FC2ブログ
さらし文学賞
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 |


野良犬と花

柔らかい。温度が伝わってくる。背骨のふくらみ、肋骨のくぼみ。少女は猫の首から背中にかけてなでる。触れている。何度も何度も、猫の温度を確かめるように、生きているかどうか確かめるように、触れる。
そこは神社の境内。ゴミが散乱している。壊れかけた拝殿。塗装がはげて白くなった鳥居がそびえて巨大な影を作る。賽銭箱はひっくり返って、底には穴があいている。ここは神社。もう誰にも忘れられてしまった神社だ。
日は暮れかかっている。秋風が、積もった枯れ葉とビニール袋を舞いあげる。そして伸びる影。
花という少女は、身動きをしない猫をゆっくりなでていた。お互いにひっそりと息をひそめる。ただ花は肩からずり落ちてくるランドセルを少し気にしながら。
日は暮れかかっている。
花はふと視線をあげる。そして振り返る。そこには、影。
鳥居の下に人がいる。少年。影はやはり伸びている。花はその少年をじっと見つめて、少し笑った。
少年はそれを合図にしたかのように花に向かって突進してくる。手には長い棒のようなものを持っていた。
花はもう一度猫の方に視線を落として、ささやく。
「ばいばい」
花の背後には少年。手には金属バッド。猫は耳をぴくっと動かして逆光で暗くなる二つの影を見る。その一瞬。
ゴンッ。
乾いた音が鳴った。少年は花の顔の前三〇センチくらいの地面を金属バッドで強く叩きつける。風が起こり、花の髪は揺れる。
猫はすんでのところで逃げたようだ。少年のバッドはコンクリートだけを強く打った。神社には二つの伸びた影。また秋風が吹いている。
少年は体勢を立て直して花に手を差し伸べる。花は素直に手を取って立ち上がる。立ち上がった時、やっと少年の顔が見えた。花はまっすぐその目を見返す。
「ありがと」
「おう」
短く言葉を交わす。それを境に音をなくす神社。もう誰にも忘れられている。
日は暮れかかっていた。

この物語の主人公は、花である。花は小学五年生だ。花の家は割と裕福で両親ともに健在である。家族の問題もない。いわゆる、普通の幸せな家庭。
花は学校の成績もよい。よく勉強ができる。おとなしくていい子である。
ここまで書くと非常に恵まれている。しかし、花にも欠点はあった。このあと書くことでそれが分かる。
花は頭がいい。すごくいい。よすぎる。
花は日々起こったことを深く考察する。ひとつひとつを真剣に考える。考えすぎる。
だから常に黙っている。考えている間は誰とも話さない。友達はいないし、両親とも一日会話しない日もある。
それで花は思う。私が考え事をしている間に物事はどんどん過ぎていってしまうのだから、私はきっと損をしてる。今を感じることができないんだから。ほら、今だって今を感じてはいない。そうしてはいられない。
そしてため息をついた。二時間目の授業が終わろうとしている。
ほかの事を考えていたから、もちろんノートなんかとっていない。ずっと黒板の深い緑とチョークの白の縁取りを眺めていた。深い緑、白、深い緑、白。
チャイムは鳴って、時間を区切る。クラスメイトたちは次々に席を立つ。花はじっと座って、だんだん消されていく白い縁取りを眺める。白が深い緑に落ちていく。これって今を感じていることになるのかしら。あ、今、今を感じてなかった。
教室は騒がしくなり、休み時間になる。それでも花は席を立たない。花はまた今を忘れていた。
すると。
突然、隣のクラスから悲鳴が聞こえた。
クラスメイトたちは何どうしたの、行ってみよ、と隣の教室へかけていく。花はすっかり白がなくなった黒板を見つめていた。教室には誰もいない。
隣では騒ぎが大きくなっている。やだー、こわい、大丈夫なの、って声があふれる。まだ悲鳴も聞こえる。隣の教室で何かあったみたい、やっと花は黒板から目を離した。ようやく立ち上がって教室のドアへ歩いていく。花は思い出した。そう、今を感じるんだ。
B組のドアの周りには人だかりができている。花は小さいから後ろからでは何も見えない。仕方ないから無理やり人を掻き分ける。
「香川さん、横入りしないで」
クラスメイトの学級委員長が言う。ご都合主義、と思って無視。彼女には彼女なりの正義がある。って、今はそれどころじゃない。
花が人ごみの最前列へ出ると、みんなの視線の方を見た。
少年。
それは普通の少年ではない。とにかく血まみれだった。破れた袖から見える右腕は出血していて、髪の毛と顔も血で赤かった。険しい表情をしているのに、目はうつろ。席に座っていたが、机の脇には血まみれになって傷だらけの金属バッドが立てかけてある。
彼は注目されていることを気にもしないで、じっと座っていた。
おい、誰か先生呼んでこいよ、誰かが言っても誰も動かない。あいつまじでやべーぞ、近づかないほうがいいよ、あれ自分の血だけじゃないよね。彼はずっと前を見ている。動かない。
花は何も考えていなかった。いつもなら頭が働くはずなのに、その血まみれの少年をじっと見ているだけだった。そのほかのものが目に入らない。もちろん「今を感じてる」って考える余裕もない。もちろんこれこそ今を感じることなのだが、花はまだそれを知らない。
少年はふっと入り口のほうを見た。花と目が合う、いや、合ったように見えただけだ。少年は人ごみを見たつもりだと思うが、花は少年の目をまっすぐ見返した。
彼はいきなり落ちた。机に突っ伏した。額を強く打つ。目を閉じる。
またざわめきが大きくなり、先生を呼びに走る生徒、まだ悲鳴をあげる生徒、A組に戻っていく生徒で混乱した。
花は少年の目を忘れられずに、そのまま突っ立っていた。

A組では何も起こっていないから通常どおり授業が行われる。あの少年は保健室に運ばれたそうだ。花は思う、あの子病院行かないと死ぬかも。あのくらいの傷では人間は死なないが、初めて血まみれの人を見た花は、大げさにそう思ってしまう。
先生は、隣のクラスは低能な人間しか集まっていないんだから、あんな人間のことを心配するのは無駄なことよ、と言った。
A組は私立中学校受験選抜クラスである。頭のいい子どもはみんな私立小学校に行く。その受験に落ちた子どもが公立小学校の選抜クラスに行く。それ以外の子どもは公立小学校でごみのように扱われる。それだけ。
先生はいつものように授業を進めるけど、生徒たちはまだ興奮冷めやらぬ状況のまま、小声で隣の席の友達と噂しあっている。
花はようやくいつもの冷静さを取り戻したが、やはりまだ少しぼうっとしている。いつもならまったく耳を傾けないクラスメイトの話を真剣に聞いてしまう。
あの少年の名前はカシワギリョウスケと言うらしい。普段から誰とも話さず常に一人でいる。そしていつも金属バッドを持って登校していた。普通に歩いていたら、誘拐されたり、カツあげされたり、野良犬に襲われたりして危険だからきっと護身用だろう。金属バッドを持っているし、目つきが悪いから誰も近づかない存在のようだ。家がなく、近くの児童養護施設で生活しているとも聞いた。
花は今日初めてリョウスケの存在を知ったのに、何か彼に自分と似たところを見出した、ような気がした。もちろん家庭環境は全く違うのに、あの目には何か分かりあえるものを感じた、気がする。
花は五時間目の授業が終わったら保健室を訪ねてみようと決めた。
そしてまた考える。放課後までに、死んでないといいな。

花が保健室のドアを開けると、保健室のおばさんがいた。パーマで髪は傷んでいて、けばけばしいメイクの大きな顔。保険室内はほとんどおばさんの趣味の毒々しいピンクで統一されている。久しぶりに入ったけど、前とあんまり変わってないみたい。
「午前中に来た男の子はいますか」
これが花にとって今日最初の発話だった。
「ああ、あの血まみれの子?」
口から煙草の煙をたれ流しながら、ガラガラ声で答える。うなずくと、
「ほんの今さっき自力で帰ったよ」
「そうですか、ありがとうございました」
「あいよ」
部屋を出ていく間に、おばさんは、無理したら悪いってあんなに言ったのにまったくと小声で漏らしていた。そう、このおばさんは見た目によらずいい人。毎回ながら、花はそう思う。

校門の前には、もう母親が車で迎えに来ている。花は多分少年には会えないだろうと思い、なんとなくがっかりして昇降口まで来た。
5-Aの下駄箱まで来ると、ゆっくり動く人影が見えた。もしかして。
それはあのリョウスケだった。右腕と両脚は包帯をしているが、顔と髪の毛についた血はもうきれいになっていた。左手で傷だらけの金属バッドを持っている。これもちゃんと洗ってきたようで、もう血はついていない。
ふとこちらに顔をあげたリョウスケと、今度は本当に目が合った。花はまた思考が停止して、じっとたたずんでいた。しかしリョウスケの方は、何もなかったかのようにぼろぼろのスニーカーを持って歩いていってしまう。
花はそれでもじっとリョウスケを見ている。動かずじっと見ている。さすがに気になったようで、花の方を振り返った。
「何」
それは何の感情もない言葉。強い言葉。花は黙って首を横に振った。リョウスケは靴を履いて金属バッドを持ち直すと、すぐ外へ出て行った。
花も慌てて靴を履き替え外に出る。
リョウスケの持つバッドは校庭を擦ってがりがりいった。そのバッドの跡を追うように、花はリョウスケを追いかける。ランドセルと黄色の通学帽がずれるのを気にしながら、小走りで。
リョウスケが立ち止まると、花も立ち止まる。もう校庭の真ん中まで来ていた。
「何」
リョウスケは振り返らないまま言った。
花は困る。私は何を言ったらいいんだろう。私は何事もよく考えるけど、時間がかかっちゃう。こういう時ってどうしたらいいの。
と、考える時間が長いのである。リョウスケは仕方なく振り返ってもう一度、何、とだけ聞いた。
花は焦る。何って何だろう。何に対する質問なのかが明確じゃない。何に対しての「何」なのか。だんだんややこしくなってきた。あれ、何って何?
この時間が無駄である。リョウスケはため息をついて歩き出した。もう行ってしまう。
花は決心する。こういう時は、きっと思ったことを正直に言えばいいんだと思う。とにかく時間がない。思いついた本音を言う、そう今を感じる。
「私、リョウスケのこと好きだと思う」
後ろ姿が止まった。同時に地面をがりがり擦る音も止まる。
「は」
リョウスケは振り返って、とぼけた顔をした。花が何を言ったのか分からないというような表情だ。
花は聞こえなかったのだと勘違いして、もう一度言った。
「多分、好き」
花は本当に正直なことを言った。初めて自分と同じようなものを持っている人間だと感じたからだ。
花はクラスメイトとは、どうも分かりあえなかった。みんな誰かに褒められるため、叱られないために勉強をして、貧乏や頭の悪い子と一緒にされることを嫌って、親の職業や家の大きさを競い合っている。みんな僕たちはバカとは違うんだって顔に書いて、大した学歴のない教師をいじめる。そのくせ、自分に災難が降りかかるとPTAで問題提起して、すぐ教育委員会に訴える。その繰り返し。彼らの脳には見栄と暇つぶしのプログラム以外書き込まれていないのだ。
花は自分の両親にも疑念を抱いていた。母は、頭のいい花をずっと褒めている。花ちゃんはえらいね、いい子だね、頭がいいね。
私は何もしていない。算数や漢字は覚えればできるようになる。難しいことも本を読めばわかる。花が話さなくなればなるほど、母は娘を褒め続けた。花ちゃんはえらいね、いい子だね、頭がいいね。
父は、特にない。仕事が忙しい父は花とほとんど話さない。だから、花も父をよく知らない。特にない。
なんとなく誰も信じきれない。悪い人たちではないと思う。でも、自分の全部を預けきることはできない。考え方が全く違うんだから仕方ない。嫌いじゃなくて、無関心。花は、多分私とは違う種類の人間だろうと思った。
でも、目の前にいるこの少年は、何か私と同じ不信感を持っていると感じた。確証はないけど、勘で分かる。誰にも自分の身を委ねられない、孤独感。周りの人間とは思うところが違う、疎外感。若干の、怒り、憎しみ。
リョウスケの目を見たとき、それを感じた。だから初めて身を委ねられそうな人を見つけて、興味を抱いた。そう、多分好きになった。
花はぶれることなくリョウスケの目を見る。リョウスケは最初うろたえていたものの、花の視線を強く見返した。
「なんだ、お前。変なの」
リョウスケは小声で言った。すると花の方へまっすぐ近づいてくる。バッドの跡も折り返す。
いきなりバッドで地面に何か書き始めた。花はよく分からずその地面をじっと見る。
柏木亮輔
リョウスケ、いや亮輔は無言で名前を書いた。花も負けずに地面にかがんで指で書いた。
香川花
亮輔はそれを見ると、何も言わず歩いて行ってしまう。花は立ち上がって手についた砂を払う。亮輔の足跡とバッドの跡が並んで続いていく。花は亮輔の後ろ姿を見て、久しぶりにほほ笑んだ。

その日、花は亮輔のことをずっと考えていた。校門に横付けにされた車に乗って、母に今日は学校楽しかった、なんて聞かれても黙ったまま。家に着いて部屋で一人で過ごすときも、ご飯の最中も、お風呂に入っているときも、ベッドに入ってからも、ずっと黙って考えていた。「今」のことはまったく考えていない。
あの人は何なんだろう。一瞬目が合ったとき何かを感じはしたけど、本当に私と同じような人なんだろうか。結局、今日だって何も話してくれなかった。名前を教えてくれただけ。「何」しか言ってないし。
気づけば眠っていて、もう朝だった。ベッドから起き上がって、久しぶりに自分から学校に行きたいと思えたことに驚いていた。
登校するときにB組を覗いたが、まだ亮輔の姿はない。そしてまた亮輔のことばかり考えている。どうしちゃったんだろう、私。

今日もいろいろな考え事をしている間に昼休みになった。給食の列に並ぶついでにB組を覗いてみる。どうやら戦争中のようだ。
B組の生徒のほとんどは、家庭環境に恵まれていないらしく給食は取り合いになる。まともに食べられるのが、給食だけという生徒もいるらしい。もたもたしてたら、取り分はなくなる。もちろん、戦争になるわけだ。
「おい、こいつ給食費払ってないのに、メシ食ってるぞお」
給食当番の男子が大声をあげた。
「おめーの親も払ってないだろうが」
「そうだそうだ!」
怒声が飛び交う。ごったがえす教室で亮輔の姿を見つけることはできなかった。
すると背後にA組の女子三人組が立っていた。
「またやってる」
「今日も最悪ね」
「給食目当てでケンカなんて、バカじゃないの?」
「ねー、同じ小学生だと思われるの恥ずかしいんだけど」
「だってB組だもん、しょうがないじゃん」
するとA組の担任が廊下に出てきた。
「あなたたち、そんな下品な子たち見てないで早く列に並びなさい。時間の無駄よ」
「はーい」
花も仕方なく静かなA組に戻ることにした。そして自分がいるべき教室も、B組と変わらないくらい居心地の悪い場所だったことを思い出した。

やはり、いろいろな考え事をしている間に下校時刻になった。今日も「今」をすっ飛ばしてきた。花は掃除が終わると、またB組を覗きにいった。しかしB組の生徒がまともに掃除なんてするわけがない。もう教室には誰も残っていなかった。
仕方なく昇降口まで下りる。今日は亮輔に会えなかった。もしかしたらケガのせいで休んでいるのかもしれない。だから今日は学校にはいないのかもしれない。
花はそう思い込んだ。せっかく仲良くなれそうな人を見つけたんだから、今日も会いたかったな。
誰もいなくなった階段を下りて、冷たい廊下を歩いていく。すると5-Aと5-Bの下駄箱の間に人影が見えた。昨日の記憶がよみがえる。
花は小走りになる。そして。
そこには亮輔が立っていた。金属バッドを持って、下駄箱に寄りかかっている。まだ包帯だらけのままだ。
「あ」
思わず花の声が漏れると、亮輔はこっちを向いた。驚き、急に気まずそうな顔をして、靴を持って昇降口に出る亮輔。花はまた、あ、と言って追いかける。
昇降口から飛び出すと、亮輔は急いで追ってくる花を振り返った。花が靴を履いたのを見ると、校門とは反対方向に歩き出した。花も急いでついていく。
亮輔は早足で歩いて、花がついてきているのを確認するとまた歩いた。校舎の裏を抜け、木と木の間にある、道路に面したフェンスの穴の前に立った。花はここに来たのは初めてだ。
花の表情を確認するように見てから、亮輔は穴をくぐり走って道路を渡った。花もそれに続く。
道路の反対側はさびれた神社だ。もう管理すらされていない廃墟。雑草が生い茂り、拝殿はところどころ倒壊している。賽銭箱はひっくり返って、鳥居は塗装がはげて白んでいた。
先生から話は聞いていたし、遠くからは見たことがあったが、花が実際にこの神社に入るのは初めてだ。もちろん、廃墟には浮浪者や野良犬がいるから入ることを禁止されている。いつも登下校は車だから、こちら側の道は一回も通ったことがなかった。
亮輔は慣れた様子でどんどん中へ入っていく。花は罪悪感と好奇心でいっぱいになりながら、亮輔の後を追った。
亮輔は拝殿のへりに腰掛け、金属バッドを立てかけた。花もその隣に座る。
しばらく二人は無言でいた。花は神社を見渡して、とにかく驚いた様子である。亮輔も無言でずっとうつむいていた。
「お前、何で俺についてくる」
亮輔は神社に夢中の花に言った。花はやっと気がついて見物をやめる。
「何か同じものをもってる」
「同じもの?」
「うん、同じもの」
花は考えることは得意でも、自分の考えを相手に伝えることは苦手だ。どうやら亮輔は分かっていないようだが、花は気にしていない。
「じゃあ、何でここに連れてきたの?」
花は屈託のない瞳で亮輔を見ながら聞いた。
「え、それは……」
足をぶらぶらさせて、返答に困っている。花の視線はまだ亮輔に向けられている。
「お前が変な奴だから、ちょっと話してみようと思って」
亮輔はもっと足をぶらぶらさせて、もっとうつむいた。花は分かったような、分からないような曖昧な表情を浮かべている。花にはまだ、亮輔の本当の気持ちは分からないようだ。
その後、亮輔は花の質問に応じて昨日の出来事につて話してくれた。
亮輔は昨日、朝の登校中に野良犬に出くわした。小さい犬ならたいしたことはないが、大きい犬は相当危険だ。子どもが一人で歩いていると襲ってくるし、噛まれたら傷口から菌が入って病気になる。亮輔は今までに何度も野良犬に遭遇しては、自慢の金属バッドで撃退してきた。しかし昨日出くわしたヤツは今までで一番大きく、予想外に強かった。そのため、自分も腕や脚を負傷して、何箇所も噛まれてしまったのだ。長い戦いの結果、どうにか倒したものの自分も犬の返り血を浴びて、立てないくらいに疲れきってしまったそうだ。その後から、断片的にしか記憶がないらしい。覚えているのは、学校の階段を上っていたこと、クラスの奴らが騒いでいたこと、教室の周りに人だかりが出来ていたこと、タバコ臭い保健室。どうして引き返さずに学校に来たのかも覚えていないらしい。
花は他にも亮輔のことを聞いた。亮輔には両親がいないこと、近くの児童養護施設で暮らしていること、そこでもみんなに怖がられていること、実際怖がられて避けられていたほうが楽だということ。
花も自分のことを話した。A組にいるのが息苦しいこと、両親を信用しきれないこと、一日中誰とも話さない日が多いこと、そしてその方が楽なこと。久しぶりにたくさん話したので疲れてしまった。
話すと二人は打ち解けた。今まで友達と呼べる存在がいなかった二人は、初めて共有する時間に時を忘れた。
今度は亮輔が、この街のいろいろな場所について花に聞かせた。小学校入学と一緒にこの街へ越してきて以来、花は車でしか移動したことがなかった。一人で出歩くと危険だからだ。花が住んでいる住宅街は安全だが、学校がある街はあまり清潔ではなく廃墟も多い。もちろん治安も悪い。
亮輔は生まれたときから、この街に住んでいて、どこに何があるか大体分かっていた。この神社、廃墟になった病院、たまにホームレス向けの炊き出しが行われる公園、違法な献血を行う献血カー、面白い名前のラブホテル。
花は知らないものばかりだった。自分の住んでいる街にまだ知らないものがたくさんあると思うと、急に今の生活が息苦しくなった。
花も負けずに話した。今までたくさん読んできた本の話だ。フィンランドのサンタクロースの話、一十百千万億の先の数え方の話、世界一大きい動物の話、三毛猫は全部女の子だという話。
猫の話になると、亮輔がこの神社にもたくさんの野良猫がいることを話してくれた。猫が大好きな花は喜んだが、亮輔は野良猫も野良犬同様に汚いから気をつけろと釘を刺した。
花は少しだけすねて、ふと横を向くと西日が顔に当たった。まぶしくて目をつぶる。
鳥居からまっすぐのびる夕日。秋の夕暮れだというのに、暖かく感じた。初めてのこの感覚にずっと浸っていたいけれど、時間は過ぎていく。
花は母の迎えが来ていることをすっかり忘れていた。もう下校時間からはずいぶん経っている。花は亮輔に向き直った。
「私、帰らなきゃ。母親が待ってる」
「車か」
「うん」
亮輔は拝殿から下りて花に手を差し出した。花はその手を借りて下りる。
二人は並んで神社を離れた。またフェンスの穴をくぐって、校舎の裏を通り抜ける。校庭まで出ると、夕日に照らされたオレンジ色の風景が広がっていた。
二人で校門の方に歩いていくと、人影が見えた。女性。近づいていくと、それは花の母親だということが分かった。
花は気づいた瞬間、亮輔の後ろに隠れるように寄った。拒否反応。花の母親は心配そうに駆け寄ってくる。亮輔はどうしたらいいか分からず、とりあえず小さな正義感に従って花の前に立った。
「花ちゃん、こんな時間まで何やってたの」
花の母親には亮輔が見えていないのだろうか。亮輔の存在を無視して娘に声をかける。
「図書室にいました」
校庭の向こうから歩いてきたというのに、花は下手くそな嘘をつく。
「理由はなんでもいいわ。早く帰りましょ」
母親は花の手を引いて、どんどん歩いていく。校庭の真ん中に残されたのは亮輔一人。
花は振り返って、亮輔を見る。亮輔には花の目を見返すことくらいしかできなかった。
エンジンの音がして、黒い乗用車は走り去った。亮輔は、花とは「同じもの」を持っているかもしれないとは感じたが、花とまったく同じものを持っているわけではないことに気づかされた。亮輔には母親も、迎えに来る車も、帰る家もない。
俺には汚い部屋と、うるさくて乱暴な施設の職員と、バカなガキどもと、血なまぐさい金属バッドしかない。あとは花と「同じもの」と、若干の、怒り、憎しみ。
バッドを握り締めて歩き出す。もう日は暮れかかっている。
帰ろう。俺にはそれしかない。

車の中で、花は母親に注意された。時間通りに帰ってくること、そしてあの傷だらけの少年には関わらないこと。花は、はい、と素直に返事をして、次に亮輔に会えるのはいつだろうと考えていた。つまり、反省なんてしていない。従うつもりもない。
花は家に帰っても相変わらず何も話さず、ずっと考え事をしていた。この街のまだ知らない場所のこと、それから亮輔に話したいと思う本のこと。でも今日は疲れていてすぐに眠ってしまった。あんなにしゃべったのは、何年ぶりだろう。
亮輔も狭いベッドの中で天井を見つめていた。同じ部屋の奴らはもう寝たようで、静かになっている。長かった一日を振り返ったが、これが現実だとは思えなかった。
突然話しかけてきた知らない少女。やけになれなれしくて、俺の名前も知っていた。俺を怖がらないし、ついてくる。俺の目を見てちゃんと話を聞いてくれた。
でも、あいつの家は金持ちで、親もいる。俺とはまったく違う環境で生きている人間だ。
今日の記憶を思い出し、繰り返す。何度も脳内再生される花の顔。亮輔もいつの間にか眠っていた。

そして、場面は冒頭に戻る。
これは二人が出会ってから一週間後の話。

暮れかかった西日に照らされた神社。影が伸びる。花は亮輔の手をとって立ち上がった。
もう亮輔は包帯がとれていて、ケガも大体治ったようだ。
二人が会ったのは一週間ぶりである。あれから花は一人でこの神社に来ていたが、亮輔が現れたのは初めてだった。
「猫触ってんじゃねえよ」
「でも、猫噛まないよ」
「そういう問題じゃない。前に汚いって言ったろ」
「亮輔に怒られると思った」
「じゃあやめろよ」
「だからありがとうって言った」
二人の会話はどこかかみ合っていない。花は人との会話が苦手である。相手の意図した返答とは違うものを返してしまう。
夕日は沈む。影が伸びる。もちろん秋風は冷たくて、ここは廃墟と化した神社である。
二人はまた拝殿に腰掛けた。夕日がまぶしい。もう帰らなければいけないのに、時間が過ぎていくのが惜しくなる。
二人は「同じもの」を持っていて、同じではない。毎日息が詰まるような生活をしている。誰とも会話せず、じっと孤独に耐える。誰も信用せず、自分だけを信じるほかない。
今まではずっと一人の方が楽だと思っていた。一人でだって強ければ生きていいける。何もない方が、荷物が少なくていい。
でも、二人は出会って、大切なものを背負っていくことも悪くないと感じ始めている。
花は思う。今まで誰かを大切に思ったことなんてなかった。自分ひとりでいいと思っていた。でも、私には新しいものを手に入れた。それは本にも書いてなくて、勉強しても分からないもの。誰も教えてくれない、自分で気づくもの。
ふと亮輔の横顔を見る。また亮輔はうつむいていた。こっちを向いてはくれないけど、それでもほっとする。
そして、花は思い出す。私、今、今を感じている。


テーマ
3

スポンサーサイト

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


まこと

 「――まこと。」
 気がつくと空を見上げて呟いていた。真っ青な青空には雲ひとつない。この空はどこまで続いているの? 私たちの頭上に広がるこの景色は、いったい、どこまで伸びていくの? 手の平に残ったただ一枚の写真が、どこで撮られた写真なのかを私は知らない。携帯のカメラで撮ったものだとまことは、言っていた。Lサイズに拡大されてはいるけれど、その分画質が粗い。構図も被写体も定まっていない。この写真を受け取ったのは、いつだったか。忘れてしまった。去年の冬だった気がするけれど、それがクリスマスの前だったか後だったかは覚えていない。まことは自分で撮ったこの写真を強引に私に押し付けた。その時の詳細な記憶はもう忘れてしまっている。だからその時どんなタイミングと理屈で、彼が私にこの写真を託したのかはもう分からない。分からないけれど、手元にはこの一枚の写真が残っている。その事実は変わらない。ずっと変わらない。こんな下手な写真でも、捨てられないことに変わりはない。その空の景色は、彼の見た世界だ。
この写真は、彼なんだ――。


 私とまことが出会ったのは大学に入学してからすぐのことだった。まことは遠くから通ってきているのに、朝からやたらめたら元気で、いつも無駄に空回っていた。教室に入った瞬間から何がそんなに楽しいのか分からない不敵な笑みをにやにやと浮かべて、教室の席の空き具合を確認して、私たちの近くの席に座る。それから、一通り近くの席の友人に挨拶周りをすましてから、講義が始まるまでマイペースに周囲の雑談に混ざって、講義が始まったら始まったですぐなんとなくうつ伏せになって、しばらくの間はそのまま手前勝手にのびのび昼寝の時間に突入したかと思ったら、講義の後半に突入した途端に慌てた風に顔をあげて、隣の席のまじめな笠田君にノートを借りて前半の講義の内容を見せてもらって大慌てで写させてもらって……。それが毎朝の光景だった。
この大学に入学したその年に、私たちは同じ研究会の班のメンバーで、それをきっかけに私たちは知り合った。研究会というのは、私たちの学科でそう呼んでいるだけみたいだから、他の所で似たような形式のものがどんな風に呼ばれているのか分からないけれど、多分ゼミのようなものを考えてもらえればいいと思う。入学したて、夢と希望に溢れたぴちぴちピカピカの新一年生に大学校生の勉強というものが果たしてどのようなものであるのか、その勉学の魂の神髄を骨、身、骨髄にまで叩き込むために組み込まれた伝統的なカリキュラム、……らしい。正直、実際にやっていることは自由研究だったのだけど。ともあれ入学したての私たちは同じ班で、同じ時間を共有していた。数十人が在籍しているとある小さな小さな学科で、適当に振り分けられたいくつもの班の枠組みに収められたうちのとある一つの班。そういうありがちな因縁で、私たちは出会った。
研究会は五人の班で行われる。班によっては四人の所もあるらしい。私たちの班はメジャーに五人だった。そんな五人で時々お昼ご飯を一緒に食べに行くことがあったりもした。大学に慣れてくると研究会の時間がある曜日、大体が金曜日(教授の都合によって曜日は気まぐれに変更された)だったから、五時限目が終わった後に一緒に大学前の喫茶店とかに入って、お喋りを続ける。そんな習慣があった。そうそう。例のまじめで背の高い笠田君も同じ班だった。そのせいでまこととは一番の友人みたいな感じだった。まことと笠田君は仲が良い。同学科の中でも二人の名コンビっぷりは定評だった。まことの人と為りを語るには笠田君は欠かせないし、笠田君の行く所にはまことが付いている。そんな感じ。残りのメンバーは私とあと女子が二人。裕美子と、水谷さん。
まことは、多分、客観的に考えても私たちの中で研究会に一番熱心に参加していたと思う。朝や昼すぎの講義とは違って先生の話は熱心に聞き入っていたし、宿題も必要以上に取り組んでいた。必要以上に、熱心に。真剣に。一生懸命に。その様を見て、私は少なからず影響されたとも思う。彼のやる気に私は触発されて、最初は何となく慢性的にこなしていた研究会の勉強や課題も、一年経つころには教授のお墨付きを貰えるほどになった。なにやら研究会での取り組みが教授たちの間でも話題になっていたらしい。カリキュラムから研究会がなくなると、私たちはそれぞれの専門分野を求めて教授に弟子入りする。それから、私とまことは、教養科目の講義でしか、会わなくなった。
この愉快で底抜けに明るいこいつとも、もうあんまり会わなくなってしまうのかな。なんて、それはそれで寂しいような悲しいような複雑な気持ちだったけれど、その時の別れなんて、同じ大学に通っていればまた適当に会えるさ、て、その程度にしか思っていなかった。そう思っていたし、事実、同じ講義を選択していてほぼ毎日といっても過言ではない頻度で私たちは顔を会わせていた。
 そして、二年生のゴールデンウィークのころ。
私はまことに告白された。


「花澤、俺、お前のことが好きなんだ。
 付き合って欲しい。」
 そんな感じに言われた気がする。帰り道がなんとなく一緒になった時のことだった。曖昧な記憶力。曇りがちだった時期には珍しく夕日が綺麗だったことは覚えてる。本当に、どうして私は大事なことなのに覚えていないのだろう。悔しい。
 けど私は、その頃アルバイト先でとても大事な問題を抱えていて、生徒一人の将来が懸っていたから、恋愛なんてできる余裕もなかったから、だから、と断言できる気もしないのだけど、その時は、何か、途方もない恐怖というか、何というか、急に怖くなってしまって、逃げ出してしまった。彼から。その時の得体の知れない何か恐ろしい何かから、逃げたくなって逃げてしまった。それで、酷いことを言ってしまった。うかつだよね。
「……お前なんて呼ばないでよ。気安い」
 最初に言ってしまったのが、そんな感じで、
「悪い。」
 と、変に弱気になるまことを見て、余計に苛立って、何か、本当に酷いことを言ってしまった気がする。
 覚えていない。悔しい。
 もしも、この時、まことの言葉を受け止められていれば、まことの気持ちを受け取れていれば。そう思うと、悔しい。
 その後、変に気まずくなって、不器用な私たちは、黙ったまま歩いていた。駅に着いたら、いつもそこでお別れだったから、私は無理やり取り繕うみたいに、私たちは友達だからさ、って片づけた。
 そっか。って、その時まことはいつもみたいに笑って頷いた。
大丈夫。その顔は、ちゃんと覚えてた。


 そんなことがあってからも私たちは元研究会のメンバーでよく飲み会とか称して集まった。まことと私は一緒に飲んだ。二年生にもなると、居酒屋にも馴染んで入りやすくなっていた。サークルで先輩に誘われて出入りするようになってから、みんな始めのころは頑なに拒否もしていた筈なのに、もう飲酒に対する抵抗感は無くなっていた。ただ、まことだけは一年生のころから積極的に飲みたがっていたから代わり映えはしない。
まことの気持ちを知ってから、私の気持ちは分からなかった。急にそんなこと言われても、って感じで。どうしてそんなこと言うの、という感覚で。ただ私の気持ちは分からなかった。だからどう接すればいいのだろう、と、困惑してしまって、当惑してしまって、距離を置いた。本当はそんなことをしたくないのに。
 私たちの間にはほんの少しだけ見えない、薄い薄い氷の膜が張ってしまったような、そんな感じ。
 それでもまことは、今までと同じように、私に笑いかけてくれたし、何も気にしていないようだった。ひょっとしたら冗談だったのかな、なんて、そう解釈すれば楽だけど、もしそれでまことのことを傷つけてしまったらどうしよう、と、不安になったし、けれどそんな私の不安は他所に、彼は空気を読んで場を盛り上げる。まことは空気を読むのが上手いのか下手なのかよくわからない。ただ空気を作るのは得意らしい。笠田君と飲み比べしてバカ騒ぎして、裕美子にちょっかいを出してあしらわれて、水谷さんの無茶振りに体当たりで挑んで大火傷して、それから私に笑いかける。
 そんな彼の態度を受けて、そしたら私は彼に何かを返さなくちゃいけない、返事をしなきゃいけない。尚更にそう思ってしまう。
 だけど。
そう思うのだけど、私は、私には、覚悟がなかったんだと思う。彼の気持ちに、応える覚悟がなかった。自信もなかった。何より、どう応えていいのかが分からなかったんだ。私は、自分の気持ちが分からなかった。だから答えようなんてなくて。有耶無耶に誤魔化すことぐらいしか、出来なかった。
 でもこれだけは言える。まことに好きだと言われた時に、心の底から、嬉しくて、心の奥が、熱くなって、溶けてしまいそうなぐらい、嬉しかった。
 ――うれしかった。
「嬉しかったよ。まこと。」
 どうして、言えなかったんだろう。あの時、あの後にでも。
 悔しい。
 この時、もしもちゃんとそう言えていたら。言えていたら、もしかしたら今頃は……。
そんな仮定の話ばかり、考えてしまう。考えたって仕方無いのに、ね。だからかな? やりきれないよ。――まこと。


 夏休みの終わりごろに、その知らせは突然届いた。
 その短いメールを見たとき、私には信じることができなくて、リンクされていた事故のニュースを読んでも実感は湧かなかった。あまりにも突然のことすぎて。裕美子にメールして、裕美子も同じぐらいに混乱していた。意味が、分からなかった。どうして、まことが。教授を通してまことの両親に連絡を取って、事実を知らされた。
 まことは旅行が好きだった。一人で日本各地の寺や神社を回るのが趣味だった。その日も、一人で旅行に出かけていたらしい。旅先での事故だったらしい。山で足を滑らせて……。それが、私たちに聞かされた話。それだけだった。全部聞いた話だった。
 自分では何も言わずに、まことは。


 やりきれない。
「なんていうかさ、バカだよね。」
 水谷さんは、崩れ切った顔で言う。バカで、大馬鹿で。良い奴だった。
「ああ、ほんとバカだよなー。本当に。なんだかね。」
「……悪く言うのはよくないよ。バカバカって。陰口になっちゃうじゃん。ばか……だけどさ。」
 裕美子は今にも吐きそうだった。
 私たち三人は集まって、それからのことの話し合いをしていた。別れの日のことを話し合っていた。
 だけど出てくるのは悪態だけで、兎に角その時は抑止しきれない止め処ない感情を誰かに吐き出してしまいたかった。現実感の分からない、事後報告。『じじつ』としてだけ突きつけられた現実感の湧かないお話を、どうにかこうにか受け止めたくて、だけどうまく受け入れられなくて。
「そうだよね。悪口言っても仕方ない。」
 水谷さんは強がってる。強がって、現実を受け止めようとしてる。
「まことに会いたい。」私は呟くように漏らす。
 堪えられない。感情が漏れる。
「……うん。会いたい。」
 サヨナラを言いたい。
 会って、ちゃんと言いたい。言いたくないけど。
 会いたいよ。まこと。


 彼の寝顔は、何も語らない。
 額縁に収まった笑顔は、懐かしいいつもの彼だった。
 ――サヨナラ。


「まことはさ、花澤さんのことが好きだった。」
 笠田君の言葉。まこととのサヨナラの帰り。電車の中で。
 日差しの強い日だった。黒い影が落ちる。
 返事はできなかった。
 田舎の電車はよく揺れた。
 座席に力なくもたれかかる。
「ねえ、花澤さん。」
 顔を上げると笠田君が立っていた。脚の長い笠田君は、黒い礼服がよく似合う、なんて、不謹慎なことが思考の片隅をよぎる。頭の中から追い払う。
 笠田君は、まことの一番の友達だ。まことの人と為りを語るには笠田君は欠かせないし、笠田君の行くところにはまことが付いている。笠田君の視線は、遠くに流れていく風景を見ていた。それから一言だけ、
「あいつのためにも、幸せになろう。」
 多分これからも、笠田君の隣にはまことがいる。
 その面影に私は、必死に湛えながら、ゆっくりうなずいた。
 みんなの、それぞれの思いを乗せて、鋼鉄の電車は帰路を走る。


視界が歪む。
 心臓がおかしくなる。
 胸が苦しい。
 喉元が張り裂けそう。
 眼球の奥が熱い。
 胸が苦しい。
呼吸がし辛い。
 脚に力が入らない。
 指先が震えて止まらない。
 胸が、苦しい。苦しい。


ふとしたきっかけで何時だかに貰った写真が机の中から出てきた。


「――まこと。」
 私は呟く。力の入れられない震える声で。
 彼の撮った下手な写真を握り締める。
 彼が見た景色。
 彼の切り取った空。
 何が撮りたかったのか分からない、稚拙な一枚。
 それを得意げに見せつけるまことの顔が、現れる。
 こんなことなら、もっと一緒に遊んでおけばよかった。まことのお勧めのパワースポット的な神社だとかお寺にお参りに行ったり、一緒に旅行したり。暇な休日に買い物に出かけたり。そんなことだってできたんだ。それなのに私は。私はそんな可能性を自分から捨てていた。どうして今頃になってそんな風に思ってしまうのか分からない。夏期講習に忙しかった時期にはそんなこと微塵も考えなかったっていうのに。どうして? 分からない。私の気持ちは分からない。
 笠田君は、まことの気持ちを知っていた。まことは、いつから私のことを想っていてくれたのだろう。分からない。
 どうして、神様はまことを呼んでしまったのなのだろう。分からない。理由なんて、分からない。そんなものに、答えはない。答えのないものを、私は求めてる。ずっと。あのときだって、それで足を止めて、勝手に壁を感じてた。
 どうして。
「まことの、バカ……。」
 残された一枚の写真。
 私の持ち物の中で、彼からの唯一の贈り物。
 残されたこの写真を見て私は彼を想う。掌を合わせる。祈る。
 彼との出会いから、それから、それから。
 毎日彼と会っていた日々を思い出す。何度も何度も思い出す。だけど鮮明には思い出せないところがたくさんありすぎて、悔しくなる。私はまことのことを知らない。まことの気持ちをちゃんと知らない。暢気で陽気なあいつのことを、私はあまりにも知らなさすぎた。私は知らない。
 彼の残した写真の意味だって、私は何も知らない。この写真を、この空を見上げてシャッターを切るまことを私は知らない。一人旅をするまことの笑顔を私は知らない。笠田君にその相談事をするまことを私は知らない。
 何度も何度も思い出す。知らないことに思いを馳せる。
 忘れないように。
 今の私には、それしかできない。
 思いを抱えて歩くしかない。


 まことの写真を空に重ねてみる。青空に、青空の写真を重ねる。
 そして今、私の視界は彼のものと重なる。彼の見ていた景色を私はこの写真を通して見る。そして彼が見ていたかもしれない空を仰ぐ。この写真は彼なんだ。
 彼と知り合って、それから、本当にわずかな時間しか共有できなかった。だけど今だって彼と私たちは一緒にいられる。そんな気がする。クールで皮肉屋な水谷さんなんかにはそんなものは気のせいだ、なんて諭されてしまうかもしれないけど、私はそう思うんだ。この写真には彼が宿っている。写真に映る景色を通じて、私はいつでも彼に会える。その瞬間に出会える彼を、私は幻影だなんて思えない。彼はすぐそこにいる。まことは、ここにいる。
 私たちは、どこにでもありがちなありふれた縁で出会った。
 友達だ。
 そしてずっとこれからも。
「幸せになるよ。まこと。」
 私は何となく空に向かって話しかけた。青空に重ねた写真の中の青空は、どこまでも遠くにつながっている。それは思い出の世界であって、まことの世界だ。まことがここにいた証明だ。
 ずっと、ずっと、遠くまでつながっている空。
 この空の先に、彼がいる。そんな気がする。


 あの時応えられなかった彼への思いを抱えながら私は生きていく。 彼から貰ったこの一枚の写真は今、写真立てに入れて机の上に飾ってある。


テーマ
写真

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


どの写真も捨てられない

だから僕は、写真を捨てた。

・ ・・・・・

「電話する。メールも」
「うん。体、気をつけてね」
駅の雑踏の中、立ち止まっている僕たちは迷惑だったろうけど、僕たちは気にしない。時間ぎりぎりまで、僕は彼女と別れを惜しんでいた。
「そうだ、写真撮ろう。記念写真」
僕は荷物の中からカメラを出した。彼女はちらっと時計を見る。
「ねえ、早くしないと、電車出ちゃうよ?」
「大丈夫」
僕は彼女にカメラを向けた。彼女は困ったような顔をしたが、こっちを向いて笑ってくれる。
「ハイ、ポーズ」
写真を撮った。
それからちょっと考えて――そのまま駅の電光掲示板を撮った。日付と時刻の記録にしようとしたのだけれど、雑踏のスナップは、図らずもなかなか様になった。
「何やってるの?」
「いい写真撮れたよ」
クイックビューを除き込んだ彼女は、呆れたように言った。
「私の写真じゃないじゃない!」
「大丈夫、そっちも撮れてるから……わ、やば」
発車時刻が迫ってきていた。
僕は彼女に手を振って、慌ててホームに走った。

・ ・ ・・・・

僕にはカメラマンになるという夢がある。地元で写真を撮り続けてきた僕は、本格的にカメラマンの修行をするため、東京に出ることにした。
彼女とは、写真を通して知り合った。去年の秋、僕が写真を撮るために入った山で、小さなデジカメ片手に、友達と紅葉狩りに来ていたのが彼女だ。デジカメを渡され、写真を撮って下さい、と頼まれた僕は、何をぼんやりしていたのか自分の一眼レフで彼女たちの写真を撮ってしまったのだ。
慌てて、自分のカメラを置き、彼女のデジカメで写真を取り直したが、具合の悪いことに、僕のその時のカメラはアナログのもので、その場で写真を消せなかった。
見ず知らずの男に自分の写真を持たれるのも気持ち悪いだろうと思い、僕は彼女の連絡先を訊いて、後日写真を郵送することにした。
すると彼女から返事が返ってきた。
写真ありがとうございました、とてもよく撮れていました。
ところで、見ず知らずの男に住所を訊かれる方が、よほど気味が悪いと考える女性の方が、多いと思いますので、ご忠告まで――
間抜けな話だが、そんなやりとりで、僕らの付き合いは始まった。彼女も写真が趣味だということで、僕らは意気投合した。

彼女は会社勤めのOLで、忙しい日が多い。僕も恥ずかしながら、東京で過ごしていく為に、夜にアルバイトをしなくてはならなかった。お互いに時間の都合がつかず、なかなか電話をすることができないため、連絡はメールが中心だった。
ある日、僕が道路工事の交通整理のバイトが終わった時のことだった。
車のいない交差点を見上げると、深夜なのに街灯が明るかった。携帯で写真を撮ってみたら、存外きれいに撮れた。
それを僕は、メールに添付して彼女に送った。
『今、バイト帰り 君もお疲れ』
返事がきたのは、朝8時頃、多分彼女が通勤の時間だろう。
『遅くまで、お疲れー 写真、カメラマンっぽいよ(^-^)こんなトコに住んでるんだね』
忙しさに、東京を紹介するという約束は叶わないままだった。
自分の住んでいる場所が、東京の中でも都会の中心から離れていること、スタジオのある目白、写真を撮りに行く新宿、同じ東京でもまったく景色が違うこと――そういった事も何も話していなかった。
『そうだ、また、東京の写真を送るよ』

・・ ・ ・・・

それから、僕たちはお互いに、写真を送り合うことにした。
隣にいて同じものを見られない分、できるだけ見ているものを分かち合えるように。
いつもは携帯の写メを送ってくる彼女だけど、休みの日に、デジカメを持って近所を巡ったらしい。境内にいた猫の写真を撮って送ってくれた。随分頑張って近付いたのに、シャッターを押した瞬間、そっぽを向かれてしまったと、メールに書かれていた。
『動物はタイミングが難しいからね。デジカメも連写モードがあるから使ってみなよ』
『うん、今度そうしてみる』

・・・ ・ ・・

僕と彼女の間で、毎日の写真撮影が習慣になった。
僕は自分の写真の練習のため、毎日都内を巡って写真を撮りに回っていた。そして一枚、一番よく撮れたと思う写真を彼女に送った。
『今指導を受けている先生は、とにかく作品の数を撮れっていうんだよ』
都内でも、青空が見える場所があるということを伝えたくて、彼女に空の見える景色の写真を送った。これを次の作品展に応募するつもりだとも書いた。
『だから、できたら写真の感想を聞かせてほしいな』
彼女のメールには一言、励ましの言葉が書かれていた。
『うん、頑張ってね』
 僕は嬉しくなって、頷いた。

・・・・ ・ ・

彼女は、その日作った、食事の写真をよく送ってくるようになった。彼女は料理が得意だ。ある時、とても豪華な料理の写真が送られてきたので、僕は驚いた。
『会社で飲み会に行った時の写真だよ』
 そう言われてみれば、そうだ。随分豪勢で、旅館の料理みたいだなとも思ったけれど、忘年会だったのだという。そういえばそんな時期でもあった。
僕はといえば、コンビニ弁当で済ませることが多いから、とても食事の風景なんかを送ることはできないけど、きっと彼女は元気にしているんだろう。
何だか、急に彼女の料理が食べたくなった。
『久しぶりに、君のカレー食べたいな』
そう返信した。
返事の代わりに、次の日のメールは、カレーで有名なチェーン店の写真だった。
『私も久しぶりにカレーが食べたくなりました
一人分作るのは大変だから』
 僕は笑って、そうだよね、と返信した。

・・・・・ ・

ある日、彼女から送られてきた写真は、彼女自身の姿だった。柔らかい笑みをこちらに向けている。
僕も写真の彼女に微笑み返した。
旅立ちの日、駅で撮った写真は部屋に飾っていたけど、彼女の姿を見たのは久しぶりで、嬉しかった。
また送ってほしいと言ったら、彼女は次から、自分の写真を送ってくれるようになった。

そうして集まったどの写真の彼女も、幸せそうな笑みを浮かべている。ハードディスクの容量はいっぱいになってきたけど、どの写真も捨てられない。猫の写真も料理の写真も、彼女から送られてきた写真は、自分で撮った作品と同じくらい、全部宝物で、大切にした。

けれど僕は、気付いた。
彼女自身の写真を撮っている人の存在に。彼女が本当に笑顔を向けている人がいることに。

写真の裏側は見えない。そのカメラを持っているであろう、ああ、恐らく男だ――その男の顔は見えない。
顔の見えない男の、その表情は僕に見えない。けれどきっと、嗤っている。
明るい方から、暗い方を覗き込み嗤っている――写真の才能もないくせに東京へ飛び出し、調子に乗って送った写真から、写真の素人である彼女まで才能を見透かされ、カメラマンではない彼女には写真を送り合うことが負担になっていて、食事の風景などと適当な写真を送るようになっていたことにも気付かず、あまつさえ捨てられたことにも気付かず――何もかもを勘違いした馬鹿な男のことを。
顔の見えない男が、顔の見えない男が、顔の見えない男が、僕を嗤っている、彼女も嗤っている、破りくしゃくしゃにした笑顔が歪んで嗤っている―――


だから僕は写真を捨てた。写真だけじゃない、カメラも、一眼レフも、スタジオの番号も、自分の名前の上にカメラマンなんて書いた名刺も、何も、何もかも―――

そう、だから僕は、写真を捨てた。

テーマ
12.jpg3
456

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


カイソウの家族

 母は、変わった人だった。私が六つのときに死んでしまった母に対してのそんな私の述懐は、当然私が六つのときまでに私が感じていたことで、小学校にも上がらない歳の、まだ常識という言葉も知らぬような幼い私が母をそう評したということは、誰から見ても変わった人だったのだろう、私の母という人は。それに対して、普通の感覚を持った他人が、具体的には近所の人ということになろうが、なんと言っていたかは知らない。幼児の世界はとても狭いのだ。当時の私の世界には、父と母しかいない。では私の世界のもう半分、もう一方の父はといえば、そんな母に父が困っているとか、あるいは怒っているとか、あるいは面白がっているとか、はたまた一緒になっている、という場面は全く思い出せない。今も昔も、父は物静かな人だ。穏やかであるとか、寛容であるとかではなく、ただひっそりと生活をしている、それが私の父である。母のいない、父と二人きりの年月の方が、三人家族のときよりもずっと長くなってしまった今、我が家に会話はほとんどない。もう慣れてしまった。というよりも、母がいた頃の家の雰囲気など、もうとうに思い出せないのだ。

 母がいた頃の記憶、というのは斯様にもうほとんど私の中から消えうせてしまっているが、唯一といっていい母との記憶が残っている。海に行ったときの記憶である。具体的な日にちや、場所はもう思い出せないのだが、母と海に行った、そして母がこんなことをした、ということを覚えている。母のしたこと、というのは以下のようなことである。

 母に連れられて海に行った私は、麦藁帽子を被って、赤いサンダルを履いて、砂遊びに使うような小さなバケツを持って、波打ち際を歩いていた。
 私は幼い頃から、一人遊びばかりする子供だった。そして父も母も、そんな私を好きにさせていた。特に父とはどこかへ一緒に行ったことも、遊んでもらったこともない。別段、私はそれに不満を覚えることはなかったし、むしろ私にとってそれは当然のことだった。母も一人で遊ぶ私を概ね放っておいたが、時折何か思い付くと、私を連れ回したり、話を聞かせたり、妙なゲームに参加させたりした。私はそれを拒むことをできたが、拒む以外の一切の私の意見を、母は聞き入れたことがない。しかしそれは、父が私に構わないのと同じで、母が私を母の思い付きに付き合わせるのは当然のことで、やはり私はそれに不満を抱いたことはない。そうした父と母であったから、そのときも、海に行くのは私と母だけで、海に着くと私は一人で遊んだ。
 私は、波打ち際に沿って歩きながら、打ち上げられた貝殻を拾っていた。時折高い波や低い波が違う場所を洗ったが、波が届くところはだいたい決まっていて、波が被るところと被らないところのその境目に、帯のように貝殻が積もっていた。その白い帯と海の間を、じぐざぐに歩きながら、私は綺麗な色のものや、完全な形で残っているものを選んで、バケツの中に溜めていった。バケツが重くなった頃、私が久しぶりに顔を上げると、遊ぶ前に母と決めた集合場所からかなり離れてしまっていたので、私は方向転換して、来た方向に向かってまた歩き出した。行きに同じ場所を通っているはずなのに、もう一度見てみると、まだ拾いたくなるような貝殻はたくさんあった。私はさらにバケツに貝殻を拾いながら、踏むと少し沈む濡れた砂の上を歩いた。
 母は、決めた場所で座ってぼんやりとしているように見えた。遠くから、母だと見分けが付くような距離からも、呼べばその声が届くような距離からも、私が母の目の前に立ってさえ、母は海を見たまま身動きもしなかった。その足元には、乾きかけた海草が砂に塗れていた。母の座っているその場所は、波が届く範囲から随分と離れたところだったので、母が持ってきたのだろうと予測は付いた。しかし、母が何を考えているのかまでは分からない。
「お母さん、」
 と私は声をかけた。母が何かを思い付くまでは、私が話しかけないと母はこのまま物思いにふけっているのを、私は知っていたからだ。
「お母さん、見て。貝殻拾ったの」
 ずっしりと重くなってしまったバケツを置いて、私は貝殻を一つ一つ取り出して砂の上に並べた。母は黙って、貝殻を並べる私の手元を見ている。
「一番綺麗なの、お母さんにあげる。それが好き?」
 そう言って、私はどんどん貝殻を並べていった。どの貝殻も私には宝石のように見えた。母がどれを取っても、私は惜しくない。母が選んだもの以外は、全て私の貝殻なのだから。そう思っていると、母は砂の上の貝殻ではなく、まだ貝殻の入っているバケツを手に取った。
「バケツ、貸して」
 そう言って、母は立ち上がると、海に向かって歩き出した。残された私は、母に選んでもらえなかった砂の上の貝殻を眺めた。やはり、どの貝殻も宝石に見えた。母は一体、貝殻を見ずに海に何をしに行ったのだろうと顔を上げて母の姿を目で探すと、母は波打ち際の辺りで行ったり来たりしている。母も、私のバケツに何か拾っているのだろうかと考えながら、砂の上の貝殻と、母の姿との間で視線を往復させて私は座っていた。やがて、母は帰ってきて「帰るわよ」と言った。母の手のバケツの中には、もう貝殻は見当たらなかった。その代わりに、ぎっしりと海藻が入っていた。私は、砂の上に並べられた貝殻をそのままにして、母の余った方の手と手をつないで帰った。
 家に着いた頃には、バケツの中の海藻は乾き始めていた。家に上がると、母は台所に直行して、海藻の入ったバケツに水を張った。そしてそのまま、蛇口を開いたままで、母は部屋でごそごそ探し物を始めた。私は、一体母が何を始めるのかと、じっと台所の隅で水の流れる音を聞いていた。台所に帰っていた母は、カメラを手にしていた。母はまずカメラを置き、次に蛇口を閉め、縁いっぱいまで水の入ったバケツの中に手を入れて、海藻を一つ、取り出した。
 持って帰ってくるまでに乾いて、縮んでしまっていた海藻は、水を吸ってぬるぬるとした質感に戻っていた。その緑色の海藻の切れ端を、まな板の上にきちんと広げて載せて、母は持ってきたカメラで写真を撮った。緑色の海藻は除けられ、次の海藻がバケツから取り出されて、また母は写真を取った。それが終われば次の海藻、そしてまた次の海藻、と、結局母はバケツに入っていた全ての海藻の写真を取った。途中で一度、いくつめかの海藻を写真に収めた後、カメラが騒々しい音を立ててフィルムを巻き取り、どうやら入っていたフィルムを使い切ったようだが、母は構わず買い置いてあった新しいフィルムを持ってきて、写真を取り続けた。私は、それを最後まで眺めていた。
 写真を撮っている最中、母は何も言わなかった。写真を撮り終わると、シンクには水の入ったバケツと、積み上げられた海藻が残された。父は、それに対して何も言わなかった。次の日の朝には、海藻は綺麗さっぱり、跡形もなくなっていた。もちろん、一枚の貝殻もなかった。
 海に行った日からしばらくして、一人で絵を描いていた私を母が呼んだ。描きかけの絵をそのままに、母の元に行くと、母は大きな模造紙を床に広げているところだった。四隅に重石を載せられた模造紙の上には、ピンクの蓋のマジックと、カメラ屋の封筒が載っている。母は私を模造紙のすぐ横に座らせると、自分も床に腰を下ろして封筒を開いた。写真の束を母は取り出して、一枚を模造紙の左上に置いた。あの、海藻の写真だった。
「これはピッピ」
 母は、私に言い聞かせるようにそう言って、マジックの蓋を外し、写真が置かれたすぐ下に「ピッピ」と書き込んだ。その文字の下に、もう一枚海藻の写真を置いて、「こっちはヌル」と呟きながら、やはり「ヌル」と書き込んだ。その次に、模造紙の「ピッピ」と「ヌル」の文字の間を二重線でつなぎ、その二重線からフォークのように先が四つに分かれた線を引き、その線の先に写真を置いて、「ブブとナメとリオーとヨンヨン」と言って、その通りに書き込んだ。
 私は、母が一体何をやっているのか分からなかった。分からなかったが、写真を置き、文字を書き込み、線を引く母を見ていた。母は、私に聞かせるように言葉を発したが、いつものように私に意見を求めず、また会話もせず、淡々と作業を進めていく。部屋の中には、意味の分からない母の呟きと、インクが切れかけていてフェルトと紙が酷く擦れるマジックの嫌な音だけが響いた。
 模造紙がいっぱいになると、丁度母の手の中の海藻の写真も切れたらしく、母はマジックのキャップを閉めて立ち上がり、自分の仕事の成果を眺めた。海藻の写真が並べられ、その一枚一枚に文字が添えられ、二重線や一重線で結ばれているそれは、完成してもやはり私には何なのか分からなかった。おまけに、インクの切れかけたマジックのせいで、ピンク色で書き込まれた線も文字もかすれて、特に最後の方に書き込んだ部分はもうほとんど読み取れないほどだった。しかし、母は出来に満足したらしく、うっすらと微笑を浮かべている。
「お母さん、これ、何?」
 何も言わないで微笑んでいる母に、私はようやっと聞いた。その言葉は、やはり私には意味が分からなかった。しかし、今なら分かる。母が、何故あんなものを作ったか、と言うことについては分からないが、母が何を作っていたのか、今の私には分かるのだった。
「海藻の家族よ」
 母は、拾ってきた海藻の写真を並べて、家系図を書いていたのだ。

 私が覚えている、母の記憶はこれだけである。母の性格からいって、おそらく忘れてしまった母との記憶の他のものも、これとあまり変わらないだろうと思う。母の行動はいつも、こうしたものであったからこそ、私は母のことを変わっていると結論を出したのだろうと思うから。
 この唯一の母との記憶は、記憶は残っているが、記憶よりもよっぽど後に残りそうなこの海藻の家系図自体は、もう家のどこにあるのかも分からない。母が死んだときに母の持ち物は整理されて全て仕舞い込まれてしまい、以来私も父も取り出そうなどしたこともない。むしろ、遺品を整理したときに、それこそ何が何だか分からないような写真と模造紙など、捨ててしまったかもしれない。何にせよ、私には記憶だけ、この海藻の家系図について残っている。

 そしてわざわざ、こうして事細かに海藻の家系図について思い出したのは、夢を見たからだ。夢の中で私は、たくさん棚が並べられた店にいた。狐のような吊り目の店主によると、棚の中には私の記憶が入っているらしい。腰くらいの高さの棚は数限りなく並べられ、そこについた引き出しは、浅いものも深いものも、様々、もちろん棚の数よりたくさんあった。言われるがままに、私は引き出しをいくつも開けた。
 記憶が入っている、と言った割には、私はそこに何が入っていたかを覚えていない。私が、母との記憶をたった一つしか覚えていないように、思い出そうとしないから気付かないだけで、実は私の記憶というのはほとんど忘れてしまっているのだろうか。そもそも夢だから、そういう考え自体がナンセンスなのか。起きてから思い出そうとしても、鮮やかだった夢が全く思い出せないことなど、よくあることであるし。
 しかし、そんな引き出しの中で、はっきりと入っていたものが、目覚めても思い出せたのが、海藻の家系図なのである。たしかに、引き出しの中に入っていた。折り畳まれて入れられた模造紙の上に、写真の束が入っていて、夢の中で私は写真をぱらぱらめくり、模造紙も取り出して広げたのも覚えているのだ。折り目の付いた模造紙には、かすれたピンクの線が、ところどころ読めないほどかすれていたが、線や文字を描いていた。しかし写真が置かれていないせいで、写真の大きさの白紙部分があちこちにあって、虫食いのようになっている。棚の上に模造紙を広げて、写真を並べようとしたところで目が覚めたのだ。

 そして今、私は机に座って、白い紙を前にペンを持ったまま動けないでいる。目が覚めたばかりで、つい今さっき、私は夢の中で母の書いた海藻の家系図を見たばかりなのだ。あまりにもその夢が鮮明だったせいで、急いで私はそれを書き写してみようと机に座って紙とペンを取り出したのだが、もう遅かった。どんな文字がどこに書かれ、どういう風に線でつながれていたか、私は思い出せない。思い出せる記憶の中でも、さっき見た夢の中でも、私ははっきりとそれを見たはずなのに、私は線の一本も紙に引くことが出来ない。どんなに思い出そうとしても、模造紙の上でかすれたピンクの線はどろどろと溶け出し、もう判別できない。
 私は、溜め息を付いた。けれど、海藻たちは皆ちりぢりになったままで、もう一度家族に戻ろうとしても、もう戻れない。


テーマ
写真

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


バクマソ

「俺と一緒にニヤ動の頂点を目指してくれ」
 訳の分からないまま、私は兄貴に手を握られていた。興味本位とは恐ろしいものだ。全く、なんでふすまを開けようなんて思ったのか。

 そもそものきっかけは、我が家に開かずの間ができたことから始まる。我が高城家には二階にそれぞれ私と兄貴の部屋がある。私の部屋は自分で言うのもなんだけど、変哲もなかった。ちょっと小物が多い気はするけど、女の子の部屋は大体こんなものだろう。
 問題の開かずの間は、隣に存在していた。その部屋の主は、高城夢人、私の兄貴だ。高校に通っている私と違って、学校には行っていない。少し前まではフリーターをしていた。
 彼は、世間一般にいうヲタク像を具現化したみたいな人だった。体形は脂ぎってないけど、細身で長髪眼鏡。アルバイトして得た収入は、名前の分からないアニメキャラのフィギュアや、聞いたこともないアニメソングのCDに費やしていた。部屋で勉強していると、たまに変な歓声が漏れ聞こえるから困る。
 ただ、二―トになっていないだけ、まだマシだった。まだ、マシだった。大事なことなので二度言った。最近、兄貴の影響で妙なスラングを覚えちゃったから困る。話を戻すけど、その兄貴が最近になってアルバイトをやめたのだ。その時からだった。我が家に開かずの間が出現したのは。
 隣の兄貴の部屋のふすまは、いつも閉じられていて、私がいる間は決して開かれることはなかった。兄貴はノックなしで部屋に入るとかなり怒るので、用があるとき、ノックは欠かせなかった。今までは、ノックしたらすぐに反応が返ってきた。だけど、最近はノックしても知らん顔を決め込むのだ。
 一応、ご飯やトイレのために外に出ることはあるようだ。だけれども、それ以外は部屋に閉じこもりっぱなし。母親にさえ、無断で部屋に入ることを許さなかった。

 こうして、開かずの間が出来てから、早一ヶ月が経とうとしていた。ここまで来ると、何をやっているのか非常に気になって仕方無い。家族にさえ話せないなんて、よっぽどのことだ。なんか、鶴の恩返しに出てきたおじいさんの気持ちが分かる気がする。兄貴が鶴になってはたを織ることはまずないと思うけど。
 そうして迎えた運命の日。私は意を決してふすまの前に立った。いよいよ禁断の扉を開くとき。深呼吸して、扉に手をかける。そうしたまま、しばらく固まった。最悪のケースが脳内を駆け巡ったからだ。もしも、兄貴が犯罪に手を染めていたらどうしよう。その可能性は十分にあり得る。麻薬をネットで取引していたり。果ては、秋原葉の通り魔事件のような犯行を企てていたり。そう思うと、膝が震える。しかし、ここまで来て諦めるわけにはいかない。でも、このまま突入するのは頼りない。
 護身用バットを持ち出すのがセオリーだけど、生憎私はテニス部。なので、愛用のラケットを手に、再びふすまに向き合った。ポケットには、携帯電話を忍ばせてある。いざとなったら、これで110番を押してやる。
 さすがに一気に御開帳する勇気はない。なので、気づかれないように、少しずつふすまをずらす。数ミリ動かしたところで、音楽が漏れ出てきた。シャカシャカシャカシャカ。電車の中でヘッドホンから漏れ出ているあの音だ。兄貴もヘッドホン持ってたから、音楽鑑賞してるのかな。どうせ、「じゅうおん」の曲だろうけど。
 音は確認出来たけど、肝心の兄貴の姿が見えない。机にかじりついてるなら、この隙間からは死角になるのだ。そこで、音をたてないように注意しながら、更に隙間を広げる。すると、机の片鱗が見えてきた。よし、あともう少し。兄貴め、お前の悪事はそれまでだ。悪いことをしているなら、お縄を頂戴しようぞ。……なに考えてんだろ、私。こんなこと妄想してたなんて知れたら、兄貴に「厨二ワロスwww」とかってなじられる。

「誰だよ」
 やばい、気づかれた。けだるそうに兄貴がこちらに近づいてくる。逃げた方がいいかも。でも、ここまで来てしっぽを巻くのも癪だ。こうなったら、とことん戦ってやる。運動部で培った体力、運動不足の兄貴に負けてられるか。
 そうこうしている間に、隙間を通して兄貴と目があった。兄貴は怪訝そうにこちらを見つめている。兄弟とはいえ、ここまでまじまじとのぞきこまれると気恥ずかしい。べ、別に恋愛感情なんて持ってないからね。
「お前」
 兄貴が口を開く。私は気を引き締め、ラケットを持つ手に力を込めた。さあ兄貴、来るなら来い。
「ガラス越しじゃないガラス越しのキスがしたいのか」
 私はあいた口がふさがらなかった。この場合は、前に兄貴に教えてもらった「綺羅星」を返せばいいのだろうか。って、そんなのはどうでもいい。
「なにバカなこと言ってるのよ。セクハラで訴えるわよ」
「そっちこそ、プライバシーの侵害じゃないか。ノックなしで入るなって言っただろ」
「それは悪うございました。でも、もう何日も部屋にこもりっきりじゃない。いったい何をやってたのよ」
 その答えは、パソコンから流れてきた。こっちに来るために、兄貴はヘッドホンを外していたのだ。

♪くっみ、くみにしてやんよ~

「……この音楽何?」
「ま、まさか初音クミを知らないのか」
 はつおとくみ。クラスの一部の男子がそいつが好きって公言してたな。確か、ボーカロイドだっけ。自由に歌わせることができるプログラミングソフトのキャラクターってのは知ってるけど。青い髪のポニーテールの美少女で、手にはなぜかごぼうを握っている。まあ、兄貴が好きそうなキャラクターではある。
「もしや、ずっと部屋にこもってこれを聞いてたの」
「失礼な。俺はそんなに暇じゃない」
 暇そうじゃん。二―ト予備軍、むしろ完全なニートじゃん。バカバカしくなって部屋に戻ろうとすると、兄貴が呼びとめた。
「まあ待て。ばれてしまったものはしょうがない。お前にどうしても見てほしいものがある。さあ、今日は特別に我が牙城に招待しようではないか、美穂よ」
「いきなり招き入れるなんて、変なこと企んでないわよね」
「失礼な。俺は妹萌えではないぞ」
 萌えないと言われたことに対してちょっと卑屈になったのは気のせいだろうか。兄貴の趣味に合わせる気はないし。
 せっかくお呼ばれされたんだから、牙城に踏み入ることにした。兄貴の部屋に入るのっていつ以来かしら。相変わらず、部屋のあちらこちらを人形やポスターが占領している。明かに十八禁な行為をしているアニメキャラのポスターもあった。こんなの母さんに見せたら即座に破かれるに違いない。
「ほら、ぼさっとしてないで、これを見てくれ」
 兄貴がパソコンの前で手まねきする。ブラウザにはニヤニヤ動画が映し出されていた。Yo! Tobuと双璧をなす動画投稿サイトだ。ニヤニヤ動画は、会員制だけど、動画にコメントをつけられるなどのメリットがある。まあ、私はYo! Tobuしか使ったことないんだけど。
 それで兄貴が再生しようとしている動画は、「【初音クミ】もういっそ燃やして【オリジナル曲】」というものだった。再生数五百万。基準はよく分からないけど、とにかくすごい人気ということは分かった。
「今ニヤ動で注目を集めている、にいぬまPの代表曲だ」
 そう言って再生ボタンを押す。プロの楽曲に比べたら安っぽいイントロの後に、独特の機械音の歌声が入る。どうやら、恋に燃える女心を歌った曲のようだった。

♪もういっそ燃やして、あなたの心の火で
 私は溶けてしまいそうよ、もういっそ殺して
 あなたの愛で

 聞いているこっちが恥ずかしくなりそうだけど、これが五百万再生だから、大したものだ。
「意外といい曲だけど、これがどうかしたの」
「まあ、曲がいいのは認める。だけど、問題なのはこのにいぬまPなんだ」
「さっきから言ってるにいぬまPってなんなの? どっかの商品CM」
「違う違う。Pはプロデューサーの略。この曲の製作者だ」
 歌がはつなんちゃらだとすると、作詞や作曲を担当している人ってわけか。すごそうな人っぽいけど、兄貴はどうしてこの人にこだわるのかしら。
「そんじょそこらのPなら、俺も気にならないさ。だが、これを見たまえ」
 ニヤニヤ動画の検索バーに「にいぬまP」でタグ検索をかける。すると、十二件ヒットした。どれもあの曲と同じく、初音クミや、鏡音リリィなどに歌わせた動画だ。
「このにいぬまPは、約一年前に、初めてニヤ動に投稿したんだ。それがさっきのもういっそ燃やして。そして、その後も一ヶ月に一回というペースで投稿しつづけている。しかも、そのほとんどが十万再生越え。おまけに五作がミリオンを達成している。新参にしては、まさに驚くべき実績なんだ」
「すごい人ってのは分かったけど、その人普段何してるの」
「そこが問題なんだ。ネット記事だから正確なことは言えないが、どうやら、現役の高校生らしい」
「高校って、私と同じくらいじゃない」
 高校生作家なら聞いたことあるけど、ネット上でそんなのがいたなんて。そういえば、個人用のページで作品を公開してる人って、けっこういるみたい。なので、そんな人がいても不思議ではない。
「高校生でこれだけのヒット作を生み出せるんだ。ならば、俺とて負けてられない。あぎしろPとして、二ヤ動に名を残す……はずだったんだが」
 そう言って兄貴は肩を落とす。そのままパソコンを操作して、ある動画のページを開く。それは、「初音クミオリジナル曲日本一」というものだった。製作者はあぎしろP。つまり、兄貴が作った曲か。もしや、ここ最近こもりっぱなしだったのはこれを作っていたからなのか。
 家族をも寄せ付けないほど集中していたんだ。さぞかしすばらしい作品に違いない。そう期待したものの、その曲の出来栄えは愕然とするしかなかった。

♪日本一、日本一
 俺の嫁は日本一
 天井天下唯我独尊完全無敵勧善懲悪連戦連勝一心不乱

「これはひどい」
 その曲に付けられていたタグをつい読みあげてしまった。メロディーはまだましだけど、歌詞がひどすぎる。俺の嫁は日本一の後に四文字熟語を羅列しているだけなのだ。どうやったらこんな歌詞を思いつくのか。
 奇抜さを狙ったに違いないが、結果は空回りで再生数三百八だった。にいぬまに比べたら雲泥の差だ。兄貴をズタボロに攻めてるようで悪いが、引きこもった割にはあまりにお粗末な作品である。
「これさ、メロディーはいいんだから、歌詞をどうにかできないの」
「歌詞か。いろいろ考えてはいるんだけどな」
「じゃあ、こんなのどう」
 とっさの思いつきで、私は鼻歌交じりで歌い出す。

♪恋心、恋心
 私あなたに捧げます
 一心不乱に追いかけた、あなたの背を見つめながら、私今でも思ってるよ、あなたのことだいすきだって…

 ああ、やだやだ恥ずかしい。場の雰囲気でつい熱唱しちゃったけど、こんなの人前で出せるような詩じゃない。これ作ったのが私ってばれたらどうしよう。
 しかし、危惧すべきは、兄貴の前で歌ってしまったことだった。まさか、あんな展開になるなんてこの時は思ってもいなかったのだ。
「す」
「す?」
「す、す、す、す」
 兄貴が壊れた。元からそうか。
「すぅんぶぅあらすぅい!」
 その奇声はこう表現するしかなかった。ご近所の皆さん、間違ってもここには不可解な鳴き声を発する未確認生命体はいませんよ。
「み、み、み、美穂よ。お、お前に作詞の才能があったなんて」
「あの漢字いっぱいの部分をラップにできないかなって思っただけよ。あの詩も適当だし」
「いや、いける。お前のその才能さえあれば、にいぬまを抜かすことだってできる。そうだ、俺の曲の作詞を担当してくれないか」
「随分突拍子もないことを言うのね」
 嫌がってるのをお構いなしに、手を握ってブンブン振りまくる。プロでも作詞と作曲が別々ってのは普通だしな。作画とストーリーを別々に担当するマンガよりは珍しくないか。
「協力してあげなくもないけど、条件があるわ。まず、私が作詞していることは伏せること」
「任しとけ。あぎしろP名義で出している限り、お前はおろか、俺の名前がばれることはない」
「それともう一つ。協力するのはこの一回きりだからね。ただ、これでにいぬまって奴のを抜かせたら考えてあげてもいいけど」
「にいぬまを抜かすか。ならば、一ヶ月以内にミリオン達成でどうだ。にいぬまの第一作がミリオン達成したのは投稿から三十三日後だから」
 よくそんなのチェックしてるわね。そんな暇があったら、もっと社会に役立つ知識とか身につけなさいよ。と、説教しても意味ないか。
 兄貴は再び私の手を握り、今度は降らずに力を込めた。
「さあ、美穂よ。俺と一緒にニヤ動の頂点を目指そうじゃないか。そう、俺はニヤ動王になる」
「兄貴、あんたいつからルーフィになったのよ」
 ルーフィは週刊少年ジャンボで連載されている海賊漫画の主人公である。それはどうでもいいとして、こうして私は兄貴と一緒にボーカロイドの曲作りに励むこととなった。

 そう決まっちゃったものの、私は普段学校で忙しい。休日だって、テニス部の練習がある。ほぼニートの兄貴にかかりっきりというわけにはいかなかった。なので、あらかじめ兄貴に考えておいた詩を渡しておいて、兄貴がそれを元に曲を作るという方式をとった。曲そのものは悪くないから、これなら多少ましな作品ができるでしょ。
 作詞と作曲を別にすることで作業時間が大幅に短縮され、一ヶ月語にはPVも含めて第一作が完成した。二人がかりでここまでかかるんだ。にいぬまは全過程を一人でやって一ヶ月に一本出し続けている。同じ高校生として、どこにそんな時間があるのか知りたい。
「よし、じゃあ送るぞ」
 いよいよ渾身の作品が世にお披露目される時がきた。あの日本一の歌を大幅に改編した、その名も「初音クミオリジナル曲 純愛歌」だ。奇をてらわない王道ラブソング。にいぬまの代表曲「いっそ燃やして」に真っ向から勝負を挑む。ふふふ、にいぬまよ、お前の天下も終わりだ。……やばい、兄貴に毒されてきたかな。
 投稿完了の画面が出ると、私と兄貴はホッと一息ついた。あとは野となれ山となれ。ヒットするかどうかは、視聴者にゆだねられているのだ。
「兄貴、にいぬまに勝てるといいね」
「そうだな。あいつもそろそろ新作をうPしてくるはず。それとどちらが再生数を稼げるか勝負だ」

 それから一ヶ月が経過した。いよいよ約束の日だ。この日までに兄貴の曲がミリオンヒットを出していなければコンビは解散だ。でも、不思議とそんな気はしていなかった。むしろ、いけるんじゃねって思いでいっぱいだった。だって、あんな自信作なんだよ。ヒットしない方がおかしいに決まってる。
 学校から帰った私は、部屋にかばんをはしたなく放り投げると、ノックもせずに兄貴の部屋に突撃した。思ったとおり、すでに兄貴はパソコンの電源を入れて、ニヤニヤ動画にアクセスしている。私のお陰でミリオンヒット。感謝感激雨あられ。うーんそんな展開が目に浮かぶ。

 ……感謝感激雨あられ。そうなるはずだった。
 でも、兄貴はうなだれていた。その背からちらりと画面をのぞく。私たちの共作が映し出されている。
「うそ……」
 再生数十万。ミリオンには程遠い。兄貴の作品にしては再生数を伸ばせた方であった。でも、約束の数字には全然足りない。
「ちょっと、どういうこと。なんでミリオンになってないのよ」
「やられた」
「やられたって」
 兄貴は無言でパソコンを操作する。そして、ライバルにいぬまのファーストシングルの動画を探り当てた。そのままその動画を再生する。
「この曲となにか関係あるの」
「このタグを見てくれ」
 指し示した先にあったのは、「Boy sound配信中」のタグ。ボイサウンド。カラオケにはたまに行くから聞き覚えがある。GAMやUZAと並ぶカラオケの機種の一つだ。それに配信中ってことは。
「この一ヶ月の間ににいぬまの曲がカラオケ配信されたんだ。そして、関連動画でにいぬまの他の曲も根こそぎ再生数を伸ばした」
「でも、兄貴の曲だって、十万もアクセスされたんだよ。そんなに気にすることないじゃん」
「いや、やはりニヤ動はインパクト勝負だ。ボカロにおいては、やはりカラオケ配信された曲の方が強い。そうでなければ、よほどの神曲か奇曲だ」
 実際のオリコンでもタイアップ曲の方が強い。そういうのがもろ反映されてるんだな。なんて、しみじみしている場合じゃない。兄貴が言うには、カラオケ化されるには、リクエストで票を集めないといけないとのこと。そうなるためには、それこそ多くのユーザーの支持をかき集めないといけない。やっぱり再生数ありきかな。
「こうなったら作戦を変更するしかない。このまま王道のポップスを作っても、にいぬまに勝つことはできない。ならば、裏をかくんだ」
「裏って、ボカロにそんなのあるの」
「王道がダメなら邪道だ。リアの世界でいうなら、羞恥心が王道なら、悲壮感が邪道ってとこだな」
「まさか、にいぬまの曲をぱくるの」
「そこまで邪道なことはしない。一流歌手に歌わせたらブーイングが来るような奇をてらった歌で攻めるんだ」
 要するにお笑い芸人が歌うような変な歌を作れってこと? それなら兄貴が初めに作ったあの歌詞でもいいような。そもそも、約束は果たせなかったんだし、これ以上協力する義務なんてないはず。
 そうはいっても、一度乗りかかった船。中途半端に降りるのもなんか癪だった。兄貴がそういうのならちょっと壊れてみようじゃないの。
「これがラストチャンスよ」
「もしや協力してくれるのか」
「究極に恥ずかしい歌作るんだから、これで駄目だったらもう協力しないわよ」
 言うが早いか、私は早速部屋に閉じこもった。兄貴の四文字熟語羅列がなんだ。にいぬまの王道がなんだ。こうなったら兄貴に協力なんて関係ない。私の本気を見せてやるんだから。

 こうして更に一ヶ月後。中間テストを赤点ギリギリでクリアし、テニスの試合をそつなく一回戦敗退で済ませ、私の力作が完成した。兄貴で言うところの、青春を生贄に、歌詞を召喚ってとこかしら。ジャンボ読んでた時期あったから、元ネタは知ってる。
 さっそく兄貴の部屋を訪れ、渾身の力作を披露した。ルーズリーフに書き記された私の暴走を、兄貴は真顔で目を通していく。

♪この世なんてくそくらえ、くそくそくそくそくそくそくそ
 働きたくない就職したくない、いっしょあそびたーい
 (ニート! ニート! 永遠ニート!)

「私なりにニヤ動で流行している歌を分析して作ってみたの。で、モチーフは身近な人にしてみたらどうかなって」
「まさか、これ俺に捧げる歌ってことか」
 思い切り「ニート」ってけなしていることを無視して、兄貴は若干目をうるわせていた。
「やはりおもえのしゃいのはしゅごいよ」
「ちょっと、なに泣きそうになってるのよ」
「ニャニテナヌカヌ」
 泣いてなんかないって言いたいのね。これは、ネットスラングだとオンドゥル語かしら。ニヤ動を見てたら偶然知ったんだけど。オンドゥルラギッタンデスカって。
 その後、兄貴は数回深呼吸して、ようやく気持ちを落ち着けたようだ。
「いやすまんすまん。つい神曲が降臨したんで、とりみだしてしまったよ。ここまでぶっ壊れていれば、十分話題性で勝負できる。よし、後は俺にまかせとけ」
 兄貴はブイサインを送ると、さっそく初音クミのプログラムを立ち上げた。そして、ものすごい音をたててキーボードを叩いていく。兄貴にブラインドタッチやらせたら恐ろしい結果を出しそうだな。

 それから二週間後。ついに、第二作となる(自称)神曲「初音クミオリジナル ニート死ね」が完成した。完成して見ると、我ながらよくこんなキチガイな歌詞が書けたなと、自分で感心してしまう。でも、勝負はここからだ。いくら自分で満足していても、全国のユーザーに認められなければ意味はない。
「よし、うPするぞ」
「待って」
 私は兄貴の手に自分の手を重ねた。
「一緒にうPしたいってか」
「べ、別にそんなのじゃないから」
 ツンデレってやじられるのを覚悟したけど、そんなことはなかった。私と兄貴は一呼吸おいて、ともに左クリックした。

 今思うと、あの時の体験が、私の人生の岐路になっていたと思う。そりゃまあ、邪道とはいえ、ミリオンヒットを達成したんだもの。嬉しいに決まっている。でもさ、できれば王道で勝負したかったな。そんな私は、あるコンテストに応募した。すると……。

「おお、出てるぞ、お前の名前」
 ニート死ねがミリオンを記録してから六年の月日がたち、兄貴が正真正銘のニートになってしまった頃、深夜番組を見ていた兄貴が大騒ぎした。夜中に騒ぐなよ、こっちは仕事帰りで眠いのに。
 目をこすりつつも、兄貴の部屋に行くと、大騒ぎの理由がはっきりした。兄貴が見ていたのは、大人気のアニメ「とある手術の超火炎(ファイア)放射器(ガン)」。改造手術を受けて左手に火炎放射器を埋め込まれた少女と、生まれつき炎に強い「火炎(ファイアー)殺し(ブレイカー)」の能力を持つ少年の物語だ。そのアニメの主題歌「only my firegun」のクレジットが騒動の発端だったのだ。作曲や歌に連なってある名前が表記されていた。それを見て私もそっと笑みを浮かべるのだった。

 作曲 高城美穂

※この物語はフィクションです。実際の人物、団体、出来事、動画投稿サイト、アニメ、週刊少年ジャンプに連載されている漫画とは一切関係ありません。


テーマ
6

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


交差点の奇跡

「おーい、そこのグレーのマフラーした坊ちゃん」
聞き覚えのない、若い男の声が背後から聞こえた。いきなり坊ちゃん呼ばわりとはいい度胸をしているじゃないか。いらっとして、顔をしかめながら振り返る。
「……あれ」
俺の後ろには誰もいなかった。だとすると、さっきの声は一体どこから聞こえてきたのだろう。不審がりながら辺りを見回す。真夜中の交差点には人っ子一人おらず、声の主は見当たらない。……そもそも俺に向かってじゃなかったのか? とんでもない自意識過剰だ。恥ずかしい。
「違う、ここだよここ」
また声が聞こえる。どこだよ、と軽く悪態をつきながらももう一度見回す。……やはり見当たらない。色々考えるのが面倒臭くなって、疲れてんのかなと呟いてその場を離れようとする。
「あ・し・も・と」
語尾にハートでも付きそうな猫撫で声。一瞬で全身の鳥肌が立つ。
「気持ち悪っ……」
思わず思ったままを口走ってしまった。いくら事実だとは言っても、言い方が悪かったかもしれない。
「悪かったな! でも文句言う前にこっち見ろよ!」
気持ち悪さは自覚していたらしい。しかし、足元に一体何があると言うのか。小さなスピーカーでも落ちているんじゃないかとよくわからない期待をしながら足元を見ると……そこには一匹の黒猫がいた。毛並みは美しく、すらっとした体形で、野良にしては小奇麗すぎる印象を受けた。
「やっ」
そう言う声に合わせて、その猫は片手を上げる。まるで挨拶でもしているみたいだ。それ以前に、あぐらをかく猫なんているのか?
……いやいや、夢でも見てるんだきっと。白昼夢じゃないけど、帰宅途中に夢を見るなんて、俺もよっぽど疲れてるんだな、うん。仕事のしすぎかなーあはは。俺はそんなことを考えて、目をこすりながらゆっくりと踵を返す。
「そこ、自己完結しようとするんじゃない」
幻聴だと信じたい。っていうか誰か肯定してくれ。真夜中すぎて周りに誰もいないけど。
「聞こえてるんだろ?」
背後から聞こえるのは、さっきの猫撫で声とは打って変わった尖った声。確認というより非難しているように聞こえる。俺はここで何か行動を起こしたら負けだと思って、そのまま無言で立ち尽くす。
「……」
あまりの静けさに、耳鳴りがする。遠くの方で救急車の音が聞こえた気がした。寒いなあ、早く家に帰って寝たいなあとぼんやり思う。
「……お願いだから、無視しないでくれよ……」
さっきまでの声の強さが、一気に弱まる。所々震えたその声は、耳鳴りでかき消されそうになりながらも俺の耳に届いた。と同時に、ものすごい勢いで後悔した。自分がとんでもなく酷いことをしたのではないかという思いが、俺を振り返らせる。
「あっ、やっと反応したな!」
嬉しそうなその声は、一瞬前まで泣きそうになっていた人(猫?)と同一人物から発せられているとは思えなかった。どうやら泣きまねに騙されたらしい。最悪だ。
「お前、騙したな!」
猫相手に怒鳴る新社会人の図……。傍から見たら、気が狂ったとしか思われないんだろうな。幸か不幸か、この場にはこいつと俺しかいないが。
「反応してくれないそっちが悪いんだよーん」
表情はわからないが、人間だったら舌でも出してあかんべーでもされているんだろうなと思った。……そう思うと何だか腹が立つ。
「知るか! こちとら仕事で疲れてんだ。さっさと帰らせてくれ」
切実に、明日の仕事に支障をきたしそうだ。風邪なんかひいてる場合じゃないのに寒気がしてきた。
「んー、じゃあ、協力するって約束してくれたら帰っていいぜ」
楽しそうに言う。……いきなり交換条件出してきやがった。何様だこの猫野郎。
「知らねえ! とにかく俺は帰る!」
怒鳴って、大股で帰路につく。どうしてこんな意味不明な状況に陥っているんだ? さっきまで普通に家に帰って寝ようと思っていただけだったのに……。
「すまんが、そういう訳にはいかないんだ」
回り込まれて凄まれる。猫に凄まれても大したことはないと思ったら、大間違いだった。新品に近いスーツに爪を立てようとしてやがる。これしかスーツ持ってないのに、駄目にされたら本気で困る。
「協力するって言うまで、俺はいつまでもつきまとってやるからな」
性質が悪い上にしつこいらしい。俺はわざと大きなため息をついて言った。
「はあ……仕方ねーな。協力って何だよ」
「物分かりがよくて助かるよ」
また猫撫で声に戻る。どうでもいい話だが、猫が発する猫撫で声って何だか矛盾している気がする。
猫が爪を引っ込めて一歩下がる。さすがにお手上げだ……と見せかけて!
「じゃあな!」
全速力でその場から立ち去る。社会人になってからこんなに走ったのは初めてじゃないかと思う。我ながら往生際が悪いなと苦笑する。相手が悪かったな。面倒なことには極力関わりたくないんだ、許してくれ。
 家の前まで走って足を止めると、呼吸がうまくできなくて動けなくなった。さすがに体がなまっていたらしい。仕事に慣れて余裕が出てきたら、ジムにでも通おうかなと取りとめもなく思う。
「さすがにここまではついてこないよな……ってうおい!」
安堵のため息をつきながら振り返ると、普通に、ごく普通に、さっきの猫は俺のすぐ後ろにいた。
「これでまいたつもりかよ」
鼻で笑われた。いつまでもつきまとうという言葉はどうやら本気らしい。
「頼むから協力してくれ。一生のお願いだ」
さっきまでの態度は明らかに人に頼む態度ではないだろうと思ってしまったことはこの際どうでもいい。俺は思いっきり頬をつねった。冷たくなった頬に痺れるような痛みが走る。
現実としか思えないこの状況下でしゃべるこの猫に、俺は気まぐれに興味を持った。考えてみれば、こんなに面白そうなことはそうそうない。面倒臭さと面白さは紙一重なのだと思って、妙に納得してしまった。
「わかったよ。もう逃げないから。とにかく寒いから中で話そうぜ」
肩をすくめて、俺は家の鍵を取り出す。猫は黙って俺の足元までやってきて、俺を見上げた。俺を見る視線が痛い。疑われているのだろう。
「ここ俺ん家だから。逃げようと思っても逃げらんねーって」
そう言いながら鍵を開ける。部屋の中は外よりほんの少し暖かかった。
「ま、上がれよ」
電気をつけて猫を招き入れる。そう言ってから、部屋が散らかったままだということを思い出した。……まあ相手は猫だし大丈夫だろう。最悪、俺が座れれば何とでもなる。
猫は不躾に部屋の中を見回すと、一言言った。
「……汚ねえ」
あまりにもしみじみとした言い方だったので、逆にへこむ。笑ってくれた方がまだましだ。
「悪かったな。ここんとこ仕事が立て込んでたんだよ」
「ふうん」
どうでも良さそうに相槌を打つと、猫はこたつの中に潜り込んだ。顔だけちょこんと外に出して、こちらをじっと窺っている。
「何だ、お前も寒かったのか」
つい、かわいいと思ってしまった自分が腹立たしい。この猫のふてぶてしさは一体何なんだ。……でもかわいいんだよなあ。
「牛乳温めるからちょっとそこで待ってろ」
俺はそう言ってこたつのスイッチを入れた。平皿に牛乳を入れて、レンジで温める。静かな部屋にレンジの音だけが響き渡る。
「……」
こいつさっきから何もしゃべらないな。まさかほんとに俺の幻聴だったのか?
「……悪いな、いきなり押しかけて」
「は?」
猫がおもむろにしゃべりだしたと思ったら、これは……最近はやりのツンデレとかいう奴だろうか。猫は俺から目線をそらして、呟くように続けた。
「いや……うん。何かあまりにも普通に受け入れられたから拍子抜けした。普通に家上がれとか言うし」
猫の方が俺の行動に驚いていたらしい。何だか可笑しな話だ。普通なら俺の方が驚くべきなんだろうに。
「別に驚かなかったわけじゃないけど……何か、こういうのもありかな、と思って」
何事も深く考えすぎないに限る。俺はただの面倒くさがりだから、すぐに考えるのが嫌になるってだけだが。猫はくすりと笑って言った。
「優しいんだな」
「優しかねーよ」
何でこんなに自然体で会話しているんだろう。この猫と出会ったのはたった数十分前なのに、不思議なこともあるもんだ。
「ほらよ、ホットミルク」
平皿を猫に差し出す。俺も温かいものを飲もうと思って、コーヒーを淹れる。
「さんきゅ」
嬉しそうな声出すなあ。こんなやり取りをしていると自分が若返ったような気分になる。高校時代とかの素直だった自分は一体どこへ消えてしまったんだか。
「で、協力って何をすればいいんだ?」
コーヒーを一口すすって、問題の根本に立ち返ってみる。猫はあーと間抜けな声を出して言った。
「人探し」
「人探し?」
飼い主を探せとか、そんなところだろうか。こんなタフな猫とはぐれるなんて一体何をしでかしたんだ、その飼い主は。
「名前は?」
「鳳(おおとり) 朱音(あかね)。鳳凰の鳳に、朱色の朱と音で朱音」
きっちり漢字まで説明してくれたよこの猫さん。ものすごい知識量だ。もしかして俺より頭いいんじゃないか? もしそうだったらへこむどころの話じゃないぞ。
「……何だかお嬢様な名前だな」
「ああ、お嬢様だよ。でも、素敵ないい娘だ」
嬉しそうに言う。それだけ好かれているのにどうしてはぐれてしまったんだろう。そんなことは今更言っても仕方のないことだが。
「ん、わかった。協力する」
「決めんの速いな。さっき逃げたのは何だったんだよ……」
猫が呆れたように言う。俺は特に考えもせずに答える。
「そんだけ珍しい名前なら結構すぐ見つかりそうだし。さっき逃げたのはまあ、面倒だっただけ。今は断った方が面倒臭そうだから」
仕事をきっちりこなすのは、周りにとやかく言われるのが面倒臭いから。人と深く関わらないのは、人間関係が一番面倒臭いと思うから。家事をまともにしないのも、自分のために何かをするという行為が面倒臭くて堪らないから。俺の全ての原動力は、面倒臭いという感情だけなのかもしれない。だとしても、別にどうでもいいことだが。
「ああ、そういうこと……」
筋が通っていらっしゃる、と猫は皮肉るように呟いた。皮肉を言われる筋合いもないから気にならない。ふむ。全く関わりがないと相手に何も期待しないから、この猫とは話しやすいのかもしれない。
「容姿もわかればもっと探しやすいと思うんだが」
俺が言うと、猫は自信なさそうに言った。
「もう変わってるかもしれないが……」
俺はそこら辺から適当に紙を引っ張り出し、鞄から筆記用具を出す。
「髪は黒くて長い。真っ直ぐでさらさらしている。目は大きくてちょっと垂れ目ぎみ。眼鏡はかけていない。身長は一五五センチくらいで痩せている」
一気に言われた情報をメモに書き出していく。見返してみると、特徴があまりない普通の女性といった印象を受ける。頭をかきながら呟く。
「インパクトがあるのは名前だけ、か」
これはちょっと骨が折れるかもしれないなと思いつつ、猫に尋ねる。
「ちなみに年は知ってるか?」
「わからないな……」
「んー、じゃあ住んでる場所は?」
「……わからない」
ああ、それだから猫じゃ探し切れないのか。この猫がしきりに協力を求めていた理由がわかった。
「わかった。とにかく、鳳さんを探せばいいんだな」
俺はそう確認して風呂に入ることにした。作業は風呂に入ってからにしよう。
「ああ……ありがとう」
猫が予想よりも素直に感謝の言葉を口にしたので、俺はちょっと皮肉を言ってやりたくなった。
「どういたしまして。一応言っとくが、今後人に何かを頼む時はそれくらい腰が低い方がいいと思うぜ」
この猫が今後人に何かを頼むことなんて、まずないとは思うが。
「ということで、俺は風呂に入ってくる。適当にくつろいでてくれ」
猫に背を向けて手をひらひらと振る。猫は特に何か言うわけでもなく、一回だけ猫らしくニャアと鳴いた。

「ったく、訳わかんねえな」
湯船に浸かって独り言を言っていると、何だか虚しい気分になってきた。返答してくれる相手がいるのって意外と嬉しいことなんだな。
「……まあ猫でなくてもいいとは思うが」
もうこんな歳なんだからそろそろ彼女の一人や二人……。ん、考えてて悲しくなってきたぞ。クリスマスが近いからって、絶対泣かないからな! むしろリア充なんてくそくらえだ、へへーん。
「うわ、もう何か自分駄目だ……」
自分で考えてて惨めになることってあるんだな……。彼女いない歴二十三年ですが何か問題でも?
「ええい、もうこの際猫でも構わん! 一人でなければ勝者だ!」
そう言ってしまってから、余計惨めなこと言ったよ俺、と冷静に分析してしまった自分が悲しい。

「だーもう」
変なことを考え込んだせいで何だか疲れた。バスタオルで頭をガシガシやっていると、猫が尋ねてきた。
「どうしたよ」
首をかしげてこちらを見る。俺はこたつに入りながら答えた。
「んー……何かもう、色々面倒臭えなって」
「え、さっきまでのやる気は一体どこに?」
猫が焦ったように言う。俺はため息をつきながら言う。
「いや、クリスマス近いってのに予定何もなくてよ」
「ああ……」
同情しているような相槌が聞こえる。
「同期の奴は彼女持ちばっかだから飲みに行くことも出来やしねーし」
「それは残念だったな」
何で猫にまで同情されてるんだろう俺……。
「ま、どうでもいいんだけどな。年末は仕事が忙しいし」
気にしていない風を装おうとしたが、猫の鋭い一言が突き刺さる。
「そんなこと言ってると、婚期逃すぜ?」
「うっせえ! 余計なお世話だ!」
言いながら泣きたくなってくる。結婚の話とか……反則だろ!
「じゃあ俺がクリスマス一緒にいてやるから、何か豪華なもん用意してくれよ」
意地の悪い笑い声がする。うわ、こいつ調子に乗ってるよ。
「猫に美味いもん食わせるくらいなら、自分で美味いもん食いに行くわ!」
意固地になって言うと、猫はふーんと鼻で笑いながら言った。
「じゃあその目でカップルを大量に拝みながら、一人で美味いもん食ってくるがいいさ」
「ぐっ」
それは、色んな意味で自殺行為だ。
「それが嫌なら家で俺と大人しくしてるんだな」
勝ち誇ったように笑う猫。もう、こいつ一体何なんだ。口達者な猫とか、意味わかんねえ!
「……お前なんて大っ嫌いだ!」
口喧嘩で負けた子供のように、それだけ言うと俺はこたつから出て机に向かった。
               **
どこにいるかわからない人を名前だけで探し出すというのはそう簡単なことではなく、何の手がかりもないまま、あっという間に二カ月が過ぎてしまった。
「人探しって、大変なんだな……」
仕事の合間だからと言って真剣にやっていなかった訳ではないのだが、いかんせん情報が無さすぎる。
「知り合いにいたりしたら楽なんだけどなあ」
そう思ってぼんやりと携帯を眺めていた時。
「ん?」
そういえば……オオトリさんって人、心当たりがあるな。確か、サークルの友人の友人だったような……。もしかしたら大鳥さんだったり鴻さんだったりするかもしれないが、確認してみる価値はあるだろう。
 その友人にメールをするのは久しぶりではなかったが、いきなりオオトリさんの下の名前を聞くのはおかしい気がした。
「どうすっかなあ……」
……ええい面倒臭い、単刀直入でいいや。奴も俺が面倒臭がりなことは重々承知しているはずだ。
『いきなりすまん。人探ししてるんだが、お前の知り合いに鳳さんっていなかったか?』
送ってしまってから、さすがにこれは単刀直入すぎたかと思ったが、まあいい。返信が返ってくるまで本でも読もうと思った瞬間。
 ヴ―ヴ―ヴ―
 携帯のバイブが鳴った。いくら休みの日とは言っても、この返信の速さはおかしいだろう……。
『いきなり何? 鳳さん、いるけどどうかした? 今フリーだからって狙ってるとかナシだからねww』
少々頭にくる文面だが、まあそれはこの際どうでもいい。灯台下暗しとはよく言ったものだ。俺は若干期待を込めて返信する。
『んな訳あるか! 人探ししてんだって。その人の下の名前、朱音だったりしないか?』
イエスかノーで答えられる質問の方が返答は速いに違いない。そう思って送ったメールだったが、案の定返信はとても速かった。
『何で知ってんの……? っていうか、マジで今はやめなよ。あたしがした話覚えてるでしょ?』
メールでこんなにテンポよく話せるなんてびっくりだ。あいつも暇なんだろうか……。
『悪い、覚えてねーわ。とりあえず、その人に会いたいんだが……』
『どうしてもって言うなら止めないけどさ。そんなにすぐ会いたいの? 今メール送りづらいんだけど……』
こいつからのメールはいつも絵文字が多いのだが、今回は何だか少ない。
『んー……できれば早い方が有り難い。無理言って申し訳ない』
『……わかったよ。ちょっと待ってて』
付き合いが長いおかげだろううか。俺の愛想のない真っ黒なメールにも怒らないでくれるのは有り難いことだと思う。
『ありがとう。今度何か奢るよ』
ちゃんと礼は言っておかないとなと思った。
しばらくして、奴からメールが返ってきた。
『あー、うん、約束取り付けたよ。来週の日曜、一四時に大学の正門ね。顔わかんないでしょ? あたしも行くから』
『ほんとありがとな! 助かった』
『別に。絶対何か奢ってよね!』
礼を言ったはずなのに、何で俺は怒られているんだろうか? よくわからん奴だと思いながら携帯を閉じる。
「おい猫!」
「んあ?」
寝ていたのだろう。猫は間抜けな声で答えると、ベッドの下からのそのそと姿を現した。
「鳳さん、見つかったぞ!」
携帯を掲げながら興奮して言うと、猫は一瞬呆けたようにこちらを見た。
「……ほんとか?」
「ああ、俺の知り合いの知り合いだった」
俺はあまりにも嬉しくて、猫を抱き上げた。猫は落ち着いた声で言う。
「……そんなことも、あるんだな」
飛び上がって喜ぶかと思っていたのに、意外だった。どこか寂しそうに、猫は明後日の方を向いてしまった。
 ああそうか。これはこいつとの別れが近いってことでもあるんだ。そう思うと、何だか少し名残惜しいような気がした。
「お前、柄にもなく寂しがってんのかよ」
猫をからかうつもりで言ったのだが、その言葉は自分に対して言っているような気がした。
「可愛い飼い主のところに戻れるなら、俺なんかより全然いいじゃん」
自分で言っているのに、何だか胸がチクチクした。嫉妬でもしているのか。あほらしい。
「ん……。まあな」
煮え切らない猫の様子も何だか嫌で、俺は大きくため息をついて猫を下ろした。そのまま外へ向かう。
「ちょっと散歩行ってくる」
俺はうんともすんとも言わない猫に苛立ちながら、冷え切った外へ出かけた。
               **
 次の日曜日。俺は鞄に猫を入れて約束の場所に向かった。
「鳳さんにお前を会わせればいいんだよな?」
猫は小さく頷いた。
「俺の声が聞こえるかはわからないけど……話したいことがあるんだ」
「じゃあ俺たちは席を外してるよ」
本当に、猫と話すためにわざわざ来てもらってるんだな……変な話だ。
「お、いたいた」
先に来ていた友人に手を振り、隣にいた女性に会釈する。大人しそうだが、それ以上に目線が定まらない様子なのが心配になる。
「大丈夫か、あの人……」
猫がその言葉にひょこりと顔をのぞかせる。
「朱音……」
猫の心配そうな声が聞こえた。何があったか知らないが、こんな状態なら確かにメールは送りづらいだろう。
「お待たせして申し訳ない」
俺は二人に頭を下げた。
「いや、別に待ってないからいいんだけど……その猫、何?」
友人が鞄から顔をのぞかせていた猫を指さして言った。
「ああ。こいつが鳳さんに会いたがってたんだよ」
「はあ?」
友人は怪訝そうな顔をして、俺の顔をまじまじと見る。
「じゃ、後は二人でごゆっくり」
俺はぼんやりしている鳳さんに猫を押し付けると、友人を連れてその場から離れた。
「え? ちょっと、どういうことか説明しないと……!」
「いいんだよ、後はあいつがどうにかするから……多分」
声が聞こえなかったらどうにもならんだろうなと思いつつ、俺は猫を信じることにした。単に、初対面の女性が苦手だということもあるが。
「ったくあんたはいつもいつも、訳わかんないわね……」
「まあまあ、何か奢るから勘弁してくれよ」
俺はそう言いながら少し後ろを振り返ってみた。鳳さんが猫に向かって何か言っているように見えた。きっと声は聞こえたのだろう。
「……何があったか知らんが、元気になってくれればいいな」
俺が言うと、友人は呆れたように言う。
「ちょっと、ほんとに覚えてないの? あの子、交通事故で半年前に婚約者亡くしてるのよ」
「……あ」
そう言われた瞬間、何となく思い出した。確か、事故現場が俺の家の近くだったんだ。
「……半年間ずっとあんな調子なのよ。時間が解決してくれると思ったんだけど……まだだめみたい」
心配そうに呟く友人。何も知らないでこんなことを頼んでしまったことに後悔しながら、俺は言った。
「ごめん」
「別にいいわよ。とりあえずあんたが朱音狙いじゃないってわかって、ほっとしてるわ」
「……ごめん」
鳳さんにも悪いことしたな……猫なんかじゃ、何も変わらないだろうに。
「まあ、もう気にしても仕方ないわ。きっちりお礼はしてもらうから覚悟しなさいよ!」
友人は威勢よくそう言うと、高級そうなケーキ屋に入って行った。
 ニ時間後。待ち合わせ場所に戻ってくると、驚いたことに笑顔の鳳さんが俺たちを待っていた。
「朱音……どうしたの一体!」
友人が驚いた様子で駆け寄る。
「うん……もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとね」
猫を愛おしそうに抱きながら、ふわりと優しい笑顔を浮かべて友人に向かって言う。彼女は俺に向き直ると、頭を深々と下げた。
「この人に会わせてくれて……本当に、ありがとうございます」
「いや、俺は何も……」
俺はこの状況が理解できなくて、しどろもどろになりながらそれだけ言った。
「この人、まだ貴方に話したいことがあるんだそうです。なので、連れて帰っていただいてもよろしいですか?」
猫を指して彼女は言う。断る理由も思いつかなかったので、人形のようにかくかくと頭を縦に振った。
「良かった。私にはもう、心残りはないので……」
彼女は一度言葉を切ると、少し顔を歪ませながら言った。
「……何もないと言えば嘘になりますね。でも、これ以上望んだら罰が当たりますから。この人と話せただけで、十分です」
猫を俺に渡しながら、彼女はもう一度言う。
「本当に、ありがとうございました」
彼女は最後には嬉しそうに、幸せそうな笑顔を浮かべた。
              **
猫が俺と初めて出会った交差点に行きたいと言い出したのは、鳳さんに再会した次の日の夜中のことだった。
「んー、懐かしいなあ。逃げられた時は本気でショックだったんだぜ?」
猫は初めて出会った時にあぐらをかいていた場所に座ると、俺に向かって言った。
「悪かったって。こっちも結構パニックだったんだよ」
俺は苦笑いをしながら言い返す。
「ま、そうだよな……しゃべる猫なんて普通いないもんな」
嘲るように笑う猫は、何だか少し寂しそうだった。
「……なあ。俺、お前に言ってなかったことがあるんだ」
どきりとした。声色が変わったせいだろう。この二カ月間、猫のこんな真剣な声は聞いたことがなかった。
聞かなくてはならないことはわかっているのに、聞きたくなかった。耳をふさいでどこかへ逃げてしまいたかった。
「俺さ」
大きく息を吸い込む音が聞こえる。
「人間だったんだ」
「……え?」
何を言っているのか理解ができなかった。
「半年前にこの交差点で死んだ、人間なんだよ。俺は」
頭がついていかなくて、瞬きばかりを繰り返す。
「朱音はそれを目の前で見た、俺の婚約者だった」
遠くを見ながら猫は淡々と続ける。俺は猫の声を聞きながら、今の状況を整理しようと必死で頭を働かせる。
「即死だったからさ、言いたいことも言えなかったんだ。だけど、こんな形でチャンスが与えられた」
猫を見つめていると、何とか頭が整理されてきた。……ああ、こいつがこんなに賢いのも、俺のことをわかってくれるのも、こいつが元は人間だったからなのか。
「びっくりだよな。奇跡としか思えない」
猫はそう言って笑った。何がおかしいのかよくわからない。どうして奇跡のように大事な人に会えたのに、俺なんかを優先したんだろう。
「何で鳳さんのところに残らなかったんだ?」
純粋な疑問をぶつける。なぜ、どうして。考え始めればきりがないことくらいわかっている。それでも聞きたかった。不思議と面倒だとは思わなかった。
「んー、何でだろうな?」
楽しそうに笑いながら、いつもと変わらない調子で猫は言う。
「……ごまかすなよ」
辛うじて言えたのは、それくらいだった。ぐじぐじと考えていることを全て吐き出せたらどんなに楽だろう。そんなことを考えてしまう。
「そうだな……あいつはもう、俺と一緒にいたら駄目になるから。それに、お前となら楽しい終わりを迎えられそうだったからな」
声の高さが変わる。低くて腹に響くような声で猫は言った。俺は何も言えなくなって黙り込む。
 車の通らない真夜中の交差点は、耳が痛くなるほど静かだった。
「……その体がなくなったら、お前どうなるんだよ」
そんなこと聞いてどうなるんだ。俺にはどうしようもないのに。でも、今は何よりも沈黙が恐ろしかった。沈黙からくる耳鳴りが、この小さな声をかき消してしまいそうで怖かった。
「今度こそ、本当に死ぬんだろうな」
乾いた笑い声が、俺の心に突き刺さる。そんな風に笑わないでくれ。頼むから。
「こんな小さな体、あっという間に駄目になっちゃいそうだよな。例えば――」
笑いながら歩道から飛び出し、交差点の中心に立ってこちらを向いた。
「こんなことしたら」
「何やってんだよ!」
俺は無我夢中で猫の元へ走り、猫をすくい上げた。
「……ごめん」
俺の行動に少なからず驚いたのだろう。猫はそう小さく呟くとうつむいた。真夜中の交差点とはいえ車は通る。もし、もし、目の前でこいつが轢かれたりしたら……俺はきっと、いや必ず、何もできなくなるに違いない。少し前の、鳳さんみたいに。
「お前はっ、わがままで嘘つきでどうしようもなく面倒な奴だけどっ」
急に走ったせいで息が上がっている。言葉が途切れ途切れになって、言いたいことが言えない。
「お前なんか嫌いだって、何度も思ったけどっ」
もう息は整ってきているはずなのに、まだ喉の奥が詰まって言葉が出てこない。顔が火照って、何だか胸が苦しい。
「でも……ううっ」
一番言いたい言葉の直前で、言葉は嗚咽に変わってしまった。流れ出した涙は止めどなく流れて、抱きしめていた猫に降り注ぐ。
「……ありがとな」
そう言って猫は笑ったように見えた。

 その後二人で家に帰ってくると、言葉を交わさないまま俺は眠りについた。信じられないことが多すぎて頭がパンクしそうだったので、寝てしまえばいいと思ったのだ。
 疲れていたのだろう。目が覚めた時にはもう昼過ぎだった。あいつは何か食べただろうか。そう思って起き上がると、何だか嫌な予感がした。
「おい、猫」
声をかけるが、返事がない。まさか――、そんなまさかな。
「いるんだろ?」
もともと一人暮らしの家なのだから、静かなのは当たり前だ。それなのに、静寂が心を凍らせていくような感覚が俺を襲った。
「冗談やめろよ、性質悪いぞ」
家中を探した。でも、どこにも猫の姿はなかった。
 成仏したとか、そんなこと言うなよ? ろくに別れの挨拶もしてないのに、そんなのありかよ。俺は猫がいなくなったという事実を受け止めることができなくて、ろくに着込みもせずに寒空の下に飛び出した。
 行く当てなんてある訳がなかった。ただひたすら、色んな場所を見て回った。もうあいつはいないんじゃないかと少しでも思うと、頭を大きく振ってその考えを頭から追いやった。
「どこ行ったんだよ……」
寒さのせいだろうか。不安で仕方なくて、震えが止まらなくなってきた。太陽は随分前に沈んで、辺りは真っ暗になっていた。
その日の夜、仕方なく自分の家に帰ってきた。電気をつける気にもなれなくて真っ暗なまま部屋に入ると、机の上に置いてあったボイスレコーダーのボタンが点滅していることに気がついた。
最初に何で気付かなかったんだ? 猫を探すことで頭がいっぱいだったから、見落としたに違いない。もしかしたら……淡い期待を込めて再生ボタンを押す。その時初めて、手が震えていることに気が付いた。
『……あー、この声が記録されていることを祈る』
ボイスレコーダーから流れ出る猫の声。間延びした、いつもの適当な感じが懐かしくて、思わず涙がこぼれた。
『なあ。猫が死ぬ直前に飼い主の元からいなくなるっていう話、聞いたことないか?』
あるよ。一体何を言い出すんだお前は。いきなりいなくなりやがって。
『それってさあ、飼い主に自分が死んだところを見せたくないからなんだぜ』
それも知ってる。何でそんなこと言うんだ。考えたくないことばかり言いやがって。それも一方的に。
『えーと……それってつまりさ。飼い主に、きっとあいつはどこかで生きてるんだっていう期待を抱かせたいからなんだと、俺は思うんだよ』
息が詰まった。涙が流れる量が格段に増えた気がした。
『だからさ……俺がいなくなっても、そう思ってほしいんだ。一生のお願い』
また出たよ、一生のお願い。まったく、こいつは何回一生のお願いをすれば気が済むんだろうな。涙は止まらないまま、俺は笑った。
『朱音に会わせてくれてありがとな』
鳳さん。最後にはすごく嬉しそうに笑っていた。これからもあんな風に幸せそうに笑ってくれていたら、あいつも本望だろう。
『唯一の心残りは……お前ともう話せなくなるってことだな』
気のせいか、声が震えているように聞こえた。いつも飄々としていたあいつが泣くなんて、俺には信じられなかった。
『……本当に、お前に出会えて良かった』
ぐす、と鼻をすする音が聞こえた。
『楽しかったぜ、相棒』
「俺もだよ、この猫野郎」
伝えるべき相手がいないことはわかっているけれども、思わず答えてしまった。自然と笑顔がこぼれた。
『……じゃあな』
ぷつ、と音声が終わる。あいつらしいあっさりしたお別れだ。この別れには笑顔が相応しい。そう思って、俺はもう一度笑った。
 
あいつは今日もこの空の下、どこかで生きている。
あいつとの思い出が、確かにここにあるから。


テーマ
2.jpg3

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


述懐

 果たして世界の万象一切を述し得るか。
 有史以来世界とは何かを思考し、論じようとした人間は浜の真砂のごとく数限りなくあった事だろう。だが、少なくとも私の知る限りにおいて、それを成した者はいない。あるいは世界とは何かを、森羅万象の総てを知るに到った人間は存在したのかもしれないが、彼がそれを記録するに、または記録されるに到らなかった以上、やはり世界とは何ぞやを記すに到った人間はいない。万人の認めるところには存在しない。
 せいぜいが世界を何かに喩えたか、いかにも本質らしい事を述べたか、いずれにしても世界そのものを表現しきった訳ではない。
 むろん、世界を記すものも世界の一部たる事を思えば、それはアキレスと亀のごとく永遠に終わらない鼬ごっこのようだが、世界を表現しきるという偉業の重大性と秤にかけた場合には十分無視してもいいだろう。
 さて、かつて私にとって無二の親友だった……ここでは仮にKと呼ぼう、なお彼の頭文字がKだとは限らない。これはかの名作に倣って、我が親友をKと呼ぶのだ……Kもその偉業に人生を捧げた男だった。
 無二の親友と思うからこそ言うのだが、Kという男は大した阿呆だった。
 Kは言葉を以て世界を表現し尽くし得る、あるいは創造し得るとまで考えていた。言葉こそが世界を構成し、言葉に忠実なものが世界の最奥の神秘に到達し得るのだと考えていた。そしてまた常より述べていた。
 いかにも高尚な考えにも聞こえるが、彼の生活を傍目に見る限り、それは世間を知らない大馬鹿者の夢想にしか過ぎないように思われた。物狂いの妄想と言ってもいい。
 だが彼は真剣だった。私は常より彼を「馬鹿だ、馬鹿だ」と言ったが、果たして一度も「そのような事は出来ない」だとか「もっとまじめに生きろ」だとか、そのような彼の信念や生き様そのものを侮蔑するようなことはしなかった。Kは実に気高く、崇高な男だった。
 しかし有史以来幾千幾万の賢人が挑み、なお成し遂げ得ることのなかった難題だ。いかにKが優れた人間だったとしてもそれは容易に叶う訳がない。可笑しな言い方だが、もしKがそれを成し遂げてしまったなら、それはその程度の問題に過ぎず、またそのような事に心血を注いだKもその程度の男に過ぎず、巡ってその程度の男に解かれたその問題もその程度に過ぎない。無理たる事が、それとKの高尚さの証明なのだ。次第に焦燥していく彼に、私は即身仏となって衆生を救おうとする高僧を重ね、当時の農民たちが捧げただろうと同様の尊敬を捧げた。
 さてしかし、Kがそのまま先達よろしく道半ばに息絶えて、後高尚だったと語るに能う人物だったと、そのような事をわざわざ語る気はない。私は貴方にそのような事を語りたいのではない。
 私が敢えてKについて語るのは、つまりそういう事だ。
 Kは、あるいは世界を表現し得るだろう機会を得たのだ。


 まずKの居室がある。四畳半ほどの小さな部屋だ。文机とそれに付属する筆記用具と大量の紙、大きな本棚とそれに収納される大量の書物、それらのみがKと同居を許される僅かなものたちだ。彼は贅沢というものを嫌った。しかし贅沢以上に金銭目的の労働というものを嫌ったから、仮に贅沢をしたくても出来なかった。
 そこの扉の僅かな隙間を抜けると、そこは空港に相違なかった。
 離発着便を示す巨大な電光掲示板の下を多くの人が行き交い、広大な空間を喧騒が満たしている。人の流れが激しく、広々としながら向こうまで見渡すのは難しい。俗な人間活動を厭うKにとって、自身の居室の外が空港というのは実に不愉快極まりなかっただろう。
 さて、怒涛の人間を少し泳げば、冬の海のごとく暗い空間に出る。其処は夜の街である。すぐそこの歩道橋の下を行き交う自動車のヘッドライトは漁火のようにも見える。夏の夜気を好み、夜の散歩を趣味としていたKにとって、喧しい空港を通り過ぎる事を我慢してでも訪れる価値のある場所だったろう。
 歩道橋を渡った向こうは昼の街である。開豁の青空の下、遠くに背の高いビルが群をなしている。なお夜の街からは何かのビルの屋上に出る。夜の散歩に並び、昼寝を趣味としていた彼はそこの堅いコンクリートの上に寝そべる事も繁々あった。
 その隣には灰色の毛をした猫の住まう小さな庭と、鮨の盛られた盆だけがある小さな部屋とがあった。
 それがその時のKの世界の全てだった。
 Kはその六ヶ所を除いて、彼の意思の有無に関わらず移動する事を許されてはいなかった。いや彼の意思どころか、いわゆる神という存在を除いて、おそらく誰の意思をもっても出来なかっただろう。
 我が無二の親友たるKはその時、古いデジタルカメラの中に残された、たった六枚の写真から成る、零と一の二元的な、縦と横の平方的な、小さな有限世界の人だった。


 世界は描き尽くすには広大過ぎる。そも有限なのか無限なのか、有限だったとしても一個人が普く知るには不可能という点において無限と何ら変わる事は無い。
 だがKはその時、一個人が把握し得る狭小な世界にあった。
 Kは世界を述し得る機会を得ていたのだ。


 もちろん、Kも元々は私たちと同じ世界の住民だった。さもなければ、私とKとが親友になるという事はありえまい。ある日、彼は向こう側に行ってしまった、そういう事だ。
 認知したのは三ヶ月ほど前、Kを訪ねた時の事だ。私は大学時代より飯と酒とを持って赤貧の彼を訪っていた。彼はいつもそれを崇高なる自身に対する奉納だというように無遠慮、むしろ尊大なくらいに食らっていた。私としてはその尊大な様子に敬意を抱き、それを許す私とKとの関係を一つの旦那と食客めいたものと錯覚して満足していた。陶酔していたと言ってもいいだろう。
 さてその日も焼酎と幾らかの肴を持って彼を訪れた。だが、彼の下宿の戸を開けた時、そこに彼の姿はなかった。大かた銭湯にでも出ているのだろうと私は思った。Kは文学の次に銭湯を好む人だったから。私は大して何を思うでもなく、夕食の用意をする事にした。
 しかし待てども待てども、果たして夕暮れも過ぎて西の空が冷めた鉄のようになってもなお彼は帰ってこなかった。晩くなるといっても連絡などくれるような人物ではない。私はなお待つ事にした。何となれば、其処に泊って朝帰るというのもめずらしくない策だったから。
 だが彼の部屋は実に退屈な部屋だ。なにせ調度品は文机と本棚だけ。娯楽らしい娯楽は、一応本棚に無造作に納まった文書があったが、これは実にKの蔵書という事もあっていかにも高尚めいて小難しいものばかり、無きに等しかった。そもそも彼に言わせれば人生に娯楽などに現をぬかす猶予は毫とも無いらしい。
 彼が居れば、その簡素さが高潔さに感じられ、難解さが高尚さに感じられ、山河社稷の総てを知ろしめす神仙の住まう庵のごときその部屋が、その時ばかりは世間に順わぬ狂人を幽閉する座敷牢に思われた。
 時計さえ無い空間において時間を持て余した私はKの文机に興味を向けた。その文机の中には彼の書きさしが保管されている。Kは言う、「俺は完成を目指している。完成とはすなわち、全てを内包しているという事だ。全てを含むから、それは価値があるのだ。要するに完成してこそ初めて価値が生まれ、完成するまでは何の価値もない。そのようなものを人に見せてどうにかしようというのは、いかにも愚かに過ぎず、俺には出来ない」と。Kは一度たりとも、数える程も無い友人の一人たる私にさえ原稿を見せる事はなかった。
 私にとってKの文机はパンドラの箱だった。
 だが間もなく、私の興味は文机の中ではなく文机の上に移っていた。
 Kの古ぼけた文机の上に、一台のデジタルカメラが置かれていたのだ。何の変哲もないカメラだったが、そのようなものがKの部屋に置かれているのが不思議だったのだ。赤貧の上、娯楽趣味の一切を厭う彼がそのようなものを所有している訳がなかったのだから。
 そのカメラは真水に落とした一滴の墨汁のごとく、Kの部屋において一点の違和感たり、強烈な印象を持って周囲の空間を侵食していた。
 私は恐る恐る手を伸ばした。常日頃より文机の中身を見てしまえと私を唆していた好奇心という名の蛇がぐうっと鎌首を擡げたのだ。日頃私がつれなくしていたのに余程鬱憤を溜めていたと見えた。
 Kの部屋に音をたてるものはないが、その部屋の壁は紙張りのごとく薄く、真に静寂という事はない。だが、デジタルカメラの重みをずしりと掌に感じた時、急速にそこは静まり返った。聴覚の分まで、視覚に神経が集中したのだ。
 そのデジタルカメラは実に古いものだった。後々分かった事だが、もはや撮影機能もデータ転送機能も失われ、出来る事はデータの確認とそれに付属するちょっとした編集機能の行使だけだった。
 果たしてその中には六枚の画像が残されていた。
 空港、夜の街、昼の街、猫、鮨、Kとその居室。
 すなわち先に述べたKの世界だ。


 さて蛇足ながら、それがKの世界たる証明をしよう。
 何故、Kの部屋に置かれていたデジタルカメラの中の六枚の写真、それをKの世界と呼ぶのか。本来なら、私が語ろうべきは「Kの世界」というものに尽き、言いかえればKがKの世界にて何を為したかに尽き、そもそもKの世界そのものの存在を敢えて云々すべきではない。だが、貴方らはきっと、私と違って「Kの世界」を簡単には信じる事が出来ないだろう。果たして本当にそれが実在していたのか、貴方はその信憑性を疑っているに違いない。しかしそれでは、貴方らがKの状況について信じないならば、わざわざKについて語る意味が失われてしまう。然なれば、私はなぜその六枚の写真に過ぎないものを「Kの世界」などとして認識したのか、それを語らなければならないのだ。
 まず、断っておこう。私とてそれらを発見した正にその瞬間に、Kがあちらに行ってしまったなどと思った訳ではない。私はそのような酔狂な思考回路を持った狂人ではないのだ。
 はじめはただの写真に見えた。しかし空港など、Kには全く似つかわしくない場所だ。万一、その古ぼけたデジタルカメラがKの持ち物だったとしても、彼がわざわざ空港の写真を撮ることは無いだろう。大方、誰かがKを訪ね、そしてそのまま置き忘れていったのだろうと私は推測した。
 そのように結論づけると、私の興味は急速にカメラから離れていこうとした。しかし、何かがそれを留めた。それは陳腐な言い方をすれば、何がしか運命めいたものだったのだろう。
 とにかく私はそれを手玩具にするように、しばし六枚の写真を代わる代わる表示して呆然と眺めていた。
 間もなく私はある事に気づいた。表示を切り替えるたび写真が微妙に変化しているのだ。切り替えるたびに変化していくため、見比べるという事は出来ないが、それでも少しずつ印象がずれていた。
 普通なら無視するだろう。きっと気の所為だろうと。だがしかし、あのKの居室にあったデジタルカメラは、何か妙な、魔力のようなものを持っていた。何か、言い様のないような変な出来事が起こっても不思議ではない、そのような魔性を持っていた。貴方もきっと、あれを実際に前にすれば同じ事を感じただろうことは保証できる。
 私はそして食い入るように、写真を見つめた。
 やはり写真は切り替える度に微妙に変化していた。
 空港を歩く人々の位置、人そのものが入れ替わったりもしている。夜の街を走る自動車の種類が変わっている、歩道橋の上に誰かがいる。昼の街の青空に浮かぶ雲の形が微妙に変化している、時には全く雲ひとつない快晴になっている。猫は微妙に表情を変え、時には笑っているようにさえ見えた。鮨は減っている、増えている。
 そしてKが動いていた。彼は彼の居室に留まらず、空港にも夜の街にも昼の街にも、その他の五枚にも現れた。鮨の写真に彼の手が写っているのを見た事もあった。また、猫も動いた。猫が夜の街にいる事もあった。
 要するに、Kの部屋にあったそのデジタルカメラの中の六枚の写真は、相互に何らかの接続があり、何かの世界を構成しているのだった。そしてKと猫、その世界にあるものは自在に移動できるようだった。
 私はその後も、その世界を観測し続けた。
 そして結論した。其処には、実に非現実的ながら、しかし疑いようもなく一つの世界が存在しているのだと。たった六枚の画像からなる、零と壱とを億にも足らない数集めただけの、いかにも極小な有限世界に過ぎないが、それでも一つの世界がそこには存在していた。
 また尚更に蛇足ながら、当然の事だがその日Kが居室に戻って私の作った料理を食べるなどという事はなかった。私はもう三ヶ月も彼の肉声を聞いていない。


 閑話休題。
いよいよKの話をしよう。Kが彼の世界において一体何を為したのかを。
 なお一応の為に断っておくが、これからの話、私はあくまでも写真の、つまりKの世界の外側から眺めていたに過ぎず、おおかた見た目からの推測に限られる。Kが何を思い、いかなる情から行動を起こしたか、それを真に知る術はない。あくまでも私の想像だ。だが、それは長い月日をかけ、私が心血をかけた推理だ。おおよそ正しいと思ってもらって構わないだろう。


 Kははじめ、六枚の世界をひっきりなしにうろうろと徘徊していた。
 私はカメラを発見した日の前日も彼を訪ねているから、Kが向こうに行って長くとも一日経過していない。だから、当然と言えば当然だ。流石の彼とて、その奇怪な世界に面を食らったのだろう。
 だが、その顔に焦燥や狼狽、恐怖などといった色は見てとれなかった。腕を組み、ぐうと胸を反らして、いかにも「いざや、この世界を見定めてやろう」というふうに歩いていた。いつもの傲慢そうな彼だった。
 私はデジタルカメラを操作して彼を追った。おそらくもう大体の構造は把握しているのだろう。Kはひたすらに奇妙な移動を繰り返していた。たとえば夜の世界において、歩道橋を敢えて渡らず車道を突っ切ってみたりしていた。何か、こちらの世界に戻れる道は無いか、あるいは新しい世界に辿りつく道は無いか、そのような事を実験しているに相違なかった。
 だが、私の方の世界の空が白む頃には、彼もどうやら其処から脱出出来ないのを観念したのか、居室の畳の上にごろりと横に転って大笑いしていた。普段、Kの人を、世間を軽蔑する薄笑みしか見る事のなかった私にとって、実に新鮮な光景だった。
 彼は泣くほど笑った。私はKの気がふれたのだと思った。それはそうだろう、貴方、たった六枚の写真から成る狭世界に幽閉される恐怖を想像してみたまえ。だが後に気づかされたのだが、Kは絶望などしてはいなかった。彼は単純に、可笑しくて笑っていたのだ。あるいは歓喜にうち笑っていたのだ。そのどちらか、彼の感情を精緻に判別できないため明確に区別する事は出来ないが、とにかく彼に負の感情は何ら存在しなかった。
 写真の中の彼は文机から件の紙束を取り出した。世界を綴った紙束だ。それらを持って昼の街まで繰り出すや、Kは逡巡もせず投げ棄てた。抜けるような青空から吹き下ろす風に舞い、かつての世界は四散していった。陽光を反射してきらきらと目映く煌めく世界の欠片、それは実に綺麗な、印象的なものだったが、もう決して元には戻らないだろう事は疑いようもなかった。
 それはKの決心だった。だが私はしばし呆然として、デジタルカメラを操作するのを忘れた。表示を切り替えない限りは、いつまでもKが空に向けて世界の残骸を投げ放つ姿がそのままにあった。実に感動的な光景だ。もし私がこれを操作すれば、果たしてかつて世界だった紙束は完全に四散して、もう二度とは戻らないだろう。しかしだからと言ってこのままにしていてもどうなる訳でもない。
 思わず嗚咽を漏らしそうになりながら、涙に滲む視界の中、カメラを操作してKを探した。彼は居室に戻って文机に向かっていた。彼は改めて何かを認めているらしかった。
 そして私は理解した。
 Kは、今まさに、世界を綴っているのだ。
 有限な、しかも廻るのに小一時間も要しない狭世界は私たちのそれと比べて、その全体を掴むのが容易い。いや、そう言うより単純に全体を掴むのが可能だと言うのが適切だろうか。しかし、Kの世界はその成り立ちそのものが怪しい。私たちの世界における天地開闢の神秘に加えて、さらに独自に、連続性や因果性に不明があった。
 果たして彼はそれを解明したのだろうか、それとも解明しているのだろうか、とにかく机にかじりついて何事かを認めていた。


 それより暫く、時折気分転換にか一日数回の散歩に出る以外、Kは常に机を抱え込むようにして執筆していた。よく幽鬼のように、あるいはとり憑かれたようになどと言うが、あれは正しくそれだった。残念ながら居室の写真に写る彼は文机の位置の関係から背中しか見えなかったが、画面越しにも伝わってくる執念めいたものが確かにあった。
 さてKは次第にその世界の主のようになっていった。元より人を俗人、凡人と見下して顧みず、傍若無人に振る舞っている彼だったが、その狭世界がどうやら自身を中心に構成されているらしい事に気づき、それに輪がかかったようだ。人通りの多い空港を歩く時には常に腕を組み、必要以上に胸を張って憤然と歩いていた。時には煙草を取り出した某からそれを分けてもらい、咥え煙草をして夜の街や昼の街へと繰り出していく事もあった。
 そのような様を見ながら、私は大変に誇らしい気持ちになっていた。Kが傲然と偉そうに振る舞うのは、実にKが偉いからに相違ないと思え、Kを尊敬する心、それがこの時いよいよ大きに到り、彼の数少ない友人たる事が実に素晴らしい事に思えたのだ。あるいはKの尊大さの一割でも私に分けられていたのは間違いない。その頃の私はかつてKがそうしていたように、私の世界の一切を見下していた。
 世界の秘奥に挑むKを眺め、思想し、私自身もそれに連なっているように妄想していたのだ。果たして、Kはどのようなものを綴っているのだろうか。世界とはどのようなものなのだろうか。それに考察めいたものをする事が、写真を眺めるのに加えて新たになった趣味だった。
 たとえばだ。Kは少々宗教に傾倒しているところがあったから、あの六枚の写真からなる世界を仏教の六道に絡めはしないかと考えた。猫は畜生道、鮨は餓鬼道に続くと連想するのは容易く、いよいよ私は楽しくなったが、では昼の街、夜の街、空港は何にあたるか、逆にどれが人間道なのか極楽は地獄はなどと考えていると全くうまくいかなかった。同様に私は六識など、とにかく六に絡む考察を様々加えては失敗するのを面白がっていた。
 そして失敗ばかりの私と、Kとはやはり違った。Kに迷いは一切なく、正しく一気呵成という様子だった。書き直しという事も推敲するという事もしない。おそらく彼はその世界の形をすっかり理解し、また著すべき事も既に脳裡に整っているに違いない。私はますます感心するばかりだった。


 しかし、状況はしだいに変化していった。
 結論から言えば、Kは途轍もない裏切りを働いたのだ。誰に対してと言えば、それはK自身に対して、Kの世界に対して、Kにその機会を与えたもうた者に対して、そして私に対して。赦しようのない裏切りを。


 ある時の事だ。Kは居室にありながら、文机には向かわずに擦り切れた畳の上にごろりと転がっていた。おそらく少しの休憩をとっているのだろうとはじめ思ったのだが、それがいつまで経っても再び筆を執ろうとはしないのだ。ただじっと天井を眺めているばかりだ。
 ようやく起き上ったかと思えば、筆を執る事もなく、今度は散歩に出かけてしまった。
 しかもこの散歩がまた妙だった。普段なら居室を出てまずある空港では、不遜に胸を張ってこまぬきながら歩く彼が腕を垂らして歩いていた。しかも横を通り過ぎる、普段なら歯牙にもかけぬだろう通行人たちの顔をいちいち見遣っているのだ。例により煙草を拝借する時も、私ははじめてKが人に礼をするのを見た。
 私の中に懐疑心が黒い雲のごとく湧きあがり、それをかきわけてKの意を読み取ろうと思考を巡らせるが正しく雲をつかむがごとくだった。そうこうしているうちにKはそのまま夜の街を通り過ぎ、昼の街に到った。そして例によって高い空の下、程良く温まっているらしいコンクリートの上に寝そべって千切れ雲を眺め始めた。
 だがその目が閉じる事はなかった。普段なら直ぐにも高鼾をかきはじめるのに、いつまでも流れる雲を眺めるばかりだった。
 しばし手を止めて考えた。Kは何を考えているのだろう。あるいはKに何が起こったのだろう。だが外から一瞬一瞬を捉えて想いを巡らすしかない私にはそれを正確に知る術は無かった。果たして心に湧いた疑いは益々濃く渦巻いていくばかりだった。
 そして突如として虫の報せのようなものを感じ取り、カメラを操作して画面を切り替えた私の見たものは、いつのまにかKの隣に一人の女が座っている場面だった。女はKと肩を並べて向こうを向いてしまっているため、その容姿は詳しくは知れない。ただ背中まで届く長い黒髪が印象的だった。
 そう印象的だった。開豁な蒼穹の下、遠くに望める街は陽光にきらきらと輝き、天まで届けと背を伸ばす様は人間の活動の逞しさを感じさせるとともにそれでもなお高い空の広さを引きたてていた。そのような穏やかな風景を、一対の男女が足を放り出して、肩を並べて眺めている。印象的な、美しき一瞬を切りとる写真という技術の本領発揮というべき、まさしく印象的な光景だった。
 私はふたたび呆然とした。愕然としたと言ってもいい。Kは人間を軽視するとともに男女の情というものを軽視していた。そのようなものがあるという事、それが素晴らしい人間の感情という事は認めていたが、それに現を抜かして成すべきを成せない人間を殊更に侮蔑していた。そのようなKが、執筆を放り出して女と共に空を眺めているなど。私は自身の目を疑った。いや、そもこのデジタルカメラにまつわる一切が私の幻覚か何かなのだと信じた。さもなければ、どうしてKが。
 心内に例の黒い靄が巻き上がるのを感じつつ、それでも私はKを信じる事にした。それは信仰とも言えるほどの質量をもった思いだった。ゆえに私は考えを巡らせた、これは一体いかなることか。だが決して私は私を納得させうる論を講じる事は出来なかった。いかに良心的な解釈を求めても、最悪の論理を凌駕し得る説得力を持つ事はなかったのだ。
 長い間、私はその美しい男女の風景を見つめていた。動悸が激しく、頭に血が上ってくらくらとしていた。心なしか、目の毛細血管が痛むような感覚もあった。
 気づいた時には日が暮れていた。Kの世界はいつまでも時間が経過しない、それに見入っていた私も時間の感覚が失われていたようだった。
 部屋の電灯を点け、私は思い出したようにカメラを操作した。一瞬夜の街に切替え、すぐに昼の街に戻す。もはやKと、あの女はいなかった。私はKを探した。たった六枚の写真からなる狭い世界だ、一分も待たず見つかった。
 Kは居室に戻っていた。
 幸いにも女はいなかった。だがKはやはり文机に向かってはいなかった。おそらく猫の写真から連れてきたのだろう、猫を膝の上に乗せてあやしていた。片手は猫の背中の毛を順に撫ぜながら、もう片手は喉を掻いてやっていた。
 別にどうという光景でもない。しかしKがする行動ではない。私は私の信仰するKというものが、世間一般大体を棄てて省ずに苦行に励む修験者のごときKがというものが、黒い靄につつまれて消えてゆこうとしていた。
 がんと頭を強く打たれたように視界が白み、気づいた時、私はカメラを握りしめたまま眠ってしまっていたようだった。翌朝、酷い頭痛に見舞われた事はよく覚えている。
 体調は酷かったが、その時私にも仕事があった。やむなく最小限の支度のみして仕事場に向かう時、Kのことを確かめてみると彼は文机に向かって何か書き物をしていた。
 元に戻ったのかあれは一夜の悪夢だったのかと胸をなでおろしながら、その思考が実は自身を安心させるためだけの偽りに過ぎない事を痛感していた。私は確かにKに対して拭いきれない疑いを感じていたのだ。それは到底拭い切れるようなものではなかったのだ。
 その疑いは日増しに増していった。
 あれからというもの、Kは刻々と変化していった。空港を歩く時に不遜な態度を見せる事もなくなった。灰色の猫のもとに出向いてその背を撫ぜてあやしてやる姿を見るようになった。元から大してものもなくがらんとしていた居室を整理して掃除していた。何より、昼の街においてあの女と逢瀬を重ねるようになった。
 疑いの靄は益々濃くなっていった。やがて私の心をすっかり覆い塞いでも尚濃くなるそれは澱となって底に溜まっていった。日頃黒い澱が胸を圧迫し、喉を焼いていた。口を開けば、それが黒い粘液となってごぽりと零れやしないだろうかと思うくらいだった。だがそれは口から逃げるなどという事は無く、いつも喉を焼いてはねぐらとしている胸へと帰っていくのだ。次第にそれは黒い蛇の形と成り、それが機嫌悪く尻尾を振るうたびに、心の底に蟠っていた黒い靄がもうもうとたちこめた。
 あのKが女に微笑みかけたのを発見した時、蛇はしうしうと不吉な鳴き声を漏らした。もはやKへの信心は、それに怖れをなしてどこかしらへと姿を晦ませてしまっていた。それより私の心には常にそいつがとぐろを巻いているようになった。


 ついに蛇が牙を剥いたのは、それより間もない頃だ。
 Kがあの女を居室に招いたのだ。文机を居室の真中において、その上には寿司の皿をおいて二人して食べている。仲睦まじい食事の風景だ。蛇はしうしうと息を漏らし、尻尾を苛々と振るいまくって寝床に黒い粘液を跳ね飛ばしている。
 私は震える指を努めて抑えつつ、画像を次々にいれかえた。Kと女が何をしているのか、それを見逃すまいと。
 しばらくは和やかな食事風景だったが、事もあろうに女は部屋の脇に積まれた紙束に気づいたのだ。おそらく文机を食卓代わりにするためによけておいたものだろう。
 見るな、見せるな。
 私の声ならぬ声は、彼らには決して届かなかった。
 果たして無二の親友たる、誰もが見限った中唯一人裏切らなかった私にさえ頑として披露する事がなかったそれを、Kは易々と彼女に見せてしまった。蛇が吠えた。とぐろを解いて、火がついたように悶え狂った。もはや跳ね飛ばす黒泥は猜疑ではない。確かな憎悪だった。跳ね飛ばされ、どこかしらにつくたびに忽ち業火へと姿を変じて、ついに私の心はごうごうと燃え盛った。カメラを握る手には力がこもり、指先は血が止まって白くなって痺れていた。
 だが画像を切り替える操作は続けられた。
 そして私はKの最大の裏切りを目撃してしまった。
 彼は彼の文章を見て感動しているらしい彼女に、一片の紙をさらに手渡した。それはよほど重大なものなのか、彼の懐より取り出されたものだった。
 それが恋文だという事は想像に難くなかった。それに目を通すや彼女は頬を赤く染め、その彼女をあのKが抱きすくめたのだ。
 裏切りだ。世界を綴るべき男が、世界を綴る事こそ自身の生き甲斐とした男が、世界を綴る事こそ至高とした男が、一個の人間の恋情に過ぎないものを綴って披露していた。かつて下らないと、唾棄して然るべきと断じた恋愛に現をぬかす迂愚に自ら成り果ててしまっていた。
 何のための努力だったか。何のための世界だったか。そう、その六枚の世界は世界をつづるための空間ではなかったのか。下らない男女の恋愛を育むための箱庭ではなかった筈だ。
 蛇は目を血走らせ、牙を剥いて毒を撒き散らしていた。


 貴方は覚えているだろうか。Kの世界を構成する六枚の写真を収めた、そのデジタルカメラは相当に古く、大抵の機能が壊れてしまっていた。新たに撮影も出来なければ、転送も出来ない。だが一部の編集行為、たとえば削除は可能だった。
 あの女がKと離れ、ただ一人昼の街にある画像を見つけた時、私の指は蛇の牙と化して削除の操作を行った。
 果たしてそれ以来あの魔女をみる事はなかった。


 そしてKは狂っていった。
 昼の街が喪失した事、そしてそれに伴いあの女が失われた事に気づいた彼は日増しに狂っていった。文机に向かっても筆が走る事は無く、元から艶のなかった髪は掻きむしられて針金のように荒れ、肉が落ちて頭蓋骨の形が露わになり、目ばかり血走ってぎょろぎょろと忙しなく動いている。日頃うろうろと世界を練り歩き、空港においては通り過ぎる人を恨めしくねめつけていた。ある時など通りすがりに殴りかかった。猫を蹴飛ばし、その首を締めつけていた。鮨の盆はひっくり返し、表面をばりばりと掻きむしった。夜の街では歩道橋などには目もくれず、自動車の行き交う車道を歩いて渡った。Kの居室にあった本棚をもれなく引き倒し、ぐしゃぐしゃになった書籍をさらに破いて棄てた。
 一時は、蛇もとぐろを巻いて安らかに目を閉じていた。Kの心を惑わした女は確かに居なくなったのだと。Kの心を元の、私だけが知る、苦悩に満ちたものへと戻すことが出来たのだと。この混乱がやがて静まれば、全て元の鞘だと。
 だがすぐに気づいてしまった。Kが狂うのは、確かにあの女に心を奪われてしまったからなのだと。Kは間違いなくあの女を愛したのだと。その愛は、かつての信念を遥かに凌駕したのだと。そして、Kの心はもはや二度と世界へとは向けられないのだと。
 ついにKがふたたび紙束を破いた時、蛇は狂った。


 私は残る五枚の画像も削除した。
 古ぼけたデジタルカメラを粉砕して、海へと棄てた。
 私はKを殺したのだ。無二の親友を手にかけたのだ。無二の親友が人並の幸せを手にしようとするのを邪魔したばかりか、親友の想い人もろとも殺してしまったのだ。
 世界を述し尽くすという理念に執着していたのはKばかりではなかったのだ。私もまたそれにとり憑かれていたのだ。
 Kすら世界を述し尽くす事は出来なかった。今回も世界は述し尽くされる事はなかった。やはりそれは人類には成しえない、最後の偉業に違いないのだ。
 だが私はそれをしなければならない。それが下らない盲執によって無二の親友を殺めてしまった私の、せめてもの罪滅ぼし、いや責務なのだから。


 だから貴方、私に紙とペンを与えたまえ。
 貴方の質問には全て答えたのだから、紙とペンを与えたまえ。
 Kはあちらの世界に行ってしまったのだ。もはや其処を望む事は叶わないけれど確かな事実だ。私が殺した、そう私が殺したのだ。死体など見つかる訳がない。全て向こう側だ。
 ああ私は狂っている。だがそれは私の妄想ではない。いや妄想だったらどれほど佳かったか。むしろ妄想だったならば私が狂う事もなかったろう。

 だから先生、私に紙とペンを与えたまえ。

テーマ
写真
12.jpg3
456

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


使わない傘と青景色

 天気予報は毎日見ている。話すと意外と言われるが、七時前の一番チャンネルだ。丁寧な口調と正確な情報に俺は、核シェルター並みの信頼を向けていた。
「うわぁ、さみぃ」
 しかし夏休みの補習終わり、階段をすっ飛ばして息を切らしながら昇降口に出て、ビュウビュウとした風と共に顔に受けたもの、目に見えたものに、その信頼は壊された。思わずグラウンドに入る前にブレーキをかける羽目となる。
 先程までの輝かしい晴れが嘘のように、外は雨に覆われている。昼だと言うのに辺りは薄暗く、段差下のグラウンドと昇降口近くに生える青々と茂る葉をつけた木が一本見えるか見えないかの明度だ。今も時々強くなる雨風に折れてしまいそうな程しなる姿がぼうっとと映る。槍の様な激しさで地面を抉る雨粒には、襲われているといった表現の方が近いのかもしれない。
 立ち止まって正解だった。一、二、三年生全員分の昇降口、長い屋根もあるためずぶ濡れの心配は無くなる。それでも風はどうしようもなく、防寒を素手で行わねばならない。
「あーあ」と、そう言いながら沸き上がる震えはだから、温度以外も関係している、と思う。昨日見たギラギラとしたみかん色の晴れマークなんぞどこにあるんだ。しかし暗雲立ち込める空に向けた俺の呟きも白く彩られるだけでアナウンサーに届くこと無く消えていく。逆に酸素補給に冷気を取り込んだためか震えが更に増してくる。垂れてくる鼻水を吸い込んで誤魔化す。
 半袖からはみ出す自分の腕を擦りながら、とにかく前を見やる。さてどうしよう。家まで軽い運動をするか。けれど急ぎの用がある訳でもない、校門まで走ろうにも雨が経路を隠している。待っていて都合が悪い事も無いし、この雨が予報外れなのか気紛れなのかも今となっては判断できない。
 このまま雨宿りするか。そこまでする必要もないか。
興味と関心がそこに持ちきりであった。だから今意識し出したのは、自分の中でしょうがない事だとしておく。
 自分から右、視界に届く範囲の暗がりにぽつりと浮かぶ姿がある。一体いつからだろう。二メートルほど離れてはいるけど、隣に人が立っていた。スカートから女子と判断。
 首をわずかに動かし目を凝らせばすぐに全体像が映った。彼女は俺より頭半分ほど背が低い、小柄な体形で、服や体に目立つ装飾も無くこれといった修飾語も浮かばない。小動物系というのだろうか、寂しいと死んでしまいそうな、でも群れに入る方法の分からない子ウサギの様な、そんな印象だ。
 鼻水を吸い込んだのは正解だった。真っ先にそう思った。
 補習組に言われたくは無いだろうが随分と真面目な感じだ。委員長的な意味では無い。長袖のシャツに規則通りの丈のスカートを履いていて、まるで肌を守っているように思えたのは今だからか。そして重要な事は、右手にカバンを持ち、左手には傘を持っていることだ。
持ち手は白いアルミ素材のようだが、布の部分は淡い桃色地に点々と花柄がプリントされている。一見目立ちそうなグッズであるのに何故だろう、彼女のような子が持っていると変に納得出来てしまう。高校生にしては幼稚に思えたがそんな個人の趣味に口出し出来る身分でないのは当然だ。
だというのに、何故空を見ながら立ち尽くしているのだろう。どこか不安げな表情で、彼女の吐く息も白い。漏れ出た声は雨が地を叩く音が遮るためか聞こえなかった。
 そこで左の頬に冷やりとした、だが水滴より確かな感覚を覚えた。反射的に左手を伸ばすと、それは青々とした一枚の葉っぱであった。飛ばされてきた事より、自分が横を向いていた事の方に驚く。じろじろし過ぎただろうか。前へと視線を戻す。
 相変わらず予報外れの量だ、でもだからすぐに止む気配も感じなくはない。決めた、しばらく待っていよう。ただそれはいつまでになるだろうか。俺も、彼女も。
気にはなるがまあいい。傘があるのだし、友達を待っているとかそこら辺の理由だろう。その内ここから離れていくだろう。
 そう思って約十分。
 勢いの止まない豪雨がグラウンドを抉り泥まみれにする。
 昇降口には先程と同じ無言の二人が立ち尽くす。
 半袖を伸ばそうとする俺。傘を持ち両手で長袖を擦る彼女。
 吐いた息が煙みたいだって思った、何年前の歌の歌詞だっけか。同時に考える。こうなるなんて思っていなかった。空と女は気紛れだ、そんな歌詞だってありそうに思えた。
横目で見る彼女は未だ足を動かす様子を見せない。うーん、友達こないなぁ、そうと決まってはいないけど。
 また前へと視線を戻すが、地殻を揺らしかねない豪雨。風も未だ強く後ろからガラスの震える固い音が響く。気になって首を百八十度近く回したが、後ろではうるさく鳴き喚く閉ざされたガラス戸、下駄箱と、廊下を挟んだ向こうに階段が見える。そのどこからも足音はしない。生物の気配なし。
 しかし彼女は動かない。さてどうする。
 事情を聴いてみるか直接。
 しかし何と聞くべきか。その前に、俺は彼女と肩を突きあう友人でもない。素性も知らない相手に話しかけられて気分を悪くしないだろうか。緊急事態だからとも言えるが。いや待てよそれにここからだと間隔の関係で声が届かないんじゃないか。いやそこまでしなくても直に、しかし。
 気になる。あー、少しくらいは、不自然でない、はず。そう思い重い足に命令を送る。通信は悪いが何とか動いてくれた。
 じりりと。
 それはわずかな移動のはずだった。あくまで俺が動いたのは俺の歩幅で三歩分だ。横歩きで滑らないよう気をつかったから更に少なく見積もれるはず。しかしどうだろう、思いのほか彼女の姿は近い。それもそうだろう。彼女もカニ歩きでこちらににじり寄ったのだから。
 彼女は横目で俺を確認し、動向を観察すると足を止めた。同時に視線を露骨にずらした、つられて俺も二時の方を見る。
 目分量の推測とはいえ二メートルであった二人の距離も、今の一瞬でその二分の一に縮まった、予定外だ、先程より彼女の存在を強く感じる。都合が良いのでこのままにしておく。
 そのまま前を見る事加えて約十五分。
 止まない雨はこのままだと地殻を貫きそうな勢い。
 何時まで立っているのだろう。何時間経っていくのだろう。
 未だに動かない二人。俺に目立つ動きは無かった。彼女が離れていかないのは先程と違い、見なくとも聞こえるようになった呼吸の音で判断できる。何でか視線が落ち着かなくなった。
頭上で動く雲も鈍重だろうが、こちらの空気の方が重苦しい。近付いたものの話しかけることは難しい。呼吸さえ気をつかわねばならない状況、気持ちは知れないが彼女も苦しいはずだ。
 そう言えばこの短時間で、俺はどうして彼女を見なくなった。
 そんな石化させる訳でもない眼力だ。見るくらい別に問題ないはず。問題あると思っているから問題となるもんだこういうのは。さりげなく見てみよう。よし! と決め、彼女を見てしまった。そうかこれはさりげなくないなと途中で気付く。しかし早さが付いたため止まらない、俺は横の彼女に顔を向ける。
 ばっと。
 同時に彼女も顔を向ける。
 三倍くらい動きを早めて首を元に戻した。
 額の水滴を拭う。あぶねぇと思う心が今ある。五倍くらいに跳ねあがった心臓に落ち着けと念じながら考察する。
 彼女がこちらへ視線を向けた意図は当然ながら掴めない、それでもちらりとでも見えてしまったのは、眉を八の字にして、口を小さく細く開けた状態の何やら不安げな様子だった彼女。
 しばし経っても早鐘を打っている心臓、この速度で体が動くなら雨すら全避け出来そうだ。落ち着こうと空を見上げるもやはり重苦しいままで気は休まらない。
 しかしとうとう怪しくなってきた。上を見るフリをしてちらりと彼女を目に映す。俺が今向いている方、彼女からして右にやや顔を背けている。まるで視線を逸らすように。こちらから見る左頬が赤色に染まっている。やはり、寒いんじゃないのか。
 早く帰ってしまえばいいのに。思えば連絡を取るとかいう事もしない。携帯をどちらかが持っていないとかか。そもそもの話、本当に人を待っているのか? 想像はあふれる。しかしそこまで事情に深く入るようなことはするべきだろうか。しない方がいい。いやしかしもともと話すことが目的の距離感なのだし、予想外ではあるが。いや、厚かましくはないか? 何にせよ慎重になってしまう俺がいる。
 そうだな、夏なのに寒いよね随分、それくらいなら話しかけても大丈夫なはずだ。悔しいが天気ネタは鉄板だ。ましてやこのままでは風邪をひいてしまう、どちらかというと俺が。
 行くぜと最小限の決意に抑え、脳が信号を送る。俺は右手を上げて、
「おい、まだこんなところにいたのか」
「先生! 寒いですよねぇ」
 その勢いで体を百八十度回転。これは無視しちゃ駄目だろ。
 先程までお世話になっていた俺のクラスの担任登場に彼女もどうやら振り向いたようだ。横目でよく見てはいなかったが。
 その後は処世術代わりに与太話を少々。今日で補習終了のためもう会えないものかと思っていたから俺は寂しかったんだ、おそらく。話すついでに先生は俺にある物を放り投げた。見覚えのある学生カバン、背負えるタイプのそれは俺の物だった。解放感のあまり忘れていたようだ。取りに来るまで待っていた先生に感謝しながら俺はお辞儀しておく。ついでに彼女の事も聞けた。話を聞くとなんと彼女と俺はクラスメートだった! 全く気付かなかった。名前は聞き覚えがある。しかし話をした事が無いため印象が薄い。俺とは違い高校で行う夏期講習があったようだった、思えば成績上位者の名前と一致する。これで彼女が夏休みであるのに学校へ来た理由は判明された訳だ。
 じゃあなといった先生はこちらに背中を向けて歩き出した。校舎裏の方にある職員用の玄関に行くのだろう。先生の車に乗せていってもらおう、そんな気も起きない。不思議だな。
 さてカバンの中身を確認する、少ない教科書と筆箱混じりに割り箸やピロウズのアルバムなど雑貨がごちゃごちゃと犇めきあっている。探ると同時に、この状況の打開策も見つけた。
 思えばそうだ。待つだけなら別に中でいいではないか。好き好んでこんな寒々しい所でさらされていることもない。何故気付かなかったんだ。確かにそっちに頭は向けていなかったが。
 ようやく名前を知った彼女をもう一度見る。彼女はいまだ立っている。空を見上げ、傘も開かず、寒気に震えながら。
「……」
 強い音は続く、雨は止まない。風も止まらない。震えが起こる、カバンの中に入った手の平を石のように固く握りしめる。
 嫌になってくる。彼女がどうとかではなく、やめにしたい。
 難しくない簡単な用事が、恥ずかしいと思うようになったのは何時からだろう。妙な考えで逃げるようになってきたのは、相手を気にするようになったのはどうしてだ。人に対して、ましてや別姓に対して何か親切を行う事にためらいを見せるようになったのは何故だろう。
 向こうの迷惑では無く自分が傷付くのが怖いという言い訳ももういい、ただこれ以上こんな寒々しい思いは、意味の分からない震えは勘弁したいところだ。
 そして、切り拓きたくて、こうして決意する事も、何かを頼りにしなければできないなんて。
 カバンから握り締めた手を取り出し重さに任せだらりと下げる。こうして力を抜くくらいがちょうどいいと思った。
 そこで風が強くなる、空気を裂くような音と水滴を運んできた冷たさに感覚の一部が遠くなる、必要無い、重荷だ。
もう一度彼女の方を向く。
 もうこれで止めにしたい。
 彼女をしかと見逃さない。
 そしてそれは自然だった。
「……あのさ」声を出すことが出来た。

 パリーン! と。

「…………え」「…………あ」
 止まることは呆気無かった。
 説明を言葉でするとこうだ。
 台風並みの強い風が吹いた。ビュウと。
 しなった枝の一本が折れた。ボキンと。
 強風に乗り枝は飛ばされた。バァアと。
 その一本がガラスを割った。パリーン! はここで鳴った。
 その後は、あらゆる音が止んだ。感覚は戻ってきたものの、驚きのあまり俺達は沈黙に包まれた。足下にはガラスの残骸や、そこまで至らなかった木の枝や木の葉が散らかる。
 しかしそれは俺達の、次の言葉にとってあまり関係無かった。
「あっぶなかった!」「びっくりしたねっ!」
 悲鳴代わりのように余分な程やかましく俺達は声を上げた。そう、俺達だ。彼女も当然仰天したようでこぼれそうなほど大きく口と目を開けて、ってあれ。
 俺の場合はただの感嘆だ。でもなんだ、彼女はそれに加えて同意を求めるようなことまで言わなかったか。たった一文字だけれどそれはまるで俺に向けられている言葉ではなかったか。俺がこの約一時間、やろうとして躊躇ったり逃亡したりしてきたことを彼女はやってのけた。
 俺は首を少し下げていた。視界に彼女の姿を入れるためだ。先程の強風もあれだけだったようで、スカートや裾が微かに宙に浮くばかり。だがそこで、
「あの」
 心地の良い声音が俺の耳に届いた。
顔をよく見たら、それは人違いかもしれない。そう思う程目の前にいる少女の顔付きは異なっていた。爽やかで、さっぱりとしていた。足取りも確かに、こちらへと一歩踏み込んできた。
「これ、よかったら?」
 彼女は、こちらをしかと見上げながら続けた。
「ゴメン気付かなくて。ひょっとしたらとは思ってたんだけど暗かったし不安でさ。確かめたかったんだけど、こそこそとした探りってなんか恥ずかしいね、上手くいかなかった。ってか名前もさっき思い出したの、先生に言われて。ええとだから」
 俺の名前を呼んだ後、彼女は左手の物をこちらに差し出す。
「お詫びって訳じゃないけど、もしよかったら使っていいよ」
 だ。えへへと快活な笑顔まで付けてきた。
「……」
 最初から彼女は予感していた。それでも足りない条件が俺とは違う、けどどこか同じ疑問を生み出したようだ。行動が妙にシンクロした訳だ。その結果、俺が級友だと知り、どうやら傘を忘れたようだと感じた今、行動はあっさりとしていた。
 俺は鳥肌も気にせずにただそれを見つめている。次にすべき行動も決まっている。傘を受け取り、俺と彼女の頭上に傘を広げる。もしも、そう終われば良い話だ。
 けれども問題はまだまだ残る。
 俺の反応が無かったからか、笑顔でこちらを向いていた彼女の顔に次第にハテナマークが映し出される。徐々に俺の視線の先に顔を向け出して、それに気付いた。
「……あっ!」
 珍しい事は、要らない時に限って起こるもんだ。
 彼女が差し出した、女物の、ピンク地に五枚の花弁の柄の傘。
 何十も彩られている花の内一つに、太い木の枝がぶっ刺さっている。ガラスを無差別に襲ったように無差別に傘まで襲ったようだ。彼女や俺のカバンや俺に刺さらなかったのは強運だ。
 先程の、感嘆を表した時とは打って変わって、彼女はトーンダウンし「あれ……」などと呟いて視線を彷徨わせている。時々俺と目が合った時には、締りの無い弛んだ、それでいて収拾のつかなくなった表情を見せている。
 全く、この子はどんな気持ちで言ったのだろう。
 同じクラスの女子だ。以上、俺の感想。
 話した事もない、話に聞いた事もない。彼女が俺を知っていたとはいえ、俺の記憶に残らない程の交流関係だ。
 それでも彼女はやってのけた。俺が散々悩んでしまったことを次々と。何も難しくはない、簡単な事をやってのけただけだ。
 かといって、このオチでは合点がいかない。
 残念エンドは趣味じゃない。
「……あの、さ」
 呼びかけに対し案外彼女は静かに俺を見上げる。暗さなど関係無い距離だ、うるんでなどいない瞳は微かに震えて見えた。
 あ、とそんな呆けた声を彼女は出していた。
 今の俺にとってそれは些細な、だが頼りになる武器だ、天気予報を見るようになって、変わり易い天気と言われた時の対処としてついた癖が、役に立っているのだ。
 俺は先程から握り締めていたそれを、彼女に分かるように突き出した。紺のシンプルなデザインは、それが折り畳み傘であるという以外説明の余地を与えない。
「悩んでたんだよ。俺ん家ここから走って五分くらいだし傘差して歩いて帰るか、それもメンドウだから走って帰るか」
 雨の音も風の音も遠くに感じる。寒さに震えていた半袖から伸びる腕は、今はしかと折り畳み傘を掴んでいた。
 別にやましい気持ちなんて無い。したくない。彼女もそうだ。そこに余計な気持ちは必要ない。簡単だ。
「よかったら、使ってくれるか?」それだけが近くにある。
「よかっ」「あ!」
それでも俺は結局言えなかった。
 純粋に驚いた。先程の感嘆よりよく響く声量の声を彼女は出していた。視線は前へ、グラウンドへ。
続けて俺も彼女の視線を追う。けれど、雨なんてどこにも見られない。どころか、先に見える風景に思わず興奮を覚える。口を開いてみたものの、何も言葉になど出来なかった。
 まるで違う世界を見ているようだった。
 心さえ重くする灰雲が幻想だったみたいに消え、抜けるような青空が広がっている。切れ切れの柔らかそうな白い雲さえ蛇か綿かツチノコのような形で漂っている。遮るもののない開けた世界だ、背を伸ばせば頭がつきそうなほどそれは近く、俺の目には偉大に映った。ぎらぎらした季節を感じるオレンジマークとは異なるけど、ぐちゃぐちゃした心をほぐす澄んだ夏空だ。
 すげぇ、などと言いかける程、俺は風景の虜になっていた。
「よかった、天気予報見ていて」
 そんな中で再び首を動かした先、彼女がキラキラと見えたのは、雨粒がところどころ髪とかに反射していたからだ。多分。
「天気予報?」
「そう、所により一時雨が降りますが、直にまた青空が見えるでしょう、って昨日言ってたのよ」
 だらしなく口が開いていく、それは聞き覚えのある言葉だ。
 最初の空を見た瞬間、俺は信頼をすぐに壊した、けれど彼女は最後まで信じた。だからここまで待っていたのだ、
 この青空はだから、そんな彼女の真面目さがもたらした結果なのだろう。途切れ途切れの雲塊が一瞬ウサギに見えた。
「あ、知らないよね。私は毎日見ているんだけど」
 少し不安そうに小首を傾げる彼女。それの答えはでも出せる。
「俺だって欠かさず見ているよ」
 思い通り言えた。すぐに顔を背けてしまったが。変わらず気持ちの良い晴天だ。あれに似ていると思った。カメラのシャッターだ。焦点を当ててスイッチを押す。一瞬の暗転に包まれて、やがて開かれるとまた景色を見る事が出来る。古いタイプの例えだなと自分で思ったから言わないでおくけど。
 さて、しかしこれで傘の必要は無くなった。けれど、彼女との会話を邪魔する物ももう出てこない。雨宿りする必要もないここで、もう少し太陽光を浴びていこう。
「あーあ」と言いながら彼女は何故か傘を開く。残念そうな声音でも、顔はしっかり笑っていた。俺らの視界を遮るいくつもの幼稚な花。勿論その中には異物が一つ混じり込んでいる。それくらいと思い俺は、刺さった木の棒を引き抜いた。濡れた木を引き抜くと当然だが綺麗な穴が出来ていた。歪みの少ない円形で、お、良く見ると面白い事が分かる。
彼女に無理を言い傘を渡してもらう。穴を覗いたまま、彼女に当たらないように振り回す。ちょっと! などという声も悪いが無視して。いいアングルはそう簡単には見つからない。
そんなことをしていたからだろう、穴の開いた部分から一滴零れる。ちょうどそれは左目に入って思わず俺は目をつぶる。
 しばしの間お預けになる景色を惜しみながら、カシャリと、それはちょうど、シャッターを閉じるように。

 
テーマ
4


第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


私の世界に映るもの

   秋の真夜中。

 わたしは見ています。暗い夜道を、です。見る、というより眺めていると、言ったほうが正しいかもしれませんが。とにかくわたしはここにいて、この道を眺めています。昼間とか夕方にはそれなりに車や人が通っている姿を見られるのですが、次の日付に変わりますと、ときどきタクシーやよっぱらっているサラリーマンのお父さんがへべれけで歩いているのがうつるだけです。おうちに帰っても家族からじゃけんに扱われるのかな? と思ってそっとお疲れ様と思っておきます。実際には声にしませんよ。だってそんなのおどろかれるだけなんてわかっていますから。
 あっ! もうそろそろ一時だ。緊張するなぁ……。えっ、なにが緊張するかだって? んー……ぜったい秘密ですよ?
 わたし、恋をしているのです。
 なんですか、その顔は。別にいいでしょう、恋するかしないかなんて個人の自由なのですから。と、とにかくすてきな人なのです。聞いたことないですけど、声だってきっとすてきに決まっています。性格だってきっと優しくて、でも時に厳しくて、でもやっぱりわたしが傷ついているときはそばにいてくれる優しさを持ち合わせているに決まっています。とにかくとにかくすてきな人なのですよ!
 ……ごめんなさい、少し熱くなりすぎました。で、でもきっと女の子なら好きな人の話をする時こうなりますよ! なりますよね……?
 なんてわたしが暴走しているうちに彼がやってきました。ほら! あの白い車です! 彼の車はゆっくりとスピードを落とすと、まがり角の近くでその動きを止めます。本当はそんなところに車を止めてはいけないのですが、夜中は車も来ないのでいいのです。彼が止まった車から降りてきて歩道と車道のあいだの段差に腰をかけます。そして、ふところからタバコを取りだしてとってもおいしそうにふかします。タバコには多分「GARAM」と書いてあります。黒いパッケージです。文字は少し小さくて見えづらい。でも、彼以外に吸っている人を見ないことから考えると、めずらしいタバコなのかマイナーなタバコなのかであるようです。そういうふうに人と違うものを選んでいるところもすてきだと思います。
 さらにさらに彼は顔もかっこいいのです。芸能人で例えるなら……阿部寛かな? あんまり芸能人って知らないのですけど。身長も多分180センチくらいはあるし、その上スリムですごい鍛えているみたいなのです。かっこいいな。ほんとかっこいい。服装もモノトーンでで、すごいシックなの。
 そんなことをしているうちに彼は一本目のタバコを吸い終えると二本目を取り出します。彼はいつもここであのタバコを二本だけ吸ってまた車に乗ってどこかへ向かうのです。その時間はだいたい三十分くらい。今のわたしはこの三十分のためにここに居ると言っても、言い過ぎではありません。その三十分彼を見続けます。幸せです。声をかけられなくても。彼がわたしに気づいていなくても。わたしは彼を見ているだけで十分です。
 いつの間にか彼は二本目のタバコを灰皿に押しつけています。あっという間に時間が過ぎ去っていたようです。彼はまた車に乗り込むと遠くへ行ってしまいました。残念です。
 でも彼にも生活があるのです。仕方ありません。でも、どんなお仕事しているのだろう。どんな場所に住んでいるのだろう。恋人は、いるのかな。とってもとっても気になります。わたしには知る方法はないのですがそれでも。
 そうやってもんもんしているともう夜明けです。彼のことを考えている時間は長くもあり、短くもあります。今日も彼のことを思ってがんばります。

   ある冬の昼間。

 もうすっかり季節は冬のようです。雪がふっています。と言ってもそれほど強くふっているというわけではありません。歩道に薄く雪の幕を作っている程度です。雪がふっているだけあってやはり寒いらしく、道を行く人はみぶるいしたり、肩を縮ませて歩いたりしています。マフラーや手袋をしている人も昨日より多いように思えます。
 さて、彼の話です。あれからどうなったかというと、特に進展もなし、といったところでしょうか。彼が二本タバコを吸うのをわたしが見ている、という関係性はほとんど変わりません。正直なところわたしはこれ以上望めませんし、望むつもりもありません。今のままで幸せなのです。
 ただ一つ変わったといえるところは、彼が毎日はタバコを吸わなくなったということです。吸わなくなったというよりも毎日車を止めなくなったというほうが正確かもしれません。お仕事が忙しくなったのか、勤務する時間が変わったのかわかりませんが、二日か三日に一度、一時間くらい帰りが遅くなるようなのです。そのときは車をあの曲がり角で止めずにそのまま走り抜けてしまいます。ナンバーがチラリと見えるので間違いないです。
 彼を想っているわたしとしてはとても残念なのですが、仕方ありません。彼だって早く眠りたいのでしょう。わたしは応援することしか出来ませんが、精一杯応援したいと思います。
 少し雪が強くなってきました。前が見づらくなっているみたいです。そんな中小さな子供たちが一所懸命、雪だるまを作っています。カップルたちが一つの傘に身をよせあい笑っています。少し険しい顔をしたサラリーマンが急ぎ足で横断歩道を渡っています。赤いワゴン車がゆっくりと進んでいます。雪が少し、また少しとふり積もっていきます。ゆっくりと白い色に染めていきます。今日もわたしが見える世界は平和です。

   その日の真夜中。午前四時。

 わたしは見てしまいました。暗い夜道の中を、です。今回ばかりは見てしまったのです。わたしはわたしを、役割を、存在を、事実を恨んだのは、初めてかもしれません。
 もう少し焦ったほうがいいのかもしれませんが、焦ってもどうしようもありません。だって、わたしにできることは見ることしか出来ないのですから。
 そんなわたしに見えているもの。それは死体。交通事故。
 轢いたのは彼。わたしの、わたしの好きな人。
 いつもより帰りが遅かった彼は急いでいたみたいです。横断歩道に酔っ払いながら入ってきた元人間今死体には気づかなかったみたい。
 考えていたよりあっさりとほうぶつせんを描いて人間は跳ぶみたいです。ひとつ勉強になりました。それに気づいて車から降りた彼は恐ろしいほど狼狽していました。それは幻滅するほどに。
 すぐに現実に戻った彼はまたすぐに車に乗り込み、走り去っていきました。とても早く。あっという間に見えなくなりました。
 なんと言うんでしょうか、イメージとの差を見せ付けられた、とでも言いましょうか。
 彼はとても焦っていました。彼はすぐに逃げました。病院に電話しませんでした。彼はわたしに気づいていませんでした。
 気づいていたら、逃げたりはしないから。
 やっぱり、ダメですね。
 わたしは恋なんてするべきではありませんでした。
 大人しく、映る世界だけを映し続けていればよかったのです。
 そうすれば、つらい思いなんてしなくてすむから。
 このままだと、わたしは彼をあやめてしまいます。
 そうなるまえに。
 わたしはわたしのなかからけそうとおもいます。
 さようなら。
 だいすきでした。
 きっとつたわらないけど。

   ある春の日。

 風が吹いているようでした。グレーの花びらが視界を埋めます。やる気に満ちた青年がカバンを振り回し横切って行きます。子供とその母親が笑顔で手を繋ぎ、横断歩道を渡ります。その横断歩道のところにはいくつかの花、お酒が置いてあります。
 わたしはこの道を見ています。眺めているといってもいいかもしれませんが、わたしの役割からすると一番いい言い方は注視する、なのかもしれません。
 わたしはこれからもこの道を見続けるのでしょう。わたしがおかしくなってしまわなければ。
 今日も沢山の人がこの道を歩いて行きます。ひとりの男性がタバコを取り出して火をつけました。チラッと黒いパッケージが覗きます。歩きタバコダメなのに。多分すぐお巡りさんがくるんじゃないかな。わたしが見ているし。
 なんて考えていたら、ほら近くにいたお巡りさんが彼を見かけると交番のほうに連れて行くみたいです。
 彼は大人しく付き従って行きます。
 今日も世界は平和です。


テーマ
2.jpg

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


夢追い

気がつけば、私は通路の端で呆然と立っていた。辺りの喧騒も意に留めず、惚けていたようだ。頭の上には電光掲示板が瞬いていて、目の前には父が険しい顔をして立っている。ここはどこだったか。ああ、そうだ、ここは空港だ。意識が少しずつ現に戻ってきた。父の実家まで飛ぶために、空港に来ていたのだった。自分はまた夢心地になっていたのか。
最近、頭がぼうっとすることが多い。考え事をしながら歩いている時とか、授業の間、退屈だと感じた時とかに、ふと気がつくと惚けている自分がいる。白昼夢を見ているような、夢と現実の区別がなくなり交じり合ったようや、そんな不思議な感じにしばしば包まれる。
父は何やら携帯電話に向かい不機嫌そうな声をあげている。何と言っているかはよく聞き取れない。まだ頭がぼうっとしてる。聞き取れないけど、なんだかとても不愉快な気分になった。頭でどうこう考える前に不快感を感じ取っているかのような、そんな感じに。とにかく、父の表情と声は私にとってはとても不愉快なもので、気が滅入ってきてしまった。
少し目が覚めてきた。
この空港はよく見知っている。子供の頃から、遠く離れた父の実家に行くときにいつも利用していた空港。毎年毎年決まった季節におとずれる場所。エンジンの重い轟音が鳴りひびき、窓が揺れている。
父の実家は、今時珍しいくらいの田舎で、外灯の一つも無い。言い過ぎかもしれないが、文明から遮断された秘境のような土地である。昔はその大自然を珍しがって、祖父母へのあいさつも半ばに山道を走り回っていたものだ。
野をかける兎や、美しい彩色の鳥、清流を泳ぐ魚の姿は、自分達の生きている世界とは全く別の世界のようで、私はそこに子供心ながら神秘の念を感じていた。本やテレビでは、兎なんかは熊やらなにやらの肉食獣に食べられるか弱い生き物、なんてよく言ってる。けど、実際に野生に生きる獣を目の当たりにして追い回してみたら、その意外な力強さ、すばしっこさから何からなにまで、人間なんかじゃ及ぶ可くもないということを、半端な知識よりずっとずっと生々しく思い知らされる。羨ましく思えるほどに、自分とはかけ離れているのだと。
父の声が五月蝿い。電話の相手は母だろう。どうせまた愚かで些細な言い争いだ。同じ事を何度言い争えば気が済むのか。
親族の、特に父母の間の喧嘩腰の口調は、はじめは聞いているだけで胸が痛くなり、言いようの無い不安感に襲われるものだ。だが、慣れてしまえば今度はひたすら不快なだけのものになる。馬鹿馬鹿しい、愚かで醜い、と。
私に背を向けてまくし立てている目前の父から顔をそらす。両親に対しては愛想が尽きた。今も私になど目もくれず、公衆の面前で電話越しに醜く言い争ってる。
目をそらした先には見事な月が浮かんでいた。この時期になるとそう遅く無い時間でも外は真っ暗になり、こうして早くから月が拝める。眩しい明かりに塗れた都会では、夜の星などろくに見えず、唯一変わらずに目に映る月に、私は安らぎのようなものを感じていた。
両親の怒鳴り、喚きの声に堪えかねて部屋に篭ったとき、いつも見上げるのはあの月だった。澄んだ夜空に凛と輝くあの月の輪に向かって、全てを置いて行って鳥のように飛んでいってしまえればどんなにいいか、などといつも考えていた。それは現実から逃げて来た私の拠り所であった。
今もこうして月を見ていると、自分の体が妙にふわふわしてくるような感覚に包まれ、今にも飛び立てそうな錯覚に襲われる。今なら何処へだって、何処までも行けるような、そんな万能感。そして夢うつつの素敵な心地。眠りにつく直前に来る快楽のような。いつもいつも現実逃避しているから、いつもいつも惚けてしまうようになったのだろうか。人の心の仕組みなど詳しくは知らないが、まあそうだろう。現実から目を背けたいのだ、私は。
ポケットに手を伸ばす。使い古した財布を取り出し、カード入れから擦れて古びた写真を取り出す。
自分の写真。中学生の頃だか、髪を思い切り短くした時に、それを面白がった母親が不意に私の部屋を訪れて撮った写真。この写真は何時も財布に入れている。自分の顔を写真でまじまじと見ていたら、急に気恥ずかしくなって、自分の顔を黒塗りにしてしまったせいで、何が何だか分からない光景になっている。
この頃はまだ、今と比べてだが、家族睦まじく、こんなふざけたコミュニケーションが親子で交わされたりもした。年甲斐もなく悪戯してくる母親と、それを見てさらに面白がっている父親。この写真を見るたび、冗談みたいに明るい記憶がよみがえる。現実から逃げ出せるのだ。この写真もまた、私の拠り所、逃げ場であった。
何時の間にか父の声は止んでいた。携帯電話を乱暴にポケットにしまう。
ほら、行くぞ、と、苛つきを隠しもせずに手招きしてくる父に、そして電話の向こうの母に、私はただ軽蔑のようなものを感じていた。

※ ※ ※

私は部屋に篭っていた。父の実家は古ぼけた平屋で、その角のほうの空き部屋を、私の一時の自室にしていた。いくつか戸を引くと、まず冷えた空気が体を包み、ついですぐ前には真っ暗な林が広がる。私は、ただぼうっと夜空に浮かぶ月を眺めていた。
ふと、首筋に風を感じた。とても冷たい風。頭が軽い。後頭部に手を伸ばす。髪がばっさりと短くなっている。鏡を見遣ると、写真で見なれた輪郭が、妙に子供っぽく見える自分の顔が映っていた。記憶の中にある、あの写真を撮られた時の自分の顔と、当然だが瓜二つであった。写真の顔を黒塗りにしてさえ無ければ、しっかり確かめる事が出来たであろう。自分の顔などわざわざ確かめるほどのものでもないが。
声が聞こえる。父の声、祖父母の声、親戚の声。時折怒鳴るように、険しい声で何か言い合っている。内側の戸を少し引いて、顔を出してみる。いつもの不快な声が聞こえてきた。
またやってる、と、すごく嫌な気持ちになる。身内の愚行は本当に不愉快だ。みんな結局は自分の事ばかり。私のことも放っておいて、親権が、慰謝料が、とまくし立てて怒鳴り合って。本当に、こんな現実は嫌になる。
ふと、頭にあの写真がよぎった。少しだけ開いた扉から顔を出す自分。ちょうど今、あの写真と同じような構図になっているな、と気付く。
これ以上言い争いを聞いててもただ気分が悪くなるだけなので戸を閉める。代わりに反対側の、外に通じる戸を見つめる。
少し開いた戸の向こうには、相変わらずの真っ暗な林が広がる。仰ぎ見ればそこには月が。気のせいか、月がさっきより大きくなって見える。
冷たい空気が心地良い。月に惹かれるように、戸をそっと開け放ち、部屋を出て外に立つ。熱に浮かされたようなぼんやりとした感じがする。体が浮いて行くような感じが。何だろう。
気付けば足の裏に地面の感触はなく、私は確かにその場に浮いていた。なぜだかそれに不思議さを感じなかった。さも当然の道理のように。
浮け、浮け、と念じる。
途端、ものすごい早さで地面が遠ざかり、体が空に昇って行った。
びっくりして、止まれ、と思うと、今度は緩やかに上昇が止まり、そして推力を失ったかのように下へ下へと落ちて行った。
そうしてまた浮け、止まれ、と念じていくうちに、上手く勢いを調整できるようになった。飛んでいる、というよりかは、遥か天上からロープが垂れてて、その先に自分が結び付けられているような感じがした。
空に上がり下を見ると、古びた家とどこまでも広がる森林が目に入った。空を飛ぶ高揚感と、落ちたらどうしよう、という少しの恐怖感と緊張感が、私を捕えて離さなかった。
前を見ると、月の光に重なって小さな影が見える。何だろう、と前へ前へ浮いて行く。
それは鳥であった。鷹かふくろうか何かはよく分からないが、一対の大きな羽が見える。黒い輪郭が羽ばたいている。その羽ばたきはとても凛々しく、あれなら月へだって飛んでいけそう、そのくらい一直線に力強かった。
私はその鳥について行った。ついて行けば、どこかに連れて行ってもらえる気がして。ここではないどこかへ。
何時の間にか、私の両手は大きな翼になっていた。操り人形のように天上から吊り下げられている感じはなくなり、確かな自分の意思で飛んでいた。
ついてこい、変わりたければついてこい、そう目の前の鳥に言われた気がした。ふと頭の中に、天啓とか転換期とか、色色な言葉がイメージとして浮かびあがった。鳥の飛ぶ速さはどんどん増している。置いて行かれぬよう、私ももっと速く力強く翼を動かす。疲れは感じない。
私は鳥になっていた。人間の形を失い、代わりに羽根に包まれていた。そうだ、鳥だ。私は鳥だ。力強く羽ばたく、ただ一匹の鳥だ。人間なんかじゃないんだ。あんな不愉快な人たちとは違う世界の存在だ。ここが本当の私のいるべき世界なんだ。
あの写真が頭の隅にちらついた。幸せな頃の記憶。急に懐かしさがこみ上げ、未練がましい想いが湧いた。どうした、やめるのか、そう言われた気がした。
答える前に目が覚めた。布団を半分蹴飛ばしながら寝ていたようだ。私はなににともなく悪態をついた。

※ ※ ※

次の日は獣であった。私は、強く美しくそして疾く、その四本の足で地を駆ける、一匹の狼であった。風を切り、夜の林を駆け抜け飛び越えて、何かに誘われるように進んで行った。足の裏から伝わる確かな地面の反動が、私に例えようのない頼もしさを与えてくれた。
さあ、どうするんだ、変わるのか、否か。頭の中に誰かの声が直接響いた。
変わりたい。そう思った。私は本当はただ一匹の獣、野生なのだ、ここが私のいるべき場所なんだ。そう思った途端、またあの写真がちらつき、決意が揺らいだところで目が覚めた。
次の日もまた次の日も、私は夢の世界で獣となっていた。ある時は清流を泳ぐ魚に、そしてある時はしなやかに跳ねる猫に。
どれもこれも、人間なんて話にならないというくらいの力強さ、そして優雅さを備えていた。私はその感覚に溺れた。だが、いつもあの写真がちらつき、夢の最後が訪れる。
現実は相変わらずであった。ただ醜く不快だった。逃げ出したかった。こんな現実から逃げ出して、夢の世界にずっと浸っていたかった。
最近は少しでも長く夢を見るため、現実を遮断するため、昼間でも眠るようになった。父は怠惰だなんだ言っていたが、そんなことはどうでもよかった。気にも留めず、向こうの世界に行っていた。
数日のうち、次第に夢の中で自分ははじめから獣であったのだと感じるようになった。いつものあの写真で、自分は人間であった、と思い出し、目が覚める。楽しさと妙な不安が混じっていた。
父の実家に来てから数日経った夜、私はこっそりと家を抜け出し、表の林に踏み入って行った。あんな夢を見ていくうちに、祭りを前にした子供のようにわくわくしてきて、実際に夜の別世界を肌で感じてみたくなったからだ。
外灯の一つもなく真っ暗ではあるが、月が出ているので最低限の視界は確保できそうだった。懐中電灯でももってくればよかったかもしれないが、なんというか、それは趣を乱すように感じられ、結局手ぶらできた。
転ばないように少しずつ手探りで進んで行く。ちまちまとしか進めないのがなんとももどかしかった。夢と現実は違う。当然のことだが、なぜか納得できなかった。
道を掻き分け進んで行く。どこに行きたいとかそんな当ては別に無く、気分と思いつきでこんな事をしてる。強いて言うなら、行きたいところと言えば、そう、あの夢の世界だ。嫌な事を全て置いて行って、人であるよりずっと魅力的な、あの万能感を感じていたい。
どんどん進んで行く。進めば進むほど、木々で月の光が遮られ足元がおぼつかなくなる。枝に引っ掛かったりもする。だいぶ視界が利かなくなってきた。手探りで財布を取り出し、写真を握り締める。お守りにそうするかのように。
遠くで声が聞こえた気がした。呼ばれている気がした。
少し怖かった。暗闇から声がしたら誰だって怖い。
そういえば、さっきからこうも当ても無く意味も無く歩いているが、なぜか進むべき道は決まっているかのように、足取りが確かだ。誘われているのか。何かに。
また声が聴こえた。今度は聴き取れた。ついてこい、と。
これは夢なのだろうか。いつもの夢。どこかで倒れたりでもしたのだろうか。現実を飛び越えてきたのだろうか。
写真を強く握り締める。そこで変化に気付いた。
手指が小さくなってきている。これは毛だろうか。なんだかふさふさしてきた。服の下から感覚が伝わる。そういえば、さっきから妙に目線の位置が下がった気がする。木々を潜るためにとっていた前傾の姿勢から戻れない。
目が暗さを克服してきた。ぼやける事も無く鮮明に、夜の景色が広がってきた。視界も広がった。月がとても大きく見えた。
小さな小さな木擦れの音までよく聞こえるようになってきた。全ての感覚が桁違いに鋭敏になった。肌で、体毛の一本一本で、周囲の空間が把握できた。耳が上がって行く。鼻面がせり出す。
おめでとう、おめでとう、と、そんな声が聞こえた気がした。這いずるように進む。爪先と肘で地面を踏みしめる。
写真。写真はどうなった。握りしめた手を見る。見ようとしたけど、うまく首が回らず手元が見えない。写真を手前に放る。いつの間にか手が写真なんかよりずっと小さくなっていた。歩みも、這いずるようなものでは無く、四肢で地面を捉えるようになっている。
もはや人であった自分の面影はどこにも感じられなかった。自分の手足はこんなものだったっけ。思い出せない。私はなにをしていたんだっけ。思い出せない。どうでもいいや。全部忘れて行く。自分ってなんだっけ、どんな姿だっけ。
目の前に放られた写真を見る。自分が映ってる写真。 だが、どんなに目を凝らしても、自分の姿はわからなかった。顔が塗りつぶされていた。
さようなら。ようこそ。
急に何がが切れた感じがした。とても心がすっきりしだした。幸せな記憶。未練。もう無い。あるかもしれないけど、考えるのもおっくうになってきた。本能が全てを支配し始めた。ただ知覚があった。
強い風が吹いた。写真がきりもみになって浮いていく。目で追う。やがて何処とも無く飛ばされて行った。
私は一匹の獣だ。
遠くから、家屋のようなところから、嫌な声が聞こえた気がした。衝動が体に走る。獣は月の下を、暗闇をひたすらに駆け抜けて行った。

※ ※ ※

彼女の行方は知れない。



テーマ

6

第二十回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


| TOP |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。