円札を差し出したところで、ふと今日買ったのはペットボトルのミネラルウォーターだけだったことに思い至った。マニュアル接客という言葉を思い浮かべて、眉をひそめる。
「あの」
 店員を制止しかけて、声が止まった。黄色のエプロンをした、若い女の店員だった。店員は、慣れた手付きでレジの下から千枚通しのような道具を取り出し、ボトルの上の方にぷすぷすと二つ穴を空けた。それを当たり前のように電子レンジにかける。
 何も言えないでいる間に、店員は型通りの笑顔で、しばらくお待ちくださいと言った。手際よく計算されたお釣りが俺の手に差し出されたとき、電子レンジがブザーを鳴らした。ボトルのキャップをつまむように、店員はそれを取り出す。二つの穴から湯気が出ているのが見えた。店員は、それを手のひらのサイズくらいしかないビニール袋に入れた。
「熱いのでお気をつけください」
 はあ、と気の抜けた返事をして、俺は袋の持ち手を取った。ありがとうございましたという声に送られて店を出る。
 わからない。ホットウォーターとでも呼んで、流行っているのだろうか。だとしてもそれはただの湯だ。
 会社に向かう道すがら、信号に引っかかった。ここの信号は長いのだ。試しに飲んでみようかとボトルに手を出して、声をあげてしまった。熱い。まさか沸騰しているのではあるまいな、と疑うくらいに熱い。周りからおかしな目で見られた。
ビニール袋の中にも、湯気のせいでびっしりと水滴がついている。手が濡れてしまった。俺は舌打ちして、自分の手をスーツの裾で拭った。信号が変わったので渡る。今日は暑い日だ。おまけに営業が四箇所入っている。湯なんか飲んでいる場合ではない。

 今日はあと一つ回ってから帰ると家に電話をした。電源ごと通話を切ると、どこに回るって言うのよとナホがからかうように言った。ナホは胸まで毛布をかぶっていた。俺が同じ毛布に入ろうとすると、するりと抜け出して背を向けた。
「まだ一時間はいられる」
「ルームサービスをとってもいい?」
 肯定の代わりにため息をついて、俺は一人でシャワールームに向かった。どうもクーラーの効きが悪い。ひどく汗ばんで、気持ち悪くなってしまった。ナホのことを考えて、よくも平気なものだなと思った。
 シャワーを浴びて、ついでに雑に髪を洗って部屋に戻った。驚いたことに薄暗かった。ベッド脇の電灯が光っているのみだ。ナホが電気を消したのだろうか。ベッドを見ると毛布が盛り上がっている。
「隠れているつもりか」
 近付いて、ベッドに腰をかける。その途端、毛布から手が伸びてきて腰に巻きついた。とっさに妖怪か何かを連想したが、手と一緒に覗いて見えたのは間違いなくナホだった。
「どうした?」
 ナホが顔を上げた。潤んだ眼で俺を見るので、つい視線をそらしてしまった。その拍子に、サイドテーブルの上にあるものが見えた。
 それは朝買った水だった。何となく不気味でもあったし、大体が鞄の中に入れっぱなしだったので、ぬるくて飲めたものではなかった。ホテルに入ったとき、備え付けの冷蔵庫が目に入ったので、そこに入れておいた。全く口をつけていなかったはずのそれが、今は半量ほどに減っている。
「この水を飲んだのか」
 ナホはこくんと頷いた。ルームサービスはどうしたかと問うと、もったいないからやめたと言う。
「でも喉が渇いていたから」
 飲んじゃったのと言いながら、ますます身を寄せてくる。折れそうな細い腕とは信じられないほど力強い。抱き潰されてしまいそうだった。おかしい。さっきまでは、こんな風になる空気ではなかったはずだ。
 左手でナホの頭をなでながら、右手で水を取った。いつも飲んでいる種類のミネラルウォーターだ。ボトルの上部に二つの穴があいていることを除けば、とくにおかしなところはない。歯を使って、キャップを開けた。まず匂いをかいでみる。甘い香りのする気がした。しかしそれはナホの匂いかもしれない。慎重にボトルを傾け、舌先で少しだけなめてみた。
 一瞬、舌にしびれるような感覚が走った。何も考えることなく、ごくりと一口喉に通した。冷たくはなかった。一口の水が腹に落ちた、その瞬間に熱くなった気がした。腹ばかりでない、シャワーで濡らした髪も肌も、仏に焦がれた五位入道のように一気に燃え立った。目眩がする。残った水を飲み干そうとした。喉に詰まって吐いた。ナホが俺を引き倒した。後はもう何がどうでもよかった。

翌朝も、出社前にコンビニに寄った。昼休みに会議があるので、適当に食べられるサンドイッチを買った。そして、いつものようにミネラルウォーターも手にした。
昨日と同じ時間だったので、店員も同じだった。そういえば、昨日初めて見たようだ。
店員は笑顔で「温めますか」と聞いた。サンドイッチではなく、水の方を指していた。俺はもちろんと言うように頼んだ。そしてボトルには二つの穴が空けられた。
熱々のボトルとサンドイッチをそれぞれ別の袋に入れてもらい、火傷にしないようそっと鞄に入れた。店を出る足取りは軽かった。

昨日のことがあるので、仕事のきりをつけて早めに帰った。リエコは夕飯の準備をしながら待っていた。机の上には婚姻届を置いて。
「そんなに籍を入れたいのか」
 ネクタイを外しながら尋ねる。リエコは長葱を刻む手を止めずに答えた。
「来週、君の誕生日でしょ」
「別に俺の誕生日なんか気にしなくていい」
「きっかけにしたいのさ。君さえよければ、明日にでも出すよ」
「証人を二人頼まないといけないんだろう」
「うちの両親がいる。役所に行く途中にだって寄れるよ。それとも、君、誰かお願いしたい人がいるの」
 トントンとまな板を叩く音に合わせてリエコの束ねた髪が揺れる。俺はシャツまで脱いでしまった。リエコは背を見せたまま言った。
「いい加減にしておきたくないんだよ」
 トンとひときわ高い音を響かせて、リエコは包丁を置いた。そのすぐ後ろまで歩み寄る。肩に手をかけると振り払われた。
「返事をしてから」
「形式にこだわることはないじゃないか」
「子供が欲しいんだよ」
 いきなり身を翻してリエコは俺の方を向いた。見つめ合うには近すぎる。俺は顔をそむけた。
「……着替えてくる」
「ちょっと」
 リエコを置いて隣の部屋に行こうとしたが、その前に突き飛ばされた。狭い部屋でリエコは走るように浴室へ飛び込んだ。耳を澄ませば嗚咽が聞こえるのだろう。俺は極力それを聞かないようにした。
 代わりに鞄から例の水を取り出した。リエコが火にかけていた鍋のふたを取る。豚汁ができていた。あとは葱を入れるだけなのだろう。俺はその豚汁に水を注いだ。味が不自然に薄くならないよう慎重に量を調節した。それからおもむろに着替えに向かった。
 その後は適当にリエコの機嫌を取りながら、気まずい夕飯を食べた。二人とも豚汁を飲んだ。そうして一晩を過ごして、だからとりあえず今は円満だ。つまり、そういうものだということだ。

 俺はそのコンビニを便利に利用した。いつもの女の店員とも顔見知りになった。と言っても、特に話をするわけではない。彼女はいつも微笑みかけてくれるが、それを共犯者の笑みだと思っているのも俺の方だけかもしれない。
 あるとき、店内に俺と店員の二人だけになった。ボトルにぷすぷすと穴を空けて水を温めてもらっている間に、怖い水ですねと言ってみた。すると店員は上目遣いに俺を見て、怖いのはお水でしょうかと尋ねてきた。なるほどねぇと応じて俺はにこやかに店を出た。

 ナホが電話を掛けてきた。自分の友人が俺の営業先の云々で、要は俺がリエコと住んでいることを知ったらしい。家族と暮らしているらしいのはわかっていたが、それが恋人だとは思わなかったと言うのだ。俺にしてみれば、何を今さらというところだ。
「もう連絡してこないでよ」
「今夜会う約束は」
「何を考えているの?」
 一度会えば再びナホの気持ちを引きつけることも可能だと思った。今朝もコンビニに寄っていた。鞄の中には水がある。
「ナホ」
「やめて」
 電話は切られた。俺はナホの自宅を知らない。電話とメールを着信拒否されたら、もう連絡はできないだろう。昼休み中の出先で受けた電話だったが、俺は顔を歪めて舌打ちした。
 リエコには遅くなると言ってあったのだが、その日は結局仕事が終わるなり帰宅した。しかし部屋は暗かった。電気を点けると、心なしか部屋が広く見えた。同棲を始めたときリエコの持ち込んだ荷物が全部なかった。
 台所に置き手紙があった。無意識に予想していた通りだったので却って驚いた。リエコはこんなに面白みのない女だったろうか。手紙によれば、ナホから電話が入ったという。ナホは、教えていなかったはずの俺の自宅の電話番号まで手に入れていたのだ。意外だったのは、リエコがナホに同情的な書き方をしていたことだ。女同士の妙な感傷なのだろう。
 手紙の最後には、俺が根本の考え方を変えることがあったら実家に連絡してくれていい、と書いてあった。根本の考え方とは何だ。実家ということは、リエコは両親の元に帰ったということだ。この状況で親が出るかもしれない電話をかけるのは面倒だ。俺は手紙を一握りしてごみ箱に放った。
 椅子に腰掛ける。静けさが身に染みた。そういえば食べるものがない。コンビニにでも行ってくるか。
 コンビニ、と考えたところで水のことを思い出した。飲むか、しかし飲んでどうなる。わからない。混乱しているのか、俺は。水を飲んだのはほとんど発作のようなものだった。ボトルを真逆さまにして浴びるように飲んだ。苦しさに構わず飲み続けた。突き上げる高揚感に身体が裏返った。

 警察の世話になっていた。自分が何をしたかを聞かされたが記憶は全くなかった。ただそれをやりかねない状態であったことはわかっていた。一晩で帰されたのは幸いだったのだろう。危うい足取りで朝の街を帰路についた。朝なのに暑かった。

 コンビニの前を通った。いつもの店員がいる時刻だった。俺は習慣の通り店内に入った。
 目当ての店員はいなかった。痩せた男が、気だるそうにレジに立っていた。いつもの彼女はどうしたのかと聞きたくもあった。しかしそれを聞くのが恐ろしい気もした。
 いつもの水を手に取った。ペットボトルに入ったミネラルウォーター。それだけをレジに出した。男の店員は何の迷いもなくそれを袋に入れて会計を行った。
「温めてもらえませんか」
 店員が不審げに俺の顔を見た。俺は繰り返した。
「温めてもらえませんか、その水」
 店員は辺りを見回したがこの時間帯は他に誰もいなかった。
「ペットボトルは、温められないんです」
「そんなことはない」
「破裂しますよ」
「穴を空ければ大丈夫だ」
 俺は我慢しきれずカウンターに身を乗り出した。鉄棒で前回りをするようにレジの下を覗き込む。
「千枚通しがあるはずだ。どこだ、どこに隠した。穴を二つ空けるんだ。レンジでそれを温めるんだ」
 店員が俺を取り押さえようとした。揉み合いになり俺はカウンターから転げ落ちた。一緒にペットボトルも落ちて、衝撃が強かったのか中から水が漏れ出した。コンビニの磨かれた床にこぼれ出した水が広がる。
店員の足が防犯ブザーを鳴らした。俺は床にうずくまって頭を抱えた。暗く得体の知れない穴に落ちていくような感覚に、俺はようやく泣き出していた。

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渇き

 父が入院してから、数ヶ月経った。仕事の合間を縫っては、職場とは逆方向の病院に来るのも慣れてきた。最初のころは、これが今生の別れになるかもしれないと、彼の発する意思の一つ一つを丹念に丹念に汲み出そうとしてきた。しかし、今は慣れてしまったからだろうか。彼の微かに動く口から意思を読み取る作業も、無意識に雑になってきた。
 その年の夏は暑かった。駅から離れたところにある病院へと歩く道で燦々と降り注ぐ太陽の光によって体の中の水分が吸い取られたからか、私は彼のいる病室に入ると、思わずペットボトルの蓋を開き、喉に水を流し込んでしまった。その行為は彼の目の前に行ってしまった。そう、だから彼はその行為を光を失った瞳で見ていた。

「どうしたの?」
 じっと私を見つめる彼に問いかける。彼は口を微かに動かす。
「えっと、どうしたの?」
 そのとき私は少し瑣末な出来事のせいでイラついていた。微か過ぎる口の動きに苛立ちを隠せないような口調で彼に再び問いかける。私の苛立ちを彼は理解できるのだろうか、ゆっくりと諭すように彼は口を動かす。
「え、喉が渇いたからこれ飲みたいの?」
「でも、パパは今無理だから。調子がよくなったら。」
「うん、大丈夫、いつか飲めるようになるから。」
 私は嘘をついた。彼はを笑顔でその嘘を受け止めた、ように見えた。

 私の父は延命処置を受けている。喉は切り開かれ、そこには人工呼吸器がつけられている。声を出すことも出来ず、動くこともままならず、ただ死を待つだけ。腕に刺さった点滴から流れ込む難解な名の薬によって、彼は小康状態を保っている。人工呼吸器をつけなければ、彼は死ぬ。そう聞かされたとき私たちの家族は泣き、悩んだ。利己的な私の息子の一人は父に少しでも生きながらえて欲しいと願い、現実主義で浪漫主義なもう一人の息子は父に安らかに死んで欲しいといった。しかしながら、結局私たちは彼が少しでも、少しでも生きながらえることを望み、延命処置を申し出た。
 延命処置を受ける前、私たちは彼の前でただ泣いた。延命処置によって彼は声を失う。今まで通り彼の声が聞くことができないという事実にすら、私たちは慌てふためき泣いた。彼の声が聞えるうちに、私は今までの人生で彼に謝るべきことを懺悔し続けた。小さなときに彼の財布から五百円玉を盗んでいたこと、彼の酒を密かに夜飲んでいたこと、大学受験に失敗し彼を落胆させたこと、駆け落ちしかけたときに彼が黙って困った瞳で私を見つめたこと、彼のことを一時酷く嫌っていたこと、彼の望むような人間に成長しきれなかったこと、彼の死を今だに受け止められないほど未熟であること。謝れば謝るほど、謝るべきことが頭の中をよぎり続ける。
 乾いた彼の唇が微かに動き、彼は私に話しかける。

 もう彼に謝るようなことは全く無くなった。私は彼に許された。そう思っていた。もう彼に謝らなくてはならないようなことはしないようにしよう。そう思っていた。残された時間は幸せだけで埋め尽くそう。そう思っていた。しかし、私は彼の前で水を飲んでしまった。

 設計状、直接日光が差し込むことのないような病室にも、少しだけ真夏の太陽の光が差し込む。冷房の効いている室内、汗は冷やされ静かに滴り落ちる。彼の隣のベッドの患者が無音のまま、騒ぎ出す。彼らもまた喉が切り取られ、人工呼吸器をつけている。喉を切り取られた人間は声を発することができない、しかしそれでもまるで獣のように低く唸る。手足をバタつかせ、体を揺すり、音を出し続ける。すぐに隣の部屋から看護師がやってくる。
「……さん、どうされましたか。」
 慣れた口ぶりで看護師は、患者に問いかける。静かな病室の中、隣のベッドの周囲だけに音が響き渡る。必死に音を出し続ける患者、その周囲だけ諦観の漂う病室の中で異質な雰囲気を醸し出す。
 いつの間にか、隣のベッドには人が増える。白衣を着た医者や看護師が数人、そして少し離れたところで不安そうに見つめる白衣を着ていない家族たち。いそいそと看護師たちが動き出し、医者たちがベッドから離れ患者に対して、説明を始める。患者の発する音は誰にも気にされていない。それでも、患者はひたすらベッドに括り付けられた体を動かし、手足をバタつかせ、低く唸り続ける。患者につけられた電子機器は取り外され、電源は落とされ、機械音を発するのを止める。家族たちは病室の外へ出て行き、医者たちも散っていく。看護師は患者をベッドから切り離し、どこかへと運んでいく。隣のベッドの患者は何処かへ行ってしまった。

 人工呼吸器をつけられ喉を奪われ、体はベッドに縛られ、体中を機械に繋でいる。そんな状況な患者ばかり、この病室にはいる。彼らは自身の死を感じ、それを受け入れ、普段は静かに大人しく諦観の雰囲気を漂わせながら、輝きを失った瞳をただ天井に向けている。それでも、一度体にほんの些細な痛みが走るだけで、体にほんの些細な違和感を覚えるだけで、彼らは音を立て始める。
 幸いなことなのか、私は父のそのような姿を見たことがない。少なくとも私や家族の前で彼は甘えるような態度も、取り乱すようなこともなく、ただ静かに穏やかに瞳を私たちのほうに向ける。いや、入院するずっと前から、いや、私が物心ついたころから彼が取り乱したところをみたことがない。確かに彼も私の悪行に対して怒ることもあるし、母に対して理不尽に怒ることもあった。楽しいことがあれば笑っていたし、悲しいことがあれば悲しんでいた。酒が入れば酔っ払い、大きな声で下手な歌を歌っているのを聞いたこともある。それでも、すぐに彼は素面に戻り、平静を取り戻し、威厳のある父親に戻っていた。

 数ヵ月後、彼は死んだ。元々死ぬべきだった命、それを延命処置によって生かされていた数ヶ月だったが、彼は何を思っていたのだろう。親戚の人たちは、みんな彼は幸せだったと口々に言う。天寿を全うし、幸せな家族に囲まれて臨終出来たことを幸せだったという。実際には私は臨終の場面に立ち会ってはいない。確かに彼から人工呼吸器を取り外す瞬間には立ち会えた。だが、職場から急いで彼の元に辿り着いたときには、すでに彼の意識は無かった。結局、彼に私は謝ることできなかった。あの場で水を飲んだことを。

 葬式も終わり、彼はすでに灰となって、墓の下にいる。秋は九月、墓地へ車を走らせる。駐車場から少し離れた位置に彼の墓はある。秋晴れというやつなのだろうか、太陽の輝きは強く、長袖を着ていること後悔させるほど暑い。乾燥した空気が肌に触れる。車を駐車場に止め、車内で煙草を吸う。ゆらゆらと揺れる煙が開けている窓から出て行く。医者の話によると彼は死の直前、体中の器官という器官が軋み、グラつき、壊れかけていたらしい。それでも彼の心臓は生かされるために酷使に耐え続けていたという。彼はまるで短距離走者のように全力で疾走し、長距離走者のように走り続けている状態であったらしい。
 途中で買ってきた、あの日と同じペットボトルを握り締める。ペットボトルの中の水はすでにヌルくなっていた。扉を開け、外にでる。日差しはいつまでも強い。花も買わず、桶も持たず、私は彼の元へ走り出す。彼の元への距離など考えもせず、ただ今走れるだけの速さで駆け出す。元々山を切り開いて作られた墓場の途中には、幾つもの坂がある。幾つ坂を駆け上がったあとだろうか、三つだろうか、いや二つだろうか、若しかしたら一つ程度なのかもしれない。坂を昇ったところで、息が切れ始める。荒くなる呼吸、体の節々が痛い。それでも私は走り続ける、走りにつれて呼吸が荒くなる、そのたびに私は速度を上げる。ペットボトルを握り締めている力が徐々に抜け始め、手の汗とペットボトルの周りについた水で滑り、落としそうになる。その度に力を入れなおし、ペットボトルを握り締める。あと少しというところで、足がもつれ始める、それでも私は走り続ける。石で出来た階段を駆け上がり、砂利を踏みしめ走る。
 彼の墓の元に辿り着く。息は完全に上がっていた、呼吸することすらままならない。彼の墓石である大理石は乾燥し、太陽の光の下で輝きもしなかった。握り締めていたペットボトルの中にある水を喉が切実に求めている。私はペットボトルの蓋を開ける。そして、墓石に向かって水を盛大にぶちまける。乾燥していた墓石の一部が水によって輝きだす。もう一度ペットボトルを右から左に向けて勢いよく動かし水を墓石に投げ打つ。私の顔にはいったい体の中のどこにあったというのか、涙とも汗ともつかないような水がただ流れていた。残ったペットボトルの中の水を墓石の上にかける。水は墓石から流れ落ち、墓石の周りの砂利に流れ込む。水を含んだ砂利が虫の鳴き声のようなか細い音を立てる。最後の一滴まで、彼に水を浴びせる。最後の一滴まで彼に水を。だが、墓石に水が染みこむことなどない、ただ水は墓石を流れ落ちる。
 ペットボトルを彼の墓石の上に逆さまにしたまま置き去りにし、私は再び走り出す。少し太陽の光が弱くなっていた。西から雲が流れてきたのだろうか。雨の降る予感がする。今度は秋の長雨だろうか。

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