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さらし文学賞
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エアルカ

 さて、どこから話しましょうか。
 初めて空を飛んだあの日のことにしようか。
 それとも彼らと遊んだあの日のことにしようか。

 そうね、空で出会った、あの日のことから話しましょう。

***

 ブレーキ・ペダル・チェーン・タイヤ・ギア・プロペラ・主翼・尾翼・緊急脱出装置……etc.
 ――全機能問題なし。
「目的地は、雲海上空。目標――エアルカとの接近遭遇、および記念撮影。出発進行っ!」
「…………それは運転席の仕事だぞ。むしろこの俺の労力を労わって欲しい。」
「ゴチャゴチャ言わないで、全力前進! 風に乗りましょう!」
「了解、了解。全力前進。」
 心なしか既に疲れを滲ませる声で呟くように言うと、男はペダルに力を込める。女は、周りの風景に心奪われながらも口だけで応援する。
「ファイト~、ファイト~。」
 後部座席にもペダルを据え付けるんだった、という後悔を噛み締めながら、男は徐々に機体の速度を上げていく。
 加速に次ぐ加速。下り坂も味方に、重力の鎖から逃れようと汗水たらしてペダルを漕ぐ。
 漕いで漕いで、漕ぎまくる。速度は幾重にも幾重にも重なる。
 もはや風は鳴き、凶暴な獣のように唸る。機体に備え付けられた翼が、それらの凶暴な風を飼い馴らそうと軋みを上げる。男は踏み込む足に更なる力を加えていく。
「しっかり掴まってろよっ、飛ぶぞ!」
「行っけぇい――!」
 機体はついに凶暴な風を従えて空へと飛び立った。

 *** 少し時を戻しましょうか――彼らのことをより知るために。 ***

「コウ君、そちらの準備は?」
 膝まで覆うスパッツの上にはホットパンツ。今にも走り出せそうな運動靴で足元を固め、シンプルな白いTシャツには赤い文字で書かれた『LOVE+LOVE』。ショートカットの黒髪は今、額の上にあるゴーグルで押さえられている。
 その整った顔立ちには生気が漲っており、少女から大人の女性へと成長するちょうど蕾の年頃である。
「完了、完了。あとは体力勝負だな、俺の。スミの方はもういいのか?」
 応える男の声は武骨な印象のものだ。無駄な肉を感じさせない引き締まった身体は彼が活発な青年であることを示している。だがその表情にはどこか幼さの片鱗が見え隠れしており、一言で言うならば頼りない。身体はとっくに大人のものだが、精神がまだ追いついていないといった雰囲気である。
「わたしはいつでも行けるわ。最新の情報だと、西の方から大きな"海"が流れてきてるわね。狙うとしたらここから一気に降りながら風に乗って"海"の上に出るのが一番よさそうね。」
 スミは、手元の小型端末に流れる情報を淡々と語る。口調とは裏腹にその瞳には情熱がちらちらと燃え立っている。
 その様子を見てコウは一つ溜息をつく。
「本当に、やるのか?」
 その声の色が示すのが果たして呆れなのか諦めなのか、本人にもわかっていないのだろう。
「当然。最初に言い出したのはコウ君だって言うことを忘れてはいないでしょうね? そもそも人力飛行機の製作はさんざん手伝わせておいて、完成したら乗せてくれるのは当然のことでしょう? もう試験運転も済んでるし、安全二人乗り設計の試算値はわたしが担当したんだから完璧よ。何か不服でも? 却下するけど。」
 見た目からは想像が付かない一方的な押しの強さでスミはコウを説き伏せに掛かる。
「だから、それなら何も危険が伴う"海"の上じゃなくて、普通に街の上をぐるっと周遊でいいはずだろ?」
 もう何度となく言ったはずの不服を述べるが、当然のごとく却下される。
「だ・か・ら! ここから見えてるじゃない街の景色なら。正直、わたしにはここから十キロはあるうちらの高校の時計台に彫られた校章だって見えてるんだから。せっかく空を飛ぼうって言うならもちろん目指すは空の"海"と謳われる雲海でしょう? そしてもちろん、空を悠々と泳ぐ女の子の憧れ、浪漫と謎に満ち満ちた存在――エアルカ! もし一目でも見れたら最高じゃない! アヤちゃんにもハルにも自慢してやるんだから。」
 俄然、やる気を燃え上がらせるスミの勢いにコウは全く太刀打ちすることが出来ない。昔から今もずっとずっと。
 コウは遠く西の空に浮かぶ白い海に目をやり、スミとは対照的に冷え切った感想を漏らす。
「雲海に住む謎の飛行生物エアルカだなんて、ただの御伽噺だろう? その優雅な姿は水の中を泳ぐイルカのようだなんていうけど、実際には不鮮明な写真と不確かな目撃証言がいくらかあるだけだぞ。最近は異常気象の影響なんかで雲海だって何が起こるか分からないんだしここは安全に……」
「小さいわね! 男はもっとワクワクと冒険を選びなさいよ! 掴もうぜアドベンチャーでしょ? しかもあなた、実の父親が撮った写真を信じないなんて親不孝にも程があるわよ?」
 コウはまたしても溜息を一つ。
「親父は昔から夢見がちなんだよ。」
「だから確かめてみれば済むことじゃない、自分の目で。はい、解決。さ、行きましょ。」
 スミはそういって一方的に話の流れをぶった切ると、軽い身のこなしで後ろの席に乗り込みシートベルトを体に巻く。額のゴーグルを下ろせばスタンバイだ。
 無理やり丸め込まれたコウは、それ以上何を言おうがスミはテコでも動かないということを経験的に悟ると運転席兼動力炉たるサドルの上に座り、ペダルに足をかける。
「危険を感じたらすぐに降りるからな。」
「了解♪」

 ***

「で、俺の体力が危険なんだが……」
「何言ってるの? まだ"海"の上を一時間も飛んでないじゃない。しっかりしなさいよ、動力。」
 体中から疲れのオーラを放ち汗だくになりながら運転席兼動力炉もといサドルに腰掛けペダルを漕ぎ続けるコウは、もはや己の体力の枯渇にこそ最大の危険を感じるに至っていた。
「いやいや。一時間は、……はぁ、……飛びすぎ、だろう。」
 肩で息をしながら必死に自分の疲れを後部座席にアピールするコウの姿は、どこか情けない。
「そのうえ、雲海の上に、……はぁ、……出るまでに、十分以上は、掛かってるんだぞ? ……ふぅ、……もう、Uターンして、広い牧草地まで戻らにゃ、着地もできんぜ。」
 言葉遣いまで変わり始めてようやくスミがコウの意見を聞く。
「……はぁ。やっぱり浪漫にはなかなか届かないわね。まぁ、のんびり空中散歩でもして帰りましょうか。」
 コウのことは微塵も気にせずに、一人白い雲の海に向かって溜息を吐く。
「よし、よし。……ふしゅー、……帰るぞスミ、帰るからな。」
「はぁ~い。テキトーにUターンどうぞ~。」
 目に見えてやる気をなくしたスミは無愛想な顔で雲海をぽけーっと見つめ、
「じゃあまぁ、BGMくらいは歌ってあげる。」
 ふいに歌いだす。
 その名のように、果てなく広がる空のように、澄んだ声で淀みなく。

『空を飛ぶ 空を飛ぶもの 鳥たちよ 翼を持たぬ我らにも 風を分けてはくれないか
 空を行く 空を駆け行く 風たちよ 重いからだと鎖をも 忘れさせてはくれまいか
 空に咲く 空に咲き舞う 虹たちよ せめて刹那の夢を今 雲間に描いてくれないか
 空に問う 空に問い掛け 君たちよ 名も無き花の花言葉 紡いで語ってくれまいか
 ああ空に 空に身を寄せ 泳ぐのは 姿かたちの無い君ら 共に語ろう謳おう舞おう』

 歌はスミの口から放たれ、染み込むように空に溶けて消える。
 あまりにもきれいな、あまりにも爽やかな歌声だったから、コウはしばし聞き惚れていた。そして、
「ん? …………ちょっとコウ君漕いで漕いで漕いで!」
 気を抜いたほんの一時の間に機体は雲海からほんの数センチ上にまで高度を落としていた。
「なっ! なんでいきなりそんな気合入れて歌い出すんだぁーーーっ!」
 正気に戻って顔を真っ赤にして、シャカリキにペダルを漕ぎまくるコウに、
「べ、別に気合入れてなんかいないじゃない。普段通り歌っただけよ? それよりなんで飛んでる最中にぽーっとしてるのよ? 漕がなきゃ落ちるのは当然じゃないバカバカ! 降りたらたっぷり文句言わせてもらうわよ! だからまず無事に降りて! その前にとりあえず今は浮いて! 問題ある? 却下するけど!」
 気合い。根性。アンドLOVE。
 コウは好き勝手に言うだけ言うスミの姿をチラリと確認した後に心の中だけで三つ呟き、ペダルに力を込めて体勢を立て直す。
「あぁ、もうちょい上げて上げて! 飲み込まれちゃう! もう、空まで翳ってきたしピンチピンチ!」
 割とパニックになりながらスミが雲海との距離を測りつつコウに激を飛ばす。
「落ちてたまるか!」
 グッとプロペラの周りに風の流れが生まれ、
「飛べ飛べ飛べ飛べっ!」
 祈るようにスミが叫ぶと同時に、翼は上昇の流れを掴み上昇する。機体はついに雲海から五メートル上空の低空飛行へと安定していく。
「ふぅ、助かった。」
 スミが後部座席で一息つくのを背に聞きながら、コウは息を整え一定のリズムでペダルを漕ぎつつも雲海が切れた先の牧場地へとハンドルを傾けていく。その顔には何とか山場を乗り切ったという安堵と、限界ギリギリに刻一刻と近づいている体力への不安とが入り混じって、結局のところ一言で言うと頼りない。
 一息ついて上を見上げれば、雲ひとつ無い青空が広がっている。雲ひとつ無い、青空。日暮れまでもまだかなり余裕がある。と、何かがコウの頭の中で引っかかる。
「なぁ、スミ。さっき雲海に呑まれそうな時、何て言った?」
 緊張から解放されて再び景色をぽけっと眺めていたスミは質問の意図に気づかない。
「ふぇ? 漕げと飛べしか言ってないわよ?」
「いや、そうじゃなくて、なんかピンチがどうとか言ってなかったか?」
 首を傾げて、一拍、二拍、三拍。傍から見ても電球に灯りが灯る映像が見えるような閃き顔で、
「あっ! そうそう日まで翳ってきてピンチって言ったわ。」
「それだ! でも、俺らの上には、もう何もないぞ。」
 二人は互いの顔を見合わせる。
「「エアルカ!」」
 空は青く青く澄み渡り、そこには影一つ飛んでいなかった。

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サクラチル

 高名な占い師である主人の旅の供は、あまりにも長く時を感じさせ。
 思い返せば、ご主人との出会いはまだ数ヶ月前のことでしかありませんでした。
「そう、やっぱり今日、動けなくなるのね」
 大きく不自然に腫れ上がった私の膝を見て、囁く主人。
 本物の占い師である彼女は、今日私がこうなることを知っていたのだといいます。
「ごめんなさい、ごめんなさいハル。もっと貴方のお役に立てると思っていたのに」
 流れ出る涙を止める術を知らず、私の頬は濡れていく。
 主人は私に、いずこからか取り出した注射器を見せながら言いました。
「貴方をこれ以上連れて行くことは出来ない。貴方をどこかへ運んで医者に見せることも儘ならない。しかし、このまま貴方を置いていくのは忍びない」
「その中身は毒なのですか?」
 そう、と主人は頷き、苦しみも無く私を逝かせるものだと告げました。
「安楽死といえば聞こえは良いが、貴方の命を縮めることは事実。チェリー、貴方はどうしたい?」
「最期は貴方の手で、ハル」
 その言葉を言い終わるや否や、主人は私の首に注射を打ちました。痛みは刺された一瞬。何かが流し込まれた感触が確かに。
「死にゆく貴方に、私の心を表す歌を送るわ」
 世の中に絶えて桜の無かりせば春の心はのどけからまし。
 確か、日本の古来の歌。諸行無常を歌い、私との別れを悲しんでくれているのか、主人は。
 ぼやけた意識に尚、私は悲しみを上乗せし、主人はそんな私に声をかけた。
「あら、悲しまないでいいのよ。私は、貴方を手に入れたときから、この日を知っていたもの」
 霞みゆく視界には、ごそごそと何かを取り出す主人の姿。
「ええ、それはそれは美味しそうな時期に人を運んだりは出来なくなると、知っていたのよ。だから貴方の名前はチェリー。私の大好物の桜肉なのよ」
 ぎらぎらと私の馬身に目を光らす主人が持つのは、フォークとナイフ。
「ホント、馬っていつ食べられるか考えるといつもいつも私を興奮させるわね。馬(サクラ)がいなかったら、私(ハル)も落ち着いていられるのかしら」
 ご主人、何故か私も偉大な先人の言葉が天啓のごとく。
 ああ、無情。

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ミドリの惑星

 彼女は俺に質問した。
「実際には使われないけど、最も有名な言葉・・・・・・って何だか知ってる?」
さあ、とだけ俺は答えた。
「答えは、『なっ・・・・・・お、お前、人間の言葉がわかるのか!?』なんだって」
彼女の答えに思わず吹きだしてしまった。あるある。いや、ねえよ。
「ムネくんは、どう思う?」
いや、ぶっちゃけ言葉がどうとか、そんなことを考えてる場合じゃない。そのくらい俺は舞い上がっている。

 俺が彼女に告白され、付き合い始めて一ヶ月。今日は彼女が初めて俺の部屋に来た。両親は海外旅行中。なんかのゲームでありがちな設定になってしまったが、むしろ好都合だ。もしかして今夜は忘れられない夜になりそう?
「どうしたのムネくん?鼻息荒いよ?」
やばい、このままでは彼女に俺の下心を悟られてしまう・・・・・・もうダメぽと思った俺はこの状況を強行突破することにした。
「み、ミカちゃん・・・・・・う、うおをををををを!」
というわけで俺は彼女を押し倒した。
「え!?ちょっちょっと待っ・・・・・・」
この直後、俺は異様な光景を目にすることになる。
彼女の体が輝いたかと思うと、その体は形を変え、異形のものになった。大きさは抱き枕くらいで、クチビルみたいな形をした、緑色の何か・・・・・・
「キモッ!」
思わず俺は叫んでしまった。緑色の物体は震えながらモゴモゴ喋っている。
「ひ、ひどいよぉ・・・・・・私だよ、ミカだよぉ」
「ウソつけこの地球外生命体!」
「ちがうもん!ちゃんと地球で暮らしてるもん!」
話がかみ合わねえ。どういうことなんだ?
「ムネくん、出会った時のこと覚えてる?」
それはお前が俺の教室にいきなり入ってきて、突然「好きです!付き合ってください」って言ってきた時だろ?
「ちがうの・・・・・・もっと前。私とムネくんは理科室で出会ったよね?」
緑の物体はもじもじしながら続けた。
「ムネくん、私の裸を見てものすごく興奮してた・・・・・・」
はあ?人の裸なら興奮どころか向こう一週間のオカズに困らないところだが、と思った所で俺は思い出した。

 一ヶ月前。理科室。生物の授業。
 俺は友達と微生物の観察に没頭していた。
「あーあ、女の体もこうやってじっくり観察できたらいいのにね」って会話をしていた。ま、まさか。

 俺は慌てて机の上から生物の教科書を引っ張り出し、緑の生物に見せた。
「あ、これこれ、これが私!」
こんな生物にも見る目があるのかと思うが、そいつは喜んで体をくねらせていた。

そう、こいつはミカヅキモだったのだ。

思わず俺は叫んでしまった。
「ちょっ!おまっ!人間の言葉がわかるのか!?」
ミカヅキモは「えへへ」と笑うと俺に擦り寄ってきた。ヌルヌルして気持ち悪い。
「毎晩神様にお願いして、少しの間だけ人間にさせてもらったんだよ」
そういうと、再びミカヅキモは輝きだし、人間の姿になった。
「この姿なら、ムネくんもきっと好きになってくれると思って」
確かに、日本昔ばなしにタニシと結婚した姫の話があったけど。ミカヅキモよりタニシのほうがいいかな、と思ってしまう俺なのだった。
「こんな微生物だけど、ムネくん、これからも私と一緒にいてくれる?」
まあ、人間の姿なら、別に問題ないか・・・・・・と思っていた矢先。
「そっか!ムネくんもミカヅキモになっちゃえば問題ないよね?」
彼女はいきなり俺に口付けた。体が熱い。遠くなる意識の中で、俺は、俺は・・・・・・


 残されたのは、ベッドの上に開かれた生物の教科書だけ。

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シロイトリ

 青い鳥がいました。
 青い鳥は見つけた者に幸福をもたらす――。そんな伝説を信じる人間達に、青い鳥はいつも血眼で追い回されていて。
「どうしてボクはこんな逃げ回らなきゃいけないんだろう?」
 疲れ果てた呟きに、答えたのは嗄れた苦笑い。
「そりゃテメェが誰から好かれてるからだろ?」
 見上げた枝に止まっていたのは、カラスでした。
 カラスは何より不吉な黒い羽の持ち主で、粗野で悪賢いイタズラ好きと来たものだから、森でも大の嫌われ者。そんなカラスの言うことなんて聞くべきじゃないから、青い鳥は無視して飛び去ろうとした、のですが。
「まぁ、誰からも嫌われるってのよりはマシなんじゃねぇの?」
 ――それは自嘲?
 青い鳥がそこで足を止めたのは、つまり「誰かを幸せにしてあげる本能」のためでした。
「何見てんだよ。ほら、行けよ」
 途端にいつものひねくれた口調へと戻ったカラスに、すると青い鳥は訊ねていました。
「寂しいの?」
「……はぁっ?」
 あまり面と向かって問われて、危うくカラスは枝から落ちそうになりました。
「何言ってんだ、テメェはアホじゃねぇのか!?」
「だってさっき――」
「っ、んなワケあるかってーのっ、この甘チャンがよ!」
 なおも食い下がってくる青い鳥に、カラスは冷ややかな眼差しを向けて。
「いつまでもゴチャゴチャうっせーんだよ! ウザいから寄るんじゃねぇ」
 とうとう言い捨てられてしまって、皆から求められて愛される生き方しか知らなかった青い鳥は、深く衝撃を受けました。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。ボクはただ――」
「わかったらさっさと行けよ。この甘チャンのお子様がよ」
 謝ることさえ許されず、打ちひしがれて地上へ立ち去ろうとする青い鳥には、何も見えてなくて、何も聞こえてなくて。
「ん……バカっ、隠れろ、人間だ!!」
 ――カラスの叫び声は、今まさに首を針金の輪で捕らえられる青い鳥には、届きませんでした。


 目が覚めた、そこは冷たく輝く銀の駕籠の底。
「ははは、やったぜぇ! マジで青い鳥を捕まえられるなんて」
「こんな鳥一匹が、街に持ってきゃ、幸福をもたらすとか何とか言って、大金で売れるんだからな。まさに『幸福』をもたらしてくれる、ってわけだ。この俺達にな!」
 既に酔っ払った様子の二人の男達が笑い合うのが聞こえて、青い鳥の頬を涙が伝っていました。
(僕はこのまま売られちゃうんだ。それでもう二度と、青空を飛び回ることはできないんだ)
 そして。
(カラスのことも傷付けたまま、もう謝れないんだ。……それとも、これってもしかして、あんな風にカラスのことを傷付けちゃった、ボクへの罰なのかなぁ)
 明日の朝には街の金持ちのところまで持っていこうと、そんな男達の高笑いが、死んだように動かない青い鳥の耳に聞こえていました。


 カラスが飛んでいます。
 全速力で、ありったけの力を振り絞って。
(あの甘チャンが、何やってんだよ、バカ、マヌケ!)
 それはまったく青い鳥の自業自得、自分には何の関係も無いのだと、カラスは何度も胸の中で繰り返すのだけれども。
 一心不乱に羽ばたいて、やがて辿り着いたのは、街外れのとある一軒の家でした。そして窓辺に止まったカラスは、綺麗に塗られたその壁を乱暴にくちばしでつつき出したのです。
「あ、コラ! このイタズラなカラスめ、何してやがる」
 怒鳴り声を上げて家の主人が駆け付けた時には、無残にも壁の塗装は剥がされてしまっていて。
「クソ、何てこった!」
 とっくに逃げ去ったカラスに悪態を吐きながら、家の主人が渋々と物置小屋から取ってきたのは、刷毛とペンキ。
 澄み切った青空の、水色をしたペンキでした。
「まったく、何が楽しくてこんな……」
 文句たらたらの主人が作業する様子を、実は物陰からこっそり、カラスは窺っていました。
 すると、一瞬の隙を突いて。
「……あっ!」
 小さなペンキの缶の取っ手をくちばしに咥え上げると、地団太を踏む主人を尻目に、カラスは一目散に飛び去ったのでした。
 それから森に帰ってきたカラスは、水溜まりにペンキの缶を引っ繰り返すと、そこへ自ら飛び込みました。
 まもなくして、再び飛び上がったその姿は――。


 夕暮れが訪れました。
 これから夜を迎え、朝になれば、青い鳥は街へと売られます。
 疲れ切って駕籠の底に小さく丸まった青い鳥は、もうすべてを諦めていました。
 二度と青空を飛ぶことは無く、森の枯葉のベッドで眠ることも無い。涙も枯れ果てて――。
「……おい、起きてるかよ、バカ」
 不意に駕籠の底の裏側から聞こえた、嗄れた囁き声。
「……えっ!?」
「しっ、騒ぐなっての」
 それは紛れも無く、あのカラスの声でした。
「……どうしてここに……」
「あぁ? んなの決まってんだろ。テメェがとんだ甘チャンのマヌケのお子様だからだよ」
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい――」
「いいから。んなこと気にしちゃいねぇよ。もう、いいから」
 自分があんな風に突き放したから、青い鳥は人間に捕まることになった――。その罪悪感を、ただの罪悪感で終わらせない。
 カラスは訊ねました。
「んなことより、大丈夫か、飛べるか?」
「体は……大丈夫。でも、ボクはもう飛べないんだ。この駕籠の中から、二度と出られないから……」
「っ、バカなこと言ってんじゃねーよ。だからテメェは甘チャンなんだ。……何だよ、こんな駕籠ぐらいで。俺なんかもっと危ない目に何度も遭ってるっての」
 散々に馬鹿にしたような悪態は、それなのにどんな言葉よりも心強くて。
「テメェはまだ飛べる。こんな駕籠ぐらい、この天才の俺サマに掛かりゃあ、何てこたねーんだよ」
 カラスの頭上で、駕籠の底を青い鳥が揺らしました。
「……行けるな? テメェは飛べる」
「……うん。ボクは、まだ、飛べる」
 泣き出しそうになりながら答えた青い鳥に、それから伝えられたカラスの作戦はこうでした。
「いいか、よく聞けよ。俺はこの駕籠のカンヌキを外から開けられる。そしたらテメェは全力で、地面すれすれを飛んで逃げろ。……何があっても、絶対に振り向いたり、立ち止まったりすんなよ」
「カラスは、どうするの?」
「あん? テメェは俺なんざの心配してる場合じゃねぇだろ。……安心しな。天才の俺サマには、完璧な作戦があんだからよ。だからテメェはとにかく逃げるんだ。わかったな?」
「……うん」
 そしていよいよ、その時がやってきました。
 カラスは一息に駕籠へと飛び移ると、くちばしでカンヌキを挟んで持ち上げて。
「逃げろ! 振り向くな! 地面すれすれを――飛べ!」
 そのカンヌキには鈴が付けられていて、だから外してしまえば間違いなく人間に気付かれることを。
「あっ、青い鳥があぁ!!」
「何だとぉ!?」
 鈴の音に飛び起きた二人の男の視線の先には、飛び上がらんとする青い鳥の影がありました。
「駄目だ、間に合わねぇ!」
「畜生、こうなったら死体でも構わねぇ、撃ち落とせ!」
 絶叫しながら片方の男が猟銃を取り上げると、逃げ出すというにはひどくゆっくりとした飛翔の青い鳥に狙いを定めて――引き金を振り絞りました。
 銃声。
 真っ逆さまに墜落した影の行方に二人が駆け寄ってみると、そこには。
「……何だよこりゃ畜生!?」
 それは、全身を青のペンキで染め上げた、カラスの瀕死の姿でした。
「ふざけんな、青い鳥はどこに行ったんだ!?」
「探せ!」
 怒りに肩を震わせた二人は、とどめを刺すようにそんなカラスを蹴り飛ばしてから、必死の形相で駆けずり回って、どこかへ行ってしまいました。
(あぁ……バッカじゃねぇの。こんなお人好しじゃねぇだろ)
 薄れゆく意識の中で最後まで自嘲を繰り返すカラスの体を、すると何かが包みました。
「カラス! しっかりして、カラス、ねぇ!?」
「……バ、カ、戻ん、な……奴ら、帰っ……」
 銃声を聞き、約束を破って舞い戻ってきた青い鳥のくしゃくしゃの泣き顔が、カラスの視界にぼんやり霞んでいました。
「いやだよ! カラスが死んじゃうなんてボクはいやだよ! カラスが死んじゃうくらいなら、ボクは二度と飛べなくたって構わなかった!!」
「……バ~、カ」
 半狂乱になって縋り付く青い鳥に、虫の息のカラスは何故かとても穏やかな表情を見せていました。
「テメェ、は……みんな、幸せ、できる……俺なんかと違……」
「違う、そんなこと無い! どうしてカラスはそんなに自分のことを悪くばっかり考えるの!? 死なないでよ、お願い!」
 カラスの胸の鼓動は次第に弱々しくなっていって。
「テメ……飛べ……飛べよ……飛……」
「いやだぁぁぁぁぁ!!」
 青い鳥の慟哭が、森中に木霊しました。


 雨が降ってきていました。
 横たわるカラスの亡骸から、偽物の安っぽいペンキの青を、胸元から溢れ出る真っ赤な血を洗い流して。その下からは漆黒の羽が現れて、濡れそぼって輝いていました。
 青い鳥は、そんなカラスの冷たくなった体を抱えて、凍り付いてしまったかのように身じろぎ一つしませんでした。
 長い、永い、時が過ぎていました。
 ――それは、当の青い鳥自身さえも気付かぬ内に。
 青い鳥の、ペンキで塗ったのではない、生まれもっての羽の青が、いつの間にか雨に溶け出していって。流れ落ちたその青は、少しずつカラスの亡骸の上に零れていって。
 幸福を約束する、その青が沁み込んでいって。


 雨が、止んでいました。
 カラスの亡骸が、そして。
「……っ」
「!?」
 微かに、震えて。
「……な……ぁ?」
「カラス!!」
 体温と心臓の鼓動を取り戻したカラスがうっすらと目を開くと、そこに映っていたのは。
「……テメェ、それは……」
 青い鳥――いえ、すっかり青を失ったそれは、白い鳥。
「カラス、カラス、生きてた!」
「そのナリは何だよ、ったく……」
 確かに死に囚われたはずの自分が、今もここにいることを、カラスは知りました。
「……――るか?」
「え?」
「飛べるか、ってんだよ」
 もはや幸福の青い鳥ではない、白い鳥は答えました。
「うん! ボクはまだ、カラスもまだ、飛べる!」
 夜が明ければ、そこには青空が帰ってくるのだから――。


 かつて「幸福の使者」の青い鳥であった、白い鳥。
 純白の羽を広げ、心から青空を願って飛ぶ姿に、たがて人々がその白い鳥を「平和の使者」と呼ぶようになるのは、それはもう少し先の、未来の話。
 え、あの黒い鳥はどうなったかって?
 それはもちろん、相変わらずにイタズラ好きの。ひねくれた嫌われ者で。
 でも時に――白い鳥がその傍らへ遊びに来た姿を見ることも、あるんです。

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推定無職

「ねえ、おじちゃん。あれは何て言うの?」
「あれかい? あれはね、ナマケモノって言うんだよ。」
「ふ~ん、どうしてそう呼ぶの?」
「見ているうちに分かると思うけどね、名前の通り全然何もしないからなんだよ。」
「そうなの? 他の動物さんたちはご飯のためにちゃんと働いてるのに、働かなくても大丈夫なの?」
「ああ、ここでは他の場所と違って働かなくてもエサが毎日出て来るんだよ。それにね、あのナマケモノはあんまり動かないし、日がな寝ていたりするからそんなに食べなくても大丈夫なのさ。」
「へぇ~、とってもべんりな体をしてるのね。」
「そうなんだよ。」
「でも、あんなに動かないで他の動物さんに襲われたりした時とか大丈夫なの?」
「その点も大丈夫だよ。ナマケモノはね、自分にとって不都合なものが近づくと力の限り抵抗するんだよ。」
「あっ、何かが近づいていくわ。」
「あれはあのナマケモノのお母さんだね。丁度いい、見ててごらん。」
「お母さんが何か話しかけてるわ。あっ、急に子があばれだしたわ。お母さん、こわくなったのか逃げちゃった。」
「ね? ナマケモノはえてして凶暴なんだよ。普段は全くもってやる気がないけどね。」
「あっ、ナマケモノのお母さんがこっちに来るよ? どうしよう?」
「大丈夫、逃げなくても平気だよ。」

「今日も来てたのね? あら。今日はカワイイ子と一緒ね。ちょっと待っててね。はい、お待ちかねの御飯よ。」
「「ニャ~~~~」」

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水中花の見る真夜中の微睡み

 暗闇に浮かび上がる水槽。澄んだ色をした水と、飾りのような水草。こぽこぽと断続的に空気を吐き出す機械。部屋の大きさに不釣合いに大きなその中に、半ばを占めて、凶悪な面をした魚が一匹ぼんやりと浮かんでいる。
 ぺたり。
 水槽を照らす人口の光を遮ったのは、細い指を持つ掌だった。ガラスの表面に張り付いた皮膚は白く変色して、奇妙な光沢を得る。気付いた魚がやんわりと向きを変えた。
 ずるり。
 緩慢な動作で起き上がった細く蒼白な貌が、無表情の魚と向かい合った。血の気の無い顔は青白い光を浴びて更に白く、血管の青さまで透けるかのように見える。表情は無く、感情も無かった。魚の黒黒とした眼と、人間の茶けた瞳が合わさる。
 ず、ずる、ずるり。
 硝子の表面を、掌が滑り落ちる。脂の全く浮いていないかのような細い指先でも、皮脂は確かに存在して、冷たい無機物を汚していく。
 べろり。
 紅い色が硝子に浮かび上がり、ゆっくりと表面を這った。魚はそれを餌と勘違いして、隔てる壁をこつこつとつつく。
 ぺたり。
 頬と水の間には、薄い透明な壁が一枚。魚は結局餌を得られずに、翻した身体はまるで撫でるかに見えた。
 瞼が落ちた。
 ぱしゃりと、水が跳ねた。

 窓から朝日が差し込んだ。光は、夜は暗闇が隠していた部屋の惨状を、容赦なく暴き立てる。
 そこだけぽっかりと片付いた水槽の周りに寄り添うように、不自然な姿勢で女は眠っていた。
 日が高くなっても、女は目覚めない。
 ぱしゃり。
 狭い水槽の中で、魚が空腹の訴えを上げる。

 部屋がまた暗闇を呼び寄せ始めた頃に、ようやっと、女は重たい瞼を起こした。水槽にべたりと頬を当てた姿勢に、肢体がすっかり強張っていたのか、動作が奇妙にぎこちなかった。
 片手はたゆたう水の冷たさを、片手は微かに震える人工の熱を、感じている。
 ぱしゃり。
 水が跳ねて、目元を、頬を濡らした。女は薄く微笑み、脇に並んだ小さな水槽に、無造作に網を突っ込んだ。
 ばしゃばしゃばしゃっ。
 小さな水槽に大きな波が立ち、辺りが濡れた。女は全く気にせずに、小さな水槽から紅い生贄を掬い上げて、大きな水槽に放り込んだ。
 ばしゃっ。
 生餌しか食べない贅沢な魚は、捧げられた供物に無表情でかぶりついた。女の茶色い瞳に、見る間に小さくなっていく紅い命が映った。命と同じ紅さの唇は、両端が吊り上って綺麗に歪んでいる。
 二つ目の命の痕跡が失せるまで、女の瞳に映る喜劇は、一度として途絶えなかった。

 魚は柔らかく身を翻す。女は指先に冷たさを感じる。女は指先が濡れるのを感じる。そして痛みは。
 痛みは。


『小さな水槽は空になってしまった。』


 指先がじくじくと熱を持ち、濡れたそこから流れ出ていく命で隔離された硝子の内側が染め上げられていく。紅い思考が流れて溶け出していく。
 女の混濁した意識はすっかり闇に落ち、時折ふっと這い登るけれどもう光は見えなかった。
 何時目覚めてもぼんやりと、薄暗闇の視界の中で、女は末期の夢を見る。
 ずるり。
 濡れた手は体温を奪われてもう動かない。引きずり込まれて手首まで、女は感覚が失せていることを知った。
 もう片手の熱と振動は何時の間にどこへ行ってしまったのか、水の中に空気の沫は途絶えないのに感じられない。そういえばどうして音も消えた。
 ぐず、ずり。
 全ては腐敗と混濁の闇の中に沈んでいく。魚は紅い水の中で飛沫を上げて女を濡らすけれど、女はもはや気付けない。茶色い瞳はもう光にも反応せずに凍り付いて、定まらぬ虚空に留まり続ける。

 ……闇の中で蠢き始めるものがあった。女の身体の中から。足先から。肺腑から。
 ずるり、と滑り落ちるのを女は感じた。


 切断の音は水槽の縁で響いたような気がしたけれど、冷たさも固さも感じられない床に倒れこんだ女にはわからなかった。
 腐敗した水の香り。女は自らの中がぐずりと音を立て、溶けていくことを知った。

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キリンの鳴き方

 なんでキリンなんだろう?
 彼女は塗装の剥げかけた鉄柵にもたれ掛かりながら、そんなことを思った。


「明日のお休みは暇ですか?」
 そう言って昨日、恋人の透が掛けてきた電話。彼から外出に誘ってくれたのは本当に久しぶりのことで、里紗は完全に舞い上がってしまった。年上の恋人は普段何かと忙しく、特に四月に入ってからは、休日を一緒に過ごすことも稀になってしまっていた。だから里紗は、昨日はまるで遠足前日の子供のように夜遅くまで眠れなくて、今朝だって必要以上に早起きをしてお気に入りのワンピースを着てきたのに。
 なのに。
 動物園の塗装の剥げかけた鉄柵の向こうには、キリンの喜一君と琳子さん。隣には想い人。真剣な彼の眼差しは、眼鏡のレンズを通して彼らに注がれ続けていた。
 もう、二十分も。
里紗は横目でちらりと透を窺った。そして自分達の置かれている状況を客観的に分析しようとする。数組の親子連れに混じり、ぼんやりとキリンを眺め続ける男女。カップルのように見えるがそれらしい会話は無し。むしろ会話は皆無。
遠くから写真でも撮れば「平和な動物園の午後」とでもタイトルが付きそうな光景、……なぁんて。
そろそろ溜息の一つもついたっていいんじゃないだろうか私、と思う。キリンは決して嫌いじゃないけれど、二十分は長すぎではないだろうかと思うのだ。
 なんでキリンなんだろう?
 里紗は鉄柵に肘をつき、キリンたちの間に視線を漂わせた。
 そのとき、まるで里紗の心情を見透かしたようなタイミングで透が口を開いた。
「里紗さんは小さい頃、キリンはなんて鳴くと思っていました?」
「は?」
 二十分ぶりに口を開いた透は、そんなすっとぼけたことを宣った。
「キリンの、鳴き声?」
「ええ」
 怪訝な顔で問い返しても、透は顔色一つ変えない。これは年上の余裕からくるものなのか、はたまた唯の天然なのか、いまいち里紗にはわからない。仕方が無いので里紗は少し考え込んで、昔のことを思い出そうとした。
 キリンの、鳴き声は?
「……『きりんきりん』?」
 口に出すと何故か途端に気恥ずかしくなった。子供の時の話とはいえ、キリンが「きりん」と鳴くと思っているなんて、あまりにも安直すぎる。
思わず頬を染めた里紗の隣で、透はくすくすと笑った。
「ですよねぇ。大抵の子供はそう言うんでしょうね。僕はね、キリンは『ビール』って鳴くんだと思ってたんですよ。変な子供でしょう?」
「……『ビール』って、あの?」
「ええ、あの」
 里紗の脳裏に思い浮かんだのは、麒麟の絵が印刷されているお馴染みのあのラベル。
「それは……」
 キリンは「ビール」と鳴くのだと主張する幼い透を想像して、里紗はくすりと微笑んだ。本当に子供とは面白い考え方をする生き物だ。なんだか微笑ましい。
ようやく笑顔を見せた里紗に安心したような顔を見せて、柵に背中を預けた透が申し訳無さそうに言う。
「すみません、ずっと放っておいて。退屈だったでしょう?」
「そんなこと……」
 そんなことはない、と続けるのはためらわれた。自分が表情を隠すのはあまり上手くはないということを、彼女は自覚している。今の里紗は、全然退屈じゃあなかった、という顔をしているとは言えなかった。残念ながら。
 中に浮いてしまった言葉を誤魔化すために、里紗はそれを適当なものにすり替える。
「キリン、好きなんですか?」
 二十分ぶんの退屈さをちょっとだけ滲ませて、里紗は自分よりもだいぶ高い位置にある透の顔を見つめる。
「好きですよ」
 透の曇りのない反応に、少し不機嫌な顔になったのが自分でもわかった。キリンに焼餅を焼いたって仕方が無いのに。
「里紗さんには敵いませんけどねぇ」
 一秒の空白の後に、脳みそに浸透した言葉はぐるぐると回転を始めた。かき回された体中の血液はその流れを速め、全身に行き渡る。顔が、熱い。
 ずるい、と里紗は思う。この人は時々突然こういうことをするのだ。イイ歳をして、悪戯っ子みたいに爆弾を落としていく。
 絶句してしまった里紗の頭を、小さい子供にするようにぽんぽんと叩いて、透は里紗の顔を覗き込んだ。
「真っ赤ですよ、里紗さん。可愛いですね」
「透さんっ!!」
 誰の所為だ、と言いたい。けれど怒鳴ってもそのまま笑顔でかわされてしまう。ああ、隣で見ている子供の視線が痛い。
「じゃあそろそろ行きましょうか。退屈させちゃってすいません。ソフトクリーム奢ってあげるので許してください」
 間違いなく、完璧に子供扱いされている。
 だから。
里紗は口惜しいので、この際子供のように我が侭を言ってみることにした。
「それなら早く、行きましょう。私、孔雀の檻の前のお店じゃなきゃ嫌です」
「はいはい」
 里紗は透の腕を取り、ずんずんと歩き出す。照れているのを誤魔化すために、男前なまでに勇ましい足取りだ。とにかく一秒でも早く、隣の子供の視界から出てしまいたかった。
里紗に半ば引きずられながら、もう一度透は囁く。
「好きですよ、里紗さん」
「~~っ!!」
 勝てる訳が無い。
 里紗はせめてもの抵抗で、腕を引く力を強くした。耳まで染まってしまったその後ろ姿を、透は微笑ましい気持ちで見下ろす。


 春の柔らかな陽気が頬を撫ぜる、鼻歌でも歌いたくなるような、そんな平和な動物園の午後に。

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ニル-アドミラリには届かない

 ずらりと、広い部屋は規則正しく並んだ背広の群れで埋まっていた。僕もその中の一人で、意識してぴしりと背筋を伸ばし、前だけを見て座っていた。一体この空間に、そんな風の何人の背広がいるのやら分からない。
 胸に番号付きの札を下げて、自分の番号が呼ばれた者は前方の個室へと入って行く。中では、面接が行われているのだ。僕の番号は、まだ呼ばれない。だから、なるたけ直立不動で待つ。

 と、咽喉に何かとげとげしたものが引っ掛かった気がした。ぐ、と一瞬息が詰まって、咳が止まらなくなる。身体を丸め、げふげふと、ひとしきりみっともない咳をする。しんとした室内で、ひとり咳をする、その苦しさと恥ずかしさで涙がにじんだ。
 ようやく止まってから、こっそり周りを見回すが幸い誰も僕を摘み出そうとはしなかった。ほっとして口に当てていた手を外すと、黒い僕の膝に何かささくれ立った茶色いボールのようなものが三つ四つ乗っかっているのを見つけ、今度は死ぬほど驚いた。
 その上、その丸っこいものはもぞもぞと動き出す始末。あまりのことに固まる僕の膝に乗っていたのは、子供の手のひらほどのハリネズミだった。どうやら、僕の咽喉に引っかかったのはこれだったらしい。いつの間に飲み込んでしまったのやら、とんと見当も付かぬ有様だが、咳と共に出てきたのならそうなのだろう。
 思わず、がたんと大きな音を立てて立ち上がると、きゃー、きゃー、と幼児のような甲高い声らしきものを立ててころころと床に落ちた。咎められやしないかと周りに目を走らせるが、誰もこちらを見ない。
 僕は混乱して、とりあえず急いで座り直した。ハリネズミたちは、てんで好き勝手に床をころころしている。ころころに飽きると、僕の足もとに纏わり付いて、なにやらおかーさん、おかーさん、といったような声を立てる。僕の焦りは頂点に達する。
 と、無機質な声が僕の番号を呼んだ。慌ててまた立ち上がって、規則正しく並んだ椅子の間を不器用に抜けて面接室へと向かう。頭が痛くなるのは、小さなハリネズミたちがおかーさんおかーさん、と付いてくることだが、僕はそれどころではなかったのだ。

 部屋の前部分の椅子は、やはり規則正しく並んでいたが空席だった。もう、番号が呼ばれたものらしい。空になった椅子を蹴らないように、慎重に間を進む。ハリネズミたちも、器用に椅子と僕の足を避けて付いてくる。
 そして、やっとドアに手をかけ押し開いたところで、一体この部屋に入っていた者たちはどこに行ってしまったものやら、疑問に思った。

 面接室には、入り口に背を向けた椅子が一脚ぽつりと置かれていて、僕はそこに座った。そして向かい合わせになって、まるで大講義室のように段々になった机を前に、面接官たちが数限りなく座っていた。
 何人くらいだろう、と僕が呆けていると、一番前の列の右から三番目の男が僕に名前を尋ねた。慌てて名乗る。
 次に、随分後ろに座っているらしい男が声を張り上げて、僕に家族構成を訊く。妻(さい)がひとり、いると答えた。
 そうして、あちこちの席から脈絡無くいくつもの質問が浴びせられた。その度に、僕は丁寧な言葉を心がけつつ正直に答えた。足もとのハリネズミは静かにしている。
 休日の過ごし方は。自慢は。家の間取りは。家から最寄り駅までにある電柱の数は。自宅の電話番号は。使っている芳香剤の香りは。和金と出目金、どちらが好きか。傘は何模様か。靴はどちらの足から履くか。朝はパンか。
 全く何の参考になるのだか分からない質問も含めて、あれこれ訊かれた。こちらは一人、あちらはたくさんなので、質問は次々と投げかけられて、僕は舌を噛みそうになりながら答える。これら一つ一つの質問が、面接の評価になるのかと緊張すれば緊張するほど焦りで舌が縺れる。
 だんだん、頭がぼうっと熱くなってくる。しかし、相変わらず質問の内容も良く吟味せずに反射のように答える。

 ――あなた、ハリネズミは何匹生まれました?
 脳がぐつぐつゆだって、ぬるぬるしてきた頃、ぼやけていた頭の中を貫くような声がした。
 え、と僕がとっさに答えられないでいるうちに、すとん、と床が抜けた。
 急激に暗闇の中を落ちていく感触がして、ハリネズミたちが風船のようにふわふわと僕の顔の周りを漂った。ブランコに乗せられた幼児のようにはしゃぎ回っている。一方の私と言えば、椅子にきちんと腰掛けたままその椅子ごと落ちていく。
 しばらくそうして落ちていると、だんだん落ち着いてきて、四匹です、とどこにいるのやら分からない面接官たちに答えた。すると、左様、君は合格だ、といくつもの声がシュプレヒコールのようにわんわん響きながら降ってくる。

 また唐突に、明るいところにやって来て、気付くと我が家の前に立ち尽くしていた。足元を四匹のハリネズミが走り回り、さっきまで座っていたはずの椅子は見当たらなかった。
 壁のように黙って立ちはだかっている無愛想なドアを開くと、妻が僕を出迎えた。彼女は腕に、布をぐるぐると巻いた小さな包みのようなものを抱えている。おかえりなさい、と言う彼女の言葉に、ハリネズミたちが幼児のようなきーきー声でただいま! と元気良く答えた。
 まあ、と妻は溜息を吐いた。あなた、これは、何?
 僕は、面接の待ち時間に咽喉が痛んで、咳をしたら出てきたので、どうやら咽喉に引っ掛かっていたようだ、と答えた。
 面接はどうでしたの? と重ねて妻が訊くので、良く分からないが合格したと伝える。まあ、と今度は嬉しそうに言って、これであなたも無事男を卒業できたわね、と言う。
 僕は何がなにやら分からなくて、妻にどういうことかと尋ねた。すると、そのままの意味ですよ、などと妻はすまして言う。
 そのハリネズミたちは、あなたの咽喉の奥の知恵の実を食べて育ったのですよ、と言う。なるほど、僕の咽喉はすっかりつるつるして、よくよく思えば声が高くなっている。
 あなたも、これからは男を育てるのです、と妻は言う。男を育てる? と僕が訊くと、妻は腕の布包みのようなものを僕に寄越した。

「あなたの子供ですよ」
 そこには、布に包まれた男がすやすやと眠っていた。
届かない

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君を喰いたい

「なぁ、お前は、お前はさ。人を喰いたくなったことがあるか?」
 エアコンによって少し寒すぎるほど冷やされているとある人気のない喫茶店。会話に詰まっていたのか、それともこれが本題であったのか、男が先ほどまであった沈黙を破り、女に対して話かける。丸テーブルを囲んでいた女は突然の質問に対して、怪訝そうに聞き返す。
「それは人間を食べなければならない状況に置かれたことがあるかという質問ではなく、純粋に人間に食欲を感じたことがあるかという質問なのか。それとも、まさか隠喩的な意味合いで聞いているのか?」
「いや、そのだな。そう、直接的な意味でだ。そう、人間に食欲を感じたことがあるか、ということだ。」
 男は女に対する視線を外し、丸テーブルの縁を見ながら言う。
「いや、こんなこと聞くのがおかしいことなのは十分承知している。でもな、でも聞きたいんだ。」
 必死そうな男を呆れたような表情で女は見ながら、ミルクの入ったアイスティーをストローで吸う。
「なにがどうして、そんな質問をしようと考えるんだ。」
 ストローから口を離して、彼女は男に問い返す。
「いや、この前さ、この前なんだけど、親戚の女の子の見舞いに行ったんだ。子供のころに何度か遊んだことがあった程度の付合いなんだが。彼女、生まれつき体が弱いらしくてな。入院したり、退院したりを繰り返していたらしい。で、ここ数ヶ月、四月くらいからだから、三ヶ月半くらいか、入院が結構長引いてるって聞いたんだ。で、偶々、俺が用事で病院の近く行くことがあったんで、そのついでに見舞いに行ったんだよ。」
 男は女に促されたからであろうか、堰を切ったように話す。そして、一旦話を止め、男は目の前にあるショートケーキを小さなフォークで倒さないよう小器用に一口大、いや男の口に対しては半口程度に切り取り口に運ぶ。
「どうでもいいが、珍しいなケーキを君が頼むだなんて。」
 空になったグラスの中の氷をストローで掻き回しながら、彼女は男がケーキをちまちまと食べる姿を物珍しそうに眺める。
「いやさ、無性に食べたくなってな。」
 指摘されると自分でも不思議そうな表情を浮かべながらも、男は嬉々としてケーキを食べつづける。
「飲み物はオレンジジュースか、カフェイン中毒の君はどこに行ったのかね。辛党から甘党にいきなり転向するなんて、糖尿病にでもなるつもりか?」
 グラスに注がれているオレンジジュースを見ながら彼女は言う。
「なんか、ここ数日コーヒーどころか、酒も飲む気はしないしさぁ。無性に甘いものが食べたくなるんだよなぁ。そうそう、甘いものといえば、その彼女は病気のせいか知らないけど、可哀そうに甘いもの食べるのを禁止されていたんだよなぁ。」
 ケーキを半分ほど食べ終えると、果汁のほとんど混じっていない甘ったるオレンジジュースをストローで飲む。そして、男は再び話を始める。

 三日前、俺は彼女の見舞いに行ったんだ。病院の近くでの用事を午前中に済ました俺はサンドウィッチとコーヒーを昼飯として食べた後、俺は彼女のいる病院に向かった。数年ぶりの再会になるはずだ。彼女の印象は子供のころに遊んだときのばかりで、その後葬式や法事で偶々会ったときの印象はほとんど残っていない。そのせいか病室であった彼女と子供のころの彼女で比べてしまう。当然といえば、当然だが子供のころに比べて彼女は痩せ細り弱っていて、長い間入退院を繰り返していたという事実を俺に実感させた。
「お久しぶりですね、お元気そうで。」
 ベッドの上に寝かせられ、点滴を打たれている彼女は俺が病室に入ると、小さな声で彼女はそう言って来た。彼女は俺の顔をしっかり覚えていてくれたのか、もしくは誰かに俺が来ることを知らされていたのかもしれない。
「たぶん伯父さんの葬式以来か。まぁ俺のほうは……まぁ元気かな。」
 ベッドの近くの椅子に俺は座り彼女の顔を見ると、彼女は俺のほうを見て、微笑を浮かべてきた。俺も釣られて、ぎこちなく笑顔を浮かべながら彼女の様子を無意識のうちに眺めていた。    
布団から覗く顔だけ見ても、彼女が痩せこけていることがわかる。整った顔の頬はこけ、肌は不自然なほどに白い。点滴のために掛け布団からでている左腕は骨、筋の一本一本がわかるように痩せており、本当に折れそうな程細い。俺が彼女を眺めていると、彼女も微笑みを浮かべ、俺の様子をみている。痩せこけたせいだろうか、元々大きかった眼は不健康な顔の中でより一層強調されており、その瞳は黒く光、俺の姿が映っていた。
何か話さねば、そう思いながらも、何故か俺の頭の中ではある衝動が徐々に鎌首をもたげていた。
「すいません、少し暑いのでこの掛け布団をよけてくれませんか?」
 彼女は俺のほうを相変わらず見つめながら、そう言って来た。彼女の微笑みには幾分かの挑発が含まれている、何故かそう感じられた。言われるがままに、彼女の掛け布団をよける。彼女の体に少し手が触れる。検査着に包まれた彼女の上半身が露になる。検査着は思った以上に胸元が開いており、顔から広がる不自然な白が俺の目の前に広がる。白く薄い肌、その下に埋め込まれた彼女の鎖骨に無意識なままに視線が動く。細い骨が彼女の肩から喉元に向かって肌の下を通っている。

鎖骨をみたあたりからだろうか、体に触れたあたりだろか、それとも顔を見たときからか。俺の頭の中では一つの欲求が具現化し、膨らみ、頭の中を満たしつつあった。衝動が俺を突き動かそうとしている。そう俺は彼女を喰らいたい。喰らい尽くしてしまいたい。無駄な贅肉どころか、必要な筋肉すら奪われている彼女を食べてしまいたい、そう思うのだ。
彼女の白く薄い肌を剥ぎ取り飲み込み、骨に微かについている肉を飲み込み、骨を割り、髄を啜り、臓物を咀嚼し、俺の臓物の中に入れ込み、整った顔を形作る頭蓋骨を解体し、脳を取り出し啜りたい、そのような衝動が俺の中で膨らみ続け、抑え付ける事が難しくなっていく衝動が俺の中で駆け巡り、俺の体を支配しはじめる。椅子から立ち上がる。その勢いで椅子は倒れてしまった。俺は彼女を見下ろすように立っていた。眼前にどんなに金を積もうとも喰うことの出来ない御馳走が並んでいる。あぁ、俺の視線の下には、そう、喰いたい彼女がいる。
「どうかされたのですか? 怖い顔されて。」
 彼女は微笑みの表情の中には勝ち誇ったような感情を混ぜている。

「ふーん、で食べて帰ってきちゃったわけか。」
 女は見下すように、男を見る。
「いや、食べていない、食べていないはずだ。その後、適当に雑談して、さっさと帰ったはずなんだ。よく覚えていないのだけど。なんとか衝動を抑えて俺は帰ったはずなんだ。別に俺が彼女に気があるとか、そういう話じゃないんだ、不可解なほど突然彼女を喰らいたいという衝動に駆られた、ただそれだけなんだ。」
 男は自分の頭を抱え女から視線を逸らし、自分に言い聞かせるようにしゃべる。
「それじゃあ、その親戚の女の子が喰って欲しいと無言でアピールしていたとでもいいたそうだね。」
 男は器用に頭を抱えながら、頷く。
「じゃその子はハリガネムシやレウコクうんちゃらとかに寄生された虫みたいじゃないか。」
 呆れた様子の女は頭を覆う男の腕を見ながら話し始める。すると、男はいきなり顔を上げて彼女の瞳を覗き込む。
「知らないみたいだね。どっかのテレビ番組で最近見たのだが、その手の寄生虫に虫はいつの間にか中枢神経を乗っ取られて、天敵の鳥に食べられるために、見つかりやすいところにいって天敵に喰われてしまうらしい。」
 彼が視線を合わせてきたのを、そう解釈したのか。彼女は彼の腕の動きを追いながら、解説を垂れ流す
「乗っ取られた蝸牛のほうは中々壮絶なものでね。触覚の部分にその寄生虫が移動して、触覚を膨張させ、黒と緑で出来たグロテスクな紋様を浮かばせるのだ、鳥に見つかりやすくなるためにね。」
「待て、その寄生虫はなんで鳥に喰われようとするんだ。別に蝸牛に寄生したままでも、寄生虫としては構わないだろう。」
 男は彼女の瞳を見つめたまま、解説を促すかのような質問する。女は徐々に視線を男の腕に定めながら、答える。
「なぜ、喰われようとするのだって? そりゃ、鳥に喰われる為さ。寄生虫にとって鳥に寄生することが最終目的だからね。いや最終目的なのか、どうか。寄生虫としては、もっと大きくて強い動物に寄生しようとするのだろうな、その方が生存確率が高まる。もしかしたら、鳥に寄生した後も、その鳥がより強い動物に喰われようと画策しているのかもしれん。」
 女は科学知識からは逸れた、彼女自身も信じていない作り話のような話を彼に言い聞かせる。しかし、男はその話が真実だと言わんばかり、彼女の瞳をじっと見つめる。
「なるほどな、病弱な彼女は俺に喰われて生き延びようとしたのか。」
 男は合点がいったとばかりに、笑う。
「馬鹿馬鹿しい、もし彼女が何かに寄生されているなら、もはや彼女は人間じゃないな。彼女は人間以外の別の生命体だ。」
 深い溜息をつきながら彼女は男の妄言を打ち消す、グラスの中の氷は溶け切り、少しだけ残っていたアイスティーは不快な色に薄まっていた。彼女は男の腕を見ながら、ストローをグラスの中でまわす。
「第一、私に対して失礼ではないかな、他の女の子を喰いたいだのなんて話を真顔で聞かせるなんて。気が削がれた、今日はもう帰ろうか。」
彼女は自分のグラスだけ持ち上げ、席を立ち、レジで向かう。
「ちょっと待ってくれ、そんなつもりじゃないんだってぇ……。」
 男はその雰囲気に似つかわしくないような、弱弱しい声を出して女の後を追うように席を立つ。
「それにしても、今日の君の腕には妙にそそられる。」
 人気のない喫茶店、女のつぶやきは店内の有線から流れる音楽によって掻き消される。

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