FC2ブログ
さらし文学賞
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |


過ぎるをうらむ

 今年もまた桜の咲く季節になった。
 この頃は陽光柔らかな、穏やかな日和が続いている。桜に限らず、様々な花が可憐に咲き誇り、様々な鳥が盛大に歌っている。全てのものが新たな季節にうわつき、喜びに満ちているかのようだ。
 明日も今日に負けず麗らかな日和らしい。多少強い風が吹くらしいが、良く桜の花が舞うだろうと思えば、むしろ旅立ちには佳き日となるだろう。
 桜の真白い花が淡雪みたいに降りゆく道を行く彼らを眺めながら、私は何気なくそう思った。明日は私が勤務する高等学校の卒業式なのだ。
 卒業式は卒業生に限らず、教職員や在校生にとっても重要なイベントだ。そのため最近は学校全体がそわそわと落ち着かない。ちょうど春に浮かれる鳥と同じだ。卒業生たちは自分たちが飛び立っていくそれぞれの空に思いを馳せ、教職員は若鳥たちが向かう空に吹く風を思って最後の羽繕いを丹念にしてやろうと思案し、在校生は別れと祝いのさえずりをする。
 ああ、春だな。私は暢気な欠伸を一つした。
 その様子を見ていた私の相棒が非難がましい声をあげた。
「いつまでサボっているつもりですか。早く済ませてしまいましょうよ」
 情緒も何もない非難に私は苦笑しながら振り向く。相棒はぶうぶうと不貞腐れていた。彼は感情がすぐ顔に出る。良く言えば素直なのだが、私に言わせれば彼は子どもなのだ。
「悪い悪い。すぐにやるよ」
「ええ、急がないと日が暮れます」
「でも、ミケ。お前、少しは情緒を解せよ」
 私は「やれやれ」とため息雑じりにそう言った。ミケというのは彼の綽名だ。本名は三家と書いてサンカと読むのだが、これを私がミケと読み間違えた。それ以来三家はミケとなった。実際、小柄だし赤みがかった猫毛だし気分屋だし日向ぼっこばかりしているし、良い綽名をつけたと私は思っている。
「情緒て、本当にツンさんは年寄りみたいな事言いますね」
 ミケは「はあぁ」とため息雑じりにそう言った。ツンというのは私の綽名だ。ミケミケと猫みたいに扱われる事に腹を立てた三家が、腹いせにつけたのだ。ツンは上野公園の西郷サンが連れている犬の名だ。私は本名を西郷という。実際、強面だし薄茶色の直毛だし生真面目だし散歩ばかりしているし、良い綽名をつけたと三家は思っている。
「そもそも情緒と言いますけど、僕らにはあまり関係のない行事ですよね。僕ら、彼らとの関わり希薄ですし。それはもう学食のほうじ茶くらい希薄ですし。ツンさん、どのくらい名前知っています? 僕は生徒会と風紀委員と、あと少しの問題児くらいしか分からないですよ」
「まあ正直、俺もそれくらいだわ。でもさ、一応俺らの勤務先の生徒さんだろう。まったく赤の他人の高校生よりは愛着がわかないか。ほら、見ろよ。お前も日本産なら桜を見れば風情とか情緒とか感じるだろう?」
「僕、あの桜嫌いです。みんな綺麗だの何だの言いますけど、地面に落ちた花を見てくださいよ。泥に塗れて汚い茶色になって、しかもへばりついて。あれ掃除する側には敵以外の何物でもないですよ」
「それを含めて春だろうが」
 私はふんと鼻を鳴らした。
 でも確かにミケの言う事ももっともだ。私たちはこの学校の用務員なのだ。校内にあって教師でも生徒でもない存在なのだ。一応卒業式には教職員に並び出席するのだが、果たしてその席から見える卒業生の顔をいくつ知っているだろう。そして逆に何人が彼らを知っているだろう。
 彼らと共有する思い出らしい思い出もなく、ただ静かに祝うしかない我が身を、私はほんの少しだけ寂しく思った。彼はこの学校の重大なイベントにおいて主役どころか脇役でもなく、ただ舞台を整える黒子の一人に過ぎないのだ。
 今も教師たちや在校生たちが明日に向けて相談を繰り返しているなか、校門から式場までの通路まわりの掃除をしている。昨日整えた芝生を、桜の花びらが散っているからふたたび掃き直したりしている。これが終わったら式場の最終整備をしなければならない。
 やらなければならない事はいろいろある。山積みだ。でもそれは仕事だし、他ならぬ生徒たちのためだから手を抜けない。やらなければならない。半ば義務感を超えて使命感に近いものさえ感じている。でも、少しは報われてもいいと思うのも確かだった。
 こういう感傷的な思考をする辺りがミケの言う年寄りくささなのだろうな。私は心の中だけにため息を吐いて、竹箒を握り直した。
「さあ、続きをやろうか」


 そして卒業式は恙無く執り行われた。
 校長や理事長はとっておきの、彼ら一流の教訓話を長々と熱く語った。大抵の生徒たちはやはり辟易としているようだったが、何人かは真剣に耳を傾けていた。きっとあの長話さえ青春の記憶の中に刻み込もうとしているのだろう。私も色々なものを記憶に刻もうとした覚えがある。心の中の琥珀色のつやつやしたものを改めて感じ入った。
 最後、卒業証書授与の際となって、一人一人名前を呼ばれていく。何人かはやはり目に熱いものを湛えていた。めずらしく男子の中にもそのような子がいた。私の隣に座っていた初老の美術教諭もそれに気づいたらしく、小さくほうとため息を吐いていた。何か感じ入る処があったのだろう。卒業生退場に際して彼は惜しみない拍手を送っていた。
 式場を揺らすほどの万雷の拍手。彼らは大いに祝福されている。彼らは大いに祝福している。
 私の胸には素晴らしい歓喜や感動に隠れて、やはり虚無感にも似た、疎外感のような、寂しさがわずかにいた。


 卒業生に続き来賓が退場し、父兄らが退場し、在校生が退場し、教職員が退場し。式場はがらんとしてしまって、寂莫とした独特の空気に支配される。それは心をじくじくと侵食するものらしく、何とも言い難い感傷的な感情がぐるぐると胸を圧すのだ。もう何度も何度も味わったものだがいまだになれない。それらを一緒くたに捏ねまわし、黒い粘土の塊みたいにしてため息と混ぜて吐きだすのが私の儀式だった。そして私は仕事にかかった。
 卒業式が終わったらすぐに式場を元に戻さねばならないのだ。座席等々は備えつけのものだから、幕や花飾りなどを片づけるだけの簡単な仕事には違いないのだが、皆が別れの挨拶をしているだろうなか仕事をしなければならないのは悲しい。だが仕事には違いない。
 私は黙々と片づけをしていった。

「御帰りなさい」
 ようやく片づけを終えて用務員室に戻ってみれば、一足先に戻ったミケが畳の上に寝そべっていた。生徒たちが使う教室の六分の一ほどもないこの部屋は、下足を置く僅かな隙間を残して後は畳敷きとなっている。基本的に用務員が休息するために設けられ、その意匠など一切の権利は用務員の私に与えられているため、和風趣味の私がこうした。仕事道具は隣にある用務準備室という部屋に置いてあるため、備品は少ない。小さな卓袱台と茶箪笥、茶器、ラジオ、それと二枚の座布団だけだ。
 ミケは座布団を折って、抱き枕みたいにしてぎゅうぎゅうと戯れていた。
「一応卒業式関係は終わったけれどな、一般業務はいつも通り行うぞ」
 久々に締めたネクタイを寛げながら私は厳しく言った。そう、卒業式場の片づけを終えても今度は校舎の見回りをしなければならない。備品の不備、戸締りの確認、それと正門付近の簡単な掃除、やる事はまだまだある。生徒や教師は今日はあと名残を惜しむばかりだが、用務員には関係のない事なのだ。
「えー、少し休憩しましょうよ」
 だらだらまろびながら愚痴を言うミケの腰の辺りを軽く蹴飛ばしてやる。ミケは「なぁあ」と不機嫌そうに鳴いた。
「定時上がりしたいだろう」
「今日はいいですよ。どうせ何処も彼処も、後輩たちと屯して送別会でもしていますよ。彼らが帰るまで戸締りとか出来ないでしょう。それに昨日ツンさん言っていましたよね、情緒を解せ、て。彼らの思い出作りの邪魔をするのは無粋ですよ」
「サボるためとなると途端に正論を言うな、お前は」
 呆れながらどかりと隣に腰を下ろした。
「でも確かにそうだな。見回りは夕頃からにするか」
 時計をちらりと見遣ってから、インスタントコーヒーの瓶を手にとった。ガラス瓶はもう随分と軽くなっている。そのうち買い足さなければならないが、面倒な事だ。
「僕はミルク多めがいいです」
「はいはい」
「砂糖は二本がいいです」
「はいはい」
「はいは一回ですよ」
「はいはい」
 すっかり慣れきってしまった遣り取りをいつも通りに繰り返す。そしてすっかり慣れきってしまったコーヒーの用意をいつも通りに繰り返した。見ればミケもいつも通り、寝転がったまま茶箪笥の中を請菓子求めて探っていた。
「あれ、もう煎餅しかないや」
 ガサガサとビニールの包装を喧しくさせている。その間、私はコーヒーメイカーの、黒い滴がぽとりぽとりと落ちていくのを眺めていた。最後の最後の一滴が落ちるまでは待たなければならない。その最後の一滴にこそ旨さが詰まっているのだ。ぽとりぽとりという規則正しい音がやっと尽きる頃になってようやくミケは菓子を諦めたようだった。
「ツンさん、甘いの、ない」
 なぜか泣きそうな顔をしている。半ば愕然としているようでもある。三家の甘いものに対する執着はきっと幼児と同等くらいある。そして甘いものに対する姿勢もきっと幼児とさして変わらない。つきあいが短くない私はいかにも呆れた顔をした。
「はいはい」
 適当に相槌を打ってミルクたっぷりのコーヒーを差しだした。いや果たしてそれがコーヒーと言えるのかは微妙だ。なにせ九割ミルクなのだ。根っから甘党の上、牛乳を好む彼の「もっとミルクを多く」という要望に答えているうちにこうなった。しかも今回はシュガースティック四本分の砂糖を混ぜてある。三家は茶請の無い時は甘味代わりにシュガースティックをさらに二本追加するのだ。
 対極的に甘いものが苦手な私はエスプレッソをなめつつ、ミケのコーヒー風味砂糖ミルクからただよう強烈に甘いにおいに「うへえ」と舌を出していた。
 ミケの退いた茶箪笥から濡れ煎餅を詰めたアルミ箱を取り出した。良く三家から「変だ」と言われるが、私はコーヒーの請菓子に甘いものより塩辛いものを好む。特に煎餅を好む。確かにあまり一般的な組み合わせではないと認めるが、ミルク風味砂糖コーヒーをなめる舌馬鹿猫よりはましだと思っている。
、ミケは「ツンさんだけズルイ」と目を吊り上げた。私だけ菓子がある事に不満なのだ。彼はコーヒーと煎餅を組み合わせない。しかし彼の食べる甘味も含めて茶菓子を買ってきているのは私だ。自身管理しないのにズルイとは何事だと私はいきりたったが、それを口に出す事はなかった。いつか「ツンさん、オカンみたい」と言われた事を思い出したからだ。黙って煎餅を噛みしだいた。
「ツンさん、どうせ夕頃まで暇なら買ってきてくださいよ」
「嫌だ。どうして俺が」
「うう、甘いの食べたい」
「家まで我慢しろ」
「ツンさん、見回り行きましょう」
「まだ早いだろう。きっとまだまだ送別会をしているさ。酒の代わりにジュースを飲み飲み、お菓子をもしゃもしゃやっているだろうよ。そういや、調理部とかはホールケーキでも作るのかな」
「うう、ツンさんの鬼」
 不機嫌そうに口を尖らせて、ずるずると音をたててコーヒーを飲む様は本当に幼児のようだった。喧しいとは思うが、どうせ注意しても「お菓子、欲しい」とかくらいの反応しかしないだろう。
 勝手な推測だが、ありありとその様を想像出来る事に私はため息を吐いた。親子か夫婦かのようだ。まあ悪い気はしないが、良い気もしない。だが最近の私の人生には、私の他には三家しかいないという事実を私は改めて認識した。
 見合いでもしようか。さもなければ私の人生は空しいものになってしまいそうだ。嫌な考えだが、もし私より先に三家が結婚するなどという話にでもなれば、きっと私はみっともなく嫉妬するだろう。もしかしたら発狂するかもしれない。本当にただ一人残されるのは嫌だ。
 私はミケを見遣った。コーヒーを飲み干したミケはカップの端に歯をたてて、カチリカチリと騒ぎ立てて不満を表していた。喧しい事この上ない。こいつに嫁がくるというのは、失礼とは思うが、ちょっと想像がつかなかった。
 同じくコーヒーを干していた私は煙草を吸おうとポケットに手を入れた。この高校は最近の喫煙者に優しくないご時世に対して、意外とそのところに鷹揚だ。一応校内禁煙となっているが、たとえば連絡屋上通路やベランダならば校舎の外側だから喫煙可、と頓知みたいな暗黙の了解がある。実際、真昼の蛍が顔をつきあわせては、ばつがわるそうに、だが常より煙が美味いと言うように頬を緩ませている。
 しかし今日は運がない。卒業式に参加するため、普段は着てこないスーツなど着てきたものだからポケットに煙草を忍ばせるのを忘れてしまっていたのだ。どうしようもない。私はポケットの中にあった小さな埃をつまみだし、屑籠に吹いて落とした。
 不思議なものだが、吸えないとなると益々吸いたくなる。別に私は甚だしい愛煙家という訳でもないが、それでも渇望というのに似るほどの欲求がわきだしていた。カチリカチリとミケがうるさいのも、その気持ちを助けた。
「コラ、ミケ。行儀が悪いぞ」
「……お菓子、欲しい」
「わかったわかった。買ってきてやるから大人しく待っていなさい」
 そう言って私が腰を上げるとミケは笑った。しかし子供みたいにぱあっと笑うかと思ったのだが、ニヤニヤとどこか悪戯ぽい笑みだった。
「いってらっしゃい」
 もしかしたら、菓子を口実に煙草を買いに行こうという私の魂胆を見抜いていたのかもしれない。


 一番近くのコンビニは歩いて十分ほどの処にある。買うものがはっきりしているのだから普通に行って帰ってくれば三十分もかからない。だが私はその日、妙なセンチメンタリズムに襲われて一時間以上を要した。帰りの道中、ふと桜並木に心を奪われたのだ。
 天気予報通りの強風に桜の花は儚く、そして盛大に散っていた。燦々と照る陽光に煌き閃く薄色はまさしく桜吹雪というのに相応しい様だった。自然、それを眺める私の心内もまた凪ぐべくもなく、春風に煽られさざめいていた。だがそれは春を慶ぶ享楽的な感情でも春を儚む耽美的な感情でもなく、得体の知れない切なさによるものだった。
 桜は季節の移ろいを感じさせる。私はそれに今日巣立っていった卒業生たちを写し見たのだ。鳥も虫も草木さえ変化していくというのに、わたしはいつまで同じ事を繰り返すのだろう。なぜ私は変われないのだろう。
 私は心の空隙を満たすため、買ったばかりの煙草に火をいれて紫煙を胸一杯に吸った。せめて、この一本が灰となるまで待とう。それから帰ろう。どうせ夕暮れまでは時間がある。
 そして私は突っ立ったまま、紫煙を吹かして桜を眺めていた。
 何度か、衝動的に桜の枝に腕が伸びた。折取ろうとしたのだ。だが罪悪感というのか常識というのか、そのようなものによる不快感が邪魔して私の指が桜を掴む事はついになかった。
 感傷に浸る人間は時間にも流されやすい。ただ呆として、気づいた時には唇の端にひっかけていた煙草はとっくに短くなっていた。ふと足元を見遣れば、地面に散っていた桜の花弁の上に灰の塊が落ちていて、それらを茶色く焦がしていた。緩慢に、吸いさしと併せて踏みつけ捩じり消した。薄桜色の絨毯の一端は、無残に汚れてしまった。
 火の消えた吸いがらと、それが汚してしまった一端を私はしばらく眺めていた。
 しばらく眺めてから吸いがらを拾った。焦げついた花弁が何枚かついてきた。私はそれをぞんざいに払い、吸いがらをビニール袋に仕舞った。
 桜並木の隧道を再び歩く足取りは、随分と重くなっていた。


「西郷さん」
 校門をくぐった時、私は突然呼びとめられた。呼びとめたのは教頭だった。どこか非難する調子があったため、私は神経質なところのある彼を刺激しないよう極力穏やかに「はい」と答えた。
「あなた、どこに行っていたのですか。探しましたよ」
 どこに行ったのか、そう訪ねる彼の目には私の手にぶらさがるビニール袋を確かに捉えている。煙草も菓子袋も透けて見えてしまっていた。これは言い訳出来まい。私は余計な事は言うまいと、ただ「すみません」と言って頭を垂れた。
 教頭も卒業式後の雰囲気に浸っていたのか、いつものように怒る事はしなかった。ただ憮然として「気をつけて下さい」と注意するだけだった。
「まあ今日気が緩むのは仕方ないですが、用務員室を空にするのはどうかと思いますよ」
 だが厭味なところはかわらないようだ。こういう手合いにはひたすら謝る方がいいだろう。私は「すみません」と繰り返した。繰り返したが一つ気になる事があった。用務員室にはミケの奴を残していたはずだ。教頭の神経を逆撫でしないように注意しつつ、それを問うてみた。
「あなた……」
 注意したはずだが、どうも私はそういうのが苦手らしい。教頭は開いた口が塞がらないというような顔をして、私をにらみつけた。誰もいなかった、人の所為にするな、今にもそういう事を言い出しそうだ。だが彼は何も言わなかった。怒りのあまり二の句が接げないのだろうか。ただ黙って、けれど何か言いたそうに口をぱくぱくとやっていた。
 このままでは進まない。仕方なく私は謝辞を重ねながら何か用かと尋ねた。そうしてやって教頭はようやく正気を取り戻したらしく、ごほんごほんと大仰に咳払いをした。
「こちらに来てください」
 いかにも冷静を装ってはいるが、やはり怒っているのか、彼は言うが早いか大股に歩きだした。仕方なく私はそれを追った。
「これを見てくださいよ」
 憮然として彼が指示したのは、一匹の猫の死骸だった。赤みがかった毛が血に濡れて、さらに赤く染まっていた。いや毛を染めてもなお余るそれは、地面に散っていた桜の花弁も汚らしく染め上げていた。鉄臭い酸鼻なにおいがツンと私の鼻をさした。
 駐車場の端に転がっているあたり、誰かが過って轢いてしまったのかもしれない。
「お願いしますね」
 教頭はそれだけ言って校舎の中に消えてしまった。何をお願いされたのだろう。いやこの屍骸を処理しろと言われた事くらいは理解できるが、もう少し言いようは無かったのだろうか。そしてもう少し言うべき事は無かったのだろうか。この猫を悼む気持ちは無いのだろうか。邪推だが、晴れの日によくも、そのような気持ちがあったのかもしれない。


 私は猫を桜の木の下に埋めてやる事にした。
 誰もが春に生を謳歌するなか、命を落としてしまった猫に憐れみを覚えたからだ。土に還り、桜の木の栄養となり、来年にはこの花吹雪の一部となればいいな、そう思って埋めてやろうと考えたのだ。もし本当にそうなれば、彼はまた生を謳歌出来る。
 いや感傷が過ぎたかもしれない。
 もしかしたら、私は彼に私を重ねてみたのかもしれない。春の盛りに、唯一とりのこされる私と、唯一生を持たない彼とに共感するところがあったのかもしれない。
 だが、彼はまた生を謳歌出来るのだ。
 私は桜の枝を一本へし折って、彼の墓にさした。


 用務員室に戻ると確かに其処は空だった。
 勝手にどこかに行ってしまった相棒に腹が立ち、私は煙草に火をいれた。窓の外に抜けた紫煙は、強く吹く春風に為す術なく間もなく解けていった。
 桜の花びらが風に乗って、部屋に入ってきた。
 私は、吸って間もない煙草を捩じり消して、窓を閉めた。

スポンサーサイト

第十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


お化け学校

 山田一樹は窮地に陥っていた。もし、明日も宿題を忘れたらどうなることやら。廊下に立たされるのは間違いない。だが、それだけで済むとは考えにくい。
 悩むより前に、宿題を済ませればよい。それはもっともなのだが、今はやりたくてもできない状態であった。宿題として課されている漢字ドリルを、学校に忘れてきたのだ。
 これが、もっと早く気づいていれば問題はない。しかし、気づいたのが、塾に行く直前だったのだ。塾に遅刻でもしたら今度は母親の雷をくらう。なので、仕方なしに塾に出かけたのだが、その授業は馬に念仏だった。
 ようやく塾から解放された時は、午後七時になっていた。いつもなら、アニメ番組のために早足で帰宅するが、一樹はそのまま学校へと向かった。母親には、友達と話していて遅れたなどと、適当にごまかせばいい。
 案の定、学校の門は閉じられ、先生も全員帰宅したようだ。周囲を照らすのは、申し訳程度の街頭しかない。一樹は、塾のカバンをバスケのシュートのように放ち、門の上を通過させた。そして、自身も、握力を頼りに、門をよじ登り始めた。ふざけて、門を登って脱出しようとした級友を見かけたことはあったが、自分がこんなことをやるのは初めてだ。格子状に組まれている支柱を登り切り、頂上をまたぐ。あとはここから降りるだけだが、その途中で足をすべらせてずり落ちてしまう。尻もちをついたものの、門があまり高くなかったことが幸いし、怪我はなかった。
 カバンを拾い、校舎の中に忍び込めないか探る。あいにく、ドアは開いていないようだ。鍵をかけ忘れでもしていたら、学校の管理問題に関わる。ドアから入るという正規の方法は無理のようだ。
 期待はしていないが、窓から入るという横着を試してみた。しかし、そのためには鍵がかかっていないという奇跡が必要になる。しらみつぶしに、窓を開けようとする。どれもびくともしない。やはり、これもダメか。
 あきらめかけていた時だった。これがダメなら帰ろうと、図書室の窓を開ける。すると、すんなり開いた。掃除した後に鍵をかけ忘れたのだろう。靴を脱ぎ棄て、本棚の上を足場にし、図書室への侵入に成功した。
 証拠隠滅のため窓をしめる。そして、ドアのカギを解除して外に出る。職員室から鍵を持ってこなくても、内側からなら開けることは可能だ。薄暗い廊下を、足音をたてないように注意しながら進む。誰もいないはずだが、万が一を考えてだ。
 一樹の教室は最上階の三階にある。階段には、裸足でタイルを叩く音だけが響く。昼間と段数が違うというのはよくある話だが、そもそも階段の段数を覚えている者がどれだけいることか。例え、増えていたとしても気づかないだろう。
 やがて、三階にたどり着き、目的地である五年二組に足を進めるのであった。

 一樹が階段を上っているとき、五年三組には先客がいた。それも、一人ではない。数にすると、三十人くらいか。そして、彼らは人間ではない。そう言うと語弊がある。彼らは人間だったとした方が正しい。
「しかるに、我々が存在する意義は、人間を驚かし、恐怖のどん底に陥れることである」
 教卓で熱弁をふるう中年の男。居眠りや内職をしているものの、椅子に座って講義を受けるその他大勢の者ども。彼らは全員、地に足がついていなかった。着ているのは、そろいもそろって、死装束と呼ばれるものだった。
 彼らは、現在生きてはいない。みな、過去になんらかの原因で死亡した亡者だった。
「現代の人間ときたら、我々の正体をプラズマなどというふざけた理論を持ち出している。今こそ、我々の存在を世の生者どもに知らしめるべきなのだ」
 先生は机を叩く。だが、打撃音はしない。実体がないのだから当たり前だ。
 再び講釈を始めようとしたが、先生はとある生徒の異変を察した。授業も上の空で、うわごとをつぶやいている。
「どうしたね、貞子くん。言いたいことがあるのなら、はっきり言ったらどうだ」
 貞子と呼ばれた女生徒は、顔をあげた。しかし、その顔は異常に長い前髪で隠れている。その髪の隙間からは、誰しもが振り返る美貌が隠れていた。先生に促されたためか、先ほどまでつぶやいていたことを、みんなに聞こえる大きさで口走った。
「くる……きっと、くる……」
「きっとくるって、なにが」
「人間」
 教室がざわめいた。「冗談か」「うわごとに違いない」などの言葉が飛び交ったが、貞子に触発されたか、人間の気配を察知するものも続出した。
「落ち着け」
 先生の一声で、騒然とした教室が鎮まった。
「うろたえることはない。我々は、何のために今まで勉強してきた。人間が迷い込んだのなら好都合。今こそ、学習の成果を見せつけるとき。これより、予定を変更して課外授業に入る。やることは分かっているよな」
 一人ひとりの眼を覗き込むように、首を動かす。生徒一同は生唾を飲んだ。

 つい数分前まで、亡者の群れで埋め尽くされていたとはつゆ知らず、一樹は教室に到着した。お目当ての漢字ドリルは、中央の前から二番目の席にあるはずだった。さっそく机の中を探ってみると、案の定ドリルを発見した。裏表紙に「山田一樹」と名前が書いてあるので間違いない。時計を見ると、七時半をとっくに過ぎていた。さすがに、これ以上長居していると、母親に言い訳が通用しなくなる。
 急いで教室から出ようとすると、突如テレビのスイッチが入った。何事かと振り返ると、テレビには古井戸が映し出されていた。
 その井戸から青白い手が伸び、前髪で顔が隠れた女が顔を出した。女は、井戸から這い上がると、ふらつきながら歩み寄ってくる。画面は、次第に女の顔のアップになる。
 そして、画面が女の顔に占拠され、女が手を伸ばす。
「テレビなんて、つけたっけ。消し忘れかな」
 そこで、無情にもテレビのスイッチが消された。一樹は、何事もなかったかのように、教室を後にした。単に、映画の再放送としか思われなかったかもしれない。

 家に帰りたいのはやまやまだが、それよりも急を要する事態に陥った。あろうことか、催したのである。排泄を我慢しながら帰宅するほどアホではない。なぜなら、学校にはトイレがあるからだ。
 そして、お化け側にとっては好都合であった。なぜなら、トイレを生息地とする霊が在籍しているからだ。
「貞子は失敗したようだが、今度はそうはいかん。頼むぞ、花子」
 先生は、トイレに先回りし、生徒を見守ることにした。すでに、一樹が訪れるであろう男子トイレに、花子はスタンバイしている。
 夜中の学校なら大手を振って大便ができるのだが、あいにく固形物は催していなかった。小気味よい音をたてながら、小便器に液体を放出する。男性が心地よいと思える瞬間を謳歌していると、背後から聞き慣れぬ声がした。
「開かないよ……開かないよ」
 一樹は顔をしかめる。はて、誰かいるのか。その声は、どう考えても大をする部屋から聞こえてくる。小学生にとって最大の恥辱を犯した者が身を潜めているのか。唯一閉められているドアの前に立ち、二、三度ノックした。
 返事がない。あれは空耳だったのか。拍子ぬけした一樹は、さっさと立ち去ろうとした。
「開かないよ」
 また、先ほどの声。やはり、誰かいるのだ。不審に思い、再度ドアを叩く。またも返事がない。空耳を連続で聞くなど、尋常ではない。ここで、あくまで遊びのつもりだが、あることを試してみようと思った。
 三度目の正直というつもりで、大きく三回ドアを叩く、そして、「花子さん」と呼びかけた。その昔読んだ怪談話に載っていた、トイレの花子さんの呼び出し方だった。すると、
「はーい」
 本当に返事が返ってきた。まさか、本当に花子さんを呼び出してしまったのか。おそるおそるドアを開けようとする。と、ここで一樹はちょっとしたイジワルを思いついた。

 古くから伝わる花子召喚の儀が執り行われたので、花子はおどろおどろしい声で返事をした。いよいよ、愚かな人間が花子と面会し、奇声を発する瞬間が来るのだ。それには、ドアを開けた瞬間に見せる顔のインパクトが重要。それで、どれだけ相手を怖気づかせるかにかかっている。
 ドアからうっすらと光が差し込む。いよいよだ。
 世にもおぞましい顔を浮かべ、花子は扉を開けた愚者に、鋭い眼光を送る。しかし、そこにいるはずの人間はいなかった。おかしい。確かに、ドアはノックされ、「花子さん」と呼ぶ声もした。せっかく作った顔を元に戻し、首を動かしながら周囲をうかがう。すると、
「バア」
 隣の個室から少年が飛び出し、眼尻と唇を横に引っ張り、舌を突き出した変顔で迫ってきた。これには度肝を抜かれた。花子はけたたましい悲鳴をあげ、トイレの窓を突き破って逃げて行った。霊魂の状態であったため、窓そのものに被害がなかったのが幸いだろう。
「そこまで驚くことないのに」
 一樹は変な顔をやめて、首をかしげた。思い切り引っ張ったせいか、ほほが痛い。そして、今更ながら手を洗っていなかった。どうせこの後入浴するからいいかと割り切り、トイレを後にする。手を洗うのを忘れてはいなかったが、あいにくハンカチは持ち合わせていなかった。
 一樹が去ったのち、洗面所の鏡に薄気味悪い男の顔が写った。
「花子までも失敗したか。こうなったら、わたしが直に相手をするしかないか」
 そんなつぶやきが発せられ、男の顔は消えて行った。先生は、床をすり抜け、階段に先回りした。

 尿意も去り、あとはできるだけ早く家に帰るだけだ。普段なら怒られるが、一樹は廊下を全速力で走っていた。これは、道路の真ん中で寝転がるのと同じくらい、小学生がやりたい行為だろう。
 行きに使用したのと同じ階段にさしかかる。階段の数を変えるのが常套だが、先生は別の手段を控えていた。何も知らない一樹は、階段の数を気にせず、一段飛ばしで下っていた。ここまでは、先生の計算のうちだ。
 階段と階段をつなぐ踊り場に、大きな鏡がある。たまに、児童のいたずらで割られるのだが、先生はそこにいた。
「ククク。この踊り場を通ったが最後。わたしの術で誘惑し、鏡の世界に閉じ込めてやる。そこで、お化けの恐ろしさを骨の髄まで染み込ませてやるのだ」
 鏡に浮かび上がった巨大な男の顔は、不敵な笑みを浮かべた。少年の移動速度から計算すると、もうすぐここにやってくるはずだ。
 そして、案の定一樹は先生が待ち受ける踊り場に足を踏み入れた。急ぎ足のため、このままだと素通りされる危険がある。先生は、口から生暖かい息を吐いた。
 ほほに訳の分からない気持ちの悪い風を感じ、一樹は立ち止まる。夜風にしては湿っぽい。第一、ここの窓は閉められている。
 隙間風と納得し、階段を降り始めようとする。しかし、その足がハタと止まった。何かに魅せられたかのように、体の向きを変える。
 そして、一樹は目撃した。踊り場の鏡一面に、男の顔が写っているのを。
 さすがにこれには仰天した。逃げだそうとするも、体は言うことを聞かない。先生の術で、身動きが封じられているのだ。
「さあ、おいで。鏡の世界は楽しいよ。勉強もしなくていいし、おやつも食べ放題だ」
 言葉巧みに誘惑するが、ほとんどうそっぱちだ。お化けについて嫌と言うほど学習させるうえ、食事も最低限のものしか用意しない。この少年には酷だが、お化けの恐ろしさを知ってもらうための犠牲となってもらおう。
 鏡の顔が縮小し、左下から巨大な手が出現した。それはしきりにおいでおいでと手まねきしている。あからさまに、鏡の中に誘い込もうとしているのだ。
 これまでなら、この術にかかった子供は臆し、成すがまま鏡に誘われる。今回も、金縛りは効力を発揮しているので、大丈夫のはずだった。
 ところが。
「えーい、ふざけんな、この野郎」
 一樹は、携えていた塾のカバンを、やたらめったら振り回した。幸い、鏡から少し離れていたので、振り回している間は鏡が割れる心配はない。まあ、手から離れたら一巻の終わりだろう。
 鏡の中にいる先生は気が気でなかった。目の前で、縦横無尽にカバンが振り回されるのである。このままだと、いつ割られてもおかしくない。鏡と同化している状態で、鏡が破壊されたら、自身も手痛い傷を負うことになる。
 なによりも、一樹の行動は完全に想定外だった。教師生活何百年の中で、初めて出会う反応だったのだ。
「やめろ、鏡が割れるだろうが」
 ついに、先生が泣きごとを言った。すると、一樹がよろめいた。カバンを振りまわした反動だろうか。いや、それよりも重要なのは、これで金縛りが解けたと証明されたことである。
 体の自由を取り戻した一樹は、
「悪いけど急いでるから、相手してらんないよーだ」
 あかんべをして、階段を二段飛ばしで下って行った。

 一樹は、脱ぎ捨ててあった靴を拾うと、大いそぎで履いた。だいぶ遅くなってしまった。冗談抜きで母親に何を言われるか分かったものではない。頭の中は、母親から落とされるであろう雷を想像するので一杯一杯だった。

 一方、学校の階段の踊り場には続々とお化けが集まっていた。優等生の二人に加え、先生までもが失敗したのだ。みな一様に意気消沈していた。
「やはり、いまどきの子供は私たちを単なる幻想としか思ってないのかしら」
 花子のつぶやきに、一同は唸り声をあげる。踊り場は嘆く声で充ち溢れた。
「どうやら、この土地で活動するのも限界のようだ。我々は人間に認識されなければ、存在できないのだから」
 先生の声を最後に、踊り場の雑多な呻きは聞こえなくなった。
 こうして、お化けたちは古き良き時代を懐古しながら、居場所を求めてさまよい続けるのであった。

第十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


僕らの前にはドアがある

「音楽室はどこですか?」
 振り向くと、教科書を抱えた女の子が美由紀を見上げていた。一年生のようだ。
「二階に上って、そこ曲がって、で、突き当りを右ね」
「ありがとうございます」
 そう言って彼女は走っていった。とはいえ、今の説明で大丈夫だろうか。何しろこの校舎は、複雑怪奇なのだ。
 竹田美由紀の通う中学の校舎には、あちこち変な構造が多い。現在は少子化の影響で空き教室だらけだが、生徒数が多かった時に建て増しを繰り返したせいらしい。学校の癖に曲がり角が多い廊下もそうだし、三階建ての校舎と四階建ての建物が同じ高さでくっついてしまっている。美由紀も一年生の時はよく迷った。
「ってか……」
 えらそうに道を教えておきながら、自分も美術室に行くことができない階段を上っていることに気付いて、美由紀は慌てて来た道を戻った。

「いや、いくら何でも三年で道に迷うのは、竹田くらいだから」
「やかましい」
 息せききって美術室に駆け込んだ美由紀は、ニヤニヤ笑う逢沢の足をこっそり踏んづけた。本鈴はもう鳴ってしまっていたが、美術の渡会先生はいつものんびりしているので、それでも間に合う。
「それもおかしくね? だって渡会先生、ホームルームで俺らと同じ教室から出てるじゃん」
「……」
 渡会先生は、美由紀のクラスの担任だ。この学校に何年もいる渡会先生が道に迷っているはずはないが、しかし、あの先生ならと思えてしまう……。
 結局、授業開始から五分ほど遅れて渡会先生はやってきた。
「ああ、すみません。では、先週の続きから始めましょう」
 それでやっと、席で待っていた生徒たちは動き始めた。現在は、何か動物をテーマにして、版画を作っている。のんびり時間をかけて、作品を作っていくこの授業は、つまらないと不評だったが、美由紀は結構好きだった。席の関係で、うるさい逢沢が隣に来るのが唯一気にいらない点だったが、そこは集中。
「それ、ひょっとしてヤギ? 角が多くないか?」
 彫刻刀で刺そうかと思う。
じゃあアンタのはどうなのよ、と言いかけて、逢沢の版を覗き込んだ美由紀は、言葉を飲み込んだ。
 森の中の、鹿の親子の絵。
 上手としか言いようがなかった。
(……鹿の絵、やめようかなあ)

「今からモチーフを変えたい?」
「え、まあ……思い直しまして」
 渡会先生は、どうぞ満足のいくものを作ってください、と快くOKしてくれた。
「じゃあ、新しい版を取りにきてくれますか?」
 そう言って美術準備室の中に入っていく。え、と戸惑いながら美由紀は先生の後を追った。そういえば、美術準備室に入ったのは初めてだった。
「えー……どこでしたっけ……」
 美術準備室は、ごちゃごちゃに散らかっていた。探すのを手伝った方がいいのかもしれないが、しかし美由紀が下手に手を出せば、雪崩がおきそうなくらいに荷物が積まれているし。
 暇なので、美由紀は周りを見回した。うちの学校にもヴィーナス像があったとは驚き。奥の方に、ドアが見えた。まだ向こうに部屋が続いているらしい。
(……あれ?)
 美由紀は、自分の目を疑った。
 その時、渡会先生は版を美由紀に差し出していた。
「はい、ありましたよ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 お礼を言って準備室から出る直前、美由紀はもう一度中を振り返った。
 見間違いだろうか。さっきのドアの横に、窓があった。するとあのドアは、建物の外に出ることになるが……まさか非常口?
「あ、竹田さん。クラスのみんなに、昼に進路調査を集めると言ってもらえますか? 言うの忘れてました」
「分かりました」

「え、進路調査の提出? やば、持ってきてない」
 美由紀がクラスに先生の言葉を伝えると、志穂はどうしよう、という顔で美由紀を見た。
「別に、少しくらい遅れてもいいんじゃないかな」
「大丈夫かな? 美由紀は?」
「もちろん今日出す」
 ひどいっ、と志穂は膨れた。
「別に、私だって忘れてたわけじゃないんだよー。けどさ、あれ親のハンコいるじゃん。私は西高行きたいのに、親は南高にしろって。そんなんで、まだ書いてないんだよ」
「大変だね、志穂のとこは、厳しいから」
 志穂は、小学校から吹奏楽をずっと続けている。西高の吹奏楽部はレベルが高いと評判だから、志穂はそこに行きたいと言う。だが、進学率のいい南高を薦める親との間で、かなり揉めているらしい。
「美由紀のとこは、親も納得してるの?」
「まあね」
「いいなあ」
 志穂の言葉に他意はなかったけど、それは美由紀の心にチクリと刺さった。
 四時間目が終わると、渡会先生が教室にやってきた。
「すみません皆さん、今日は進路調査を集めなくてはならない日だったんですが、決まってない人、出せない人はまだ出さなくても大丈夫です。とりあえず、個別に面談をするので、出せる人から出してください」
 進路調査を出したのは、クラスの半分ほどだった。美由紀が提出する時、偶然近くにいた逢沢が覗いてきたような気がして、ちょっとムカついた。
 用紙が、美由紀の手から離れた。棘はまだ、刺さっている。
 うちの親に理解があるんじゃない。私に、特に行きたい高校がないだけの話なのに。

 美由紀と志穂は、掃除の当番で、教室のゴミを校舎裏のゴミ捨て場に持って行った。ふと、裏側から校舎を見上げると、変な形をしているのが改めてよく分かる。
 ……そういえば、あの辺が美術室だっけ? 
方向からして、こっち側から美術準備室が見えるはずだ。とすると、準備室の窓はあの窓だろう。だが、校舎の外側、壁の反対側にドアの出口も、部屋らしいスペースもない。
 だとしたら、今日美由紀が見たドアは何?
 ぼんやり校舎を見上げている美由紀の隣に、いつの間にか志穂が来ていた。何を見ているのかと、美由紀と同じ方に視線をやる。
「何見てるの?」
「うん……ちょっと美術室がね」
「逢沢君のいる美術室?」
 一瞬、反応が遅れた。
「なんでここで逢沢の名前が出てくるのよ!」
 志穂は、ニヤニヤ笑いで言う。
「美由紀は、逢沢君に興味ない?」
「ないっ」
「絶対、逢沢君、美由紀のこと意識してると思うんだけどなー」
「そんなわけないじゃない!」
 美由紀はこの手の話は苦手だ。慌てて話を逸らす。
「て、いうか、何で美術室と逢沢が関係あるの?」
「知らない? 逢沢君は美術部だよ」
 あ、なるほど、と美由紀は納得した。絵が上手いわけだ。

 美術の版画は、ウサギに変更した。特にウサギが好きではないが、耳を長く描けば他の動物と間違えられることはないはずと考えただけだ。
「あれ、やり直しするのか?」
「そうよ、悪い」
 また一から始める分、美由紀の作業は周りより遅れている。その分集中して取り組まなくてはならない。だが、ついつい、隣の逢沢の作業を盗み見てしまう。
 本当に上手だ。誰にでも、一つくらい取り柄はあるものだ。
 ……いや、どうだろう。
 美由紀には、何があっただろう?
「焦らず、丁寧に仕上げてください。授業内で時間が足りない人は、放課後も使ってください」
 渡会先生ののんびりした声が響く。時間を好きなだけかける。この美術の授業のモットーだ。もちろん、学校の授業だから作品の提出期限があるのだが、本来芸術とはそういうものなのかな、と、芸術に疎い美由紀は考える。
 少なくとも、鹿よりウサギの方が描きやすいなんて安易な理由、芸術には無縁に違いない。

 その日の放課後、美由紀は美術室に向かった。鍵は開いていますから、作品を出して取り組んでください、と渡会先生は言った。管理がいい加減な気もするが、先生にわざわざ手間を取らせるのも申し訳ない。
 美術室には誰もいなかった。準備室に入り、自分の版を探す。
「しまった……」
 版がどこに置いてあるか聞いておけばよかったと、美由紀は後悔した。準備室が散らかっているのは知っていたのに。ここは渡会先生の仕事場にもなっているようで、物が多い。集めていた進路調査が名簿順の五十音順に整理されて、絵の具の横に置かれていた。諦めて、色々探す。
 そういえば。
 美由紀は、準備室の奥の壁を見た。
 確かに、そこには美由紀の見たドアがあった。だが、やはり隣には、窓もある。
 窓から見える空を、鳥が横切った。
「嘘……」
 美由紀は窓に寄って、ガラス越しに下を見下ろした。下のゴミ置き場が見えた。じゃ、このドアは?
 そーっと、ノブに手をかけた。ひんやりした感触が伝わってくる。
(ひょっとして、開けられる?)
 でも、どこに繋がっているのだ? まさか外?
 ノブを握ったのと反対の手で、窓枠のサッシを掴んだ。念のため両足で踏ん張る。唾をごくりと飲み込んだ。力を込める!
「あれ、竹田」
 慌てて振り向くと、よりによって逢沢がいた。
 相当、間抜けなポーズだと思われた。
「何で逢沢がここにいるよのっ!」
「今噛んだ? いや、俺、美術部だし」
 逢沢は大きなキャンバスを脇に抱えていた。
「そのドアか、気になった?」
 開けようとしていたところを見られていたので、美由紀は素直に頷く。そうだ、普段から準備室に出入りしている逢沢なら、このドアのことを知っているのではないのだろうか?
「このドア、何?」
「えー……未来に繋がってるんだったかな」
 言いながら、逢沢の顔が笑っていた。聞いた美由紀は、一気に顔が赤くなるのを感じた。
 馬鹿にされた!
「からかわないでよ! 馬鹿じゃないの!」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。
「なんだよ、馬鹿って、」
「うるさい馬鹿、黙れ!」
 逢沢の横を通り、ずんずん準備室から出る。
「おい、待てよ、あのドアは……てか、竹田は何でここにいるんだよ」
「……。」
 そこで、当初の目的を思い出す。慌てて、準備室に戻って版を探した。
 鹿からウサギに。安易で無難な選択をした自分が嫌で。だからせめて、時間をかけて丁寧に作品を仕上げようと思ったのだ。
 逢沢は、イーゼルを立てて作業に取り組んでいた。頭が冷えてきて、言い過ぎたな、と後悔した。逢沢は美由紀をからかったというよりは、軽い冗談を言ったつもりだったのだろう。
 この前、志穂が変なこと言ったから……。
 頭を振ってもやもやした気分を振り払い、美由紀も自分の作業に取り掛かった。

 気が付けば、随分遅くなってしまっていた。美由紀は帰る支度をした。
逢沢は、まだ絵を描いている。あんなに絵の上手い逢沢が、美術部の作品として制作している絵はどんなだろう? 美由紀は後ろからこっそり覗き込んだ。
 思わずため息が出た。
 キャンバスから、光が溢れていた。
 濃淡の違う白を塗り重ねて、像を描いている。光の中から現れている姿は、陰影のために浮かび上がって見えた。
「これ、ヴィーナス像だ……」
「何だよ、見るなよ」
 逢沢は苦笑して振り返った。美由紀はゆっくり息を吐いた。
「いいじゃない、こんな上手いんだから。すご……」
「いや、そんな」
「さすが、プロ目指すだけのことあるじゃない。すごいよ」
 賞賛の言葉は、素直に出てきた。こんな絵を見せられてしまっては仕方ない。
 だが、逢沢は眉をひそめた。
「何で、俺が絵の専門進むって知ってるんだ?」
「む」
 美由紀は自分の失言に気がついて、口を押さえた。
「……竹田ってどっか抜けてるよな」
「やかましいっ。……あ、いや、ゴメン」
 そもそも、進路調査というプライベートなものを、準備室に放置している渡会先生が悪いのだが、五十音順で一番上に置かれていた逢沢の進路調査を、偶然とはいえ見たのは美由紀だ。
「高校行かないこと、黙っといて」
「何で」
「うるさいだろ、周りが」
 進学先で親と揉めた志穂のことを思い出した。
 けど、それのどこが悪いんだ。
 美由紀には、羨ましい。
 高校の先の進路、将来のこと、家族のこと、色々な問題が先に見えすぎて、それらを回避する道しか進めない。
 いつも無難な方に流れる。
 そんな自分が、嫌いだ。
「竹田?」
「……何でもない。あと、さっきもゴメン」
 逢沢は何が? という顔をした。
「あのドア、多分あれだよね、この校舎、何度も増築して色々してるうちに、昔の建物の名残っていうか、それでドアだけ変な位置に残っちゃったんでしょ? 馬鹿は私だよね、開くわけないのに」
「ああ、あれ。……渡会先生はすげえなあ」
「は?」
 逢沢は立ち上がった。
「あの『ドア』のこと、教えてやるよ」

 美由紀と逢沢は、あのドアの前にいた。
「ドア、触ってみな」
「開かないよ?」
 逢沢は首を振った。「触るんだよ」
 そこで美由紀ははっとした。ドアに触れる。ドアノブではなく、扉の表面に。
 それは、壁だった。
「ノブは本物を壁にくっつけてる。けど、ドアは絵だ」
 美由紀は信じられない思いだった。
「トリックアートだ。特別な陰影の付け方をして立体的に見せてる」
 そういえば、さっきの逢沢の絵も、浮き出して見えた。あれと同じ技術なのだろうか?
「嘘みたい……」
「俺も騙された」
「え、けど、何でこんな絵が?」
 てか、そんなことしていいの?
「私が異動になったら、前に棚でも置いて隠しますよ」
 渡会先生が、そこにいた。

「……先生」
 ドアの『作者』は、ゆっくりと、そのドアの前に立った。
「学校という場所では、子供たちは大人になっていく。段々、周りのことが分かるようになり、分別がついてくる。そして同時に、未来が見えなくなってくる」
 子供のときは、あんなに容易く大人になったらなりたいものを答えられたのに、やがて、それは、ふさわしい選択肢の中から、選ぶようになる。または、選択権すらない。
「それは自然なことです。けれど、私は、それを見送っていて悔しい。だからドアを描きました。ドアは、どこかに開くでしょう? 私は、これが未来に開けばいいと思う」
 未来に続くドアというのは、渡会先生の言葉だった……。美由紀は逢沢を横目で見た。
「でも何故、学校の壁に、描いたんですか?」
「ありえない場所にドアがあれば、どきどきして開けてみたいと思いませんか? そしてそれは、きっと開くのです」
 どきりとして、頷いた。
 美由紀は、薄暗い部屋でますます本物に見えるドアを、見つめた。

「いいですね」
 渡会先生は、逢沢の絵を見て言った。
「光の描写に、こだわりましたね。まるで、雪のようです」
「ありがとうございます」
「では、そろそろ閉めましょうか」
 逢沢は、画材を片付け始めた。そういえば、竹田は?
 道具を抱えて準備室に入ると、あのドアの前に、美由紀がいた。ドアノブに手をかけたまま、止まっている。
 逢沢は声をかけないでいた。
 無音の時間が、しばらく流れた。
 やがて、美由紀は逢沢に気付くと、何も言わずに逢沢の横を通り抜けて、準備室を出た。逢沢はため息をついた。
「すみません、渡会先生」
「何でしょうか? 竹田さん」
 美由紀は、息を少し吸い込んで言った。
「進路調査用紙、もう一枚ください」
 横にいた逢沢は、茶々を入れた。
「お前、やり直し多いなー」
「うるさい、今度は違うの」
 口調とは裏腹に、美由紀は笑った。
 だって、美由紀はドアが開く音を確かに聞いたのだ。
 その音は、自分の中から。

第十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


忘れ物する夢とか未だに見るんだ

 窓の外は、明るいような薄暗いような、不思議な光が差し込んでくる。いつも見えるはずのあれこれは形もなく、白っぽいような、灰色っぽいような、茫洋としたものが広がっているだけだ。
 いつも見えるもの? さて、いつもはこの窓から何が見えているんだろう。さて、ここはどこの窓の前なんだろう?
 目の前には、長い廊下が伸びている。白い、けれど薄汚れて、くたびれている廊下。床には、誰かが猛スピードで走ってきて怒られて、急ブレーキしたときにできてしまったような、黒い痕が残ってしまっている。そしてうっすらと誇りと砂に覆われていて、誰かの靴痕がくっきりと残っている。ところどころ、絵の具のようなものの、薄れたしみ。
 窓側ではない壁には、ドア。そしてしばらくいったところにドア。そのすぐそばにドア。しばらくいったところにドア。どのドアにも、目の高さくらいに窓が空いていて、部屋の様子が覗ける。ひょいと覗き込むと、机がたくさん並んでいる。同じ方向を向いておいてある机机机、びっしりと並べられている上に、また間を埋めるようにびっしりと人が座っている。みな、一様に暗く野暮ったいそろいの服を着ている。そして一つだけ逆の方向を向いて置かれる大きな机。その机には、頬杖をついてうつらうつらとする中年の男。
 ――ああ、学校だ。しかも、生徒の顔ぶれからすると、自分のクラスだ。みんなが必死に机に向かっている、その雰囲気からすると、テスト中のようだ。ほう、テスト中の教室を外から眺めるとこういう感じなのか。
 ん? テスト中なら何故こんなところにいるんだろう。それとも、教室にはテストを受けている俺がいるんだろうか。
 再び教室の中を、ドアの窓から覗き込む。慣れ親しんだ窓際から二列目、後ろから二番目の席を確認した。そこだけ、ぽつんと空席になっている。そりゃそうだ。俺はここなんだから。
 しかし、テスト中に教室を外から覗き込んでいる場合じゃない。テストを受けなければ。しかし、窓の外の感じからして、何かがおかしい。いつもは見える校庭も体育館も見えないなんて。
 ドアを開けるか逡巡していると、廊下の向こうから足音がする。走っている。相当急いでいるようだ。そりゃそうだ。もうテストは始まっているんだから。
 ――さっきから、思考のどこかがおかしい。何かがねじれている。しかし、何がおかしいのか考えきる前に、もっとおかしなことが起きてしまった。
 廊下の向こうからこっちへ急いで走ってくるのは、俺だった。多分、他人から見たらこう見えるんだろうな、と言う想像から寸分たがわない姿の俺が、ばたばた走ってくる。重そうなカバン――きっとテスト直前漬けするために入れてきた、でも遅刻で無駄になった教科書がいっぱい入っているんだろう――を担いで、靴のかかとはもどかしく踏み潰して、必死の形相で走ってくる。テストの日に遅刻なんだから、当たり前だ。もっと急げよ、俺、追試とか嫌だぞ。

 あれ、じゃあここで教室の中を窺ったり、遅刻して走ってくる俺を眺めている俺は誰なんだ?
 ――そう思った瞬間に、目が覚めた。

「って言う夢を見たんだよ」
「夢オチかよ」
 すかさずツッコまれる。最初に今日変な夢見たんだけどさあ、って断っただろうがよ。
「それにしても、すげえリアルで嫌だったわー」
「正夢ってやつ?」
「冗談じゃねえ」
 テストの日に寝坊して、遅刻する? 考えるだけでも恐ろしいぜ。テスト時間いっぱいあってもたいした点数取れないんだし。
「じゃあ逆夢だ」
「次のテストはもっと先だ」
 地獄の期末が終わって、楽しい楽しい夏休みに入るっているのに、何てこと言うんだ。確かに、テスト直前にこんな夢見たら、怖くて眠れなくなるくらい効きそうだが。
「夢なんかに本気になるなよ」
「にべもねえな」
 まあ、確かにたかが夢だ。なんか嫌にはっきりして変な夢だったけど、しばらくテストもないし関係ない。正夢になったらそんときゃそんときだ。それに、見た夢のことなんてすぐ忘れるに決まってる。


 窓の外は真っ暗だ。夜の暗さ、と言うか、窓をふさいでしまったかのような、窓の外には何も存在していないかのような、圧倒的な暗さ。しかし、視界ははっきりしている。
 すぐそばには、丁度目の高さに窓の開いたドア。しばらくいくと、またドア。そしてそのすぐそばにまたドア。そしてしばらくいくとドア。そして床は毎日掃除しているにもかかわらず、ちっとも綺麗にならない。靴底がこすれてできた黒い痕も、絵の具や墨汁をこぼした痕も、重なり合ってぼんやりと残っている。
 暗い。暗いけれど、その暗さで見知らぬところのように見えるけれど、見覚えのある景色。ああ、また学校の廊下に俺は立っているんだ。また、の前にここに立ったときがいつだったのかはっきりと思い出せないが、そう思った。
 まっすぐ伸びる廊下の向こう側は、すっかり闇の中に沈んでいる。廊下の一番奥にいつも灯っているはずの非常口の明かりも見えない。必要以上に真っ暗の学校は、怖いと言うよりもよそよそしくて異質な感じがする。なんで俺はまたこんなところにいるんだろう。
 しかし、本当に辺りは真っ暗だ。こんな時間に誰かがいるものだろうか。何の気なしに、教室の中をドアの窓から覗き込んだ。
 暗がりの中に人影が見える。一人だけだ。机の上に覆いかぶさるかのように、必死に机にかじりついて手を動かしている。その様子は、鬼気迫る感じで、夜の学校というシチュエーションもあいまって、気味が悪い。その上、よく見るとその人影は制服ではなくてパジャマのようなものを着ている。学校にいる格好ではありえない。
 誰だ。そこに座っているのは誰なんだ。目を凝らして、机の位置を確かめた。
 窓際から二列目、後ろから二番目の席に、そいつは座っている。俺だ。あそこに座っているのは俺だ。夜の学校の、教室にたった一人、しかもパジャマで必死になっているのは俺なのだ。
 今度こそ、俺はドアを開けた。その音にも、机の俺は顔も上げない。必死で目の前の用紙に何かを書き込んでいる。机の俺に、俺は近づいていく。机と机の間の狭い通路に、何度も引っかかる。暗闇の中に、大きく音が響く。それでも、机の俺はちらともこちらを見ようとしない。
 ひょい、と俺が座っている前の席に、後ろ向きに腰掛けた。必死にもう一人の俺がかじりついている用紙を覗き込むと、どうやら俺はテストに必死になっているらしい。

5y(2x-8)-x(2y+5)=?

 拍子抜けしてしまうほど簡単な問題だ。それなのに、目の前の俺は切羽詰った顔をして、ああでもないこうでもないと数字や式を書いたり消したりしている。いくら俺が馬鹿でも、この問題は余裕で分かる。もう一人の俺は、俺とあまり年が変わらない内容に見えるけれど、一体いつごろの俺なんだろう?
 俺は、がしがしと頭をかいて、どうやらその問題を放棄したようだった。シャーペンを握った手をずらし、次の問題に取り掛かった。 

(x-4)(x+7)=?

 やはり、簡単な問題だ。しかし、俺は先ほどに増して訳がわからなくなったらしく、悪あがきもできずに用紙を見つめたまま固まっている。どうしようもないな、と思っていると、今度は早々に諦めて用紙をめくった。

 そこには、

  早く起きろ

 と紙いっぱいに書いてある。俺の文字で。
 ――身を引いた瞬間、椅子が鳴った音で目が覚めた。


 ――夢の中で椅子の鳴った音を聞いたが、現実の世界でも椅子が鳴った音で目を覚ました。枕にしていた腕が下敷きにしていたプリントがばさばさと落ちる。
 丁度チャイムが鳴るところだ。思わず寝てしまっていたようだが、いや、本当に変な夢を見ていた気がする。急いで床のプリントを拾う。まさかよだれの痕がついていないかどうか確認する。よし大丈夫。プリントをそろえて立ち上がる。
 さて、テスト監督中は寝ないようにしなければ。

第十六回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


| TOP |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。