FC2ブログ
さらし文学賞
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |


まあ、つまりそういうことだ

「だから、やめたほうがいいと思うのですよ」
 会って間もない向かい側に座る女は、熊避けの鈴のような声で男にそう宣言した。大きな木目をアクセントにする重厚な卓を中央に据える、十二畳の和室。二人で使うには広すぎるほどのその部屋で向かい合う男女は、出会ってから二人きりになり、特に語ることもなく五分以上沈黙していた。
 女が沈黙の後にわずかにもらしたその言葉に、男は机にばかり向けていた視線を上げて、初めて女の顔を見た。女は憂うでもなく喜ぶでもなく、事実を伝えているだけの事務的な表情だった。スーツでも着ていれば少しは様になったのだろうが、彼女が着ているのは赤い着物であり、髪は洒落た茶髪の女子大学生もビックリするくらいの豪快な盛り上げようである。彼女に華やかさを求めるのであれば服のほうにまず目が行くはずだが、今の男にとってそんなことはどうでもよかった。着物は元より、女の華やかさにも興味はない。
 彼女は今し方、男を見据えてはっきり述べたらしい言葉に悪びれもせず、再び明瞭でよく通る声を部屋に響かせた。
「やめておいた方が、あなたのためだと思うのです。もともと、私も気の進む話ではなかったのですよ。どうせあなたも、親に勧められて来ているのでしょう?」
 これは一応返答をすべきだろうか、と考え、男は首を縦に振る。女も、ほら、予想通り、とばかりに男を見つめる。やがてため息をつくなり「でしょうね」と言って、窓の外へと視線を移す。女は何もかもがつまらなさそうな顔をしていた。男はそれを見つつ、懐からラベルのないペットボトルを出して、その中身を口に含む。

 話が持ち込まれたのは九月もあと一日で終了というずいぶんと中途半端な時期だった。親の建てた会社を引き継ぐために宛がわれたマンションの一室に男が帰宅すると、ほとんど使われていない固定電話のランプが、闇の中で緑色に点滅していた。何事かと思って近寄ってみると、どうやら留守電を預かっているらしかった。男が確認ボタンを押すと、ピーッと甲高い音が鳴り、スピーカーの音を数秒の沈黙が覆い隠した後、もしもし、とくぐもった声が聞こえてきた。男の父親だった。
 父親は男に何の説明もなく突然その場で、2ヶ月後にある見合いに出席するように、と告げた。場所は郊外にある広い庭付きの和風料理屋。相手は自分の会社の下請けを行っている中小企業の社長の娘。与えられた情報はそれだけだった。最後に、希望があれば相手の顔写真も送るので折り返し電話するように、と言っていたが、男はさして興味もなかったのでその後父親とは何の連絡も取っていない。
 男は相手が誰であれ、自分に好意を抱くことはまずないであろうと思っていたし、そう思っていたからこそ、自分も相手に好意を抱くことはないであろうと思っていた。現に今まで生きていて、他人を必要とするような機会に恵まれたことがなかった。他人が自分を必要としてくることはあったがそれも仕事や勉強などの一時的なものであり、そうして頼られる度、どうしてこの程度のことも出来ないのかと内心思っていた。が、それを口に出すことに何のメリットがあるわけでもない。とりあえず適当に時間をつぶすだけの日常が男にとっての人生であって、すべてであって、それに対しても特に何の感想も沸かない。そうして三十年という時間をすごしてしまったから、遂に会社の存続を危ぶんだ父親が結婚相手を用意したのだ、としか言いようがない。道理は通っているし、事実そうなのだろう。それが定めだというのなら、男はそれに従うまでだった。今更相手が誰であろうと関係ない。

 そうしてつれてこられた、この和風料理屋。顔を合わせてみれば女も似たような状況らしく、まるでこの世の終わりとばかりに目を伏せて黙り込んでいた。しかもいざ口を開けば、自分とは結婚しないほうがいいであろう、と言う。忠告なのか、本気でそう思っているのか、いまいち真意はわからない。相手に興味のない男からすれば、穏便に事をすませたかったのだが、このままでは女が断固として対話を拒否し続けるであろうことを察し、男は女に言葉を返す。
「俺たちに選択権などない」
 女は窓を見ていた瞳を再度男に戻す。首の動きに合わせて結わえている髪がわずかに揺れる。
「正直、相手が誰であっても、あまり興味がない」
 女は露骨に眉をしかめた。その表情からは、仮にもこれから一つ屋根の下で暮らすことになる生涯のパートナーに(あるいは今それとなりうるはずの女本人に)面と向かって興味がないなどと平気で言い放つ男に対する軽蔑が見て取れる。だが男はそんな彼女の胸中など意にも介さないというようにそれ以上何かを告げることもなく、また黙る。女は何か言いたげな顔をして唇を噛んでいたが、やがて諦めたように息を吐く。
「わかりました。そこまで言うのならば、もう結構です。あなたがどう思おうと、私は何も言いません。しかし……」
 女はそこで言葉を切った。ふと、また窓の方へと視線を移して、つぶやくように言った。
「事実は知っておくべきです。これは私やあなたがどう考えていようと避けることなどできません。事実はありのまま、受け止めなくてはいけないのです」
「何を言っている」
 女の意味深な言葉の真意を測りかねて、男は今まで崩さなかった表情を疑問の形にゆがめた。今度は女が男の言葉を無視して、座っていた座布団から立ち上がる。視線を外に向けたまま、きわめて静かな声で、彼女は男に言った。
「外に出ましょう」

 深まった秋も時期に終わりを迎える11月の下旬。
 木造を模した外壁に身を包む和風料理屋の中心には、直接青空を望むことのできる吹き抜け構造の下に、人が悠々と散歩できるほどの庭園が設置されている。縁側から足を伸ばせば黒白の小石を敷き詰めた庭が目に入り、その先には三メートルほどの石畳が続く。そこを通りぬけると、あとはひたすら樹海と見紛うほどの深い緑が広がっている。実際には背の高い樹木は数本しかないのだが、自然に任せて下草が伸びているので光を通して見るとあたかも庭全体に相当な奥行きがあるように見えるのである。
 女に導かれるまま、男はその箱庭を彷徨った。女は着物を着ていて動きにくいはずなのに、なぜかスーツに身を包む男よりも早い速度で歩いていた。おかげで少しばかり追いつくのが大変だった。女は玄関を抜けて庭園を不規則に進み、五分くらいしたところで、不意に、この辺りかしら、と言って足をとめた。立ち止まったのは、アーチを描く朱塗りの橋の上だった。下は聖域のように静かな池がひっそりと広がっており、その水の中で二匹の錦鯉が優雅に尻尾を振らして泳いでいる。
 男は女が足をとめたのを確認して、懐からペットボトルを出し、口をつける。
 女は橋の上からきょろきょろとあたりを見回していた。何かを探しているのか、妙に落ち着きがない。池を覗き込んでいる、というわけではなく、その視線は寧ろ宙を漂っている。女自体には興味のない男であったが、こうも理解不能な行動ばかりされるとどう扱っていいか迷う。女が橋の欄干から身を乗り出して落水しないことを祈りつつ、男はゆらゆらと尾を振る錦鯉を眺めていた。
「先ほど言ったことですが」
 女が不意に口を開く。男は無言に徹する。
「おそらくあなたは今から信じられない光景を目にすることになると思います。しかし、それは紛れもない事実です。事実であるからこそ、あなたがそれを受け入れられなければ、私としてもあなたについていこうとは思えない」
 何を言っているのかさっぱり理解できなかったが、別に理解しようとも思っていなかった。女は聞いているのかいないのかわからない男に向かってそのあとも少し喋っていたが、やはり雲を掴むような話で何を言っているのかわからない。その中でもかろうじて理解できたのは、今から女があることをする、それは常識を超えていて、それを受け入れなければ女は結婚を断固として拒否する、ということだけだった。
 男は女が何を言いたいのか、選択権がないと言っているのにこれほどまでに自分に忠告し結婚を諦めさせようとするのはなぜなのか、わからなかったがとりあえず成行きに任せてみることにした。男は黙り、女の行動をぼんやり眺める。女は暫くじっと、何もない空間を見つめていた。空気でも捻じ曲げるのか、いや違う。池の向かい側にある木を、超能力で動かして見せるのか、いや違う。彼女が言ったことを男が理解したのは、女の前を、一匹のトンボが通り過ぎた時だった。その瞬間、女は人差し指をすっと目の前に持ち上げて、そのトンボを指に止まらせると--目にもとまらぬ速さで胸からピンと伸びた網のような翅を掴み、そのままトンボ身体を持ち上げて、口の中に放り込んだ。
 男は目の前の光景をどう解釈していいのかわからず思考を停止させた。女はその間にも生きたままのトンボを歯で噛み砕き、あまつさえ咀嚼するような形で顎を滑らかに動かしている。口腔に入りきらずに唇からはみ出したトンボの翅が、その律動に合わせて彼女の鼻の前でわずかにぴくぴくと動いた。それは男に、以前どこかで見たトカゲがハエを捕食する光景を想起させた。あの時も、確か捕食動物は被捕食動物を音もなく食べていたものだ。今の彼女も、無言でトンボを噛んでいる。昆虫の足はいくつもあるが、そんなものの爪に刺されて、舌や歯茎は痛くはないのだろうか。
「驚いたでしょう」
 やがてトンボの翅までも煎餅と同じようにパリパリと平らげた女が、男の方を見て言った。男はやはりどう返していいかわからず、また懐に忍ばせたペットボトルを取り出して、それを煽る。
「外国では虫を食べる文化もあると聞きますが、何でも食べる、というわけではありませんしね。私の場合でしたら、毒のある虫以外だったら何でも食べられますよ」
 トンボだけではなく、アリとか、カマキリとか、蝶なんかでも問題ありません、結局は全部、動物性たんぱく質ですから。女は淡々とした調子で述べる。そのあとに、どうしてこんな身体になってしまったのかということを切々と語り始めたようだったが、男はそれを右から左に聞き流した。正直そんなことはどうでもよかった。
「……ですから、私とお見合いをしても、あなたが不幸になるだけだと思うのですよ」
 女は話の最後にそう締めくくって、男をしかと見つめた。その態度には彼女なりの誠意と遠慮、そして多少の躊躇いが見て取れたが、すぐに視線の強さがそれらを全て覆い隠してしまった。
「親同士が決めたこととはいえ、いくらなんでもこんな女と縁組をさせるほど、あなたのご両親もモノグサではないでしょう。ましてや、あなたの家は大企業、こちらはその下請け。私の噂が流れたら、おそらくあなたの会社にとってはマイナスにしかなりません」
「一つ聞きたいんだが」
 女が一方的にまくしたてるのを遮って、男は突然片手を胸の高さまで挙げる。
「結局、あんたは、どう思ってるんだ」
「どうって」
 女は当然、というように声を少し荒げる。
「そんなの、結婚しない方がいいに決まってます。あなたにご迷惑です」
「だから、俺のことはいいから、あんた本人としては。このままその訳の分からない体質で他人と距離を取って、誰にも寄りかからず、一人で生きていければそれでいいのか」
 それは、と女は口ごもった。何か言いかけたが、それはうまく言葉に乗らず、彼女はそのまま目を伏せ、何か思案し始めた。男はふむ、と鼻を鳴らしてまたあのペットボトルを取り出した。それから当たり前のようにそれにまた口をつける。
「あの」
 しかし今度はそれを飲み下す前に、女に声をかけられた。中身と入れ替わりに空気がごぼごぼと音を立てるペットボトルを上向きにさせたまま、男は女に視線を向ける。
「話は変わりますが、その中身、何なのですか?」
 男が話の合間に夢中で飲んでいるのを見て、さぞうまい物なのかと思ったが、ラベルがないので先ほどから気になっていたらしかった。男はああ、これ、とペットボトルから口を放して、言う。
「これはその、なんだ、あれだよ……洗剤、という奴だ」
 それを聞くと、女は不意に目を丸くした。何を言っているのだ、こいつは、という視線が遠慮なく男の体を射抜いた。男はどう説明していいかわからず、とにかく無表情に徹することにした。
「あんたはさっき、毒虫以外なら食えると言ったが、俺も似たようなものだ。一応中性洗剤なら飲める。PHが極端に偏っているのは飲めんがな」
 女の頭にクエッションマークが浮かんでいるのが手に取るようにわかった。虫が食えると宣言するのもさぞ勇気がいることだろうが、その勇気をこんな形で返されるとは思ってもみなかったのだろう。男もまさか、たまたま初めての見合いで顔を合わせた相手が、このような者だったとは思ってもみなかった。
「まあ、つまりそういうことだ」
 男は自分でも何が言いたかったのかわからなかったが、そう言い置いて女の肩をポンと叩いた。呆気にとられた女は、男の言葉にすぐに反応出来なかったが、数秒するとはっと我に返った。女がその間、何を思ったのかは分からない。しかし、呆然とする女を放置し、来た道を引き返そうとした男の背中を、女は慌てて小走りに追いかけてきた。女の履いていた厚手の草履が歩く度にカラカラと音を立て、やがて、その足音が男に追いつく。二人はやはり暫くの間沈黙していたが、それは先ほどまでの無関心や気まずさとは少し違った空気を孕んでいるような気がした。隣で小さな歩幅で歩く女が男に肩越しに、声のトーンをやや高めにして、尋ねた。
「私たちみたいな人のこと、ことわざでなんて言うんでしたっけ」
「さあ、俺は教養がないのでよくわからんな」
 それが大企業次期社長候補の言う言葉ですか、と言って、女はこの日初めて笑った。

スポンサーサイト

第十九回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


迷惑なバスジャック

 折しも世間はお盆休暇。行楽地に向かう人や、実家へ里帰りする人などでどの交通機関も連日混雑が続いていた。特に、最近の政策の影響か、高速道路では渋滞が多発していた。車での移動において渋滞ほど嫌なものはない。毎年車で帰省する人にとっては悩みの種である。
 そして、それは高速バスでも同じであった。格安で遠隔地に移動できるので、貧乏学生の帰省手段として重宝されたりする。東京と名古屋を結ぶこのバスの車内でも、それらしき客がちらほらと見受けられた。席はほぼ満席。東名向ヶ丘から高速に入り、しばらくして渋滞にはまったのだ。
 だが、いらついている雰囲気はなく、友人と談笑する者、本や新聞を読む者、仮眠する者など、みな思い思いのことをして過ごしていた。時間はかかれど、このまま何事もなく休憩がとられる足柄に到着する予定であった。

「動くな」
 雑然としていた車内に、突如として緊張感が走った。バスの最前列に座っていた男が立ち上がり、ナイフを突きつけたのである。その切っ先は、隣に座っていた女性客の首筋に向けられていた。
 こんなシチュエーションは、ドラマの中だけと思いこんでいる乗客がほとんどであった。まさか、自分が犯罪に巻き込まれるなんて思っちゃいない。男の気違いだと決め込み、無視しようとしている者もいた。
「騒ぐんじゃねえ」
 ざわついていた車内が一瞬で静かになった。その怒気もさることながら、目が血走り、体を小刻みに震わせている。ただならぬ雰囲気に、これは芝居でも何でもなく、現実の出来事だと、乗客は合致した。
 この非常事態に対し、まずやるべきは警察への通報。そう考え、携帯電話に手を伸ばす者もいた。もちろん、運転手も異変に気づき、行き先表示を「異常事態」に変更しようとしていた。だが、
「余計なことはするな。大人しく、俺の言うことを聞け」
 叫び声に圧倒され、携帯電話を操作する手がとまる。しかし、運転手の手を止めるには、タイミングが遅かったようだ。男は判断しようがなかったが、この時バスの行き先案内は、ばっちりと異常事態を告げていた。
 男の言うことなど聞かずにさっさと警察に通報すべきなのだろうが、自分がきっかけで人の命が奪われるとなると目覚めが悪い。なので、男の言いなりになり、みな何も手を出せずにいた。そのため、バスの中には異様な沈黙が漂っていた。
「き、君の狙いは何だ」
 震える声で運転手が尋ねる。乗客一同、男の返答を固唾を飲んで見守る。男は振り返って運転手を見据え、こう言い放った。
「できる限り早くサービスエリアに行け」
「サービスエリアですか。予定の足柄までだと三十分以上かかりますが」
「なにをとぼけたこと言ってるんだ。一番近くのサービスエリアでいい」
 取り乱した声で男はわめき散らす。バスは先ほど伊勢原バスストップを通過したばかりであり、次のサービスエリアは予定どおりの足柄までない。道路が空いていれば三十分強で着くのだが、いかんせん前の車が動いてくれないので、いつになるのか分からない。途中でバスストップなどが存在するが、男の要求に従い、目的地を足柄に設定した。
とはいえ、車の列は動く気配がなく、望んでもいないのに膠着状態が続いていた。重圧に耐えきれず、仲間内でひそひそ話をする者もいたが、さすがに男に取っ組みかかろうとという無謀なものはいなかった。また、男も乗客のざわつきが大きくなりつつあるのを気にとめていないようだった。
 外からクラクションが鳴り響く。「異常事態」の表示に対し、様子を探るために後方の普通乗用車が鳴らしたものだった。クラクションで答えたいが、男に救助を求めていることを感づかれては元も子もない。なので、ハザードランプを点滅させて、返事の代わりとする。
 しかし、クラクションが鳴った時点で、男は嫌な予感をしていたのだろう。
「おい、余計なことはするんじゃねえ」
 運転手に吠えかかる。運転手はすくみあがったが、男はさらなる行動を起こす気配はない。
 やがて、少しずつではあるが、車の群れのスピードが上昇しだした。所要時間案内の掲示では、この先渋滞を示す赤字はなかったはず。渋滞によるタイムロスは十五分ぐらい。ともかく、なるべく男を刺激しないように行動には注意しなくてはならない。運転手はそう決心し、ハンドルを握る手に力を込める。
 しかし、順調に走りだしてから数分後、男は予想外の提案を持ちかけてきた。
「あの中井というところに止まれ」
「中井ですか。あれはパーキングエリアになりますが」
「どうだっていい。とにかく止まるんだ」
 訳が分からなかったが、事態は良い方向に転がったと言っていい。男が示した中井パーキングエリアは駐車待ち渋滞がなさそうであるし、何より足柄よりもはるか前方。この緊急事態の早期解決が望めるのだ。
 バスは即座に左車線へ路線変更し、中井パーキングエリアの入り口を目指した。バスの走行速度からして、到着は約三分後。このまま事態は動かない。そう信じていた。
 しかし、男のあまりに傍若無人な態度に、いつまでも黙っていられるわけがなかった。男がただ喚き散らしているだけで、隣の女性に対する攻撃行動を起こさなかったことも、この展開を招いた要因だろう。後部座席に座っていたがたいのいい若者が立ち上がり、ずかずかと男の元に歩み寄った。
「な、なんだ、止まれ」
 男は刃物を突き付ける。しかし、若者は怖気づくことなく、男と真っ正面に向かい合った。そして、男の手首をむんずとつかむと、その手に力を入れた。
 その若者は、柔道でもやっているのか、筋骨隆々とした腕を誇っていた。握力も恐ろしいものがあり、男は万力で締め付けられているかのような苦痛を味わった。もちろん、そんな中武器を持ち続けることはできず、その手から凶器がこぼれおちた。
 すると、男と通路をはさんで対称の席にいる乗客が、転がり落ちている刃物を見て目をしかめた。
「これ、もしかしておもちゃじゃないの」
 男を掴んでいる若者も目を落とした。遠巻きだと本物っぽく見えたのだが、至近距離からだと精巧に作られた玩具だと分かる。まさかこんな子供だましに脅かされていたとは。全乗客のうっぷんが爆発した。
 そこから先は、パーキングエリアに着くまで、総立ちで男を責める大喧騒が続いた。運転手は必死にアナウンスでなだめようとするが、数十人の前には無力。もはや、別の意味でパーキングエリアへの到着を待ち望むこととなった。
 中井パーキングエリアの駐車場では、通報を受けて警察官数人が待機していた。おそらく、目標がこのパーキングエリアに到達したとの連絡がなされ、応援が続々と駆けつけることだろう。
 男は、ここで自分の真の目的を明かすはずだった。しかし、詰め寄る乗客の怒声により、なかなか実行に移せずにいた。更に、運転手の方も、警察側の突入準備が完了するまで持ちこたえるよう指示がなされていた。ただ、目を張るスピードで警察官が集まってきており、突入開始が成されるのは時間の問題であった。
 だが、この状況下、律儀に待機していられるほど、運転手の器量は大きくなかった。
「静まってください」
 口調は丁寧だが、ほとんど怒鳴り声に近い勢いで、マイクに向かって叫んだ。バス内をこだまする音響に、騒いでいた者達は一様に口を結んだ。
「ただ騒いでいても仕方ありません。ここは、犯人の要求を聞こうではありませんか」
 それはもっともな判断だが、頭に血が上っていた乗客たちには及びつかなかった考えだった。
 ようやく、犯行の動機があかされる。固唾を飲んで見守る中、男はただ一言発した。
「外に出してくれ」
 これは意外であった。人質を要求されるかもしれないと身構えていたものは、一気に肩の力を抜いた。
 一方、その返答に困ったのは運転手であった。仕方なく、本部に犯人がバス外に出る旨を伝えた。すると、即座に警察にも連絡がいったようで、胸にプロテクターを付けた特殊部隊が、バスの出入り口を囲んでいった。
 そして、運転手がドアを開けた瞬間。男は何かに取りつかれたかのように、外の空気へ突進した。これでようやく目的が果たせる。
 しかし、待ちうけていたのは武装集団の群れだった。男は行方を阻まれ、なすすべもなく立ち尽くすしかなかった。
「大人しくしろ」
「話を聞かせてもらうぞ」
 バス内で繰り広げられていた悪夢が再来した。度重なるハプニングに、よくここまで耐えられたのが奇跡だった。しかし、もうこれ以上あふれ出ようとする黄金のさわやかな液体の放出を留めておくことはできなかった。
 男がどうにでもなれという表情で、股間を濡らしていく様に、さすがの警察も度肝を抜かれた。まさか、武装した集団に恐れをなす小心者だったのか。突然の出来事に対処に困っている警察を尻目に、男は淡々と語り出した。
「……まさか、こんなことになるとは。トイレに行きたかっただけなのに」
 話によると、男はバスに乗った直後に急な尿意に襲われ、瞬く間に我慢の限界に陥った。高速バスにはトイレ休憩があるものの、そこまで我慢することはできなかった。かといって、大の大人がトイレに行きたいなどと言ってバスの運行を妨げるのは気恥ずかしい。そこで、バッグの中におもちゃのナイフがあったのを思い出した。
 実は、この男は玩具製造会社に勤務しており、ナイフはその試作品だったのだ。こうして、バスジャックを装ってトイレに行けば、気恥かしい思いをしなくてすむ。
 そんな男の画策もむなしく、トイレでバスの運行を妨げるよりも恥ずかしい状況に陥ってしまった。結局、威力業務妨害と脅迫罪の疑いで取り調べを受けたが、嫌疑不十分のため、厳重注意で釈放されたという。

第十九回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


| TOP |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。