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さらし文学賞
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インタイ

「師匠、考えなおしてはいただけないのですか」
「うむ。お前も儂の性分は知っておろう? そう簡単に言ったことは曲げぬよ」
「承知しています。しかし、こうしてお頼み申し上げています」
 畳に文字通り額をこすりつけて、私は頼み込むも、師の気配が変わる様子は無い。
「無駄なことぞ。いかに一番弟子のお前とは言え、その程度でわしは揺るがぬ」
 芸を貫き続ける我が師匠は、あと数年も続けていれば、人間国宝にも選ばれたのではないかと言われる、偉大な方だ。だが、その一途さ、頑なさが斯様に働こうとは。
「まだ私は未熟です。せめて私が一人立ちできるまで、延ばしてはいただけませんか」
「ならん。第一、お前はもう十分一人立ち出来る。師に甘えるのをやめることから始めよ」
 畳に額を付けている私には見えないが、尊顔には笑みが湛えられているだろう。しかし、言葉はあくまでも厳しく、圧力すら感じさせる。
「延ばしていただけねば腹を切る、と申してもですか」
 匕首を懐より取り出し、抜き放つ。師は白刃にも怯まない。その向う先が己であったとしても、おそらくは。
「弟子を死なせるようでは、ますますやっておれんよ」
 空気が張り詰めそうな場面で、寧ろ師は豪放磊落に笑い飛ばして見せた。師の一言で私が腹を切ることができないとわかったことを悟られたのだ。
「儂は引退する」
 その言葉は、もはや承服するしかなかった。
「名はお前にくれてやる。一人で修業に明け暮れるなり、弟子をとるなり、好きにするがいい」
「はい、師匠、お元気で」
 もう二度と、会うことは無いだろうと、私は思った。

 次の日、街角には元気にタイヤキを売る元師匠の姿が!
「引退親父の売る『あんこinタイ』はいかがかな! 若い人向けには『カスタードinタイ』もあるよ! さあ、よってらしゃいみてらっしゃい!」
 師匠は引退とinタイを掛けたダジャレを使うためだけに、引退を決意なされた。全力で、お止めしたかった。
「あはは、親父ギャグとか超ウケるし!」
「オジサン、あたしたちカスタード2つね」
「あいよっ! やっぱり若い子はカスタードinタイだね!」
 全力でお止めしたかった……のだが、なぜか流行ってるし、もう何も言うまい……と思ったが、最後に一言。
 元師匠、カスタードもそこまで若者向けじゃないです。

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第十二回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


the end credit

s-2-a

「しかしね、君。私は引退するつもりなのだよ。」
「はぁ、何をですか?」
 私は深く溜息をつく。目の前にいる私よりも二回りも若い男の質問に。
「役者をだよ。」
「そう、だからですよ。だからこそ、先生にお願いしたいのです。」
男は若い。名前くらいは私も聞いたことのある、新進気鋭の演出家らしい。何でも、斬新で実験的な作品を幾つも手がけ中々の評判らしく、私の数少ない役者仲間の若い連中は彼の作品に随分と熱をあげている様子のようだ。保守的で頑迷な老いた私のような古典的な役者でなく、若い連中にでもこの仕事は頼むべきなのではないのか。
「そう、役者の鑑のような貴方にこそ、この役は相応しいのです。」
 彼は先程と同じように私に熱く語りかける。彼の話し方は暑苦しい。そう、私などは感じてしまう。若い頃だったら、彼の話も、その話しぶりも情熱的で、精力的で、魅力溢れたものに感じていたかもしれない。しかし、老いた私には、彼の話も話しぶりも、どこか空回りした、青臭く、理想主義な絵空事のようにしか思えない。
「そう、役者を引退する役は。」
 再び溜息をつき、私は帽子を机の上に置いた。


s-1-a

 孫が風船を持っている。
「おじいちゃん。」
 私は何故か墓石の前にいる。ここに眠る人は誰なのだろうか?
「おばあちゃんはここにいるの?」
 孫は墓石を指差しながら尋ねてくる。私は小さく頷いた。

s-1-c

 目の前には妻がいる。
彼女はベッドの上に眠っている。隣に座って、彼女を見守ることしかできない。
「あなた……?」
彼女は目を瞑ったまま、小さな声でぽつりと呟いた。掛け布団から出ている彼女の左手を握り締める。
「あぁ、そうだよ。」
「ありがとう、傍にいてくれたのね。」
 彼女は薄っすらと瞼を開き、こちらを見ながらそう言った。
「あぁ、これからはずっと傍にいるよ。」
 彼女は嬉しそうに微笑んでいる。
「役者はもう引退した。これからはずっとお前の傍にいる。」
「ありがとう。」
 彼女の左手の力が強まる。少しだけ目元が潤んでしまう。
「あなたは本当にいい人だったのよ。」
 涙、流さぬように彼女の右手に両手を被せ、強く握り返す。
「本当に。」
 彼女の目をじっと見つめる。頬に少しずつ滴が下りてくる。
「頑固で気難しい人だったけど、本当は優しくて、寂しがりやで。」
 まるで、少女のように頬を染めながら彼女は言う。
「素敵な人よ。」
 今にも消えそうな呟き。私は、ただ彼女の手を必死に握り、泣いてしまう。
「私の良き夫の役もこれで終わりね。」
 寂しそうな呟きが小さく聞こえる。
「あなたの妻、という役をできてよかった。」
 少しずつ彼女の手から力が抜けていく。
「貴方のこと、本当に好きだった……。」
 彼女の息がこと切れる。
 
 目の前には女がいた。何故か、悲しくもなくとも泣いていた。

s-1-b’

目の前には見知らぬ墓石、そして子供。子供は風船を持っている。
「おじいちゃん、なんでおばあちゃんはここにいるの?」
 子供は不思議そうな顔をしている。私にも分からない。赤い風船に目を遣る。青い空によく映える。
「おじいちゃん……?」
「私にもよくわからないよ、坊や。」
 不可解な顔をしている見知らぬ子供。私は帽子を抑え、彼に背を向ける。

 私の後ろを子供が駆け足で負いかけてくる。しかし、大人の歩幅と小さな子供歩幅の差は大きい。
「おじいちゃん、どこいくの。」
 少しだけ泣いているような子供の声。振り向くと、空に風船が舞い上がっていた。


s-4-a

「役を演ずるというのは、どういうことなのですか?」
「そうだね。たとえば、君は今私のインタビューアーなわけだけど。」
 目の前のインタビューアーは真剣な顔つきで私を見ながら、手元のメモ帳に私の口から発せられる一言一句を書き記そうと身構える。
「まぁ、そう身構えなくても結構。」
 威厳を保ちつつも、相手の緊張をほぐように笑みを浮かべる。彼は私の笑みに対して緊張しながら作り笑いをしながら答える。
「とりあえず、そうですね。私は先生にインタビューをさせてもらっている身ですね、今は。」
「そうだね、では何故君はそんなに緊張しているのかね。」
 私の質問に彼は戸惑った。
「えっと、ですね。まぁ、先生には今までこういったインタビューなどに答えていただける機会も少なかったわけですし。えぇ、我が社のほうでは初めてになるわけで……。」
 彼はしどろもどろになりながら、そう答える。
「しかも、先生のようなご立派な経歴の持ち主の方に、私のような若輩のヤカラが、その……。」
「なるほど。」
 笑顔は絶やさずに、彼のしどろもどろさに対しては苛立たず、実の孫を見るかのように優しく。
「だが、君だっていつもそんな風なわけではないだろう。」
 彼は「えぇ、まぁ……。」といいながら、顔をメモのほうへと向ける。
「大丈夫だよ、別に怒っているわけじゃない。」
「はぁ……。」
 彼は少しだけ安堵したようにこちらのほうを向く。
「君だって、気の置けない友人と一緒にいるときなら、もっと饒舌だろうし、愛する人に対して、臭い言葉を吐くときに、そんなに噛んだりはしないだろう。」
 ゆっくりと丁寧に、具体例を出しながら、彼に言い聞かせるように話す。
「まぁ、そうですね……。」
「つまり、それが役を演じるということなのだよ。」
 にっこりと笑いながら、彼の方をみる。


s-3-a

「すいませんが、お名前とご住所をお聞きさえていただけますか?」
「はぁ……、えっと……。」
 私は言葉に詰まった。仕方がなく、目の前の人に言葉を続けず、帽子を被り外に出た。


s-4-b

「最後に、今度演じられるとされている、引退する役者、という役はどのように演じられるつもりですか?」
 少しは緊張もほぐれてきたのだろうか、インタビューアーの彼はメモに書いてある最後の質問を尋ねた。
「まぁ、難しいとは思うがね。そうだね、さっき言ったように役を演ずる、ということは他者との関係性から来るものなのだからね。もし、役のない役者というのがいたら……。」
 彼がじっと私の目を見ている。
「そう、役がなければ、そこには私自身しかいないということになるな。」
「なるほど、先生自身が……。」
「そうだね。」
 彼は合点がいったような、煙に巻かれたような顔をしながらメモ帳に私の言葉を書き取った。
「とりあえず、今日の質問は以上です。ありがとうございました。」
 彼は長時間に渡る仕事を終えたことに安堵を覚えたのか、小さく息を吐きながら、感謝の言葉を述べた。
「これで、終わりかね?」
「はい、ありがとうございました。」

 私は帽子を被り、男の前から去っていった。


s-3-b

 風が吹いた。頭の上に乗せている帽子を慌てて抑える。
「お疲れさまです。」
 男がいう。
「これで終わりです。」
 何を言えばいいのだろうか。男はこちらのほうをにこやかに見ている。私は表情無く、立っている。何をすればいいのだろうか。次は何を言えばいいのだろうか。

" The life is like a fairy tale"、いや。
" To be, or not to be, that is the question"、いやこれも相応しくない。
違う、" If a wound goes really deep,the healing of it can hurt almost as bad as what cause it ?"。
"It looks like I'll spend the rest of my life dead."、そうじゃない。
あぁ、"I don't know how to kiss or I would kiss you. Where do the noses go?"
こんなことをいうんじゃない。"Life is a beautiful magnificent thing even a gerryfush."、何も喉の奥から出てこようとはしない。    
"The world is yours."何も出てこない。

ただ、台詞だけが零れ落ちていく。

徐々に暗くなっていく。舞台には、もう何も残っていない。後ろには大道具はなく、手元には小道具もない。天井にはスポットライトは吊るされておらず、足元にはバミリもない。どこにいるべきか、なにをすべきか、なにをいうべきか。

s-3-c

 Black out。ただ、帽子だけが残った。

s-4

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引退のおはなし

1.恋人の引退
「わたし、引退するわ」
「引退? 何の?」
「あいつの彼女よ。それ以外ないわ」
「ああ……それって引退っていうのかな……でも、どうして?」
「あいつはさ、ほんと最悪なところばかりでさー(と言って悪いところを挙げ続ける)」
「そっか……そんなにあいつは嫌な奴だったのか。わかった。君がそういうなら、僕は反対しないよ」
「えっ、ちょっとは反対してくれてもいいじゃない。だって、あのひとはさー(と言って、いいところを挙げ続ける)」
  (中略)
それからしばらくして、私はその二人が結婚した話を聞いた。

2.犬の引退
 医者は今日も電話を受け、往診に向かう。毎日同じことの繰り返しだ。息子はよくそんな毎日で飽きないなと言い、娘はすごいなと褒める。だが、医者は何も感じなかった。なぜなら、それが彼の人生だったからで。当たり前のことだから、不思議にもえらいとも考えるようなことはなかった。
 いつものように、雪が降りしきる中、老齢の医者はゆったりとした足取りで患者を診に向かった。患者の家に着くと、そこには、寒い中首を長くして医者の到着を待ち望む、患者の家族が門の前に立っていた。医者はその家族にともなわれ、家の一室に案内された。
 患者はそこにいた。人ではなく、犬だった。一般的な家庭に飼われるタイプの犬で、もう毛も抜け落ち、やせ細り、ぐったりとその身を横たえていた。医者も患者が犬であることを意に介した様子もなく、黙々と治療に当たりはじめた。犬は薄目を開けて、医者を見た。すると、偶然医者と目が合った。医者は黙って犬に向かって頷いた。犬は弱弱しい瞳をしばらく医者に留めると、安心しきった様子で彼に身を委ねた。そして驚くべき回復力を見せたのである。
 だが、日が暮れ、夜になると、医者は今夜が山だと家族に話した。犬は老衰がひどく、体力も気力も弱っていて、もう死期が迫っているのだという。とりあえず、じぶんはつきっきりで看病するからとも。
 家族の見守る中、医者は犬を励まし、必死で看病した。一度復活した体力ももう戻っては来ず、見る見るうちに体力は落ち、ぐったりとしていった。医者も懸命だが、そこは所詮人間の医者だから、なかなかうまくはいかない。家族は行く末を黙って見守る。
 そして、夜明け前。犬は遂にその自らの役目を引退したのだった。医者は久しぶりに泣いた。自分でも理由はわからなかった。
 冷たくなった犬の身体を、さめざめと泣く家族を、無力にうちひしがれる医者を、部屋に差し込む朝日が照らす。やわらかな光は天から犬を迎えに来たかのように思わせるほど、神々しく、そしてあたたかだった。

3.大統領の引退
 その日、大統領は引退することになっていた。二期八年にわたる長い任期がついに終わる。テレビや新聞を見れば、もはや彼がとっくに辞めたのかのように、次期大統領の一挙一動を延々と報道している。まるで大統領がいなくなったみたいだと憤慨する者がいたが、彼は穏やかに去れていいじゃないかとなだめた。
 引退する当日の朝も、大統領公邸では慌しく引越が進められていく。彼は、その喧騒を耳におさめながら、執務室の椅子に腰をうずめて、一人でゆっくりと珈琲を飲んでいた。そっと目を閉じると、八年前の就任した頃の様子が思い返される。接戦だった選挙にかろうじて勝利した彼は、希望に燃え、自由と平等の世界を作ろうと固く心に決めていた。
 この椅子に初めて座った時、彼はまだ「彼」だった。自分を強くもち、先人のなしえたことに思いを馳せ、自らのこれからを国民に捧げることを強く誓ったのだった。
 だが、それは時とともに変化していった。多くの人が離れていった。反対に近づいてくるものたちもいた。だが、彼らは信用ならない、抜け目のないものたちだった。彼はそうしたものたちに踊らされ、転がされ、いいように利用された。よくわからない戦争を始めさせられた。自分の知らないところで知らないことが、自分の名において進められた。
 そして、人々は次第に彼を憎み、無視するようになった。彼自身も彼のことを無視するようになった。大統領はもう彼の預かるところの存在ではなくなった。いつしか、世界は彼を平和の敵と呼ぶようになっていた。
 だが、その大統領生活ももう終わりだ。最後くらいは、平穏に静かに去りたい。そう何ヶ月も前から心に誓ってきた。新大統領が就任したらすぐに田舎に帰るつもりだった。補佐官の者たちも、彼らは最後まで彼の最善の味方であり続けた、彼の決意を理解してくれた。
「大統領、そろそろお時間です」
彼ははっとし、目を開けた。目を閉じ回想にふけっているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。目の前にいるのは、もう長い付き合いの補佐官だ。
「すまんな。ねむってしまったらしい……ところで、チャールズ」
「何でございましょう?」
チャールズは首をかしげ、大統領からの言葉を待った。
「お前にもこの八年間本当に迷惑かけたな。これまでありがとう」
補佐官は、その言葉を聞くと、微笑んでこう答えるのだった。
「大統領。まだそのお言葉は早いですよ。さあ、最後の仕事に行きましょう」


0.「引退」をもって引退するもの
「どう、この話は?」
その女は、隣のデスクに座っていた男にできたての原稿を見せました。
 白髪がだいぶ混じるほど年を重ねていた女は、地味なグレーのスーツに「スズキ」と書かれたネームプレートをつけていました。一方、渡された方はというと、「ナカムラ」と書かれたネームプレートを同じようにつけていましたが、なぜだか「ヤマネ」と呼ばれていました。こちらは大学出たての新入社員のように見えます。
「ヤマネ、ヤマネって、私はナカムラですよー。一回も呼んでくれたことないですね。いい加減覚えてくださいよ……どうせ私は影薄い男ですよー」
女は冷たい眼で男を睨みました。それはそれは恐ろしい目です。
「さっさと私の質問に答えなさいよ!」
男は慌ててメガネをずり落としそうになりそうになりながら、女から渡された原稿に目を通しました。そうそう、この男はメガネをかけているのでした。書き忘れていたのでした。決して今付け加えたのではありません。決して。誓いませんが。
 さて、話を元に戻すと、男は読み終わるとゆっくりと顔を上げ、女に微笑みかけました。メガネの奥の目が強く何かを訴えかけてくるようでした。女は照れを隠すかのように、また怒り出しましたが、さきほどとは調子がいささか柔らかでした。いささかですが。
「当たり前よ! 私の引退作品なんだから、これまでで最高のものを作るに決まってるでしょ。で、どうなの? ニヤニヤしてないでさ、なにか感想でもいったらどうなのよ!」
男は微笑みながら、女の問いかけに答えました。
「好きになりました」
女はわかりきっていても、こう尋ねないわけにはいかなかった。「言わないで我慢」なんて言葉は彼女の辞書にはありませんでしたので。
「よかったーこの作品を気に入ってくれたのね? これで私の作家人生に幕が下ろせるわ」
しかし、男からの答えは思いがけないものだった。
「あなたを。この作品は読んだ私に、あなたを好きにさせた。なぜなら、そこにはあなたのすべてがあるからだ」
女は心の中に何か揺れ動くものを持ちつつも、こう言わざるを得なかった。彼女の辞書には「素直に」という言葉もなかったからなのです。
「ふっ……それで口説いてるつもり? あなたの言葉で私を落とすには……そうね、あと百億年ぐらいかかるんじゃないかしら。もう馬鹿らしいわ、」
そこで一旦言葉を止め、深呼吸をして、ごくりとつばを飲み込んで一言。
「ナ カ ム ラさん」
女はそれだけ言うと、スタスタとオフィスの外へ小走りに出て行きました。
それを黙って見送っていた男も、しばらくすると追いかけるように外に出て行きました。
 男のデスクの上にそのまま乗っかっている原稿。その一番上にはワープロの無機質な字でこう書かれていました。
「引退は、よくも悪くも流れてきた時間全てをまとめ、まるめ、ましなものにする。だが、忘れてはならない。引退とは決して始まりではないし終わりでもない。ただ人がそこにそれを置いただけのものである」

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田中さん、宙に行くの巻

「田中さんはどうして田中さんなの?」
 妙齢の美しい女性は、突然隣にいた老齢の男性に問いかけた。その女性は、黒ダイヤのように輝く髪を腰までたらし、これまたカラスの濡れ羽色の戦闘衣装を身にまとっていた。全身黒ずくめで、周りの暗がりと一体になり、ただ一点翡翠色の目が光っている。一方話しかけられた老齢の男性、田中と呼ばれた者は、真っ白いスーツに夜光シールをベタベタ貼り付けた一風変な格好をしている。田中さんは、ずり落ちそうになるメガネを直しながら、宙に浮かぶ翡翠に話しかけた。
「なんだい? 藪から棒に。私は田中なのは当たり前じゃないか」
女性は暗闇のせいで全く感情が判別できないが、その間から若干言いよどんでいるのがわかった。
「……確かにそれはそうだけど。田中さんは昔からこんな感じじゃないでしょ? たとえばこのファッションとか。もういい加減どうにかしてくださらない? これじゃあ、逃避行の意味がないじゃない」
田中さんはこの質問を気に入ったらしく、フォっフォっと派手に笑い声を立てた。女性は顔をしかめた。全く見えなかったが。
「すまん、すまん……だが、こうした性分でな。見つかったら見つかったで、そのときはそのときじゃしな。おお、そこまで怒らんでも……そうじゃな、いやさっきの質問のことじゃよ。わしも昔は人間の時があったのじゃよ」
女性はいぶかしんだ。昔は人間ということは、今は人間じゃないのかしら。小さな呟き声が暗闇の中から聞こえた。田中さんはそれを聞き漏らさず、飛び上がると大声で叫んだ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああたり」
 周りの藪で静かに寝息を立てていた鳥たちが驚いて目を覚まし、ばたばたと飛び立った。森のあらゆる部分がこの瞬間に覚醒し、何か妖しいものが一瞬で二人の間を駆け抜けていく。女性は思わず田中さんの白い腕にすがりつく。田中さんの体は驚くほど冷たかった。
「人間じゃないのだよ。私はね」
急に田中さんは若返った声に変わり、朗々たる口調で女性に話しかける。その身体は光り輝き、太陽のように周りを照らし始める。
「そうさ。私は人間ではない、異形の存在なのさ! さあ、どうして私が今の私になったかを考えてごらーん」
田中さんと女性は今やおどろくほど多くの魍魎どもに囲まれていた。魍魎どもは、二人に触れようとするが、田中さんの発する光の圏内には入って来れない。勇敢にも入ろうとした者たちがも中にはいたが、アークに焼かれ、次々と一塊の塵と化していく。知恵が少しでもある者たちは、光から一定の距離をとって中の田中たちを威嚇するだけで入ってこない。それだけでも、心を折らせるには十分な絶叫が耳を襲う。
「わからないわー死んだから?」
女性は耳に手を当てながら、絶叫に負けないほどに叫んだ。一方、田中はむしろこの状況を楽しんでいるように見えた。そして答えを叫んだ。
「私が人間を引退したからさ――――――――――――――!」
 その瞬間、田中さんは女性の手を取ると、伸び上がってそのまま宙に向かって一気に飛翔した。鳥や羽虫のように羽をばたつかせるのではなく、まるでロケットのように空気をかき分け上昇していく。女性は恐怖におののきつつも、しっかりと田中さんの手にしがみついていた。
 田中さんにたかっていた魍魎たちはわっさわっさといとも簡単になぎはらわれて、パラパラと落下していった。
「見たまえ。あのように無力なものたちを。まるでゴミのようだ」
田中さんは、冷たい笑みをほのかに浮かべながら、震えている女性に話しかけた。
「さあ、これから私はなぜ私であるのかについて話してみようじゃないかー」
世間話をしているかのような振る舞いの田中さんに戦慄を覚えた。女性は思わず、その手を離した。そして落下する。パラシュートもなしで。だが、田中は全く気にせずに蒼空に向かって語り続ける。落下した女性が失神する前に見たのは、成層圏を超え、宇宙空間に到達せんばかりに高速で上昇を続ける田中さんの放つ禍々しい光だった。

 私がまだ私でなかった頃。今よりもずっと通俗的で凡庸な傷つきやすかった私は、それだけでなく既にその時点で「素質」があった。それゆえに、必然的に私は自分の世界から「外れる」こととなった。
 私はある日全くひょんなことから変な事に巻き込まれて、気付くと黒ずくめの男たちに拉致されて豪華な一室に幽閉されていた。いったいなぜこういう目に遭うのか。まったく予想がつかない。誰が、何のために? 不思議と恐怖を感じなかった。むしろ好奇心の方が強かった。
 しばらくして、SPに警護されて、いかにも偉そうな感じの人が、部屋に入ってきた。ダークグレースーツに淡い青色のネクタイをきっちり締め、髪はポマードで陶器のように固められ、それを身につける身体は驚くほど無駄のない動きをし、驚く非の打ちどころのない男性です。銀行の頭取とも、大商社の社長にも見えるその風貌からは、これから訪れる戦いが困難になることが容易に予想できた。
「君が田中君かな。すまんね。わざわざこんなところに呼び出したりして」
男は早速話を切り出した。やさしそうに聞こえる口ぶりだが、ただ既に書かれている原稿を棒読みしているかのように、抑揚のない、冷たい声だった。
「いやあ君が、弊社の新事業と何らかの関係をもっていることは既に知られているのだよ。君は「あれ」が気にならなかったと聞いているが、本当かな?」
「お言葉ですが、「あれ」は間違っていると思います。人道的におかしなものだと……」
田中さんの反論をさえぎって、男は叫ぶ。さきほどまでとはうって変わって、恐ろしいくらい感情的な声で。
「だっかっら、なあんだと言うのかね? 君はそんなことを言って、自分は人道的な人間のつもりか。笑わせるな!」
田中さんはもう何も言えずに黙っている。男は一人でどんどんまくしたてる。顔は興奮から真っ赤になり、目からは狂気の光があふれ出ている。
「田中さーん、教えといてやろう。人間の世界って言うのはな、誰かを搾取しないと生きていけないんだよ。弱肉強食という言葉は知っているはずだ。んんんん、まだわからないのか? わからないのなら、この世界では生きていけないな。しょうがない」
男は、硬直している田中さんに微笑みかけながら、自分のふところから一本のバタフライナイフを取り出した。
「田中さん。人間世界のルールにうまく適用できないなら、人間辞めちゃえばいいんじゃないかな。不肖私がそのお手伝いを致しますよ」
そして男は、田中さんにナイフを振り下ろした。
「死ねい!!」

 ナイフが振り下ろされる瞬間、田中さんは神様仏様に助けてくださいと心の中で叫んだ。そしてついでながら、悪魔さんにも何でもするから助けてくださいと祈った。祈ってしまった。だから、それは来た。そして、突然田中さん以外の時間が止まった。
「おっはよー。田中さん。元気?」
みすぼらしい着物を身に着けた老人が突然田中さんの背後に現われた。
「何なんですか? あなたは。」
「わしか、わしは悪魔じゃよ。そちが呼んだから来てやったぞい」
老人はまるで他愛のない世間話をしているかのように、田中さんに自分が悪魔であることを名乗った。
「ほっほー。この男に殺されかけとったのか……」
悪魔は包丁を振り上げながら硬直したままの男をつついて、楽しそうな顔をした。
「わしは不幸が好きじゃから。普段はこんなことしないんじゃが。お前は特別じゃ。わしが助けてやろう、」
ここで、悪魔は言葉を切り、にんまりと気味の悪い笑みを浮かべて、こう続けた。
「ただし条件がある」

 先ほど落下した女性の話。実はこの子が主人公。成層圏と対流圏ぎりぎりの部分から落下して、絶体絶命。
「ただし条件がある」
地上の落下点には、田中さんがいた。今度は紺のスーツに、金縁の丸メガネをかけている。この田中さんが、見事に女性を受け止めた。田中さんにも女性にも怪我はなかったが、周辺地域はその日マグニチュード八の地震に見舞われた。
「ただし条件があるとその悪魔は言ったんだ。君は何だと思う? ふっふ、寝顔はいい顔じゃないか」
まだ失神したままの女性の耳に自分の口を近づけ、潜在意識にすりこませるように、かみしめながら次のように言った。
「人間を引退して、魂を売れとね

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生きるとか死ぬとか簡単に言わない方がいい

 父さんも、こんなだったのかなあ。耳の後ろに心臓が張り付いたみたいに、どくどく波打つ音が聞こえる。身体は熱いのに、全部諦めたら痛みは感じなくなった。ああ、いつも、そうだった気がする。何もかも諦めて…… 遠く、から  声、が……

 あ、まだ、  生きてた。
「洸、あきらぁ!」
「かあさ、ん」
 駄目だ、上手く 声が出、ない。  母さんが、泣い てる。 俺、 死ぬの、かな 今度こそ。
「下がっていてください!」
 知らな、い 人の 声。  ああ そうだ  
「し、ししょ これ……」
 左手が、 上がらな  あが った
「しっかりして! 洸!」
「ごめ  」
 あ、 あ  かっこ悪ぃ

 本当は、サッカー選手になりたかった。
「でも、父さんは何も分かってなかったんだ。サッカーの事なんて。俺が試合に出た日も、一回も来てくれなかった。知ってたんだよ、俺がサッカー選手になれない事」
 父さんの弟だと言うその人に、俺はその日初めて会った。何でも、ずっとヨーロッパにいたらしい。父さんの葬儀が済んで、親戚の人がみんなうちに来て、叔父さんは線香臭い部屋から俺を連れ出した。
「そうか……それは申し訳ない事をしたね。お父さんは、おじさんの分まで働いてくれてたんだよ。だから、試合にも来れなかったんだ」
「違うよ、父さんはサッカーなんかどうでも良かったんだ。だから叔父さんに僕の事を頼んだんでしょ」
「……聞いてたのか」
 叔父さんは、優しそうな細い目を少し大きくした。今朝、叔父さんが母さんと話してるのを盗み聞きしてた。俺は父さんの跡を継ぐ為に、修行しなきゃいけない。修行しやすいように転校して、サッカークラブにだって通えない。
 叔父さんはじっと僕の顔を見ていた。そしてぽつりと、こう言った。
「君のお父さんはね、本当は……野球選手になりたかったんだ」
「嘘だ!」
 父さんはテレビの野球番組を見なかった。スポーツ新聞だって、雑誌だって、買ったこともなかったし、家にはバットもグローブもなかった。
「お父さんと、おじさんが修行する時にね……ユニフォームもシューズも大切にしてたサインボールも、全部捨てたんだ」
「嘘だ!」
 そんな話、聞いたことない。父さんはあんまり自分の話をしなかった。いつも俺や姉ちゃんが話すのを、黙って聞いてた。
「ゴミ袋に全部詰めて、泣きながら引きずって、おじさんも泣きながら運ぶのを手伝った……」
「だからって……俺も諦めろって言うの? そんなの、そんなのひどい!」
 叔父さんは、俺の頬をハンカチで拭った。俺は自分が泣いてるって事に、初めて気が付いた。
「お父さんは、他の人じゃ救えない人を救う為に、助けられなくて後悔する事のないように、全部捨てたんだ」
 だから納得しろって言うんだろ? 大人はずるい。自分たちの都合ばっかり押し付けて。どうせ、子供は逃げられないんだ。そう思ったら、かあっと頭が熱くなった。俺は叔父さんの言葉も聞かずに、走り出した。家に帰って、子供部屋の押入れに潜って、涙が止まらなくて、シーツで鼻水を拭いた。

 修行の間、叔父さん――今では師匠と呼ぶその人は、俺の夢について言及する事はなかった。
「師匠、」
「ええ、ここまでよく頑張りましたね」
 祓の儀が全て終わると、師匠は顔を緩めた。肩の荷が下りたように深い息をつくその姿は、年を経て益々父さんに似てきたと密かに思う。父さんは老けすぎてたんだろうな、きっと。師匠が若かったせいもあるかも。
「どうしました?」
 思わずにやけてしまったらしく、師匠が顔を覗きこんできた。
「いえ、別に……と、そうだ、忘れるとこだった」
 俺は慌てて話をそらした――まあ元々言おうと思ってた事だけど。
「師匠、一つお願いがあるんですが」
 俺は練習用の手袋を、汗ばんだ手から引き剥がすように脱ぎ取った。師匠はそれを不思議そうに眺めている。
「何ですか、一体?」
「師匠の手袋を、俺に頂けませんか?」
「いえ、これは……」
 久々にかなりうろたえている師匠の姿に笑いを堪えながら、頷いてみせた。
「分かってますよ、俺のは造部の方に作って頂く決まりなんですよね」
 個々人に見合った道具でなければ、力を発揮しきれない。それはもう、練習用ので嫌というほど分かっていた。
「だから、記念に。それ、元は父さんのなんでしょ?」
「……そう、ですね。正確に言えば火打石の部分だけですが。……確かに、私よりは貴方に持っていてもらうべきものかも知れません」
 すぅと、幾分か緩くなった手袋を外すと、師匠はそれを俺に手渡した。その手は、微かに震えていた。
「初心を忘れず、日々鍛錬し、そして……どうか兄のようにだけはならないよう、気を付けて下さい」
「ありがとうございます」
 こうして、俺の修行は終わった。深々と一礼し、顔を上げると、師匠がはにかんだような笑顔を見せた。その顔に背を向け、これからの忙しい毎日に思いを馳せる。その耳に、
「洸君」
 呼びかける声。振り向くと師匠は、いや、叔父さんは言葉を続けた。
「サッカー選手になる夢は、」
「……もう諦めました」
 笑顔で返して、今度こそ俺はその場を去った。

「あの子が、これをと……」
 病院の廊下。冷え切ったタイルと、冷え切ったソファ。消毒の匂い、白い壁。洸の母は、握り締めたそれを男性に差し出した。こびり付いた血の色は、白い掌を紅く染めていた。
「……」
 男性は黙って受け取ると、母親の隣に座った。
「止めたんです、何度も。光司さんにも相談しようと……でもその前に、一人で行ってしまって……」
 すみませんと頭を下げる母親に、光司は首を横に振った。
「天地人の内、人。あれは中でも特に危険です。……それにあれは、」
「輝一さんを殺したモノ……でしょう?」
 光司は、深く深くため息をついて、手の中にある手袋をじっと見つめた。それは三年前、洸が修行を終えたあの日、確かに彼に渡したものだった。
「そこまで知っていて、洸君は……」
「復讐、ですか」
「……」
 光司はかぶりを振った。そんな事を、する子だろうか。探しても答の見付からない問いかけ。
「サッカー選手にね、なりたかったんですよ、あの子。十歳で、自分だけレギュラー取ったんだって大はしゃぎで……」
 ぽつり、ぽつりと、母親は語った。恐らく、彼女も答を探しているのだろう。
「輝一さんも、あまり表には出さなかったけれど、とても喜んでいて……それが、半年後に、あんな事に……」
 探り当てた記憶に、傷口に触れたように顔を歪め、それでも彼女は続けた。
「ずっと、続けてたんですよ、修行の合間にも、サッカーを。一人で、ですけど。いつか、子供が出来たら、一緒に遊んでやりたいって……」
 それが、限界で、わっと泣き崩れた母親の背中を静かになでながら、光司は固く目を瞑った。
 ――そうか、夢を諦めたんじゃなかったのか。
 その目尻から、つうと一筋、雫が落ちた。

 あれ、まだ生きてた。でも今度は、体中が痛い。すごくだるい。喉がからからだ。
「みず……」
 しゃがれて上手く声が出ない。誰もいないのか? やけに静かだ。
「! 洸!」
 母さん? いたんなら、水、くれないかなあ。あ、どっか行った。ああ、疲れた。
「高坂さん、高坂さん聞こえますかー?」
 眩しい。その懐中電灯、こっちに向けんのやめろよな。水くれ、水。
「み、ず」
「お水ね、はい、どうぞ」
 さすが母さん。伊達に二十年間家族やってたわけじゃない。あああ、うまい。ねむい。

「それで、どうしてそんな事になったんですか?」
 叔父さんと母さんに睨まれて、俺は今までで一番、生きた心地がしなかった。漸く流動食を許された病人にこの扱いはひどいと思う。
「知り合いの神主に頼まれて、祓いに行ったんです。そしたら、村中荒らされてて、話が違うってなって」
 で、一旦帰ってきたは良いものの、もう二次感染が広まって殆どの子供は取り憑かれてるし、憑いたのは父さんを殺したヤツだし、時間が無くて、
「慌てて戻ったんですか……私に知らせなかったのは?」
「叔父さんまで死んだら親戚連中に申し訳が立たないでしょ。それに俺一人で何とかなるかなーって」
 半分は本当だ。修行後も何かと面倒を見てくれた叔父さん、最近やっと一人前になってきた俺を見てそろそろ引退ですかねなんて言ってた叔父さんを、巻き込みたくはなかった。
「こんなものまで持ち出して、ですか。誤った使い方をすれば、より危険だったんですよ」
 叔父さんが突き付けたぼろぼろの手袋に、俺は頭を掻いて苦笑した。
「いや、お守りとして持ってたんですけど、自分のが途中で壊れちゃって。でも、それのお陰で一命を取り留めることが出来たんです。ありがとうございました」
 今の体で曲げられるだけ首を曲げて、謝意を表す。叔父さんはこういうのに弱いから、と思うと、やっぱり
「顔を上げてください、傷に響きますよ。分かりましたから」
 あたふたと俺の姿勢を戻してくれた。
「分かりません!」
 ……どうやら次は母さんの番らしい。
「あんたはいっつもそうやって無茶ばっかりして! 今回だけは絶対許しませんからね!」
「いやでもほら、相討ちだったし俺生きてるし……」
「相討ちってねえ、光司叔父さんがぜーんぶ後の事請け負ってくれたのよ! あんたが勝手なことばっかりするから、光司叔父さんが安心して仕事を辞められないんじゃない! 悪いと思わないの!」
「分かった、分かったから。今度から気を付けるって。あ、いてて」
「誤魔化したって無駄よ」
 さすが母さん。伊達に二十年間家族やってたわけじゃ……ってちくしょう。助けを求めて叔父さんを見ても、そ知らぬ顔で荷物を漁っている。基本母さんの味方だからな、叔父さんは。
「まあまあ、今日はそのくらいにして」
 珍しい。叔父さんは俺と母さんに割って入ると、ベッドに渡された机の上に、一足の靴を置いた。
「少し遅くなりましたが、成人のお祝いです」
「これって……」
 一見普通のスニーカーのようだが、よく見れば細工が施されている。
「貴方には手袋よりこちらの方が良いんじゃないかと思いまして」
 大幣は御神風。衝撃を与えるには、拳であろうと脚であろうと構わない。それを敢えて手袋にしていたのは、未練がましくしない為で、て事はひょっとして。
「……母さん、サッカーの練習やってるの、ばらしたんだろ」
「さあねー」
 口笛を吹くのは、
「口笛を吹くのは嘘をついた時」
 叔父さんが悪戯っぽく笑っている。
「やだ、昔の癖ですよ」
 いや、今でも十分やってる。叔父さんと目配せして、にやりと笑い合ったら、母さんの目が吊り上った。
「そうそう、まだ話は終わってないんですから! 今日はちゃんと反省文もしたためてもらうからね!」
 あああ、どうやら、生きるのは大変で、困難らしい。

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wh-

 何の変哲もない、普通の日、シシカバブ・ジェーン引退の報があらゆるメディアで一斉に流れた。穏やかに時を過ごしていた人々の暮らしは、一瞬で崩壊した。

 とあるニュース番組にて。
「ここで緊急速報です。シシカバブ・ジェーンが引退を表明したそうです」
 スタッフとキャスターからざわめきが漏れる。あわてて作ろうキャスター。
「失礼いたしました。しかし、引退ですか」
「青天の霹靂でしたね」
「どのような変化が起こると思われますか?」
「そうですね、株価に変動があるのは確実でしょう。情勢も悪化しそうですし、国民の皆さんには冷静な行動をしてほしいところです」
「当番組では、予定を切り替えて、シシカバブ・ジェーン引退のニュースを報道したいと思います」
 「シリーズ・中小企業の反逆」はお休みさせていただきますのテロップが流れる。

 とある生放送番組にて。
「さてお友達紹介……え? シシカバブ・ジェーン引退?」
「え、マジっすか! 今から紹介しようとしてたのに!」
「あ~、残念だったねえ。じゃあ、仕方ないから、また明日も来てくれるかな?」
「え、ちょ、マネージャー、スケジュールどうなってる?」
「はい、一端CMでーす」
 とあるラジオ番組にて。
「ええと、次はラジオネーム『シシカバブ・ジェーン引退しないで』さんからのお便り……随分タイムリーな名前をつけますねー。まあ、FAXならなんとか使えるネタですか。『こんにちは、普段は聞いているだけなのですが、あまりに衝撃的なニュースが流れたので、気づいたらFAXしていました。TELL MEさんも最近何か衝撃的な事態はありましたか? 教えてください。曲のリクエストはシシカバブ・ジェーンの曲であればなんでもいいです。』あー、僕にとってもね、やっぱりシシカバブ・ジェーンが引退したのが一番の衝撃的な事態かな。他にもなんかありそうなもんだけど、全部吹っ飛んじゃったよ。さて、じゃあシシカバブ・ジェーンの曲は……データが局にあるかなあ? ちょっと見つかるまで『暗い日曜日』でも聞いて待っててください。どうぞ」
 この番組は、この日を最後に二度と放送されなかった。

 とあるインターネット掲示板にて。
【緊急】シシカバブ引退【速報】
1.おまいらテレビつけてみろ
2.はいはい釣り乙w……え
3.ちょwwマジだしwww
4.早すぎだろjk
5.むしろスレ立ちが早すぎる件
6.ksk
7.誤爆スマソ……って引退ってマジかよ
8.1がシシカバブなんじゃね?
9.>8 その発想は無かったわ。
10.正直、もうどうやって生きて行けばいいかわからんわ。
11.>10 落ち着けって、シシカバブ死んだ訳じゃないし。
12.11はいいこと言った。生きろ>10
 以下、10を励ます内容に終始。

 とある新聞社にて。
「課長、一面記事差し替えますか?」
「あたりまえだろうが! 聞く前にやれ! 言われた時には既に完了しているようにしろ!」
「はい、言われると思って一応サンプルはできてます」
「うん、見せてみろ。って、お前シシカバブがドネルケバブになってるじゃねえか! 書き直せ!」
「え、あ、ホントだ。昼にケバブ食べたせいですかね」
 唇には死についたチリソースをぺろりとなめ、新人はまた記事を書く。

 とあるマンションの屋上にて。
「落ち着きなさい! 落ち着いて、戻ってくるんだ!」
 警察官が呼びかける先には、すでにフェンスを乗り越えた少女が一人。
「シシカバブ・ジェーンが引退したら、私もう生きていく希望が見出せないのよ!」
 警官は一瞬言葉に詰まった。シシカバブ・ジェーンの引退は、勿論耳にしていた。だが、社会への影響は想像していなかった。唇を噛みしめ、すぐに考えをまとめた。
「シシカバブ・ジェーンは引退はしたけど死んだ訳じゃない!復帰するかもしれないだろう!」
 警官の言葉に、少女はなぜか笑った。
「お巡りさんの言葉、皆がかけてくれたのと似ていたわ」
 さようなら、と少女はあっさり飛び降りた。
 笑っている時間がなければ、下にマットを敷くのは間に合わなかったかもしれない。

 とある一室にて。
「まさか、10が本当に飛び降りるとは」
 テレビやラジオを適当にかければ、そこはシシカバブ・ジェーンの引退の話で持ちきりだ。数多くのスレッドも立っている。
「へえ、予想スレもあるのか。『【ホワイダニット】シシカバブ・ジェーンの引退理由を推理する←一番うまいやつが優勝』……優勝ってなんだろうな」
 だが、このスレッドはまだいい線行っている、と彼は考えた。そろそろ、皆が疑問を持ってもいい頃なのだ。
 シシカバブ・ジェーンは何故・いつ引退したのか。
そもそも「シシカバブ・ジェーン」とは、いったいどこの誰、あるいは何なのか。
全国一斉放送されるものを、知らないとは言えない見栄っ張りな人々は、見ていて滑稽だ。金と手間暇を掛けた意味がある。
「さて、この状況はどこまで楽しめるものかな」
 彼の指が鍵盤を走り、新たなスレッドが立てられる。

『流行ってるみたいだけど、シシカバブ・ジェーンって何?』
1.5W1Hをきっちりとさせて、俺に説明してくれ。

 どのような反応が来るのか、今から楽しみである。

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スピリチュアル・チキン

 トーテム、という言葉がある。
 トーテムとは自分たち、もしくはその部族のルーツにある動植物が関連していると考える信仰の形であり、対象となる動植物は部族により異なる。
 アメリカのインディアンは一族の「苗字」に動植物の名前を付ける場合が多い。その場合、「苗字」となる動植物は彼等インディアンにとって同じルーツを持つ存在であり、同じ一族と考える。だからその動植物を殺したり、食べたりする事はタブーであり、固く禁じられている。
 ここに、一人の男がいる。彼の一族は代々シャーマンとして精霊をその身に宿し、数々の予言をもって人々を救って来た。
 彼のトーテム、つまりルーツとなる動植物は鶏だった。

 ランプの灯る仄暗い部屋。そこに置かれた重厚な机に、初老の男が向かっていた。しかし何をしている訳でもない。ただ腕を組み、目を閉じて何かを考えている。
 と、扉の向こうから声がした。
「酋長、入ります」
「うむ」
 男は静かに答えた。
 入室を許され、部屋に足を踏み入れたのは三十代ぐらいの男。髪は乱れ、肌も病的なまでに青白かった。
 酋長と呼ばれた男は椅子の背もたれに寄りかかり、若い――と言っても彼と比べれば、の話だが――男に問いかけた。
「首尾は、どうだった?」
「駄目でした。やはりもう、私の霊的なパワーは尽きかけています」
 そう口にする男の顔に、悲壮感は無い。彼は事実を事実として、そのままに受け入れていた。
 しかしその答えを聞いた酋長は、悲しげに首を振った。
「残念だよ。君は優秀なシャーマンとして、我々の集落を幾度も救ってくれた。その君がこの若さで、力を失ってしまうなんて……」
「それもまた、運命でしょう。ですが心配はいりません。後継者として、私の甥が今、シャーマンの修行を受けています。幼いながらも、彼からは強い霊的パワーを感じます。きっとそのうち、私を超えるシャーマンとなってくれることでしょう」
 男はそう言って笑った。努めて、明るく。そうでもしないと、この酋長はこれから話す事を聞き届けはしないだろうから。
「酋長。つきましては、本日限りをもって、シャーマンの任を引退したく願います」
 酋長の目が、大きく見開かれる。何かを言おうとしたが、男の目に映る強い決意を見て取った彼は、開きかけたその口元を緩めた。
「分かった。その申し出を受理しよう」
「ありがとうございます」
 男は深々と頭を下げる。
「なに、そうかしこまるな。……さて、そうなると引退祝いの宴を開かないとな。私の行きつけにいい店があるんだ。集落のみんなを呼んで、盛大にやろうじゃないか、なぁ?」
 酋長の申し出に、男は苦笑を隠しつつ頷いた。そんな大規模な宴など開かれては恐縮だが、突っぱねるのは無礼に当たる。
「ええ。その日を楽しみにしていますよ。では、失礼致します」
 再び深々と一礼し、男は部屋を後にした。

「えー、彼はこれまで何度も我々を導いてくれました。三年前の飢饉も、彼が精霊の言葉を伝えてくれたおかげで、一人の死者も出ませんでした。それに五年前の干ばつ――」
 酋長のスピーチに、集まった人々は皆頷きつつ酒を酌み交わす。
 そんな和やかな喧噪の中にあって、男の顔は固かった。
 彼は胸中で何度も問いかけていた。
(何でよりによって、宴会の場が焼鳥屋なんだ……)
 目の前に並ぶ様々な料理。串焼きに、唐揚げに、鳥刺しに、バンバンジー。厳選した地鶏を専門に扱うこの居酒屋は、当然メニューもほぼ鶏一色だった。
 これはもう自分への嫌がらせかなのかと思い、周りを見回すが、誰も彼も旨そうに料理を食い、ビールをあおり、愉快に談笑している。酋長にしても、不自然な様子は欠片も無い。
 そこから考え出される結論は、一つ。
 つまり全員、この場の主役が何をトーテムとしているのか忘れているということ。
 男の口からため息が漏れる。
 さすがにこの場で鶏が食えないとカミングアウトする訳にはいかないが、場の主役が何も食べずにいるのもどこか気まずい。
 小心者の男は暗澹たる思いを抱えつつ、刺身のつまに箸を付けた。大根の辛みが目にしみる。
「――えー、これを以て、挨拶に代えさせて頂きます」
 スピーチが終わったようだ。酋長はマイクを置き、盛大な拍手に両手を振って返している。すでに出来上がった老人連中からは「よっ! 南米一!」等とお囃しまで飛び出す始末だ。
「おい、どうだ飲んでるか!」
 突然かけられた声に振り向くと、同年代の友人だった。男の隣にどっかと腰を下ろすと、手にしたジョッキになみなみとビールを注ぐ。
「何だお前、全然酒が進んでないじゃないか」
「ああ、ちょっと――」
 そこまで口にしたところで、男は閃いた。この男に注文してもらえばいいじゃないか。
 メニューを引っ張り出し、鶏肉以外の料理を探す。
 ご飯ものの所に、あった。豚キムチチャーハン。
 小さく手まねきをし、友人の耳元に口を寄せる。
「あのさ。俺、今日は鶏肉って気分じゃないんだよ。で、これとか注文したいんだけど……」
 ふむふむと頷いていた友人は、男が指差している料理に目を向けた途端、「駄目駄目」と首を振った。
「豚はやめとけ」
「何でだよ?」
 訝しむ男に、友人は小声で呟いた。
「酋長のトーテムなんだよ、豚は」
「……マジかよ」
「前にもここで飲み会やった事があるんだけどさ、その時どっかの馬鹿が豚串頼みやがって。そしたら酋長、『豚は俺の一族だ』って一言。それきり何にも喋らなかったよ。いやー酷かったね、あの後のシラケっぷりは」
 我々の集落は慣例的に年長者や権力者を敬う。男も小さい頃からそう教わって来た。ここで無理にチャーハンを頼んで、場の空気を悪くする訳にもいかない。
「じゃあ、豚以外で何か――」
 男が改めてメニューを広げた時、テーブルの向かいに酋長が座り込んだ。
「どうだどうだ、楽しんでるか?」
 男のジョッキに瓶ビールを注ぎ足しながら、酋長はそう話しかけてきた。
「ええ、まあ……」
「みんなお前の引退を残念に思ってるんだ。だからこそ、明るく盛り上がってお前を気持ち良く引退させてやろうと振舞ってる。いい奴等だよ」
 言って、自分のグラスをぐいとあおる。
「だからお前もどんどん食って、どんどん飲め! まだ料理はたくさんあるからな! 今日は店に無理言って俺のオススメばっかり揃えてもらったんだ。どれも絶品だが、特にこの唐揚げが旨いんだ、これが」
 モモ肉の唐揚げを手づかみで口に放り込み、手にした瓶ビールにそのまま口を付ける。
「っかぁー! この瞬間の為に働いてるようなもんだな!」
 ガハハと豪快に笑う酋長の姿に、男は小さく嘆息した。
 駄目だ。これはちょっと、他のメニューを頼める状況じゃない。オススメの料理に手を付けず他の料理を頼んだりしたら、間違い無く酋長の機嫌は悪くなる。
 悩んだ男は、
「すいません、ちょっとトイレに……」
 ひとまず、問題を先送りすることにした。

 トイレの個室で、男は悩んでいた。
 飲み会が終わるまであと三時間はかかる。それから二次会、三次会。主役の自分が途中で抜けるなど許されないだろう。
 ビールと刺身のつま、千切りキャベツだけで乗り切れるのか。答は否である。美味しそうな匂いに食欲を刺激され続けた男の腹は、飲み会が始まってからずっと鳴りっぱなしだ。
「どうしようか……」
 便座に腰掛けたまま俯く男。
 ふと、その視界に光が飛び込んできた。
 トイレの照明なんかではない。もっと澄んだ、神々しい光。
 思わず顔を上げた男の前には、後光を纏った――鶏が、浮かんでいた。
「あ、あなたは……?」
 そう問いながらも、男はその正体をすでに理解していた。シャーマンとしての経験と、自らの内から湧き出る感情から。
 その鶏は、男のトーテムだった。彼の一族のルーツであり、彼の信仰そのもの。それが形と成り、今、彼の前に現れたのだった。
 鶏は、呆然とする男に向かい、厳かに嘴を開いた。
『食べなさい』
「た、食べろって、まさか……鶏をですか?」
 男の問いに、鶏はゆっくりと頷く。
『お前はこれまでよく頑張りました。例えここで鶏を食べても、その心にある信仰は清いままにあるでしょう。さあ、串焼きを、唐揚げを食べ、万全の態勢で二次会に臨みなさい。クェー』
「あ、あぁ……」
 男の目から、大粒の涙が溢れる。
 トーテムはそんな男を、どこか優しげな瞳で見つめていた。

 男は、食べなかった。細切りの大根とキャベツ、それに大量のビールを腹に入れただけの彼は、二次会のカラオケで「OVER SOUL」を熱唱し、三次会のバーではマティーニのオリーブで無理矢理に胃を鎮めた。
 家に帰り着いた時にはもはや満身創痍の体であったが、ベットに倒れ伏したその表情は、満ち足りていた。

「よう、お前シャーマン引退するんだって?」
 そう同僚に問われたのは、会社の昼休みでのことだった。
「あれ。こっちにまで伝わってるのか?」
 頬をかきながら男は答える。
 シャーマンだけでは生計を立てられない彼は、平日は一般商社で事務の仕事をしている。いわゆる「兼業シャーマン」というやつだ。
「ここはお前と同じ集落の奴も多いからな。『これからは新入社員の配置を占ってもらえなくなるのか』って人事部長が悩んでたぜ」
「何言ってるのかねあの人は。俺に占わせても結局は自分の意思で配属決めてるくせに」
 キーボードから手を離し、やれやれと肩をすくめる。
 同僚も「まったくだ」と笑った。
「まあ、それで今度、引退記念に飲み会を開く事になったんだ。俺が幹事なんで、都合のいい日を教えてくれ」
「別にいつでも構わないが……あ、そうだ場所は――」
「場所はもう決まってる。部長が強く勧めるんでな、地鶏料理が名物の居酒屋になった」
 同僚の言葉に、男の口元が引きつる。
「そこそこ高級な店らしいんだが、部長もお前にゃ世話になってるからって、結構な額をカンパしてくれたんだ。楽しみだよ、薄給の身じゃそんな店なかなか行けないからな。それじゃ」
「あ、ああ。楽しみだな……」
 そう返すも、男の胃は今からキリキリと悲鳴を上げていた。
 今度目の前にトーテムが現れたら、タブーを破ってしまうかもしれない。
 腹を押さえながら、男は机に突っ伏した。

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退位前日

 静寂に鎖された其処に、折節老人の溜め息が響く。
 衰躯を椅子に預けた老人は実に疲れきった様子で、その虚ろな眼居も何処と定める処を持たない。物を見るため、というよりはただ閉じ方を忘れてしまって仕方無しに開けているといった風でもある。一見しては正気を失しているかの様だったが、永き艱難の時を幾重に刻みつけた貌はむしろ報われぬ思索に耽る哲人の、心を何処かに惑わす姿にも見えた。
 それにしても……。
 幾度目かも知れぬ溜め息を吐きつつ、ふと彼は思う。
 それにしても、闊かなるかな……。
 事実、其処は百人が会して尚余りある程に広大な部屋だ。歳経り滑らかになった石造りの床の壁は燭台の明かりに濡れたかの如く黒く照り、掃き清めた筈が何処からともなく薄く埃と煤と錆とが匂い、部屋にはいかにも身を糺さずには居られない荘厳な空気に充ちている。だが、此処にはただ一つの座と老人があるばかり、過ぎた広大さは空虚で、過ぎた荘厳さは滑稽だった。
 老人は永きを此処で過ごした。此処に座る前、自身が何処に身を据えていたのか明々と思い出す事が出来ない程に。
 いつか紐解いた書の曰く「部屋こそ自身の写しなれ」
 果たして此が己なれば、いかに下らぬ五十年を過ごした事だろうか。
 くくっと薄く自嘲しようとしたつもりが老いぼれた喉笛はクッ、クッと苦しそうに引き攣れた音を鳴らすばかりだった。石壁から伝う冷気に調子を崩したらしいが、それは改めて自身の老いというものを思わせる。笑う事さえ不自由な体を、彼の心は嘲け笑った。散った花の代わりのつもりか、不釣り合いに豪奢な錦を纏う枯れ枝は、此の部屋と等しく滑稽だ。いや、あるいは嘲る心さえも、滑稽なのかもしれなかった。
 老人は今一度、長々溜め息を吐くと、すと目を伏せた。この頃は過ぎた事を思う時間ばかりだ。今もつい瞼の裏に半生を映し見てしまう。
 先ず見えるのはやはり、この孤独な部屋の事。彼の半生とは即ちこの部屋そのものなのだから必然の事だったが、目を開けても閉じても映す物が変わらぬとは、やはり滑稽が過ぎる。しかし、愉しき時もあった。いや、愉しき時の方が多かった。そも自身がこの部屋に居る時間など一日に二時間ほどに過ぎず、残りは外に赴き、心ある人々と交わってきたのだ。
 歳をくうと愁いにばかり身を浮かすようになるのは、虚しい事だ。いや、明日を思えばこそ感傷的になっているやも知れない。
 彼はただ静かに眠ろうと決めた。
 暫しあり、意識が舟の舫いを解かれたごとく揺蕩うのを感じていた彼の耳に、男の低い声が届く。
「……陛下、お休みにございますか?」
 微睡の誘惑のために、少しばかり億劫になりながらも老王は目を開けた。
 其処には、上等ながら簡素な官衣に身を包む壮年の男が片膝をつき畏まっていた。
「ここは冷えますゆえ、お体に障ります。お休みになられますならご寝所に」
「ガレノアか。……いや、過ぎし日を思い遣っていたに過ぎぬ。それより、いかにかした?」
「いえ。ただ最後の日を、陛下と共に過ごさせていただきたいと存じまして。お気に障らなければ、どうかお許しをお与えください」
 老将軍ガレノアは白髪の雑じり始めた頭を垂れたまま、老王の顔を拝す事もない。おそらくは許しを与えるまで動かぬだろう。
 老王は少しの間黙してガレノアを見る。老いながら尚屈強な肉体を不断の鍛練によって保つ彼は、正しく絵に描いたような武人だ。誰よりも忠節を重んじ、また体現している。彼が最後の日……明日退位する老王の在位最終日を、主と共に過ごしたいというのは至極当然の事なのかもしれなかった。
 老王は愁いと穏やかさとを兼ね備えた気品ある笑みを浮かべ、彼に頭を上げるよう促した。
「わしごときに忠義を尽くそうとは、貴公は臣下の鑑よな。好きに致すが良い」
 言って、老王はガレノア以外には臣官の無い事に思い当たり、ふふと息を漏らした。
 しかし、ガレノアはそれをいちいち問い質そうともせず、ただ畏まっていた。彼は自身を心無い無骨な武人に過ぎず、無用な言葉は控えようと心掛けている。
「は、有り難き光栄に存じます」
 だから、その一言のみに留め、後はじっと口を噤む事にした。
 再び静寂が訪れる。四間は遠い燭台の油のじじと焼けるさえ聞こえた。
 ややあって、老王はゆるりと背を糺して天井を仰いだ。
「ガレノアよ、レイームは如何な様子か?」
 ふと次代を担う孫の事が思い遣られたらしい。
 老王の息子とその妻はレイームが誕生して間もなく流行病に臥せ、レイームが三つを数える前に他界した。情け深い老王はそれから嘆く事が繁くなり、その反動のようにレイームを溺愛していた。
 老王の王位に対する愁いも、幼時に両親を亡くしたレイームの苦労も知るガレノアは一瞬息をのみ、けれどやはり淡々と事実のみを奏する。
「は。レイーム殿下は今も西の塔に篭もられ、祈りを捧げられています」
「戴冠式の前の、禊ぎの儀礼か。……ふふ、貴公は可笑しいと思わないか、ガレノア?」
 皮肉気に、見方によれば痙攣を起こしたかのように、唇端を歪める老王に対して、ガレノアは表情を微動だにさせない。だが、老王は気にせず続ける。
「禊ぎの儀礼は戴冠に際して、穢れを払い清め、太陽神の加護を得る為に七日七晩斎場に篭もり祈りを捧ぐ儀式だ。それはいい。その信仰心自体は実にいい事だ。だがな、戴冠するのは魔王だぞ?」
 老王……魔王の自嘲気味な笑い声を、魔将ガレノアは黙して聞いていた。
「くくっ、神聖帝国国教会の伝承によれば天地開闢より万年に渡る不倶戴天の敵たる太陽神に、なぜ加護を求めねばならぬのだろうな?」
 乾いた笑いは止まない。草臥れた息骨が外れた音を出し始めた頃、「下らぬ仕組みよな」と打って変わって静かに一言漏らして、魔王は再び口を閉ざした。口を閉ざして、自身を思う。人の身でありながら、魔王を名乗る自身を、そして自身の血脈を。
 それは六百年程の昔。大陸制覇を成し、栄華を極めた神聖帝国の皇帝は、しかし巨大過ぎる国の脆さというものをよく知り、その行く先を案じた。多くの人種、多くの思想、多くの価値観が渦巻くこの国を一つに統べ続けるには、大義名分を必要する。賢君と名高い彼の結論は、人に普く敵対する魔王を仕立て、それを討ち封じる役目を帝国に負わせる事だった。
 それより火山噴火、大地震、飢饉、流行り病……災禍に見舞われ、帝の神聖性、正統性が疑われる度、大陸には魔王が出現した。次期帝位後継者は騎士団を率い、これを討つ事により、帝国臣民に勇者として迎えられて帝位に就いた。
 その〝魔王〟を代々演じ続けて来たのが、老王の家だった。
 幸いか、近年は治世に仔細なく、老王が魔王として世に出る事はなかったが、それでも彼の心は時と共に蝕まれていた。帝国皇帝の身勝手な人柱と知りながら、皇帝に対する忠義と帝国民の平穏を願う心から、魔王として黙して斬られた先達を思えば仕方のない事だった。元々は初代皇帝の右腕と謂われた名宰相の血筋だのに、その不当な地位を守ってきた家に対する誇りと疑問の葛藤は、千重の波が岩を砂へと変ずるように、老王の心を狂わせていったのだ。
「嗚呼、だが漸く終わるのだな。我が役目も」
 子を亡くした為に、他の王よりも永く王位になった老王はもう憔悴しきっていた。
 遠い目をする老王を、ガレノアはいまだにただ見守るばかりだった。かける言葉など在ろう筈もなかった。
「……ガレノアよ、貴公はいかにする? 妖魔将軍の位も共に次代へ継がせる決まりだが、貴公はその後いかにする?」
「小官は、愚息が立派にレイーム殿下にお仕え出来るよう、見守りゆこうと存じます」
 ガレノアの息子を思う。彼も父と同じく忠節に厚く、人の情けを知る精錬潔白な好青年だ。
「……強いな、貴公らは。どうかレイームを頼むぞ」
 突然色の変わった主の声に面を上げたガレノアの目に、永遠の命題に挑む哲人のごとき苦悩に充ちた貌をした老王が、ゆるりと立ち上がる姿が映った。傍らに置いてあった杖を手にとり、王はのろのろと足を動かす。カツンカツンと響く硬質な音は、冷たい牢獄を連想させた。
「……少し、歩いてくる。明日は忙しくなろうから、貴公は下がって休むが良い」
「陛下……!」
「暫し独りになりたいのだ」
 鋭い眼光をさしむけてくる老王に、ガレノアは黙るしかなかった。
「は。陛下も早くお休みになられますよう……」
「判っている」
 老王は緩慢な歩みで玉座の間を後にした。



 城を出て、老王は夕陽に染まる領地を眺めていた。
 魔王制を支えるために造られた、人口百にも満たない、一村落と変わらぬ王国。其処に息づく民草は帝国皇家の他、数少ない魔王制の存在を知る人々だった。彼らはこの国の下らぬ茶番劇を知り、領主に哀情を抱きながら、それ以上に尊敬の念を抱いていた。
 彼らの生活は温かい。魔王に近しいからか、より人間の善性を知り、至極平穏な日々を過ごしている。皮肉にも帝国内において最高の楽園は、魔王領なのだ。
 それを思えば、ますます帝国のくだらなさを感じずにはいられない。そもそも勇者を名乗る暴君どもも滑稽だ。彼らは魔族のない事も、魔王が牙を剥く事も十分に知りながら、魔王領を目指すにあたって臣民たちに「私は死ぬかもしれない……」などと憐憫の情を誘うのだ。かつての勇者どもなど、それが安全な旅と知らなければ、そも出征しない臆病者どもだったかもしれないのだ。
 この帝国とは、馬鹿げた人形劇の舞台となる、独裁者の箱庭に過ぎないのかもしれない。
 もう何もかも滑稽だ。
 この滑稽に、ついに最愛のレイームが巻き込まれていくのかと思うと腸が千々に千切られるようだ。願わくは、彼の強き心が自身のように愁うばかりの老いぼれに成り果てぬよう。
 老王はいつものように長く長く溜め息を吐き、彼の牢獄たる城へ戻る事にした。今はただ明日を考えよう。明日のレイームの事だけを。死する時まで彼の傍にいてやる事が、自身に残された役目かもしれないのだから。
 その時、突然木陰から小さな影が飛び出し、勢いよく彼にぶつかった。
 老いた胸に走った激痛に視線を落とせば、其処には小さな剣の柄が生えていた。
 刃はいずこか?
 愚問だった。間もなく老王は杖を取り落とし、音も無く崩れ落ちた。
 急速に光の失われていく瞳に、彼を刺した者の姿が映る。
 それは少年だった。所々擦り切れた厚い皮製の旅人の格好をしているあたり、皇族ではなく、庶民の子らしい。まだあどけなさを残す顔には、ありありと憎しみの色が見て取れた。
「ザマァミロ、魔王め!」
 少年は老王を見下ろしている。
「父さんと母さん、姉さん。ネスにリゴール、それから……トリス。皆の仇だ! お前が流行らせた病で死んだ皆の恨みだ!」
 ああ、そうか……。
 老王は唇端をひきつらせながら、全霊を込めて声を絞り出した。
「少年……、名は?」
「あ?」
「名だ、名だよ……。君の名を、聞いておる……」
 次第に声も出せなくなってきた。
「ああ? ……そうか、俺を呪う気か? ……いや、いいよ。呪いたければ呪え! その代わりに忘れるな、俺の事を! 俺の恨みを!」
「……わかった。だから……、早く……」
「マグナスだ」
「そうか……、マグナスか……。よう……来たな、天晴れなり。……勇者、マグナスよ」
 そう、勇者だ。
 庶民の子は魔王制を知らない。しかも帝国から魔王復活を命ずる書簡も無かったから、まだ老王は魔王として世に復活を告げられていない。
 つまり、マグナスは独り魔王の存在を信じ、その恐怖に打ち勝ってここに辿り着いたのだ。
 彼を勇者と呼ばずして、誰をか勇者と呼ぶべきだろうか。
「な、何を言っている!」
 敵に称賛された事に戸惑っているのか、マグナスは頓狂な声をあげた。
 だが、対して老王は限りない慈しみの眼差しを向けていた。彼は出逢ったばかりのこの幼き勇者に、愛おしさすら感じていたから。
 しかし、その想いを伝える事は叶わないらしい。もう声も出なかった。
 代わりに彼は残された全力をもって、自身の胸に突き刺さる剣を掴んだ。
 マグナスは魔王が抗おうとしているのかと、飛び退さって身構えたが、実際老王はその剣に触れたかっただけなのだ。護身用の安物に過ぎないソレが、神聖なものにも思えて触れたくなったのだ。
 老王の手が血に濡れる。老いた胸を破って噴くそれは、鮮やかな赤色をして、焼けるように熱く、いかにも命の象徴のようだった。
 ああ、温かい……。
 彼は玉座を思った。あの冷たい監獄を。
 そして老人は、穏やかに微笑みながら、眼を閉じた。

第十二回さらし文学賞 | trackback(0) | comment(0) |


パノラマカーよ、永久なれ

 名鉄名古屋駅のホームに、ミュージックホーンが鳴り響いた。アナウンスでは、吉良吉田行きの特急が到着することを告げている。やがて、ホームに入ってきた車体を見て、児玉和夫は、もの寂しい気分になるのだった。あの真っ赤なパノラマカーは、もう走ることはないのか。

 二〇〇八年十二月二六日。この日は、和夫にとって、忘れられない日となった。和夫だけではない。彼が属していた鉄道研究部にとっても、忘れられない日であったろう。

 和夫が通う高校の鉄道研究部は、以前から活動停止の危機に追い込まれていた。別に、警察のお世話になるような、社会的問題を起こしたわけではない。ただ単に、属する部員の数が少なすぎたのだ。
 鉄道研究部は、和夫が通う学校が設立されたときから存在していた部活だった。当初は、今とは違って、なかなかの人数がいたらしい。しかし、どういうわけか、年を重ねるごとに、入部希望者は減る一方であり、和夫が部長を務める代に至っては、総勢三人という、シャレにならないほど小規模な団体となってしまった。
 その部員というのは、部長である児玉和夫と、副部長の、相沢輝、紅一点の藤本希美である。

 話は、二〇〇八年の十月に遡る。学園祭も無事終了し、次の活動に向けてのミーティングのときに、和夫が、意気消沈した様子で語り始めた。
「みんな、大事な話があるんだ。よく、聞いてくれ」
「なんだよ、和夫。学園祭でなんか問題でも起きたのか」
 輝が訝しがった。ちなみに、学園祭では、名鉄の各駅から写した七〇〇〇系の写真を展示し、ごく一部の客層に対し好評であった。問題といって、真っ先に食中毒を思いついた輝だったが、そもそも食品を扱っていないので、そんなことが起きるはずはない。
「実は、この鉄道研究部が、正式に廃部になることが決まったんだ」
 和夫の宣告に、部員一同は凍りついた。いつかは、その事態が起きるだろうと、予測はしていた。だが、そのいつが急に決定してしまうとは。
「ねえ、なにかの間違いじゃないの」
 言いよる希美に、和夫はただ首を振るしかなかった。
「顧問の増田先生から連絡があったんだ。高校の予算上、ここまで小規模の部活にこれ以上、維持費を出すわけにはいかない。だから、来年度の新入部員の募集が停止になったんだ」
「ちょっと待てよ。今、俺達の学年は……」
 なんという神のいたずらか、和夫たちは高校二年。学校の規則で、高三の夏休みまでには、部活を引退しなくてはならない。追い打ちをかけるように、今年度の新入部員はゼロ。つまり、来年度には、自動的に鉄道研究部は消滅するというわけだ。
 心づもりはしてきたはずなのに、なぜだか胸に空虚ができてしまう三人。今だったら、廃校になる学校に通う生徒の気持ちが、痛いほど理解できるだろう。
「そこでだ」
 重々しい雰囲気を打ち破るかのように、わざとおどけた声で和夫はこう提案した。
「いっそのこと、廃部を迎える前にみんなで一斉に退部し、この部活にピリオドを打ちたいと思う」
「いや待て。いくら廃部が決まったからって、焦って退部することはないだろ」
 あまりに突拍子もない発言に、輝は机を手でたたき抗議した。
「でも、その案、悪くはないわね。それに、和夫だってなんの考えもなしにそんなこと言うわけないもの」
 輝とは対照的に落ち着いた態度で、希美は目くばせした。和夫はそれに答えるかのようにウインクすると、
「その通りだ。実は、この鉄道研究部の最後にふさわしい、とっておきのイベントを考えているんだ」
 そう言って、和夫はかばんから、インターネットのニュース記事のコピーを取り出した。
 そこには、七〇〇〇系パノラマカーが、二六日をもって運転を停止することが書かれていた。七〇〇〇系といえば、学園祭で題材にしたので、三人の記憶には新しい。
「ああ、この列車なくなるんだよな」
「パノラマデラックスやミュースカイもいいけど、やっぱ元祖のこれがいいわよね」
「そうそう、特に先頭車両から見える景色といったら……」
 いつもの、電車トークに入りそうだったので、和夫は大きく咳ばらいした。
「で、退部の話ね」
「パノラマカーと退部がどう関係あるんだよ」
 じれったそうに顔を覗き込む二人を、片手で制し、和夫はようやく計画の全貌を明らかにした。
「まず、具体的な退部の日だが、これは二十六日にしようと思う。その日は、学校で補修授業があるから、みんな登校するはずだ」
 和夫たちの学校は、進学校の部類に属していたので、冬休みに入ろうとも、最初の数日は補修などというものがある。
「その日に、みんな揃って退部届を提出。その後、パノラマカーのラストランに乗りに行く」
「ちょっと待て。ラストランってとんでもない人数が押し寄せるはずだぞ」
「そうよ、学校が終わって名古屋駅に行くとしても、午後一時ぐらいにしか着けないわ。とてもじゃないけど、乗るなんて」
「まあ、乗るってのはあくまで理想だ。でも、あのパノラマカーの最後の雄姿を、この目に焼きつけ引退するってのも、華があるじゃないか」
 舞台俳優になったかのように熱弁する和夫。なんだかんだ言っても、和夫は鉄道研究部部長だなと、いろいろな意味で輝と希美は確信した。

 鉄道研究部ピリオド計画(和夫が勝手に命名)が発表されてから約二か月後の、十二月二十六日。この日の補修授業は全く身が入らなかった部員一同。和夫に至っては、数学の答えで、「七〇〇〇」という、明かに的外れの答えを口走ってしまった。おまけに、担当が増田先生で、
「児玉、お前今日がパノラマカーの引退だからって、七〇〇〇系を気にしすぎだぞ」
 というつっこみをくらわせ、和夫は、生徒のお笑いのネタとされる始末だった。
 放課後に、二人にその話をしたら、「馬鹿か、お前は」と、輝には爆笑され、希美は苦笑いをしたままひいていた。
「それはともかく、いよいよ鉄道研究部ピリオド計画のスタートだ」
 和夫が静かに宣言すると、三人は、やけに真剣な面持ちになり、目を合わせあった。そして、意を決し、職員室の増田先生のもとを訪ねたのである。
 この日になって、ようやく計画を知り、増田先生は驚きを隠せなかった。最初は、退部届を拒否したのだが、和夫たちの熱意に折れ、ようやく、書類を受理した。
「しかし、お前たち、もっと早く言ってくれれば、先生だってラストランに付き合ったのにな」
「まあ、先生をびっくりさせたかったというか」
「なにしろ、全員退部するなんて、何かの機会がないと言えたもんじゃありませんし」
 なんとか、計画の第一段階が成功し、ふてぶてしくなる部員を目に、増田先生は肩をすくめるのだった。
「まあ、お前たちの気持ちはよく分かった。その計画が終わったら、今度は勉強に集中するんだぞ。特に児玉」
 指をさされ、和夫は顔を崩し、後ろ髪を掻いた。輝が「しっかりしろよ」と言いたげに、ひじで和夫の背を小突いた。
 和夫たちを見送り、増田先生は、残念そうに仕事に取り掛かった。
「増田先生、残念でしたね」
「臨時で休みをとってもよかったんですが、さすがに、年末のこの時期に、教頭に直談判するわけにはいかなかったのでね。ああ、パノラマカー、最後に見たかったな。携帯の着メロだって、あれなんですよ」
 増田先生の携帯から流れるミュージックホーンを聞きながら、隣の席の先生は、やはり、増田先生は鉄道研究部の顧問だと、心の底から思った。

 計画実行のため、三人はいそいで、名古屋駅へと駆けて行った。電車通学をしている三人には、今朝の名古屋駅の異常な状況は、身にしみて分かっていた。電車待ちの人の列で、ホームへの階段が埋まるなんて、人生初の経験である。
 名古屋駅の改札前に着き、三人は思わず固まった。今朝よりは、ましになっているものの、通勤ラッシュ涙目の人の波ができていたのである。駅の係員は、声を張り上げ、総員で、列の整理に追われていた。
「これは、乗るの無理じゃないか」
「でも、ここまで来たんだ。せめて、一目見て帰ろう」
 幸い、三人には、通学用の定期というものがあるので、切符を買う必要はなかった。記念に乗るだけなので、名古屋の次に停車するであろう、金山まで往復することに決めた。
 お望みのパノラマカーが到着するまでの間、和夫の胸中は、様々な思いでいっぱいだった。入部したときも、先輩は五人しかおらず、途中で廃部になることを承知のうえで決断したのだった。部員こそ少ないものの、この二年間に仲間と乗った名鉄電車の車窓の景色や、そこで交わした会話が、走馬燈のように駆け巡った。そのうちに、なんだかあついものがこみあげてきて、それを押さえるのに精いっぱいだった。ここが、学校の部室とかなら、気がねなく涙を流せたかもしれない。しかし、こんな公共の場で、事情を知らない人たちの前で、それをするわけにはいかず、和夫はただただ耐えていた。輝と希美も同様らしく、押し黙っていた。他の電車オタクと思われる人の、電車うんちくなどが飛び交うなか、三人の間には、なにやら重々しい雰囲気がただようのだった。
 この時に名古屋駅に集まったのは、なにもパノラマカー目当ての人だけではないわけで、先を急ぐ人は、普通の五七〇〇系などに乗車していた。その分、列が動くので、いつしかホームを見渡せる位置まで来ていた。
「いよいよだな」
 和夫が目くばせをすると、三人はこくりと頷いた。
 そして、運命の時がやってきた。
「パノラマカーは、先ほど、栄生の駅を出発しました。快速急行、東岡崎行きは、まもなく到着いたします」
 構内に響くアナウンス。それを境に、人の波が暴れだした。「押さないでください」という、駅員の懸命の声。鉄道ファンたちの歓声。幾多の雑音が飛び交う中、和夫たちは聞いた。


 チャーラーラー、チャーラーラー、チャラララー。


 聞きなれていたはずの、ミュージックホーン。それが、ここまで心に染みるのはなぜだろうか。そして、地下トンネルの奥より、真紅に燃ゆる雄姿が颯爽と顕現した。
 人の波は、伝説のビッグウェーブと化した。開いたドアからは、しばらく客足が途絶えなかった。乗り降りする人の列で、ホームは、かつてないほどの混雑ぶりを見せた。
 なぜだか知らないが、和夫たちの足は動かなかった。途中までは、乗車の列にのまれていたが、いつの間にか、下車する列にのまれたらしい。目の前に、あの車両があるのに、遠ざかっていく。なんとか、列を抜け出し、再度、乗車の列に舞い戻る。しかし、その時には、車内はすし詰め状態だった。
 発車を告げる笛が吹き鳴らされた。ドアが閉まる。
「ありがとよ、パノラマカー」
 知らずに、和夫はそうつぶやき、そして、携帯のカメラを開いた。去りゆく雄姿は、和夫の携帯の中に、ばっちりと記録された。
 なんとか、ホームから抜け出した三人は、思わず息をついた。
「やっぱり、乗るのは難しかったわね」
「でも、次のやつがあるじゃないか」
「いや、乗るのは、記念運行の時にしよう。今は、こいつで十分だよ」
 和夫は、携帯を開いて見せた。そこには、先ほどのパノラマカーのフロント部分が、鮮明に映し出されていた。とっさに撮ったにしては、プロ顔負けの写り具合だった。
「大した野郎だぜ、あの状況で、こんな写真を撮るなんて」
「ねえ、それ私たちにも送ってよ。記念になるじゃん」
 和夫の携帯のメールの送信完了音が鳴り、この計画の成功を告げた。

 冬休みが終わり、鉄道研究部が正式に廃部になったころ。和夫は、名古屋駅で、電車を待っていた。ホームに進入した、吉良吉田行きの特急を横眼に、携帯の待ち受けを見るのだった。そこには、今もあの日の雄姿が光り輝いていた。

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